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工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

夕暮れの石見銀山 

2023/12/04
Mon. 11:43

予報だと今度の冬シーズンは暖冬傾向にあるというが、もう11月の半ばにはいつもより2週間も早く雪が降ているし、ボクの乏しい過去のデータからはなかなか予測できない難しい冬になりそうだ。春もいつもからすると2週間早く巡ってきて、お彼岸前にお墓の掃除が出来ることなど今までに無かったことだった。
万善寺のことも、何となく天候の様子とシンクロしているふうで、いつもなら12月に入って駆け込み法事があったりするのだが、今年はそれも11月のうちにだいたい終わった。

12月の法事は、祥月命日が雪深い1月2月に重なっている施主さんから「まだ雪の心配が無い年内に・・・」と前倒しを打診されるくらいで、それもこの日曜日でひとまず区切りがついた。このままだと、小品彫刻展の搬出が終わったらあとはゆっくりと寺の年末のアレコレを済ます程度で済むから、今年の年末は少しだけ気持ちに余裕ができた気がする。
コロナを境にして、法事の様子が変わった。菩提寺の住職が一人で法事を務めることが当たり前になったし、お墓参りが終わってからの御斎も膳料や御斎弁当が普通になった。それに何より、施主家身内のお参りだけになって親族の揃うことが稀になった。坊主の立場からいうと色々坊主の数だけ思うことも違ってくるのだろうが、ナンチャッテ在家坊主のボク的はそういう簡素化もそれはそれで良いと思う。知ってのことか?忘れてしまっているのか?年回法事をスルーするようりはずっとマシだ。
在家法事の差定も寺ごとに口伝で引き継がれているから、万善寺は万善寺の務め方のようなものが決まっている。この度の施主家は1周忌の小祥忌法事だったから、経は普通に変わりなく、それに陀羅尼咒をタップリ付け加える。先代からは具体的な法事の差定しか引き継ぎが無かったが、自分なりには現世の未練を断ち切って仏の修行に集中できるよう「場を清めること」に念を入れることだと思っている。

簡素化されているといっても読むお経の種類とか時間が少なくなるわけでは無いから、いつも通りMCを適度にはさみながら約2時間のワンマンライブオンステージを済ませた。
寺へ帰って一日の汚れ物を洗濯している間、コーヒーでくつろぎながらその日のSNSを回覧していたらノッチが久しぶりに写真を載せていた。休日の朝を堪能しているようで、とてもゴージャスな朝食を自作していた。お母さんに似て料理を苦にしないし、なかなか手慣れていて美味い。ボクならモーニングコーヒーがサッポロ黒ラベルになってしまうだろう?的メニューでした。
洗濯物を干して小品彫刻展の会場受付へ急いだ。

ワイフが受付の代行を引き受けてくれていて、来場の様子を引き継ぎした。
会場は、12月に入って夕暮れが少しずつ早くなって、照明の効果がとてもいい感じに際立って来始めた。彫刻家の皆さんへこの様子を直に伝えられないのが残念だ。既成の画廊ギャラリーにはない、しっとりとした良い雰囲気に包まれている。
帰宅すると、小品彫刻展へ出品作家から宅急便が届いていた。お供えにすると御本尊様が飛び上がって喜びそうなほどの立派な地産の品だった。彫刻を出品いただくだけで十分ありがたいのに、その上、念の入ったお気遣いには感謝しか無い。しばらくお供えしてからお下がりを頂こうと思う。

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冬になった 

2023/12/02
Sat. 22:01

外せない寺の用事が出来たので、展覧会の会場が終わってから銀山街道を走った。
アラレがパラついたりミゾレになったりして憂鬱になってしまうような空模様だったが、用事を済まさないわけにいかないし、最近ちょっとハマっているリナ・サワヤマをiPadから銀くんのスピーカーへ大音量で飛ばして移動した。
飯南高原に入ると琴引山の6合目あたりから雪で白くなっていた。最近留守がちな万善寺が何かしらいつもより寂しげに夕方の闇に包まれていた。
Amazonのブラックフライデーでポチッとした商品が届いているかもしれないと、いつもの置き場所を確認すると、暗闇の中にAmazonの四角い箱がぼんやりと見えた。
中身は分かっているからそのまま箱を移動して、急いで寺のデスクトップをONした。

寺で管理している過去帳さんを確認する用事だけで往復一時間半を使ってしまった。
いつもは暇に過ぎる毎日のことだからたいして気にもしないが、こうしてアレモコレモがいっときに集まって重なってしまうと無駄に過ぎる時間がもったいない。
以前から思っていたことだから、それをそのまま捨て置いている自分のだらしなさも自覚できていて、少し前から過去帳さんをデータファイルに移行し始めた。厄介なのは昔の漢字で、古字にあるのはなんとかなるが崩し文字がそのまま戒名で書かれているのか迷う。いちど悩み始めると途端にキーボードを打つ指が止まって先に進まなくなる・・・ということを何度も繰り返しながら遅々として先へ進まない。「このようなことがあるから早くしないと・・・」と分かりつつ後に後に回したツケが回った。

ドタバタがあった次の日の朝、厳しい冷え込みで目が冷めた。紅葉の見頃があっという間に過ぎて冬になった。
石見銀山の近くにある中学校が彫刻の鑑賞をしてくれた。
1年生の校外学習か何かで来てくれたようだ。校長先生は昔、彼がまだ大学を卒業したばかりの頃の知り合いで、その彼が今は校長先生。自分が歳をとってジジイになるわけだ。1年生は全員で3人。「さん」という数字はどこかしら厄介なところもあって、なかなか難しそうな学年と思う。気さくな校長先生以下、諸先生の支えもあってか見た感じ鑑賞の様子も素直に熱心でいい子たちだった。

ボクでも中学生だった頃がある。
中学に入学した年に美術の先生が街の大きな学校から転勤して来た。その先生は学芸大の卒業で塑像彫刻が専門だった。
天気がいいと学校の裏山に入り込んで粘土の層をみんなで探して、掘り出した粘土を乾燥させて崩して水で戻して練り直したりして・・・今思うと、結構専門的な粘土作りを中学生のボクたちに教えてくれた。あの頃は、学習というより泥遊びのようにしか思っていなくて、練り直した粘土を使って小さな彫刻のようなものをつくって・・・遊びながら勉強して成績までついてくる・・美術の時間が早くこないか待ち遠しくてしょうがなかった。
その先生は僻地点数消化に3年間ほど山間の中学校に勤務して、また街へ帰っていった。
ボクはとても運が良かった。中学生から本格的なデッサンをはじめて塑像彫刻らしきものをつくって・・・今ボクが彫刻を造っているのは、間違いなく彼の影響だと思う。

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吉田家の贅沢 

2023/12/01
Fri. 19:55

昨年の冬に境内の松の枯木から伸びた枝の一本が何度かドカッと降った重たい雪に耐えられなくて折れた。枝といっても折れた根本は二つに割らないと吉田家のストーブに入らないほどの太さだったから、春になって雪が消えるのを待って落ちた枝が横たわっている隣の空き家の耕作放棄地まで降りて細かく刻んだ。
折れた枝はなかなか味のある木目の肥松に近いモノだったから、上手に乾燥して脂を抜いたら床の「花台くらいは出来そうだ・・」とも思ったが、そんな暇もないからやめた。折れるまではまだ生きていた枝だったから、チェンソーの刃が松のヤニですぐに固まって刻むのにひと苦労した。それから約半年の間、参道の脇へ積み上げて雨ざらしにして放置しておいたのを吉田家の薪に持って帰った。縦割りに半分にした太いのはまだ生木のように重たかったが、松ヤニが多いからきっと燃えてくれるはずだ。
ワイフは相変わらずあちこちの請負仕事で夕方になってもなかなか帰宅しない。小品彫刻展の期間中はほぼ毎日吉田家だからワイフが帰ってくるまで待っていれば自分で夕食を作らないで済む。焚付の小枝に火が回ってから松の輪切りを突っ込んでおくと夕食が始まっておわるほどの2~3時間は燃え続けてくれて、部屋がほのかに温かい。
ストーブを焚き始めてから吉田家のネコチャンズが定位置を変えた。サマーシーズンはそれぞれ涼しい場所を見つけて家庭内別居をしているが、寒くなってくるとストーブの近くへ寄ってきて四六時中仲良くくっついている。

会場のショップは水曜日が定休日だから会期中はボクもそれに合わせて休むようにしている。この前は久しぶりにワイフと温泉へ出かけたし、先日は吉田家恒例のカニツアーで島根鳥取をぐるっとひと回りした。
この近年は赤崎の道の駅琴浦がツアーコースの定番になった。昼食の時間帯を調整してアチコチアレコレ試してみたが琴浦の「漁師のまかない丼」がハズレなく新鮮で美味い。日本海は遠くの方に白波が見える程度で今の時期にしては比較的穏やかだった。地産の海鮮市場も新鮮な鮮魚がドッサリ並んでいた。アオリイカや鯵が安かったから仕入れて、夕食用にシラス丼をお持ち帰りで買った。境港のいつもの蟹屋さんは年末のご祝儀価格になって1000円ほどいつもより高かったが、大きくて身の締まったカニが足取れの半端モノで安かったから買った。店のおばちゃんはボクの顔を覚えてくれていて、何も言わないでも適当に良いものを見繕ってくれる。

小品彫刻展が始まって2週間が過ぎた。
石見銀山のこの4年間はコロナの関係で観光さんを含めた人の流れが大きく変わった。サマーシーズンで年間の収支を賄っていた町内の飲食業が軒並み撤退や廃業した。展覧会の会場を共催していただく群言堂本店は厳しい経営が続く中、何とか踏ん張ってこの数年間を乗り切ることが出来た。ショップ二階の会場は急な階段で一定のふるい落としが生じる。それでも展覧会期間中の入場は400前後をキープしていた。石見銀山の地域や会場の条件下でこの来場者数は上出来だと自分では思う。コロナのハードルが少し下がってマスク着用の義務が緩和されてスタートした今回の展覧会は会期の折返しあたりで既に600近い来場があった。殆どが観光さんになるが、それでも例年と同じ顔ぶれも変わりなく続いている。数字が全てではないが一つの目安にはなる。

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我が身 

2023/11/28
Tue. 15:23

このところ寒暖の差が目まぐるしく入れ替わって、そのスピードについていけないオヤジジイは体調不良一歩手前でかろうじて踏みとどまっている状態が常態化している。
展覧会場の窓から石見銀山の町並みに伸びる瓦屋根を見ていると、風の通り道の関係なのだろう、風向きが変わるたびに強風に揺れるあちこちの庭木から時折枯れ葉が渦を巻いて舞い上がっている。

島根県内あちこち小品彫刻展巡回の旅が続いていたのを石見銀山の今の場所へ落ち着いて5年目になる。
会場が毎年のように変わることも、それなりに新鮮な発見もあっていいと思うが、記帳簿の整理を続けていると、やはり一処に定着するほうが来場の継続に繋がって展覧会の認知度や彫刻家の制作の主題などが連続に系統立てて観てもらえるようになって、それはそれで意味のあることに思える。
先日は、小品彫刻展の初回から連続出品を頂いている数少ない彫刻家の一人、九州大牟田の井形さんで話が盛り上がった。たまたま観光で石見銀山を訪問し、たまたま群言堂のショップへ立ち寄って、たまたまその二階の彫刻展を観に上がってくれた観光さんが、たまたま学生の頃の井形さんを知っていた人だった。そのご夫婦は専攻こそ違ったが井形さんと同じ頃同じ大学へ在籍していたのだそうだ。受付をしているとこういうことが時々ある。
ボクは、自分が関係している展覧会には自分の彫刻のリサーチを兼ねてできるだけ会場にいるよう都合をつけている。彫刻を造って搬入して終わり・・というわけにいかない。
若い頃はグループでクラフトの展示会をしていて、バブルの時期だったからそれなりに売上もあった。買っていただいたお客さんとの繋がりも継続して、そういう縁で美術館の会場に足を運んでもらえたし、自分の作品や制作のことで沢山の意見や感想も頂いた。それが次の制作の励みになったし数え切れないほど妥協の回避も出来た。造りっぱなしで済ましてはいけない、沢山の目に触れることの大切さを教えてもらった。
同業の目を意識することはそれはそれで大事なことだが、一般の異業の不特定多数の目も侮れない奥深さを感じる。

土日が寺の用事(お檀家さんの年回法事)で受付できなかった。日曜日のクローズギリギリに会場へ駆け込んで受付の整理をすることは出来た。スタッフに様子を聞いて記帳簿の記入をチェックした。毎年来場をいただくほぼ常連さんの記帳があった。坊主業でお世話になっているお寺さんが初めて彫刻展へ来てくれた。ボクは会場受付の裏版で、大事な坊主業の法事に般若心経や修証義や妙法蓮華経の偈をおつとめし、お釈迦様のことから正法眼蔵八大人覚をお話ししていた。年回の施主家は万善寺の法要へお参りしてくれる。仏教信心に熱心というより先祖供養を思ってのことだ。それはそれでとても大事なことだ。
「知足」は世間で「(分相応に)足るを知る」と有名な仏語の一つだが、道元様の「知足」には、自他をひとくくりにして「お互い助け合って得るものを得る」と解釈される。自分で独り占めしないで「我が身に余るものはそれが足らないでいる誰かに差し上げなさい!」ということの知足だ。ボクのようなナンチャッテ破戒坊主でも、粛々と出来ることを出来るように努めることを忘れないようにしたいとは思っている。

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紅葉の小品彫刻展 

2023/11/24
Fri. 16:46

受付の合間に読み続けていた「仏教の歴史」を読み終わった。
決して怠けたりサボったりしている訳ではないのだが、気がついたら最後の訳者解説まで完読していた。

石見銀山の小品彫刻展は、会場の群言堂お目当ての旅行者や地元地域の美術愛好家や主催から発送した住所録の皆さんなど、急な階段を二階まで上がって頂いている。おったちの美術展が縁になって来ていただくこともあって、家族で彫刻を熱心に観ていただいたりもある。先日の初雪が刺激になったのだろう、もみじの紅葉が一気に見頃を迎えた。
週末は寺の駆け込み法事が出来て、会場の受付が留守になってしまった。
展覧会の会期を紅葉目当ての観光シーズンに重ねているから仕方のないことだが、一年の年末になって慌てて法事の問い合わせが続いて、日にちが重ならないように調整することが難しくなって、年中暇にしている末寺の住職坊主が、こういう時に限って急に忙しくなる。
「日本仏教は「ガラパゴス仏教」すなわち(ガラ携帯)ならぬ「ガラ仏」ということができる・・・」とは、訳者の今枝由郎さんの見解(本の文章を一部拝借させていただきました・・ごめんなさい)である。
ボクも正に同じようなことを長い間思い続けていて、本を読み進めているうちに自分なりのモヤァ〜・・とした仏教観が確信に変わった気がした。
今の日本仏教は、お釈迦様の思想哲学の解釈とかお釈迦様他沢山の仏様の功徳の信心などどうでもよくなって、葬式や法事や墓参りなどの供養仏事がいわゆる「仏教」として一般に認識されている感が強い・・とボクは思っている。坊主の読むお経など意味もなんにも解らない呪文のようなモノにしか聞こえていないだろうし、当のボク自身も仏弟子としての修行を我が身の勤めとしてどこまで深く認識していられているか曖昧なことだ。

近年連続して出品して頂いている彫刻家日野宏紀氏は、自分の体力が大作制作の限界を迎えたと判断され、潔く所属団体の委員を辞職された。それでも彫刻家人生をリタイヤされているわけでなく、フリーの一彫刻家として小品の制作を絶やさないで続けられている。
大作制作の晩年の頃、仏教に興味があるのか仏像に興味があるのか、制作テーマの底に仏教思想が強く息づいていて、立派で繊細な見ごたえのある具象彫刻になっていた。
小品の彫刻になっても、その流れは継続されていて、仏頭を思わせる簡潔に整えられたテラコッタの首像が観る人の気持ちを引き付けている。
石見銀山の展示会場の雰囲気にも合っているのか、今のシリーズになってから日野彫刻の定位置が出来つつある。展覧会の彫刻の中でも日野彫刻は鑑賞者の滞在時間がダントツで長い。
こうして、毎年小品彫刻展に制作出品を続けていただいているわけだから、まだまだお元気でいられることだろう。出来るなら、石見銀山の会場へ今のシリーズをずらりと並べて日野宏紀個展になると良いと思っている。
展覧会が終わって彫刻を返送する折に、ダメ元でボクの気持ちを添えてみようと考えている。確か、お酒も好きだったはずだし、夜の石見銀山で一杯やりながら昔話できるといいだろぉ〜なぁ〜〜・・

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ボクの休日 

2023/11/23
Thu. 13:10

小品彫刻展会場の群言堂本店がお休みだったので、半日の休日が出来た。
自分の一日を一週間の単位で働くのはいつぶりのことだろう?
一年間を週で云うと毎日が日曜日のような暇な暮らしぶりだが、坊主と彫刻家を使い分ける日常では月日でスケジュールを管理することに慣れてしまっていて、7日間の曜日で区切る昔の月給で生活していた頃の感覚をほぼ完全に忘れてしまっている。
一年のこの時期、働くことの充実感と休日の高揚感を思い出させてくれるのは小品彫刻展のお陰である。
日常の暮らしの多様性が当然のように社会へ定着した今、毎日がボクのような自由時間の積み重ねで過ぎることも珍しくないことになっているのだろうが、やはり自分の都合で過ぎる日々に慣れてしまったボクにとっては仕事の都合で決まる休日が特別なものに思えてしまうわけで、気づかない間に不規則なことを自分の常識と思っていたりするねじ曲がった社会性が出来上がってしまっているという現実を強く自覚しておかないといけない・・と感じつつ、休日を楽しんだわけであります。

湯谷温泉は石見銀山から車で20分ほど走った渓谷にあって、石見銀山の埋蔵銀採掘権を争って地元や周辺の豪族領主が長年戦を繰り返していた激戦地でもある。
今は、往時の面影を残す僅かな遺跡や史跡が点在するだけの静かな山里の一角に、源泉の効能を希釈や温度調整で維持しながら日帰り温泉としてつつましく営業を続けている。
石見銀山の周辺には、昔で云うところの湯治場温泉が点在していて、湯谷温泉もその一つと言っていいだろう。
軟弱で堪え性のないボクは熱い湯がダメで、こういうタイプのぬるい温泉が好きだ。週替りに男女の湯が変わる。一つにはミストサウナも付いていてそれに当たると得した気分になる。だいたい1時間ほどぬるい湯に浸かってサウナに出入りして過ごしたあと、お昼ごはんを外食したり近くの道の駅へ寄ったりして吉田家へ帰る・・・それだけのことなのだがたまの事になると、とても幸せな気持ちになる。かれこれ2年近くぶりの温泉だった。

先日の冬型気圧配置で降った雪のお陰で、展覧会会場の中庭の紅葉が少し持ち直した。
六本木から寺へ移動した彫刻もビッシリと良いサビがふいて周辺の色調といい感じのコントラストを造ってくれる。こういう自然の環境に寄り添った変化を身近で観続けていられることが実に有難い。ボクの場合、造った彫刻は長い年月をかけて周辺の環境に育てられながら成長し、やがて朽ちて自然に帰る・・その一連の過程そのものが彫刻の存在に欠かせない重要な要素となる。まさに、ブッダ的思想の具体化であると考えている。
そのお釈迦様のことを時代や思想や地域民族性の文献や資料を系統的に客観的にわかりやすくまとめたフランス人がいて、11月に刊行された彼の著作を会場の受付をしながら合間に読んでいる。
2年ほど前から、今の自分の肉体的精神的現状にあってお釈迦様の存在をどのように認識するのか再勉強をはじめたところだ。昔は手もつけなかった・・というより、手が出せなかった関連の書物を読み進めている。フランスと云うと、ある視点で西洋哲学の産地と思っていて、そういう国の人がブッダの研究者であるということに興味を引かれた。
本は非常にクールに客観的に系統立ててまとめられていて、ボクは読みやすいと思う。

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初雪が降る 

2023/11/18
Sat. 12:06

飯南高原は夜のうちから、石見銀山は早朝になって、シーズンの初雪が降った。
国道の路面は融雪剤のお陰でかろうじてノーマルタイヤのまま何とかなりそうだが、寺へ曲がる脇道からは路面が真っ白になって走行不能。展覧会の事務仕事があって朝のうちに寺の寺務所へ往復しようと思ったが、国道の定点カメラとかウエブニュースの画像データとか色々検索して無理はしないことにした。
前任車の結界くんは何年も何度も雪と格闘してあちこちダメージを受けながらも健気に働き続けて平成の時代を耐えてくれたが、最後はマイナス7℃まで気温の下がった寒い夜、雪に埋もれてピクリとも動かなくなってボクの相棒の任務を終了した。走行距離があと少しで25万kmに達しようとするところだった。今の銀くんは、平成最後の年からボクの相棒になって15万km走っている。上等のエンジンオイルを定期的に交換し、長距離のたびに足回りの点検を欠かさないようにしているから、今のところ調子良く働いてくれている。公共の交通網が充実しないどころか、JRのローカル線や定期便のバスが廃止になったりして益々暮らしにくくなっているから、4WDの車が自分の足がわりの必需品になる。山陰道も部分開通でいまだに分断された状態だし、ボクが生きている間に島根の東西の端が繋がることは無いだろう。免許証返納も考えたりすると今の銀くんが最後の相棒になるかもしれない。

おったち美術展から彫刻を石見銀山のいつもの会場へ移動して小品彫刻展がスタートしてから3日目になる。昨年とほぼ同じ会期なのだが、秋らしい日は初日だけで2日目からは秋の気配がアッという間に去って冬が来た。初雪も20日くらいは早くなっているはずだ。
2階の会場は、昔納屋だったところを改修したもので、明治のガラス戸をそのまま残しているから、隙間風が酷くて雪が舞うほどの北風が強かったりすると、ほぼ野外と同じくらいに冷え込む。町並みも朝から人通りが絶えたままお昼になった。なかなか見ごたえのある小品彫刻が集まって良い展覧会になっていると思うが、流石に地球の自然が相手だとどうにもならない。

12月に展覧会が終わって彫刻の返却業務が終了するまで吉田家の暮らしに戻る。
寺の境内へ野外彫刻を移動設置したり畑の草刈りを済ませたり吉田家のストーブ用に薪を運んだりして最後、吉田家へ帰る前のギリギリのところで青トマトを全て収穫した。夏野菜ほったらかし菜園の雑草に守られながらたくましく育ったトマトは茎が雑木並に太く固くなっていた。宗務所へ提出用の書類などがあって寺務の合間に青トマトをピクルスにした。トマトが思いのほか沢山で、米酢だけでは足らなくなってレモン酢やらっきょう酢や寺にあるお酢をかき集めて、それでも足らなくなって水の量を増やしたりしたから、上手く漬かってちゃんとしたピクルスになってくれるか、実に怪しげな瓶詰めが出来た。聞くところによると、トマトは青いままでも成分は熟したモノと変わらないのだそうだ。青臭くて皮が固くて食うに耐えないから捨ててしまうのだそうだ。年金オヤジジイの質素な寺暮らしで食べられるものは粗末にできない。
薪と一緒に吉田家へ帰って、早速シーズンの初ストーブを焚いた。ストーブの暖気に誘われて、初雪が降るくらいの冷え込みに吉田家の何処かへ潜り込んで温もっていたネコチャンズが湧き出てきた。クロは上手に逃げたがシロちゃんは久しぶりに抱かせてくれた。

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彫刻づくし 

2023/11/16
Thu. 16:02

石見銀山小品彫刻展が始まった。
2010年から石見銀山でスタートした小品彫刻展は、その後東西に長い島根県の各所を転々と巡回し、5年前に石見銀山の今の会場へ帰ってきた。
群言堂本店は吉田が初個展に決めたところで、それ以来の縁がある。吉田家は群言堂から3軒ほど川下にあって大森町町並みに面しているから、その気になって探せばすぐに発見できる。石見銀山が世界遺産に登録されたとか、吉田家が住み着いた経緯とか、まぁ、語れば色々あるが、気になる方は過去のブログを漁ってください。

今年の小品展はおったちの美術展と協同で開催するところから始まった。このシステムが良いか悪いか効果的なのかどうなのか、そのあたりの検証はもうしばらく先のことになる。スタートしてから10年は過ぎるし、ということはボクも10歳としをとってオヤジがオヤジジイになって、身体のアチコチにガタもきて、脳みそはそろそろ発酵を始めてとろけ始めてきたし、こんな状態で彫刻展をこれから先10年続けられるか行末が怪しい状態なものだから、色々ジタバタしているところであります。幸いに、彫刻の出品協力を頂いている彫刻家各氏は適度に緩やかに世代が次へ引き継がれながら今に至っている。こうして会場の受付をしながら過去を振り返ってみると、既に彼岸の暮らしをはじめた方や高齢で彫刻を廃業した方、生活の変化で制作をリタイヤされた方など、幾人も思い出される。それでも今のところ、時代の変化に揉まれながらも、かろうじてそれなりにしぶとくひとつ事にしがみついている。

この小品彫刻展の始まる少し前、先週末締切の彫刻をひとつ急いで造った。
かたちの方は、最近の流れでほぼ迷うこと無く決めているから2日ほど使って一気に制作した。生憎2日目が雨になって、工場で仕事している間、やみ間無く降り続いた。
夕方からおったち美術展の中締め会があったので、それまでに造り終わって、自分へのご褒美も兼ねて仕入れた〆張鶴をみんなで完飲している間に飯南高原は土砂降りの大雨になっていた。
次の朝、寺へ帰ってみると軒下の彫刻がずぶ濡れになっていた。
錆の手助けに夜露がどぉ〜のこぉ〜の・・などと期待した自分が甘かった。その彫刻は室内展示になるから表面処理で塗装が欠かせない。ずぶ濡れの湿気が塗装のクモリになって厄介だから、とにかく鉄の彫刻が完全に乾いた状態になるまでひと手間くらいのことで済むわけもなく・・彫刻へ向けてエアコンつけたりサーキュレーター回したり除湿機当てたり、ひと苦労した。
その彫刻は、乙立から石見銀山へ展示移動の裏で指定業者の住所宛に発送を済ませた。

群言堂の彫刻展会場から窓越しに見える楓の紅葉に今年は縮れ枯れたバーントシェンナが混ざって味気ない。石見銀山の夏が暑すぎたこと、昼夜の寒暖差が少なかったことがいけなかったのだろうと思うが、とにかくいまだに日中は汗ばむほどの日も多いし、確実に秋が遅くなっていることだけは確かだ。
例年だと、11月の末にはシーズン一番の寒気団が島根上空まで南下して初雪になる。紅葉目当ての石見銀山観光さんには残念な秋になるかもしれない。

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ギルバート・グレイブ 

2023/11/10
Fri. 09:05

これから雨になって週末から一気に気温が下がるらしい。
万善寺のあたりはすでに朝夕の気温も一桁が続いていていつもと変わりなく山茶花も咲き始めて越冬の赤蜂がセッセと花の蜜を集めている。カメムシはとんでもないところまで集団で潜り込んでいるから気が抜けない。今年は夏が暑かったから例年の5倍くらい多い。

おったちの美術展が日曜日で終わる。
空模様と相談しながら彫刻を梱包し直して石見銀山まで運ぶ。
おったちも石見銀山も会場が二階で階段しかないから、搬出入の階段往復が年々きつくなる。その時は気持ちが張っているから苦もなく動けているが、運搬の疲労は2〜3日後にやってきて、身体中にロキソニン湿布を張り巡らして会場受付をすることになる。さて、ボクの体力があと何年持ちこたえられるか・・本当は次の世代が育ってくれると良いのだが、今の世知辛い世の中でなかなかそれも難しい。
巡回展用の小品を造っていたらタケちゃんがおったち会場の庭の端にある銀杏の実を大きなビニール袋にビッシリと収穫して二袋ほど持ってきてくれた。万善寺の銀杏の木は先代の頃に鉢で育てていたものを地植えにしたものだからまだ幹も細くて実の量も少ない。おったちの銀杏は立派な巨木だから落ちた実を掃き集めるだけで物凄い量になる。それの一部をタケちゃんがわざわざ収穫してくれたわけだから粗末にできない。彫刻制作の手を休めて小一時間ほど銀杏掃除をしてレジ袋満杯分を鉄板の上に広げてからタケちゃんへメールを入れておいた。毎日食べても来年になるまで無くならないだろう。銀杏は少量だが毒もあるので食べ過ぎに注意しましょう!
ボクが少年の頃は、秋になると銀杏拾いと栗拾いと杉葉拾いが子供の仕事だった。今は銀杏を拾うくらいのことだが、それもボクの代で絶えることになった。

10月は展覧会の用事で半月ばかり東京暮らしが続いた。
連日仕事をたまにはリセットしたいし、毎晩飲み歩いても財力も体力も続かないしするから、部屋にこもって本でも読むか巨大スクリーンで好きな映画でも観るかくらいしか思いつかない。
新宿ピカデリーで「ギルバート・グレイブ」のリバイバル上映を見つけた。
監督はボクの好きなラッセ・ハムストレムさんでスウェーデンの人だ。この映画を最初に見たのは今から30年くらい前だったと思う。まだジョニー・デップも若くてディカプリオは可愛らしい少年と言ってもおかしくないくらいだった。
キーポンがボクとワイフのチケットをとってくれて三人並んで観た。昔はよくワイフと映画を観ていたものだが、子供達が独立してからはそういうことも無くなっていた。
夫婦の暮らしも半世紀近く続くと、それぞれお互いにお互いの思うことや生活のリズムががズレてきてすれ違うことの方が多くなっている。無理に一緒にいようとするとお互いのストレスにもなってくるし、適度に距離をおいて付かず離れずの暮らしでいたほうが気楽でいられる。ボクの寺暮らしもその一環で「仲良し別居」が増えた。
何から何まで家事一切自分でこなさなければいけないが、むしろそれをすることでワイフの日常の大変さを身をもって自覚できて彼女への感謝に変わる。まぁ、彼女はどう思ってるか解らないけどネ・・・

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冬の楽しみ 

2023/11/09
Thu. 10:28

これから春先までの飯南高原は、晴れれば放射冷却現象でグンと冷え込む。
裏日本の冬型気候だと厚い雲に覆われることが普通だから、島根の方は気温もそれほど寒く冷えることもないが、今年はエルニーニョがすごくて暖冬傾向にあって雪が少なくなりそうだ・・ということは、晴れることも増えて放射冷却の日が増えるということで、要するに低温が厳しくなると言うこと。
数年前も似たような冬になって、あの時はまだ冬の万善寺暮らしに慣れていなかったから、水道管が破裂したり灯油の備蓄が底をついてストーブが使えなくなったり、それに一番ダメージだったのはボクの先代の愛車結界くんが寒さにやられて動かなくなってしまったことだった。同級生のディーラーを頼って代車を都合してもらって、春になるまで何とかしのいで今の銀くんに乗り換えた。冬シーズンの間に吉田家の家計収支がガタガタになってその年一年はドキドキヒヤヒヤしながら生活を続けることになった。
あのときの経験があって、二度と同じ失敗を繰り返したくないから、それからは冬の間万善寺でオヤジの一人暮らしをすることに決めて今に至っている。慣れれば雪に埋もれた孤立暮らしもそれほど苦にならない。今年もまた、もうしばらくしたら冬の万善寺暮らしが始まる。

六本木の彫刻を運ぶのにユニックを借りたから、ついでに富山町に置いた彫刻を寺のお地蔵さん脇の荒れ地まで移動した。
その荒れ地は隣の土地なのだが、もう何十年も留守にしている空き家だったのを、家主が訳あって空き家バンクに登録したとほんの一ヶ月ほど前に聞いた。それまで、荒れ地に葛が茂って参道やお地蔵さんの方まで伸びてくるのを遠慮しながら刈り取って遠慮しながらひまわりの種を蒔いたりしてメンテナンスしていた。家主が帰ることもないのならもう遠慮しないで良いかもしれないと勝手に判断して彫刻を持って帰ってその場所へ置いた。シリーズで言うと今から二つ前くらいのモノだが、自分にとってはそれなりに制作の背景も含めて思い入れもある気に入りの彫刻だ。
この秋は、一気に二つの野外彫刻が寺の周りに増えた。
彫刻へ雪が降り積もる様子を近くで見ることが出来るようになって冬の楽しみが増えた。

早々と紅葉していた銀杏の実が、先日の大風でドッサリ落ちた。夏の間に色々なところからお供えで頂いた夏野菜のおかえしになれば良いと思って拾い集めた。
昔、上野の都美術館へ彫刻を展示していた頃は、野外彫刻展示場のど真ん中へ銀杏の大木があった。展覧会の会期中に紅葉した葉が落ちて彫刻も地面も黄色に染まって、踏み潰された銀杏の実があの独特の匂いを撒き散らしていた。今のように整備が進んでいなかった上野公園にはホームレスの人達がたくさん暮らしていて、秋が深まって落ちた銀杏の実を拾い集めて丁寧に洗って生活の足しにして、彼らにとっては貴重な収入源の一つになっていた・・・と、そんなことを思い出した。
野外彫刻は全天候に耐えることの工夫をしなければいけないし、経年劣化への対応も考える必要もあるから、結構ハードルが高い。幸か不幸かボクが住み暮らしている所は雪も降るし風当たりも強いし、どちらかといえば比較的厳しい環境だと思う。そういうところで自分の造った野外彫刻の行末を確認できているということは、ある意味幸せ者だと思う。

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ディズニーオヤジジイ 

2023/11/08
Wed. 11:23

頚椎を三本ほど広げてクサビを打ったのは平成から令和に変わる年の4月から5月にかけてだったから、早いものでもう五年ほど前のことになった。
まだ50代の頃から右半身が動きにくくなって腕から指先へ痺れが続いて、いつまでたっても治らないままダマシダマシ暮らしていたのだが、いよいよ我慢できなくて近所の整形外科へ行ったら「このままほっとくと車椅子になりますよ」と顔色一つ変えないでドクターが脅してきた。流石にそれは「マズイだろう・・」と本気になってアレコレ症状を聞いたら結局手術するしか方法がないことがわかった。当初は5本ほど広げてクサビをはめるような診断だったが、手術が終わって覚醒したときに「三本ほど広げました」と頚椎専門のドクターが教えてくれた。外科的には術後の経過に問題がなければもう何もすることがなくなるわけで、それから3年間定期的に通院して経過観察をしたあと「もう来ないでいいですよ、お大事に・・」の一言で、そのドクターと話すことが終わった。かなり長い間症状の進行をほったらかしていたツケが回って、脊髄のパイプを通っている神経の損傷が回復することもないまま痺れは年々酷くなって今に至っている。
秋の彫刻のことがひと段落したので血流促進の薬をもらいがてら近所のかかりつけ医へ行ったら「久しぶりにレントゲンでも撮っておきましょう」ということになった。「見た感じ骨の方は手術のあとも悪くはなっていないようですね。神経の方は・・ほら、ここが白くなってるでしょ・・これが死んでもとに戻らないから痺れの原因なんです。これはもうどうにもならないから、上手に付き合うしかないですね」とクールに説明してくれた。

今年は秋が秋らしくなくて寒暖の差が激しい。つい先日は夏のような暑さで台風並みの南風で大騒ぎをしたと思ったら、今朝になって寒くて目が冷めてみると4℃まで下がっていて、シーズン初火鉢を出した。こういう気候状態は痺れにこたえる。この痺れの苦痛から開放されるときはボクが死ぬときだ。生きることは苦しみである・・とは、実にお釈迦様の名言である。まともに彫刻が制作できるのもあとわずかのことだろうし、とりあえず今くらいに身体が動くうちは諸々我慢しないでやりたいことをやろうと考えている。それで・・・というわけでもないが、何年ぶりかでワイフと一緒に上京した。娘たちは関東に暮らしているから、上京してしまえばどうにでもなる。
ワイフと一緒の旅は随分とご無沙汰だったから、自分にしては珍しく結構気を使った。街を歩くスピードも違うし、階段の上り下りも気を使ってエレベーターやエスカレーターを探したりした。彼女にとっては六本木も久々で、昔から付き合いのある女流彫刻家とも会場で逢うことができて話が弾んだようだ。ボクは夢の国ディズニーが好きで、上京するとだいたい娘たちを誘って早朝から夜までみっちり楽しんでいる。今年はそれにワイフも加わったから気遣いもあって自分のペースが乱れて結構疲れた。それでも、みんなそれぞれそれなりに楽しんでお土産もいっぱい買うことができた。ワイフはクッキーの缶を鉛筆入れにするのだそうだ。良い思い出になった。

頚椎のことや指先の痺れは長い間じっとしていることが一番つらい。何かしら用を見つけてせわしなくしている方が楽だったりする。まぁ、要するに身体の動くうちはゴロゴロと寝てばっかりで「楽をしないでセッセと働け!」ということだ。坊主業はだいたいがジッとしていることのほうが多いから彫刻を造るよりつらいのです・・・実はネ・・

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大風のあと 

2023/11/07
Tue. 10:07

それにしても物凄い大風だった。
昼のうちから夏に戻ったような暑さで、着ている服を一枚一枚脱いで、結局夕方にはTシャツ一枚になっていた。風はその頃から次第に強くなって境内の色々なものがアチコチ飛んで舞はじめたから急いで片付けたりした。夜になると風がもっとすごくなって裏山が唸りを上げて、それが気になってなかなか寝付けないでいた。夜中に何度も目が覚めて、それを繰り返していたら朝になった。外が少し明るくなったので境内の様子を確かめると、彫刻の島根搬出で使った古毛布が結構厳重に重しをしておいたのに工場の隅へ吹き飛ばされてグチャグチャに重なっていた。
万善寺は南向きに建っていて狭い境内の端は松や椿や山茶花や百日紅や楓などの庭木で囲まれている。今年は夏が暑くて長く続いたから北側に広がる裏山の秋の紅葉も期待できないまま縮れ枯れて落ち葉になった。
一昼夜吹き荒れた南風のお陰で境内の落ち葉が四方に吹き飛ばされて庭掃きの手間が少し楽になったし、銀杏の実が見事にドッサリ落ちた。ものは考えようで少しは良いこともある。

10月末に終わった六本木の展覧会から彫刻を搬出して、11月の三連休の間に寺の湿地の端へ設置した。自分の近くへ彫刻を持って帰って久しぶりに周辺の風景が少しほど変わって見えた。
この近年は秋の彫刻を島根県内や中国地方の各所へ置かせてもらうことが続いていた。自分の手元に彫刻が無くても、その場所へ行けばいつでも見ることができるし、周辺の環境や借景の風景が違って新鮮に感じる。
秋の彫刻は連続して2点造る。工法はほぼ同じだが、かたちの方向性をそれぞれ別にして変えている。
長い間考え続けていたかたちを工法と完成度のレベルにおおよその納得が出来てから造り始めるようにしているから、今年の新作も、もう10年近く頭と心のなかであたため続けていたものだ。自分ではほぼ思い通りになった気がしていて、それなりに納得できて満足している。もうしばらくはこのかたちを工夫して幾つかの連作に出来たら良いと思ったから手元に置くことにした。これから鉄錆が落ち着く過程を近くで確認しながら、冬になって雪の積もり具合とか春の草木の萌とか、かたちとの対比がどのように見えるか楽しみながら次の展開を決めていこうと思う。

「今日の午後からおったち見に行こうと思うんだけど、正チャンどうする?」
南からの大風がまともに彫刻へ吹き付けたので倒れないか心配したが、何事もなく過ぎたし、珍しくワイフの方からお誘いがかかったし、ひとまず石見銀山の吉田家へ帰ることにした。
吉田家でワイフと合流しておったちへ走った。風が落ち着いた頃から雨が降り始めた。彼女のタフトは撥水剤が劣化して吹き付ける雨がガラスに張り付いてワイパーの油膜がにじむし、走りにくくて変に気を使った。
そういえば、おったちの展示の日はアラレが降り始めて途中からヒョウに変わるほどの大荒れだった。最近、妙に変な天気が続く・・・

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野良坊主彫刻旅ーその3 

2023/10/12
Thu. 17:24

入選落選の絡む審査が終わってから、二紀会彫刻部組織メンバーの作品をひと通り巡回した。例年見慣れた彫刻が展示室脇へ仮置きされて陳列の日を待っている。吉田の彫刻は野外展示が常態化していて、陳列までの間六本木の夜露に濡れながら錆の進行を待つことになる。

ノッチが夕方から用事で出かけるというので、一緒に出かけることにして荷物をまとめた。不便に使っていた天板の反り返ったテーブルを銀くんまで運んでくれて、数日間の溜まった駐車料金を半分持ってくれた。彼女も立派な社会人になったものだ。親のことを心配してくれるようになった。
彼女のリクエストで作ったオリジナルのテーブルは、しばらくのあいだ島根のお寺で使いながら不具合を確かめてから東京へ運んだものだった。ノッチが使っている間に鉄のフレームから天板が反り返って在宅ワークで使っているラップトットップがカタカタ揺れて「仕事がしにくいの・・」とクレームが返ってきた。寺で使っている間なにもなかったのに、東京は随分乾燥しているようだ。ビスでガッチリ固定して修繕したから今度は大丈夫だろう。

ゆっくりのんびりと銀くんを走らせて、18時間かけて寺まで帰った。道中はずっと雨降で三重のあたりはものすごい強風だった。東西に長い日本をほぼ900km走っている間、ずっと雨降りというのも珍しい。次の日も、寺はほぼ一日中雨降りが続いた。陳列で上京するまでの間に畑の草刈りをして耕運機を入れる計画でいたが、最初の1日が雨で潰れた。吉田家のことも心配なので、その日の夕方久しぶりに帰宅すると、クロくんが土間の格子戸まで出迎えてくれた。しばらく逢っていなかったのにちゃんと覚えてくれていた。駐車場にワイフの車がなかったので、また何かの用事で何処かへ出掛けているのだろう。彼女の制作場所になっていた食卓がだいたい片付けてあって、作りおきのレンコンが器に盛られて置いてあった。徳島の道の駅で仕入れたレンコンだと思う。ホームシアターのプロジェクターをONして、レンコンをつまみに麦とホップを飲んでいたら、シロがサッと前を横切って土間へ降りていった。たぶんワイフが帰宅したのだろう。

久しぶりの吉田家は、特に何事もなくひと晩が過ぎた。
町並みを子供たちの集団登校が来る前に駐車場を出て寺へ向かった。
寺の上空は秋晴れで空が高い。草刈り日和になった。
さっそく作業着に着替えて準備をしていると電話がなった。お檀家さんの年回法事予約で日程を決めてスケジュールに記帳していたらまた電話かなった。別のお檀家さんでお墓の移転相談だった。ちょっと込み入った話になったが、何とか着地点をみつけられた。
玄関先で草刈機の準備をしていたらお隣のおじいさんが訪ねてきた。保賀地内の空き家のことで相談だった。
日頃は暇な万善寺で珍しいほど別の用事が次々つながった・・・
予定の一時間遅れで畑へ降りると、タケちゃん菜園から頂いたトマトが今年最後の実を沢山付けていた。草刈りは畑半分で力尽きて、夏の名残のトマトを収穫して畑仕事終了!
陳列で一週間留守にするから耕運機はその後になりそうだ。

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野良坊主彫刻旅ーその2 

2023/10/11
Wed. 10:44

ボクとワイフの島根搬入を済ませて野外彫刻のキャプションプレートを今年使えるように掃除したあと、東京行きの支度で寺へ移動した。

寺の庫裡で長い間生活していた両親が他界して、やっと自由に彫刻の制作ができるようになったから、ボクの寺暮らしへ少しずつ彫刻の工場移転を始めた。秋の六本木は比較的大きめな彫刻を造っていて、その工場を石見銀山の近くに借りて使わせてもらっていた。ワイフの彫刻は素材の関係で野外に放置できないからどうしても倉庫のような保管場所が必要で、制作工場はそれも兼ねていた。
深く思い詰めて意地に決めているわけでもないが、随分昔から一年の間に幾つか巡ってくる彫刻の展覧会にはできるだけソレ用の新作を制作するようにしている。正確に覚えている訳では無いが、確か還暦の前後になった頃からは、はっきりと強く意識してそうするようにしようと決めた気がする。
そもそも、彫刻を造るということは、新作とか主題の確認や展開で個展でも思いつかない限り一年で数えるほどしか具体的にそこに存在するかたちにすることがない。要するに、多作が難しいということだ。それが大きめの彫刻となると材料代のこともあるし、失敗は許されないから熟考するし制作に時間もかけるからよけいにそうなる。そういう制作環境で各種展覧会へひとつの彫刻を使いまわして楽をしていたりすると、自分が死ぬまでに、もしくは脳みそや身体が言うことを聞かなくなるまでに造っていられる彫刻がどんどん減ってしまう・・・と、ソレが嫌だから、とにかく何かしらの展覧会へ彫刻を造ることが決まったらソレ用の新作を造ることに決めた次第。
今のところ、彫刻のメモだけは捨てるほどストックがあるから造ろうと決まったら何時でも制作に取り掛かれるようにはなっている。

相棒の銀くんへ自作ベッドを積み込むなどして、長距離仕様にして、ノッチからダメ出しがあって修理したテーブルを積み込んで、道中の耳のお供を幾つかチェックして、夜食用にサンドイッチとかゆで玉子などすぐつまめるものを作って、ぐっちゃんから貰った広島の珈琲をポットいっぱいにして、午後5時に寺を出発した。
途中下道で給油して、高速で2回ほどチビチビ満タンにして、3箇所で仮眠して、タイ出張で留守中のノッチ家脇にある簡易パーキングへ銀くんをバック駐車させたのが次の日の正午少し前だった。新東名から東名へ入るまでは比較的順調だったが東名から都内へ入るところで渋滞にハマって身動きできないまま無駄に時間が過ぎた。
その日の夜、キーポンの仕事が終わるのを待って二人で夕食がてら焼き鳥で一杯やった。4月に入って新年度に変わってからはじめてキーポンと仕事の話をしたら、彼女の役職が職場限定管理職待遇になっていた。末娘の甘えん坊チャンがいつの間にか立派な働く女になっていて、オヤジジイもタジタジ。2日間の搬入受付業務と1日の審査業務の役をお勤めして、彫刻部の業務終了で慰労会が終わって帰宅するとノッチがタイから帰った形跡があったが、そのまま何処かへ出掛けたようで留守のままだった。次の日、買い込んだコンビニ弁当などで一杯やりながらタイの土産話を聞いた。彼女はタイ米コンテナ40個分の輸出を操作しているらしい。島根暮らしのオヤジジイには全く理解不能の世界規模なデカい夢のような話題だ。土産のタイ製カップ麺はメチャ辛かったけどボク好みに美味かった。

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野良坊主彫刻旅 

2023/10/10
Tue. 12:11

徳島の搬入からスタートした吉田の彫刻旅が、だいたい半分ほど終わった。
9月から10月にかけてはほとんど島根を留守にしていて、寺のことも吉田家のこともすべてが9月中旬のまま停滞が続いている。
自然が相手だと「ちょっと、伸びるの待って・・」とか「ちょっと、熟すの待って・・」とか、自分の都合で庭の雑草や畑のトマトにお願いしても言うこと聞いてくれないし・・
人間の付き合いも結構面倒臭いけど周辺の自然と付き合うのもなかなか骨が折れる。

それにしても、徳島は暑かった。
10月に入っているのにジッとしていても汗がにじみ出てきて、日頃標高450mの高原で暮らしているボクには耐えられない暑さだった。
野外彫刻展へ出品の作家や徳島の彫刻集団支援組織メンバーのみなさんと交流会のあと、会場で作家が自作を語るギャラリートークが続いた。ボクの順番は最初の方だったので鉄製彫刻の制作工法でお話をさせてもらった。自分ではいつもと変わらない工法をほぼ40年も続けているから、特別新鮮でもないし難しくて苦労しているわけでもないのだが、鉄と縁が薄い人にとっては同じ彫刻家でも「どうやって造っているのだろう?・・」と不思議に感じているところもあるようだ。そういう気持ちもわからない訳でないし、かく言う自分自身だって40年前は今のように躊躇も迷いもなくスイスイ制作が進んでいたわけではない。今なら5分10分でできることをあの頃は1時間も2時間も無駄に時間を使って失敗を何度も繰り返していた。制作の失敗があったから、ソレを一つ一つクリアーできて今に至っているわけでそういう彫刻制作の過程の蓄積が吉田彫刻の作風になっている気もする。
徳島流のギャラリートークは制作者の彫刻に対する色々な背景を聞くことができて勉強にもなるから好きだ。

島根へ帰る途中、板野の道の駅で徳島の芋などを土産に買って、岡山の児島由加山参詣道脇にある知り合いの珈琲屋さんへ寄り道した。
店主の彼は多趣味の人で(・・というと叱られるかもしれないが)弦楽器をメインの音楽演奏や展覧会へ出品するほどの書家であったり珈琲屋のある渓谷で養蜂業を営んでもいる。もちろん珈琲は抜群に美味い。
寺暮らしのオヤジメシで砂糖代わりに使っている蜂蜜が無くなったので、徳島のついでに補充しようと思いつつ暫くの間その暇を作ることができなくて疎遠になっていた。
共通の友人の草月流で活躍の熟女も訪ねてくれた。彼女も精力的多角的に文化活動を展開していて沢山の企画を回している。
店主は聞き上手の人で、アレコレとりとめのない話をしていたらいつの間にか夕方近くまで長居してしまっていた。久しぶりにいっぱい話ができた。
その日、寺へ帰着すると夜の10時が近かった。それからあと、夜食のような夕食を造っている間、店主の入れた珈琲の名残りが口の中に残っていた。彼の珈琲は美味すぎて真似できない。

翌日、早いうちから雨になるというので急いで六本木の彫刻を軽くんへ積み込んだ。共同搬入のチャーター便へ積みかえてから、搬入業務に東京へ向かう。

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ちょうどいいかげん 

2023/09/29
Fri. 11:38

ひまわりの種を収穫しながら秋の草刈りを始めたところで雨が降り始め、そのまましばらくグズツイた天気が続いていた。
今朝は久しぶりの爽快な秋晴れになったので刈り残っているひまわり畑まで降りてみると、履いていた短靴が雑草の朝露に濡れてビッショリ濡れた。再開できると思っていた草刈りも、この朝露が乾いてくれないと作業がはかどらないばかりか、露気をタップリ含んで重くなった雑草の重みで体力を消耗する。ワイフの彫刻制作が心配で、場合によっては昼から半日ほど手伝うつもりで連絡したのだが返事がない。畑へ出ると草刈りのエンジン音で電話が聞こえないし、どうしたものかと思案していたら、寺の隣のおじいさんがザルに山盛りの夏野菜を抱えてきてくれた。「連絡もらったらこちらからお伺いしましたのに・・」もう、80歳を過ぎて急な参道の登り降りをしていただくのが忍びない。
「これがさいごですけぇ〜ねぇ〜」といってザルごと式台へ置いて帰っていった。
完熟して赤く色づいたピーマンやシシトウを仕分けしながら、これだけの量をどうやって無駄なくさばこうか考えてはみたが良い案が見つからない。とにかく切ったり焼いたりして和洋中華思いつく味付けにしてしまうのが無難だろう。粗末にはできない。

近年の万善寺はコロナを境にお参りは減ったがお供えは年々増加傾向にある。
実に有難いことで、このひと夏はほとんど夏野菜の心配をすることのないまま過ぎた。寺暮らしの続くボクにとっては何にも代え難いお布施になって新鮮な暮らしの潤いになった。
先代の頃は、おかみさんが寺の畑で季節の野菜を作っていた。家族が食べるに十分すぎるほどの収穫があって、隣近所もそのことを承知だったからわざわざお参りに野菜を持参することもなかった。春には筍や山菜、梅雨には梅、秋には柿や栗と自然の恵みが耐えなかったし、夏や冬の野菜を心配することもない、ほぼ自給自足の暮らしができていた。ソレこそ絵に描いたような田舎の曹洞宗山寺住職の作務暮らしであった。ボクが寺を離れて10年以上一人暮らしをしている間もほぼ変わりない寺暮らしが続いていたようだが、それでもジワジワと寺の境内周辺へ耕作放棄地が増えてきて山が近くなってくるのを、盆正月に帰省して寺を手伝うたびになんとなく気がついていた。
幸か不幸か3つの元号を見てきたボクとしては、果たして今の時代が昭和の昔より幸福でいられているのだろうか、正直わからないでいる。

秋の長雨に濡れたひまわりは日に日に鮮やかな原色を失い、百日紅の小粒な花は花の数だけ大粒な実になり、時期を過ぎた夏野菜は緑の奥から補色の赤が現れ、鈍った自分の心眼を刺激してくれる。
そういう身近な変化を間近に感じながら六本木の彫刻へ錆色を期待いている。
鉄板へびっしりと張り付いた夜の露が朝の陽を受けて一瞬で乾いた。触ると手のひらに鉄のぬくもりが伝わる。これから約半月かけて、展覧会が始まる頃には今より錆色が増しているはずだし、それを期待している。自分の都合で無理して錆の操作をすることは楽にできるが、できたらできるだけ自然に鉄が自力で錆色に変色してほしい。
これから造り続ける彫刻は、地球の環境が大きく激変しない限り確実に自分より長生きする。ちょうどいいかげんに周辺と仲良く共存できる彫刻であり続けてほしい。

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彫刻を置く 

2023/09/28
Thu. 11:25

愛用している12インチMacBookは2016年の年代物で、半年ほど前から起動時の不具合が出始めて改善できないままでいる。12インチというと今ではiPadでも13インチがあるくらいだから、ラップトップのサイズ的にアップルの世界ではすでに過去のものになってしまっているのだろう。
ボクにとっての12インチは肩掛けのバッグにすっぽり収まって重量もそこそこ軽いし、旅のお供に欠かすことのできない相棒であって、これに勝るものがない。ソレまでは13インチのMacBook Proを使っていたのだが、ある日突然呆気なく壊れた。そもそもラップトップにあまりに多くの性能を詰め込みすぎることの必然性がどれだけあるのだろうと感じながら使っていただけに、それほど壊れたときの喪失感を思うこともなく「やっぱりな・・」くらいにしか感じなかった。その13インチが壊れる少し前から動作の不具合が多発していたから、そろそろ買い替えどきかもしれない・・と思っていたところへ、なんの前触れもなくサラリと発売されたのが12インチだった。携行品は極力小さい方がいいと思う質で、携帯電話も小さければ小さいほど良い。ボクの携帯電話サイズ基準は501のポケットに難なく収まるサイズになっている・・が、もうそういう小さいのは出てきそうにない。
それで、その12インチだが、最近どぉ〜も調子が優れない。
このブログ更新もちょっとした用事の出先で少しほど時間ができると肩掛けから引き出して銀くんのハンドルをテーブル代わりにプチプチやったりしているから続いているようなものだ。この相棒が動かなくなったらブログも終了することになるかもしれないと真面目に心配する。
まぁ、そんなわけで今のところかろうじて起動も充電もできているからもうしばらくはダマシダマシ上手に付き合っていこうと思っている。
これから始まる彫刻の旅も12インチに活躍してもらわなければいけない!壊れたらどうしよう・・・

週末に徳島へ出かける。
野外彫刻展のオープンと交流会へ参加する。彫刻の番号順にギャラリートークもあって、自分の番が終わったら四国の近場を散策しながら寺へ帰ろうと計画している。毎年この時期徳島へ通い始めてそろそろ10年近くになる頃だ。たくさんの彫刻家と心安くなったし石見銀山の小品彫刻展へ出品してくれる作家も増えた。
今年の彫刻はかなり前から工夫して造ろうと思っていたかたちがあって、ソレがやっと工法も見えてきて制作の自信がついたから、まずは試してみようと踏ん切ったものだ。
それほど大きくないが、溶接の手数とか手順がそれなりに複雑になってしまって少し手こずった。この彫刻は徳島の会期が終わったら搬出して岡山の個人宅へ移動する。そのお宅ではすでに彫刻の設置場所を改修整地して彫刻の到着を待っている。送られてきた写真を見るとあまりにも用意周到に整地されていて、徳島から移動してポンと置いて帰るほどの軽いノリが難しくなった。ひとまず寺へ引き上げて設置の工夫を溶接し直して改めて岡山へ搬入することに決めた。

こうして彫刻を造らせてもらえるのもあと数年だけのことなので、古希を境に銭勘定の物欲を捨てた。次の彫刻を造れるだけの材料代と運搬の必要経費があればそれで十分だ。

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読書旅 

2023/09/27
Wed. 12:14

「レオナルドダビンチの手記」は吉田が上京してまだ10代の頃に神保町の古本屋で見つけて読み始めて、すぐに挫折した本だ。記憶が曖昧でよく思い出せないが、確かその時何冊かまとめ買いした中にサルトルの「自由への道」があって、それは数冊セットの超長編小説だったが、こちらの方は夜も寝ないで飯も抜いて読破した記憶がある。遠藤周作の「ただいま浪人」とか五木寛之の「青春の門」を呼んだのもその頃だったと思う。マァ、多感な時期のことだから毎日を悶々と暮らしていたということだ。サルトルと五木寛之は友人に勧めて本を貸してそのままになって帰って来なかった。遠藤周作はいまだに寺か吉田家の何処かで眠っているはずだ。

シャイで内向的でインドアで人見知りなボクは汗を流すのが大嫌いで、そういう性格のまま少年が青年になって大人になって、今の自堕落なオヤジジイになった。よく生き長らえたものだと不思議であり有難いと思う。人嫌いというほどでもないが人付き合いに積極的でもない性格の人間だからだろう、小さい頃から絵を描いたり本を読んだりする一人遊びが好きだった。万善寺で白黒のテレビが見られるようになったのは小学校の4年生くらいだったと思う。年末年始の深夜から早朝にかけてチャップリンや黒澤明の映画を放映していた。寺は年の瀬の法要があって除夜の鐘をついて家族で新年の挨拶をしてお水取りをして湯茶や茹で餅をお供えして早朝の年始祝献朝課法要がはじまるという、とにかく忙しいことだから子供の自分もそういうドタバタで目が冴えて、おかげさまで日頃見ることのできない映画を暮れから正月にかけてタップリと堪能することができた。それで、少年の頃から映画が好きになって現在まで絶え間なく続いている。

秋の彫刻制作が一段落して地蔵盆も終わったし、あとは搬入などの仕事を残すだけになったから、しばらくぶりに映画と本のチェックに時間を使うことができるようになった。
最近はKindleを使うようになったからほとんど紙媒体の本を買うことがなくなった。Amazonをメインに気がかりなタイトルをチェックしておくと、AIが勝手に関連のモノを並べてくれるからマンマとそれにつられてついついポチッとしてしまう。「レオナルドダビンチの手記」もトップページのおすすめコーナーへさり気なく掲載されていた。「AI恐るべし!」だ。あの頃に一回挫折した本だから再読しようか一瞬迷ったが、その近くに「牧野植物図鑑の謎」という虹色のキレイな絵柄の表紙があって、ろくに内容も確認しないまま見事に釣られてしまった。ダウンロードが終わって目次を追いかけていると、どこかしら面白そうな展開になっているようで楽しく読めそうな気がした。
安西水丸さんは昔「ガロ」という雑誌があって、確かその本ではじめて知ったはずだと記憶しているが、ボクの勝手な思い込みだけかもしれない。あの人の描く絵は線と面の組み合わせにとても含蓄があって、「間」というか「行間」というか、そういうところに用意された絶妙な「抜け感」がボクの心を掴む。昔愛読書だったキネマ旬報に連載記事があったり、村上さんの文章にイラストを添えた共著があったり、とにかくボクにとってはダントツに好きで憧れる人だ。彼は亡くなってそろそろ10年近くになるはずだ。その安西水丸さんの遺作がやっと一冊の本になったということをKindleのお知らせ通知で知って躊躇なくポチッとした。あとで知ったことだが結構高かった。
これから徳島や六本木の彫刻業務でしばらく雲水未満ナンチャッテ野良坊主の読書旅が続く。

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残暑の日 

2023/09/26
Tue. 17:29

まぁ、ほぼ一ヶ月、色々ありまして・・・
なかなか落ち着いてラップトップを起動する暇が無かったわけで・・・
ボクのブログは、MacBook12インチをメイン機で使っている。寺の寺務所で使っている万善寺の寺務や彫刻絡みの事務など若干手間のかかるデスクワークはMac miniへモニターを繋いでいる。

今年の・・確か3月だったと思うが、ワイフが属しているグループが主催する展覧会の搬入搬出代行で上京する少し前、ボクの右目に穴が開いて毛細血管から眼球へ血が流れ出したのを治療するのにレーザー光線を照射する緊急手術をした。銀行の(吉田正純名義の)通帳から引き出した上京の諸費用がそのままそっくり手術代で消えた。寺の金に手を付けるわけにいかないから、大急ぎで必要経費をかき集めていたら「これ、行動費で使って・・少ないけど・・」と珍しくワイフが気を利かせてくれてなんとか彼女の代行業務を済ますことができた。
春先から、概ね平穏に暮らす日々の中で時折忘れた頃に予期せぬ出来事が勃発して、その度に粛々と目先の現実へ向き合ってやり過ごしてきたが、お盆の準備が始まった頃から今度はコロナで三年の間中止や延期で停滞していた宗門の行事が軒並み復活して名ばかりの幹事職を持っているボクへ大会の開催業務が降り掛かってきた。それで2つの大きな宗門大会で事前の打ち合わせや当日の受付を乗り切っている間に、満開のひまわりが盛りを過ぎ、合歓の木の淡いピンクが百日紅の鮮やかなピンクに変わり、寺の周辺の田んぼでは稲穂が金色に染まり、新蕎麦の白い花が満開になった。
9月24日は毎年ひと月遅れの地蔵盆で数珠繰りをしている。万善寺に伝承されている唯一の夜法要で今に残っている。
お盆が一段落した8月の末からこの地蔵供養までの約1ヶ月で大きめの彫刻を2点造った。
一つは徳島の野外彫刻、一つは六本木の野外彫刻。
ボクの場合、構想はほぼ1年近くあたため続けているから、それぞれ用に造る彫刻は大体決まっている。徳島は9月1日に実材へドローイングをはじめて約1週間かけてかたちが完成した。六本木は9月8日から実材を裁断し始めて約10日間でかたちを造り終わった。それから徳島の搬入設置を一日で済ませて地蔵供養の夜法要で御接待のお茶会に幾つかのおもてなし料理を造った。
地蔵法要は8人のお参りを頂いた。例年とほぼ変わらないいつものメンバーだが、最近は1年毎に一人二人とお参りの欠席が増えている。どなたも一緒にボクも一緒に毎年確実に一つずつ歳をとっているわけだから、世代の交代が続かないでいるとそのうちお参りも無くなって数珠繰りが出来なくなる。
 
今後お参りが3人までになったところで地蔵供養の夜法要は廃止しようと決めている。八畳の座敷に大きく広がる数珠の輪の大玉と中玉を額にいただきながら数珠を繰り回すにはボクも含めて4人はいないと法要のかたちにならない。
約2m前後の比較的大きめな彫刻制作は、自分の体力のことを考えるとせいぜいあと5年がリミットになるだろうと予測している。その前に大病にでもなったらその時点でリタイヤが決まる。坊主も彫刻も残すところあと数年の先が現実味を帯びて見えてきた。

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ひとり慰労会 

2023/08/26
Sat. 11:36

「例年にない猛暑で」などと、毎年のように云っている気がするのはボクだけだろうか?
とにかくそういうことで今年の万善寺は耐えられないほど暑い。朝も早くから軽く30℃を超えて夜になってもまだこの暑さが続くから、何をする気にもなれない。棚経の間はとにかく辛抱して涼しい顔を装っていたが、それが災いしたのか、今頃になって背骨から肩甲骨の範囲を中心に息をするたび激痛が走る。もう1週間以上、寝ても起きても四六時中そういう状態が続いていて夜もまともに寝られないでいる。アレコレ思っても精神の不調になることは目に見えているから「なるようにしかならない!」と諦めてもっぱら映画鑑賞と読書で気を散らしている。

オヤジの一人暮らしで一日一食の日常は既に定着して常態化している。
夏の間は、夏野菜のお供えが耐えないから食生活がかなり助かっている。ボクは料理人でもないし料理が趣味でもないから、毎日凝った料理などしようとも思わないが、それでもどうせなら不味いモノを食べるより旨くて美味しく頂いた方がお供えの「お下がりを粗末にしないでいられる」と思うから、まぁそれなりにさり気なく凝ってみたりはしている。
蕎麦が好きで造るのも簡単だからよく食べている。
まだ7月の暑さがそれほどでもない頃に、日頃食べる機会のない地産の蕎麦を頂いた。すぐに食べることも出来たが乾麺で日持ちもするし夏の終わりの「ボクへのご褒美」にしようと決めてとっておいたのを、先日これもいただき物の大吟醸で一人慰労会と決めて茹でた。「一人では食べ切れないから・・」とお檀家さんの未亡人から電話があって貰いに行ったモロヘイヤを、高くて買えない長ネギ代わりの薬味にした。

蕎麦をすすりながら、名画座万善寺で「ドライブ・マイ・カー」と「万引き家族」の二本立て上演を観た。
「ドライブ・マイ・カー」は随分前に本を読んでいたので、映画になったのを知ったとき再読しておいた。監督が濱口竜介氏だということで、あの原作を元にしてなにかやらかすだろうとわかっていたから、事前に「シナリオ」掲載の脚本も読んだ。その脚本は随分と人間の内面へ食い込んだ湿度のあるロード・ムービーになっていた。原作の方はサラリとしたクールで無機的な印象が強かったから、映画は脚本のつくりからして万民向けというより映画人向けの賞狙いへシフトした感を強く思った。それで「すぐに観なくてもいいかな・・」とほぉ〜っておいた映画の1つになっていた。
「万引き家族」はあの是枝裕和さんで出演者も曲者揃いだったから期待値が大きかった。是枝さんは映画という領域でしか表現できない総合芸術のツボのようなものを紡いでグローバルに一般的商業映画へ落とし込む映画界の名匠であると思っている。城桧吏くんと佐々木ゆみちゃんの二人が特にすごかった。是枝さんは一流以上の安定性があると思う。

万善寺庫裏の書院床脇と前座敷へ年間を通して季節のしつらえを工夫するように心がけている。自分で勝手に満足しているだけのことだが、観る人が観ればどこかしら気持ちのゆらぎを感じてもらえるのではないだろうかと、ささやかな期待を秘めたりもしている。
盆法要のしつらえで使ったさつまいもが、あれから芽を伸ばし続けているからそろそろ土へ返してやろうと思う。

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無為自然 

2023/08/24
Thu. 10:52

お盆の棚経がひと段落した頃、毎年決まって中学校まで同級生だった人から電話がかかる。
今年もそろそろだろうと思っていたら昨日になって電話がかかった。
「◯◯です。いつもお世話になります」・・・と云われても、たいしてお世話しているわけでもなく一年に一回会ってお経を読んで世間話をして帰るだけのことだ。「こちらこそ、お世話さまでございます・・」と公的対応をして日程調整の電話を切った。
個人でお祀りの観音さまとお地蔵さまと先祖代々有縁無縁古墳一切の供養をしにアレコレ準備して寺を出た時はまだ雨になっていなかった。

お盆が過ぎてしばらく涼しい日が続いていたのに、この2・3日残暑・・というより猛暑がぶり返して寝苦しい夜が続いている。
庫裏玄関を出ると青空が残っていた。雪駄に改良衣の軽装で銀くんを運転していると急に狐雨が降ってきて、施主家に到着した時は傘がないといけないくらいになった。足袋が濡れるから脱ごうかどうか迷ったが、お堂は母屋のすぐ横だし古墳の道中もこの程度ならなんとかなるだろうと軽く考えてお経を始めた。墓参りが終わる頃にはひとまず雨も上がって、出されたアイスコーヒーを飲みながら少しほど世間話をしてお暇した。

一年のうちに「忙しい」と思えるのは「盆と正月くらいのものだ」と長い間思っていたが、最近になってどこかしら慌ただしく気忙しい毎日が過ぎるような気がしてならない。
50歳を少し過ぎた頃に、月給やボーナスのある仕事を退職してフリーになった。
吉田家の身内では「ニートオヤジ」とか「フリーターオヤジ」とか「コミュショーオヤジ」とか言いたいことを云われながら、しぶとく自分のやりたいことをやりたいようにやりくりしつつ先代とその内室を看取った。概ね最後の最後までまわりのお世話にならないように気遣っていたつもりだったから、自分の中では「やりきった感!」があった。

「毎日の畑がいよいよやれんよぉ〜になって・・もう、なんにもできんようになりましたがぁ〜・・」
諸仏供養が終わって帰り際にその家のおじいさんからポロリと弱音が出た。
「みんな一緒ですが。私も随分ダメになって年々身体が思うように動かなくなりました。出来ることを出来るようにできればそれで十分と思うようにしてますよ。お互い様です。気にせんでいられるようになると、チョットほど楽になると思いますよ。また来年ね・・」
「ハイハイ、ドォーモドォーモ・・」
おじいさんはわかったかどうか?玄関先まで出て来て深くお辞儀をして見送ってくれた。

「そぉ〜かぁ〜・・、ボクの身体が少しずつ弱っているからかぁ〜・・」
どうやら気忙しく過ぎる毎日のことは自分の体力減退が原因のようだ。それでもまぁ、だいたいが概ね自由な毎日を過ごし、本を読み、音楽を聴き、映画を見、見逃したドラマに涙し、時に草刈りをし、時に野良猫と戯れ、朝夕にスズメの餌を足して、いただいたお供えの夏野菜で食い繋ぎ、たまに安い肉を貪り、チョットいいことがあったら旨いざる豆腐で少し良い酒を飲む・・と言った日常を続けているわけで、それで十分に幸せだ。

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万善寺施食会法要終了 

2023/08/21
Mon. 18:40

連続したクシャミが四回続いた。
二回までは普通にあるが、それを越えるのは珍しい。

お盆恒例の棚経がひと山超えて万善寺のお盆行事施食会法要(属に云う施餓鬼法要)を終わって、あと残すところは地域の諸仏供養の出張法要くらいになった。
七面さんの供養やお大師さんの供養やお藥師さんとかまぁ色々あって、やっと「おちついたかなぁ〜」といったあんばいだ・・・

本日21日は弘法大師さんのご縁日になる。
「ご縁日」をクドクド云うのも面倒臭いし、そもそもそういうことを大事にも思っていない破戒僧のボクにとってはどうでもいいことだが、今の世の中、破戒僧もビックリするほど破壊されまくりの世間事情にはなかなかついていけなくて、まぁ、個人的には「破壊のまた破壊がはいじまったのかなぁ〜」などと他人事のようにだらしなく乗り切っている今日此の頃であります。

そんなわけで???本日21日は弘法大師さんのご縁日でありました。
万善寺を起点にして周辺施主家から依頼のあったお大師さん供養をご縁日におつとめしたあと、一番最後に保賀地内のお檀家さんが信心込めてお守りしておられるお大師さんを供養させていただきました。ひととおりのお経をおつとめしてご真言を繰り返して「南無帰依仏帰依法帰依僧・・」を終わって「それじゃぁ〜これで・・」と帰ろうとすると「まぁまぁ・・もうあとの用事はないでしょうがぁ〜」と引き止められた。
いつもから懇意にして近しい人だから「まぁ、それはそうですが・・」などと曖昧にこたると「チョットゆっくりやりましょぉ〜や〜」と云うことになって、あらかじめ用意してあった様子の折弁当が出てきた。
道路交通法がそれなりに許容の範囲で緩かった頃と違って、今は強烈に厳しくなっているから一応建前上は誇示したものの、目の前にあるビール缶の誘惑に撃沈した破戒僧は「まぁ、せっかくのことですし」・・と、ズルズル居続けることを選択してしまった。
そんな経緯があって、普通にお昼前には終わっていたお経が、結局夕方の4時過ぎまで長居をしてしまって、万善寺へ帰着をヒグラシがけたたましく大騒ぎしてお出迎えしてしてくれた。それから着物の片付けなどしていたら、急にあたりが騒がしくなって夕立が来た。
まったく、お大師さんの一日は実に忙しない。
そういえば昨年も何かあってドタバタだった気がする。曹洞宗もどちらかといえは体育系だが真言宗が筋金入りの苦行修行体育系と改めて感じた。

ボクは曹洞宗の末寺住職をしているが、そういうことは本音と建前の使い分けで、そのことに全身全霊我が身を捧げているわけではない。同業や宗門幹部の耳に入ると面倒臭いことになりそうだが、一方で宗門信心の我が身でもあるボクはそれも正直な信念だと思うし後ろめたさは微塵もない。
今年の盆月もそろそろ終わりに近づいた。

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サッポロ飲み放題 

2023/08/04
Fri. 19:15

「まぁまぁ、暑いことでございます。ようお参りくださいまして」
そろそろ2週間位雨の降らないまま猛暑が続いている。
「朝から、こがぁ〜に暑いなんちゅーのは、なかったことですがぁ〜」
棚経でお邪魔する先々で「暑い暑い」が挨拶代わりになっている。
「わつし(私)の若い頃にゃぁ〜、ひと夏で30℃をこえるなんざぁ〜、めったになかったことですけぇ〜ねぇ〜」
棚経もまだ始まって間もないのにこの状態だから、これから先、我が身の体力がお盆まで持ちこたえられるだろうか?流石に少々不安になる。

ボクの人生で棚経歴は彫刻歴より圧倒的に長い。
小学生の中学年くらいから先代が運転する50ccバイクの荷台に二人乗りしてついて回っていた。あの頃はまだ原付バイクの二人乗りも許されていた。中学生になると自転車通学が許可されたので1年生の夏からは自転車で棚経を回った。その頃になると毎日数十軒ずつ棚経でお邪魔するお宅をおおよそ覚えていたから、先代と手分けした。高校を卒業するまで似たような夏が続いて、上京したあとも夏には帰省して棚経を務め、自転車から自動車やバイクに乗り物が変わっただけで、よっぽどの事情がない限り休むことはなかった。
すでに古希を迎えたボクの棚経人生は軽く半世紀を越えるほど続いていることになる。
小さい頃は、お邪魔するお宅に同級生がいたりすると「うちの子は朝から泳ぎに行ってまだ帰っとりませんがぁ〜。坊っちゃんはお手伝いできて偉い偉い」などと上手を言いながらお布施を出されたりした。そんなことだから夏休みに友達と遊ぶことなど皆無だった。神戸川の淀みで水遊びをしている同級生を横目に見ながら、白衣着物に改良衣スタイルで大汗かいて自転車をこいでいると、子供ながらに虚しくなって門前の小僧ならぬ門内の小僧である我が身の境遇を呪った。
10年ほど東京で暮らしていたが、そろそろ就職を考える時期が来た頃、先代が病気で臥せった。それで就職の選択肢が激減してUターン地元就職一択になった。一つ手術が終わって退院すると、また別のところに病気が見つかって次の手術をして、退院して、しばらく通院している間にまた別のところが悪くなって手術して・・結局そういうことがメビウスの輪のようにエンドレスで続いて先代に付き合っている間に今度は内室の母親が心臓で倒れて手術したりと、そういうことが40年続いた。先代の七回忌が過ぎ今年の春に母親の七回忌を済ませ、少し気楽になれたと云う頃になって今度はボクの調子が悪くなって二回の手術を乗り切ったと思ったら、地球温暖化のあおりを受けて夏の猛暑と冬の極寒を繰り返す異常気象に翻弄され、そろそろ体力も限界に近くなったオヤジジイのボクはヨレヨレなのであります。

本日の棚経を済ませて寺へ帰って恒例のシャワーと洗濯を済ませてエアコンで冷やした寺の寺務所へ落ち着くと、ノッチからLINEが届いていた。今日は銀座ライオンの創業日だそうだ。そういえば、コロナのこともあってこの近年ご無沙汰だ。銀座ライオンは20代からこの歳になるまでの思い出がいっぱい詰まっている。
お供えや近所からの差し入れで頂いた野菜もたっぷりあるし、今夜のひとり飯はサッポロ飲み放題だ!

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典座(てんぞ) 

2023/08/02
Wed. 15:30

「にさん日 畑見とらんかったら こがぁ〜におおきゅうなっとって・・正チャン 食べらんかね?」
このところ連日朝のうちから30℃を越えるくらい暑い日ばかりだから、一日ごとに早起きになって昨日今日は6時半にはもう外へ出て草刈り機を振り回している。
境内脇の用水路まで降りて草刈りをしていたら近所のおばあさんがスバルの軽トラで境内まで上がってきた。足が思うように動かなくなっていて、隣の家へ行くにもスバルに乗ってミッションを上手に操作している。
「朝っぱらからうるさくしてゴメンナサイね」
草刈り機のエンジンを切っておばあさんに声をかけたら、大きくて長いナスを一本見せてくれた。
「食べらんかね? うちゃぁ〜こがぁ〜にいっぱいあっても食べきれんけぇ〜 持ってきてみたんよぉ〜」
「ハイ!ありがたく頂戴します ナス好きなんですよ・・」
「きゅうりもいらんかね? トマトは? ししとうは? 辛いのはいけんかね?」・・
それからチョットだけ世間話をして、ビニール袋いっぱいに詰まった各種野菜を庫裏の縁側に置いて、おばあさんは狭い境内でスバルを上手に回転させて参道を降りていった。

あまりに暑いものだから昼のうちは庫裏に籠もってデスクワークをしたりiPadでKindleを読んだりして過ごす。
もう随分前から、寺にいるときは一日に夕食一食だけで済ませていて、もうそれが慣れて普通になってきた。はじめのうちは吉田家にいるとワイフがしつこく三度の飯を勧めるから少しだけでも食べるようにしていたが、そのうちワイフも根負けして最近は何も言わなくなった。もっとも、吉田家でいても、朝はワイフが朝食を食べるより早く出るし夕方は夕食ができる少し前くらいに帰るような状態だから、夕食の一食もそれほど不自然に感じなくなったようだ。

夏のうちは、おかずのつくり置きもできにくいし、食材にはシッカリと火を通したり少し辛めに味付けをしたりするようにしている。だいたい2日分をつくって半分ずつ食べて過ごす。野菜は1週間に2回位マリネとか塩もみとか冷蔵庫で数日持つような工夫をしている。どうせひとり飯だし見た目にこだわる必要もないから、フライパンひとつに一品つくって夕食が終わったら2日目用を器に移し替えて冷蔵庫。次の日はその器をレンジてチンして完食・・・といった具合だ。慣れてしまえばそういうことを繰り返すだけだからたいして面倒臭いとも思わない。

宗門僧堂は男ばかりの合宿暮らしだから、食事の用意も全て修行僧の誰かが厨房に立つ。仕切り人の僧を典座(てんぞ)といって、俗にいう料理長。
万善寺先代は住職で晋山するまで僧堂暮らしが長かったから厨房に立つことも多かったようだ。健在の頃、一年のうちほんの数えるだけのことだが、自ら白粥をつくって家族に振る舞っていた。塩と胡麻だけのシンプルな味加減が抜群に美味しくて、今でもあの味を思い出す。ずっとあとになって、米と水の割合は「4:6くらい」と通院の助手席で云っていた。

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草木国土悉皆成仏 

2023/08/01
Tue. 13:18

万善寺が本格的にお盆モードに切り替わった。
雨が止んでから7月のうちは連日屋外の美化作務を続けていたが、暑すぎるのと身体の右半身が痺れすぎるのとで一向に先へ進まなくて、結局東西南まではなんとか体裁を繕えたが北側の全面は全く手付かずのまま8月になってしまった。我が身の劣化を年々確実に身にしみて感じながら鎮痛剤の湿布を右半身へペタペタ貼っている。

長雨のせいで作務が停滞する一方、長雨のお陰で寺周辺の植物が色々成長してくれた。
梅雨前に蒔いたひまわりと蕎麦の種がいい具合に芽吹いて花を咲かせている。ひまわりは昨年の倍くらいに茎も太く背丈が伸びて夏の風にゆったり大きく波打って揺れている。蕎麦は周辺の雑草から頭一つ抜け出してその先に可愛らしい無数の花の塊を咲かせている。これが全部そばの実に変わるのかと想像すると収穫のひと手間が増えてしまいそうで恐ろしくなる。
農業用水路から溢れ出る水と参道斜面から湧き出る地下水とで出来た湿地ではあやめの株が広がって周辺の雑草を隠してくれて助かる。雑草も刈れば土に返って肥やしに変わる。
お隣の耕作放棄地から這い出た葛の蔓が湿地の岸を超えて侵入してくる。その岸へ気づかないうちに合歓の木が根付いていた。このままにしておいたら葛が巻き付いて面倒なことになりそうだがこの度は何もしないで静観しておくことにした。
オヤジの一人暮らしで出る最小限の生ごみ処理場に決めている畑とも言えないような庭とも言えないような実に曖昧な境内の隅にある盛り土ではジャガイモの茎が伸びて花を咲かせた。何年かの間に捨てた生ゴミの中にジャガイモのかけらでもあったのだろう。
茎や葉が枯れ初めて成長の勢いが減退すると収穫が近い。そういう幾つかの茎を引き抜いて掘り返してみたらなかなか見事なジャガイモが一人分の食生活を賄うに十分なほど大量に採れた。
絵画のタケちゃんがくれたトマトの苗もそれなりに順調に成長して、先日初収穫をした。自分で野菜を育てるなど思ってもいなかったことだが「良い息抜きになりますよ」とか「制作のリセットのつもりで」とか彼なりの一言を添えてくれた苗だから粗末にできない。トマトの隣には育苗鉢から移植したバジルもさり気なく成長していて、芽摘みしながら収穫してオヤジのナンチャッテ料理の香り付けに重宝する。

お釈迦さまは五戒の重要を説かれています。
その一つ「不殺生戒」は、漢字そのままに訳すと「殺してはならん!」となる・・が、自分が生きる上で最低限の殺生を避けることは出来ない。食事の前に「ハイ!ちゃんと手を合わせて!」まずは「いただきます!」をしてからだと、だいたいの日本人ならそう教わって大きくなってきたはずだ。その「〜いただきます〜」は、その日その時の糧に対してお礼と感謝の心を込めて手を合わせているわけで、お釈迦さまや仏さまに手を合わせているわけではない。年回法事の塔婆へ「一切衆生悉有仏性」と二行に分けて書くことが多い。「すべての人々は誰も皆仏さまになれる可能性を秘めています!」ということで、今を生きる生き様がそのまま仏さまになれるかどうかの試練を秘めている・・ということだと考えている。今の地球環境をみるに「草木国土悉皆成仏」的世界観で人間としての正しい生き方を日常の暮らしに普通に当たり前のように実践できる自分でありたい。

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直心是道場 

2023/07/30
Sun. 11:48

島根は梅雨明け以来、連日暑い日が続いています
日中は屋内でも30℃を越える暑さでお盆の準備もなかなかはかどりません

さて、遅れておりましたパーテーションの請求を送付させていただきます
中国電力の電気代値上げとかガソリンなどの燃料値上げが続いています
鉄材の流通価格は今年3月に値上がりして以来大きな変動もなく比較的安定しているようですが運送費の方が値上がりしています
以前は鉄板の搬送を業者さんがしてくれていたのを 最近はこちらから直接業者さんの資材置き場へ引き取りにでかけています

世間の情勢に逆らうことも出来ませんし 粛々と現状を受け入れるしかありません
地球の動向は自由主義とか資本主義に依存しすぎているように思いますが そろそろそれらのイデオロギーも綻びが見え始めている気がします
吉田の方はそういう社会情勢と適度に距離を起き お釈迦さまと道元さまの原点に少しでも近づこうと勉強し直しているところです その効果もあってか近作の造形に迷いが減っているようにも思いますが 単なる勘違いの思い込みだけかもしれません 
今頃になって 改めて両尊師さまの人間論の偉大さを重く感じているところです
この年齢になって 人としての正しい有り様とか 極めて当たり前であり普通であり続けることの難しさとか また ブリコラージュの哲学思想も彫刻制作の実践に強く具体に結びついていることとか 自身の立ち位置を再確認するよい機会を得たと感じ 制作の実践に活かせることの喜びを噛み締めながら彫刻のかたちに向き合っています
先日 チョットめでたいことがあって 記念になればと祈念して大急ぎでレリーフを造りました 相手は作家の同業でもあるので下手なものを適当に造ることも出来ないし まぁそれなりに緊張感を持って制作を終わらせたところです 
彫刻を造る上でレリーフの位置付けは平面の絵画寄りに思われがちですが 一方で立体の基本的な造形感を持たないとレリーフでしか出せない緊張を引き出すことが出来ません
そろそろ次の個展も考えているところなので 久しぶりにレリーフを連作するのも良い気がしています

これから本格的なお盆の行事が始まります
朝夕の少し過ごしやすい時間帯を有効に使って境内や周辺の草刈りをしながら彫刻のことも少しずつ先へ進めていこうと考えています
体力の減退は避けられないことなのでそれを補う工夫をアレコレ考えて 数年前からお檀家さんの心施信心を引き継いでひまわり畑をつくり始めました
おかげさまで草刈りの範囲が減って随分楽になったので 味をしめて今年は蕎麦の種を蒔いてみると これが想像以上に上手く芽吹いて栄養の無い痩せた耕作放棄地だったのがなかなかいい感じで華やいできました
労力は 種を蒔くのも草を刈るのもそれほど違わないことですが 気持ちの持ちようが前に向いて流す汗も心地良く感じます 
座ることだけが修行の全てではない・・・というお釈迦さまのお言葉が我が身に染みます

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一言既発 

2023/07/14
Fri. 12:56

こんばんは 明日のことは気にしないでください・・・わたしもせいぜい長くて10年程度のことですから 思い残すことのない日常を過ごそうと鋭意精進中であります・・・

お釈迦様は 「苦」 について思いを巡らし、苦の解放を生涯の目標に定めて日々の瞑想を欠かさず、一方で大衆一人ひとりの悩みや迷いに一つひとつ答えを用意され、そういう一連の日々を後世になってお弟子さんたちがまとめられて、たくさんのお経の元ができました。「口伝」というやつがお経の始まりです。
あなたも、一度お釈迦さまの根本を見て見られたらどうでしょう?
ザックリ摘んでいうと・・吉田の師匠は道元禅師さまだと思っていますが、道元さまは中国の如浄禅師さまを師匠とし、如浄さまは達磨禅師さまを師匠とし、達磨さまはお釈迦さまの教えを中国に伝えられました。
達磨さまが伝えられたお釈迦のお言葉は達磨さまの解釈となり、ソレが元になって今の吉田へ引き継がれているわけですが、あなたの場合は親鸞さまのお考えが信心の元にあることになりますから吉田の仏道とはチョット距離があります。 
いずれにしても、お釈迦の根本はもっとシンプルに「苦」と向き合ったものです。日本仏教のめんどくさい枠を取り払って、ダイレクトにお釈迦のお言葉と向き合われることをお勧めします。今よりは随分と気楽になれるはずです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ナンチャッテ坊主がいつもの軽いノリで飲み会の誘いをSNSで送っておいたら、数日してから返信にしては想定外の、悶々とした心情を吐露した重たい長文が返ってきた。
先代の昭和の頃は、ちょっとした世間話のついで程度の悩み事や相談事で遠方近所問わずお参りが度々あった。時に先代はほぼ一日近くお話をしたり聞いていたりして、内室のおかみさんはお昼を出したり夕食を振る舞ったりしていた。そういう親身になっての様子を見るに、子供心にも沢山の人達から慕われる先代を誇りに思ったものだ。
今のボクなど、先代の足元にも及ばないチャチな坊主だから人望も慕われる要素も皆無だ・・が、たまには「人の生死や人生の幸不幸」へ正面から向き合って抱え込む人と遭遇することもあるようだ。自分の責任ある言葉を返すことなどとても無理だし自信もないから、そういう時は自分が今まで影響を受けたり勉強できたりした自分にとっての好著を棚から探し出してタイトルと著者名を再確認してお勧めしている。

すぐ近所に住んでいても、この近年は1年に2〜3回逢うのが珍しいくらい疎遠になっている大吉ッツァンから珍しく電話が入ったのは数週間前のことだった。万善寺境内に安座の自作「六道願王地蔵菩薩さま」をくれという。今の処へ安座してから5〜6年は経つと思う。そろそろいい感じで周辺の借景に馴染んできた頃だったが、他ならぬ大吉氏の頼みだから「あぁ、いいよ」と快諾して、先日、梅雨の晴れ間にケイくんへ積み込んだ。
今まであったものが無くなると、とたんに境内の東側が寒々しく間の抜けた感じにみえてきたのでチョットほど「シマッタ!」と思ったが、自分の彫刻がいいように環境の中で機能してくれればソレはソレで「ありがたいことだ」と思うことにした。
「◯◯ちゃんと△△くんが手伝って午前中に彫刻移動することになったから・・」
吉田家の朝、通勤坊主の支度をしていたらワイフから報告があった。

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無位の真人 

2023/07/12
Wed. 13:26

境内の西側に広がる荒地へ耕運機を入れて向日葵と蕎麦を蒔いたのはいつ頃だったろうか?
梅雨の恵みで一気に成長し、蕎麦は花盛りとなった。
境内の南の端にある土蔵の脇へボクの彫刻を置いてからそろそろ10年近くなるはずだ。
彫刻の脇へ移植した幾つかのハーブが雨を吸ってグングン伸びて繁茂が激しくなったから刈り込んで水に挿すのと乾燥するのに分けた。

自分で造った彫刻は、工法やかたちの方向性に併せていくつかの分類をしていて、その経年変化を観るために大小一連の連作から最低一つは手元において朝に夕に眺めながら過ごしている。周辺の環境に即して鉄の朽ちる様子を具体に追いかけることで自分の造形にそれなりの責任を持ち続けようと思うからだ。
初期の彫刻から1年間を4シーズンに区切ってテーマを分けた個展の彫刻群は石見銀山地内の各所に点在している。2007年に世界遺産登録がされて以降は地内の規制が厳しくなってそれができなくなった。しばらくの間代替えの土地というか置き場所を彼方此方探して少し苦労したが、飯南高原のレストランアプローチとか棚田の残る富山(とみやま)とか彫刻を置かせてもらえる場所ができた。
環境によって劣化の具合が違うし、造形の形状で倒壊の危険度もそれぞれだから、そろそろ本気に彫刻の責任をもつ必要が出てきた頃だ。設置場所の地権者の意向もあわせておおよその意思疎通を保ちながら彫刻の移動を含めたメンテナンスを具体にする時期が来たように思う。
今年の秋の彫刻を造ったらそれと一緒に各所に点在している彫刻を引き上げて向日葵畑の真ん中あたりへ置き換えようと思っている。
他にも、保賀の谷を見渡すと数か所彫刻を置くに良さそうな場所もあるので、地権者の皆さんとそれぞれ相談してみようと思う。うまくいけば、今後数年間は大作の彫刻を造り続けていられるかもしれない。

これから先、身体や脳みそが動いていてもせいぜい10年間くらいしか納得できるまともな彫刻を造ることができないだろう。自分の死時をそのあたりに設定しておけばおおよそ狂いがない気がする。一応小さな寺の住職でもあるし、坊主の業務をしながらのことだから個展をするにもあと2~3回が限界の気がする。
身体か脳みそかどっちが先に駄目になるか分からない。
身体が先なら五感の中でまだ使えるものを駆使して向学を絶やさないようにしたい。
脳みそが先なら家族や周辺へ迷惑をかけないように断食を続けて畳の上で死にたい。
お釈迦様いわく、生きることは苦しみである・・・と。
今頃になって、そういうことが少しだけ分かるようになってきたし、どのように納得して現実へ落とし込もうか?考えるようになった。
坊主的に云うと大乗仏教と上座部仏教の学びを通して道元禅師さまとブッタ尊者さまの共通を見直したい。
彫刻的に云うと形而上のアニミズム的抽象と形而下のブリコラージュ的具体をより深めて彫刻に向き合いたい。

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梅雨収め 

2023/07/11
Tue. 11:55

線状降水帯の間隙を縫って米子で開催中の展覧会を2つ見て回った。
一つは山陰二紀会のグループ展。
もう一つは新進気鋭の女流美術家本池文乃氏の個展。
彼女の少し前に山陰二紀会の支部長でもある竹田氏が同じ場所で個展をした。DMが届いたし、知らない仲でもないし坊主業務もいたって暇なので、ワイフの好きな道の駅ツアーを兼ねて会期に併せて竹田氏・本池氏の2回に分けて2往復した。

山陰二紀会の展覧会は松江会場と米子会場を隔年で交互開催している。
出品者は島根県と鳥取県在住が基本だが、他県在住作家の個人事情で山陰二紀会の展覧会へ出品の作家もいる。今年は絵画彫刻併せて23名の出品があった。絵画の方は世代交代も進んで年々作品が若返って面白く見させてもらっている。彫刻の方はいつの頃からか小品がメインになって作家の若返りもないままこじんまりとした展示が続いている。吉田は彫刻を造っているから少々寂しい気持ちではあるが、それぞれ作家事情もあろうし仕方のないことだと思う。
女流彫刻家吉田満壽美の小品が少し変わった。
日頃は吉田家の食卓で制作しているが、ちゃんとした展覧会場に並ぶとそれなりの存在感もあって空間を包み込むような彫刻の風景が見えるように感じた。彼女のようなベテランはもっと自分の彫刻や制作の背景を積極的に広報して次代の作家を開拓して欲しい。いつも感じていることだが、ボクには彼女のセンスは持ち合わせていないから余計そう思う。
今年は東京暮らしが長かった彫刻家が広島へUターンした。
彼女は結婚するまで島根県の石見銀山に暮らしていて、仕事をしながら具象の彫刻を制作していた。そういう昔からの縁もあって山陰二紀会のグループ展へ出品参加した。東京で苦労して揉まれながらコツコツと制作を絶やさなかったこともあって、彫刻の方は少しずつレベルアップしていたところへ制作環境が変わったので今までのモチベーションをキープできるか心配していたが、ひとまずは制作の繋ぎができたように思う。

本池さんの個展が良かった。
作家歴は若くてまだスタートしたばかりのようなものだが、とにかくセンスがいい・・とボクが勝手に思っている。彼女のようなひとは周囲の環境にそれなりの刺激がないとセンスの良さを発揮できないし磨くことが難しい。
吉田は昔からセンスでモノを造ることができない方だから、周囲の情報をひたすらこまめにチェックして収集して自分なりの出来ること出来ないことを振り分けてコツコツとそういうデータを積み重ねて今に至った感じで、経験の蓄積のお陰・・とでも云うのか?何かしら生まれ持った光るモノを彼女から敏感に感じ取れている気がする。
今の彼女には、とにかく失敗を恐れないで多作であって欲しい。
いくら良いセンスを持っていても、それを表現に仕立てるにはそれなりの技術技法の裏付けも必要だ。小さな作品でもいいからその時時の自分を表現した新鮮な作家性が伝わる仕事を続けてもらいたい。平面造形の構造や構成や表現の完成度はその時時の反省を改善して次に繋げることができればいいし、そういう末端のアレコレは周辺の同業が進んでレクチャーしてくれるはずだ。

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幸せということ 

2023/07/04
Tue. 15:45

気の所為なのだろうが、年々時間の余裕が減って毎日がせわしなく思う。
肉体の衰えが原因で一つ用事を片付けるのに時間を使いすぎているからだと思う。
それで、一日がアッという間に過ぎるし、一週間の短いこと!・・

梅雨らしい数日が過ぎて、7月に入ったら一気に暑くなった。
7月1日は赤名の半夏祭りがあった。
飯南高原は、まだ前日からの雨雲が抜けきれていなくて夕方になっても時折小雨がぱらつくどんよりとした曇り空のままだったから、恒例の打ち上げ花火が見れるか心配だったので赤名にある同宗のお寺さんへ電話して様子を確認したら「たぶんありそうですよ!」と云う。
江戸っ子のワイフはお祭りや花火が大好きだ。寺の仏事はたいして本気に付き合ってくれないのに、隣町の花火があるのを楽しみに夕方になってイソイソと万善寺へやってきた。
打ち上げ花火も盛大で老若男女どこから湧き出たのだろうと不思議なほどの人出で大盛況だった。最近の3年間は自粛傾向にあった半夏祭りがやっと元に戻った感じだ。

米子の美術画廊でタケちゃんの個展があった。
タケちゃんは美術の先生を定年まで勤め上げ、退職してから3年か4年目くらいになるはずだ。退職後は制作三昧の毎日が充実しているようで、毎年アチコチの大賞展や所属の団体展へ出品しながら年に1・2回は大小の新作を貯めて個展を欠かさない。物凄い作家エネルギーだ。
今回の個展は、彼が少し前から取り組んでいる主題を再確認するためのような連作が30点以上並んでいた。平面がメインだが陶彫の立体もあって見ごたえのある展覧会になっていた。山陰の地方都市は現代美術系の抽象やインスタレーションなどの造形を思う存分やり切れるほどの個展ができる画廊ギャラリーがほとんど無いから、そういう傾向の作家が地方で育ちにくい。タケちゃんのような実力のある美術家が地方を拠点にして精力的に活動してくれるのは嬉しいことだ。
昼食には「漁師のまかない丼」を目当てに米子の個展会場から琴浦の道の駅へ足を伸ばした。食べるのは今回で3回目だ。新鮮な日本海の各種魚がご飯が隠れるほどドッサリ入っている。いつもはプチ断食で一日一食が常識になっているが、年に何回かはこういう贅沢な日があって良い。

ワイフが制作している小品がそろそろ完成するようだ。何時の頃からか吉田家の食卓が小品の制作場所になってしまって、そうなると、通勤坊主のボクが夕方に寺から帰って夕食の居場所が無い。「悪いけど、しばらく帰ってこないで!・・」とか「寺にいてくれると助かるナ♡!」とか余裕のない彼女のその日の気分で吉田家からボクが弾かれる。この1週間近く、彼女の制作のとばっちりでオヤジジイの寺暮らしが続いた。岡山のKさんがお土産にくれたシークヮーサーがいい役をして、寺の夕食が華やいだ。ラムが空き、芋が空き、少々飲みすぎた気もするが、おかげさまで絶好調で幸せな寺暮らしになった。

梅雨の恵みだろう、6月にノッチが耕して蒔いてくれた蕎麦が7月に入って一気に伸びた。

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2023-12