工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

行間を読む 

2017/05/24
Wed. 23:15

今の吉田は坊主80%、彫刻家20%くらいの生活をしている・・・と感じている。
坊主といっても、ほとんど、毎日万善寺の境内地内外をアレコレつついているだけのことだけどね。

今から30年以上前の吉田は彫刻家80%くらいで暮らしていたことがあった。
ワイフと結婚して島根に帰った頃で、学生時代の満ち足りた制作環境から、手持ちの電動工具も何もない社会へ放り出されたような状況で途方に暮れつつも、制作への執着捨てがたく、色々模索していた時期であった。
制作の方向性は、まだ全然固まっていない状態だったから、「何を表現したいか」というより、「何が表現できるか」をセッセと考えていた。
結局、自分の身近にある色々な素材をかき集めて、必要最小限の道具で出来る「なにか」を造ることからはじめた。
その「なにか」は、ある時は平面であったりある時は立体であったり色々だったが、そうしてみると、島根で「なにか」を造る環境は、圧倒的に平面へ偏っていると気付いた。油彩にしても日本画にしても、絵の具から筆から各種道具まで、「平面のなにか」を表現するには何の問題もなくすぐに始められる環境があった。
一方、立体の方はなかなかそういうわけにいかなくて、かなり苦労した。

いろいろあって、ひとまず抽象の立体へ落ち着きつつあったが、まだ本格的に「これが抽象彫刻である!」と明言するほどの自信がない。
そこでまずは、「そもそも、抽象とはナンゾや??」から始まって、その後約10年間、ひたすら地味にコツコツと地味な抽象らしき造形を造り続けた。
あんなつまらない観念的な彫刻(のようなもの)を造り続けていた私を見捨てないで、しぶとく拾い続けてくれていたものだと、二紀会彫刻部に感謝している。
・・・とそんなわけで、この春先から万善寺の庭先で杉の丸太を彫り始めた娘をみて、当時の自分を思い出したりして、それなりの感傷に浸りつつ草刈り機を振り回している今日此頃なのです。

それで、思い出したことがある。
昔のことで正確ではないが、アメリカの文化人類学者でE.T.ホールという人が、「日本人は、抽象的な言葉で表現することが出来る」ようなことをいっていると雑誌か何かで読んだ覚えがある。その時に、これは、「行間を読む」というヤツだな・・と解釈して、なんとなく一人で解った気になって、「抽象とはソレなんだ!」と思うことにしたら、気が楽になった。
石見銀山で初めて個展をすることにしたのも、きっかけは抽象の表現に対する自分の気持が少し整理出来たからだ。

永代供養墓の文字で「雲従龍」「両忘」「風従虎」の3つを用意しようと決めた。
それぞれに、自分なりの意味があるが、3基の自然石の構成も合わせて行間を読んでもらいたい。

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30年の蓄積 

2017/05/23
Tue. 23:56

石見銀山の吉田家を出発する頃は、朝から日差しが強くてまた1日暑くなりそうだった。
近年、気候は穏やかでまだ肌寒く感じる春先なのに、日射しだけはやたらと強くて、結界くんの窓から入り込む日射しで太腿や右の腕が焼けるように熱くて我慢できなくなることがある。歳のせいなのかそれとも地球環境の変化なのか、よくわからないまま、タオルをドアの窓へぶら下げたり、いつも積み込んでいる着替え用の服を膝へ掛けたりして窮屈に運転している。

通勤坊主が万善寺へ到着すると、境内のスズメたちが一斉に飛び上がった。
古々米の威力はなかなかのもので、前日のオスソワケがすでに残りあとわずか・・・
食べ残しを見ると、オスソワケにありついているのはスズメたちだけでは無さそうだ。

万善寺の上空に雲が広がっているせいかそれほど暑くない。
時折水田のカエルたちが一斉に鳴き始める。
上空をつがいのカラスが鳴きながら飛んでいる。
田植えが終わって農耕機のノイズが消えてからの保賀の谷は長閑だ。

午前中は寺の庫裏や本堂の周囲を中心に小規模な営繕を進めて、お昼になって暑くなる頃は室内各所の片付けをする予定にしていたが、どうも空の具合が怪しいし、時折鳴き始めるカエルたちのことも気にかかってきて、雨が心配になってきた。
草刈りは少し涼しくなった夕方から始めようと思っていたのだが、前回の大がかりな草刈りもあと少しの所で雨に振られてしまったし、またそうなるのも嫌だし、急遽予定変更で草刈機を振り回すことにした。
コンスタントに、1ヶ月1回、1日約3時間、3日間あれば草刈り作業もそれほど苦にならないし、適度な運動にもなる。

今のところ4月5月と、延々草刈りが続いているが、これは、約30年分の俊江さんへの気遣いの影響が残っているからだ。この、30年の蓄積を少しずつ解消して、もとのシンプルな万善寺に戻すにはまだ2〜3年は必要だろう。焦ってもしょうがないから、少しずつのんびりと寺の作務を続けながら暮らすしか無い。
俊江さんは、とにかくじっとしていられない人だった。晴れれば畑を耕し、雨が降れば縫い物をしたりジグソーパズルに没頭したりして毎日を過ごした。
時折私が寺のことでアレコレ動いたり、それこそ草刈りを始めたりすると、知らないうちに私の後ろへついて回っていて一つ一つ自分の指示を出し始める。
昔からそういう人だったが、30年ほど前から少しずつ身体が動かなくなって、その後口出しの数がどんどん増えた。自分の思うように体が動かないことのイライラが私へ向けられたのかもしれない。

今の私は、30年前の俊江さんとほぼ同じくらいの年齢になった。
ようするに、自分の身体が思うように動いてくれなくなったということ。
1日の身体の疲れがとれないまま、また、次の1日が巡ってきている。

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作務の日々 

2017/05/22
Mon. 23:27

午前中は用事で出雲へ出た。
石見銀山からだと太陽に向かって走ることになって、やたらと暑かった。
いろいろと用事を済ませて、比較的大きな業務用のスーパーへ寄った。
ワイフが、カートいっぱいに買い物をして、ダンボールの空き箱2つにもなった。
帰宅すると、珍しくクロがモタモタと土間を歩いてくる。朝からそのまま寝続けていた様子だ。
買い物などの荷物を結界くんから下ろして、そのまま万善寺へ走った。
飯南高原の田植えはほぼ終了した感じだ。
前日の夕方に補充しておいたおすそわけの古々米が殆どなくなっている。
境内のアチコチで鳴いているスズメたちの数が増えている気がする。
つなぎの作業着へ着替えて、草刈り機に混合油を補充して刈り残しの続きから営繕作業を始めた。
今週から月末にかけて近所のお寺の大般若会が続く。膝を痛めていて正座ができないから、安静に休んでおいたほうが良いと思うがそうもいかないし、なかなかつらい。

万善寺は禅宗の曹洞宗の末寺になる。
禅宗というと、一般には座禅の仏教だと認識されていると思うが、実は、一日中座禅してお経を読んでいるわけでもなく、どちらかといえば色々な作務で忙しく動き回っていることのほうが多い。
宗派によって幾つか違った寺のタイプがあるが、ざっくりと大きく分けると、檀家さんとの葬式仏事関係で寺の経営を維持する檀家寺と、決まった檀家を持たないで年中行事の加持祈祷や参拝お参りの客収入で寺を維持する祈祷寺になる。明治新政府の廃仏毀釈による宗教改革前には寺領からの収入で寺の経営を維持することもあって、特に檀家数に頼らないでも、小作からのソコソコの上納収入があれば、修行僧の食い扶持くらいなんとかなっていた。朝夕に座禅して昼は寺の経営に働くという、会社的な組織が出来上がっていたわけだ。
もともと万善寺は琴引山の頂上にある神仏混合の聖域にあった。
祈りの聖域で暮らす僧侶はだいたいが自給自足の暮らしをしながら修行に励むことになるから、開山当初は加持祈祷に重きを置いたタイプの寺であったと想像できる。
開山の施主は、飯南高原一帯に点在する幾つかの豪族の一つであると記録されている。
その豪族の発願によって、当時銀山街道沿いにある谷の一つへ大きな僧堂(全寮制の坊主の学校のようなもの)を構えていた曹洞宗のお寺から、今で言う学校の教頭先生クラスの立派な方丈さんを開祖に迎えて建立されたのが万善寺の元になる寺だった。
万善寺という寺の寺名は、発願の施主さんが晩年「万善寺殿」と呼ばれていたことに由来し、龍雲山という山号は、万善寺何代目かの大方丈様に雲龍という道号の方があって、その方丈様以降より曹洞宗龍雲山万善寺という寺名が完成したようだ。
寺の墓地には歴代住職墓石の他に二十余基の亡僧墓があるから、過去には、寺に暮らし寺で働きながら修行していた僧侶がそのまま寺で入寂されたという様子が伺える。

今、その墓地へ上がる参道の周辺で草刈り機を振り回している。

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ボクの誕生日 

2017/05/21
Sun. 21:37

改良衣に雪駄の完全なる坊主スタイルでいるところへ「先生!」と声をかけられた。
自分のことではないだろうと気にかけないでいたら、また「先生!」と呼ばれたので、それで自分かもしれないと自覚した。
法事の席でもない公共の場で坊主スタイルのまま行動することもよくあるから、そういう時の出会いは、だいたい「方丈さん!」とか、「万善寺さん!」とか呼ばれる。だから、そのスタイルの私に向かって「先生!」と声をかけてくる人はそうめったにいない。

声の主は、寺の近くの小さな町に住んでいる人で、それこそ、私がまだ先生と呼ばれる仕事をしている頃に地域の文化祭を盛り上げようと頑張っていらした方だった。
石見銀山がまだ世界遺産登録の話など全く無かった頃に、銀山の谷のアチコチへ自由勝手に彫刻を置いてゲリラ的個展をしていた事があって、それが珍しかったのか、地方新聞の取材で記事になったこともあったものだから、それがきっかけになって「せっかくなので、地元出身で活躍されていらっしゃる先生に是非本物の彫刻を展示してほしいのです!」と、その方から熱心な文化祭への出品依頼を受けて、特に断る理由もないし、せっかくだからワイフの彫刻も一緒に展示することになった。
結果として、我々の彫刻は前衛が過ぎたようで、その時一回だけの文化祭展示で、その後の継続は無かった。それでもあの時文化祭へ誘っていただいた縁で、その後、地域の公共施設と小学校と高校へ私の彫刻を設置する機会を得た。
そういう経緯もあるから、いまだにあの時の関係諸氏にとって、私は「先生」として存在しているのだろう。

たぶん、吉田家次女のノッチより少し年下だと思うが、大学を卒業して学校の講師をしながら彫刻を造り始めた娘がいる。
初めて合った時はまだ彼女が学生の頃で、教育学部美術の彫刻研究室で木彫を勉強していた。現代彫刻小品展のワークショップ講師にその研究室の先生をお願いした関係で、学生だった彼女も助手でついて来た時が最初の出会いになる。
昨年に現代彫刻小品展会場で再開して彫刻の話をした時、「小さい木彫でも造ってみたらどうだい?」と誘ってみた。それが、彼女にとって良かったのかどうか、すぐに抽象の木彫を造り始め、それからお互いに少しほど彫刻へ踏み込んだ付合いが始まった。
4月になって彫刻の相談があって、小さなマケットを造ってきた。
「もしもし、吉田さんですかぁ〜、◯◯ですぅ。今、お時間よろしいでしょうか?」
体調でも悪いのかと心配するほど弱々しい声で電話が入る。チョット意識してもう少し♯がかって声質を上げると良いと思うんだけど・・そのあたりのデリケートな線の細さが若干気になっている。
制作の場所が見つからないと云うので、万善寺の庭先を使えと提案したら、私の誕生日の日から制作に通うようになった。ある意味、忘れられない記念日になった。
さて、彼女の彫刻制作は本物になっていくのだろうか??

キーポンから、初給料のあとサンダルが届いて、今、大事に履いている。
今日、長女のなっちゃんから少し遅れた誕生日プレゼントが届いた。大事に使います!!

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季節のかわりめ 

2017/05/20
Sat. 21:28

早朝、寒くて眼が覚めた。
珍しく、1日に2つの法事が入ったので、7時過ぎには石見銀山を出発した。
銀山街道の温度計は14℃だった。日陰であるとか、風当たりが強いとか、設置条件で多少の誤差はあるだろうが、とにかく肌寒い。
万善寺の玄関を開けると、室内で一晩冷やされた空気が一気に流れ出た。
そろそろ衣替えも近いので、夏衣を準備しておかなければいけないと一瞬思っていたが、この冷え込みでその気も失せた。

墨を摺って、午前中の7回忌の塔婆を書いた。
俊江さんの葬儀のとき以来、愛用の筆が何処かへまぎれてまだ見つからない。ボクはヨレヨレの下手な文字しか書けないから、とにかく筆との相性が合わないと困ってしまう。このまま見つからなければ、新調するしか無い。
その、見つからない筆は、たしかユザワヤの日本画用品コーナーで見つけたものだったはずだ。書道でも使えるが、どちらかといえば水墨画用の筆だったように覚えている。
結局は、自分の下手な字を筆のせいにして逃げているだけのことなのだが、改まって書道の稽古をするほど心の余裕もない。

法事でお経を読んでいると、急に身体が火照って汗ばんできて、なにやら動悸も激しくなった気もしてきた。なんとなく調子の出ないまま法事を済ませてお墓参りをした。
施主家の庭に立つと強い陽射しで汗が吹き出した。どうやら、お昼前になって一気に気温が上昇したらしい。
お斎を頂いて、一旦寺へ帰って、お昼からの法事の塔婆を書いた。
施主家へ移動中、国道にある温度計は28℃だった。朝から数時間の間に10℃以上も気温が上がっている。世間は、初夏を通り過ぎて真夏になってしまったふうだ。法事の中休みでは、みんなで「暑い暑い」の連呼になった。
夕方になって寺へ帰って玄関を開けると、中からヒンヤリした空気が流れ出て気持ちがいい。朝のうちは室内の冷たい空気で震え上がり、夕方はその冷たさを有難がって、まったく、修行の足らないナンチャッテ坊主は身勝手なものだ。

保賀の上組集落へ配り物をして、その足で石見銀山へ移動した。
玄関の土間でネコチャンズが鳴いている。
クロはいつものことだが、珍しくシロがやたらと甘えて擦り寄ってくる。抱き上げて頬ずりしてやったら、いつもは嫌がるのにゴロゴロしがみついてきた。こういうシロはめったにないから、抱きながらしばらくブラッシングしてやった。珍しく気持ちよさそうにして、嫌がりもしない。
元々野良猫だったシロは銀杏目をした折り紙つきの雑種猫である。毛並みが面白くて、羽毛のようなまっ白の産毛と、毛先だけに色がついている少し長めの柔らかい猫っ毛の二重構造になっている。
ブラッシングで集まった抜け毛はシロにしか見えない。
ネコも夏毛になる頃だし、人間も衣替えのシーズンになった。

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三日坊主 

2017/05/19
Fri. 23:55

最近、鏡を見る機会が増えた・・・かといって、ナルシシストに目覚めたわけでもない。
現実は、営繕作業で汗を流すのでシャワーの機会が増えたことと、一日の半分くらいが仏事絡みの仕事だったりする時に無精髭を剃ったり伸びた頭にバリカンをあてたりすることが頻繁になったことで、その度に鏡を見る時間が増えただけのことだ。

頭を刈るとか髭を剃るとかいうことは、どちらかと言うと彫刻家の吉田スタイルというより坊主の吉田スタイルの身だしなみのようなものだから、バリカンなどの道具一式を万善寺の洗面所と風呂へ移動した。
今月唯一の法事があるので、いつもの営繕作業を終わって陽のあるうちに風呂の鏡を見ながら坊主スタイルを整えた。
前々から気づいていたことなのだが、後頭部の頭蓋骨の出っ張りと、その周辺の頭皮のダブツキがひどくなって、そのあたりになるとバリカンが思うように動かない。
さすがに、鏡でも後頭部までは肉眼で見ることが出来ないから、首を捻じ曲げたり余った片手で頭皮を引っ張ってみたり、指先の触感に頼ったり、いろいろとそれなりに工夫しながらバリカンをあてている。もう一箇所、顎の先から喉へかけての髭剃りで剃り残しが出来るようになって、こちらの方は少し慎重にその気になって鏡を覗き込んだら状態が確認できるから、ひととおり石鹸の泡を流してから再確認をする。
さすがに、今の自分くらいの年齢になると体全体の毛に白いものが目立つようになってきた。光のあたり具合によっては、白くなった毛が皮膚の色に同化して見えなくなることがあるので、毛が抜け落ちたかと錯覚することがある。毛が長く伸びていると禿げたのか白髪になったのか判断しやすいが、私のように極端に短く刈り上げた時は区別しにくい。

坊主が30人ほど集まることがあって、その席でそれこそ坊主頭のことが話題になった。
「私達坊主は、何時の頃から頭を丸めるようになったのでしょう?」
「どうして坊主が頭を丸めるのにカミソリを使うことが普通になったんでしょう?」
万善寺のナンチャッテ住職は、頭にバリカンをあててすませているし、口髭も剃り残してハサミで切りそろえているから、まぁ、ようするにわたし名指しの当て付けであったかもしれないが、それも考え過ぎのことであったかもしれないし、よくわからないまま、「さぁ、どうしてでしょう??禅の開祖の達磨さんは髪も長いし髭もありますよね・・」と、返答しておいたら、周辺の坊さんたちが坊主頭の話題に食いついてしばし盛り上がった。
「ようするに、昔はバリカンという道具が存在しなくて、頭を丸める時は髭を剃るカミソリをそのまま使いまわすしかなかったからですよ」
言われてみると確かにそうで、納得できる。聞くところによると、昔々は、ハサミもないから、長い髪もカミソリで削ぎ整えていたらしい。

結局は長い髪が修行のジャマになるとか、不衛生の元になるとか、坊主を見た目で識別しやすくするとか、それなりの幾つかの理由が都合よく集まったのだろう。
私の場合、坊主頭に慣れてしまうと、もう髪を伸ばそうという気にもならない。バリカンをあてて3日もすると、もう頭皮がムズムズしてくる。坊主頭はやめられないですね。
・・というのが、ナンチャッテ坊主的解釈の「三日坊主」というヤツであります。

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肉体労働 

2017/05/18
Thu. 23:47

本日色々あって(でもないけど・・・)石見銀山吉田家帰宅22:30也!
それから、晩飯食って今であります。
クロは例のごとくオヤジの周囲をフギャフギャ鳴きながらグルグルと遠巻きに徘徊し、シロは何処かへ潜り込んだまま。

「お客さん、太腿の後ろが固まってますね。腰の痛みは此処から来てるかも知れませんね。背中も硬いですし・・・」
「そぉ〜ですかぁ〜・・、このところ肉体労働が続いているもので・・」
数カ月ぶりに出雲のもみ屋さんまで行ってきた。
1時間コース3000円チョットで、まぁまぁひとまずは少しほど楽になる。

ワイフが吉田家裏玄関の脇へ何気なく植えたハートカズラが20年の間にどんどん大きくなって、現在本体の茎が私の腕ほどの太さにまで成長して、吉田家の構造物を締め上げている。
裏庭側の1面はほとんど全面に広がり、北と南側の側面へ回り込み始め、先端は石見銀山町並みに面する大屋根の軒下まで届いている。
前回大量伐採した時は、まだ憲正さんが生きていたはずだ。
あの頃は、暮らしの慌ただしさにも若干の余裕があって、彫刻の制作も比較的余裕があったし、時間を工夫してクラフトや内装のインテリアなどを造って生活費の足しにしすることも出来ていた。
ちょうど今頃の梅雨前に壁や柱に張り付いたハートカズラを伐採しながら屋根へ登って見ると、雨樋の内外へ上手に張り付いて、それを足がかりに吉田家全体へ茎の先端が広がりつつあった。まだ、剪定バサミ一つと私の右手の握力でなんとか成長の進行をカットすることが出来ていて、屋根での作業も工場から早めに帰って作業着のまま日が暮れて手元が見えなくなるまでの半日足らずですべて終了したくらいだったと思う。
あの頃から、万善寺のことが一気に増えて自分の生活の大事なところをどんどん切り崩しながら二重生活を続けることになって今に至っている。

自宅内外の営繕作業に取り掛かるまとまった時間が作れないで、悶々と暮らしていたが、俊江さんが死んでからあと、万善寺の片付けが見過ごせなくなって、そのことにかかりっきりになってしまったおかげで自分の気持に踏ん切りがついた。
とにかく、何もしないでそのままにすることも出来ないことだし、何時か誰かが片付けないといけないわけだから、この際、きっちりと割り切って万善寺のことと吉田家自宅のことが一段落するまで、その仕事に集中しようと決めた。

今は、稼ぎの仕事も無いまま、一ヶ月に2〜3回の法事収入と過去からの若干の蓄えと私の年金でなんとかしのいでいる。
それでも、1日の肉体労働で流した汗は気持ちがいいし、それなりの達成感もある。
翌日の作業の段取りを考えながら飲む一杯の酒が旨い。
さて、今日はどれを飲もうかな??

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野生の距離感 

2017/05/17
Wed. 23:56

一人で石見銀山の吉田家と万善寺の2箇所を往復しながら営繕作業をしていると、1箇所に使う仕事量が半分になってなかなか思うようにはかどらない。
なんとか効率のいい方法はないかと模索して幾つかのパターンを使い分けて工夫しながら毎日過ごしている。

昨日は1日中吉田家の裏庭で過ごしたから、今日は1日中万善寺で過ごしてみた。
朝から曇り空で肌寒い。
万善寺でいる時は、夜の魑魅魍魎三界萬霊、昼の保賀の谷の鳥たち、それぞれに私からのささやかなオスソワケをしはじめて、そろそろ10日が過ぎた。
彼らもしだいに私の存在へ気づきつつ、それでもまだかなり慎重に警戒しつつ、オスソワケとの距離を縮めている。
まだまだ、気楽に彼らとの距離を縮められるほどでもないから、それなりに気を使う。

結界くんを運転しながら寺の1日のスケジュールをおおよそ決めておいた。
境内地の北側が手付かずて残っている。それをなんとかすることにして、つなぎの作業服に着替えた。
本堂の北側は、少し厄介な場所が多いのでじっくり時間をかけることにして、まずは庫裏の北から西側へ向かって草刈り機を振り回した。
俊江さんの厳しい監督で、長い間自分の思うように庭木を刈り込むことが出来ないでいたが、その間に裏の山がどんどん迫っていて、そのままにしておくと近い将来裏庭の境界が山に飲み込まれてしまいそうな状態だったので、昨年の今頃、思い切って徹底的に庭木を刈り込んだ。そのお陰もあって、比較的短時間で先の様子が見え始めたので、そのまま少しずつ西側へ移動して、荒れ地になった俊江さんの畑を刈り込むことにした。
その頃になって、雲がしだいに厚く広がり始めてなんとなく湿っぽくなってきた。
飯南高原の天気は1日中曇りで夕方からは晴れるようなことだったはずなのに、それも怪しくなってきて、ついに昼の2時を過ぎたあたりから雨になった。山の天気は変わりやすいから仕方のないことだが、刈り残しがあと少しになったところで本格的な降りになったので断念して庫裏へ引き上げた。
それから洗濯や風呂掃除などをして、夕方まだ陽のあるうちに石見銀山の吉田家へ到着。
結界くんを走らせていると、途中から道が乾いていた。

玄関土間でクロが脱走しようと鳴きながら待ち構えている。いつものことなので慎重に対応して彼をやり過ごした。
だいたいに猫のオスはプライドの高い奴が多いが、クロはその上ワガママでもある。それでも、猫らしく嘘のつけない正直なところもあるから、可愛らしい。
早いもので、吉田家のネコチャンズも今年で5歳になる。クロは4月1日に誕生日を迎え、シロはこんど6月14日で誕生日を迎える。
珍しくクロがやたらと甘えてすり寄ってくるので「可愛いヤツじゃ!」と抱き上げてやったらあまり喜んでくれない。気がつくとご飯が無かった。結局、メシの催促だった。
まったく、アイツには寺の鳥たちのような慎ましさや遠慮がない・・・

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吉田家裏庭営繕作業継続中 

2017/05/16
Tue. 23:37

この数日、私の周辺は比較的良い天気が続いている。
ノッチが帰省している時は雨が多かった。
彼女は雨女なのだそうだ。私は雨男だから、二人でウロウロしていたら天気が悪くなるのも仕方がないだろう。

島根県内で彫刻の展覧会やイベントを企画開催する時は、石見銀山の町並みに工務店を構える棟梁へお手伝いを頼む。
若い頃は東京で大工をしていたから仕事が早くて都合がいい。
万善寺のお檀家さんにも大工さんが3人いたのだが、その中で一番頼みやすかった棟梁が1年ほど前に若くして病気で死んだ。彼が死ぬとしばらくして工務店は解散して工場の工具や機械を売却して店じまいしてしまった。その棟梁のやり残した仕事もいくつかあったようだ。その一つに万善寺の舎利棚殿もあった。全体の80%以上は完成していて、細かな仕上げ仕事がいくつか残っていたが、結局次への引き継ぎが上手くいかなかったようで、なんとなく完成の曖昧なまま、しばらくして請求書が届いた。
「まだ、お願いしていたことが最後まで終わってないんだけどなぁ〜?」と、モヤッとした気持ちで請求書の明細を見ると、特に細かなことも書いて無くて「◯◯一式」で済まされていた。
本人のいなくなってからあとになって、「あれはどうなってる、これはこうだった・・」などと、蒸し返してもしょうがないから、少し値がはるものの「香資」ということで飲み込んで、先々代から続いていた万善寺お抱え大工のようなお付き合いを断った。

檀家さん以外の工務店や棟梁と付合いが無いから、寺の修繕も停滞したまま1年が過ぎたところで俊江さんが死んだ。考えようによっては、やっと「過去からの義理も切れて自分の思うように自分の責任で物事を済ますことが出来るのだ!」と気持ちを切り替えて、石見銀山の棟梁に相談したら「あぁ〜良いよ!」と、いつもの軽いノリで引き受けてくれたので、早速万善寺へ案内して修繕の打ち合わせをして見積もりをお願いした。
棟梁は、「まだ仕事の途中で忙しいから」と、お茶も飲まないで帰っていって、それから10日ほどして見積もりを持ってきてくれた。
例のごとく、吉田家裏庭の営繕作業が続いていたので、棟梁には銀山川を渡って直接裏庭へ来てもらった。
「いやぁ〜、こりゃ大きなスモモ!!これがポポーの木かね??アレッ、グミもあるがね!まぁまぁビワもあって・・・この花何かね??」
吉田家を建ててもらった時は、だだっ広いだけのタダの空き地だったのが、この20年でジャングルのようになって当時の面影も消えた上に、鬱蒼と様々な草木が茂って里山を切り取ったような裏庭へ変貌を遂げ、それでしばし話題が広がった。
ちょうどいい機会だからと、早速吉田家のトタン屋根へ上がって現状を見てもらって、天窓の修繕もお願いした。

あとで見積もりを見ると、思ったより安かった。
棟梁へは、今年も島根県内で開催予定の彫刻イベントへも付き合ってもらうつもりだ。

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裏庭の彫刻 

2017/05/15
Mon. 23:27

最近、時々万善寺の法事がある程度で収入に繋がる仕事がほとんど回ってこない。
その万善寺も、春の大型連休は法事ゼロという状態で、近年ではすこぶる珍しい。
飯南高原とその周辺は、正月に今年の年回法事繰り出し表を宅配して回っているのに、その効果もない。
檀家さんも世代交代で、年回法事でご先祖様の供養するより家族サービスに忙しくしていらっしゃるのだろう。

いっぽう、収入に繋がらない仕事の方は終りが見えないほど山のように溜まっている。
連休をずらして帰省していたノッチが仕事に帰っていったから、私の方も気持ちを切り替えて吉田家営繕作業を再開した。
この数年、荒れ放題のまま放置されていた裏庭の整備が少し進んだ。
銀山川へ降りる石段も、3分の2ほど姿を表した。残り3分の1は土砂で埋まったままだから、スコップとか鍬とか、なにかそういうもので石の階段を掘り出すしか無い状態だ。
5〜6年前の強烈な暴風雪で庭木の幾つかが倒木した。
その後、手付かずのまま放置したままだったから、今回の整備でストーブの薪にしようと考えている。
ワイフが植えたつるバラの株は、ほとんど野生化して庭木を締め上げながら伸び放題に伸びている。
ハートカズラも鉢から地植えに下ろしたら一気にはびこって吉田家の勝手口から物干し場へ這い上がって、今はトタンの屋根まで広がった。
花の咲かない藤蔓は梅の枯木を這い上がってパラボラアンテナへ巻きついて、大屋根へ這い上がる勢いだ。

とにかく、春から梅雨に入るこの時期は、草木が一気に伸びてくるから、気楽にボォ〜っとしているわけにいかない。
とても、何かの片手間で片付ける程度の仕事量ではないから、今年は本気で営繕へ集中することにした。
二股に別れて横に広がっていた桃の木の一本が根本から折れて私の鉄の彫刻へのしかかったままになっている。
この彫刻は、1999年から2000年・・つまり、20世紀最後の記念として自分史の記録を残しておこうと思いついた個展の第一回展で制作したものだ。
2年にわたった4つのシーズンへ当てて4つのテーマの個展にした。
そのスタートとして、昭和の記憶をカタチに変えようと密かにあたためていた「ラヂオ」を彫刻にした連作の一つであり、加えて、現在地べたに張り付くような連作の彫刻を造っている、その原型として位置づくとても重要な記念的彫刻でもある。
この彫刻だけは自分の暮らしのすぐ近くに置いておこうと決めて、現在の場所へ設置していた。その全形が、久しぶりに桃の木の下から現れた。
改めて見ると、造形的にまだ消化不良の、気持ちだけが先走った軽っぽいカタチであることに気づく。
それでも、それなりに自分では気に入っていて愛らしく捨てがたい彫刻でもある。

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実践!オヤジのルール 

2017/05/14
Sun. 23:04

次女のノッチが、春の大型連休を1週間ずらして帰省してきた。
石見銀山で5日間位のんびりしたあと、夜行の高速バスで東京へ帰っていった。
早朝にバスタへ着いて、自宅へ寄ってから会社へ出勤する。

吉田家の4人の子供たちは、末娘のキーポンが保育士になって働き始めたので、全員が社会人になって独り立ちしてくれた。
長男と末娘だけは18歳まで吉田家で暮らしたが、長女と次女は15歳から吉田家を出て一人暮らしをはじめた。
子供たちへは、学校が終わるまでは親の援助が必要だから、その支援内容に見合うくらいの口出しはさせてもらおうと密かにオヤジなりのルールを決めさせてもらっていた。結局は、稼ぎの悪いニートオヤジの支援など無いに等しいことだから、気がついたら子供たち一人ひとりがソコソコ自活して、ひとまずは自力でメシを食べながらそれぞれの学校へ通ってそれぞれそれなりの学生時代を経験して卒業してくれた。だから、4人共すべてバラバラの仕事をしていて全員がバラバラに暮らしている。今年に入ってからは、私の寺暮らしがいっきに増えたから、親も子も吉田家全員がバラバラに一人暮らしをしているようなふうになった。

オヤジのルールとは、大それたものでも何でもなくて、「アルバイトなどで働く時は飲食業などの水モノ職業を探せ!」というだけのこと。
要するに、「稼ぎは悪くてもメシには困らない」ということ。
これは、まったくもって私の経験に基づく根拠があるだけのことだから万人に当てはまることもないだろうし、アルバイトに頼らないでも楽に暮らせる青年もたくさんいるだろうから、完全に吉田家オリジナル吉田家限定のルールであると思っているが、4人の子供たちは4人共ソコソコ忠実にこのルールを実践してくれた。
中でも次女のノッチの就業遍歴は筋金入りで、ことごとく水モノ職業を渡り泳いでいる。
始まりは喫茶店のホール。ここでは、時々消費期限の迫ったケーキなどをもらって帰ってきていた。
高校の時はラーメン屋でアルバイトをしようと探していたが、おじいちゃんの反対で断念。
大学の時は、居酒屋のチェーン店。結局ほぼ4年間続いて、贅沢なまかない飯で腹を満たしていたらしい。
国外脱出して働いていたシンガポールは日本食焼肉レストランだったから、食いっぱぐれナシ!
帰国してしばらくは、なんと◯◯のおいしい水なる、家庭用飲料水をコンテナ販売して関東一円を回っていたこともある。
今は、20代で起業した若社長の下で事務経理を任されているようだが、かなりの確率で食事に誘ってくれるらしい。
そして、今年の8月からは1年間フロリダのオーランドにあるエプコットの日本館レストランで働くことが決まった。
この就職活動がなかなか強気で面白い。未だに吉田家のノッチネタで話題に登っている。

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草衣の心 

2017/05/13
Sat. 23:52

たぶん、こういうめぐり合わせなのだろう・・・
思い返すと、今年に入って限りなく専業坊主に近い暮らしが続いている。
万善寺くらいの寺で専業坊主は、ほとんど無収入に近くて、圧倒的に支出が増えて、完全に赤字の運営が続く。

まだ副住職で兼業坊主だった頃、だいたい一つの寺を専業で運営維持できるのは最低200軒のお檀家さんが必要だと、どこかの同業から聞いたことがある。
住職を引き継ぐとき、本来「晋山式(しんざんしき)」なる住職交代の大法要を挙行し、檀家を始め地域の皆様や、組寺、法類寺等へ随喜手伝いをいただきながら広く告知して新命の任につく。
先代の憲正さんは、こういう坊主人生一生の大行事を、昭和26年頃に行っていて、本堂の書類を整理している時にそのアルバムを発見した。
万善寺の小さな本堂の前で撮影された記念写真は、随喜坊主、檀家衆、可愛らしい稚児さん、その他地域の皆様総勢200名ほどが憲正さんを中央に神妙な顔で写っている。
それから半世紀以上過ぎた現在、正純の晋山式など夢のまた夢のことになって今に至っている。
先ごろ遷化された大方丈様のお弟子様が、5月の末に晋山式をもって晴れて先代を引き継ぎご住職になられる。
私も、その寺の法類寺で随喜することになる。
さて、そのお寺でどのくらいのお参りになるか・・・

昨年からお話を頂いて1ヶ月に2回ほど通わせていただくことになった全寮制キリスト教系の高校へ行ってきた。
今年は3人の生徒が美術を選択して、2回めの授業ともいえないような授業をすませた。
「それでは、もう終わりの時間がきたようで・・・」などと、神妙な顔で授業をまとめ始めたら、その3人の生徒と、担当の先生が「♪Happy Birthday〜〜♫」と歌い始めた。
そういえば、昨年も4月の最後の授業が終わった時に校舎の生徒昇降口へ呼び出されて全校生徒から祝福の歌を頂き、代表から寄せ書きを頂いた。
授業が終わって、美術小屋の教室で突然に祝福の歌が始まった時は少々驚いたが、3人の生徒から全校生徒を代表して今年も同じように寄せ書きも頂いた。

古キャンバスの絵に紙やすりをかけて、古い油絵の具で下地を描き足した。
この油彩の授業に向けて、万善寺から私の40年前の油絵の具と50年前のパレットや油壺を持参した。まさか、半世紀も過ぎて自分の使っていた昔の油彩道具が再生しようとは思ってもいなかった。憲正さんと俊江さんが大事に捨てないでおいてくれた御陰がこういう時に役立った。二人がモノに託した思い出は、かなり老朽して見た目はボロボロで汚れきっていてもシッカリと役にたってくれている。

キリスト様の祝福を得たナンチャッテ坊主はとても幸せな気持ちになれた。
「草衣心似月」の境地とはこう云うことなのかもしれない。ふと、そう感じた。

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キーポンの小包 

2017/05/12
Fri. 22:58

ポストへゆうパックの不在票が入っていた。
裏庭の整備中で宅配便に気づかなかったらしい。
玄関前でモタモタしていたら今度はいつもの郵便配達のお兄さんが下から上がってきた。

現代彫刻小品展のお世話を始めてからそろそろ10年になる。
郵便局が宅配業もするようになって、とても助かっている。
だいたいどこでも展覧会場のすぐ近くに郵便局があるから、彫刻の搬出や持ち込み発送の作業がし易い。
クロネコヤマトの集配所は、吉田家から結界くんで15分ほどかかる。
彫刻発送でよく利用している日の丸西濃は結界くんで20分はかかる。
佐川急便は近くに集配所がない。
そういう島根の田舎事情で、郵便局は鉄の工場のすぐ近くにもあるし、富山は彫刻イベント会場の旧富山小学校の真ん前が郵便局だし・・まぁ、とにかく、便利に使わせてもらっている。
石見銀山の郵便局は「石見銀山大森郵便局」が正式名称で、嘘か誠か全国で最も長い名前の郵便局だと、どこかで聞いた気がする。
石見銀山は人口400人に満たないほどの小さな町だから、郵便局職員さんの転勤や移動があっても、すぐに顔見知りになってしまう。
今回のお兄さんも、不在票を持ってウロウロいしている私に気がついて、すぐに配達担当の職員さんへ連絡してくれた。お陰様でそれからすぐに荷物を受け取ることが出来た。

一人暮らしをはじめてもう2ヶ月近くになるキーポンから届いた宅配便を開けると、ボク用のサンダルと、随分時期の過ぎたワイフ宛の誕生日カードに添えて彼女用の衣類一式と、力作の日めくりカレンダーや吉田家ファミリー自作アルバムが入っていた。
帰省すると、だいたい1日中オヤジの四畳半でゴロゴロと自堕落に過ごしていた姿しか記憶にないが、そういうキーポンの隠された一面を見た気がする。
いろいろと、楽しい仕掛けもあってアチコチ動くなかなか完成度の高いプレゼントは、吉田家の家宝になりそうだ。
「へぇ〜、こんなふうに出来上がったんだぁ〜、キーちゃんなかなかやるじゃない♡!」
ワイフは、吉田家の四畳半でコツコツ制作に励むキーポンの様子を時々見かけていたらしい。・・・ボクは全然知らなかったけどね・・・
やっぱり、「母娘の親密度は父娘の関係と違ってくるのだろう・・」と、一抹の寂しさを感じつつ、早速サンダルを下ろして便利に履かせてもらっている。

このところ、島根県の私周辺は連日雨が降り続いている。草刈りも断続的に継続しているが、遅々としてはかどらない。俊江さんの畑も、半分ほど再生したところで中断したまま、次第に1年前の荒れ地へ戻りつつある。
彫刻のことも、倉敷児島の芸術祭へ参加した以来中断中。
俊江さんの納骨や憲正さんの3回忌や石塔の建立や、そんなこんなの慌ただしい日々がまだもう少し続きそうだ。

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春の雨 

2017/05/11
Thu. 23:01

午前中は吉田家営繕の続きで裏庭から銀山川の石垣まで草刈り機を振り回した。
この数年間、寺の色々なことが続いて吉田家の色々なことができなくなっている間に葛がはびこって厄介なことになってしまった。
草刈り機を使っているとすぐに葛が巻き付いて、しょっちゅうスイッチを切らなければいけない。
満タンに給油した混合油を使い切るまで葛と格闘して、ひとまず吉田家の草刈りを終わらせた。エンジン音が消えて静かになって、仙ノ山の向こう側で断続的に鳴っている遠雷に気づいた。

夕方からは宗門護持会があるので、昼前に石見銀山を出発して銀山街道から飯南高原の万善寺へ移動した。
街道の周辺では田んぼのしろかきが進んで水路から水が引き込まれてきた。
早稲の田植えが終わっているところもある。

俊江さんの食べ残しの古々米を保賀の谷の鳥たちにおすそ分けしておいたが、1日でかなり少なくなっている。引き込みの電線にスズメたちが並んでいる。

洗濯して干しておいた改良衣が乾いていたので、糸のほつれた数カ所を修繕した。
坊主はなんでも一人でこなさなければいけない。そういえば、憲正さんも俊江さんが畑仕事で留守のときなどは、太くてゴツゴツした指で不器用に針を使っていた。
頭にバリカンをあて、三枚刃で無精髭を剃ってさっぱりした。

仙ノ山の向こう側で鳴っていた雷が飯南高原の方まで移動してきたようで、しきりにゴロゴロとうるさかったが、寺を出発する頃になって急に静かになって、一気に厚い雲が万善寺の上空へ近づいてきた。護持会の会場へ移動している途中でついに本格的に雨が振り始めたが、会場に近づくと道も乾いて雨の気配もない。
数時間の間に島根県の中央部を西から東へ、北から南へ、そして南から北へこまめに移動していると天気の境目がよく分かる。

会議が終わってから石材店へ寄った。
永代供養塔と有縁無縁供養塔と三界萬霊塔の3柱を建立する自然石の洗浄が進んだと連絡が入ったので、様子を見ておくことにした。
今年に入って早々に打ち合わせした時の図面からは大きく変更になって、石材店のご主人も困惑気味だ。日頃は万善寺の住職顔で会話しているが、墓石といえども何かしらの造形物になると、どうしても彫刻家の顔になってしまうところもある。
当初は、永代供養塔をメインにして、あとの2つは添え物くらいに考えていたが、供養の気持ちに上下大小の差があるのもおかしなことだ。あくまで信心は主観的なものだから、私は私なりの気持ちをカタチにしてみるのも、それはそれでかまわないだろうと、思うようになって、それからはコロコロと考えが変わって今に至っている。
次の予定を打ち合わせて石材店を出る頃になって、また雨がポツリと落ち始めた。

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おすそわけ 

2017/05/10
Wed. 23:53

通勤坊主が石見銀山へ帰宅して、荷物を下ろすなどウロウロして、少し落ち着いてリビングに入ったら、珍しくワイフがニコニコして「今日のクロちゃんとシロちゃん、ラブラブでとても仲良しだったのぉ〜〜♡!」と報告しながらiPhoneの写真を見せてくれた。
クロがシロを後ろから抱っこしているというか抱きついているというか・・・
私の前での吉田家ネコチャンズは、こういうシーンをほとんど見せない。
ワイフもボクも、だいたい同じように留守がちだから、猫との親愛関係にそれほど大きな差は無いと思うのだが・・ワイフ曰く、「ご飯をあげたりトイレのお掃除しているのは私だからねぇ〜〜♡」などと、さり気なく自分の優位をほのめかしてくる。
そんなことを言い始めたらキリがないことで、彼らにとっては腹が減った時に「誰へメシの催促したらもらえる確率が高いか?」くらいで、たまたま自分の近くにいるメシ係へ擦り寄って甘え泣きしながら催促している程度のことだ・・と、私は思う。
まぁ、シロクロのネコチャンズくらいで、そこまでトンガって言い訳を見つけなくても良いことだけどね。

例のごとく、明るいうちは万善寺の営繕を続けている。
法事で頂いたお供え物をそろそろ須弥壇や位牌堂から下ろして、そのお下がりをいつもお世話になっている近所のお宅へ持っていった。
私一人の寺暮らしでは、ウッカリしているとお供えの消費期限が過ぎてしまいそうになったりすることもよくあることで、だからといって朝昼晩食事代わりに饅頭やクッキーばかり食べているわけにもいかないし、その上お寺参りでお茶を振舞うことなど皆無だし、仏様やご先祖様や先住大和尚の皆々様へお供えを続けても具体的に美味しく食べていただけるわけでもないし、気持ちの問題だからと消費期限を過ぎてお供え続けるのもかえって粗末なことだしするので、私が住職を引き継いでからは、さりげなく憲正さんや俊江さんの目を盗んで適当なお供えを本堂や庫裏のお仏壇から持ち出していた。
今は、やっと自分の自由に事を進めることが出来るようになったので、近所や知り合いなどアチコチへおすそわけして歩いている。
こういうことを続けていれば、少しは「寺と地域の繋がりが近くなるかもしれない」などと若干の打算もあったりするが、すぐに効果が現れるわけでも無さそうだし、ようするに、諸々のモノが粗末にならなければそれで良いことだ。

俊江さんの片付けモノが何時までたっても終わらないでいる。彼女が生前一人暮らしで食べ続けていた古々米に等しいほどの米が残っていて、それが出てきた。
私はほとんど米を食べないで飲むほうが多い人だから、その米をどうやって消費するかしばし悩んだ末、万善寺周辺で暮らす魑魅魍魎三界萬霊の皆様へおすそわけすることにした。
最近は、ひと晩開けるとお供え物がさり気なく少なくなってくるようになった。
夜のうちに夜社会の皆々様に食していただいているようだ。
その残り物は、朝早くから夜明けと同時に保賀の谷の鳥たちが食べに来てくれている。
この近年は見かけることの少なくなったスズメたちも、2羽3羽とやって来てくれている。
気楽な万善寺の一人暮らしに少しばかり楽しみが増えた気もする。

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吉田家営繕作業〜草刈り 

2017/05/09
Tue. 23:26

石見銀山は朝から雨になった。

石見銀山の大森町町並みから銀山川まで続く土地へ20年ほど前に引っ越した時は、全面隅から隅まで細かく仕切られた畑だった。
ほぼ中央に桃の木が1本あって、畑が日陰になるからと横に広がった枝木はすべて切り落とされて、二股に分かれてYの字に上へ伸びてバランスの崩れた枝ぶりがどこかしら弱々しく寂しげに感じられた。
その畑の町並み側へ慎ましく建っていた廃屋同然の平屋を修繕して今の吉田家になった。
吉田家の大屋根が大森町の家並みに埋もれるように低いのは、それだけ建築時期が古いという証拠なのだそうだ。大屋根が抜けて青空が見える状態の家を修理するにあたって、奈良県の方からやってきたその筋の歴史的建築研究の専門家が調査してわかったことだ。
石見銀山の町並み全体は文化財指定の網にかかっていて、原則として更地にしてから新築することが出来ないことになっている。家とその真下の土地セットで中古車価格並に安く買い取ったものの、結局は改築工事の経費が膨大にかかって、終わってみれば、新築並みかそれ以上の費用がかかっていた。そのおかげで死ぬまで借金返済を続ける羽目になって今に至っている。
もともと私の書斎になっている四畳半は、江戸中期の文化文政時代に出来上がったということがわかっていて、黒く煤けた柱や天井板もその頃のものだということだ。
今は、その柱にインパクトで木ねじをねじ込んだりケーブルテレビの同軸ケーブルを這わせたりして、伝統とか保存とか、全く無視して使い倒している。

万善寺での暮らしが増え始めてから、吉田家内外の営繕が手付かずのまま放置されることが増えた。
移住してすぐの時に、以前暮らしていた家の庭先に植えていたウメやスモモやグミやビワなどの果木を裏の畑へ移植した。その後、ワイフの趣味の延長で次々と草木が植えられた。
もともと長い間畑で使われていた土地は栄養タップリで肥沃だから、移植の草木果木はスクスクと面白いように成長してアッという間に林になった。

現在の吉田家裏庭は、荒れ放題の雑木林的状態になっていて足の踏み場もない。
だいたい、1年に2〜3回は草刈り機を振り回しているが、その度にワイフが大事にしている草花も一緒に刈り倒してしまうものだから、「そろそろ裏の草刈りしておいてくれない♡」などと、依頼する時は優しげなのに、ひと仕事終わった後はやたらと機嫌が悪くなって、だいたいいつも叱られている。
毎年同じような展開が続くと、最近はもう慣れてしまって、ワイフを無視して都合よく自分の良いように刈り取ってしまう。どうせ何やっても叱られるのはわかっているからね。

1日、雨に濡れながら混合油の切れるまで草刈り機振り回し続けたが、結局最後まで刈り切ることができなかったから、日を改めて仕切り直しになった。
この時期には珍しいほど冷え込んだから、夜になってストーブに薪を投げ込んだ。

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復活石見銀山吉田家暮らし 

2017/05/08
Mon. 23:52

万善寺の本堂東から参道下の六地蔵さんまで草刈り機を振るった。
まだ、本堂北から庫裏の西まで手付かずのままだが、石見銀山の吉田家も寺以上に手付かずが続いているから、ひとまず万善寺を切り上げることにした。

飯南高原は、夕方近くになって急に雲が低く降りてきた。
一瞬雨がポツリと来たが、それでもかろうじて踏みとどまってくれた。
結界くんへ草刈り機などを積み込んでまだ日のあるうちに吉田家前の駐車場へ着いた。
つなぎに長靴スタイルなので、そのまま駐車場周りの草刈りをした。
夕方の石見銀山の町並みにエンジン音がうるさく響き渡る。
天気予報によると明日の石見銀山は雨の確率が高い。
昼からの空の様子を見ると確かにそんな気がする。
春のこの時期の草は、一雨ごとに一気に伸びる。
明日は濡れる覚悟で裏庭の草刈りを済ませようと思っているものの、さて、どうなるか?

何時になく夕方から静かだったクロが、夕食が終わることになっても何処かへ入り込んで姿を見せない。珍しいことだと思いつつ、2階のキーポンの部屋だった仮の書斎へ上がると、私愛用の枕の横で丸くなっていた。この時間から寝られると、また夜中になってフギャフギャ鳴きながらウロウロ吉田家中を歩き回ってうるさくてしょうがないから、無理やり叩き起こしてやった。
いつもはワイフにベッタリのシロが、珍しく2階へ上がってきた。

小さい頃、野良猫暮らしで苦労しているシロは、吉田家の家猫になっても未だに人間にビクつきながらスキを見てつまみ食いする。
吉田家で同居することになってすぐの頃は、そういう悪癖を矯正しようとかなり厳しく躾した。それでも、ワイフの方はシロの可愛さに怯んでしまって今ひとつ厳しく叱りつけることが出来ない。
結局、シロは「あの坊主頭のオヤジは私をイジメる極悪人なの!」と記憶して、私を避けて常に一定の距離を置くようになって、四六時中ワイフへベタベタと甘えて過ごすようになった。
時々気が向くのか、過去の記憶が一瞬喪失するのか、ワイフと見間違えるのか(それはないな・・)、メスの色気を撒き散らしながら「私を抱いて抱いて♡」とオヤジへ擦り寄ってくることがある。さすがにワイフの腕枕で眠りこけるほどまでにはいかないものの、それなりに都合よく上手に甘えてこられるとまんざら悪い気もしないし、なかなか可愛い。
クロは「たまには俺も抱いてくれよ!」と自分から擦り寄ってくることはまず無いことがわかっているので、とにかくオヤジの都合で無理やり抱き上げて無理やり抱きしめる。そういう時のクロは、よっぽど虫の居所が悪くない限り、「また自己虫オヤジのワガママかよ!・・しょぉ〜がねぇ〜なぁ〜チョットだけだぜ!」的面倒臭そうな目つきで睨み返しつつ、しばらくはじっと我慢してくれている。

今のところ雨の気配がない。明日からしばらく石見銀山吉田家暮らしに戻ろうと思う。

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俊江さん四十九日 

2017/05/07
Sun. 23:25

母親の俊江さんの四十九日法事を無事に済ますことが出来た。
一ヶ月後には憲正さんの3回忌法事があるから、納骨はその時に併せて行うことに決めた。
一ヶ月の間に2つの法事で親族のお参りも大変なことだから、3回忌の方を優先してご案内をさせていただいた。

吉田家は、父方も母方も親族が少ない。
もともとはそれぞれに兄弟姉妹もソコソコいたのだが、結局は吉田家老夫婦が長生きして生き残った結果だということだ。
それで、憲正さんの近い親族は彼の妹さんだけが元気で生き残っていて、俊江さんの兄弟姉妹はすでに他界している。
こういう状況だから、法事のご案内もどこまで広げるのか迷うところだが、私としてはそのあたりを割り切って、それぞれの生家当主の判断へ委ねることにしている。
そうしておけば、私とか吉田家へ気兼ねすることもなく自分の都合で法事参列の出欠を決めてもらえるからそのほうが気楽でいられるだろうと、身勝手に判断してのことだ。

俊江さんの法事は、終わってみると、とてもアットホームな感じの良いものになったと、自分ではそう思っている。
それぞれの生家代表と憲正さんの妹さんまで参列していただいた。
吉田家からは長男のじゅん君も駆けつけてくれた。あとは、私にワイフ。
隣町の方丈さんに法事のお手伝いもしていただいた。
斎膳は、生前俊江さんが珍しく自分から行きたがっていた薬膳料理レストランへ予約を入れて、法事の後そちらへ移動した。
お店のママさんで料理長の肝いりで、私でも食べきれないほどの豪華フルコースが次々に出てきて、食いしん坊のワイフまで終盤になってギブアップしたほどだ。

法事のすべてを終わって、ワイフと石見銀山の吉田家へ帰宅したらすでに辺りが暗くなり始めていた。
強い風が吹いて春霞の一日だったが、黄砂の影響だったようだ。
島根に暮らしていると、春のこの時期に強い西風が吹くとだいたいスッキリしない霞晴れの状態が続く。

遅めの夕食を終わって少し落ち着いて、写真データから俊江さんのアルバムを引き出してみた。
ちょうど1年前の今頃は、まだ畑仕事をする気でいた。もちろん、荒れ放題の畑で何も出来るわけでもないのだが、その場所までヨチヨチと歩いていくだけでも何やら仕事をした気になって落ち着いていたのだろう。私が草刈りをしていると、自分の仕事を横取りされたふうなことまで云っていた。
法事までに、せめて彼女の畑だけでも原型が見えるまでにしておこうと決めていた。
かろうじて、畑の全景が確認できるまでにはなっただろうと、自分では満足している。

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石に託す 

2017/05/06
Sat. 22:58

いつもお世話になっている石屋さんと待ち合わせをして、永代供養の自然石を決めた。
万善寺にとってはそれなりの大事業であると思われるが、私は檀家さんに知らせることもなく一人で事を進めている。
あとになって色々言われるとは思うが、特に寄付を募るわけでもなく、ほとんど私財を投じて行うことだから、まぁ、それも「後の祭り」というやつで済ませてしまおうと思っている。
予算としてはだいたい150万円くらいを見積もっているが、さてそれで済むかどうか・・

石の物色は島根県内の比較的大きな造園業の石材置き場で行った。
時間があればアチコチ回ってから決めようと思っていたが、そろそろ憲正さんの3回忌も迫っているし、のんびりもしていられないから、気持ちを切り替えて一箇所へ絞ることにした。
彫刻の仕事もしているし、造形のことに関しては若干のこだわりもあるつもりでいるから、極端に都合よく解釈すれば、そこら辺に転がっている変哲もない石でも、見方を変えて使いようによっては説得力のある石になってくれることだって十分にあり得ることだ。
大小の石の上に立つと、自然と幾つか石の方から起き上がってきてくれるふうに見えてきたものがあって迷ったが、ユニックのアームの限界もあるし、妥協に妥協を重ねて、ほぼ1時間をかけて3つの石に絞った。
あとは石材の価格交渉になるが、そこまで坊主がしゃしゃり出ても石屋さんの仕事になりにくいだろうと思って、彼へ託すことにした。
交渉の過程で、少しは彼の汗代も考えておかないと仕事に張り合いが持てないというものだ。

私が住職交代をしてすぐの頃に、親族の位牌さんを守りきれないから寺で引き取ってくれと、ある施主さんから申し出があった。
その後、その方は年に1回必ず寺参りをされてその御位牌さんを供養される。
あの頃から変わりなく私の方は出歩いてばかりで無住職を決め込んでいるが、母親が健在だった頃はそういう寺参り目的の施主さん相手に私の不在を良いことにして本堂へ案内することもなくお茶飲み話に終始して事後報告の対応で失礼ばかりしていた。それで今になってやっと形ばかりの供養のお経を読むことが出来るようになってきた。
要するに、「寺を守る!」と言い続けて寺にしがみついていた母親の寺務が全く機能しない数年間があったことになる。

寺からほど近い町に暮らす彼の周囲も、年々空き家が増えて、1年の殆どをなんの供養もされないままお仏壇の御本尊様やご先祖の御位牌さんが安座されていらっしゃるらしい。
幸いにして、その町にある数件の万善寺檀家さん宅はそういうこともなく、かろうじて毎年の供養はされてはいるが、それでも最近は年回法事の幾つかをスルーされることが目に見えて増えてきた。
仏教の根本は、ご先祖様の御位牌をお守りして供養するということだけでも無いのだが、最近はそれもまともに出来ないほどに仏教離れが目に見えて進んでいる。

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ひさしぶりのとみやま 

2017/05/05
Fri. 22:16

石見銀山を出発して三瓶山へ向かって結界くんを調子良く走らせていたら、ポツリポツリと雨が降ってきた。
雲の様子は雨になるふうでもないが、山の天気は変わりやすいから特に気にしないまま富山町へ急いだ。
久しぶり・・・というより、今年になってはじめての富山になる。

富山町の有志が集まって「とみやまカフェ」なる春のイベントを開催するにあたって、私へワークショップでもしてくれないかと依頼があったのは確か3月の終わりごろだったと思う。
ちょうど母親の葬儀のことで忙しさがピークの時にメールが入っていたから、回答の返信がかなり遅れた。
5月5日というと四十九日の直前になって法事のことも考えないといけないし、ひょっとしたら連休を利用した帰省のお檀家さんからお寺参りの連絡があるかもしれない。この時期の坊主家業は色々と予測不能なことが生じやすいから簡単にその時のノリで引き受けるわけにもいかなくて判断に苦しんだ。
なんとなく機嫌の良さそうな頃合いをみてワイフへ伝えると、「またガラス絵にするの?」と、普通にワークショップの内容へ食いついてきたから、これなら私のドタキャンがあってもなんとかなるだろうと判断して、ひとまず電話だけでもしておこうと、「内容は未定だけどなんとかしましょう」と伝えておいた。

富山では今年も彫刻のイベントを開催することになった。
そのこともあって地域の皆さんには昨年に引き続いてお世話になるし、年度代わりの挨拶代わりには良い機会になった。
昨年の会期中に草月流の竹造形を公開制作したが、その作家が私のSNS告知に反応して、作品の手直しとバージョンアップの追加制作を兼ねて倉敷から駆けつけてくれた。
私の方は、ワークショップの事もあって制作の手伝いをするほどの余裕がないままお昼を過ぎて、「とみやまカフェ」もいつの間にかクローズの時間が来た。

万善寺の庫裏も老朽化が進んで今のうちに手直ししておかないとあとになって厄介なことになってしまうところが数カ所あって、その下見を何時もの棟梁へお願いしておいた。
棟梁は連休返上で忙しくしているところを、無理して時間を造ってくれた日がワークショップ当日に重なったので、寺と富山と石見銀山の中間地点になる三瓶山東の原で待ち合わせた。
富山の片付けをワイフに託して結界くんを走らせていると、見事時間通りに棟梁が西の原方面から登って来た。
そのまま万善寺まで先導して庫裏の修繕場所を見てもらっていたら永代供養塔の墓石造立をお願いしている石材屋のご主人もやってきて、幾つかの打ち合わせが一気に進んだ。
二人が慌ただしく帰っていった後、万善寺が急に静かになった。
若い鶯が発声練習を始めた。随分上手になっている。
雀が2〜3羽境内へ舞い降りた。本堂の基礎石付近へ撒いておいた古米がなくなっていた。

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真夜中の猫 

2017/05/04
Thu. 23:13

深夜2時を過ぎたあたりに猫のクロがゴソゴソ起き出してフギャフギャ鳴きながらひとしきり吉田家を徘徊する。
癖になったというか習慣づいたというか、そういうふうだが、推察するに最近立て続けに脱走成功を果たしているから、たぶん野外の何処か適当な場所に自分の気に入ったトイレを決めたのだと思う。

クロが吉田家のトイレでオシッコをすると、勢いが過ぎて壁を超えてしまう時がある。
だいたい、猫科の動物のオスは、自分にオシッコの匂いがつかないようにしたいのか縄張りを確認したり主張したりしたいのか、真横にオシッコを飛ばすことが多いらしい。
学生時代は、上野動物園のトラの檻のすぐ近くで10年間を過ごしたから、その状況を幾度か目撃している。同じ猫科でもトラと猫では放尿のスケールが違いすぎて比べ物にならないだろうが、それでもクロを見ているとそれなりに元気の良い放尿を真横に飛ばしていたりする。
脱走の出口を求めて毎晩の吉田家徘徊も、尿意を感じたクロが度重なる脱走を経験する中で、何時の頃から野外の放尿の開放感を覚えてしまったからなのだろう。
結局、脱走を失敗したクロは我慢できなくて仕方なしに吉田家トイレで放尿を済ませてひと心地つくと、何事もなかったようにさりげなく私の横をすり抜けて自分の寝場所へ落ち着く。
だいたいそれが1時間近く続くから、そのうち自分まで尿意を我慢できなくなってゴソゴソ起き出してトイレに行く。猫と人間のオス同士が時間差で真夜中のツレションをしているようなものだ。

猫というと、たぶん島大教育学部で美術を勉強していた時の仲間なのだろう、彼らが集まって「にゃんとまぁ猫展」というグループ展が始まったからワイフと待ち合わせて松江の美術館まで行った。出品者の一人が万善寺の蔵の軒先で杉の丸太から猫を彫り出していたから、その完成と展示効果を確認するためでもあった。
自分も23歳の時にグループ展を経験して、それ以来しばしも休まず展覧会発表を繰り返し続けているから、総勢10人の若い表現者の作品は、「正に何とも若い!」作品で、ある意味微笑ましかった。
若い頃の世間知らずな自己満足だけの文化祭の延長のような美術とも言えない稚拙な作品を恥ずかしげもなく発表していた頃を思い出した。

杉の丸太の猫は若干未完成といえなくもないが、面白い小品彫刻に仕上がっていた。
平面絵画は、自分のひと部屋を工夫すればなんとか制作らしきことを続けることも出来るが、彫刻の場合はなかなかそういうわけにもいかない。そういうことで相談にのっているうちに、「じゃぁ、万善寺へ通ってこいよ・・」ということになった。
作家としてというか、人間としてというか、そのあたりの付き合いは浅いから何を考えてどうしたいのか・・そういう気持ちの機微を感じ取るには程遠いが、それでも、彫刻制作に取り組む粘っこさは持っている娘だから、本人に彫刻を続ける気がある間は何かしら付かず離れず付き合ってみるのも良いかなと、今は思っている。

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記念日 

2017/05/03
Wed. 23:09

超個人的なことだけど、3月30日がボクとワイフの結婚記念日なのだ。
気がつけばもう35年ほど一緒に暮らしていた。

最近、思わず一人笑いしてしまうほど直前の行動や考えていることをすぐに忘れてしまうようになった。
それで特に困るわけでもないほどのシンプルな暮らしぶりだから、まぁ、そのくらいのほうが気楽にいれて無駄に悩むこともなくて良いかなと思ったりもするが、一度に済ませることの出来る幾つかの用事を一つ一つの用事で行ったり来たりしなければいけない時間のムダがなんとも馬鹿らしく思えて一人笑いしてしまったりするのだ。
こういうことが頻繁に続くと、そのうち私的なことばかりでもない大事な用事で迷惑をかけたりすることも増えてくるだろうから、そういう自覚ができる頃が建前上の引退時期かなと思っている。
本音の世界では、これでやっと世間を気にしないで自由に思い通りに「やりたいようにやらせてもらいましょうね♡」的気持ちでいられるのだが、さて、そろそろそういう時期が遠からずやってきつつあるように思える今日此頃なのだ。

結婚記念日のことは、だいたい忘れないで覚えられているのだが、それにしても時期が悪い。
年度末の崖っぷちであったり、新年度前の慌ただしいときであったり、毎年のことなのに、決まったように毎年ドタバタと落ち着かないまま過ぎてしまう。
今年は例年にも増して特に慌ただしかった。
俊江さんの死亡と、通夜葬儀が結婚記念日にぶつかってしまった。
それこそ直前まで、「もう、30年以上も一緒に暮らしているのだから、そろそろ何かしらの記念らしきことでも考えないとな・・」と思いながら、お彼岸の準備をしたり自治会の会計を〆たりしていたのに、それへ俊江さんのことが上乗せされてしまって、もう、完全に結婚記念日が遥か彼方へ過ぎ去ってしまった。

普通だと、例の物忘れの延長で、いろいろなドタバタに乗じて結婚記念日のことなど忘れてしまって終わりになるのだが、このたびはそういうことにもならなくていい具合に定期的に思い出せる状態が続いて1ヶ月が過ぎた。
前々から色々考えていたことがあって、それを具体的な何かに置き換える良い時期だとも言えるし、記念日のことはさておいて、とにかくワイフの同意を得て後先考えないで実行に移した・・・といっても、私にできることなどソコソコ知れてるし、たいしたことでもないのだけど・・・

二人分のApple Watchが吉田家へ到着した日は、例のごとく万善寺の片付けの最中。
ワイフへ電話したら「届いたわよ!我慢できなくて開けちゃった。とっても素敵なパッケージで、さすがAppleよね♡!」だって・・・
4月27日はボクの誕生日でもあるし、記念日としては忘れようもないし・・・久しぶりにはしゃぐワイフを見た気がする。

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板の間 

2017/05/02
Tue. 23:05

寺の周囲と言うか地域全体はだいたい農家で、数年前には酪農業の会社も進出してきたほどだ。
昔は、農業の他に林業従事者が数軒あって、参道下の林道は山の木を切り出す人々が盛んに往来するほどの活気があった。
平成の時代だと想像もできないことだろうが、昭和の30年台には、林道を馬が木馬(きんま)を引いて切り出した木を運んでいた。もちろんアスファルトの舗装もない砂利道を。
その頃は、寺の周囲の3軒の農家では水田で米と麦を作り、自宅に隣接する納屋では和牛を2〜3頭飼育していることが普通だった。
田の畦や雑木林につながる山道脇の傾斜地に生える雑草はすべて牛の餌にしていて、朝暗いうちからの数時間と夕方日が落ちるまでの数時間を草刈りに使っていた。
だいたいどの農家も、その草刈りは主に百姓の現役を引退した老人夫婦の仕事になっていて、和牛の世話も自然とその流れで老夫婦の役割になっていた。
保賀の上組だけでも専業農家が4軒あって、和牛が10頭以上は飼われていた。
年に1回ほど牛を出荷する牛市があって、そこで競り落とされた金額の内容で牛飼いの上手下手がはっきりと決まる。
当時は、高値で売れる牛がだいたい1頭300万から400万あたりで競り落とされていて、その金額を巡って寺の周囲の老夫婦は熾烈なるシノギを削りながら毎日牛飼いに携わっていたことになる。私は子供ながらに、噂で流れてくる牛の売値に感嘆し、老夫婦の仕事を尊敬もしていた。

何故こんな昔の話を持ち出したかというと、境内地の周囲で暗くなるまで草刈機を振り回している時に牛飼いのおじいさんから聞いた「雑草の価値」の話を思い出したからだ。
寺周辺に広がる寺領は、そういう牛飼い農家の草刈り地として提供されていたから、坊主が自ら鎌を持って草刈りなどすることがなかった。むしろ、庭の手入れのついでに参道脇の草刈りなどしてしまうと、「隣のノブさんに叱られてしもぉたが・・」と、憲正さんが愚痴ってたりしたものだ。
今はお百姓さんの耕作放棄も目立つ時代になって、雑草の価値もなくなった。参道脇の隣の畦道まで踏み込んで草刈りをしていても見て見ぬふりで誰も文句を言うこともない。

5月の連休最終日に俊江さんの四十九日法事をするから、今はそれに向けて毎日万善寺内外の片付け営繕に追われていて、給油3回目の草刈りが終わった。
元は台所の配膳室だった板の間にあった古い茶箪笥や古くなった日用品を処分しまくって、古畳を6枚ほど撤去した。
宗門では、その部屋から台所にかけてを「典座寮」という。韋駄天さんが安座されてあって、僧侶の日常でとても重要な役割の場所なのだが、長い間その板の間が俊江さんの部屋になっていて、古畳を敷いたり古障子を建てたりして都合よく改造していた。
半世紀ぶりにほぼ建築当初の用途を持った空間が蘇った。
私が少年時代に遊んで過ごした板の間には、敷板の下に囲炉裏が切ってある。
寺の仏事の時は、その囲炉裏で煮炊きもしていた。

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寺暮らし 

2017/05/01
Mon. 23:56

万善寺の片付けへワイフが参加してくれたので、境内の営繕草刈りで汗を流した。
母親が生きている時は、彼女のマメな監督のお陰で思うよに営繕作業が出来なかったので、1日中心置きなくマイペースの作務が出来た。

境内地と云っても・・・
参道下の六地蔵さんから駐車場とその脇の花木林。
庫裏の東は寺のお墓で西は田んぼから転作の母親の畑とその周辺。
北側に広がる雑木林の傾斜地と南側の石垣や用水路脇のあぜ道まで。
・・・とにかく私一人の作務では手に負えない程の広さだ。

私はどちらかといえばモノの無いシンプルな空間が好きな方で、少年の頃はとても広く感じていた万善寺の本堂や、テーブルと座布団しか無い庫裏の客間が気に入っていた。
あの頃は小学校でも定期試験のようなものが各学期に1〜2回はあって、その度にガランとした8畳の真ん中にある大きなテーブルを座机代わりにして勉強道具を広げていた。
一段落するとゴロンと仰向けに寝っ転がって、正面のふすまの上に掛けてある横書きの黄ばんで薄汚れた「日々是好日」の額をしばし眺めて気持ちを切り替える。
その日の勉強が終わると、全てのモノを自分の勉強机へ戻して、使っていた座布団を部屋の角へ重ねて磁器製の傘をつけた60wの電球の紐を引いて消灯する。
当時の寝室は、寺で云うところの方丈の間で、押入れとその横に親族のお仏壇。万善寺では母親の衣装箪笥に鏡台。それに憲正さんの衣を掛ける二枚折の衣桁だけのシンプルさ。
押し入れの上段に家族の寝具。下段に家族の日常衣類がしまわれていて、寝る時は部屋の真ん中へ布団を並べる。朝になると布団を畳んで押し入れへ仕舞えば元の何もない方丈の間に戻る。
中学校に入って、玄関上のロフトへ新調した腰掛け用の勉強机を引っ張り上げて、其処が子供部屋になって勉強も寝起きもその部屋で完結するようになった。その部屋は今でも寝室で使っている。

15歳から一人暮らしを始めて、食べることから寝ることまで暮らしの全てを一部屋で賄うようになるとアレコレ雑多なものが一部屋に集まるようになって、シンプルとは程遠い暮らしになって今に至っているが、両親の他界した今、半世紀ぶりに私が少年の頃の万善寺へ戻そうとしている。
あの頃は、寺の内も外も何も無くても特に不便を感じたことは無かった。水田にしても畑にしても、日当たりの良さを一番に考えて余分な花木は一切なく、春になって柿の木が葉を広げるとそれが日陰になるからと、冬の間に枝を切り落としていたくらいだった。

半日ほどの草刈りで、田んぼから転作した畑の原型が少しほど見えてきた。
晩年の母親は、春から秋にかけてこの畑で野菜を作っていた。
年々身体が動かなくなって耕作地が減少して、死ぬ前の年に耕作放棄が進んで荒れ地に変わって、やがて猪の遊び場になった。
昨年からの枯れ草がなくなった後には、新しく獣道が出来ていた。

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クロの仕業 

2017/04/30
Sun. 11:57

いやぁ〜〜〜、アッという間に4月がおわってしまったなぁ〜〜・・・

末寺山寺万善寺では、ナント、4月の1ヶ月で葬儀が3つ(そのうち1つはお手伝いだったけど)・・・
ハッキリ云って、ナンチャッテ坊主のボクが副住職の頃から今までにはじめてのことであります・・
下世話な話ですが、毎月こういう坊主の忙しさが続いていたら、もっと生活も楽になるだろう。
だけど、彫刻家のボクは何処かへ行ってしまって坊主家業まっしぐらの人生になるだろうな。

そんなわけで、毎日万善寺の通勤坊主が続いている・・・いやむしろ、毎晩万善寺から石見銀山の吉田家へ寝に帰っているという状態が続いている。
さすがに、寺家業が忙しいと云っても、万善寺の夜は酒飲んで飯食って寝るだけだから、2時間でも3時間でも吉田家で彫刻絡みのデスクワークをしていたほうが少しは気も紛れる。
それで、先日いつものように荷物を一抱えと、結界君のリヤデッキいっぱいの万善寺紙ゴミを積んで帰宅した。
いつものように現在仮の書斎になっているキーポンの部屋へ書類の籠を持って上がったら、階段を登りきったところでクロ君が「フニャァ〜〜」と甘え声で出迎えてくれた。
真っ暗な2階の部屋に入って蛍光灯をつけてiPadからコルトレーンを無線でスピーカーへ飛ばしてひと心地ついて、珍しくゴロゴロと喉を鳴らしながら擦り寄ってくるクロ君をイジっていたら、右目の端になにやら雪が積もったような白い物体の山がチラリと入り込んだ。
この2〜3日は、夜な夜なキーポンの一人暮らし用の視聴覚機器を吉田家中からかき集めていたから、その梱包材でも残っていたのだろうくらいに気にもしないままその時はやり過ごしてクロとしばし戯れた。
ワイフから夕食の呼び出しがかかって、アサリのアヒージョや旬の葉わさびや筍などを堪能しながら麦とホップをグビッと空けて、しばし1日の情報交換をして書斎に引返した。
何気なしにデスクの下を見ると、やはり雪が吹き込んだ感じで何やら白いものが積もっている。
蛍光灯をつけて、デスクスタンドもつけて明るくして覗いてみると、トイレットペーパーが粉砕されて散乱して山のように積もっている。
これは、クロの仕業に違いない。
先程は珍しく甘えて擦り寄っていたが、どうやら自分の仕出かしたことを誤魔化しにかかっていた風にも思えてきた。
それにしても、2階の書斎にトイレットペーパーがあるわけもなく、何処から持って上がったのだろう?ワイフに聞いても知らないという。
メタボクロの腹回り程もあるトイレットペーパーを咥えて10段の階段を持ち上がった執念はたいしたものだ。怒る気も萎えた。

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癒やしの新玉ねぎ 

2017/04/27
Thu. 12:43

「今日も燃えるゴミですか?」
「えっと、今日は殆ど鉄です・・」
ゴミ処理場受付のご婦人には、もう完全に覚えてもらえたようだ。
「まぁ、上手に積んどられますなぁ〜。これって、4人乗りでしょ?」
「ハイ!この車、結構便利なんですよ」
「また何時でも来てくださいね」
分別のおじさんやお兄さんにも覚えられてしまった。
毎日ゴミ処理場へゴミを積んで持ち込んでいたらそれも当たり前のことだろうが・・・

捨てても捨てても、一向に片付かない。
5月の連休明けには母親の四十九日法事があるし、なんとかしてそれまでに少しでも片付けてしまわないと・・・それに、連休中はゴミ処理場もお休みになるし・・・とにかく、この2日間が勝負だ!!・・・と、朝からはりきっていたら、隣町の方丈さんから電話が入った。
「あんた今夜から3日間空いとるかね?息子の◯◯寺が葬式手伝えん言うて・・」
いやぁ〜、まいった・・・お葬式のお手伝いをすることになった。
ナント、五仏(方丈さん5人)葬式だという。
万善寺では五仏葬式など50年以上も前に絶えてしまった。
あの先代の憲正さんでも三仏(三人の仏事師さん)だったのに・・

まぁ、そんなわけで、ゴミ処理場の往復の途中でそういう電話が入って、急きょ隣町の寺へ駆けつけた。
幾つか打ち合わせをして、夜は仮通夜で鐘つき坊主。
本通夜と葬儀は、シャンとした若い方丈さんに鐘つきを変わってもらおうと思っている。
拈香法語も考えないといけないし、ゴミ処理場へもう一度往復もしたいし、庭の松葉も目立ってきたし、昨日のひと雨で境内周りの草も一気に伸びたし・・ヒマに慣れたオヤジは天手鼓舞。

すっかり真っ暗になってから夜の石見銀山へ帰った。
夕食は、新玉ねぎを使ったワイフの新作料理・・・玉ねぎの甘みと、とろけて香ばしく焦げたチーズが絶妙で、挟み込まれたひき肉にまで玉ねぎの旨味が沁み込んで、これが実に旨い!
麦とホップもグイグイ進んで疲れが取れた。

母親の葬儀ではじまった4月も終わりが近い。
この1ヶ月間、万善寺の庫裏は足の踏み場もないほど積年の老夫婦の荷物で溢れている。
毎晩、散らかった荷物の中で寝るのも落ち着かないし、結局夜になって1日の片付けを適当なところで切り上げて石見銀山の吉田家へ帰宅する。一晩寝て早朝に自宅を出て万善寺へ向けて結界君を走らせる。
今では、そのパターンが定着してきつつある。

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目に見える記憶 

2017/04/25
Tue. 18:47

万善寺のある行政区のゴミ処理場は、午後3時で一般受付がクローズする。
たぶん、そのくらいに締め切らないと分別作業をその日のうちに終わらせることが出来ないからなのだろう。
最初に万善寺の積年のゴミを搬入した時に、受付のご婦人が印刷物を2〜3枚用意して丁寧に分別のことや搬入受付のことなどを解説してくれた。
それで、午後の3時までに搬入することは承知していたのだが、庫裏の玄関先で欲を出して「もう少し、あと少し、あれも積んで、これも積めるな・・」などとモタモタしていたらどんどん時間が過ぎて、法定速度ギリギリで滑り込みセーフかアウトか微妙なタイミングになってしまった。
頓原中学校前の四つ角までスムーズに走っていたのに、そこの信号で捕まってしまった。
2台前には町内の循環バスがマッタリ走っていて、それが町並みへそれるまでやたらと無駄に時間が過ぎた。
ゴミ処理場の受付へ右折しようとしたら、すでにロープが張ってあって進入禁止。
3:02でありました・・・

もう、10回近くゴミの搬入をしているから、そろそろ受付のご婦人や作業の職員の皆さんに顔を覚えられるようになった。
タイムアウトのゴミを朝一番に搬入して、それから午前中に3回往復した。
お昼を過ぎたあたりから雲行きが怪しくなって、風も強くなってきた。
この様子だと、「風がやんだら雨になるだろう」と思っているうちに土砂降りになった。

仏教では「執着」と書いて「しゅうじゃく」という。
お釈迦様は、執着は修行の妨げになるからそういう気持ちを捨てろと力説された。
一方、執着は良い意味に解釈されることも結構あったりするので、自分の気持のゆらぎを都合よく言い訳してどうにかうまい具合に正当化して乗り切ることも出来てしまう。
このあたりの主観的な立ち位置がなかなか曖昧だったりして、万善寺でも先代夫婦と私の間で数え切れないほどのイザコザがあった。
結局、私のほうが一歩も二歩も身を引いて、老夫婦の暮らしぶりを見て見ぬふりして無理な諍いをなくす方向で付き合ってきた。

昭和の初期から戦中戦後の生活苦を体験した彼らは、モノを捨てるという感覚より、モノを大事にするという感覚で日常の暮らしが機能していたのだろう。
さまざまな「モノ」に託された彼らの「思い出」とか「記録」は彼らにとって具体的に「目に見える記憶」としてある種の宝物になるほど昇華し、捨てるという行為が日常の暮らしの選択肢から完全に削除されたまま半世紀が過ぎていったのだろう。

彼らの「捨てられない気持ち」の呪縛に絡まりながら、ひたすら断捨離を続ける自分は、一方で彼らの「目に見える記憶」を捨てていることにもなる。
見える記憶は忘れることもあるだろうが、心に刻まれた記憶はいつでも鮮明に思い出すことが出来る。私はそれで十分だと思っている。

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久々の試練 

2017/04/24
Mon. 13:13

最近、一日がアッという間に始まって終わる。
母親が死んでからほぼ毎日万善寺で一日を過ごしている。
坊主の常識的な日常を過ごすには、それほど忙しいわけでもなく、どちらかと云えばたっぷり時間のかけて一つ一つの用事を坦々と済ませていくふうで、静かなものである。

庫裏の窓ガラスがガタガタうるさい朝は、「南風が強いな・・暑くなるかも知れないな・・」と思いつつ線香をくゆらせる。
用水路から水が引かれた水田でカエルがいつも以上にうるさく鳴き続けていると「雨が降るかも知れないな・・」と本堂の濡れ縁に出て西の空を確認する。
保賀のつがいのカラスが情報交換をして遠くで鳴きあう様子を聞き、深煎りの珈琲をミルで挽きながらその日一日の作務で物思いにふける。
・・・いつになったら、そういう平穏な一日が戻ってくるのだろう。

母親の死ぬ少し前に、憲正さんの弟弟子だった方丈さんが遷化された。
我が宗門では、住職クラスの方丈さんが遷化されると、まずは密葬仏事を済ませておいて、その後改めてだいたい四十九日に近いところで本葬仏事を行うことが多い。
先代住職同士は兄弟弟子でもあるし、今まで半世紀以上も長い間親しくお付き合いさせてもらっていた仲でもあるから、私も何かしら御恩に報いることでもしないと気がすまない。
母親のことや万善寺の整理をひとまず停滞させて、気持ちを本葬次第へ向ける数日が続いた。

先日、大夜から本葬仏事が終わった。
約4週間のあいだ、遺族遺弟の皆様は何かと気の休まらない毎日を過ごされたことだろう。
遺漏のない次第が粛々と続き、とても立派な本葬であった。
私は、ほぼ2日間の様々な場面を記録に残す係を務めた。
写真にして1000枚くらいになっただろうか・・・それを一つ一つ確認しながら約500枚くらいに整理して、それをウエブディスクへ移動した。
これらの作業を数日かけて万善寺で行ったわけだが、飯南高原のインターネット環境があまりにも貧弱で、とにかくデータ通信の上りも下りもやたらと時間がかかった。
一時期、クラッシュ寸前まで機能低下したボクの愛機MacBookが、幾つかのメンテナンスを乗り気って甦って以来、この度の久々の試練にどこまで耐えられるかビクビクしながら作業を続けた。
キーボードを数回ほどポチッとして、トラックパットを数回スリスリして、それから延々と画像移動が続く。
その間に、洗濯をしたり、庭掃きをしたり、両親の遺品を片づけたり、ゴミを分別してゴミ処理場へ搬入したり、そして、時々珈琲を飲んだり、食事をとったり、そんな毎日のあと昨日夕方、3枚のディスクに全ての画像をコピーすることができた。

今のインターネット依存の仕事を続けながら万善寺で暮すということは、なかなか現実的でない気がする。さて・・・これからどういう生活のスケジュールを組み立てようか??

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年度初め 

2017/04/20
Thu. 23:22

遅咲きの桜もほぼ散った。
1時間半の会議が長く長くとても長く感じて、耐えられる限界に達していたら、町会議員選挙の立候補者が選挙運動に現れたりして、もう我慢も限界。

保賀自治会は、他の2つの自治会と併せて連合自治会のような組織になって行政の下部組織を形成している。
その中で、それぞれの自治会から幾つかの役員を選出して(ほとんど1年交代の輪番制だけど)連合自治会の組織委員になる。
私は、保賀地区上組班長の役があって2年連続で今夜の会議へ出席した。
連合の自治会長さんの上部組織議題の報告会と会計の決算報告と予算案報告程度のことで、長々と会議1時間半は誰がどう考えても長過ぎる。
保賀の自治会からは、総勢7人も役員が出席していた。
20戸を切る保賀地区から、7名もの出席が必要だということがすごい。こんなことをしていたらあと10年も経たない間に保賀地区は一戸一役から一人一役になりそうな勢いだ。行政のトップダウンは、過疎と高齢に喘ぐ田舎暮らしの住民にはあまりにも役が重すぎて動きようもない。

参集の会議メンバーは、会議慣れしている元や現の行政マンだったり、消防団とか◯◯会とか、だいたいが役付の仲良し組だったりして、誰かの一言に誰かが食いついてどうでもいいような質問を投げたり、報告を審議に持ち込んだり、とにかく会議が好きなのか、日常会話の乏しいさびしんぼうか、自宅に帰りたくないヤバイ理由でもあるのか、何時までたっても集会の終わる気配がない。それに、だいたいの歳廻りがそうさせるのか、私の同級生が3人も役付になっていて、そのうち一人は連合自治会長だったりするから逃げようがない。

先日、坊主家業で説教とは程遠い仏教話しをして、その終わりがけに、「方丈さんの話が長すぎるから後が迫っとりますけぇ〜」と、私に聞こえるほどの捨て台詞を吐かれたことを思い出した。
檀家さんの寺参りでそのくらいの仏教認識だから、現代のナンチャッテ坊主としては世間の政治経済社会に対して宗教の価値観を正論でぶちあげても、とても太刀打ち出来ないというか、暖簾に腕押し糠に釘的状態で気力も萎える。
結局自治会の集まりのことなど、出席者のだいたい4分の3程度はその筋のコトが好きな方々なのだと思ってしまう。
いくら持ち回りだとか順番だとか輪番制だとかいっても、役を引き受けるという意思があっての役付は大なり小なりその筋に関わることで自分のステータスを維持する自分に酔っているようなところがあるのかもしれない。
そういう連中にとっては、保賀の上組の班長のような使いっ走りごときでも、役付の一役として意識されているのだろうが、ただの使いっ走りごときがアレコレドウコウ言える立場でもないことは重々承知のはずだ。
田起こしの水田で鳴きあうカエルたちの合唱のほうがずっと耳に心地よく響く。

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彫刻撤収 

2017/04/19
Wed. 04:06

鷲羽山レストハウスから更に登った展望台から彫刻を撤収した。
昨年からほぼ1年間、私の鉄の彫刻を置かせてもらっていた。
瀬戸中央道の大橋が展望できる絶景の場所で、ヤマツツジの濃いピンクと桜の淡いピンクが春の瀬戸内海の日差しを反射してとてもキレイだった。
「桜とツツジが一緒に咲いているのを始めてみました・・ボク」
岡山の赤礬市に暮らす陶芸家が彫刻移動を手伝ってくれながらそう云っていた。
私より少し若いくらいの年齢だと思うから、今年の春の瀬戸内の気候は、まぁ、とても珍しいといえるのかもしれない。
まだ、2回しか春の鷲羽山を見たことのない私の方は、そういう異常な気候のことなど時に気にもしないまま「キレイなことだ!」と単純に納得してしまっていたが、岡山の瀬戸内一帯は、どうやら異常な春であるらしい。

自分の彫刻が、潮風にさらされながら1年間でどのように変化してきたか、それを確認するのも、今回の搬出では重要な狙いであった。トラックに積み込みながらサビの色や粗さをさりげなくチェックしたが、山陰の彫刻より若干黃観がかっているくらいに感じた。
化学者ではないから、成分の化学的変化をどうこうと研究することもないが、それでも自然の環境の変化に自分の彫刻がどのように反応しているのか、そのあたりのことは興味があるし、彫刻素材の経年変化も自分の彫刻の味にしているようなところもあるから、こういう実践的実験が長期に渡って出来る展覧会とかイベントは大歓迎なのだ。

鷲羽山からほど近い児島にある塩田で財を成した旧家の前にも彫刻を置かせてもらったが、こちらは約1ヶ月間だったので、特に大きな変化もなくなかなかいい感じの色合いに落ち着いていた。彫刻を造る時、幾つかのテーマを使い分けている。この彫刻はそのうちの一つで、鷲羽山の彫刻とは制作のコンセプトが違っている。
別に、自分だけのことだからワザワザそういう事情を語る必要も無いことだが、誰かの何かの参考にでもなれば良いかもしれない。

私の造る彫刻のほぼ80%は野外設置を前提としたものだ。
一口に野外と云っても、私の暮らす島根県のような雪が降り積もるところもあれば、このたびの瀬戸内のように雪とは縁がないところもある。潮風のこともあるし、夏の日差しの違いのこともある。雨が多かったり、風当たりが強かったり、とにかく、自然の様々に違う環境にあって、自分の彫刻が周囲の環境と共生しながら美しい造形として存在してくれるということが制作者のつとめであり責任である。
かたっ苦しいことでもあるが、自分にとっては大事なことと思っていて、常々そういうふうに自分の彫刻と付き合うようにしている。
そこで、鷲羽山の彫刻のように移動が難しいものばかりを造っていると、さまざまな環境で実践的実験にストレスがかかりすぎるから、比較的楽に何処へでも移動できるシンプルな造りで持ち運びのし易い「移動式野外彫刻」なるものを用意しておくと都合がいい。
何かそれにふさわしいテーマはないかと考えて、この数年それらしき都合のいい彫刻も造るようにしている。

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2017-05