工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

檜林の彫刻 

2016/12/05
Mon. 15:12

初七日が終わった。
もう、あれから1週間ですよ・・・何か、早かったような気もするけどよくわからんなぁ〜・・

私が住職になってから島根県の県境を越えたお葬式はこれで2回目になる。
所変われば葬式システムも地域事情で変わるのは普通のことだが、それに加えて、広島は毛利元就さんの関係で浄土真宗さんがとても多い。そういうところへ曹洞宗の山寺の田舎坊主がノコノコと出かけていることからして、なんとなく居心地が悪かったりする。だいたいが軟弱なチキンボーズは、この一週間緊張でビビリっぱなしだったのです。
これから、年末年始と続く七日務めから四十九日や百ヶ日の法要も、冬の雪と上手に付き合いながら遺漏の無いように務めなければいけない。

石見銀山の谷にある田んぼへ、今年も野外彫刻を置かせてもらった。
この近年は年中行事のようになっていて、だいたい翌年のお彼岸前後までの農閑期は路線バスの回転場からその彫刻を見ることが出来る。本当は、もう一つ野外彫刻を設置しようと準備までは出来ているのだが、例の1週間続いたお葬式で中断してしまった。
私が本格的に石見銀山へ野外彫刻を設置し始めたのは1999年から2000年にかけてのあたりからだったとおもう。野外彫刻そのものはもっと前からその気になって制作していたのだが、その頃からは、あるコンセプトを意識して石見銀山の谷へ置くようにしている。
石見銀山が今から10年ほど前に世界遺産へ登録されてからは、野外彫刻の設置条件がかなり厳しくなったので、それからは常設設置をあきらめた。それでも、石見銀山は吉田家が住み暮らす町でもあるし、彫刻家としての吉田の立ち位置を地域の皆さんの目に触れるかたちで表現し続けることも大事だと思っている。

日中はほとんど外出が続いていて、陽のあるうちに石見銀山の町並みを歩くことが稀になっていたが、先日ちょっとした用事もあって久しぶりに吉田家の裏庭から銀山川を渡って田んぼの野外彫刻を横目で見ながら石見銀山生活文化研究所の正面玄関まで出かけた。
会社の玄関前には広島の上下町(?)から移築した茅葺屋根の古民家があって、小川の向こうの敷地のアチコチに私の野外彫刻が点在している。その彫刻群も2000年を少し過ぎた頃におおよその場所を決めて設置したはずだ。自分で言うのも気恥ずかしいことだが、彫刻の一つ一つに思い出があっていまだにその制作の背景を生々しく覚えていたりする。
檜の林に設置した彫刻は個展のために造った一番大きくて展覧会の主役を務めたものだ。小川ぎりぎりまで移動した3tのユニックのアームを最長に伸ばして今の場所へ設置した時はまだ檜の間隔も空いていたが、今改めて見るとその後約20年で成長した檜に埋もれてなかなかいい感じになってきた。毎年春になるとアイビー系の蔦が萌黄に芽吹き、次第に緑が増して夏には彫刻の半分近くほどビッシリと蔦の葉で埋もれる。秋になるとその葉も紅葉が進みやがて晩秋前に葉が落ちて冬を迎える。昨年は雪が少なくて、檜林の彫刻にまでは雪が積もることもなかった。
いずれにしても湿気の多い石見銀山のことだから、彫刻の表面が薄っすらと苔むしてきたりしてこれから先の経年変化が楽しみなことだ。

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師でもないのに走ってる 

2016/12/03
Sat. 20:41

師走ですなぁ〜〜・・
「師」と言われるほどのこともない吉田でありますが、11月末からやたらと慌ただしくアチコチ結界くんで走り回っております!

このところの島根は雨模様の天気が続いているわりにそれほど寒いわけでもなく、何か変な感じの毎日が続いていた。こういう時の飯南高原は、ある日突然一気に寒くなって雪が降ったりすることがあるので、暇を見つけてスタッドレスに履き替えた・・・のだが、それから12月に入って今に至るまで雲一つない秋の空が続いている。夏の暑さといい、絶え間ない台風通過といい、どうも今年の天気は予測できない。

広島在住のお檀家さんからの訃報が入ってから結界くん大活躍で、片道1時間半の距離を3回ほど往復した。日のめぐり合わせで友引が入ったものだから葬儀が終わったら次の日がもう初七日になる。
そもそも、「友引」というものは・・・などと講釈を始めたら面倒くさいものになるので割愛するが、易学に端を発する友引は、市井の庶民の大衆信仰として仏教に結びついてしまったようなものだから、仏教の立場でいうと特にそれを仏事に充てて忌み嫌う必要もないものでもある。だからといって、いちいち目くじら立てて坊主の立場を主張するのも大人げないし、地域の事情や喪主さんのお考えもあるから、万善寺の場合はそれに準じたノリでお付き合いさせてもらうことにしている。

そんなわけで、毎日中国山地を南北に行ったり来たり昇ったり降りたりしていると、さすがに軟弱オヤジは疲れが溜まって腰痛が悪化し、たぶん坐骨神経痛だと思うが、それも我慢できないほどの痛さが続くようになって、夜も大の字で寝られないほどになってしまった。ようするに、無理をしたり我慢をしたりしてもなんとかなっていた頃の身体ではなくなってきたということなのだろう。富山のイベントも現場での用事は一段落したし、気持ちを切り替えて温泉にでもつかって2〜3日ゆっくり休養しようと思っていたが、考えが甘かった。

今年の春頃だったろうか?なっちゃんが結婚して入籍して姓が川島に変わって埼玉県人になった。川島家のことはあまりよく知らないが、義父は趣味は違うと思うけど、どこかしら自由なノリを信条としているような空気を感じて、私と比較的近いあたりで暮らしていらっしゃる風に見える。義母は吉田家ワイフに近いノリでどこかしら土壇場で理性を維持して世間の常識を大事に生きていらっしゃる風に見える。現在のところ、そのくらいの付き合いしか無いのでなっちゃんが川島家の嫁としてちゃんと機能しているかは不明だ。
その川島家からお歳暮が届いた。
ハッキリいって、どちらかというと後先が逆転してしまったような気がする。
シマッタ!!やらかしてしまった・・・そろそろ世間は年の暮れのお歳暮の時期になっていた。近日中に結界くんと一緒に境港まで走って紅ズワイガニでも物色しようと思っている。
紅ズワイガニというと、富山での納会「カニ喰う会!!」も近いなぁ〜〜・・・

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自分の都合 

2016/11/30
Wed. 23:58

夕方に訃報が入った。
広島県の北部にある盆地の町に暮らすお檀家さんからだった。
電話口の声が震えている。
日課にしている介護施設への訪問から帰宅して直ぐに危篤の連絡が入ったのそうだ。
もともと若い頃から病弱だったおばあさんが、もう5年くらい前から身体の自由が効かなくなって弱る一方だったからご親族が相談されて施設への入所を決めたのだそうだ。娘さんは母親の介護もあって自宅から遠くへ離れることも出来ないまま、ほんの5分位ほどの距離を毎日施設通いが続いていて、その日もいつもと変わらないおばあさんの様子を確認して帰ったたった5分の間に容態が急変したらしい。結局、親の死に目に会えなかった悲しみをこらえつつ、親族への連絡や葬祭場の手配や菩提寺へ伺いをしたりと、全ての大事なことを一人で乗り切られた。すぐにでも枕経でおじゃましなければいけないところだが、夕方から夜にかけての慌ただしい時に、その上坊主の相手もするとなるとむすめさんの気持ちも落ち着かないだろうと考えて、一夜明けた今日の早朝に枕経をおつとめすることにして出かけてきた。
1年もそろそろ終わろうという時期に、喪主家では気の休まらないまま年の瀬を迎えることになった。人の生死は世間の都合で決まるものでもないから、私のようなナンチャッテ坊主でもそれなりに何時何があってもおかしくないことを承知で腹をくくっているところもあるが、一般在家の皆さんはなかなかそういうわけにもいかないのだろう。結局は、自分の都合が先に立って、仕事のやりくりがつかないだとか、遠くに離れて暮らしているからとか、体調不良で付き合いが難しいとか、色々な言い訳が飛び交って収集がつかない様子が見え隠れする。この近年私の周辺在家では、一生に一度しか巡ってこない故人との死別のことで個人の都合を優先するという掟破りの殺伐とした家族親族のつながりが普通になってしまっている。万善寺方丈は、これから週末にかけて一人導師の緊張が続く。

アッという間の1日が過ぎて、ワイフの帰宅を待ちながら葬儀絡みの寺務をしていたら、番号不明の着信が入った。てっきり葬儀関係のことだと勝手に思って電話に出ると、いやに若気な青年の声が喋っている。すぐにはその状況を把握できなくてしばらく無言が続いた。「先生ですか?ボク◯◯ですけど・・」電話の声が不安げに再度問いかけてきた。
今年の春から「先生」と呼ばれるようになっていつも楽しく授業させてもらっていたから、そこからたぐってやっと声の主に心当たりがついた。
「今度、ボクは木彫をしたいんですけどダメですか?準備してもらいたいんですが・・」
前回の空間造形もなかなか面白い作品に仕上がっていたし、今週末にある授業の時間までに材料などを用意することを約束して電話を切った。
いま時の高校生事情はどういうふうなのかよくわからないが、同じ自分の都合でも彼のような前向きな都合の伺いは大歓迎だ。
一日中、なんとなくモヤッとしていた気持ちが晴れた。

亡くなったおばあさんは、万善寺先代の憲正さんと同じ年だった。病弱な身体で必死に生き抜かれた。昼のうちから難航していたおばあさんの戒名が彼の電話のお陰でスルリと決まった。

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吉田家の食卓 

2016/11/29
Tue. 21:29

なんと!!もう11月も終わりですよ!!
こうしてブログ書く時間も、11月はホント少なかったなぁ~~~
旅の空が多くて、昼と夜が逆転することも多かったし、石見銀山の自宅に帰るとすでにワイフもネコチャンズも爆睡していたり、朝も早くから富山の立派な廃校へ移動したり、珍しく万善寺のことで忙しかったり、保賀の自治会の付き合いもあったり、打ち止めは中学校の地元メンバー納会同窓会!・・・吉田家の玄関へ入ると一気に疲れが吹き出して、家のアチコチを這うようにして動いていた(・・とは、チョット大げさかな?)

母親の通院に毎月1回付き合っているが、8月は奥出雲で9月は江津で10月は久しぶりに近所の蕎麦屋で昼飯で、11月はまたまた江津と、通院のたびにほぼ半日ほど結界君の助手席で私の用事に付き合わせてドライブをしていた。単気筒一馬力ワンオーナーフリーターオヤジに、半日の時間の無駄はかなりのダメージになってしまう。母親はそういう余裕のない私のドタバタをほぼ毎月一回結界君の助手席で眺めていたからだろうか、それまで無駄に多かった電話の回数が11月の通院が終わってからあと激減した。

幼稚園実習が終わってキーポンがいなくなった後の吉田家は、夫婦の二人暮らしに戻って一見平和な落ち着きを取り戻したふうにみえるが、実態は微妙なすれ違いが続いていて、どこかしらお互いの我慢が心の淵に淀んでいるような状態だ。こういうことが長く続くのはあまり良いことでもないから、時間を見つけて会話のネタを振ったり食事に誘ったりしているものの、お互いのスケジュールのすれ違いを修正できないまま機会を逸することもシバシバですんなりとコトが進まない。
ゆっくりと落ち着いた夕食のひとときも激減していたが、先日久しぶりにワイフの手料理を堪能することが出来た。
赤貝の酒蒸しは生姜が効いて旨かった。もう赤貝の季節になっていたことを思い出した。赤貝は万善寺のお正月には欠かせない。子供の頃からずっとそうだったから、1年の経過の早さを実感した。
久しぶりの湯豆腐も旨かった。2種類の豆腐がわかるように、切り分けの違いがしてあってそのあたりにワイフの気遣いを感じた。私が湯豆腐を造る時はネギをザクッと切って豆腐と一緒にグツグツやってしまうが、彼女は殆どそれをしない。それはそれでまた旨い。湯豆腐というと、30代の後半になってオヤジ体質が慢性して一気に歩く成人病人間になった時のことを思い出す。あの頃はほぼ毎日夕食に豆腐が出た。それでもぜんぜん飽きなくて毎晩の豆腐が美味しかった。今思うとあれは、私の健康をさり気なく気遣ったワイフの愛情だったに違いない。
鯖の竜田揚げこそ吉田家にとってはめったに出ない珍しい部類の一品だった。竜田揚げというと、私がまだ結婚前の一人暮らしの定番だった。フライパンに揚げ物ができるほどの油を溜めると、その油が古くなって使い物にならなくなるまで延々と揚げ物が続く。あの頃は竜田揚げ粉を一袋買うと、それがなくなるまで色々な食材を揚げた。鳥のむね肉は結構安くてボリュームもあるし、一人者にとっては欠かせない食材だった。
そうそうきれいな油の使い始めには、チョット贅沢にヒラメとかカレイとか白身の魚をムニエル(香りつけはマーガリンだったけど)にした。

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吉田家ネコチャンズ事情 

2016/11/27
Sun. 15:51

犬のシェパが19歳と10ヶ月で大往生して、そらから2ヶ月位経って黒猫が来た。それからまた2ヶ月位してから白っぽい猫が来た。2012年の早春から初夏にかけてのことである。

その頃のワイフはかなりの猫嫌いで、シェパがいなくなってから後も「絶対に猫は飼わない!」と言い続けていた。彼女と付き合い始めた頃の私はすでに6畳の書生部屋でメス猫と暮らしていて、私の猫好きは分かっているはずなのになんとなくおかしな話だと思いつつ、犬好きなのだろう彼女の機嫌を損ねないように2ヶ月ほど寂しく暮らしていたらじゅん君が側溝に落ちて弱っていた子猫を引き取ってきた。まだ小さくて、乳離や自力の排泄も充分でないくらいだったので、ペースト状の猫飯を食べさせたり肛門を刺激してやったりしていたら少しずつ元気になって生きながらえた。それでもいつ死ぬかわからないし、ワイフは猫がキライだと云うし、無駄に情がうつらないように、特に名前もつけないまま「オイ!」とか「ネコ!」とか呼んでその場をしのいでいたら、縁があって白っぽい猫が吉田家にやってきた。その猫はまだ子供ながら必死にたくましく生き抜いてきた野良猫特有のずる賢く且つ臆病なしたたかさがあった。2匹めの猫が加わったことで、名前をつけないままでいるわけにもいかなくなってオス猫の方を「クロ」メス猫の方を「シロ」と呼ぶようにした。家族からは、色々クレームも出たが、結局なし崩しにそれで通して今に至っている。
クロの方は、物心もつかないまま親とはぐれたか捨てられたかしているから、自分を猫型の人間だと思っているようなところがある。かなりワガママで頑固で独断的で我の強くプライドの高い偏屈なオス猫に育った。反面、慎重で思慮深く小利口なところもあって脱走のプロに成長した。
シロの方は、飼い猫の環境に慣れたとはいえ、野良猫時代の記憶が色濃く残っていて、よく人の目を盗んでつまみ食いをしつつ、上手に人間へ甘えることも覚えた。
その2匹の猫のおかげかどうか、あれだけ犬好きを公言していたワイフが手のひらを返したようにコロリと猫好きに心変わりした。

今年の島根は、未だに夏の暑さが残っているような気がするほど温かいまま秋が深まっている。
この2日間をかけて、やっと吉田家の各所を冬仕様に切り替えた。四畳半にコタツを出し、リビングにホットカーペットを敷き、一応キーポンの部屋になっている2階のベッドへ電気敷毛布を用意しておいた。薪は昨年からコツコツと薪割りをして溜め込んでいるから春までは十分に保つ。
ネコチャンズは人間にも増して季節の節目をよく心得ている。彫刻のことでドタバタしている間に私が愛用している一人用の古いソファーをクロが占領するようになって、少し肌寒くなった頃からシロがクロに抱きつくようになった。ワイフが帰宅すると、すぐにシロがワイフに擦り寄って甘える。私が愛用のソファーへ座ると、クロが居場所をなくしてしばらくアチコチうろついているが、気持ちが向くと私の腹の上で寝始める。私が彼のお気に入りの場所を横取りしているように思っているのかもしれない。
これからもっと寒くなると、私のシュラフの上でクロが寝るようになるはずだ。シロはすでにワイフの布団へ潜り込んでいる。ネコチャンズは来年で5歳になる。早いものだ。

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雨の日曜日 

2016/11/27
Sun. 13:15

夜のうちにかなり激しい雨が降っていた。
富山の後片付けがまだ完全に終わっていないので、雨が続くとまた作業が長引く。天気を相手に悶々と悩んでもしょうがないことだが、やはり、わかっていてもどうにか良い天気にならないものかと無駄に期待したりする。

ワイフは石見銀山の妙見さん法要のお手伝いへ出かけた。
私が法要の欠席を思っていることに薄々気がついて、なにかと不満めいたことを言っていたが、地域の行事の何から何まで付き合っていたら身体が持たない。万善寺のある保賀の谷の方がもっと切実に現実の問題を抱えながらしのいでいる。それはそれこれはこれであっちもこっちも過不足なく付き合おうと思ってやりくりしていることの方が今の私にとっては大事なことだ。
富山の後片付けで日参していたある日、町内で行われた午前中の小さなイベントが終わって後片付けの最中だった。私の方は午前中の用事を終わって昼食をどうしようか悩みながら結界君を運転しているうちに富山へたどり着いてしまったふうになった。運良く、イベントで造った燻製とおにぎりが残っていて、町の人が食べろ食べろと勧めてくれるので、丁度良い昼食になってありがたく頂いた。
その片付けが終わったら絶景の富山を見下ろす町のシンボル要害山へイルミネーションの設置に登るのだそうだ。要害山は、年間の節目ごとに町内有志の営繕が入って登山道もきれいに整備されている。この要害山の件も含めて富山を守り育てる活動が続いているのも、町内各戸からの浄財喜捨があってのことだという。約250戸から年間約4000円を集めているのだそうだ。思うに、この金額はなかなかのものだ。250戸の中には独居世帯もあるだろうし高齢者もいらっしゃるだろう。保賀の谷に至っては、約20戸から年間1万円近くを3ヶ月毎に分けて徴収している。
地域の事情はそれぞれで比べる根拠も無いことだろうが、石見銀山の町会費もかなりの額だし、アチコチに出向いてアチコチの事情に触れながら世間を均してみると、有れば有るなりに無いは無いなりに毎年似たようなイベントが繰り返されていることに気付く。
地域への帰属意識や年中行事は金額の高低で計れるものでもないだろうが、やはり予算が充足していればそれなりに物事も楽に過ぎる。

まぁ、彫刻がらみの展覧会事業も似たようなもので、予算を念頭に出来ることをやりくりするしか無いことだが、それでもお金の問題で妥協し続けていたら何もできなくなるし、結局は自分でなんとか乗り切るしかないことだ。
来年は石見銀山が世界遺産に登録されて10年の節目を迎える。今年辺りから、周辺がなんとなくざわついている。2010年からスタートした現代彫刻小品展もそろそろ10年近くなるが、特にこれといって盛り上がるわけでもなく、しかし、盛り下がるわけでもなく、彫刻の出品者も出品点数も過不足なく推移していて、それはそれで、それなりに安定した事業になっているのかもしれない。だからそれでイイかというとそういうわけでもない。気がかりなのは、この10年近く、関係者がみんな一緒に1年毎に歳を重ねているということ。彫刻家も、10年間漫然と生き漫然と制作を続けていたわけでもないと思うのだ。過去を反省し未来を見据える現在を思う大事な時期であることだけはたしかなようだ。

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カニ食うかい? 

2016/11/26
Sat. 14:24

彫刻家の皆様・・・           島根県現代彫刻振興委員会 代表 吉田正純

島根県の富山町は、少しずつ冷え込んできましたが、まだまだ例年に比べると暖かい日が続いています。

2016年の島根県現代彫刻振興委員会の事業は、この富山町で全ての美術イベントを終了することが出来ました。
7月の浜田市世界こども美術館での現代彫刻小品展
8月の奥出雲町旧ガラス工芸館での現代彫刻小品展
それに、11月の大田市富山町でのとみやま彫刻フィールドアートワーク

2010年に石見銀山でスタートした現代彫刻小品展は、2014年の5回展で終了し、2012年に浜田市でスタートした現代彫刻小品展は、2016年の5回展を迎えて一区切りついたところです。
2015年からのとみやま彫刻フィールドアートワークは、2回目を迎え来場が一気に昨年の3倍となりました。もっとも、10人の3倍の30人と、100人の3倍の300人では、あまりにケタの開きがあって比べ物になりませんが・・・人口約400人ののどかな里山が広がる農村地帯としては、なかなかの集客になったのではないかと思っています。
これから、年末年始の坊主家業のかたわら、これらの事業報告を図録にまとめることになります。

彫刻の出品参加でご協力を頂いた作家の皆様に、心より感謝いたします。
今後当分の間、奥出雲町での彫刻展と富山町での美術イベントに集中しようと思っています。奥出雲町は、たたら製鉄と仁多米ブランドと雲州そろばんの産地であり、そば処でもあります。また、富山町は「空に近い町とみやま」として、棚田の広がる里山の風景が彫刻の借景で絶景です。

吉田の体力や気力がある間は、彫刻が島根県に根付く美術活動継続に務める所存です。
皆様のご協力をお願いします。

告知:とみやま彫刻慰労会「カニ食うかい?!」を開催いたします。
お近くの彫刻家は前向きに参加をご検討ください!
内容:カニ(紅ズワイガニ)猪肉・手造り燻製他
   酒・食材・料理なんでも持ち込み大歓迎!
期日:12月16日(金)
時間:17:00開宴〜エンドレス
会費:1000円、但しハンドルキーパーとお子様は無料
会場:富山町旧富山小学校一階ランチルーム
申し込み〆切:12月12日(月)
問い合わせ・申込先 吉田正純 090−1688−7543 tetujin29@gmail.com

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勤労感謝の日 

2016/11/23
Wed. 23:18

〜〜勤労感謝の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」ことを趣旨としている〜〜

Wikipediaによると、そういうことらしい・・・
昭和23年というと、両親は結婚もしていないから私はまだ種にもなっていない。
その国民の祝日は、朝8時に自宅を出て富山の搬出作業の梱包材などを取りに工場へ向かった。
結界君から2tのアルミトラックに乗り換えて、大田市の町を抜けて旧富山小学校へ着いたら、すでに周藤さんと棟梁が到着して立ち話をしていた。
それから少ししてノリちゃんも教室個展の会場復元と作品搬出に来た。
島根や近県の出品者へは搬出の知らせをメールしておいたが、反応や返信は無かった。たぶん確認はできていると思うが国民の祝日でもみんなそれぞれの用事で忙しいのだろう。

今週に入って、毎日富山へ出かけて彫刻の梱包を続けている。
約60点の彫刻の殆どは県外作家のもので、厳重な梱包の彫刻が宅配便で送られてくる。絵画と違って彫刻は素材もいろいろで、壊れやすい彫刻もたくさんあるし、やたらと重たい石の彫刻もある。
それを、搬入や展示で小学校の2階まで階段を昇り降りして運んだ。今度はその逆を続けてもう3日目になる。さすがに体力もかなり消耗していて、自分でもガッカリするくらい動きが鈍い。
助っ人諸氏の御陰で、お昼前には展示台などの展覧会什器を全て倉庫へ移動することが出来た。2tを返して結界君へ乗り換えて富山へ引き返す途中で雨が降り始めた。自分たちの搬出作業が終わるのを待っていてくれたみたいだ。
結局、彫刻の梱包がおおよそ終わったのが夜の7時過ぎだった。ザックリと片付けて石見銀山へ帰り着いたのが8時少し前。昼飯も抜きでほぼ12時間労働になった。ボクの勤労感謝の日はいろいろな意味で充実していた・・・と思いたい。

ワイフがお風呂を用意してくれていた・・・ありがたい!
ネコチャンズは仲良く丸まって爆睡していた・・・使い物にならないやつらだ!
テーブルに大森小学校から私宛の封筒が置いてあった。そろそろ学校農園の収穫祭の時期だし、学習発表会も近づいている。
麦とホップを目当てに冷蔵庫を物色したら、200円の半端もの葡萄のパックがあった。そのパックは、随分前から食卓の端っこの方へ放置されていたのを覚えている。どうせきちんとした栽培農家の葡萄でも無いだろうから味の方は期待しないまま、一粒ずつ洗って食べた。どこで買ったのか知らないが、限りなく甘酸っぱい葡萄だった。この葡萄の種を裏庭の何処かにまいたら芽が出るかもしれない・・・それほど野生を感じる味だ。

富山の4日目は小学校前の富山郵便局から彫刻の着払い発送をする。
彫刻家の皆さん、貴重で立派な彫刻を長い間貸していただき、ありがとうございました!

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オヤジの秋 

2016/11/22
Tue. 16:06

キーポンが幼稚園実習中に子供から風邪をもらって、それをこじらせて吉田家に風邪の菌を撒き散らして、それに感染してワイフが昨日一日中寝込んだ。
幸いにも、私は一日中富山や万善寺や飯南高原や松江や遠くは四国とアチコチ出てばっかりだったし、夜にはキーポンがコツコツと風邪の菌を撒き散らしながらオヤジの書斎四畳半を占領して指導案などをまとめたりしているから、自分の居場所もないまま、狭い吉田家のアチコチをシュラフを抱えてジプシーのごとく移動していたので、風邪をもらうことがなかった。
面白いもので、一晩中ベタベタとキーポンやワイフに擦り寄っているネコチャンズは、人間の風邪をもらうこともなく元気に飯を食べ水を飲みシッコやウンコも快調で、寝たり起きたり動き回ったりしている。

富山で小品彫刻の梱包を続けて2日目になる。
昨日は、はるばる岡山から小林さんが自分の彫刻を受け取りに来てくれた。
昼食の機会を逸したまま、彫刻の梱包材料を調達したり、会期中の大小のゴミを処分したりしていたら移動中の小林さんから電話があったので、ひとまず会場を離れないで作業を続けた。
小林さんにはここ数年ワークショップの講師をお願いしている。
とても忙しい人で、岡山の彫刻会を盛り上げながら、外国の彫刻シンポジウムに参加したり、国内の彫刻イベントへ参加したりして、1年中ドタバタと動き回っているふうに見える。彼のそういう状況を知っているから、今年の富山での彫刻イベントはなかなか講師依頼をしにくいままで過ぎた。
これからも、当分の間彼には色々とお世話になることも多いだろう。お互いに、自分の彫刻制作が二の次にならないように周辺の事情を精査しながら良い付き合いを続けられるようにしたい。

そろそろ、「麦とホップ」のストックが無くなってきたので、彫刻の返却がてら江津まで足を伸ばした。
ウエブニュースによると酒税の均一化を段階的に行っていくそうだ。
麦とホップは税金分が値上がりして、サッポロ黒ラベルは値下がりするはずだ。
ワインが値上がりして日本酒が値下がりするようでもあるが、こちらの方は価格設定がビールや発泡酒のようにシンプルでないからこれからどうなるのかよくわからない。
市井に暮らす下々の一般ピープルは、上の方から下がってきた決まりごとに従うしか選択肢がないから、とにかく自分の周囲の様々な変化も「そんなものだ」としてゴクリと飲み込むしか無い。
季節が変わる頃に「期間限定!」と称して、それなりに味を工夫した麦とホップが店頭に並ぶ。今年の夏前には2種類見つけた。夏の終わり頃に秋バージョンが2種類出た。この秋バージョンがなかなか旨くて結構気に入っていた。それで期間限定でもあるし、早めに仕入れて今後の楽しみにストックしておこうと企んでいたら、なんと、行きつけの酒屋のどこにも無い。
ひょっとして、世間の呑助たちが麦とホップの旨さに気付き始めたのかもしれない・・・

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飯南高原から三瓶山経由で富山町 

2016/11/20
Sun. 23:04

通夜の夜は、時折激しく雨が降った。
葬儀の朝は、保賀の谷が霧に包まれていた。

浄土真宗の葬儀で副導師を務めるのは久しぶりのことだった。
保賀の集落には万善寺の檀家さんが6軒ほどあったが、今は1軒が空き家で1軒が絶えた。
残りは全て浄土真宗の門徒さんなので、地域のお寺でもある万善寺は、地域で葬儀が出るとこうして時々施主家から声がかかるのだ。
今回の菩提寺さんはご高齢であるし、やたらとアドリブが多くて、役不足の鐘つき坊主としてはかなり苦労して、ぐったり疲れた。
雨が降るほどでもないまま、それでも厚い雲が晴れることもなく、野辺帰りのお経が始まる頃にはジットリと汗ばむほどだった。

富山町は文化祭の日で、旧富山小学校の展覧会が最終日で、教室個展の竹田さんが吉田の穴埋めで受付を代行してくれた。
葬儀が終わると、急いで着替えて飯南高原から三瓶山を抜けて富山町へ走った。
町の文化祭はすでに片付けが始まっていたが、センター長さんはじめ、少しずつ増えてきた地元の知人とも合うことが出来た。イノシシの焼肉もあって、残り物をたらふく食べた。婦人部の食堂はすでにクローズしていたが、知り合いのご婦人が声をかけてくれた。

1年に数えるしか無い程だが、富山に通いはじめてもう5年目になる。
彫刻のイベントを富山町へ提案してから1年経ってやっと実現して、今年が2年目になる。これから来場者などの集計をして報告書の作成に入るが、おおよその聞き取り調査だと、展覧会だけでも来場者が1年目の3倍位に増えている感じた。教室個展でお世話になった竹田さんと少し話したが、一般の感想を聞くことが出来て刺激になったらしい。私など、自分の個展も含めて既成の展示会場で展覧会をすることが無いから竹田さんの感想がとても新鮮だった。確かに、普通、作家が個展を思いついたら既成のギャラリーや美術館の展示室での展覧会になるだろうし、そういうところは、そういうところへ縁のある人しか行かない。だいたいに、島根の田舎で、近所の人が通りすがりにチョイと美術を観ていこうなどと思うようなこともほとんど無い。竹田さんのような作家が、発表にリスクを背負ってでも、こういう文化の不毛の地で継続した個展をしてくれると、やがて美術の刺激に地域が慣れてきて鍛えられてくるときがかならずあるはずだ。そうなると、少しずつ作家と地域とのバランスがとれるようになって、お互いの相乗効果で地域も作家も活性する。吉田は、そんなふうなことを考えているのであります・・・

キーポンが、幼稚園実習を終わって学業へ帰っていった。葬儀のことがなければ、私が夕方から彼女へ付き合うことになっていた。真っ暗な石見銀山の自宅へ帰ると、テーブルの私の場所に、意味不明なおもちゃのようなモノ??が置いてあった。ワイフが受け取ってくれた倉敷からのお土産も見つけた。その中には森山コーヒーの深煎りコスタリカもあった。久しぶりにアメリカドラマを見ながら豆を挽いていると、ワイフが帰ってきてネコチャンズが騒ぎ始めた。鴨山窯のコーヒーカップで苦みばしったコスタリカを飲んだ。

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さすらいの珈琲マン 

2016/11/19
Sat. 22:19

さすらいの珈琲マン森山!が、突然富山町へあらわれた!・・・らしい・・・

最近、彫刻界に於いて敵前逃亡非国民甚だしい吉田が、例のごとく、今度の土日も万善寺隣の文江さんの葬儀で富山の彫刻展や教室個展の受付をドタキャンしてしまった・・その裏番組で、あの珈琲マン森山が、受付代行のワイフや富山の熟女達に珈琲を振る舞ってくれた・・・らしい・・・
まったく、先週といい今週といい、主催者のドタキャンは「許されざる者」である。
まぁ、吉田オヤジは、せいぜいこんなもんだ!・・・ということで、飲み込んでいただくしか無いわけで・・・

万善寺隣の文江さんは私の師匠で前住職二十二世禅嶽憲正さんの同級生でもありました。
その亡くなった文江さんは、かれこれ1年近く闘病生活が続いただろうか・・とにかく、一般的にいえば、それなりに人生を全うした大往生であると私は思っている。
先程、通夜を終わって万善寺の三畳へ落ち着いたところだが、通夜の前の仮通夜からご親族の様子を見ていると、悲痛とか沈痛とかそういう様子は微塵もなく、何かしら晴れ晴れとした雰囲気が漂っている気もした。
文江さんには子供の頃から何かとお世話になった。
万善寺のおかみさんでもある私の母親は、なんだかんだいっても、結局はお嬢さんがそのまま寺のおかみさんになってしまったようなヌルい人生であって、自分が自分で言うほどの苦労は経験していない。それに比べて、隣の文江さんは何かしら苦労の多い人だったと気になっていた。思い返せば、吉田少年は母子のいさかいがあるたびに、「ボクは文江さんの子でいたかった・・」と、自分をなぐさめていたものだ。あの文江さんの何気なく目先の面倒臭いものをスルーする絶妙にヌルい加減が小気味よく感じていたところもある。
文江さんの家は浄土真宗だから、今夜の鐘つき坊主は必死で仏説阿弥陀経を読んだ。明日はそれに正信偈も読むことになる。街場の坊主付き合いでは思いもよらないことだろうが、島根の山奥では普通に宗派を越えた坊主付き合いが続いているのだ。

葬儀の準備をしている時に珍しくワイフから電話が入ったから、何か富山の会場で不都合でもあったかと緊張したが、珈琲マン森山がやってきたという報告だった。
どちらかと言えば吉田もそれなりの自由業をこなしている気もするが、珈琲マン森山は得体の知れない自由人である気がする。
何時まで続くのかわからないが、吉田としては自分の周囲に似たようなノリの軽いヤツが居てくれるだけで、結構真面目に助かっているようなところもある。

彼のコーヒーは、彼の完全なるコダワリがそのまま抽出されているようなところがある。さりげなく聞くところによると、彼には彼なりの師匠がいるようで、ひとまずはその師匠の世界に心酔して、それを目標に求め自分を鍛えている時期であるのかもしれない。
物欲の氾濫する現代に、緩やかに焦ることなく自分の我欲を育くんでいるような飄々としたノリが魅力的だ。今の彼は、上手に他人に使われているようなところがある。それも大事な経験の蓄積だが、いずれは他人を上手に使えるほどの人物になって欲しいと思う。

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徳島の松永勉さんのこと 

2016/11/18
Fri. 17:21

徳島の松永勉さんは金属彫刻のベテランである。
特別興味もないので年齢を知らないままだが、私より少なくても5歳は年上だと思う。
まだ日本のバブルがハジケル前から彫刻を造っていて、公共彫刻が全盛の頃は日本全国からの発注に大忙しだったようだ。その関係もあって、彫刻素材はほとんどステンレスばかり。
今は、当時のあわただしさも落ち着いて、徳島の彫刻家集団を束ねることで忙しくなっているようだ。

私が松永さんとはじめてすれ違ったのはかれこれ20年以上は前のことになるだろう。
その頃すでに徳島の野外彫刻展は立派に地域に根づいた文化活動として認知されていた。島根の当時の実情を事例発表したり、情報交換したりするような彫刻シンポジウムの参加メンバーの一人で徳島へ出向いたときがはじめての出会いになる。
徳島とは、まだ島根の彫刻文化の稚拙さが恥ずかしいと気が付かないほど大きな差があった。

彼の彫刻は出会いの前から知っていたものの、その頃は松永さんの彫刻と松永さん本人がシッカリと繋がらないままで過ぎていた。
たぶん金属彫刻の縁なのだろう、その後も何かしら細く長く彫刻絡みで繋がっていたが、島根県の現代彫刻小品展へ誘うと快く乗ってくれて、それ以来、年々縁が深まっている。
昨年からは、苦節◯◯年!めでたく徳島野外彫刻展へ出品も叶って、今年で2年目になる。これから先、何時出品をクビになるかわからないから、今のうちにセッセと四国通いをしようと心に決めて、先日もワンボックスレンタカーをすっ飛ばしたところだ。

昨年は、彼の制作工房を見せてもらった。
今年は彼のアトリエを見せてもらった。
吉田の鉄工場とはレベルもラベルも全く違って、「彫刻家の制作とはこうあるべきだ!」というお手本のような素敵な空間だ。
仕事場を見ると、その人の性格までわかってしまうようなところがあって、自分への戒めにもなるし、良い勉強になる。

いずれにしても、数十年前に徳島の彫刻家集団に接したことは、当時の自分にとって大きな刺激になったし目標になった。
田舎でコツコツと制作を続ける彫刻家は、周囲からの刺激が乏しいだけに、気が付かないまま自分の嗜好の殻に閉じこもってしまって、造形の基本とか方向性とかそういうものが常に流動する現代社会から取り残されるというより疎外されることになっていたりする。現在の造形や彫刻の流行に迎合したりそれを追いかけたりする必要もないが、一方で、造形の現状を俯瞰出来るくらいの余裕も必要だと思う。自分の制作の立ち位置がおおよそわかっているだけでも、自分にとって必要とか不必要の精査も出来る。
自分の彫刻を楽なポイントに留めておくことは何時でも幾らでも簡単にできる。それよりむしろ、自分の表現の可能性を信じて失敗を恐れないでいられることが難しいことだ。

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一杯のコーヒー 

2016/11/18
Fri. 05:55

四国から帰った次の日、深煎りしたケニア産の豆をミルで挽いて遠藤さんのお初コーヒーカップで飲んだ。

ほぼまる1日の休み無い移動が続いて、最後の打ち止めが彫刻の荷降ろしとなると、ジジイオヤジはさすがに朝から頭も身体も思うように動かなくて、こういう時は苦いコーヒーでも飲んでシャキッとしたいと思いつつ、少し前に森山さんから頂いたツヤツヤと焙煎の汗にまみれたコーヒー豆が思い出されてしょうがなかったが、ワイフのいない間に勝手に一人で一杯やったりして後でこっぴどく叱られるのも嫌だなとグッと我慢して夕方を待った。
となりの改築中の大工仕事の音も絶えて、石見銀山の町並みの外灯も点いて、そろそろキーポンをピックアップしたワイフが帰ってくる時間を見計らってミルを挽き始めた。ツヤツヤと光る豆の油でミルのギヤが軽く回る。とてもいい香りが手元から湧き上がるように漂ってくる。

コーヒー好きが始まったのは、新宿通りに面した紀伊国屋の入り口から入って、その真裏のあたりにあるDUGと、そこからまた一つ歌舞伎町よりの靖国通りに面したところにあるDIGに入り浸り始めてからあとのことだった。
高校を卒業するまではどちらかというと紅茶派で、味もよくわからいままあの四角いキューブ状の缶入り紅茶をその日の気分で3種類くらい交互に飲み分けていたりした。当時はコーヒーというとネスカフェのインスタントくらいしか飲んだことがなくて、本当の旨さを知る機会がなかった。それでコーヒーの旨さに目覚めたのは、上京してしばらくしてから知り合ったバイト先の青山学院の先輩に連れられてその2つの店に入り浸るようになってからだった。

追求すれば茶道の如く奥深い何かもあるのだろうが、自分の場合、どうもそのあたりの堅苦しいところが壁になってなかなか一歩踏み込むことをしないまま、一杯のコーヒーに付き合っているようなところもある。今となってはそれなりに長い付き合いにもなっているから、嗜好の変化が少しずつ定まってブレが少なくなってきた。それを決定的にしたのは島根に帰ってしばらくして知り合った萩焼の友人に教えてもらってたどり着いたお店で飲んだメキシコ産の豆をブレンドして深煎りしたコーヒーだった。あの時の一杯のコーヒーの味は今でも覚えているほどの衝撃だった。その後、色々と豆を試したが、やっぱり自分には汗をたっぷりかいた少し苦目の味が合っているようだ。

森山さんのコーヒーは、深焙煎の豆をネルドリップで温めのお湯で蒸らしからじっくり時間をかけて少しずつ落としていく。こういう具合は茶道の煎茶道に近いノリを感じる。
臨済宗ほどでもないが、そもそも禅宗の寺はお茶にうるさい。それに島根の出雲地方は不昧公の影響もある茶処で、子供の頃からお檀家さんのおばあさんのマッタリとした煎茶道に付き合ってきた。
コーヒーにも、場合によってはそういう道を極める程の世界があって良いのかもしれない。森山さんのコーヒーを遠藤さんのカップで飲みながら味わうひと時は至福だ!

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砥部焼の器 

2016/11/17
Thu. 17:37

午前0時30分、石見銀山の自宅を出発して徳島へ向かう。
銀山街道は出雲街道と合流するまで遭遇した車が1台。
三次からやまなみ街道へ乗って尾道まで約2時間。
瀬戸中央自動車道へ入って、水島のI.Cで降りて日本第一熊野神社の一般駐車場へ入ったのが午前4時前。
それから保護材の古い毛布をコンパネの上に重ねて、シュラフに潜り込んでiPhoneのSadeを聴きながら仮眠。
四国の旅のお供にお願いしていた倉敷の森山さんがワンボックスの窓を叩いて起こしてくれたのが早朝5時。空には、まだ十分に大きくて明るいお月さまが輝いていた。
最近また調子の悪くなったG12を取り出してしばしお月さまを撮影。それから瀬戸中央自動車道を渡って高松道を板野で降りて松永邸へ着いたのが朝の7時半。
美味しいコーヒーとトーストの朝食を用意してもらって少し落ち着いてからワイフと私の彫刻をワンボックスへ積み込んだ。

今回の四国の旅でもう一つの計画は、砥部焼の作陶家遠藤さんの器を見ること。
磁器の食器は丈夫だから広く世間へ出回っているものの、自分の周辺はどれもこれも美的センスのカケラもない雑器ばかりで、特に万善寺に残って日常に使っている磁器の味気なさといったら、それだけで食欲が失せる。
日常で使いまわす器など、所詮その時々の決まった用をこなせばそれで十分なことなのだろうが、それでなくても殺伐とした環境で、せめて家族の団欒や希少な来客との食事くらいは心豊かな一時にしたいものだ。
石見銀山の周辺は、質の高い丈夫な陶土の産地でもあって、窯元もアチコチにたくさんあって、日用雑器から作家物まで気に入った陶器を探すに苦労がない。だから、吉田家には陶器だけは溢れかえっている。そのうえ、実は約10年間位吉田自身も粘土や釉薬造りからロクロを回したり窯を焚いたりしていた時期があって、その時に造った器も食器棚でホコリをかぶったまま放置されていたりする。気がつくと過去のボクの力作がネコチャンズの食器になっていたりして、なかなか複雑な心境であったりもする。
まぁ、ようするに色々な過去の痕跡を適当に使いまわして消去して日常の暮らしを更新してそういうことを繰り返しながら毎日の食卓を楽しんでいたりするわけで、今回、ひょんなことで砥部焼の遠藤さんと知り合いになった機会を逃すまいと、いきおい、徳島から松山へ午前中のうちに移動したわけだ。
途中少し迷って、遠藤さんに電話してえんどう窯へ到着したのは11時位だったか・・・
早速自宅のひと部屋を使ったショウルームで器を物色した。
デザインのセンスに磁器土や釉薬の魅力がシッカリと裏付けられていて、観ていて楽しくて飽きない・・・というより、目移りしてなかなか心が定まらないまましばし時が過ぎた。ここでも美味しいコーヒーを頂いて、気持ちを絞って、とにかくスタートはシンプルにしようと決めて5枚の皿にした。お土産にご夫婦それぞれの器も添えてもらった。
帰宅してワイフに見せたらとても気に入ってくれた。
キーポンは「かわいいぃ〜〜!私がもらっとくぅ〜〜!」と大騒ぎだった。
キーポンが使うには50年早いわ!!

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旧富山小学校多目的スペース 

2016/11/15
Tue. 21:39

幼稚園実習中のキーポンが、ほぼ徹夜をした。
もう少しで20歳の誕生日を迎えるくらいの年齢だから、徹夜くらいのことで特に心配しているわけでもないが、昔の自分の頃のことを思い出すと、勉強で徹夜をするのは、せいぜい高校の定期試験で一夜漬けするときくらいのものだった。
真夜中に寝ている私の隣でゴソゴソし続けるものだから、そのたびに目が覚めて大きな迷惑だ。そういえば、ノッチもまだ学生の頃、課題制作や卒業制作で徹夜をしていたようだ。記憶をたぐると、吉田家の娘達はそれなりによく勉強をしているということなのかもしれない。ワイフだって、いまだに毎回彫刻の制作になるとよく徹夜をしている。彼女ほどのベテランでもそうなってしまうということは、どちらかと言えば吉田家の女性方は計画性に弱くて要領が悪いというだけのことなのかもしれない。

平日の方がシフトの関係で休みやすいからといって、もう2ヶ月くらい前から法事の日程を問い合わせていた施主さんとの最後の会話が富山のイベントの真っ最中だったので、具体的に詳しい会話に至ることもなくその日だけは開けておくと約束してそのまま過ぎた。なんの連絡もないまま約束の日の前日になったので一応抑えの電話をしてみたら、法事の有無もハッキリしないままどうしようか悩み始めた様子なので、「それじゃぁ、10時始まりということで・・・」と、強引に予定を決めて電話を切った。

どうも、私の周りには優柔不断で成り行きに準ずるキライの諸氏が多くて会話の落とし所の判断が難しくて苦労することが多い。他人のことでどうこう言えるほどの立場でもないが、暇は暇なりにソコソコ大事な用事が無いわけでもないので、自分を中心に据えたスケジュールは結構マメにチェックして調整をしているつもりだ。それでも、相手の事情やその時の予期せぬ事情が入り込んだりすることもあるから、それも含んだアバウトで緩やかなスケジュールを組み立てているところもある。
これから一眠り居て徳島の彫刻を受け取りに出かける。深夜に島根を出発すれば朝には徳島入り出来るはずだ。それで、1日を四国で過ごして夜になってから島根へ帰るように予定を立てた。

週末には、富山の教室展示を開放することになっていて、日曜日には富山町の文化祭があって、町内の皆さんに教室展を見てもらえる最後のチャンスになる。
それが落ち着いたら個展作家と調整して搬出の作業に入る。約50点ほどの小品彫刻の梱包もあるし、11月はまだまだ落ち着かない毎日が続きそうだ。自分で言うのもどうかと思うが、小品彫刻の展示だけでも一見の価値は十分にあるし、吸収できるポイントは限りがない。それだけ、島根の彫刻文化の領域が広がりに欠けているということだ。
アマチュアの趣味が高じたレベルも含めて、島根県内で活動している多くの造形作家たちは、もっと自分の造形に対して謙虚であるべきだ。もっと素直に、良いものは良いとして個々の表現を受け入れるほどの許容がないと自分の表現領域も広がり深まることがない。
「井の中の蛙大海を知らず」とは、日本の格言であるが、それが中国になると「海」が「空」に言い変わるそうだ。同じ意味でも、所変われば表現が違う。
待っているだけでは自分の世間は広くならないと思うな。

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教室個展〜竹田茂〜 

2016/11/14
Mon. 18:47

午前中に幾つかのデスクワークをして、お昼前からSNSにとりかかって、そうこうしているあいだにワイフが午後からの仕事へ出かけていった。
吉田家の中は、だいたい常識的な11月の小寒い空気が漂っていたが、昼間からストーブを焚くほどのことでもない。

午後のティータイムが始まったのだろう、上隣の改築中の町家が静かになった。大工工事に入って4~5ヶ月にもなるだろうか・・・?石見銀山の町並みは、世界遺産のど真ん中でもあって、約1km続く町家の増改築に結構厳しい規制が入る。日頃から町の住民は窮屈な思いをしながら暮らしているが、慣れてしまえば、「まぁ、そんなもんだろう」程度に、日常の不便と上手に付き合いながら暮らしているところもある。もっとも、すぐ隣で大工工事が入るとなるといつもより暮らしにくくもなって、狭い町並みでの駐車場の問題や、工事重機の出入りや廃材の始末など、かなりのストレスになったりする。吉田家も、上隣の工事重機が家の裏を通ることになって、昔からあった隣の庭石もいつの間にかそのまま吉田家の裏庭へ積み上げられて放置されていた。特に裏庭を整備するような計画もないし、そのままそんなもんだと片付けてしまえばそれで良いことだが、とても人力では動かすことの出来ない庭石の山を見た時は、今後もあの庭石の御陰で草刈り刃のチップが欠け飛んで行くのかと思うと若干憂鬱になった。

石見銀山の町並みへ出ると、小雨が降っていた。それでもどこかしら生ぬるく温かい。富山へ移動している途中から雨が激しくなった。雲が低いせいか、まだ夕方には間があるはずなのに対向車がライトを点灯している。小学校の用事を済ませてからキーポンをピックアップした。

教室個展の竹田茂氏は家族ぐるみのキャンプ仲間だった。もう30年も前のことになるだろうか・・まだ二人とも若くて子供も小さかったからとても楽しい思い出になっている。
教室個展には、できるだけ作家歴の若い人を見つけるようにしているが、それでどこかしら不安なところもあって、核になる安定したベテラン作家に協力してもらっておくと気持ちが落ち着くところもある。昨年は、彫刻の大作を集めて教室グループ展と、島根出身の絵画の大御所の作品を集めた展覧会に仕立てた。
それはそれで良かったのだが、せめて教室の個展は平面の作家に集まってもらったほうが立体と平面のバランスが良いような気がして、今年は竹田さんのお世話になった。特に改めて何も言わなくても、自分で何かしらテーマを決めて教室を仕切ってくれるだろうと思っていたが、やはりその通りで、密度の高い個展会場に仕上がった。
彼の絵画は、限りなく不定形の立体なところが特徴で、今ではそれが彼の絵画作品の特徴にもなっていて、知る人ぞ知る存在でもある。それはそれで、ある意味あらかじめ答えの用意された安心感も漂ったりするのだが、一方で、彼の制作の軌跡を大きく逸脱したような破壊や挑戦も観てみたい気がして、今回の個展にそういう期待感も意識していた。
さて、そのあたりのこととなると、これはお互い一杯やりながらじっくりと会話しないとややこしいことになりそうなところもある。いずれにしても今回の発見は、彼の展示の工夫にも増して醸し出す色彩の組み立てがとても魅力的に感じた。今のモデルに古き良き自分の少年時代の文化を感じた。

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教室個展〜本池文乃〜 

2016/11/14
Mon. 11:42

飯南高原は、さわやかな秋空が広がった。
11月に入って、農繁期も少し落ち着いて、そろそろ年末も近づいて慌ただしくなる少し手前のチョットだけ気持ちが緩やかになった頃になると、万善寺の檀家さんが一気に法事を始める。
だいたいが、寺の仕事で年間のスケジュールが決まることなど片手でもあれば十分なほどの数しか無くて、あとはお檀家さんの都合でその日その日を調整していくしかない。
まぁ、そんなわけで土曜日から日曜日にかけて3つの法事を済ませた。
さすがに日曜日の夕方に石見銀山へたどり着いた頃は、もうグッタリとして何もする気になれない。坊主はジッとして動かないのが仕事のようなものだから、この2日間で完全に身体が固まってしまって、立つも座るもそのチョットした動きで身体のアチコチに痛みが走る。やたらとウンウン唸っていると、キーポンが珍しく背中を押してくれた。背骨がボキボキ鳴ってヨダレが出そうになった。それから、腰のあたりには常備薬のサロンパスをペタペタと貼ってくれた。持つべきものは優しくて可愛い娘に限る!

土曜日と日曜日は富山の小学校教室展を観ることが出来るようになっている。前記のような事情で受付が出来なくなった。それで急きょ、教室個展の竹田茂氏と内田紀子氏がそれぞれ1日ずつ受付代行してくれた。来場は2日で7人。昨年はゼロの日もあったから人口400人静かな山間の町も、この彫刻イベントで少しほど認知され始めたのかもしれない。
そもそも、児童数が減ったからという理由で廃校になったような小学校のことだから、一般的にそういう地域は、世間に忘れられてしまっているといってもいいくらいのところだ。そういう、誰も来ないような場所でわざわざ彫刻のイベントを企てるというところからして物好きなものだと思われても仕方がないことだ。一方富山には、そういう彫刻に縁がなくて現代美術のカオスにハマることのない限りなくピュアな世界が広がっている訳でもあって、私には、そちらのほうが狭苦しいギャラリーや堅苦しい美術館がひしめく都会の文化街に比べたらずっと魅力的に見えてしまうのだ。

本池文乃氏は、鳥取の出身で、島大の新井研究室を経由して、現在は鳥取の確か中学校で子供達に美術を教えているはずだ。山陰のグループ展で彼女の絵画をはじめて見て、何かしら面白い方向性のようなものを感じて個展の声をかけたら、しばらく悩んだ末にOKの回答を得た。回答までの停滞した時間は、新井氏をはじめとした研究室やその周辺の友人諸氏に個展の相談を繰り返していたのかもしれない。
結果的には、今回の教室個展で今までにない表現の方向性が出たような気がして、面白い会場が出来上がったと私は感じた。この表現が今後どのように展開していくのか楽しみでもある・・・ということは、今回の個展は、まず造形作家の第一歩というあたりか・・
わからないなりに、ジタバタと何かを組み立てていれば、そのうち何かがひらめいて形になっている・・といったあたりがまずは大事なことだ。汗もかかないで机上の理論を組み立てて崩してばかりいても結果は見えない。まずは行動するということが大事なことで、それで掴んだ方向性もあれば、それで失敗した表現もあるはずだ。
これから彼女には造形表現の分からないことがたくさんつきまとってくるだろう。その悩み事の開放が次の表現の厚みに変わればいいことだ。

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教室個展〜坂野歩〜 

2016/11/12
Sat. 17:03

坂野歩さんは、島根県の川本町出身で、現在京都に住んでいる。
私と同じ鉄の彫刻家でもある周藤さんが川本の高校へ勤務していた時の生徒さんだったはずだから、まだけっこう若い。それでも随分前のことになるから、どのような経緯で私と親しくなったかというあたりのことはあまりよく覚えていない。受験勉強の時に彼女のデッサンを見ていたような気がする。付き合いというとその程度のことだが、なんとなく人懐っこいところもあるし、時々思い出したように連絡もしてくれるし、それなりに気になる娘で、付かず離れずの付き合いが続いている。

彼女が沖縄の芸大で勉強していた頃は泡盛を持って帰ってくれたこともある。その沖縄で日本画の技法を習得して、その縁もあってか、あの世界的に有名な島根の足立美術館へ就職した。
彼女が勤務している間に一度は美術館へ行こうと思っていたのに、それが叶わないままサッサと京都へ移住してしまった。
時々届く個展の案内を見て、制作を続けていることはわかっていたから、富山町の企画のことを少しほど説明して教室個展に誘ってみると、しばらくしてOKの返事がきた。生活の拠点が京都だし、展覧会をはじめる前に会場の下見をすることも難しいから、メールのやりとりで教室の様子を伝えるくらいしかできなかった。

富山のことは、基本的に彫刻主体の企画であるから、教室個展はできるだけ平面の作家を選んで声をかけるようにしている。そのあたりの隠された狙いはあるが、それを語ってどうなることでもないので割愛しておく。結局は、美術文化に縁遠い島根の片田舎で、ソコソコなレベルの現代美術を幅広く体験できるというあたりに旨味があるのだよ!・・・と、自分では意識しているところである。

坂野歩さんは、会期の前半2日間ほど会場当番をして京都へ帰っていった。
最終日に、島大の新井氏が訪ねてくれた。
彼は、確か私とほぼ同じくらいの年齢のはずで、島大教育学部で絵画の研究室を持っている。学生さんの面倒見もいいし、大学を離れても縁を絶やさない付き合いが出来ていて吉田的にはもちろん作品も含めて彼の人柄を特別な美術家として意識している。その彼が、坂野個展の作品技法にいい感じで食いついていた。
日本画の技法というより、画材のテクスチャーが彼にとって新鮮に感じたのかもしれない。
坂野さんの絵画は、俗に言う日本画独特の世界観を意識させないところに不思議な面白さがあってそれが魅力にもなっている。彼女の制作テーマの何処かに私的な情感を強く含んでいるからかもしれない。
暮らしの生業は学芸員であるようだから、それはそれでかなり大変な仕事であるだろう。限られた時間で作品制作を継続することはなかなか難しいことだろう。
なんでもかんでも大作がいいというわけでもないし、手頃なサイズの小品でも自分の世界観を表現することは出来るはずだ・・・が、大は小を兼ねることは出来るものの、小が大を兼ねることはなかなか難しいものでもある。
坂野さんには、これからも生涯作品制作の道を捨てないでもらいたいと思っている。

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教室個展〜内田紀子〜 

2016/11/11
Fri. 14:08

旧富山小学校1階の片付けがやっと終わった。
午前中で終わらせようと働き通したが、お昼を回ってしまった。

こうして小学校の校舎に通い続けていると、これだけの施設や設備がまったく機能しないまま毎年が過ぎていることのもったいなさを痛感する。教育委員会や行政の考えだと、色々な建築上の問題を改善する見込みがつかないから、通年の貸出ができないのだそうだ。想定外の災害などで被害が出た時の責任が持てないということのようだ。お役所仕事というのはこういうタテマエ上の堅苦しいところでスジを通しておくことの方が大事なのだろう。

当初の予定では、1階にあるノリちゃんの教室個展は、富山町の文化祭までに撤収することになっていた。それが、まちづくりセンターの調整もあって、せっかくの展示だから文化祭のお客様にも観ていただこうと言うことになって当日まで据え置くことが決まった。それで小品彫刻の第1展示会場の教室とワークショップで使ったランチルームを復元するだけですんだ。
ほんの1週間前にはあれだけたくさんの人で溢れていた場所に、今は自分一人しか居ない。なんとなく寒々しく感じるのは気候のせいだけでもなさそうだ。

ノリちゃんの個展は、小学校の下駄箱や掲示板や黒板などを上手に使って空間との調和がとても丁寧に工夫されている。
どちらかといえば、この数年間は彫刻というか立体というか、そういう傾向の作品が多かった。もともと彼女は幅広い美術的センスを持っていて、なんでもそれなりに器用にできるタイプの作家だ。こういう人は、制作の方向が定まるとあまり迷うこと無く一気に勢いで乗り切ってしまうようなふうに思う。今回も、個展会場になる教室の床に素材のあれこれを広げて夜な夜な制作に励んでいたようだ。そういうことが出来るのも、比較的自由に使いまわすことのできる展示空間があるからだと思う。これが、何処かの公共の美術館だったり街のギャラリーだったりすると、厳しい条件が重なったりして自分の表現が素直に思うように組み立てられないかもしれない。廃校になった小学校の教室がノリちゃんのような作家の個展で生き返ったような気がした。

最近のノリちゃんは子育ても一段落して、学生の頃に専攻していた造形の方向性のしがらみも凡そこなれて、ある意味で素直に自分の表現を開放できるようになってきたような気がしていた。
立体とか平面とか、そういう狭い世界にこだわらないで、自分がその時にやりたいことを素直に表現できればそれが一番いいと思う。今は、そういう制作と発表の場数をこなして表現の領域を広げる時期なのかもしれない。そしてもう少し美術環境が充足した展示空間を自力で探すことも大事なことだと思う。
ノリちゃんには、造形作家として表現の厚みを持ってほしいと思う。
自分の作品を理屈で語ることもそれなりに大事なことだと思うが、彼女のような器用な作家はもっと恒久性のある造形の工夫もするべきだ。

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オヤジの朝 

2016/11/10
Thu. 09:29

気がつけば、もう11月も3分の1が終わりそうですよ!!
吉田はいったい何をしているのでしょう??

このところ、デスクワークを何処かへ置いて、肉体労働ばかりが続いていて、昨夜も10時前に帰宅して・・・もうグッタリ・・という状態・・
富山町でのイベントが終わって、その事後処理の資材什器運搬や関係各所へのお礼廻りなどをこなしながら、万善寺の幾つかの用事や母親の通院もあるし、保賀地区の祭り準備など、毎日が目まぐるしく始まって終わる。いつものことだが、自分のことが一番後回しになって、ワイフには迷惑をかけっぱなしだ。

1周忌の法事と納骨があるので、夜遅くに帰宅してバリカンを当てようと思ったら充電が切れていて、それで一気にその気が萎えた。施主さんには無苦しい姿を見せてしまったが、なんとなく法事の合間の話題が彫刻やワークショップのことになって、若干救われた。たぶん、伸びた坊主頭に無精髭が偏屈な彫刻家風に見えたのかもしれない。
飯南高原のあたりでは、けっこう「彫刻家の方丈さん」的知名度があったりする。だいたい、「知る人ぞ知る」といったところだ。

幼稚園実習のキーポンを送りがてらワイフが仕事に出かけた。今日は帰宅が19時くらいになるそうだ。一方私は今まで早朝から出かけることが続いていたから、今朝は久しぶりにゆっくりしている。
奥出雲で旅の空を続けている間にLittle Mixへハマってからいまだにそれが続いている。結界君と移動しているときも、彫刻展の作業をしているときも、一日のかなりの時間聴き流すにはちょうどいい。グッピー家族の水を補充し、ネコチャンズのトイレのウンコやシッコを片付け、ストーブに薪を補充し、四畳半を少し片付け、今もLittle Mixをバックにコーヒーをすすりながらキーボードを叩いている。

旧富山小学校教室個展の一人ノリちゃんの個展会場は教室棟の生徒昇降口から教室までの1階を使って展示された。
もう一つある1階の教室は小品彫刻の会場になっていて、これはこれから2日間で撤収搬出する。富山町の収穫祭も兼ねた文化祭が11月20日に決まって、その会場の一部でこの旧富山小学校を使うから、教室の復元も兼ねてノリちゃんの個展会場を若干移動しなければいけない。
まぁ、何時でもそうだが、ひとつの事業を回すのは普通に最低半年は使ってしまうから、幾つかの事業が重なったり万善寺の用事もこなして彫刻も造るとなると、暇なオヤジも暇なりにあわただしい毎日を過ごしていたりするのだ。

富山は終日冷たい雨が降り続いていた。
ノリちゃんから連絡が入って個展会場の件で少しほど具体的に調整できた。彼女も仕事があって忙しいのに、吉田の無茶振りへとてもよく付き合ってくれる。富山がはじめての個展会場になったのだが、それでよかったのだろうか?

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とみやま彫刻フィールドアートワーク第1期終了 

2016/11/08
Tue. 12:20

久しぶりの更新ですなぁ〜〜
11月の2日から6日まで、大田市の東の端にある棚田の里山が広がる富山町で大人の合宿をしていた。
宿舎でお世話になった曹洞宗の松林寺さんからは、富山の谷の向こうにある要害山の近くから朝日が昇って、ご来光の絶景が望めた。
会期中好天が続いたのは、雨男の私にとって奇跡的なことだった。

とみやま彫刻フィールドアートワークは、文化の日をスタートに4日間のメイン日程を無事に終了することが出来た。
今年で2年目を迎えるこのイベントは、人口約400人の町富山のほぼ中心にある小学校の廃校をメイン会場にして、彫刻に特化した美術文化事業になっている。
核になる事業は、まだ十分に新しくて立派な小学校の有効利用をメインにしたワークショップによる「ものつくり学校」で、他にも、教室を使った作家歴の若い美術家の個展や全国から出品を募った小品彫刻のグループ展を開催し、同時に野外彫刻を町内各所に設置することで、比較的整備された棚田が残る富山の里山風景の美しさを町内外の皆さんに再認識してもらいたいという、ささやかな願いも込められている。

吉田が自分から積極的に動くことで、彫刻のネットワークが活性し、彫刻というキーワードが地域の活性につながればいいと思っている。
今年の目玉イベントを富山の竹を使った野外オブジェの公開制作にした。
倉敷在住の草月流師範西本秋翆氏とその周辺のコアなメンバーが富山へ入り込んで、地元有志の皆さんと一緒になって泊まり込みの公開制作を展開する。
前フリで富山の竹を切り出すところからはじめて、その後西本さんの富山現地視察をはさんで、文化の日を迎えた。
地元のみなさんがどれだけ彫刻イベントの活動を理解して協力してくれるか、その時になってみないとわからないという状態のまま当日を迎えたが、私の心配を他所に、早朝から準備万端で屈強のおじいちゃんが集まってくれた。現役時代は左官などの職人さんでもあったから、西本さんや倉敷メンバーのスタッフとの呼吸もピッタリで、概ねストレスなく制作が進んだ。やはり、どの世界も女性が中心になって何かを仕切るとなると、毎日を暇に暮らすリタイヤオヤジは喜々として元気に働いて若返る感じだ。
私の方は、時々制作中の様子を見ながら静観していたが、なかなかのチームワークが出来上がっているふうに感じた。

西本さんとお手伝いの皆さんは、都合3日間で3箇所の野外オブジェを完成させて、4日めのお昼過ぎに富山をあとにした。
設置の終わった野外オブジェは、これから1年間その場所で富山の四季に耐えることになる。会場の草刈りメンテナンスは私が出かけて草刈り機を振り回すことになるが、昨年からこの1年の間に、地元有志のみなさんが何度か草刈り勤労奉仕をしてくれたし、和牛農家のオヤジさんも牛の餌にもらうといって親切に刈ってくれている。
野外彫刻が少しずつ棚田の里山に根付いている気がする。

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まだまだ続く旅の空 

2016/11/04
Fri. 10:25

まだまだ続く旅の空・・とみやま彫刻フィールドアートワークのスタートです!

昨年から始まった旧富山小学校やその周辺での美術企画は、2年目を迎えて少しずつにぎやかになってきているような気がする。
文化の日オープンに向けて、前日から島根や鳥取の日本海沿岸をあわただしく往復した。
ちょうど都合よくスケジュールがうまく噛み合ってギターミュージシャンも富山へ合流してくれた。

このところ彫刻家の顔でフル回転している吉田正純も、自宅に帰れば末娘キーポンの優しいお父さんであり、ワイフの優しい旦那でもあるから、仕事と家庭の両立もそれなりに工夫して折り合いをつけながら毎日を過ごしているつもりだが、それでもどうしても公私の都合の付かないこともあって、ボクのクリスタルの心はもろく壊れてしまいそうなことがしょっちゅうだ。

準備の合間を縫って、少し前にあった地震で大きな被害を受けた倉吉にいるキーポンを迎えに走った。
彼女は来週から幼稚園実習が始まる。
荷物が多いから迎えに来てくれと甘えられると嫌ともいえない。
大栄町から倉吉へ近づくにつれて、ブルーシートの屋根がしだいに増えて目立つようになった。想像していたより大きな被害を見ると心が痛む。
私が暮らしている石見銀山の隣町には瓦工場がたくさんあった。山ひとつ全部が良質の瓦土だったりするから、自然と材料のある場所に職人さんが集まって瓦焼成の窯が増えて、大きな工場がいくつも出来て、雇用が増えて、地元の大きな産業に発展した。
粘土も豊富で当分の間瓦産業が発展するだろうと思っていたところへ、神戸が大震災の被害にあった。それから北関東や東北と地震が続き、その風評被害の影響で瓦工場の廃業が一気に加速した。
規模や雇用を縮小したり販路の開拓をしたり、瓦に変わる新商品の開発をしたり、地元の瓦工場の営業努力がしばらく続いたようだが、結局、需要の安定には至らなかった。現在は、有限会社の瓦工場が一社だけ残っているだけになった。
そんな状態で今度の倉吉の地震だ。
自分の身近の出来事でもあって他人事のように思えない。
ボンヤリと結界君を走らせていたら、曲がる道を間違えて細い路地の続く町並みへ入り込んでしまった。右に左にブルーシートの屋根を見ながらしばらくウロウロしてしまったが、それでも待ち合わせの時間へ間に合った。
富山へ着いたのはすでに夜の8時近かった。今回の宿舎になるお寺の本堂へレンタルの布団を運び込んで、2人のミュージシャンに幾つかお願いをして自宅へ急いだ。
遅い夕食を済ませてデスクワークにとりかかった。展示目録の作成や、キャプションの印刷がまだ残っている。データをWi-Fiで飛ばしたプリンタの動き出す音が遠くで聞こえる。
いつの間にか眠っていたようだ。真夜中になって秋の冷え込みで目が覚めた。

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再開ー旅の空 その3〜松江の街並み〜 

2016/11/01
Tue. 22:44

気がつけばもう11月になった。
最近、1日が短くなってしょうがない。
日が短くなったこともあるが、1日のうちにやらなければいけないことが多すぎて困る。仕事は追いかけられるより追いかけるくらいのほうがちょうどいい・・なんて、何時だったか随分前に誰かに言われたことがあるが、今にして思えば、あの頃のほうが今よりずっとのんびりとした毎日を過ごしていた気がする。

少し前のことになるが、10月30日の日曜日、松江の新築寺院の落慶法要当日だった。
随喜の若い方丈さん方が、早朝の日の出とともに朝の法要をされるところからその日が始まる。記録撮影係の役を仰せつかっている私は、宿舎のホテルから朝食前に出発した。
早朝の空にはほんのりと朝焼けが広がっている。前日の曇り空が少しほど回復していた。
事前の打ち合わせもあったりして、昼間の松江市内の道を何度か往復している時はそれほど気にもしなかったが、あらためて見ると道路の拡幅工事が延々と続いている。
この数年間、島根県のアチコチで大きな行事が続いたから、その関係で観光人口が急増して今に至っている。道路の整備も大事な公共事業の一つなのだろうが、大事な歴史の面影がまた一つ完全に消えてしまうことにもなる。

まだ時代が昭和だった頃の3年間を松江の宍道湖から中海へ続く大橋川の南で暮らしていた。
松江城は川の北側にあって、そのすぐそばに県庁があって、県庁の隣に図書館があったから、定期試験や学年末のレポート作成の時などには、よくその図書館へ通った。
城を中心にして南北に走る道は、東西に走る幾つかの川に架かる橋を渡ることになる。
だいたい主だった道はその橋の少し手前で小規模なクランクになっている。そういう場所が何箇所もあって、信号の数もやたらと多い。これが、俗に言う典型的な城下町の造りである。敵の侵入速度をそのクランクで減退させる役目の造りになっているわけだ。それが、松江城の四方に張り巡らされているから自転車で行動していても結構めんどくさい街並みで、だいたいが不便に感じていたことのほうが多かった気がする。

その朝に結界くんで走ったのは、お城の内堀から東に伸びる道で、私が暮らしていた頃は、確か3箇所ほど大小のクランクがあったはずだ。その道筋には、駐車場のない蕎麦屋さんがあって、なかなか美味しい蕎麦を食べさせていた。その先には小さなラーメン屋もあった。最後のクランクを過ぎたあたりには古道具屋というか骨董品屋というか、なかなか時代がかった面白い店があった。早朝のことで、それらの思い出がどうなっているのか見極めることも出来ないまま結界くんで走りすぎてしまったが、蕎麦屋さんが無くなっていたことだけは確認できた。
昔は路上駐車の車があると、すぐに渋滞が次の信号まで続くくらいの細い道だったが、今の工事が終わると、東側の幹線道路まで片側2車線の道がまっすぐにつながる。
こんな大通りが松江城にぶつかってしまうと、守るも攻めるもアッという間の一瞬の出来事で決着が就いてしまうだろう。
あの頃の松江の街並みは私の記憶の中に残るだけになってしまった。

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再開ー旅の空 その2 

2016/10/29
Sat. 22:24

不眠症というわけでもない。
その不眠症は、時間に拘束される「ある仕事」をリタイヤしてすぐに軽度の症状が出て苦労した後、ニートオヤジに慣れた頃には自然に治っていた。
最近は、吉田の日常生活が夜型に変わった関係で、真夜中になって覚醒するというバイオリズムが定着してしまったふうな症状と云っていいだろう。
9月から10月にかけて、とにかくやたらと夜に走った・・・といっても、ジョギングしたわけでもなんでもない。
ある時は、レンタカーで・・・
ある時は、ワイフの車で・・・
そしてまたある時は、ボクの相棒の結界くんで・・・
走行距離でいうと総計3000kmくらいは普通に走っていると思う。それでオヤジの身体が固まって、万善寺の仏事で固まって、それなりに精度を要する鉄板の溶接や溶断で固まって、とにかく、俗に云う運動不足に近い状態が長時間続いて、身体中の筋肉が退化した感じの上、ときおり思いついたように強烈ハードワークな力仕事がやって来るという、動いてもジッとしていても、それだけで肉体労働を強いられるという、いいかげんなジジイにとっては、過酷な2カ月が続いた。

そして・・・
本日は、松江の法類寺院の落慶とそれ関連の法要がスタートした。
だいたい、50人くらいのボォーさんが集まるほどの盛大な法要に、たぶん、その寺から島根県でいちばん遠くに位置する万善寺が随喜するには、山寺の和尚さんは本日早朝からスタートすることになった。
ワイフの朝食はスルーできない。
厚切りのトーストに、具だくさんのスープをかき込んで夜露に濡れた結界君をスタートさせた。おおよそ予定通りに新築の寺へ到着して、本堂裏の物置にあるコンセントを基地に決めて、撮影機材をセッティングしたのは10時を過ぎていた。それから法要準備が進む寺の内外の要所を撮影していると、今回の相棒撮影要因の方丈さん到着。
その後、法要定刻の少し前から続々と寺院参集。
それから後は、とにかくめまぐるしく予定された次第が粛々と過ぎていった。
全てが終わって、薬味たっぷりのうどんをかけつけ3杯いただいて人心地ついた。気がつくと、膝から下がパンパンに浮腫んで、足首など思うように動かないまでになっている。思い返せば、本日早朝以来、何かしら座っていたのは、メシを食べる時と結界君を運転している時とデジカメのJPGデータをボクのヨレヨレMacBookへ移動している時だけ。あとは、ひたすら立ちっぱなしの動きっぱなし。

松江一泊になるので用意していただいたホテルは、ボクの生涯で通り過ぎていく風景の如く縁の無いような一流ホテル(・・と言っても三つ星がどうこうは良くわからないけど・・たぶん、縁もないだろうけど・・)!
例の如くセブンイレブンで買い込んだおつまみと麦とホップで、疲れを癒しながら「とみやま彫刻フィールドアートワーク」の関係者に事務連絡をさせていただいております・・

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再開ー旅の空 

2016/10/29
Sat. 06:26

特にオフレコというわけでも無いのだろうが、こういうことは何かとデリケートなもろもろも無いわけでも無いだろうし・・・なんて、喉の奥に魚の骨でも刺さった感じの言い回しになってしまったが、とにかく、節目の時期というものを誤ると八方ややこしいことになりそうだからと思って、どちらかというと最近はその話題を避けていたようなところもあった。
やたらともったいぶった感じになってしまったが、ようは、万善寺と比較的縁の深い松江の同宗寺院の落慶法要が2日に渡って盛大に挙行されるということ。
総工費が推定2億円くらいかかっていそうな立派な本堂が完成して、その記念法要をするにあたって、関係寺院が参集してお手伝いをすることになるわけだが、私の役割は、式典全体の記録用写真係を当てていただいた。
膝が壊れて回復不能状態でもあるし、それで長時間の正座も難しいと思っていたから、丁度良い配役のような気もしたが、一方で延々ととめどなく続く内外の様子を遺漏無いように記録するという大役でもあって、少々緊張もしている。

昨日、記録写真でペアを任された松江市の吉祥寺さんへ事前の打ち合わせに出かけた。
松江で泊まり込みの随喜になるので、万善寺にあるいちばん見た目に上等そうな大衣や袈裟を探したり、謹上の書物や封筒を折ったりして準備した後、松江に向かった。
島根県の県境辺りから北上を始めると、途中から雨がしだいに強くなってきた。改良衣でいるから念のために黒傘を結界君へ用意したのだが、大正解だった。
グーグルマップを頼りに吉祥寺さんを目指したが、何せ通信制限がかかりっぱなしのiPhoneのことで、全く用をなさない。途中、松江の市内へ入ってから何度もハザード駐車して現在地を確認しながら、ほぼ予定通りの時間で到着した。
はじめての方丈さんで、山寺のナンチャッテチキン坊主は心臓ドキドキバクバクだったが、おかげさまでとても気さくで優しそうな方丈さん(見た目は・・・)だったので助かった。
春先に絶不調に陥った年代物のボクの愛機MacBook Proを開いて、方丈さんのデジカメの動作確認をしたり、式典での動線を打ち合わせたりして、あとは世間話に花が咲いた。
方丈さんは、永年勤務の職を辞してから、一念発起船舶免許を取得して、ほんの数年前まで松江城周遊堀川遊覧の船頭さんをしていらしたそうだ。自分で言うのも何だが、吉田もそれなりに変人坊主にくくられても言い訳できないような暮らしぶりだが、吉祥寺さんもなかなかの気骨坊主に思えて、不覚にも身勝手に親近感を覚えてしまった。
午前中のドタバタでコーヒーの禁断症状が出かかっていたところへ、タイムリーな奥さんの気遣いコーヒーをたっぷり飲むことが出来て、それで随分気持ちがシャンとした。
約1時間ほどがアッという間に過ぎて、吉祥寺さんをあとにして、そのまま先日お葬式をした施主さん宅へ移動した。
初七日のお経を読んで、ここでもなかなかおもしろい世間話に花が咲いて、珍しいどら焼きを食べることも出来た。
すでに夕闇が迫ってほとんど夜になった松江の街は雨の勢いが増して傘なしでは歩けないほどになっていた。帰りに途中の同宗寺院へ用事をすませた。
これから2日間緊張が続いたあと、一気にとみやま彫刻フィールドアートワークになる。

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携帯電話ストレスイライラ症候群 

2016/10/28
Fri. 05:55

久しぶりにラップトップを使っている。
島根県や吉田家をしばらく留守にしていたうえに、速度制限のかかったままのiPhoneしかデータ通信の手段がないままアチコチウロウロしていたら、そのうちそれも慣れてきて、特別こまめにメールやウエブニュースのチェックをしなくても平気になってきた。

思えば、上京して一人暮らしを始めたころなど、連絡の手段は街のアチコチに設置された公衆電話くらいのもので、はじめてアパートの自分の部屋に黒電話を引いたのは中野区南台へ引っ越してしばらくしてからのことだった。
あの頃は、だいたい電話が必要になるほどの仕事もしていないし、頻繁に電話をし合う程の親しい友人がいるわけでもないし、さしあたって特に急を要して必要に迫られていたわけでもなかったから、なんの不自由もなく電話無しで暮らしていた。
私の周辺諸氏の事情の成り行きで、大学へ通いながら高校の時間講師を引き受けることになって、校長先生との最初の面談のとき連絡先の電話番号を聞かれたことがきっかけで黒電話を引く羽目になってしまった。
その中野区南台のアパートは、一階が大家さん経営の酒屋さんで、店が空いている時は普通に10円玉何枚かで店の電話を使わせてもらっていたが、電話の取次まではなかなかしてもらえる環境でもなかった。「これこれこぉ〜で、電話がないといけないような状況になりまして・・・」と大家さんに相談したら、設置費用を自分で持つんだったら引き込み工事入れてもいいよと快諾を得た。
結構な額の投資になるし、そこまでしてどれだけその黒電話が活用されるんだろうと、まったく予測のつかないまま必要に迫られた電話設置だったが、さすがに目の前へ黒電話の現物が鎮座してマイデンワバンゴウなるものが出来ると、何かしら少し大人になって社会人になったような気になってウキウキしてしまう自分がいた。まずは勤務することになった学校の事務へ番号を伝えて、それが呼び水のように、一気にアチコチへマイデンワバンゴウが広まった。
どちらかというと、吉田の一人暮らしも若干便利になったようでもあったが、一方でそれまでの気楽な一人暮らしに若干の乱れが生じるようになった。留守中の着信音の苦情だ。「うちのほうじゃないんだけど、隣の・・ほら、中庭を挟んだ向かいのアパートがあるでしょ。その真向かいに住んでる人から電話うるさいって不動産屋通して苦情入ったのよ・・」
そんなこと言われても、自分が留守に鳴ってる電話の世話までは出来ないでしょう・・と思ったが、だからどうなるわけでもないし、苦肉の策で、出かける時は、押し入れの布団の中へ黒電話を突っ込んで当面を凌いだ。
古き良き時代のことだ。

最近、寺の一人暮らしが寂しくてしょうがない後期高齢者の母親から、私の都合など全く無視で、しょっちゅうiPhoneへ電話が入る。だいたいに出られないことのほうが多いから無視しておくとワイフの携帯へもかかるようになってきた。ここまでくると、便利とか不便とかの問題ではない。携帯電話ストレスイライラ症候群が、吉田家に蔓延してきた。病原はマイママである。

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旅暮らし 

2016/10/25
Tue. 20:57

先週末から、旅ぐらしが続いている。
10月に入って、ほとんど自宅で寝ることがない・・・ということは、万善寺の用事もないまま、彫刻絡みであちこちうろついているばかりということ。

飯南高原と石見銀山を行ったり来たりしているだけでも、自分の周辺のいろいろなものがあっちへ行ったりこっちへ行ったりしてとろけた脳みその記憶がオーバーフローして収集がつかなくなってしまった。それで今、最大の問題となっているのは、万善寺の大事な印鑑が見当たらなくなったこと。それに気づいたのが先週の初め頃で、それからあと今に至るまで自分の脳みそは常にカラカラと印鑑のことで回転し続けている。その上、幾つかの心当たりのところへすぐに出向いて探すことも出来ない旅ぐらしのままだから始末に負えない。

あまり気にもしないでiPhoneを使っていたら、知らない間に通信速度規制がかかってしまった。
ワイフが最新のiPhoneに機種変更した時に、家族みんなで使用するような契約に代えたと言っていたが、それが良かったのかどうなのか、その内容をあまりよく理解することもないまま使い倒していたら、あと半月も残っている時期から速度規制でとにかく使いづらくなった。キーポンが鳥取の地震で一次避難して帰省したときも、オヤジの速度規制のとばっちりで苦労しているようなことを言っていた。ワイフは携帯も不携帯状態だから特に気にしている様子もない。

彫刻の撤収と搬出が終わって、リニューアルされた高速バス乗り場まで移動した。
そのあたりは、東京のど真ん中でもあるから、公共のWi-Fiスポットだらけでバスが出発するまでの待ち合わせの時間に旅ぐらしで溜まったメールや諸連絡が簡単に出来るだろうと気楽にしていたら、使っているアドレスやパスワードが脆弱で危険だという通知が入ってそれから先にコトが進まない。しばらく、アレコレ工夫してみたが、インターネットにつながっても、世間のどうでもいいような情報が垂れ流れてくるだけで、自分の使っている書類のページまでたどり着けない有様・・
日頃から、日常の文房具のようにパソコンを使って暮らしはじめてもうかなりの時が過ぎた。光ケーブルも街道沿いに続くケーブル線が見えるだけで、それが我が家で使えてるわけでもない島根の田舎で、不自由なりにそれはそれとして都合よく使っているくらいのほうが今の自分には分相応のことなのかもしれない。何かしら不具合が起きると、吉田家のコーヒー一杯で付き合ってくれるケーブルテレビのメカニック兄さんがすぐ来てくれるし、とにかく、旅暮らしの不自由なことには心身ともに悩まされた。

あと少しで、大田市駅に列車が到着する。
今日はこれから富山へ直行する。
公開制作用の竹の切り出しと、会場へのパネル設置が主な仕事。
吉田家のネコチャンズはどうしているだろう・・・しばらくぶりのオヤジの顔を覚えていてくれるかなぁ~~・・

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二紀展終了! 

2016/10/25
Tue. 11:50

心優しき二紀会彫刻部野外メンバーのご協力をいただき、無事に(だと思うけど・・・)搬出作業を終了しました!
本当にメチャメチャ久しぶりに一人で搬出することになって、朝からどうも落ち着かない1日だった。
チャータートラックの運転手さんからお昼に電話が入った。
彫刻の撤収作業は14:30以降になるから、いやに早い到着で、それで余計に緊張が増した。
野外の彫刻展示会場には、いつもの見慣れた彫刻家たちもちらほら確認できる。
東京を中心にした関東圏の作家は、今日の搬出撤収作業要因で大勢出かけてくれている。
彼らのおかげがあるから、島根の出品者メンバーも手分けして代表が一人くらい立ち会うだけでなんとか撤収や搬出が出来ているわけで、やはり、こういう大事な一日は出品作家一人ひとり自分の目で確認して自分も一緒になって汗を流す経験もした方がいいと強く感じた。

落ち着かないままベンチへ座っていると、埼玉の本多さんが隣へ座ってくれた。
彼とはもう随分長い付き合いになる。
今年が70回の記念展だったから、私の出品歴もそろそろ30年を過ぎたくらいのはずだ。彼は、その頃から多分一緒に出品していたような気がする。
最初はワイフのお供で搬入や搬出の手伝いをしていたのだが、結婚して島根に帰ってからはワイフが造った彫刻を小荷物に梱包したりして手伝ってけっこう大変な思いをしていた。どうせ苦労するなら自分もワイフと一緒に彫刻を造ってみようかと思うようになって、その後吉田家の二人が一緒になってそれぞれ自分の彫刻制作をして搬入して陳列して搬出することをした。
当時は、島根県から二紀会へ彫刻を出品していたのは、吉田家の二人だけだった。
今では、年によって流動的ではあるが、それでも10人近くのメンバーが共同で搬入出をするまでになった。
毎年同じようにやってくる秋のこの時期の展覧会は1年間のスケジュールに組み込まれているから、気持ちの切り替えや体調の管理などをしながらそれぞれの作家がそれぞれに制作を続けている。それでも、結局は1年に1点の彫刻を造ることがやっとだったりして忙しくしている人もいるし、彫刻も継続するにはなかなか厳しい世界である。

まだ上野の都立美術館へ彫刻を陳列していた初期の頃の私は、どうも指定の安定した場所が定まらないで、毎年のようにアチコチ展示場所を移動していたから、なかなか親しく会話できる作家が見つからなかった。今にして思えば、それもいい勉強になっていた。自分の彫刻の力量が不安定だから、展示の場所も決まらないでいるようなことだったのかもしれない。
それまで世間話程度だった本多さんと親しく話せるようになったのは、野外の展示会場で彫刻が安定し始めた頃からだったような気がする。
田舎者の、一年に1・2回しか展覧会の仕事もしないナマケモノの吉田へ親しく声をかけてくれるだけで気持ちが楽になる。

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同窓会in大阪 

2016/10/24
Mon. 11:15

先週末は来島中学校の学年同窓会で大阪だった。
来島中学校は、確か私が学生で東京にいる頃、隣の赤名中学校と統合して現在の場所へ移動した。
当時の中学校は、木造2階建ての校舎で、職員玄関を入ると、広いたたきの土間があって、左側すぐに事務室を兼ねた職員室、右側に幅広の踊り場でL字に曲がった階段があった。一学年が最低80人はいたから、250人規模の学校だった。
中学校のすぐとなりには、高校と小学校があって、小中学校のグランドを全部使って町民体育大会をする時は、地域の住民が一斉に集まってくるし、出店も開店してとにかく賑やかで活気があったが、今はその校舎も無くなって当時の面影はない。
中学校を卒業すると、隣りにある高校へ相当倍率の受験を勝ち抜いて周辺の3つの中学校を卒業した生徒が入学する。
当時は、まだ中学校卒業で都会へ就職する生徒がいた。それに、進路指導や保護者面談を繰り返して、島根県内の大きな普通高校や実業高校へ受験を振り分けることでそれぞれの中学校が地元高校への進学率100%を死守していた。私はすでに寺の息子で、自分の意志関係なく両親から「お前はこの寺の住職になるんだから・・」と事あるごとに呪文や真言陀羅尼のように繰り返し洗脳されていたから、進路希望で自分の意志を聞かれることが無いまま、主役不在の高校受験をした。浄土真宗の跡継ぎも同学年にいたから、彼も私と似たような条件で志望校が決まった。将来坊主になって地元へ帰ることがわかっているから、少々遠くの高校でも受験させておけば地元の高校が入学しやすくなる・・・くらいの認識で学校と保護者が決めた高校受験だったと思う。
商家の子は商業高校で、農家の子は農林高校で、大工さんや自転車屋さんの子は工業高校で、寺の子は普通高校といった具合で、中学校を卒業した同級生は島根県内へ散らばっていった。
それぞれの進路へ別れて、高校を卒業した頃から、なんとなく近場の同級生が盆正月に集まるようになった。就職して社会人になって日本各地へ散らばってしまうと、それからあとは、誰かが本気で同級生をまとめるようなことでもしない限り、結局散り散りバラバラに収集がつかなくなって同窓会の案内をすることもできなくなる。私の学年は、運良くそういうマメな事務屋が何人かいたから、たとえば10年の節目同窓会とか、たとえば同窓生名簿の作成とか、連絡網が比較的活発に機能していた。私も、根無し草でアチコチブラブラしていたのが落ち着いてくると、幹事団の誘いに同席するようになって今に至っている。
世間では、早い者は定年を迎えて退職する年齢になって年金暮らしに入るようになったから、ここらでひとつけじめの同窓会をしようということになって、いきおい大阪グループが動き始めた。島根の山奥で暮らし続けている地元組が多数を占めるものの、一方で、東京や大阪に定住した連中も多いし、嫁に行ったおばちゃん連中は、嫁ぎ先の事情も色々あるだろうからということで、ほぼ中間地点の大阪集合となった次第。
早朝にチャーターバスで島根組が出発して、お昼過ぎに大阪入りして若干観光した後、大阪組が用意した会場へ到着。その後は、とにかく盛り上がりっぱなしで一次会が終了。そこで若干解散組が去って、残留組は二次会から三次会。私はもちろん、最後の最後までキッチリ勤め上げて、翌朝大阪から東京へ移動して、これから彫刻搬出作業であります!

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ゆれた! 

2016/10/21
Fri. 23:10

本日も、ヨレヨレオヤジにとっては過酷な1日でありました・・・
松江でのお葬式の前に、前から約束をしていた百ヶ日の法事があったので、石見銀山の自宅を早朝に出発した。だいたいこんな時は万善寺で一泊すれば楽なのだが、とみやまの彫刻イベントの事務処理もあったりしてなかなかすんなりといかないところがある。昨夜も、少しほど仮眠して真夜中からゴソゴソと起き出した。ちょうど、不眠症気味だったりしているから都合がいいところもあるが、やはり移動が多くて結界君を運転している時は眠気が襲ってきてつらいこともある。
飯南高原から松江へ移動していたら、国道がアチコチで工事中。葬儀開始の時間に間に合いそうにないから松江道から山陰道へ乗った。さすがにど田舎の島根県も松江あたりまで行くと通勤ラッシュらしきものがあったりして、あなどれない。おみそれしました。

荼毘を終わって斎膳についてしばらく喪主さんと歓談していたら、斎場のホールがグラリと大きく揺れ始めた!最近珍しいほどの大きな地震だ。葬儀参列の皆さんの携帯電話が一斉にけたたましく鳴り始めた。喪主さんは目が不自由なのでキララちゃんという盲導犬が寄り添っている。その犬が、揺れているテーブルの下でピクリともしないでのんびり寝ているから、この地震も大したことないだろうと予測してしぶとく弁当膳を食べ続けた。「松江震度4だって!」だれかが早速情報を収集していた。「震源地鳥取の方らしいよ」とか、「倉吉が震度6あったらしい」とか、次々に情報が斎膳の席に伝わる。
「キーポン大丈夫かな?」彼女は倉吉で暮らしているから少し心配になった。
それからしばらくして、喪主さんへ挨拶して斎場の駐車場へ出ながら携帯電話を確認すると、やたらとたくさん着信が溜まっている。
一つは、ワークショップの参加予約の電話だった。
一つは、徳島の彫刻家からの着信だったので、仕事の打ち合わせでもあったのかと返信したら、地震の心配だった。
一つは、キーポンからだった。ちょうどとんこつラーメンを食べている最中で、スープがカバンに溢れて臭くてしょうがないと愚痴をこぼしていた。すごい揺れで、お店の器が割れて散乱して大変だったらしいが、カバンの心配をするくらいだから本人は無事だった。
一つは、なっちゃんからだった。何かの報道番組で知って電話してきた。
他にも、メールが来たりメッセージが届いたり、友達の少ない吉田をこんなにも沢山の知人が心配してくれていて、斎場の駐車場でしばし電話を眺めつつ思わずウルッときそうになったが、喪主さんがキララちゃんを連れてお見送りをしていらっしゃるので、さりげなく微笑みを返して結界君をスタートさせた。
寺の用事で、松江のK寺さんへ電話したら、地震の関係で全く通じない。それから4時間位過ぎた夕方になってやっと通じた。
そのご住職、なんと震源地のすぐ近くで用をしていらしたらしい。「もう、すごかったですわぁ〜、生きた心地しませんでしたわぁ〜、人生で初めてですわぁ〜、いやぁ〜すごいのなんの・・」
鳥取の倉吉辺りはかなりの被害が出ているようだ。
これから週末だし、キーポンは急きょ石見銀山へ避難することに決めたようだ。
夜になって帰宅した私と入れ替わって、少し前にワイフがキーポンを迎えに出かけた。

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2016-12