工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

いつの間にかもう日曜日 

2017/03/26
Sun. 09:03

保賀地区の最終常会が終わったのは夜の9時を過ぎていた。
それから1年間の納会が始まるから、盛り上がれば午前0時を過ぎることになるだろう。
私は、3月の年度末の用事もあるから、常会が落ち着いたところで早退した。

まだ三十五日を過ぎたばかりで、6・7日も来ていないのに49日の法事をした。
施主さんの都合だから仕方のないことだけど、坊主としてはなんとなく収まりの悪い法事に思えて、今ひとつ気持ちが滑ってしまう。

倉敷児島から搬出関係の事務連絡が入った。
引っ越しの時期でトラックレンタルも出来ないし、なかなかスケジュールが決まらない。
児島にはワイフやノリちゃんも彫刻を展示している彫刻の仲間でもあるし自分のことでもあるから、もう少し親身になってスケジュールの調整へ積極的に加わって欲しいが、二人とも他人ごとと決め込んでいるようで話題の一つも返ってこない。
いつものことだから、特に気にもかけないで自分の都合を優先して乗り切っている。
なにごとも、スタートの時点ですでにだいたいのお膳立てが整ったところから自分の都合を振り分けるようなコトを繰り返していると、あとになって苦労するのは結局そういう楽をしている連中だということもそろそろ気がついてほしいものだ。

銀山街道を結界くんで移動している時は、ひたすら運転をしているだけのことだし、脳味噌の方はヒマにしているから、イロイロアレコレ考え事ばかりしている。
それから、法事などの仏事の前は般若心経を繰り返して発声練習をしたりもする。
最近の法事は朝が早くなりつつあって、どうしても声が出にくい。音楽は好きな方だと思っているが、カラオケでガンガン歌うようなタイプでもないし、どちらかといえば日頃は声帯を使うこともなく無口を通してコツコツ彫刻制作に励んでいる部類に属している人間にとっては、約2時間近い法事のお経はとってもとっても疲れてしまうのだ。

移動の途中で思いついて、東京での一人暮らしが本格的にスタートしたキーポンへ電話をしてみた。水は出るけどお湯が出ないと言っているから、きっとガスの元栓が閉まっているのだろうと直ぐに気づいたが、今までの彼女は何事もだいたい前準備が出来てからあとに絡んでくることばかりだったから、そういう単純なことにも気が付かないままでいたのだろう。そのあたりは、何処かの誰かと似たようなものだ。それでも、彼女なりの対応策も考えていて、特に不自由はしていないようだし、まぁ、こうやって少しずつ一人暮らしが普通になって慣れていくのだろう。
なっちゃんは、高校から一人暮らしをはじめて何度も引っ越しを繰り返しているベテランだし、ノッチも高校から親元を離れて暮らしはじめて、海外暮らしも含めてトランクひとつの引っ越しには慣れているし、そういうお姉ちゃんたちが近くで暮らしているから、キーポンはかなりの幸せ者だ。

帰宅して夕食を始めたのは22時を過ぎていた。
ウエブニュースを見ていたはずなのにいつの間にか寝ていて、気がついたら朝になっていた。例のごとくクロに起こされた。

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キーポン一人暮らしスタート 

2017/03/24
Fri. 22:29

ワイフの新しい赤い中古車(名前は知らない)は、なかなかスグレモノだった。
キーポンの引越荷物を一回で全て積み込むことが出来た。
お母さんの収納タップリ新しい赤い中古車。
お父さんの念入りな引越荷物の梱包。
それに、キーポンのプロ並みの確かな積み込み技術。
吉田家3人の華麗なる連携プレーが実に見事だった。

島根の何時も彫刻運搬でお世話になっている運送屋さんへ持ち込みして、キーポンが別便で移動して現場待機。予定の時間ピッタリに引越荷物が到着して、アッという間に荷降ろし完了。
厳重にラップでぐるぐる巻きにした布団などの梱包を解いたりさり気なく整頓したりして、残るはオヤジ手造りのコタツを組み立てるくらい。

お父さんもお母さんも島根での用事があってキーポンの引っ越しに付き合えなかった。
中学校から高校を卒業するまでの6年間を吹奏楽で過ごしたから、年に何度となく楽器の積み込みで引っ越しのような重労働を経験していたことがこういう時に役立ったようだ。
部屋にはエアコンもあるが、ホームセンターの格安電熱器を取り付けたオヤジ制作のコタツの方が若干電気代も安いだろうから、まずは木ねじでコタツを組み立てるところから彼女の一人暮らしがスタートした。
プラスのドライバーが必要で、アチコチ探した挙句、ヨドバシカメラでグッドデザインのドライバーセットを買ったようだ。こういう工具が一組あるだけでも日常の暮らしが随分楽になる。なかなか良い買い物をしたと感心した。
久しぶりにワイフと二人水入らずで夕食をとっていたら、キーポンから絶え間なくLINEの着信があった。その中に、部屋の様子や組立ったコタツの写真が送られてきた。
フローリングを傷つけないように応急処置で鉄製の足に梱包で使ったラップが巻きつけてある。なかなか良い思いつきだ。
吉田家の自宅では、一日中ゴロゴロして何もしなかったナマケモノが、こうして一人になると結構こまめに立ち働いて色々とやりくりしているようだ。

急な仏事が次々と入って、予定の仕事が後回しになって苦労している。それでも、やっと少しばかり先が見えるようになって、来週早々には関係各所へ提出できそうなところまでになった。
今週末には、保賀地区自治会の年度末常会もある。
4月に入ったら、倉敷児島のイベントへ設置してある彫刻を搬出することになる。それが終わったら、万善寺法類の遷化された東堂さんの本葬があって、それから1ヶ月後には、新命住職の晋山式がある。近所の寺では弘法大師の縁日法要で塔婆回向をすることになるし、憲正さんの3回忌もある。アッという間に春が過ぎて梅雨になりそうな勢いだ。
梅雨が終わる頃に長女のなっちゃんの結婚式がある。そろそろ衣装合わせなどしているようだが、和服にドレスに和洋折衷神仏混合なんとも現代日本らしい披露宴になりそうだ。

その頃にはキーポンの一人暮らしも慣れて落ち着いていることだろう。

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石見銀山小春日和 

2017/03/22
Wed. 19:33

昨日は冬が戻ってきたような寒い1日で、晩酌も日本酒の熱燗にしたくらいだ。
冷え込んで寒いからシッカリとシュラフにくるまって寝ていたらどうも寝苦しくて目が覚めると、石見銀山の町並みはすでにほんのり明るくなり始めていた。
気がつくと、クロが私の足元で丸くなって寝ている。寝苦しさの原因がわかった。

銀山街道はいつも以上に朝もやが濃い。
多分、この様子だと今日は暖かく春らしい1日になるだろうと予測しながら結界君を走らせた。
2月のはじめから続いていた七日務めがやっと大練忌(49日)を向かえる。
すでに法事の方は少し前の親族が集まりやすい頃合いを日程に組んで終了している。それでも、正規な満中陰は、それはそれで大事な意味もあるし、施主さんの都合に不具合がなければ菩提寺として区切りのお経をあげさせてもらうことにしている。
お経が終わってから、お仏壇の荘厳を整えて、香華灯明などの配置や湯茶仏飯などのお供えのことなど、ひと通りお話をさせてもらった。

「お昼は何時くらいになるの?」
珍しく自宅を出る時ワイフが聞いてきたから何事かと思っていたら、夕方出発の高速バスでキーポンが上京するのだという。アパートも決まって、これから引っ越しや職場の社員研修の日程のこともあって、本格的にキーポンの一人暮らしがスタートする。
これで吉田家の子供たちが全て社会人になった。
出発前のお昼ごはんは何が食べたいかと聞いたら、「お母さんのつくったハンバーグ!」ということになって、家族水入らずの昼食にするために私の帰宅時間が気になったようだ。
あいかわらず、ワイフのハンバーグは絶品だった。何処かのファミリーレストランよりズッと美味しい。調子に乗って2個も食べてしまった。

駐車場でレシート太りした財布からお札を2枚引き出して手渡した。
多分、上の子供たちにはそんなこともしなかったはずだ。やはり、なんだかんだ云っても末娘は可愛いものだ。もちろん、他の子供たちもそれぞれ可愛いのだが、オヤジもそれなりに歳をとってジジイになったということなのかもしれない。

母娘を見送ってから、クロと一緒にしばらくストーブに暖まってボォ〜っと過ごした。それから、気持ちを切り替えてコタツ兼用のデスクとその周辺(つまりコタツの周囲)へ書類を広げた。それからキース・ジャレットのマイ・アルバムをシャッフル再生した。そのリストにはワイフの彫刻タイトルになっている「Birth」も入れている。
ゆったりしたバラードが心地よい。
ワイフは日常であまり音楽を聴かない。テレビが大好きで目覚めると直ぐにテレビのスイッチを入れる。彫刻の制作中もテレビがつきっぱなしだったりしている。結局耳にも目にも入っていないのだろうから、どうせだったらイメージの膨らむ音楽でも流しながら制作したほうが彫刻のレベルアップになる気がするんだけどなぁ・・

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オヤジ道中記〜ラムの焼肉〜 

2017/03/21
Tue. 15:45

最近数回続けて同じ夢を観た。
だいたいの夢は、目覚めて気がつくといくら思い出そうと頑張っても、その内容のカケラも思い浮かばないほど忘れてしまっている。そんな自分が、自分の見た夢を覚えているということは非常に稀で珍しいことなのだ。

まだ小学校にあがったばかりくらいの少年が、山羊の乳で造ったプリン(だと思う)を食べている。
プリンの容器は、小ぶりの磁器雑器の煎茶茶碗が代用されていて、それを小さな菓子皿に伏せて何度かイジイジと揺すったりしていると、中のプリンがプルンとお皿に出てくる。形は煎茶茶碗がひっくり返ったというか、皿に茶輪を伏せた感じ。それを、大量生産のプレス型で打ち抜いて整形した安っぽいステンレス製のスプーンでスクって食べている。スプーンの形に切り取られた断面の端っこが粘っこく伸びて、やがてちぎれて欠けたプリン本体がしばらくのあいだ皿の上でプルプルとゆれている。その様子を見ながらスプーンをパクリと咥える。独特の生臭くて野性的な味が口の中に広がる。なかなか旨い。
それが延々とリピートされるという夢なのだが、そのプリンの味まで覚えているというか感じているというか、とにかく、プリンを食べるという行為のその一連の状況を現実の出来事のように鮮明に記憶している・・・という、ある意味奇妙な夢を何故か連続して観た。

銀山街道を往復している時に、その夢のことをふと思い出した。なぜプリンの素材が山羊の乳なのか?なぜその山羊の乳なるものの味を自分が覚えているのか?そして、そのプリンを食べている少年は間違いなく自分自身だということ。
古い記憶を手繰ると、保賀の谷の林道を登っていった先にある家で山羊を飼っていたということと、小学校の下校途中にまだ現在の国道が出来る前の昔の砂利道だった国道脇にある掘っ立て小屋に捨てられていた子山羊を見つけて、かわいそうだからと約1kmの距離を寺まで抱きかかえて帰った(結局飼うことはできなかった)ということを思い出した。
それらの出来事は吉田少年にとって、成長の過程の通過点の些細な出来事くらいのものだったのだろうが、山羊というキーワードからは、その程度のことしか心当りがなかった。

東京で半年ぶりにノッチと逢って飲んだ。
昨年に帰国してから、そろそろ1年になる。やっぱり生身の娘と飲んだりすると、時々思い出したようにSNSの会話で盛り上がる程度の距離感が、一気に縮まる。この1年近くの間に大人のオンナになった気がした。色っぽくなったと云うより、分別のある社会人になったと云う印象だ。傍目にはいつまでも落ち着かなくてプラプラ気儘にその日暮らしをしているように見えるかもしれないが、父親としては、親娘の距離が少し遠くなったように感じて、それが彼女の人格の成長だと錯覚したのかもしれない。
彼女が池袋のお店を予約してくれて、ラムの焼肉をたらふく食べた。実に美味かった!
「あっ!ヒョットして、山羊のプリンの夢のネタ元はラムの焼肉かも知れない!」
一瞬、そう思ったが、山羊と羊は、まぁ似ているといえば同類のようなものだろうけど、まさかそれと夢とが重なったとも思えないし・・・なぁ〜・・

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正福寺再中興大和尚遷化 

2017/03/20
Mon. 23:59

東京では都立美術館の展覧会が、飯南高原では万善寺のお彼岸が、それぞれ終わった。
これで、吉田の春の大きなイベントを乗り越えた感じだ。

石見銀山の吉田家を8時に出発した。
石見銀山の町並みから出てすぐに結界君の燃料が少ないことに気がついた。1週間位前から少しずつ油価格が値上がりしはじめて、給油1回で5000円を越えるようになってきた。
49日までの七日務めが結構財布に響く。下世話な話だが、七日務めにお布施が出ないことが多い。飯南高原あたりだけのことかもしれないが、こういう地域オリジナルに近いような慣習は、坊主にとってかなり厳しく生活費を圧迫する。一般の各種職業のように、必要経費と割り切って別途請求するのもはばからられるし、現実はなかなか厳しい。
春彼岸の法要は、15名弱のお参りを頂いた。
毎年のことだし、万善寺オリジナルカレンダーにも年間行事が記載してあるから、とくに改めてご案内する必要もないことのはずなのに、万善寺お檀家様各位は彼岸仏事にあまり関心がないようだ。それぞれ各家でお墓参りくらいはしていただいているものとささやかな願いを込めて法要をおつとめした。

今年は先代住職の憲正大和尚3回忌の法要がある。
昨年は、記念事業として憲正さんの墓石と舎利棚殿を建立し1周忌を厳修した。
今年は、永代供養塔を建立し、ひとまず、憲正さんの報恩仏事として3回忌を厳修する。
これらの事業は、お檀家さんとは一線を画してすべて現住職である吉田正純とその家族で取り仕切る。本来は、万善寺運営役員会で協議してもおかしくないほどの大事業であると思うが、人の頭の数ほど人の考えも口もあるから、そういうことでモタモタするのも性に合わないし、ひとまず自腹を切って5カ年計画くらいで借金を返せればいいかなくらいに思っている。それでも、総額は高級な新車が1台買えるほどのかなりのものになるし、いつまでたっても家族に辛い思いをさせてしまって心苦しい。

上野の都立美術館へ彫刻搬入と展示が終わったのを見ていたように、万善寺法類(親戚寺)から訃報が入った。憲正さんの弟弟子に当たる東堂(住職を引退された前住職)さんが遷化(死亡)されたという。
生前の憲正さんは、何かとその弟弟子の方丈さんを頼っていた。私も、ついつい甘えて頼ってしまったりして随分お世話になっていたし、現住職さんには、憲正大和尚遷化以来本葬に到るまで葬儀仏事全てを取り仕切ってもらって随分助かった。
展覧会のオープニングから2〜3日は都立美術館の会場へ出かけようと思っていたが、急きょ取りやめてとんぼ返りした。それでも、枕経には間に合わなかった。
翌夕方からの通夜から引き続いて密葬、荼毘、拾骨までお付き合いさせてもらった。

新聞を読まなくなって久しいが、彼岸法要にお参りの檀家さんから、島根の地方紙にその東堂さんの本葬日程が掲載されていたと聞いた。
憲正さんの本葬は檀家葬で散々にお世話になっているから、おかえしも兼ねて、せめて万善寺檀家役員の皆さんくらいは万象繰り併せて参列して貰いたいものだが・・・

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オヤジ道中記〜キーポン卒業〜 

2017/03/20
Mon. 03:18

東京から帰って以来、毎日改良衣や大衣を着ていて、1日中帯を締めない坊主の自由服で過ごしたのは久しぶりのことだった。
その日はキーポンの卒業式であり、石見銀山にある今では全国でも珍しい昭和の木造校舎が現役で使用されている大森小学校の卒業式でもあった。

吉田家は、私が学校評価委員なる立場で、ワイフが民生委員なる立場で、毎年それぞれ式に来賓招待されていて、どんなに都合が悪くてもだいたいどちらか一人がやりくりして出席をさせてもらっていた。それが、今年はキーポンの卒業と重なってしまって二人して欠席になってしまって、とても残念なことだった。
全校児童20名を下回る大森小学校の卒業式は、少ない児童数だから出来る対話式の演出がされていて、それがとても感動的だ。
世間で常識的な代表の送辞答辞がなくて、1年生から6年生までの児童一人一人が自分の思い出を大きな声で発表し、まるでミュージカルのような全員の合唱に続く。
卒業式や入学式がない年も時々あるような極小規模の小学校だから、子供も大人もよけいに練習に力が入って、濃縮されて熟成された夢のような世界が木造の体育館に満ちる。
吉田家の4人の子供たちは全員その大森小学校を卒業して、このたび、最後の末娘が同じ日に卒業式を迎えることになったわけだ。

早朝に石見銀山を出発して、雪の大山を横目で見ながら少し余裕を持って鳥取の倉吉へ着いて、お世話になっていた学校の寮へ挨拶に回ってから卒業式の会場へ向かった。
倉吉は昨年に大きな地震があって、いまだにその後遺症が残っていて、アチコチでブルーシートの屋根が目につく。地震の直後は市内の給食センターが機能しなくなって、急きょ、キーポンの通う学校の調理室を開放して急場をしのいだということだ。余震も頻繁で学園祭も中止になって、急きょ帰省することになったキーポンを迎えに行った時は、歩道のインターロッキングが液状化現象で波打っていた。あれから約半年後にその同じ場所を通過すると、あの時のことがウソのように改修されて元の風景に戻っていた。
倉吉には彫刻の作家も暮らしていて、地震からあと、なかなか連絡がつかないままでいたが、先頃やっと消息が確認できて少し安心した。

卒業式に続いて謝恩会やクラスのお別れ会などがあって、その間ワイフと二人で車中待機した。私は、多分こういうことになるだろうとおおよそ予測してデスクワークの準備をしておいたから待機時間が全く苦にならなかった。
日本海へ沈む夕日の見えるパーキングまで移動してAppleMusicでラムゼイ・ルイスのアルバムを見つけてiPhoneからBluetoothで飛ばして垂れ流しながらラップトップをつついた。昔は「なんて軽くてつまらんジャズだ」なんて思っていたが、今はそうでもないし、むしろ懐かしく感じたりする。歳をとったせいかもしれない。

キーポンが助手席へ滑り込んできたのは夜の10時を過ぎていた。それから石見銀山まで約2時間半。自宅前の駐車場に到着した時はすでに日が変わっていた。
ほぼ一日中座りっぱなしで見事に足がむくんだ。

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オヤジ道中記〜東京都立美術館〜 

2017/03/18
Sat. 12:39

隔年開催の春季展へ先週のはじめに彫刻の搬入をすませたのに、もう搬出の日が迫っている。その搬出の方は、島根県彫刻界の新進気鋭ホープ作家周藤豊治氏が行ってくれる。

私にとって春の展覧会は、公私を含めて日程の調整がとにかく難しい。
作品発表の場が東京の美術館に集中することが多いから、島根県のように東京から1000km近く離れていると、こうして、何人かの同好の士が周辺にいてくれないと、年々歳を取る一方のヨレヨレ彫刻家としてはとても彫刻制作や展覧会を継続できるものではない。

最初の展覧会らしきグループ展に誘われて銀座のギャラリーへ作品展示させてもらったのが、確か22〜23歳の時だった。
その頃は、強い意志を持って何かしら作品発表を継続しようと決めていたわけでもなかったが、気がつけば毎年何かしらの展覧会らしき作品発表が続いていて、結局、この歳になるまでしばしも絶えることなく制作を続けることが出来ていた。
もう、ここまでくると自分のライフワークの一つと踏ん張ってみるのも良いかもしれない・・・と、具体的にそう思うようになったのは2010年の春だったと記憶している。

石見銀山が世界遺産認定登録されたのは2007年だったはずだ。
その2〜3年前から周辺がとにかく騒がしくなって、昼夜公私を問わず、何処かで何かの世界遺産認定に関連した会議とか説明会とか研究会とかイベントとかが開催されていた。
石見銀山のど真ん中で、それなりに緩やかなスケジュールをこなしつつ、つつましく静かに彫刻の制作や発表を続けていた私も、いつの間にか流行性感冒の熱に感染したかのように世界遺産の熱に飲み込まれてしまっていた。
それまで、普通に楽に石見銀山町内の好きなところへ彫刻を設置させてもらっていた(もちろん、地権者の承諾を得てのことだけど)し、町内で美術の展覧会が出来ていたのに、急に文化の規制が厳しくなって彫刻家の住みにくい町になった。
規制の根拠としては、過去の文化遺産を保存し後世に伝えるうえで、個人の文化活動が時代考証や地域文化伝承の妨げや弊害になる可能性が高いと判断されたわけだ。
個人の文化活動は趣味の延長とか大衆の文化祭くらいに留めておけばそれが妥当だくらいにしか認識されないことへのいきどおりを強く感じた。
彫刻の制作で、彫刻のかたちを借りて自分の今を表現させてもらっている私としては、そういう、一部の硬直した官民一体のまずは世界遺産保全ありき的不透明で希薄な寄生虫のような管理体制に対して、あくまでも自分の彫刻表現で抵抗するしか無いと決めて、現代彫刻小品展を石見銀山で立ち上げたのが2010年だったわけだ。

都立美術館がリニューアルオープンして、久しぶりに彫刻展示を手伝わせてもらった。
学生時代からお世話になっている思い出深い美術館だったが、ほとんど変わらない外見に対して、あまりにも大きく様変わりした管理システムには驚かされた。
美術館という器は、やはりそこに美術芸術表現をもって参集する作家の資質に、毅然として、且つ包容力を持って対峙するくらいの度量が欲しい。
石見銀山しかり都立美術館しかり、担板漢的類友の衆には心底疲れる・・・

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オヤジ道中記〜シェーキーズ〜 

2017/03/17
Fri. 20:04

吉田家の子供たちは長男を除いて、すべて関東で暮らすことになった。
長女は結婚して埼玉県人になった。
次女は今のところ東京で暮らしているが、また何処かへ移動するかもしれない。
三女は先日職場が決まったばかりで、その近所で暮らすことになった。
何故か、長男は島根県が好きなようで県内のアチコチをウロウロしている。ヒョットしたらそのうち石見銀山へ帰ってくるつもりでいるのかもしれない。
まぁ、そんな感じでひとまず私とワイフの波乱の子育て人生が一段落したと思っている。

キーポンは、就職先が決まってからあと配属先が不確定のまま時が過ぎていたのに、都合良くというか、運良く(または運悪く・・)というか、ちょうど私の彫刻搬入展示終了を狙ったように職場決定の連絡が入って、その流れで一緒に家探しをすることになった。

吉祥寺を彷徨いていたらシェーキーズを見つけた。
シェーキーズというと、18歳で上京して東京暮らしをはじめてから「ピザ」なるものを産まれて初めて食したのがシェーキーズだった。
あまり正確に覚えているわけではないが、確か最初に入ったのは新宿のシェーキーズだったと思う。お店のドアを開ける前から賑やかなデキシージャズが漏れ流れていた。それまで、食事をしながらデキシージャズの生演奏を聴く機会などなかったから、ピザの味も含めて何もかも全てが初体験で、身も心も震えた。
誘ってくれた友人が勧めてくれたフライドポテトはスパイスタップリでホクホクで確かに美味かったし、当時はフライドチキンもメニューにあったはずだ。
一人暮らしの貧乏学生には、しょっちゅう出入りできるお手軽な店でもなかったが、それでも何かの節目だったり、アルバイトの給料日だったりすると、周囲の何人かで誘い合って生バンドのステージ2回ぐらいは長居をしていた。
マクドナルドも上京して18歳の春が初体験だったし、吉野家の牛丼もそうだった。そうそう、ハンバーグは昼バイトを始めた喫茶店のランチタイムではじめて食べた。
とにかく、田舎の山寺で生まれ育った少年は、18歳を過ぎてはじめて食した食べ物が他にも上げればキリがないほど山のようにあったことになる。
いまだにこの年齢になってもジャンクフードが大好きなのは、その頃の食体験があまりにも衝撃的であったからかもしれない。

吉祥寺のシェーキーズは、さすがに時代の流れを感じた。それは、スイーツのような具材のピザが増えたこと。新宿の頃のサラミとかイカ・エビの海鮮とかハムトマトとか、そういう、ある意味定番ピザのようなトッピングが少し減ったような気がする。
それに、客層が変化したようにも感じた。これは吉祥寺という土地柄のことも影響しているかもしれないが、(良く言えば)少し個性の強そうなオジサマとかオバサマがお一人で来店されること。そういう方が隣の席に座ったりすると、純朴な田舎者のチキンオヤジは少々ビビる。
それはさておき、なにわともあれ、いまだにピザというと、やはりあの薄くてペタンとした生地のアメリカンクリスピーピザが一番好きだ。

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オヤジ道中記〜上野の餃子〜 

2017/03/16
Thu. 23:51

石見銀山でもみぞれが降るくらいだから、夜のうちからかなり冷え込んだ。
このところ、いやに規則正しく1週間毎に冬型の気圧配置が巡ってくる。
それを待っていたように、万善寺の仏事や彫刻の用事が重なってしまって、雨男や雪男に変身しながらときどきの用事を粛々と片付けている。

ボクの結界君は、すでにスタッドレスタイヤを脱いでいるから、ワイフの新しい中古車トヨタ(車種名はまだ覚えられていない)を借りて飯南高原へ向かった。
銀山街道のいつものあたりで道に雪がたまり始め、周囲は一面雪景色に変わった。
3月のこの時期に降る雪は水分をたくさん含んでいてすぐ消えるから、それほどおおごとになることもないのだが、この近年続いていた暖冬に自分の身体が慣れてしまっていて、久しぶりに巡ってきた平均的な冬気候へ順応できないでいる。

吉田家は、キーポンの引越し準備と、ワイフの年度末資料の数々と、焚きつけの廃材と、洗濯物の山と、若干のネコチャンズグッズが散乱して、足の踏み場もない状態である。
私の方は、相変わらず落ち着かなくて慌ただしい毎日を過ごしてはいるが、基本的に暇なことに変わりなく、1日に2〜3時間くらいの家事時間を確保するくらいは簡単なことで、部屋の片付けくらいは直ぐにできるのだが、我が家の女性方からのそういう依頼は皆無に近い。理由は簡単で、ようするに私に片付けを任せてしまうと、「何処に何を片付けたのか分からなくなるから嫌なのヨ!」ということで、とにかく「自分の都合で勝手にアチコチ触らないで!!」と、まぁだいたい叱られてしまうから、乱れまくった吉田家の現状をひたすら見て見ぬふりで過ごしているところだ。
たぶん、それもあと少しの辛抱で、キーポンの引っ越しが終われば、今よりは若干改善できて平和な日常が戻るはずなのだが・・・その時が来てみないとなんともいえない。

先日の上京の折に、都立美術館の搬入が終わったあと、手伝ってくれたキーポンと上野公園を御徒町方面へ下って、京成上野駅の不忍池側にある蓬莱閣で昼食をとった。
蓬莱閣は、学生の頃からの思い出深い中華料理店で、上野界隈の用事があって、お昼時に時間の余裕がある時は、不思議とそのお店に足が向いてしまう。
店の様子は、レジの場所からテーブルや椅子の種類や配置まで30年以上も前から全く変わっていないし、メニューも同じように思える。
「この椅子、すごくグラグラ揺れるんだけど」・・・そんなことを言っているキーポンも、すでに何回かこの店で五目そばや餃子などを食べている。
唯一、昔と違うのは料理の味。少なくても、私が確認できているだけで4回は味が変わっている・・・ということは、料理人の代替わりがあったということ。
学生の頃に食べていた蓬莱閣の餃子は、他のどの餃子とくらべて別格だった。
あの頃は、小さめサイズの餃子が6枚皿に乗っていた。その後、巨大な餃子が3枚になって、また小さめサイズ6枚に変わって、今回は大きめサイズ6枚が皿に乗って出てきた。
そのたびに餃子の味が違っていて、それはそれで仕方がないことだし、不味くて食べられないわけでもないし、むしろソコソコ美味しかったりもして、納得もできる・・が、やはり、何と言っても学生の頃に食べた初代餃子はなんとも美味かった。

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オヤジ道中記〜プロローグ〜 

2017/03/15
Wed. 19:16

こんどの冬シーズンは、いやに正直で真面目に寒気団が繰り返して南下してくる。
そのたびに飯南高原では雪が降って一面白く染まる。
1週間前も南下した寒気に悩まされて東京の展覧会に向けて準備していた色々なことがつまずいた。幾つかの不具合もあって心身ともにかなりダメージを受けたが、とりあえず展覧会の展示までは終わらせることが出来た。
相棒の結界くんも、若干のオイル漏れに苦しみつつ良く健気に頑張ってくれて、無事に上野の都立美術館往復約1800kmを走破してくれた。

東京で就職が決まったキーポンが一足先に上京していて、その流れで配属先も決まった。
父親としては、そこまでは「良かったよかった!!」と目出度いことで浮かれていたのだが、研修も終わって美術館の展示を手伝う予定だったキーポンが結局遅刻した。
慣れない東京で、山手線に乗り間違えたのだろうくらいに思っていたら、指定銀行へ口座を作ったり、配属先周辺の最寄り駅とソコから徒歩10分以内の圏内で◯◯円以下の宿舎を探せとかなり厳しい条件を提示されて、指定業者さんへ連絡したりしていたらしい。

もう、半世紀近くも前のことだが、一応ワタシも東京暮らしを経験しているから、こんなオヤジでもいないよりはマシだろうと、急きょ宿探しへ付き合うことになった。
お彼岸が終わるまでには住む場所を決めて、家財道具などの引っ越し搬入を済ませておかなければいけない。職場の事情もあるだろうが、個人の事情は完全に無視された状態で容赦がない。もっとも、思い返すとそういえば私の場合も似たようなものだった。

吉田家の上の3人の子供は、もう少し楽に余裕があった気もするがよく覚えていない・・というより、あの頃は私自身も務めに拘束されて身動きがとれなかったから、子供の方ではじめから父親を抜きにしてコトを進めていたのかもしれない。そうすると、末娘のキーポンはそれなりに楽をしているのかも知れないが、いずれにしてもやはり、こういう時は身内や親に頼るしか仕方がないことだから、ワザワザこちらからシャシャリ出るつもりもないが頼られるうちはできるだけマメに付き合おうと思っている。

今更どうでも良いことだが、「ブログ」の定義をウィキペディアでチェックしたら、「ログ」とは「記録」という意味で、Web上でLogするWeblogが略されてBlogになったようだ。
私がそのブログなるものを始めたのは2010年の1月からだった。
その頃はまだ島根の片田舎に暮らす自分の周辺でブログ記事を公開している人は殆どいなかったと思うが、それからアッという間に世間へ広がって、またそれからしばらくしてツイッターやフェイスブックが登場して、少し前からLINEが加わって、還暦を過ぎたジジイとしてはとてもややこしいことになってしまった。
私自身は、自分の備忘録的データの記録として、とても都合よくブログを利用させてもらっているが、この度のように日々の記録が追いつかなくなってしまうと、途端に幾つかの時間軸に狂いが生じて収集がつかなくなってきた。
多少前後するが、記憶が薄れないうちに根気よく先週の出来事を整理しておこうと思う。

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早朝の富士山 

2017/03/14
Tue. 15:13

数少ない(たぶん、それなりに暇な)吉田ブログ訪問者の皆様・・・お久しぶりでございます。

吉田本人は、この1週間がクソ(失礼!)忙しくしていて、アッという間に過ぎてしまった・・・と思っていた。
とにかくこのブログが存在するのも、限りなく暇に過ごすひとときが1日のうちにだいたい1〜2時間くらいあるからダラダラとほぼ毎日続いているだけのことだから、いつものことなら、その無駄な時間も無いほど忙しいことなどありえないことなのだ!・・・と思って、1週間を振り返ってみたら、何のこともない、結局、ただひたすら結界君を運転して、バカバカ飲み食いして、グースカ寝て、「腰が痛い」とか「膝が痛い」とか「目がかすむ」とか「ムネヤケがする」とか文句ばかりたれて、気がつけば2〜3kg太ってしまっていたという、なんともいつも通りの自堕落な生活が過ぎていただけのことだった。

さて、ことの始まりは・・上野の東京都立美術館で隔年開催される春の展覧会へ彫刻の小品を制作して搬入出品するという、彫刻家吉田正純の一見計画的と思えるだけで実態は無計画この上ない行動だった。
それは、ボクの身勝手な勘違いからスタートした・・・
「マッチャン(ワイフのこと)、東京行きの予定決まった?」
「ワタシ仕事があるから行けないよ。あなたが彫刻搬入してくれるんでしょ?」
「えっ??キーポンも一緒に東京行くんでしょ?彫刻も積むからシート3人分確保しなきゃいけないし・・・」
「キーポンは、研修があるから先に出かけるよ。ワタシは仕事休めないよ!ネコチャンズもいるしね♡!」
「えぇ〜〜??そぉ〜なのぉ〜〜??」

上野へ出発の朝は、七日務めを3軒回った。
島根県の飯南高原は前の夜から今年何個目かの寒気が入り込んで雪が降っている。
片道1000km弱を走ることになる結界君へ、少し前の春めいて暖かな日にノーマルタイヤを履かせたばかりだし、またしても雨男ならぬ「雪男」パワー全開となってしまった。
その日は、何時もだったら2時間もあれば十分の用事が昼から2つほどあって、それを済ませながら東へ向かうことにしていたが、雪のお陰で予定がドンドンずれ込んで、確定申告の後半はワイフに託すことになった。
島根県や鳥取県をはじめとして、東京までの降雪地帯の道路情報を検索しながらルートを決めて、石見銀山の自宅を出発したのは結局夕方近くになってしまった。途中で共同搬入の彫刻を積み込んで、申告の結果を気にしつつひたすら広島県へ南下して雪のチラつく中国山地を越えて一安心。あとは、山陽道から吹田を経由して新名神へ入って新東名へ抜けた。早朝の富士山を観て少し元気が戻って、首都高から上野の都立美術館搬入ゲートへ到着したのは、9時30分を少し過ぎた頃だった。
彫刻を降ろしているとキーポンが手伝いに駆けつけてくれた。
キーポンは、就職も決まってこの春から東京で働くことになる。

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彫刻の抽斗 

2017/03/06
Mon. 09:25

構想350日の彫刻をそろそろ造り始めようと、完成予定日の15日くらい前から準備し始めていたら、万善寺の用事が次々に入り込んで、見事に出鼻をくじかれてしまった。

自分の今までの彫刻家人生で唯一、展覧会出品をドタキャンしたことがある。
あれは、島根県へUターンしてまだ5年と経っていなかった頃だったと思う。
先代住職の憲正さんは、50歳を過ぎた頃に大病を患ってそれ以降の生涯は、常に何かしらの病気と付き合いながら通院と入退院を繰り返しながら無理をしない程度に住職を続け、結局90歳近くまで長生きをした。
私は、その憲正さんの初期の大病を契機に東京暮らしを切り上げた。
島根の仕事に落ち着いて、「さぁ、そろそろ制作を再開しようか!」と準備をはじめて何年かアレコレと造形に取り組んでいるうちに気持ちが彫刻に傾きはじめて、それこそ、今回のように構想◯◯日を過ぎて材料の準備も整って、あとは実材にとりかかろうという頃合いを見計らったように憲正さんが手術することになって、そのドタバタでどうにもこうにもいかなくなって、ワイフと二人して制作を断念した。
当時の展覧会事務局などで忙しくしていた新進気鋭の彫刻家へ、その旨を伝えたら、「そういうことも想定して、幾つかの彫刻を造りタメておくくらいでないとダメだね!」と軽く一括された。
どんなに工夫しても都合の付かない事情はいつどんな時にどういう形でやってくるか予測不能だ。そういう事態に備えて、あらかじめ幾つかの善後策を用意しておくくらいの余裕が大事だと、痛感した。
同じ間違いは二度としないように気配りをするようになってから現在まで、幸いにも自分の個人的な事情で展覧会のドタキャンをしたことは無い。

私に付かず離れず寄り添って彫刻を造り続けているワイフも、最近は彼女なりのペースを組み立てて制作に取り組んでいる。
搬入の日時が迫ってくると、吉田家の二人の彫刻家はそれぞれがそれぞれの事情で日常をやりくりして制作を続けることになるわけだが、さすがに今回の私は、次々に予期せぬ出来事が巡ってきて思わず挫折しそうになった。
それでも過去のドタキャンの時の一括があった御蔭で、何かの時の彫刻を幾つか造り貯めているから、ずいぶんと気楽でいられる。

今回の新作彫刻は、急きょ当初の制作予定を変更して、メインテーマにつづいて用意してある幾つかの系統から一つを選んで直感的に形を造り上げた。
知人の彫刻家から、「吉田さんは幾つかの抽斗を持ってるね。それも必要なことだよね!」と指摘されたことがあるが、まさにその通りで、まぁ、次の個展でもする時のテーマにでもいなればいいなと密かに溜め込んでいるへそくりのようなものが入った抽斗の一つを開けさせてもらった次第。
構想350日の彫刻は、ひとまずその系統の抽斗の方へしまっておくことにした。
時々中を覗いたり引っ張り出したりしながら、次の制作の機会を待つことにする。
今日中にワイフの彫刻が完成するはずだ。明日は搬入に向けて島根を出発する。

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小品彫刻完成! 

2017/03/05
Sun. 07:13

先日、法事でお経が終わったあとに、少しほど仏教のお話をさせてもらってからお茶を頂いていたら、おくさんがいやにあらたまって「チョットご質問があるんですが・・」と身を乗り出された。
なにか込み入った話だと長くなりそうだなと思いつつ、にっこり笑って(顔が若干引きつっていたかも知れないが・・)「ハイハイ、なんでしょう?」と話を促すと、
「実は、実家が浄土真宗なんですが、私がまだ小さいときに家族で本山参りをして私の法名を頂いたそうなんです。禅宗の家へ嫁に入った私は、その法名をどうすればいいんでしょう?」
・・・なるほどそういう話かと、少し気楽になった。
この手の話というか、質問を時々受けることがある。

私の場合は、ひと通りお話を聞かせてもらって、大きな問題がなければだいたい次のように答えている。
「ハイ、それでは、法名さんを戒名さんにさせていただいて構いませんよ。あなたがそれで良ければ??」
ひとまずは、そのくらいのことで話題を濁しておくと、それなりに安心されるのだろう、だいたいどなたも表情が少しほど柔らかくなって、ホッとされるようだ。

万善寺は、その起源が尼子系の郷士にあったようだから、浄土真宗の信者でもあった毛利家の侵略にあっても、改宗をしないまま現在に至ったようである。
戦国の世の古い頃のことだから、農閑期になると領地を奪い奪われる小競り合いがはじまって、農繁期が近づくとお互い休戦協定を結んで田畑の仕事に従事するというような、武士と百姓が混ざりあった暮らしをしていたのだろう。
そんな連中の領地争い程度のことで、宗派の違いが絡まった宗教戦争に発展することもなかっただろう。
毛利さんの方が少しほど偉かったのかもしれないが、自分の領土を増やしつつ、一方で侵略した先々のお寺に乗り込んで坊主相手に改宗を迫った様子が伺える。ようするに、何かと口うるさく、話の上手い坊主の口を塞いでおけば、その寺周辺の庶民もおとなしくなるし、土地を治めるには都合がいいと云うわけだ。
広島県から島根県の山間部一帯に浄土真宗の寺が多いのも、だいたい毛利さんの勢力圏に重なっているから、当たらずと云って遠からず・・といった気もする。
厳密に難しく云えば、法名と戒名はその意味が違うから使い回しをはばかられることでもあるが、坊主本人が心得て飲み込んでおけばそれで十分だと私は思っている。

工場で彫刻を造りながら、そんなことを思い出していた・・・というのも、今度、島根県の県境を越えて浄土真宗さんの多い広島県のお檀家さんへ法事で出かけるからだ。
坊主家業をボンヤリ思いながら仕事をしていたら、あと一歩のところで溶接の手順を間違えるところだった。その1つのミスで制作時間が一気に伸びる。実に危ないところだった。
気を取り直して、集中し直して、夜の9時過ぎ、無事に小品彫刻が完成した!

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ひな祭りの日本海 

2017/03/04
Sat. 08:36

絶不調ながら、自分の周辺で流行中のインフルエンザではなさそうなので、それなりに不幸中の幸いということで片付けてはいるものの、不調であることには変わりなく、頭もシャンとしないし身体も思うように動かないしするので、なかなか思考がまとまらないまま、彫刻を見切り発車することにした。

石見銀山のバイパスを走っていたら、T字にぶつかる脇道から2台の乗用車が本線へ出ようと一時停車していた。
目の端にそれを確認しながら運転していると、最初の1台がかなり強引に結界君の前に入った。それに釣られたように、2台めがフラフラと本線に入りはじめてくる。
誰がどう考えても、このままだと完全な衝突事故になる。
結界君は、年期の入った平成時代初期の貨物車で、かろうじてエアバックを装備しているもののABS装置など搭載していない。
その脇道は、ちょうど大きなカーブの頂点あたりで本線に合流している。
私の方はハンドルを少し右に切っているし、このままブレーキを踏むと自分がスピンしてしまいそうでヤバイ!
とにかく、2度3度と断続的にブレーキを踏みながら後続車へ事態の異変を知らせつつ道の真中で停車した。
脇道からフラリと出てきた乗用車は、ニットの帽子を目深にかぶってオシャレな細縁のメガネを掛けたおばさんだった。
彼女の視線は進行方向から左に向いたままで、左へ曲がる気満々。
本線を右から走ってくる車などあるはずが無いと、確信しているふうだ。
ここで、怒りに任せてクラクションを鳴らすなどしてら、そのおばさん完全にパニックになってその後どうなるかわからないし、それも面倒だから、とにかく冷静にピクリとも動かないで眼前の事態が回避できるまで待つことにした。

その後、何事もなかったようにことごとく行く先々私の前を走り続けた乗用車は、町道の四つ角で停車したままなかなか動かなくなった。どうかしたのかとイライラしながら後ろで待っていたら、しばらくして右から1台の車がやってきて目の前を通り過ぎた。
そのおばさんは、今度は随分遠くから走ってくる車が通過するのを待っていたようだ。
あぁいうドライバーが一人いるだけで、どれだけの人間が迷惑していることだろう。
場合によっては、本人の知らないところで何台もの車が事故に巻き込まれているかもしれない。

それでなくても、体調が思わしくない上に、無駄に気疲れしてしまった。
素直に工場へ行く気になれなくて、そのまま日本海を目指した。
玉石採集をしているいつもの海岸は、直前に漂着物の清掃を済ませたようで、ゴミの山が駐車場の周囲へうず高く積み上げられていた。
見渡す限り玉石の海岸だったひところに比べるとかなり砂浜の面積が広がっていた。
見た目には春が近づいているふうだが、まだまだ北西の風が強い。
波が玉石の間際まで打ち寄せている。

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四寒三温 

2017/03/03
Fri. 09:30

島根の私周辺は、まだまだ三寒四温というより四寒三温状態で、結界君のスタッドレスタイヤをいつ取り替えようか、判断を悩みながら毎日を過ごしている。

息子の言うことを「聞かない」というより、「無視」して自分の我がままを通し放題の母親が近所の診療所へ通院するので、寺まで迎えに行った。
境内は、屋根から落ちた雪が圧雪の山になっている。
母親は、少し暖かくなって春めくと、鉄のスコップを持ち出してその山を崩しているようで、庭のアチコチにその痕跡が残っている。90歳を過ぎてなんとも元気がいい。
一方、30歳も若い息子の私は、岡山の往復や倉吉からの引っ越しや、先日の吉田家前駐車場の整備などで体力を消耗した上に、万善寺周辺で葬儀がたてつづけに3つもあったものだから、完全に体調を崩してしまった。
2〜3日前から、調子が思わしくないなぁと感じながら無理をしていたら、遂に、昨日になって弱っている身体へ風邪が入ってしまったようだ。
飲み残しの風邪薬をワイフが探してくれて、それを飲んだら一気に睡魔に襲われて、気がつけば一夜明けた次の朝・・つまり本日の今だった。
食欲もないし、喉や鼻の奥にジワリと違和感があって、それに肉体疲労の節々の痛みも加わって、起き上がろうとすると背中から腰へ激痛が走る。
オヤジの体調不良を敏感に悟ったのか、いつも夜になるとベタベタ擦り寄ってくる猫のクロが、昨夜は姿を見せなかった。

現在も、二枚重ねのシュラフにくるまってミノムシのごとくイジイジと蠢きながら彫刻のことを考えている。
搬入まであと4日しか無い。そのうち1日は法事が入っているから実質3日で何か形にしなければいけない。
体調が崩れるまでは、確信を持ってある形を決めていた。今は、それが見事に崩れて頭の中の形がモヤモヤとゆれている。
たぶん、工場へ行って材料の鉄板をみると、気持ちが定まって制作の道筋が決まって、あとはチョークのドローイングのラインへ気持ちを預けてしまえば、なんとか形になってくれるとは思うのだが、それを何時から始めようか、そのスタートで気持ちがゆれている。

2ヶ月以上吉田家を留守にしていたから、そろそろ薪の在庫が無くなってワイフがストーブの焚付に苦労している。
調子が思わしくないまま、それでもまだ少しは身体が動いている時に、もう何十年も使っていた古い整理棚を2つほど解体して焚付に回した。
バラバラにするのに半日はかかったかもしれない。
最近のビス止めの華奢な家具などとは比べ物にならないほど丈夫に丁寧に出来ていて、解体するに一苦労した。
今あれだけの整理棚を求めたら、いくらぐらいで買えるのだろう。それに気づいたのは丸鋸を入れてしまったあとだったから、モッタイナイことをしたと、ひとしきり後悔した。
それでもダンボールに5〜6個分の焚付が出来た。大事に使わせてもらおう・・・

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小春日和 

2017/03/01
Wed. 23:40

今、ラ・ラ・ランド(「・」打つのが面倒臭い・・)のサントラ聴きながら、キーボードをプチプチ叩き始めた。

ノッチが、劇場へ観に行ったらしい。
「あぁ〜、観たいなぁ〜・・」と思いながら、サントラ聴き始めたら、ニューヨーク・ニューヨークを思い出した。
あの映画は、当時、酷評とまではいかないものの、あまり良い批評をもらうことができなかったと記憶している。
監督は、「沈黙」のマーティン・スコセッシ。ダブル主演は、ロバート・デ・ニーロとライザ・ミネリ。
ライザ・ミネリは、ミュージカルのプロ(そういう例えがあるかわからないけど・・)のような人で、メチャクチャ歌うまいし、演技も外さないし、安心して泣けた。
ロバート・デ・ニーロは、サキソフォン奏者でビッグバンドの指揮者の役だったけど、演奏の指の動きが違和感もないし、もちろん演技も最高だった。
マーティン・スコセッシは、だいたいに癖っぽい映画をつくる人だと思っているから、ニューヨーク・ニューヨークも、普通のミュージカル映画以上の何かがあるだろうと、どこかしら期待しながら観た覚えがある。
映画館は何処だったかなぁ???新宿のピカデリーかミラノだったような気もするが、良く覚えていない。

あの映画は何と言ってもテーマソングに尽きるだろう。それに、劇場で観た人にしか味わえない古色感というか、1950年代ハリウッド映画全盛期のスタジオミュージカル映画が蘇ったような、一見あざとく見えるほどのバレバレ描き割りが逆に新鮮で、高架線を走る電車なんか最高だったな。

まだ学生の勉強中で、やっと専攻専科の実技を本格的に習得し始めた頃だった。
自分の将来がどうなるのか、まったく想像もつかないし、どちらかといえば不安で暗い毎日を過ごしてきた時期だったから、才能のこととか、実力のこととか、運の善し悪しとか、周辺の環境や理解とか、悩み始めたらキリがなくなって、1日のほとんどを何か気楽な方へ逃避していた。
映画も逃避の手段のひとつだった。どこかしら悶々とする自分に元気をくれているようで、たいした才能もない自分が、ひとまずはなにかしら造ることを諦めないで毎日を過ごせたのも好きな映画に救われていたからかもしれない。

このところ小春日和の良い天気が続いていて、寺との往復も気持ちがいい。
昨年から延々と続いていた上隣の住宅工事がやっと終わって、工事関係者の車や簡易トイレや廃材置き場になっていた吉田家前の駐車場が開放された。想像以上の長期工事のおかげで、ストーブの薪運びや薪割りが出来なくて苦労した。
これからは、駐車スペースを2軒で使い分けることになる。
半日かけて薪を整頓したり草刈りをしたりして駐車場の整備をした。

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賑わいの吉田家 

2017/02/28
Tue. 23:54

寺暮らしを切り上げて石見銀山暮らしに切り替えたのは2月の中旬だった。
それから、気がつけば2月も終わって3月が始まる。
あまりに毎日が過ぎるのが早い。

結婚してまだ1年も経たない長女のなっちゃんが先日帰省した・・・が、離婚したわけではない。現在の仕事の出張を兼ねて帰ってきただけのことだ。
結婚したと云っても、すでにその1年くらい前から今の旦那(前の旦那はいませんよ・・・)がなっちゃんの部屋へ転がり込んで共同生活をはじめていたから、実質の結婚は2年前と言って良いかもしれない。
なっちゃんの当時をみると、ナント乱れたいい加減な暮らしをしているのだ・・と思うかもしれないが、オヤジの私が特別それでどうこう口を挟むことでもないと、平常心をとおしていた。
たまに用事で上京した時は、旦那も呼び出して一緒に飲んだりもする。
ニートオヤジのごとく年中自堕落に暮らす私より、彼の方がズッとまともで真面目な暮らしをしている気もする。
なっちゃんとしては、旦那の日常のアレコレに色々と思うところもあるようだが、私からみるとそれも普通に常識の範囲で、それなりに仲のいい似合いの夫婦に見える。

自分から言うことでもないが、私は一人暮らしが結構長かったから、日常の家事はだいたいそれなりにこなせる。
ワイフがしばらく家を空けても、特に気にもしないで粛々と日常を乗り切るし、2ヶ月半続いた寺暮らしでは、母親の食事の世話までしていた。
世間の煩わしさに振り回されて落ち着かない毎日を過ごすより、むしろ、自分一人のほうが落ち着いて自由にマイペースが保てて都合が良かったりする。
一人暮らしの引きこもりの時期は、「一日中、一言もしゃべらないで過ごすことも普通でしたけど・・・」
先日、なのか日のお経が終わってお茶をいただきながらそういうことを話したら、その家で一人暮らしになられた奥さんがやたらと驚いて珍しく私の話に食い下がっていらっしゃった。
男と女の性格の違いもあるだろう。マイパパの憲正さんも、晩年の日常は特に無口になって、通院の道中、ほぼ1日近く一緒にいても男二人が一言も口を利かないことなど普通だった。

ようするに、何が言いたいかというと、なっちゃんが帰ってきた数日間は、なかなか賑やかな吉田家ぐらしになったということ。
なっちゃんに自分の寝場所を追い出されたキーポンが玉突きでオヤジの寝場所に転がり込むし、あげくには、なっちゃんにイジラレまくったクロまで私の居場所へ避難するようになった。
とにかくこの半月ほどの吉田家暮らしでは、いまだにマイペースが機能しないでいるのだが、だからといって、決してなっちゃんをはじめ、吉田家メンバーがキライなわけではないので誤解のないように!
ボクはみんな大好きだよ!

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モンカーダこじま芸術祭ーその2 

2017/02/27
Mon. 18:30

モンカーダこじま芸術祭がはじまった。
倉敷児島の旧野崎家住宅前、こんじんまりした公園スペースでは野外展示がされている。
展示作家は、岡山県在住の石彫作家小林照尚氏。同じく岡山県在住の草月流師範西本秋翆氏。島根県から内田紀子氏と、私吉田正純。

小林照尚氏の最近の石彫は、岡山産出の万成石をほぼ方形にザックリと加工して、それを幾つかのパーツに割ったあと、内部をくり抜いて磨き上げ、再度組み合わせて方形の原型に戻すという工法を繰り返しながら一見シンプルな彫刻に仕上げている。
形態の内面と外面の対比を構成表現させることで、見るものの感情や周辺の空間や、それらをとりまく視覚的感覚的情感を石の内部に引き込むように工夫されている。
造形としてのカラッポを用意することで空虚感を演出しつつ、一方でその内部空間に周辺を吸い込ませて、石の本来持っている無機的重量感に周囲から有機的質量が注入される。より凝縮された内空間をさまざまに想像させる、とてもミステリアスな彫刻であるように私は思う。

草月流師範の西本秋翆氏の真竹を使った空間構成は、竹の持つしなやかさを熟知してつくりあげる有機的な形態の連続が面白い。
彫刻界でも線材を多用した空間造形をよく見るが、面白いものでそのたぐいの彫刻は何故か女性の作家に多い気がする。
残念ながらまだ付き合いが浅いので、西本氏の竹作品をそれほど多く見ているわけではないが、草月流の造形物の中では比較的面的要素の強い形態が多いように感じる。
これは、ある意味で彫刻的な表現に近いところで造形が意識されているのかもしれない。
いずれにしても、野外での展示構成であることには変わらないから、竹の集積でつくられる人工の構造物がその周辺の空間とどのように関連されているかが造形の見どころであろう。

内田紀子氏の野外に設置された造形作品を久しぶりに見た。
彼女は、まだ10代の頃からよく知っていて、平面から立体まで、そして、具象から抽象まで、さまざまな素材を利用工夫しながら幅広い造形表現を展開している。
野外での表現は、やはり設置空間をどのように自分のつくりだす造形に取り込むか、もしくは、自分の造形をどのように周辺空間と対峙させるか、そのあたりのサジ加減が重要なことでそれが難しいと自分では思っている。
長い間みていると、彼女の場合は造形の取り組みが器用過ぎるきらいがあって、それが少し残念に感じる。
自分の工夫がもう少しじっくりと錬られたあとに何かしらの形へ置き換わるという、ある意味での「造形のタメ」のようなものが加わると良いと思う。

まぁ、自分のことを棚に上げていろいろと自分勝手に言いたいことを言わせてもらったが、このような発表の場が提供されて共有できているから言えることだけどね。

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モンカーダこじま芸術祭 

2017/02/25
Sat. 22:06

岡山倉敷児島での芸術イベントがはじまった。
吉田は、昨年に声がかかって今年で2回目の参加になる。

例のごとく落ち着かないまま午前中が過ぎ、私の野暮用もあったりして予定より30分遅れて石見銀山を出発した。
児島の旧野崎家住宅でオープニングイベントがあるのだが、それに間に合いそうにないまま、結界君を走らせた。

搬入の時にザックリと会場の様子を確認しておいたのだが、その後幾つかの作品が展示されて、良くも悪くもそれなりの芸術イベントらしい雰囲気ができあがっていた。
公共の場所を使った彫刻展示は、いつどんなことが起きるか全くわからないから、かなり神経を使う。
自分の彫刻は、もう30年以上野外の全天候に絶えられるように造り続けているから、だいたいどういう状況にも対応できると思うが、彫刻家の考えは人それぞれだから、彫刻家集団の一人として作品展示をすると、それなりに緊張する。
他人に丸投げして全てを任すまでの度胸もないチキンオヤジとしては、やはり、期間中の不具合が無いように自分の目で確かめておかないと気がすまないし責任持てなかったりして、児島へ向かったわけだ。

野外彫刻でいつも思うことだが、石とか木とか金属とか素材の種類は別にして、作家の住み暮らす地域と彫刻の形状は、やはりどこかしら環境と形態がお互い引き合う何かがないと、野外彫刻としての普遍性とか恒久性が失われる気がしている。
彫刻家の主観を環境の束縛でまげることになる気がしないでもないが、そもそもの彫刻美術の起源を意識すると、やはりお互いの関連は彫刻制作の大前提に起因する大事な要素の一つに位置しているはずだ。
技法テクニックがどうとか、造形の緊張感や完成度がどうとか、それ以前に、まずは彫刻の存在と環境の共有が確保できていることが大事なことだ・・・と、私は勝手にそういうふうに解釈して制作を繰り返し続けている。
たとえば、私が住み暮らす島根県の石見銀山と飯南高原をくらべても、あれだけ狭い世界で全く自然の環境が違っていて、一つの彫刻がどちらの環境でも同じように機能することがない。

もうかれこれ5年ほど前になるが、だいたいの予測をもとに、銀山街道と出雲街道の分岐点を起点にして、野外彫刻設置のデータ収集を目的とした実験を始めた。
近年はたて続けに暖冬と猛暑が続いて、平均的なデータを記録できていない気もするが、それでもこの数年の経年変化をまとめてみると、自分の造形イメージを補正するための要素の幾つかは収集できた気がする。
予想的中で成功したこともあれば、見事に失敗したこともあったし、何より、期待も予測もしていなかった新しい発見があった。
現在、その発見のデータを元にして次の何かへ繋げられないか模索中である。

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真夜中のコーヒー 

2017/02/24
Fri. 21:09

万善寺の夜は、かなり激しい風雨が遅くまで続いていた。
通夜が終わって3畳の寺務所へ帰ると、さっそく母親の足音が近づいてきた。
私の寺暮らしではこういうことが頻繁で、とにかく落ち着かない。
特にこれといった用事があるわけでもないのに、いまだに親の子離れが出来ないまま、90歳を過ぎて、より過激に母の優位を振りかざしながら子供にしがみついてくる。
限りなくジジイに近いオヤジのボクは、いつまでも子供のままじゃないんだけどね・・・
なれない浄土真宗の、仏説阿弥陀経とか正信偈を必死でおつとめしてグッタリ疲れているボクのことなどまったく無視でからみつく母親には、どぉ〜も、こぉ〜も対処のしようがない。

麦とホップをたて続けに2缶空けて少し落ち着いて、お経本をチェックし直して、本葬の法式を見直していたら、ボタボタとユキズリの音がしはじめた。
そういえば、いつの間にか風雨の音も消えて静かになっていて、たぶん、その頃から雨が雪に変わっていたのだろう。
万善寺の本堂は、寄棟と方形をたして二で割ったような独特の作りをしている。
屋根を真上から見ると、限りなく正方形に近い形になっているはずだ。
その関係で、本堂の周囲へほぼ同程度のユキズリの山ができるのだが、西側に庫裏が続いているから、西のユキズリがモロに庫裏の壁を叩く。
3畳の即席書斎寺務所は本堂と庫裏を結ぶ渡り廊下に張り付いたような部屋だから、急勾配の本堂屋根から絶え間なく雪が擦り落ち始めるとやたらにうるさくなる。
一度気になり始めたら、集中力も消えて寝るしか無いことになるが、そのうるささでは素直に寝ることも難しくなる。
いつもだったら、このまま麦とホップをガブ飲みして無理やり酔っ払うか、アクション映画を観始めるか、そんなところだが、さすがに本葬の前の夜にはそういう気になれない。
曹洞宗の場合はだいたい法式を覚えているから良いが、やはり宗派が違うと磬子の打ち方や止め方も違うし、とろけきった脳味噌の反応が鈍くてなかなかすんなり頭に入らない。

深煎りの豆をミルで挽いた。
3畳にコーヒーの香りが広がった。
寺暮らしだと、だいたいこういう時は白檀香かなにかが香るのだろうが、私は、どちらかというとコーヒーが香り漂うほうが落ち着く。
一度沸騰させたお湯をしばらく冷まして、ゆっくりと豆を蒸らす。
このあたりの所作にコルトレーンあたりがさり気なくかぶさってくるともうたまらない。
世間では、カフェインがどぉ〜のこぉ〜の云うが、私には一向に差し支えない。
コーヒーを一口すすって、コンビニに寄った時に仕入れておいたドーナツを頬張る。
そうこうしている間に、ユキズリが気にならなくなってきた。
大衣や袈裟の確認などしてシュラフに潜り込んだ。

気がつくと外が明るくなっていて、遠くで鳴きあうつがいのカラスの会話で目が覚めた。
いつの間にか、寝てしまっていたようだ。

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久しぶりの万善寺 

2017/02/23
Thu. 22:58

今ボクは、久しぶりの万善寺三畳の寺務所兼用マイルームで麦とホップを飲んでいる。
2月から3月にかけて、今年最初の彫刻絡みで2つほど展覧会があって、その準備やら搬入やらで忙しくしている時に、万善寺のある保賀の谷の自治会から訃報の知らせが入った。
亡くなったのは、先代住職憲正さんの同級生。

憲正さんが少年の頃からの付き合いで、同じ保賀の谷の遊び仲間の一人が死んだわけだから、息子の正純としてはオヤジの代わりに精一杯の恩を返しておくことにもなるし、眼前の用事を投げ出して急いで枕経代わりの仮通夜へ参列した。
菩提寺は、隣町の浄土真宗西本願寺派。
ご住職は、ワイフとほぼ同年齢くらいだと思う。

他の寺はどうか知らないが、万善寺は枕経とか仮通夜、場合によっては通夜の席まで色着物に改良衣で出かける。
これは、「とにかく、とるものもとりあえず、馳せ参じました!!」という、ビジュアル上のスタイルを演出するという意味合いも含まれている・・・と先代住職の憲正さんから伝授された。
確かに、そう言われるともっともそういう解釈もアリかな??!!という気がして納得するようなところもあって、私の場合は、いまだに先住職の言いつけを守っている。

下世話な話だが、私は相手の分け隔てなく坊主の香資に5000円を包むことにしている。
島根の田舎相場であり、万善寺の周辺の常識で言うとだいたい2000〜3000円の香典が一般的だが、それはそれとしてこれは、亡き万善寺住職の憲正さんが生前に受けた「数限りない恩のささやかなおかえしだ」という気持ちが込められている。
憲正さんの住職在位60年間で、どれだけの御恩を頂いて暮らしていただろうかと思うと、5000円札一枚ごときではとても替えることも出来ないはずだと、確信している。

「生前は、うちの父(マイパパのこと)がお世話になりまして・・」
「いえいえ、とんでもありません、こちらこそ・・、方丈さんが(マイパパのこと)が亡くなられてから一気に気弱になって・・ほんとに寂しがって・・足腰がどんどん弱って・・ほんとうに、ほんとうに、仲良くさせてもらっていたようで・・」

ひょっとしたら、菩提寺のご住職より私のほうが亡くなったご主人のことをよく知っていたかもしれない。
春の桜の頃は、同級生と家族が集って花見に興じた。
農閑期には同級生と家族が集まって近くの温泉へ湯治に出かけた。
年に数回、盆正月に仏事を兼ねて帰省すると、毎年のようにそういう話を聞かされた。
亡くなったご主人・・今頃は、彼岸の国で憲正さんと昔話に興じていることだろう。

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ざわめく吉田家 

2017/02/22
Wed. 23:08

石見銀山の吉田家暮らしも、さすがに長い間留守にしていると、どうも自分の居場所が落ち着かなくて、さり気なく居心地が悪かったりする。
ひとり暮らしのキーポンが荷物と一緒に帰省してから、四畳半のオヤジの居場所がアッという間に占拠されて、コタツ兼用の事務机には彼女のグッズが散乱している。
こういうことになるだろうとあらかじめ予測して、本来キーポンの部屋であるはずの吉田家2階ロフト部屋を片付けた。事務用のデスクトップは吉田家の子供たちが中学校を卒業するまで使っていた勉強机に移動して使えるようにしておいたし、時々ネコチャンズの寝床になっていたキーポンのベッドもベッドメイキングしておいた。
こうしておけば、親子3人の夕食が始まって終わっても、さり気なく2階のロフト部屋へ引き上げてしまえば家庭の大きな混乱もなくて平和に穏やかに過ごせるはずだった。

確かに、この2〜3日はおおよその予想通り、七日務めのスケジュールをはさみながら比較的静かな毎日が過ぎていたが、昨日の夕方になって長女のなっちゃんが営業の本社会議を兼ねた出張と称して帰省してきた。
ここにきて、吉田家が一気に賑やかになってザワメキ始め、シロは四畳半のコタツデスクに潜り込んで出てこないし、クロは2階ロフト部屋の即席オヤジ書斎に避難して一日中ゴロゴロし始めるようになった。最近の私は、次々に押し寄せる様々な試練に押しつぶされそうになって、もう、ヨレヨレ状態だ。たぶん、ワイフの方は、一気に増えた口の数に振り回されて、想像以上に苦しい思いをしていることだろう。

七日務めから帰宅したら、キーポンがやっとゴソゴソ起き始めたところだった。
もうお昼の頃で、これから改めて昼食をつくるのも面倒だから、外食をすることにした。
昨年末に親から子へ店長交代をしてメニューも新しく入れ替えた近所のレストランへ数カ月ぶりに行ってみることにした。
前の店長のオヤジさんは、なかなかの趣味人で、店の経営の傍ら、もっぱらマイペースに人生を楽しんでいるような人だ。
そのあたりでは、私も似たような存在だったりして、彫刻の工場から作業着のまま昼食を食べに出かけたりすると、店へ入る前にご主人と立ち話が始まったりすることもしょっちゅうだった。
ひところは、炭焼に凝っていて、木酢液をペットボトルに入れてレストランのアプローチで安く販売したりしていた。私が陶芸の心得もあることを知っていて、窯のことや釉薬のことなど、かなりマニアックな質問を受けたりもしていたし、溶接の話が出たこともあった。海で採取した芽わかめをドッサリくれたりもする、なんとも楽しい人物である。
今度、店長の代替わりをしたご主人の次男坊は、まだ若いがすでに嫁もいて娘もいる。
銭勘定に長けていそうでなかなかシッカリとした経営者だ。
しだいに店の雰囲気も代わって、この世知辛いご時世に客が増えているふうに見える。
新メニューにはまだ慣れないし、どこかしら、前の味に懐かしさもあったりする。変わることは良いこと悪いこと予測が難しい。新体制のレストランがこなれて落ち着くまでには、もう少し時間がかかりそうな気がした。

強い北西の風で珍しく日本海が濁っていた。飯南高原は明日からまた雨から雪になりそうだ。

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作家の言葉 

2017/02/21
Tue. 18:34

今更改まって云う程のことでもないが、実は、彫刻家としての吉田正純は何かしら造形作品のようなものを造り始めた20代の頃から今まで1年も休むこと無く何処かの展覧会へ発表を続けている。
「あれだけ飽きっぽい性格でナマケモノなのに」よくこの歳まで地道に長々と長続きしているものだ・・・と感心しつつ、ふと、自分で自分のことを褒めてあげたくなってしまうときがあったりする。

制作を始めた初期の10年間位は、毎年アチコチの展覧会の出品規定や要項をチェックしながら、そして時には、実際にその展覧会の会場へ出かけて出品作家たちの作品を観たりしてから、幾つかの作品を造って出品したりしていた。落選するときもあるし、入選するときもあるし、まぁ色々だったが、何かしら形が完成して搬入までのなんとも例えようのない虚脱し且つマッタリとしたひとときが無性に気持ちよかった。制作中の抑圧された全ての欲望が一気に開放された感じだと云って良いかも知れない。
その時々によるが、ある時は映画館を目指したり、ある時は行きつけの飲み屋へ直行したり、ある時は神保町で古本を買い漁ったり、天気が良いと新宿御苑でメシも食べないでごろ寝していたり・・・とにかく、だいたい一人で過ごしていた。

20代後半にワイフの彫刻搬入搬出を手伝うようになって、それがとても刺激になった。
彫刻制作の裏側がリアルに伝わってきて、いい勉強になった。その搬入会場へ参集する彫刻家たちの様子が自分の感覚にあっていたというか、ゆるやかに包容されるような空気感が心地よかった。ワイフの彫刻出品を手伝いながら依然として特定の会派を決めることもなくのらりくらりと気ままに制作を続けていたが、いつまでも搬入出の手伝いばかりしていてもしょうがないし、少しずつ本気になって結局彼女の会派へ合流することにした。
それが二紀会で、気がつけばあれからすでに30年以上出品を続けている。
出品歴はワイフが長いから、たぶん、彼女が彫刻を造り続けていることで飽きっぽい性格のボクもここまで継続してこれたのだろうと、今更ながらにそう思う。

たぶん、昨年の年末くらいだったのだろう、二紀会事務局から70周年記念誌の原稿依頼が届いていたらしい。
寺のことでドタバタしていた頃だから、自分でそのことを確認できていたかどうかも覚えがないまま過ぎていたら、先日、彫刻部のH氏から督促の電話が入った。その前にも別件で二紀会本部からFAXが届いていたようだし、なんともだらしない組織員で、会の運営に何かと迷惑をかけっぱなしでいる。
あわてて、原稿を書いてH氏にメール送信した。Hさんゴメンナサイ・・反省してます!

〜〜〜〜〜〜〜作家の言葉〜〜〜〜〜〜〜
近年の彫刻は、一貫したテーマを主軸に制作を続けている。この彫刻もその一つで、まぁ、読み切り連作小説の一編のようなものと思って観ていただければありがたい。そこにある彫刻とそれを観る鑑賞者のあいだに発生するさまざまなシンパシーが自分の彫刻の成長につながるといいし、それを楽しんでいる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

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雪男の旅ーその3 

2017/02/20
Mon. 21:19

強行軍の彫刻搬入から帰って一段落したら、いっきに気持ちの緊張が抜けて、それまでだましつつ働かせていた身体のアチコチが鈍く痛みはじめて身動きできないほどになった。
2ヶ月あまりの万善寺暮らしの間に、自分の身体から筋肉がとろけてなくなってしまったようだ。

岡山の児島一帯をフィールドにした芸術祭へ彫刻出品を誘われたのが昨年のこと。
その時の誘い主は学生時代の同級生のiさん。
現在のiさんは、七宝の作家で作品制作と展示発表を繰り返しつつ、日本各地や欧米の都市部を中心に七宝教室の講師をしたりして技法の伝授を積極的に展開している。
長い間、東京を基地にして暮らしながらそういう制作活動を続けていたのだが、故郷で暮らすお母さんの高齢に伴い、Uターンを決めたのが今から数年前のこと。
その後、何度か「正純の近くへ帰ったよ!」と連絡をくれたり、共通の友人から情報が流れてきたりしていたが、2年前の暮になって、今回の「岡山での文化イベントに参加しない??」かと誘ってくれた。
私は年中ヒマにマイペースな暮らしぶりだから、こういう時の誘いに乗っておかないと、いつも忙しくしている彼女と逢う機会もなかなか巡ってこないだろうと思って、参加を決めた。
「久しぶりにiさんと逢えるかも?」という動機からして、主催者の高尚な文化事業をどこかしら無視してしまうような超個人的なレベルで彫刻出品を決めたようなところもあって、昨年の初出品はとにかく吉田のワガママワールドが炸裂した感じで終始した。

その後いろいろあって、なんとなく岡山との縁が絶えないまま1年が過ぎる間に、少しずつ岡山の主催メンバーとも緩やかなつながりが出来てきて、今年はiさん抜きで2回めの参加をすることが決まった。
それで、先週末に搬入日程を組み込んで、2tのレンタルをしたりして行動を開始した。
ちょうど移動の最中に天候が崩れて降雪の予報になっていたから、直前までスケジュールの組み立てがなかなか決まらなくて、チキンオヤジの神経がとにかく消耗した。
いつもの雨男が今年になって雪男状態になったまま、雪深い中国山地を越えることになってしまった。
だいたいに岡山の瀬戸内沿岸は年中温暖な気候で過ごしやすいところだが、児島での搬入作業のあいだ中、絶え間なく小雨が降り続いて肌寒い1日になった。それでも、お昼過ぎには一通りの搬入と展示の作業を終了することが出来た。これも、岡山倉敷森山珈琲君が甲斐甲斐しく献身的に手伝ってくれた御蔭だ。ありがとうございました!

同日にキーポンの引っ越しをスケジュールに入れていたから、昼飯抜きで一気に倉吉へ移動した。荷物を積み込む最中はみぞれになったりした。まったくもって、ことごとく悪天候に悩まされた1日1晩になった。
打ち止めは・・・やっとの思いで石見銀山の我が家近くまで帰ってきて、あと少しで町並みの自宅前というところで、2tのアルミの角を民家の雨樋へぶつけてしまった。
真っ暗な中で平身低頭家長に謝ったり善後策を決めたりして身も心も冷え切って凍った。

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気持ちの切り替え 

2017/02/17
Fri. 18:42

ボーズには特に関係も影響もないことだけど・・・まぁ、ひとまずのくぎりということで気持ちの切り替えも必要だし・・・
2月14日バレンタインデーをご縁日に、万善寺暮らしから石見銀山の吉田家暮らしに移動した。
約2ヶ月半の間に少しずつ増えた荷物運搬で参道の一本道をヨレヨレになりながら結界くんまで何往復したことか・・・
3回目の寒波は、完全に山雪寒波だったようで、石見銀山は申し訳程度に薄っすらと雪が降り積もった程度のことだった。
飯南高原から約40分ほどの間に、風景がまったく変わってしまう。

2月15日・・・島根大学教育学部の卒業制作展が県立美術館ではじまった。
若い学生さんの4年間の勉強の成果発表だから、できるだけ毎年の展覧会を外さないようにしている。
今年は、週末から倉敷児島の芸術祭イベントで彫刻搬入があるから、珍しく青空も見えて天気もいいし、初日に出かけることにしてワイフを誘った。
裏日本の山陰で暮らしているから仕方がないことだが、やはりアチコチアクティブに行動しようとすると雪はそれなりの障害になって動きも鈍くなってしまう。

ワイフとしばらくぶりの情報交換をしながら松江の県立美術館へ移動している最中に、iPhoneが鳴った。
お檀家さんからの着信だったのでふと嫌な予感がした。
ハンズフリーにしたら、「主人が亡くなりまして・・」・・・予感が的中してしまった。
「いま移動中でして・・・夜の8時位にはお邪魔できると思いますので、それでお願いします。急なことでしたね・・・」
葬儀日程の事務的な話も必要だが、まずは少しでも早く枕経を読んであげなければいけない。

卒業制作展も、そんなことでなんとなく落ち着かないままになってしまったが、作品の内容は力作ぞろいで好感が持てた。
前年に工芸の教授が定年退官された関係で、金属工芸の作品が絶えた。
退官の彼は私の大学時代の先輩で、内地留学の2年間は隣の研究室でよく見かけていた。
私が島根へUターンした頃の彼はまだ独身生活をしていたから、時々吉田家を訪問してワイフの手料理をぱくついたりしたこともあったが、そのうちどちらからともなく疎遠になった。それでも、同じ県内に暮らす、同じような金属素材の造形作家つながりもあるから、時々風の便りに彼の情勢を耳にすることもあった。出身は兵庫だが奥さんの実家が松江なので、自宅を新築して松江の人になったようだ。ちなみに、奥さんはワイフの後輩になるが、こちらも特にワイフとの付き合いはなさそうだ。

枕経を済ませて、石見銀山へ帰宅したのは夜の10時近かった。
亡くなったご主人は私と同じ年生まれの同級生だった。

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2月14日 

2017/02/15
Wed. 22:23

久しぶりに朝から晴れた。
前夜の降雪も夕方の足跡が確認できるくらい少しだった。
役場や市役所や幾つかの金融機関を回ったり、書類作成を完了して発送したりなどの用事を済まそうと、大荷物を抱えて参道を下って結界君へ乗り込んで暖機運転をして出発したら、走りがぎこちなくてお尻を降り続ける。
「パンクかもしれない??」
国道の広いところへ出てからタイヤ確認をしたら、やはり、後輪がペチャンコ。
そのまま2kmほどハザードを付けながらゆっくり走って同級生経営の自動車工場へ駆け込んだ。
奥さんが入れてくれたコーヒーを飲みながら修理を待っていると、バーストしていてもう使い物にならないことがわかった。
ひとまず代替えのタイヤを履いて当面乗り切ることにして、そのまま役所へ向かった。
この時期にタイヤ1本と修理代の出費はキツイ。

七日務めが当分続くから、雪の飯南高原を移動することが多いし、万善寺の参道もいつになったら結界君で登れるか予測できない状態だ。
収入の途絶えた状態がまだ当分続きそうだし、厳しい冬になってしまった。

14日は世間のアチコチがバレンタイン仕様になっていた。
就職の決まったキーポンが最後の学業へ帰る日でもあったので、家族3人が私の結界君へ乗り込んで出雲まで出かけた。
列車の時間もあるし、私が寺へ帰る時間もあるから、落ち着いて買い物をするほどの余裕はなかったが、それぞれがそれなりに必要な買い物をすることは出来た。
私が寺の食料を買い込んでいる間にワイフがチョコとワインを買ってキーポンがマックをくれた♡!

3回目の寒波はドカ雪に近い降りようだったので、万善寺は断続的な停電に苦労した。
特に、母親の大騒ぎがひどくてそれに付き合うだけでかなり疲れた。
ひと昔前なら、停電ぐらいで大騒ぎすることもなかったのに、この半世紀の間にそれだけ電気需要が拡大して、それに依存した日常の暮らしに慣れてしまったのだろう。
万善寺でこういう停電非常時に困ることは・・・
井戸水供給のストップ→ポンプの給電が絶える。
水洗トイレ→水の補充が絶える。
暖房→電気炬燵に電気ストーブに電気敷毛布にエアコンが使えなくなる。
インターネット環境→充電も出来なくなって、私にはこれが一番の苦労になった。
だいたい思いつくとこんな具合だ。

ガスはあるし、上水道もあるし、寺には大きなロウソクもあるから、それだけで非常時に十分絶えられるほどの余裕がある。
近年急激に拡大したオール電化住宅はかなり大変だったろう。
屋根の上で見かける太陽光発電システムは、こういう時どのように機能するのだろう?

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スキッパ 

2017/02/13
Mon. 20:40

今朝はかろうじて参道の道あけをしないですんだ。
初午祭の最中に、いつものお檀家さんがユンボで道あけをしてくれたおかげだ。

3回目の寒波がやって来る前に予約をしておいた歯医者さんの通院日だったので、9時前に万善寺を出発した。雪が少なかった分、放射冷却がひどくて結界君がお地蔵さんの横でガチガチに固まっていた。そういえば、万善寺のボクの寝室にもなっている三畳でペットボトルのお茶も凍って飲めなかったことを思い出した。

歯医者というと、小さい頃はさんざん虫歯で悩まされて、小学校時代の乳歯が永久歯に変わる大事な時は、ほとんど1年中小学校近くの歯医者さんへ通っていた。
低学年の頃の遅刻は、すべて歯医者さんの通院だった。
高学年になってやっと落ち着いて一段落したものの、今にして思うと、虫歯の原因は両親の子育て教育の失敗だった気がする。死んだ父親は40歳代で総入れ歯だったし、母親に至っては30歳代後半にはすでに総入れ歯になっていた。私の姥のごとく可愛がって育ててくれた父方のおばあちゃんも気がつけば総入れ歯だったし、吉田家には虫歯予防の知識がまったくなかったと云っていいだろう。
「これでやっと虫歯で悩まされることも無くなったわぁ〜、あぁ〜楽々・・」
「だけぇ〜、我慢せんではよぉ〜入れ歯にせぇ〜言うたろぉ〜がぁ〜・・」
そういう両親の会話をボンヤリ覚えている。

私の場合、運が良かったのは、永久歯に変わる時に歯並びがガチャガチャでスキッパになったことと、早くから一人暮らしをスタートさせたことだ。
年頃の青少年の多感な時期は、スキッパがイヤで恥ずかしくて結構悩んだもので、一人暮らしを始めた頃は、周囲の女の子の視線が気になってしょうがなかった。
スキッパは自分で矯正することは不可能だろうし諦めるしか無いが、せめて虫歯で悩むことだけは絶対に嫌だと、その頃からセッセと歯を磨き始めた。
やはり、歯磨きは虫歯予防の効果があったようで、その後、歯医者さんのお世話になったのは、大学時代に小学校の頃に直した銀の被せがチビて取れたときくらいのものだった。
今、通っている歯医者さんは、30代の頃になって昔修繕した2本の虫歯の寿命が尽きて周辺の神経を刺激し始めたのでその治療をしたことが始まりで、それから私の歯の主治医のごとく全てをその歯医者さんへ任せている。

しばらく前から、右の下の歯が痛くなって、それをかばっていたら、今度は左の上の歯が痛くなった。右も左も痛くて収集がつかなくなったからいつもの歯医者さんのお世話になった。
「見たところ虫歯は無いですから歯茎かもしれませんね・・念のためレントゲンをとってみましょう」ということで、色々丁寧に見てもらって歯石も取ってもらったら、その2日後にはウソのように痛みがとれた。ドクターの見解によると、磨き残しの場所に歯石が溜まって、それが歯茎を刺激して悪さしたんだろうということだった。
助手の美しいお姉さんが、歯磨きの方法をとても丁寧に教えてくれた♡!

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初午祭 

2017/02/12
Sun. 19:29

今年の初午祭当日を狙ったように万善寺は寒波第3団に襲われた。
今回は、ひと晩で50〜60cmは降っただろうか・・
前日の積雪と合わせて1mは軽く越えていた。

初午祭の朝は、参道の1本道作成から始まった。
長靴が埋まらない程度までアルミスコップで雪かきをして、その後雪踏みをする。
本堂の雪ズリを避けつつ、それをひたすら続けて寺の境内から参道を下っていく。
ここでのポイントは、あまり雪を深く掘り下げないこと。
踏み固めた雪道はできるだけ高くしておいたほうが、次の雪が降り積もった時にスコップの雪かきがしやすくなる。積もった雪の上に積もった雪をかきあげるわけだから、雪の壁は低いほうが楽だというわけだ。
少年の頃からこの歳になるまで、毎年雪国で冬を暮らしているから、そのくらいの知恵は自然についてくる。
それにしても、この近年は自分の体力の衰えを身にしみて感じる。雪かきの夜は身体が痛くて眠れない。
色々工夫してできるだけ楽に過ぎようと思うのだがやはり限界がある。
今回はまだ明るいうちからスパジャズを流しながら風呂にゆっくり浸かってみた。昨夜は、比較的寝付きが良かった気はしたが、夜中にキーポンのLINE攻撃にあって起こされてからあと、腰から下が延々と疼き続けて寝る機会を逸してしまった。読書でもしよとしたが、眼がショボショボでうまく焦点をあわせることが出来ないのでhuluをチェックしたら、銭形警部とタラレバ娘と左江内氏の新着があったから見ることにした。
そのうち眠くなるだろうと思っていたら、身体の痛みが勝って、気がつくと朝の5時を回っていた。

ウツラウツラしていたら、母親がドタドタやってきて停電の報告をはじめた。そのくらい、ひとつ屋根の下で寝ているのだからとっくに気づいているのに、ほんとに面倒臭い。
このところ絶不調が続いているが、母親の頑強な呪縛に絡まって自分の心身が日に日に蝕まれているからだと思っている。
今年の1年が、自分の体力の限界になるかもしれない。
そろそろ先が見えてきたきもするし、後々悔いの残らないように自分の仕事にケリをつけることも必要になる。諸々、断捨離を急いだほうが良さそうだし、まだまだやらなければいけないことが山のようにある。
そんなこんなで、気持ちはけっこう焦っているが、一方で、この眼の前の雪が一段落して先が見えるくらいまではどうしようもないし、腹をくくってジッと耐えるしか無い。

そんなことを考えながら、半日の間に参道の1本道を鼻水垂らしながら2往復した。
初午祭の法要が始まる直前に、その1本道を近所のご婦人が3人ほどお参りに登ってこられた。
今年は一人で法要を済ませることになるだろうと思っていたが、ありがたいことだ。
法要の最中にユンボが境内まで上がってきた。いつもいつも、本当にありがたいことだ。

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雪男の旅ーその2 

2017/02/12
Sun. 03:10

3回目の寒波は、西日本の鳥取島根に大きな雪害を与えつつある。
その寒波の最中に倉敷児島から岡山経由で山越えして倉吉でキーポンと彼女の荷物をピックアップして石見銀山へ帰った。
結界君は、この悪天候に健気に絶えながら走り続けてくれているが、このところ、バッテリーが弱ってきたり、エンジンのオイル漏れがひどくなったり、少しずつ弱り始めている。
もう、18万キロ近く走っているし、春になったらスタッドレスからノーマルタイヤへ履き替えて、そのついでにメンテナンスをしてもらおうと思っている。

今年の岡山は、児島を中心に神仏混合が今に残る霊山由加山と塩田業の豪商旧野崎家住宅で彫刻を展示させてもらうことになった。
昨年は由加山近くの日本第一熊野神社境内とその周辺へ彫刻を置いた。
そちらも昔ながらの神仏混合の保存状態も良くて、岡山県児島の土地が、奈良平安の頃から聖地であった様子がよく残っている。
その2つの聖地境内に私の彫刻を設置していただけることになったのも、何かの縁なのかもしれない。

今回の由加山下見では、今に残るいくつかある参詣街道の中で、比較的古い街道沿いにある民家に宿泊させていただいた。
自分としては、下見程度のことだから結界君のモテル宿泊で十分だったのだが、主催のはからいで手厚いもてなしを受けることになっていささか恐縮しつつ、それに甘えた。
相手をしてくれたのは、昨年からお付き合いが始まった倉敷の森山珈琲氏。
その宿泊した民家で、週末だけの珈琲屋オープンを計画しているとのこと。
私のような、珈琲通ともいえないいい加減なタダの珈琲好き程度には敷居が高いかもしれないが、由加山参詣街道沿いでこのようなコダワリの珈琲屋ができると、けっこう口コミで話題になるような気がしないでもない。

この今に残る参詣街道は、軽自動車だと楽に走れるが、普通車だとかなりのテクニックが必要になって、2tだと、土地っ子のプロでないと難しいくらいの急勾配でカーブの多い難所である。
昔の人は、瀬戸内海を船で移動して、由加山下の幾つかの港へ上陸して、そこから聖域を目指して約1里と少々の距離をひたすら登り続けてお参りをしたわけだ。
巨岩の積み重なった渓谷を縫うように続く坂道のわずかな平地へしがみつくように幾つかの民家がある。
その殆どは、生活の不便さに絶えられなくて空き家になっているが、それでも、その渓谷と参詣街道の魅力に惹かれて、養蜂家とか木工家が残された民家と周辺の環境を支えていらっしゃるということだ。
ひょっとしたら、近い将来それに珈琲屋が加わることになるかもしれない。

一泊した次の朝、早朝の散歩を楽しんだあとの一杯の珈琲は最高に旨くて身に染みた。

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雪男の旅ーその1 

2017/02/11
Sat. 11:14

昨年から出品させていただいている岡山県児島周辺のフィールド芸術祭へ今年も参加させていただくことになった。
吉田の場合は、比較的彫刻に特化した展覧会やワークショップを中心に島根県の田舎を巡業するような企画にとどまっているが、岡山の場合は、コーディネーターの広瀬氏を中心に、備前あたりから倉敷、水島、児島あたりに暮らす地元のアーチストやその周辺の有志の皆様が集まって、絵画・彫刻・工芸などの美術に音楽や演劇なども取り込んだ総合芸術祭を練り上げ、だいたい2ヶ月をメイン期間として企画開催されていて、確か今年で5〜6回目になるはずだ。
その芸術祭には、日本を始め世界各国からアーチストが参集するから、ある意味国々の文化交流的要素も加わって、たとえば寄せ鍋のような旨味のある文化事業である印象も受ける。
私としては寺の維持管理を含めた生活上の制約もあるから、全面的に岡山の芸術祭へ乗り切るわけにもいかないが、山陰の田舎で地道に制作や発表の活動をしている若い美術家たちの制作の場を広げて欲しい気もしていて、吉田が触媒にでもなれれば良いなとも思っていたりする。

1泊2日の岡山の旅は、その芸術祭での彫刻設置の下見を兼ねたものだった。
それに、徳島と鳥取の用事も抱き合わせして、石見銀山で準備をしているところへ今回の3回目の寒波襲来となった。
自他ともに認める雨男の吉田は、この冬シーズンでは見事「雪男」になってしまった。
雪道の移動を含めた雪対策は、それなりに遺漏無いようまとめているつもりだが、なにせ、世間には雪になれない集団諸氏も大勢いらっしゃるので、そういう不特定多数の中を移動することはかなりのストレスになってしまう。

初日は、徳島の用事を済ませて児島の由加山を目指した。
お昼の3時位に由加山神社へ到着する予定でスケジュールを決めたのだが、例の寒波の影響で、夕方近くの到着になった。
境内の様子は特に問題がなさそうに思えたが作品の搬入経路が厳しくて苦労しそうな気もする。
そのことが事前にわかっただけでも心の準備ができるし、やはり下見をしてよかった。
一晩由加山近くで1泊して、2日目は児島にある芸術祭メイン会場へ移動した。
そちらは昨年にチェックしてあるから、搬入動線の確認程度で終わった。
その後、下津井の港町で別件用事を済ませ、そちらから一気に中国山地を山越えして倉吉へ急いだ。高速道の各所で冬タイヤの確認をされたが、無事に鳥取県へ入ることが出来た。一山越えたあたりの街道で、11tが道から滑り落ちていた。これでトラックが車道を塞いでいたら、たぶんその日は車中泊になっていただろう。不幸中の幸い・・・
ほぼ予定していた定刻に、倉吉のキーポン宿舎前へ到着して、彼女の引っ越し荷物を結界くんへ積み込んだ。
それからは、山陰道を順調に西走して石見銀山へ着いた頃に、また雪が降り始めた。
ワイフが気を利かせて風呂を用意してくれていた。

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2017-03