工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

雨の月曜日 

2018/04/23
Mon. 23:43

予報では一日中雨になるということだった。
朝からワイフと出雲へ出かけることになっていたので、雨の9号線を東進した。
いつもだとこういう早い時間帯は銀山街道をノンビリ走ることばかりで、交通量の多い道を走ることがない。
ほとんどが通勤の車列なのだろうが、これが月曜日から毎日続くのだと思うと、自分にはとても耐えられない。それに、銀くん(リタイヤした結界君の代わりになってくれたボクの新しい相棒)はミッションだから渋滞のノロノロ運転に弱い上に、現在右足の不調が続いているオヤジにとっては、アクセルとブレーキの踏み分けだけでも結構なハードワークになっているから、よけいに耐えられない。
そんな感じで、半日かけて出雲の往復を済ませた。

昼から半日ほど空いたので、少しでも身体を休めておこうと、吉田家で過ごすことにした。
雨のせいというより、この数日が逆に暖かすぎたからいつもより肌寒く感じる。
暖かかったせいで一気にネコチャンズの猫草が伸びて、彼等の食いつきが良いものだから、もう少し補充してやることにした。
基本的に面倒くさいことは避けて通るボクではあるが、一方で、自分の気が向いたコトにはこまめに立ち動くことも結構あって、この猫草栽培も苦にならないし、むしろ発芽の楽しみがあって世話をしたくなってしまう。種をせっせと並べていると、クロがちょっかいを出しに来たりして、そのあたりの距離感も良い。

一仕事というほどたいしたことでもない用事を済ませてから、先日依頼のあったグランドの草取り機の材料計算をした。
前回制作した時の記録写真を探してみると、2015年の3月末のことだった。
そう云えば、あれは校長まで勤め上げて退職した友人の退職記念品で造ったものだった。あの時の縁もあって、今回もその彼がつなぎの役目をすることになったのだろう。
前回もそうだったが、依頼から制作して納品までの日数に余裕がない。
学校の先生は総じて物心ついた頃から定年退職するまで学校の塀の中で暮らしてモノを考えているようなところがあるから、世間的に知識人を通していても、その知識の領域がだいたいに机上の学問へ偏っているようなところがある。1年の行事にしても、学校行事中心で人生の殆どを乗り切っているから、色々な職種や年齢層が入り乱れて暮らしている一般的な社会構造には少しばかり縁遠いようなところもある気がする。そういう人が、退職して第2の人生を送るとなると、地域の社会教育とか公民館活動とか民生委員とか、そのあたりのどこかしら教育機関の影が見え隠れするような役職に滑り込むことも多くて、友人の彼などは紛れもなくその常道を脇目も振らないで歩き続けているような人だ。だからといって、それが悪いわけでもないし、その人の聖職であるかもしれないし、それはそれで誰かが勤め上げなければいけない立派な役職のことであるから、適材適所で実力を発揮していただくことが一番いいことだと思う。
だいたいが周囲を斜めに見て自分に都合よく楽に楽に生きようとばかり思っているようなボクにはとても出来ないことであります。

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吉田家のこと 

2018/04/22
Sun. 23:06

最近、家族LINEでノッチの動きが活発になってきた。
少し前にワシントンDCへ行った時の写真を載せていたが、それから直後にメキシコの写真を載せてきた。夏の終わりには帰国するから、その前に出来るだけ色々なところへ行っておこうと思っているのかもしれない。

先日、吉田家の子供たちがお世話になっていた小学校の頃の先生とバッタリ出先で会った。今は子供たちも独り立ちしてそれぞれに暮らすまでになっているから、もうその先生とはずいぶん長い間接点のないままだったが、さすがに商売柄というものなのだろう、4人の子供の名前をみんな覚えてくれていて感心した。
キーポンはあの頃まだおむつのとれないほどの赤ん坊で、そのことまで思い出してくれて、今はどうしてると聞かれたので、東京で保育士をしていて1歳児のクラスを担当していると云ったら、「えぇ〜〜、あの赤ちゃんがぁ〜〜!!」と、元々丸い目をもっと真ん丸にして驚いていた。
なっちゃんは結婚したと云ったら、「もうそんな歳になったんだぁ〜」と昔の色々なコトを思い出したように「あの子はシッカリした子だったから・・・」と懐かしがってくれた。
じゅん君はどうしてると聞かれたので「隠岐の海士町で音楽の講師になっている」と云ったら、さすがに現役の先生だけあって、隠岐事情もソコソコ詳しいふうに、しきりにウンウンうなづいていた。
ノッチはフロリダにいて、そろそろ帰ってくると話したら、どういうわけでそうなったのか興味津々に質問を受けた。「実は、うちの近所でも外国で働いている若い人が増えていて、最近のブームなんでしょうかねぇ?」と聞き返された。たまたま吉田家の家族で一人の子供がそういうふうに暮らしているだけのことだから、世間の事情はよくわからないものの、そう云われれば、自分の周辺でも似たような暮らしぶりの青年がいることを思い出した。彼は、ノッチ以上にアクティブで、一定期間働いてお金をためたら、また次の場所へ放浪の旅を続けるとった暮らしを続けていた。

ノッチもそうだが、自分の思い通りにやりたいことが出来るのも人生のホンの短い間だけのことだ。そういう機会を失ってしまえば、なかなか次の好機に巡り合うことも難しい。あとになって後悔してもどうなるわけでもないし、周囲のしがらみで不自由しないうちにやりたいことをしておいたほうが良いと、自分の経験上そう思っている。だから、吉田家の子供たちには親の方から先々のコトを押し付けるつもりもなかったし、だいたい彼等の自由意志を汲み取って付き合ってきたつもりでいる。
それでも、幾つかは面倒なこともあって、たとえば、ノッチの国民健康保険にしてもその一つ。昔暮らしていた住所から上手に転送されて、保険料の督促や支払い通知が吉田家に届いた。総額数十万になっているが、それも個人の都合だから、親の方で身代わりに納入しようなどという気はない。
オヤジの世代でも誰のために保険料を払っているのかわからないような先々不透明な日本の国政が、ノッチの世代にどうなっているのかも予測不能だし、まぁ、自分のことは自分で考えて決めていただくのがいちばん妥当かなと思っている。

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まずは鉛筆削り 

2018/04/21
Sat. 23:24

江津にあるキリスト教系の高校へ1ヶ月に2回程度通いはじめて4年目になるだろうか?
全寮制の学校で、先生の家族も同じ敷地内で暮らしながらみんなで共同生活をしている。
系列の学校が全国に数カ所あるらしいが、詳しいことは知らない。

まがりなりにも仏教の坊主がキリスト教の学校へ行くというのもどうかと思ったが、その学校の校長先生とは私が30代の頃から知り合いで、彼がまだ独身だった頃からそれなりに親しく付き合っていた仲だし、断ることも出来にくくて1ヶ月に2日位ならなんとかなるだろうと引き受けている。
それで、何をするかというと、美術全般のなんでもアリ的生徒活動の支援。
俗に言う高校の芸術美術の授業のような堅苦しいことはしないでいいということだから、気楽でいられる。生徒たちは自分の希望を幾つか提出して、その中から好きな科目を決めていくようになっている。今までは美術系の選択者が2〜3人程度だったから、そのくらいの人数なら自分の道具や材料を提供しながらなんとか1年位は乗り切れていて、かえってそれが遠慮もなくて良かった。
4月に入って新年度になってからなんの連絡も入らなかったから、今年は少なくても半年間は江津方面へ出かけることもないだろうと思っていたら、1週間くらい前にいつも美術を担当している先生から「今年もよろしく!」と電話が入った。
早速、次の土曜日からお願いしたいといわれたので、生徒の希望優先にするとなかなか選択ゼロにするのは難しいことなのだろうなぁとチラリ思いつつ寺務手帳でスケジュールを確認して記帳しておいた。
生徒活動の前日になって、また担当の先生から連絡が入った。
「あのぉ〜〜・・・美術の選択が9人なんですけどぉ〜〜・・・他が定員オーバーで第2希望で流れた子が何人か出てしまいまして・・・、美術は特に定員を用意していなかったものですから・・・大丈夫でしょうか?・・・」
まぁ、どう考えても、もう決まったあとのことだろうから、いまさら「無理です!」とか「出来ません!」とか言っても、どうなるものでもないだろうと思いつつ、道具や材料の調達のことがチラリと脳みそを駆け巡った。
「それで早速ですが、何か用意しておくものが有りましたら言っていただけると・・・教材費のことも、人数が多いので今までのようなわけにはいかないような・・・」
それから、具体的な話がしばらく続いたが、そういうことよりも、そもそも椅子が人数分あるかどうかそちらの方が心配になってきた。なにせ、今まではせいぜい多くて5人以内で用が足りていたから、気楽でいられたのだが・・・さて・・・1日で9人分のナニが用意できるだろうか寺務をしながら考えたが、急には何も出てこないので、とりあえずスケッチブックを吉田家の何処かから探し出すことにした。私の方はもう長い間スケッチブックとは縁のない彫刻家になっているので、ワイフが家事をしている間に彼女の仕事場をゴソゴソあさって、表紙が日焼けして色が変わっているような新古品を1冊探し出した。

久しぶりの美術小屋には昨年度制作した生徒たちの作品がまだそのままになっていた。
片付けてあった道具の中から鉛筆をかき集めて削っていると、新年度の選択生たちが少しずつ集まってきた。男子5人女子4人で、そのうち2人は昨年度と同じメンバーだった。

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さまざまな付き合い 

2018/04/20
Fri. 23:58

ウエブ情報によると週末は夏のように暑くなるらしい。
吉田家や万善寺にいても、家の中は結構ヒンヤリしているし、今のところまわりが大騒ぎするほど暑くなるような気配を感じない。

少し前に、ネコチャンズ用の猫草栽培を復活した。
吉田家のネコチャンズは、基本的に室内で暮らす箱入り猫だから、体調が悪かったり胃の具合が思わしくなかったりするとそのあたりの草を食べて消化器系を洗浄するような野生の行動がとりにくい。
クロはまだ小さい時から胃の中のものをよく吐き出していて、もうそれが癖になっているようなところもある。彼は時々上手に脱走を成功させて、その後に帰宅するとしばらくのあいだは吉田家のいたる所でゲェーゲェーやっていたりする。
シロはクロほど吐くことがなくて、時々突然ゲェーゲェーやり始めたりすると、誰よりも自分がそのことにビックリしてしばらくのあいだそれで落ち込んで何処かへ潜り込んでしまったりする。
ネコチャンズは、これから世間が暖かくなると抜け毛が激しくなって吉田家のアチコチで彼等の抜け毛が集まって荒野の根無し草のようにコロコロと隙間風に誘導されながら家具の下や部屋の隅の方へ吹き溜まっていく。それだけではすまなくて、起きているとだいたい自分で自分を身繕いしているから、かなりの量の抜け毛を飲みこんで、ウンチと一緒に出てしまうものもあれば、胃の中で消化されないまま毛玉になってしまうことも多くて、そろそろそれを吐き出す時期になった。

冬の間はネコチャンズの様子を見て、少しずつ時間差で猫草の種をまいていたが、やはり世間が寒いと成長も遅くて芽が出るまでにかなりの日数が必要だった。これからはそれも短縮されて一度芽が出ると成長も早い。一回の必要量を調整しながら種を蒔いて、セッセとこまめに水を補充したりしていたら、2日ほど前からモリモリと芽が出て成長をはじめて葉も開き始めたので彼等が食べやすいように床へ降ろしてやった。クロがそれをかぎつけて早速ぱくついていた。
特にあらたまって猫の世話をしているわけでもないのだが、こうして付かず離れず同居していると、人間としてそれなりの責任や自覚を持って猫とつき合う必要もあるわけで、そういう付き合いを面倒に思ってしまうと、どこかしら彼等との良好な信頼関係が崩れてしまって厄介なことになる。ワイフにはワイフの役割があるから、彼女の領域へ踏み込み過ぎないようにしながら自分に出来ることを続けることが大事と思っている。

麗らかな春の日差しに包まれて猫草をいじっていたら、高校時代の同級生から電話が入った。自分にとっての高校生活は不毛の3年間だったから、いい思い出もあまりないし、親しく付き合う友人もいないのだが、彼ともう一人広島にいるヤツはまだ付き合いのある方で例外といえるだろう。その彼の電話が何だったかというと、学校のグランドの草取り機制作依頼だった。彼が校長時代に頼まれて一つ造った。まんざら知らない仲でもないから材料代程度で引き受けたのだが、それがいけなかった。やはり商売と温情は切り離さないといけないな。結局引き受けることにしたが、制作費はずいぶん足元を見られた・・・

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石見銀山ギャラリートーク 

2018/04/19
Thu. 23:56

「和尚さん、お元気ですか?」
京都在住のアメリカ人Bさんから、まだ春には程遠く雪も降る寒い時に連絡が入った。

彼は、主にアメリカの旅行者を相手のツアーコンダクターをしている。
年に何回か石見銀山へ旅行者の団体を引き連れてやってきた時、時間が上手く調整できれば吉田の方へも声がかかる。彫刻のことや鉄の制作のことを少しほど話たりする程度だが、そういう彫刻のことに強く興味を持ったツアー客が何人かいたりすると、近くの宿泊施設まで呼び出されて一杯やりながら男芸者風に付き合うこともある。
知り合ってからもう20年近く経つかもしれない。それほど、古い付き合いということになる。

そのBさんが、また似たようなツアーを組み立ててそれが石見銀山へやってくることになった。今回は、彼の友人が代わりに旅行者の案内をすることになっていて、そのためのスケジュール管理がなかなかシビアなものになった。寺のこととか、すでに幾つか用事を決めていたのだが、そのことでツアーのスケジュールをいじるのも面倒だし、SNSを駆使して、難局を乗り切った。
今回の旅の仕切人さんはメチャクチャ真面目な人で予定の待ち合わせ時間の30分前には吉田家玄関前で打ち合わせをするくらいだった。こちらも、どこかしら相手の真面目な雰囲気に引き込まれる形になって、5分刻みのスケジュールを組み立ててから、急いで待ち合わせの場所へ移動した。

日頃、だいたい毎日のように石見銀山で寝ているから、長く留守をしているわけでもないのだが、朝早くに自宅を出て夕方日が暮れてから帰宅するような状態が続くと、どうしても昼の石見銀山と疎遠になる。少し早めに待ち合わせ場所へ着いて、ノンビリとツバメの飛び交う様子を眺めて過ごすことなど、久しぶりのことだった。
目の前に広がる田んぼには己生えだろうレンゲの花がまだらに咲いている。朝も早いのにすでに観光さんがうろついていて、近くのレンタサイクルが忙しそうにやり取りをしている。銀山川の反対側から吉田家の裏庭がみえる。春のめぼしい花はすでに終わっていて、つい少し前まで薄っすらと萌黄に染まった程度の下草が一気に伸びていた。5月の連休までには裏庭の整備をしておかないと後が厄介になるだろうとボンヤリそんなことを思っていたら、遠くからツアーのみなさんがゾロゾロと歩いてやってきた。総勢20人くらいだろうか、60代から80歳近い高齢の方もいらっしゃるように思ったが、欧米の人たちは年齢がつかみにくいから、もう少し若いのかもしれない。

石見銀山の谷間に点在している吉田の彫刻から幾つかをピックアップしてギャラリートークした。鉄の素材のこととか、造形のこととか、そういう彫刻の専門的なことより、どういう経緯で石見銀山の谷へ彫刻を設置し始めたのかとか、どうして吉田が石見銀山を始めとした島根の地域に密着した野外彫刻を制作し続けているのかとか、そういうことを中心に話した。
よくわからないが、質問も幾つかあって、皆さんの反応はまずまずだったと思う。

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寝る子 

2018/04/18
Wed. 23:10

日頃はあまり気にもしないでネコチャンズと付き合っているが、ふとした拍子に彼等の態度が今までと少し違っていたりすることに気づくことがある。

この2日間、右の足首から先が腫れてきて身動きできないまま自宅療養をしていた。原因は「アレだな!」とか「あの時だな!」とかだいたいわかっているのだが、いまさら病院通いで長く待たされて飲み薬と湿布をもらって帰るくらいなら、自宅でクラシックでも聴きながら療養していおたほうが良い!・・と、勝手に自己診断してゴロゴロしている。
思い返すと、2日間なにもしないでメシもろくに食べないで寝続けたことなど、この近年の記憶にまったくないほど珍しいことだった。それで、なにもしないでただひたすら眠り続けていたわけだが、この歳になってもまだ、昔の若かった頃のように眠っても眠っても、また次々と寝ていられるものだと云うことがわかった。
電話があったりするし、オシッコもしたくなるしで時々目が覚めてゴソゴソしていると、どこからともなくネコチャンズがそろりと私の横を通り過ぎて行ったりする。彼等も、ほぼ同じような1日の暮らしぶりで、メシを食べ、オシッコやウンチをして、チョット窓際に佇んで世間の様子を確かめて、またどこかへ潜り込んで見えなくなる。

私が吉田家に居る時はだいたい何かしらの用事でドタバタとうるさくしていて、ネコチャンズもそれでなかなか落ち着かなくて一緒になってウロウロしていることが多い。気がつくと、ソファーとか日の当たる窓際とかで爆睡していることもあるが、そういう現場を見つけると、なんとなくチョッカイを出したくなってベタベタ触ったり頬ずりしたりして起こしてしまう。彼等もしばらくオヤジの我儘へ付き合ってからフギャーと面倒臭そうに鳴いてオヤジの手の届かない安全地帯へ避難する・・・そんな感じで、けっこう昼間は吉田家のアチコチをせわしなくうろついていると思っていたし、夜は夜で毎晩深夜の夜回りがひとしきり続くし、彼等もそれなりに慌ただしい毎日を過ごしているのだと思っていたら、療養中の2日間でそうでもないということがわかった。
何のこともない、オヤジかそれ以上にだらしなく惰眠をむさぼっているのだ。

寝るにしても、耳のお供くらいの癒やしは欲しいから、40年前から使用しているくたびれたDIATONEスピーカーの前に陣取って療養と称する惰眠を貪っていると、クロがフギャーとひと声鳴いて静々と私の腹の上に乗ってきて、そこから少しずつ居心地の良さそうな場所を探して移動しながら結局股間の隙間へはまり込んで落ち着いた。それからしばらくして、今度はシロがやってきて慎重にオヤジの様子を確認しながらさり気なく痛い右足を伝って股間のクロへ擦り寄ってくる。ここまでになるとさすがに熟睡中の私でも彼等の重さに目が覚める。とても延々と我慢できる態勢でないから、イジイジと身体を捻ってソファーベッドの隅へ身をかわすのだが、ネコチャンズはそういうオヤジの優しさを完全無視して都合よく布団のど真ん中をキープする。臆病者のシロは、私の動く気配を敏感に察知して、すぐに飛び起きて安全地帯へ避難するが、クロの方はピクリとも動かないで眠りこけている。アレコレ用事の最中も動く様子がないから心配になって覗き込むとわずかに背中が上下して息をしていることが伝わる。この2日間観察を続けていると、彼等は少なくても18時間ほどは寝てばかりいる。やはり猫の語源は「寝る子」に間違いない!

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麗らかな春 

2018/04/17
Tue. 23:32

ボクは雨男だと思う。
ボクが何かしようと決めるとなぜがその日が雨になる。

たとえば今にしても、大事で真面目な用事だから特にこれと言って強い文句もないけど、どちらかといえば、「どうせ降るならこういう日に降ってほしいよね・・・」と、思っていると、そういう時に限ってとってもいい天気になって、「あぁ~~、こんなにいい天気になるんだったら予定を変更しておけばよかった・・・」などと、天気を相手に意味もなくイラツイてしまったりする。
このところ、そういう状況が絶え間なく続いていて、まさに本日がその典型。
昨日まで愚図ついてシトシト春の雨が降って肌寒かったのに、ワイフの用事にドライバーで付き合って時間つぶしくらいしかすることのない時に限って、見る見る天気が良くなって気温も上がって麗らかな春の日差しが降り注いでいるという、なんとも釈然としない状態になっている。
せめてもの慰めというと、このところ体調不良が続いていて、身体を休めるには「ちょうどいい感じかな?」と口実を付けることが出来るくらい。

先日のこと・・・
琴引山のてっぺんまであと少し登るだけという、万善寺のお檀家さんで一二を争う僻地の不便なところで暮らしていらっしゃるお宅へお邪魔して、33回忌の法事を一つ済ませてきた。
そのお宅から先はひとが歩く山道も絶えて無い。
昔は、炭焼き窯やたたら製鉄の遺構があったようだが、農地整理の工事で壊されてしまったらしい。そういうところだから、琴引山の豊富な地下水を汲み上げた綺麗な水がその辺り一帯の飲料水になていて、ステンレスで作られた立方体状の貯水を兼ねたポンプ施設がそのお宅から少し下った砂防ダムの近くに近年建設された。結局ポンプ施設より高地にあるそのお檀家さん宅では上水道の施設がすぐ下にみえるのにその恩恵に預からないままいまだに自力の間歩水で生活していらっしゃる。
40歳を過ぎて独身の息子さんは、長い間その家から近くの職場へ通って仕事をしていたが、数年前に転職されて今は出雲のアパートで一人暮らしになった。母子が離れて暮らすようになってから、高齢のお母さんが立て続けにアチコチを骨折されて何回か手術をされた。そういう生活の心配もあって最近は、1週間に半分くらいは昼の間ほど息子さんのアパートに引き取られて暮らしていらっしゃる。
「やっぱりねぇ〜、不便なようでも自分の家が良いんよぉ〜・・ここだと外仕事もあって退屈もないし、犬もいてくれて寂しくないし・・・アパートは退屈で退屈で・・・」
80歳は過ぎていても身体の不自由を注意して気をつけながらゆっくり暮せば、まだまだ十分に一人で生活できるほどしっかりしていらっしゃる。

時々、寺のお知らせを持ってそのお宅を訪問するが、最近はほとんど留守ばかりで、土間につながれた犬も寂しそうで鳴くこともしない。少し前には、同居していた猫が死んだそうだ。本当の豊かで幸せな暮らしというのはいったいどういうことなのだろう。

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自分の時間 

2018/04/16
Mon. 23:51

少し前、4月に入ってすぐの頃、保賀の自治会から訃報が入った。
一人暮らしだったその人は、数年前から闘病の生活だったが今年に入って病状が一気に悪化して、2月の半ばに再入院してから退院できないまま永眠された。後を引き継ぐ親族も無く、このまま家が絶えてしまうことになった。私が万善寺住職を引き継いでからこの数年の間に保賀の自治会から6軒が空き家になった。過疎地の地域事情は何処もだいたい似たようなものだと思う。万善寺もひとごとでない現実が目前に迫っていて、私もそろそろ次のことを具体的に考える時期が来ていると感じる。

体調が完全でないまま納骨法要前の墓掃除をすませた。
島根県はこのところ愚図ついた天気が続いていて、お墓までの足元の悪くなった急勾配の参道往復が膝にこたえる。箒や熊手を杖代わりにしたりしながら慎重に注意しながら登り降りしていたのだが、参道に露出した桧の根っこに足を取られて右足を痛めてしまったのが前日のこと・・・
朝から納骨が控えていて法要を休むわけにもいかないので、そのまま痛い足をダマシダマシお経を読んで、墓参をした。
お昼過ぎには全て修了して、それから本堂を片付けたりしたのだが、そうする間に右足の足首から先が腫れて来始めていよいよ痛くなって歩きにくくなってきた。午後からは出雲に用事があったので、痛い足を我慢しながらアクセルとブレーキを踏み続けて、夕方石見銀山へ帰った時は、まともに歩けないほどになっていた。あまり渋い顔ばかりしているとワイフが心配するので、彼女の前では何気なく普通を装ってすませた。

4月に入ってから良いことがひとつもなくて滅入っていたところへ、フロリダのノッチが久しぶりに元気そうな写真を送ってくれた。
職場の友人とワシントンDCへ行ったらしい。
アメリカドラマや映画でよく見る風景で、あちらの方はちょうど桜が満開の時期のようだ。ワシントンDCは日本でいうと東北あたりだったと思うから、今くらいが桜の見頃なのかもしれない。
ノッチは、今年の秋に帰国するはずだ。
「もう国外はコレが最後だよ!」と、そう宣言していたことを思い出した。
私は、物心ついた頃から万善寺の小坊主で節目節目の法要行事には住職の侍者をしていたから、学生で島根を離れて暮らしていた時も、盆正月は欠かさず帰省して寺の勤めを続けていた。まわりのみんなのように、民族の大移動のごとく長期休業や祝祭日を旅行や行楽で過ごすようなことも皆無だった。こういうことは、坊主という職業に限ったことでもないと思うが、とにかく、我が子にだけは人並みに堂々と自分の意志で自分の自由に自分の時間を使ってもらいたいと思い続けていたことだけは確かだ。
今は、両親も死んで万善寺の一人暮らしや通勤坊主で、だいたい自分の思うように乗り切っているから副住職ほどの気楽さが無い代わりに、それ程きついストレスを感じることもなくなった。これから先、寺の運営は厳しくなる一方だと思うが、自分の代をなんとか乗り切ることができればそれで御の字だ。
この度の納骨で、また1軒お檀家さんの付き合いが一気に遠のいていった。

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万善寺お墓事情 

2018/04/15
Sun. 23:25

予期せぬ胃痛で1日ほどダウンしたからその時間を取り返そうと、朝早めに石見銀山を出発した。
万善寺の境内へ上がると、アチコチに色々なものが散乱している。
昨日の暴風雨の凄さがよく分かる。
まずは玄関の鍵を開けて、それからその散乱した幾つかのものを探したりもとに戻したりしていたら、また小雨が降り始めた。
お墓への参道に比較的大きな枯れ枝が落ちていた。強風で裏山の何処かから飛ばされてきたのだろう。この様子だと墓地の方もなにかあるかもしれないと心配になって、急いでつなぎの作業着に着替えた。
雨のやむのを待って掃除用具一式を持って、途中、強風の影響で散乱していた山のものを片付けながら墓地へ上がった。
1週間前の地震で墓石の幾つかが倒れたり横ずれしたりしていて、前の墓掃除の時にそれを治しておいたのだが、開祖さんの自然石だけはさすがに一人ではどうすることもできないから石材屋さんへ復元を頼んでおいた。春の墓地は、ひと冬で積もった雪の水分をたっぷり吸っていつもより地盤が緩んでいる。それに加えて、雪が解けながら墓石を押し出して倒してしまうこともある。だいたいそういう時は小さな60cmくらいのバールが一つあればなんとか一人で修復出来るのだが、今回はそれに地震が加わったからいつもよりずいぶん厄介なことになった。
とにかく、病み上がりの身体で墓地と寺を都合3往復してひとまず作務の遅れをとりかえした。

最近は、市街地の墓地を中心にお墓やお供えの管理ルールが厳しくなっていて、本来お墓参りで大事な幾つかのことができなくなってしまって、そのまま人々の記憶が薄れていつのまにか習慣が消えてしまっていることも多い。それは、街場の寺院でも同じで、何から何まで大事なことが割愛されて楽な方へ流されていく。
万善寺では・・・というより、現住職はそういうことがあまりいいことだと思っていないので、とにかく自分のからだの動くうちは昭和からの知る限りの流れに逆らわないでそれを出来るだけ守っていこうと考えている。

昔は線香蝋燭と一緒にお花と旬のモノと主食相当のモノを墓前にお供えしておくことがお墓参りの常識だった。それに、年回法事の後の墓参は塔婆が加わるわけだが、最近のお墓ではその各種お供えや塔婆を見かけることが激減している。昭和の時代には特に問題なく過ぎていたお墓参りの常識が、今は生きている者の都合優先で廃れていく上に、それが管理とか環境とか衛生とか、そういう都合を優先したルールに変わってしまう。坊主の方もそれに流されて塔婆や葬儀旗や六道などの大事なものを割愛したり書かなくなったりすることも増えた。
世間の事情も色々あるだろうが、それはそれとして大事なことが消えてしまうのも自分ではどうかと思っていて、だから、せめて万善寺の場合はこうしてお寺の聖域でもある墓地の移転も考えないし、線香や花立ても出来るだけ自然のもので毎年自作しながら更新するようにしている。

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春の嵐 

2018/04/14
Sat. 23:37

胃痛が激しくなって一晩苦しんだ。
特にこれといった原因がみつからないので、とにかく薬だけでももらっておこうと朝イチで病院へ走った。かなり早く家を出たつもりなのに駐車場は受診の車でいっぱいになっていた。診察を待っている間に少しずつ痛みが和らいで、
「しばらくは腹八分目じゃなくて、腹六文目くらいにしまようね」
「お酒の飲み過ぎはいけませんよ」
「胃でなかったら、胆嚢とか膵臓かもしれないから・・・」
・・・ドクターの前へ座ったらほとんどがカウンセリングに近い世間話で終わった。
診察料金を払って出掛けに、知り合いの看護師さんから「一度胃カメラ飲んだほうが良いですよ!」と小さく耳打ちされた。このまま症状が変わらなかったらそうするしか無いかと思っている。

本当は万善寺の用事を済ませたいところだが、これから春の嵐になる予報だし、まずは無理をしないで一日休息しようと決めた。
帰宅したら、テレビもついてキッチンの電気もついて、吉田家の生活感はシッカリ漂っているのにワイフの姿が見当たらない。ネコチャンズも例のごとく何処かへ入り込んで出てこない。どうしたのかと心配していたら何処かからワイフの声と近所のご婦人の声が混ざって聞こえてきた。「そぉ〜いうことか・・・」と状況がだいたいつかめて安心して少ししてから、玄関口でご婦人のお礼の声が聞こえた。
「裏庭の花がほしいっていうことだったから・・」と、特に何も聞いていないのに、そう云いながらワイフが部屋に入ってきたらシロがフギャフギャ甘え鳴きしながら出てきた。
「わるいけど、お昼はおかゆにしてくれる?」
そう頼んでから、一日休むことにしたことを伝えて即席のソファーベッドへ潜り込んだ。

それからしばらくして強い風が出てきて雨も激しく降り始めた。

胃が痛くてウンウンうなりながら眠れないまま途中まで見ていた昨夜のアメリカドラマの続きを見ていたら、「ごはぁ〜ん!」と、ワイフが台所から声をかけてきた。久しぶりのおかゆが美味しかった。

昼寝をして休んだら体調が少し回復して気分が上向いてきた。
せっかくの吉田家時間をムダにするのももったいないから、しばらく途絶えていた猫草の種を蒔いておくことにした。その頃になってクロが何処かから出てきた。地震以来少しずつ落ち着いて日常の行動が戻りつつある。少しの変化といえば、このところ珍しくシロが頻繁に擦り寄ってくるようになったし、メシを催促するクロの鳴き声が異常に大きくなったことか・・・

暴風雨は夕方になってもやむ気配がなく、むしろ昼間より激しくなった。
なにもしないでいると肌寒いからストーブをつけることにした。
強風で焚付の煙が煙突を逆流してなかなか思うように火がつかなくてかなり苦戦した。

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春の木漏れ日 

2018/04/13
Fri. 23:45

午前中出雲での用事を済ませて、午後からお寺へ移動した。
先日の地震の身体に感じるくらいの余震が1日に数回続いていて、出雲に居る時もそれを1回感じた。

この4〜5日のあいだに少しずつ幾つかの地震情報が流れてきた。
自分としては特に頑張って情報収集をしているわけでもないが、こういうどちらかといえば悪いこととか不幸な情報は広まることが早い気がする。
三瓶山の志学にあるジンギスカンのお店が、地震の被害で営業不能になったらしい。
ひと頃は、吉田家の家族で食べに行ったり、近所の友人が誘ってくれたりしてよく行っていたお店だった。急な傾斜地へ張り付くようにお店が建っていて、斜面へテラス状に張り出した店の床下のデッドスペースがトイレと駐車場になっていた。駐車場へ下りるまでのドライブテクニックを問われる難しい坂道と、なんとも前時代的トイレを我慢すれば、シンプルでとても美味しいジンギスカンが絶品だった。私をラム肉好きにさせたのも、その店があったからのことだ。今後の営業のことが心配だが、島根県どころか広島県の方までその店のファンが広がっているから、再建も比較的早いかもしれない。

午後からの半日は万善寺のお墓掃除にあてた。
墓地への参道から草刈機を使いはじめて、墓地まで登りきるまでに2時間弱かかった。
昨年の秋からひと冬の間にもう少したくさん枯れ葉が溜まっているかと覚悟していたが、思ったほどでもなかった。直径10cmほどの楢の木が参道の途中に倒れて道を塞いでいた。雪の重みに絶えられなくて枝の付け根から折れて落ちたふうだ。
生命力がすごくて枝先からは春の若葉が芽吹いていた。楢の木は保水力がすごいから、幹に蓄えられた水分と栄養で葉芽が成長しているのだろう。その枝木だけで相当量の薪になりそうだから、少し落ち着いたら切り刻んで寺の雨内まで持って帰ろうと思う。
春の参道は、広葉樹の葉が無い分だけ日当たりが良くて積年の腐葉土がよく乾いている。熊手や箒を使っていると土ホコリが舞って、参道脇に立つ杉並木を通過した木漏れ日にキラキラと輝いてみえる。
あとひと月足らずの間に筍や笹の芽が伸びて参道を荒らし始める。これから秋が深まるまで万善寺の保全作業が絶え間なく続くことになる。

先月の母親の1周忌にじゅん君がお墓参りをしてくれて、墓地を掃き掃除してくれた。
参道から墓地にかけて杉の植林をしていて、数本がかなりの巨木に成長している。杉の枝が雪の重みで折れ落ちて、春は墓地一面が杉葉の絨毯を広げたようになっているから、それを掃き集めるとかなり大きな杉葉の山ができる。じゅん君が本格的に墓掃除をしたのはこの度が始めただっただろうから、杉葉の処理にかなり苦労したと思う。彼の御陰でずいぶん楽をさせてもらって夕方日のあるうちにおおよその掃除を済ませることができた。
昔、まだ万善寺の風呂や台所の煮炊きに薪を使っていた頃は、1年の節目節目に墓地まで上がって墓掃除を兼ねた杉葉拾いをしていたものだ。あの頃は、山の何から何まで色々なものが生活の貴重な必需品だった。年中誰かが山に入っていたから今のように手付かずで荒れることもなかった。たった半世紀の間にずいぶん山の様子が変わった。

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遅れた入学式 

2018/04/12
Thu. 23:51

新しい相棒の銀くんが1000km点検をしてもらった。
10日間の間に1500km以上走っていて、自営業というより自由業に近いボクとしては、ちょっと走り過ぎだと思う。この調子で銀くんを乗り回していたら燃料代がいくらあっても足らない。

その銀くんがドック入りしている間に境内の植栽を刈り込んだ。庭木によくあるツツジやサツキをまだ元気だった時の母親がところかまわず挿し木にしたものだからその始末がいつまでも終わらなくてイヤになる。気がつくと五葉の松も芯が伸び始めていて、これも近いうちに芯を止めておかないと際限なく伸び続けて収集がつかなくなる。
この2〜3日で下草が一気に伸び始めた。今のうちに草刈機を振り回しておかないと後が厄介だと思っていたら、保賀の谷の向こう側で草刈機のエンジン音がし始めた。だいたいみんな同じことを考えているようで、草刈りの先を越されてしまった。
このところ天気の変わり目が早くてなかなか外の仕事に集中できない。それに、晴れている時に限って改良衣に雪駄履きで坊主の仕事が入ったりしてタイミングが狂う。来週早々には万善寺墓地の永代供養納骨の法事も入っていて、それまでに参道から墓地までの草刈りと掃除を終わらせないといけない。だいたいが、年中ヒマにノンビリとしているのに、重なる時は容赦なくアレモコレモ重なってしまう。なかなか思うようにいかないものだ。

先日の地震の影響で、大田市の小中学校では入学式が順延になっていた。
通勤坊主で石見銀山の町並みへ出ると、近所の新一年生になる子供が正装したお父さんとお母さんに手を繋いでもらって自宅を出るところだった。
ちょうど2年前まで、この時期は小学校の入学式や卒業式の来賓で招待を受けていた。自分の子供も成長して社会人になったし、いつまでも地域の役員にしがみついているのもどうかと思うし、町民の代表は適度なスピードで回転を続けているくらいが良いと思って、役員を辞退してから早いもので1年が過ぎていた。

地震は大田市全域に大きな被害を与えた。水道の復旧が遅れていまだに給水車の世話になっている地域もあるし、家屋の被害が深刻で、避難所生活を続けている住民も多い。
銀くんで大田市のアチコチを通過すると、ブルーシートを屋根に載せた家屋が点在している。家の新旧とか、構造の違いとか、そういう基準など自然災害の前には全くの無意味にみえる。新築に近い家がブルーシートでラップされているすぐ横に、半分傾いたような古い納屋が普通に何もなかったように建っていたりして、なんとも釈然としない不条理を感じる。まぁ、ヨレヨレボロボロの納屋が倒壊しても良いとは思わないが、真新しい家屋の被害を見ると、その家の施主さんの悲壮感を思って気の毒になる。吉田家も見えないところで家屋の不具合があるかもしれない。今度の週末にはまとまった雨がふるようだし、ソレに併せて雨漏りの点検をするつもりでいる。とにかく今はまだ、大工さんをはじめ、地域の建設業者さんは天手古舞だろう。

万善寺の境内にある椿の枯木が例年にないほどたくさんの花を咲かせた。この近年は、もろくなった枝木が雪の重みで次々に折れて弱っていたから久しぶりに見る光景だ。

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銀くんデビュー 

2018/04/11
Wed. 23:53

石見銀山は、時々思い出したように小さな余震がある程度で落ち着いている。
ネコチャンズも少しずつ落ち着いて、チョロチョロと吉田家を彷徨く姿を見かけるようになってきた。それでも、いまだに彼等が何処に入り込んで身を隠しているのか見当がつかない。人間の自分でも、時折聞こえてくる地鳴りや、揺れが続くとあまり気持ちの良いものでないが、人類の数倍敏感な猫達にとっては恐怖のレベルも相当なものだろう。関東の知り合いからお見舞いの電話をいただいたときそのことを話したら、東北の震災の時に飼っているネコがそうなって、おびえている様子が痛々しかったそうだ。

通勤坊主で出かけようと土間へ降りたら、クロがどこかからやってきて「行かないでぇ〜〜」と訴えかけるように珍しく視線を合わせてきた。日頃はことごとく無愛想なのに、あぁいう目を見ると可愛げにみえて愛おしく思えてしまう。
銀山街道は、所々にヤマツツジが咲き始めた。黄色の菜の花も至る所で群生して4月に入って雪が降ったりして天候不順が続いているが、吉田の周辺では順当に春の変化が進んでいて、万善寺の境内では、水仙の蕾が緩みはじめた。

走行距離が20万kmを越えたあたりから急にアチコチの調子が悪くなってきた結界君をダマシダマシ乗っていたのだが、半年ほど前から一気に不具合が酷くなって、運転していても必死で頑張って走っている様子がヒシヒシと伝わってきていた。もうそろそろ限界かもしれないと、中古車をチェックしても結界くんと同タイプの車で条件の良いものが出てこないので年末ギリギリになって同級生のカーディーラーへ中古車の伝手がないか聞いてみたら、少し調べてみてくれたようだが良い返事が返ってこなかった。
同タイプの車は1年くらい前に大幅なモデルチェンジをしていて、それ以前のタイプは新古車も含めて在庫切れになったようだ。現在の生産ラインでは新しいタイプの車しか製造していないことがわかって、遂に中古車更新の手立てが絶えた。
せめて冬の間だけでもなんとか走ってくれと、とにかく慎重に丁寧に運転していたが、22万kmに達する間際でまた一段と調子が悪くなって、例のごとく今年の飯南高原は猛烈寒波が次々に襲来して万善寺で孤立している最中だし、もうどうしようもなくなってスズキ代理店の同級生君を頼ってダイハツのピックアップを探してもらうことにした。

坊主の吉田としては、バイク1台とあとはお檀家さんの送迎にすがればなんとか万善寺の住職を務めることは出来るが、彫刻家の吉田としては、とにかく何が何でも結界くんと同等の車がないと身動きできない。「あの車は特別仕様車で何時もすぐにあるわけでもないから・・」ということらしく、「3月にはなんとかなるだろうから」と約束してくれて、なんと、この歳になってほぼ30年ぶりで新車を購入することになった。彼はさすがにその道のプロで、慣れた感じでサクッとこなして3月末の銀座の彫刻展の最中に新車登録の全てを仕切ってくれた。

4月1日はクロの誕生日で、銀座の彫刻展搬出が終わってその日の朝に出雲市まで帰ってきて、それから新車引きとりを済ませて、つい2〜3日前に1000kmを越えた。ちょうどそのくらいで一度点検をしてくれるらしい。誕生日がクロと同じになった。さて、どっちが長生きしてくれるだろう?・・・その前にボクがお陀仏になるかも・・

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地震の後 

2018/04/10
Tue. 23:31

深夜の地震から、約12時間ほどは、絶え間なく余震が続いた。
その間に、これも絶え間なく電話やSNSなどでお見舞が届いた。
どちらかといえば友達の少ない我儘者のボクなのに、ありがたいご厚情が信じられないほどだった。皆さんの好意に助けられて活かさせていただいているのだと改めて痛感した。

日頃新聞もテレビも見ないで過ごしているから、「こういう時は、ちゃんとテレビとか見ないとダメよ!それ、常識よ!!」と、ワイフに厳しく叱られたから、一応テレビは付けておいたが、特に変わった情報があるわけでもなく、常に最新の情報が流れるわけでもなく、それよりは、ケーブルテレビ付属の防災有線放送の方が現状把握に適していると客観的にそう思った。
テレビのニュースとかワイドショー番組では、大田市の地震被害がもっとも重大な地域ばかりピンポイントで取材するから、そればかりの情報で全てを判断されてしまうと、とんでもなく大げさな大災害に錯覚される恐れを感じた。今回のように、地震災害地域に暮らす当事者として、情報の取捨選択の難しさを身をもって感じた。

それで、ご心配頂いた皆様へのご報告も兼ねて、少し詳しめに吉田オヤジの行動を時系列でまとめておきます。まぁ、特に参考になるとも思わないけど・・・
9日深夜1時30分過ぎに地鳴りが三瓶山方面から石見銀山へ近づいてきた。その直後にドーンと巨大ハンマーで地面を叩かれたように激震が走ってそれが結構長く続いて日本海方面へ去っていった。それに合わせて吉田家の食器棚とか台所のこまごました物が床へ次々に落ちてきてネコチャンズがものすごい勢いで土間へ飛び出ていった。
すぐに電気をつけてスリッパを探して床を確認しながら台所を確認した。水道も普通でガスの匂いも感じなかったが、灯油ボイラーの耐震装置が作動したらしく、その時は水がお湯になることはなかった。それから夜が明けるまで、地鳴りが止むことがなく3〜4回ドカンと地面から突き上げるような大きな揺れが来た。あとはお昼までの間に少しずつ余震が弱まって午後になると地鳴りも消えて揺れもほとんど無くなった。
万善寺のことも心配だから夕方になって寺へ出かけようと準備をしたが、ネコチャンズが何処かに潜り込んで見当たらないままで、それも心配だから、結局食料の買い出しをしてもう一晩吉田家で寝ることにした。大田市は、石見銀山より被害が大きくて、ブルーシートをかぶった屋根が点在し、アチコチで窓ガラスが割れて応急修理がされていた。余震もほぼ収まった夕方になって、吉田家のライフラインを確認した。灯油もスイッチのリセットで使えるようになって、日常の暮らしが復活した。
まだ何処かに隠れたままのネコチャンズが気にかかったが、寺のことも心配で早朝から吉田家を出発して銀山街道を登った。
万善寺は、台所のフライパンがずり落ちていたくらいで、灯籠もお位牌さんも仏具も花入れも倒れること無く無事だった。きっと、観音様が守ってくださったのだろう。
境内の日陰に、先日に3日間降り続いた雪が解けないで残っていた。

寺の用事を一つ済ませて、なんとなく緊張が緩んで炬燵に潜り込んだらいつの間にか寝てしまっていた。やはり、それなりに緊張が続いて疲れが溜まっていたのかもしれない。

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島根で地震! 

2018/04/09
Mon. 13:04

豊川稲荷の二の午祭は、ワイフがいつものリンゴのケーキを作ってきてくれて、お茶会も賑わって無事に終わった。
雪が降ったりしたからご高齢の方々にはお参りもつらいだろうと、ワイフと二人で法要をつとめようと思っていたが、当日はお檀家さんもお参りされて住職としては嬉しい誤算だった。
この豊川稲荷の祈念法要は、元々仏教の宗派を問わないで周辺各地から信者のみなさんがお参りされる地域に根づいた仏事の一つだった。それで、先代住職夫婦はお檀家さんへ法要の告知をしないまま保賀地区を中心とした心安いお付き合いへお知らせする程度になっていた。だから住職交代からあと、お知らせチラシを飯南高原のお檀家さんへ配布するまでは、万善寺と豊川稲荷の関係を知らないお檀家さんがほとんどだった。
毎年、私が春の万善寺仏事のお知らせを持って回るようになってそろそろ10年近くなる。その成果が現れたのかどうなのかわからないが、今年はお檀家さんが4軒もお参り頂いた。柄にもなく嬉しくて少し興奮して、浄土真宗の門徒さんが多い中で曹洞宗と豊川さんの深い関係を熱弁してしまった。あとで振り返って少し反省したところだ。

ひと通り後片付けをして、用事絡みの出雲経由で石見銀山へ帰った時は、すでに日が暮れていた。
まぁそれなりに色々あって、さすがに少々疲れた。
ネコチャンズとグッピーへ夕食をあげて、映画でも1本見ようと吉田家シアターをセットして落ち着いたところまでは覚えているが、いつの間にか眠ってしまっていた。

どこか遠くから、「ゴォーッ!!」と地鳴りのような音が近づいてくる。
夢でも見ているのだろうと思っていたら、それからすぐに吉田家が地面から突き上げられるような感じに揺れ始めた。台所や食器棚あたりがうるさい。床にモノが落ちる音が断続的に聞こえて、それに町内の防災放送が重なった。
しばらく続いた揺れが少し収まった直後に、次の揺れが来た。これもそれなりに揺れた。
さすがに、夢ではないこともわかるから、電気を付けた。映画はいつの間にか終わっていて、時計は深夜の1時半を少し過ぎていた。
トイレでオシッコをしていたらじゅん君が心配の電話をくれた。Applewatchで話をしていたらまた揺れた。
それから朝まで地鳴りが止まないで揺れも続いた。
途中から雨が強くなって、それに地鳴りが重なって、雷に聞こえる。いや、本物の雷が鳴っていたのかもしれない。揺れるたびに吉田家のアチコチがガタピシうるさいし、軽いものがズレ落ちてくる。

あれは、まだ私が小学校の低学年くらいだったと思う。
夜、親子三人川の字になって寝ていたら、三瓶山方面からゴォーと地鳴りが近づいて、直後に万善寺が強烈に揺れた。それから地鳴りが南へ去って、しばらくしてから地鳴りが北上してきて万善寺の床下を三瓶山方面へ帰っていった。あの時は、ブルブル震えながら三瓶が噴火したのかと本気で思った。余震の続く中であの時のことを思い出した。

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豊川稲荷二の午祭 

2018/04/08
Sun. 23:52

豊川稲荷二の午祭は、雪ではじまった。
なかなか眠れない夜だった。
早朝に目覚めて、もう二度寝も出来なさそうなので、そのまま起きることにした。
窓の外は、どんより曇って春の淡雪が絶え間なく降り続いている。
この様子だと、お参りもないだろうと思いつつ、それでもお経は読むつもりで豊川稲荷さまの荘厳を整えて、椅子を10脚ほど配置した。

お昼前になって空が明るくなって、低い雲が消えた。
境内の雪をどうしようか迷ったが、春の雪はすぐに消えるからそのままにしておくことにした。
椿の枯木に咲きはじめている花と葉の補色のコントラストにシャーベット状の白い雪が光を吸ってとてもキレイだ。
豊川稲荷の初午祭は2月から3月になるから例年だいたい雪が降る。
万善寺は、基本的に旧暦で初午祭を厳修していて、今年は3月のお彼岸を過ぎた頃だった。法要があまりに近くで続くのでカレンダーを作りながら迷っていたのだが、二の午が4月8日で丁度お釈迦様の誕生日と重なるから、それに併せた法要をすることにした。まさか、その日に雪が降るとは予測していなかったが、やはり、万善寺の豊川稲荷さまの法要には雪が付きものになっているようだ。

ご本尊の吒枳尼尊天さまは、五穀豊穣のご利益をお持ちの女神様で、九尾狐の背に乗って天界から舞い降りていらっしゃる。
昔々は神仏が一緒の信仰だったから、主に吒枳尼尊天さまを仏教がお祀りして、九尾狐さまを商売繁盛のお稲荷様としてお祀りしていた。明治新政府の政策で日本の宗教が神仏別けられてしまってから後は、お稲荷様の信仰がメジャーになって商売繁盛の比重が重くなった。
この世に生を受けた生き物たちのそもそもの生きることの根本は、「食べること」にあると、機会があれば言っている。そういう意味で五穀豊穣はとても重要な祈念の一つと思っている。経済産業の発展が社会の発展につながるのであれば、それを支えているのが五穀豊穣であると思う。日本の食事情は、国内での自給自足率が低くて、輸入に頼りすぎている気がする。そういう現状をクールに把握して今後目指す先を正しい方向に修正する努力も大事なことだ。豊川稲荷さまの法要を厳修する真の目的はそのあたりにあるのではないかと思いながらお経を読み、大般若転読をさせていただいている。

午後になって一気に天気が回復し、青空が見えてきた。それでも、雪のあとで風がいつもより冷たい。そんな中、保賀のみなさんが三々五々参道を登って来られた。それから少しして五月雨にお檀家さんがお参りになった。
都合8人の参詣を得て法要がはじまった。
お茶会は、やはり雪が話題になった。私がまだ小学生だったずいぶん昔のこと・・・
「あのときぁ〜、春になってちょうど今頃1尺も積もりましたけぇ〜ねぇ〜」
・・・雪は降っても今は薄っすら白くなるくらいで積もるほどでもない。ずいぶん温暖化が進んでいる気もする・・

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4月の雪 

2018/04/07
Sat. 23:15

このところ、島根県は雨が降り続いて寒い日が続いていたから、久しぶりにストーブを焚いた。
寒いとはいえ、もう4月に入っているから溜まった紙類を火付け代わりに炊き始めただけで吉田家がほんのりと暖かくなった。薪の残りはまだ十分にあるので、その中から適当なサイズのモノを選んで3〜4本投げ込んだら、一気に部屋が温もった。
正直者のネコチャンズが、吉田家の何処かからさりげなく湧き出てきて、ストーブの近くへ寄ってきた。
人間がヤツラに使われているような気がしないでもないが、嘘をつかれるよりはマシで、彼等のために居心地が良くてストレスの少ない環境を提供してやっているのだと思って自分の好意を噛みしめる。
部屋が温まったせいか、急に眠気が襲ってきて誰よりも先に寝てしまった。

天気予報だと、北海道を中心に日本海側では雪が降るようなことを云っていた。
夜中に目が覚めると、ストーブも消えてとにかく寒い。天気アプリで確認すると島根県の飯南高原や石見銀山は雪マークになっている。
万善寺の法要もあるし、保賀地区内の訃報も入っていて、どうしても朝のうちに石見銀山を出発しておかないといけない。それで、それが気になって目が冴えて眠れなくなった。仕方がないから、FOXテレビ配信のアメリカドラマを立て続けに3本見ているうちに夜が明けた。ドラマが1本終わるたびに天気アプリで確認をしていたのだが、やはり飯南高原は雪マークが午前中続いている。朝になって吉田家の玄関から町並みを覗いてみると、幸い石見銀山は雪になっていなかった。それから、ワイフとネコチャンズのためにストーブを焚いて、吉田家を出発した。

銀山街道はシャーベット状の雪で濡れている。道の両脇は溶け残った雪が白い。ノーマルタイヤの溝は信用できないから、とにかく慎重に走るしか無い。出雲街道へ合流して飯南高原へ入ると、あたり一面雪で真っ白だった。雪混じりの雨が絶え間なく降ってワイパーが忙しい。万善寺の方へ右折してお地蔵さんの前まで来ると、路面は濡れているが4WDでなんとか登れそうな様子だ。そのまま慎重に参道を登ってみると、境内は屋根の雪吊りが山になっていた。
4月の桜に雪が降り積もっている。標高1000m級の中国山地は、冬に逆戻りしたようで真っ白になっている。

今から随分前、私がまだ小学生だった頃、境内の北側には5月の連休すぎまで雪が残っていて、大人たちが田植えをしている時期に近所の子供は雪遊びをしていた事もあった。
梅雨に入って半夏が近づいた頃に、強烈な台風並みの集中豪雨があって、それで一気に気温が下がって、寒くてしょうがないから掘りごたつへ炭を入れたこともあった。
あの頃のことを思うと、今は境内の雪もだいたい3月のうちに消えるし、桜の花も入学式には散った後だったりして、ずいぶん暖かくなっている。もう、身体がそういう春先の環境へ慣れてしまった今になって、今回のこういう雪は心身ともにつらくこたえる。
保賀自治会だけが集まった家族葬の寂しい通夜の間中、冷たい雪が降り続いていた。

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オヤジ彫刻家その3 

2018/04/06
Fri. 23:41

万善寺の豊川稲荷は、愛知県豊川にある「円福山 豊川閣 妙厳寺」境内に祀られ安座される吒枳尼尊天(だきにそんてん)様に由来する。
この妙厳寺は、もともと真言宗であったらしいが、開祖さまが曹洞宗で修行をされた関係で、寺院再建にともない、曹洞宗寺院として妙厳寺を建立されたようだ。
万善寺先代住職の憲正さんは、常日頃から仏教のことはあまり多くを語らなかった人で、寺の由来も、町史編纂の時に町内に残る幾つかの資料と、万善寺で代々口伝されてきた内容を総合してまとめられたようだ。そもそも、曹洞宗は世襲寺院ではないので、代々の住職は師弟関係で引き継がれてきた。近年になって、社会の情勢に習って師弟関係をそのまま養子縁組に抱き合わせて、表面上は親子の世襲として住職を引き継ぐ形に変わった。憲正さんもそれに習って生まれて間もなく養子縁組で万善寺の先代に引き取られている。そういうこともあって寺歴に関して、寺に残る文書などは歴代の住職交代があるたびに飛散した可能性が高く、あまり引き継ぎ口伝されてこなかったのではないかと思っている。
いずれにしても、妙厳寺の御本尊様は千手観音菩薩様で、万善寺の千手千眼観世音菩薩に通じるものもあるし、万善寺の前身は天台宗と思われるし、密教から曹洞宗への改宗となる経緯など、重なる部分も多い。その関係もあって万善寺の境内に豊川稲荷さまが祀られることになったと解釈してもおかしくはない。明治以前の昔から日本宗教は神仏混合で推移しているから、豊川稲荷のように民衆の間では宗教の区別とか垣根を越えて信仰の対象になっていたのだと思う。
ちなみに、吒枳尼尊天(だきにそんてん)様は、元々ヒンドゥー教の女神様が仏教の神として祀られたようである。

鎌田さんは徳島在住の具象彫刻家で、島根の小品彫刻展へも毎年出品していただいている。静かな佇まいの一見温厚そうなひとに見えるが、どうなのだろう?彫刻は構造やムーブマンをシッカリ固めた堅牢な作風だと思う。六本木で毎年顔を見るが、彫刻の展示場所が違うのでお話できる機会は多くない。
太田さんも出品歴が長いはずだ。実は、もうかなり前から彼のことを滋賀県の作家だと勝手に思い続けていた。どうしてそうなったのかどこかに原因があるのだろうがまったく思い出せなくて心当たりがない。とにかく、関西弁のひとであるから近いと云えばそうなのだろうが、私は関西に詳しくないので、神戸も大阪も奈良も京都のひともみんな同じように聞こえてしまう・・・そいんなわけで、実は京都在住でした。ゴメンナサイ!
片瀬さんは神奈川在住の木彫作家で、彼も見た感じ、とても温厚そうだ。だいたい、具象彫刻の作家は皆さん温厚な方が多いのかもしれない。私のような抽象彫刻を作っている人間は、どこかしら世間を斜めに見ているようなところがある・・・気がする。同じ彫刻でも、具象の彫刻家とは思考構造が何処かで違っているのかもしれない。

今回の会員有志のグループ展は、極端に参加者が少なかった。
会場費用など、展覧会を運営するための必要経費は毎回ほぼ同じだから、それを出品者の頭数で割った金額が個人負担の出品料になる。私のような田舎者は、隔年で開催される東京銀座のギャラリーへ彫刻を展示できるだけでも安いと思って500円貯金をしながら展覧会費を貯めているが、まぁ、その個人負担をどう意識して彫刻を造るかは作家次第だね。

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オヤジ彫刻家その2 

2018/04/05
Thu. 23:25

午前中かけて万善寺の法要お知らせチラシを配った。
朝も、あまり早くからお邪魔するのもどうかと思ったが、飯南高原の方は殆ど全戸が農家のようなものだから朝の早いのも大丈夫だろうと自分勝手に解釈して、いつも通りに石見銀山の吉田家を出発した。
あいかわらずネコチャンズは冷たいもので、出かけるボクを「いってらっしゃぁ〜い、きをつけてねぇ〜〜」と、ワイフのように優しく見送ってくれる気配もない。

このところ、雨続きの寒い日が続いていて、うっかりするとチラシが軒先からの雨だれで濡れてしまったりして苦労した。前日に少しほど配っておいたから、それだけでもいつもより楽になって助かった。
天気が悪くて境内の外回りを掃除できなくてこまる。庫裏から本堂まではとりあえず掃き掃除もしてあとは本堂で法要の準備をすることと、庫裏にお茶会の場所を用意することぐらいだ。動いているとそうでもないが、休憩したりデスクワークになると肌寒い。それでも、春は春だから邪魔な建具を片付けたりして彫刻展示の模様替えをした。とくに大きな法要もないうちは、庫裏の一部をギャラリー風に使うことにしてそろそろ1年が経つ。今後、平面を展示できる壁スペースを確保したいとも思っている。

二紀会の会員有志が集まった銀座のグループ展では、たぶん長谷川さんが最年長だと思うが、間違っていたらゴメンナサイ!それだけ、出品歴の長いベテランだともいえる。彼は富山県の欄間彫刻で有名な井波在住で、ときどき、ゆっくりと会話できるときなど、井波の今を話してくれる。私がまだ学生だった時、彫刻や工芸を見ながら北陸の各地を回ったことがあって、懐かしい。彼は、近年福井大学の方へ出講していると聞いたが今も続いているのかは知らない。
栃木の木彫作家森戸さんは、展覧会の事務局をしていて、DMの手配や展示台の集計など細々とした事務を引き受けてくれている。こういう仕事は、展覧会の会期を越えてほぼ1年中何かしら動かなければいけない仕事があって気が抜けない。私などは基本的に年中ヒマにしているから島根の彫刻展もなんとか出来ているが、飯を食うための仕事をしていてその合間の事務仕事となると結構大変なことだと思う。彼はその上に彫刻も造っているわけだからなかなかの働き者だ。
石彫の飯村さんも栃木の人で、少し前まで美術館の学芸員で出向していたらしいが、本業は学校の先生だということで、今は学校の現場へ復帰しているらしい。彼の石彫は、かなり前から彼なりのテーマに沿って制作されていてブレがない。おおよその方向性はシンプルで少なくても私には彼が何をしたいのかよく理解できる。造形の緊張感とかボリュームやバランスは作家のセンスで決まるようなところもあるから、私がとやかくいうこともないが、彼の場合、一つ一つの彫刻にもう少し強い関連性のような基本的な形状が見えてくると連作彫刻の強さが増してもっと面白くなると思うのだが、まぁ、それはボクの勝手な欲目ですから気にしないでください。
それにしても、彫刻家はみんな学校の先生が多いなぁ・・・たまたま、会員のメンバーに先生が多いだけなのかもしれないけど、そういう中では、坊主の彫刻家は珍しく見えるのかもしれないが、坊主の中には結構絵描きや彫刻家もいたりするんですよ、実は!

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オヤジ彫刻家その1 

2018/04/04
Wed. 23:25

お釈迦様の誕生日と豊川稲荷二の午祭が近づいてきた。
飯南高原に点在するお檀家さんと万善寺がお世話になっている保賀地区の各家に簡単なお知らせのチラシを配布して歩いた。
ぐるりと一周すると2時間ほどかかる。

保賀地区が終わりかけたところで電話が入って、そちらの用事を優先することにした。
そのまま54号を北上して三刀屋で用事を済ませて斐伊川土手を出雲へ向かった。
このところ、雨降りの絶えないぐずついた天気が続いている。
島根の各地は桜が満開で何処へいっても街道筋や河川敷の桜並木が綺麗だ。
ほんとうなら、もう少し気持ちも華やいで浮かれても良いはずなのだが、どうもそういう気になれない。島根に帰ってから体調不良が続いていて、遂に健康のバロメーターになっていた飲酒を休むまでになった。食欲もないので1日の食事もまともに出来ていない。こういうことは久しぶりだ。そろそろ、身体の何処かで体質の大きな改変が進行しているのかもしれない。それでもと思って、スーパーで買い置き用の食材をいくつか買ったが、ひょっとしたらそれも冷蔵庫で眠ったままダメにしてしまうかもしれない。
気持ちは坊主も彫刻も前向きでいられているはずだが、自分の身体のほうが無理を拒否している気もする。

銀座の彫刻展のオヤジ彫刻家たちは、圧倒的に具象系の作家が増えた。
もう、数年前からそれとなく気付いていたのだが、最近の二紀会は抽象の作品が減ってきたように思う。
もう、30年以上も前は、色々なタイプの色々な切り口の抽象彫刻がたくさんあって、駆け出し彫刻家の吉田は大いに勉強できたし、たくさんの刺激を受けた。あの時期があったから今の吉田があると思っている。
まだ学生で勉強していた頃、研究室の先生が「一流の師匠のビリ弟子でも、二流の師匠の1番弟子より上だ!」と言っていたことを今でも時々思い出す。吉田自身がビリ弟子だったからさりげない慰めの言葉だったかもしれないが、なんとなくわかるような気もして、その一言が自分の心にスッと入って納得できた気がする。あの先生は一流だった。

周藤さんは、私が島根に帰って30代の頃に出会った。
最初は、石膏に置き換えた具象の塑像彫刻を見せてもらったが、それは、彫刻というよりお人形さんのような造形力の弱いものだった。機会を見つけては彫刻の話をするうちに金属の勉強がしたいと云い始めたので吉田家に招待して自分の溶接機などの道具を貸してあげることにした。
早いもので、それからすでに30年近く経った。
今では、立派な金属彫刻の作家に成長して、具象抽象の枠を超えた見ごたえのある面白い彫刻を精力的に造っている。幾つかの大賞展にも積極的に出品しているし、波に乗っている。
島根在住の彫刻家に金属彫刻の作家が少ない中で、周藤さんは島根彫刻界の将来を開拓してくれる作家の一人だと思っている。

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オヤジの朝 

2018/04/03
Tue. 23:13

前年度事業で最後になっていた報告書をやっと発送することができた。
年度末の貴重な1週間を銀座のギャラリーで過ごしてしまったから、その間の事務が停滞した。島根を出発する前に全て終わらせたつもりでいたところへ、発送ミスの連絡が入って、結局は自分の責任で年度をまたいでしまったわけで、関係の皆さんに迷惑をかけることになってしまった。

ワイフが留守にしている間は、万善寺に加えて吉田家の家事も自分ですることになって、朝の数時間がアッという間に過ぎる。
最近、年齢のせいか少しずつ朝が早くなっていて、特に苦労することなく普通に目が覚めるようになった。おかげさまで通勤坊主の時間までにおおよそひと通りのことを済ませて自宅を出る時に玄関先へゴミ袋を出しておくくらいは無理なく出来ている。ネコチャンズのご飯やトイレの世話も出来ているし、グッピーたちのご飯も欠かさずあげているし、時々植物の鉢に水を足すことも出来ている・・・が、自分にできることはせいぜいそのあたりまでで、掃除とか洗濯をするまでの時間を造ることはなかなか出来ないでいる。
最近は、石見銀山で暮らす時間が激減した。日のあるうちは殆ど万善寺の外や内で何かしらの用事を済ませている。留守がちな吉田家を見渡すと、冬のシーズンにワイフでは処理しきれないダンボールや紙類がアチコチで山積みなって溜まっていた。ストーブを使っている間は焚きはじめの火付け役に重宝するが、シーズンが過ぎるとそれらがそっくりゴミに変わる。このまま見て見ぬふりで過ごすことも出来ないし、自分の周囲の紙類を集めて一気に処理することにした。まぁ、だいたいが日常の暮らしは時間の都合がつきやすいヒマにしている誰かが世話をして乗り切るしか無いから、寺の法事も無くて彫刻の制作も一段落している私が適任ということになっている。

今度の彫刻展で受付をしながら出品作家の皆さんと世間話をしていたら、女子美出身でワイフの後輩が多いことがわかった。たまたまのめぐり合わせなのかもしれないが、二紀会の彫刻部に在籍する女性彫刻家には女子美出身がかなり在籍して彫刻を出品しているようだ。その中でも、吉田満寿美はすでにベテランの域に達した存在になる。最近、作風も安定しているし、あとは構造上の丈夫さと野外での耐久性の問題をクリアーすれば、造形がもっとレベルアップするはずだ。
石彫の山手さんは群馬の方で産出される貴重な石を使っていた。木材もそうだが、近年は日本の各地で閉山する石山が増えた。島根の福光石もその一つで、江戸時代の採石場跡が今は石見銀山と絡めて地域の観光地に変わりはじめている。
青い彫刻の照沼さんは、一時期乾漆の勉強をしていたように聴いたが、私の勘違いかもしれない。彼女も女子美でワイフの後輩にあたる。
徳島の上月さんは、具象彫刻をメインにして、時々抽象を造ったりしている。基本的には可塑性のある素材の特徴を活かした独特の造形感を持っていて、一般の具象からは一線を画しているように感じる。今のテーマというか作風はずいぶん長く続いているから、そろそろ次の展開を期待しているところだ。
ワイフもそうだが、自然の持つ生命観を造形に昇華する方向性の彫刻は、私のような無骨オヤジではとても造れそうにない。

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梅と桜 

2018/04/02
Mon. 23:21

ワイフがしばらく留守にするので、出雲まで送っていった。
その足で松江の用事を一つ済ませて、それから寺へ回ることになる。
4月に入ったばかりなのに、暑すぎる。こういう天候の急激な変化が身体にこたえるようになってきた。ほぼ半日の間ずっと運転していたから、万善寺の境内へ上がった時は脱力感でしばらく動けなかった。

彫刻展の作品が吉田家へ届いていたので、それを寺へ移動した。
吉田正純の彫刻はアチコチへばらまかれているから寺にも少ししか残っていないが、吉田満寿美の彫刻は少しずつ寺へ集まって一箇所へ並ぶと彫刻の時間軸に連作の流れができて面白い。
確か2007年に彼女の個展を企画してから、気がつくともう10年も本格的な個展から遠ざかっている。
制作は絶え間なく続けているし、そろそろ次の展開を確かめる良い時期である気がするし、年末には自分の個展が具体的に決まりそうだし、良い機会だから石見銀山の何処かで同時開催を計画するのも良いかもしれない。

とにかく、このところ女流彫刻家の元気がいい。
福岡に住む井形さんは会員展の出品歴は浅いが、この近年確実に彫刻のテーマが安定してきた。島根県でも昨年11月に大田市の富山町で小学校の廃校を使った教室個展をしてくれた。あのときに集まった彫刻群の造形と会場の構成力は目をみはるものがあった。彼女とはかれこれ20年以上の付き合いになるような気がする。島根の小品彫刻展にも毎年欠かさず出品してくれていて頼りになる。
東京に暮らす醍醐さんは木彫彩色でネコのレリーフを展示していた。自分はどちらかといえば抽象の彫刻家だから、彼女のような日常の何気ない様子の一コマを切り取った具象的観察眼は鈍い方だと思っている。そもそも、展覧会へ出品する作品でそういう具象彫刻を造ろうという気にならない。二紀会彫刻部の面白いところは、そのあたりの表現の多様性とか自由度の幅が広いところだ。
今回の彫刻グループ展のボスというか仕切人というか代表というか事務局長というか・・・とにかく、ワガママ者の集団である彫刻家を束ねて展覧会を成功させたのはシノブさんの人望によるところが大きい。昔から彼女とは受賞年が重なることが多かった気がする。彼女は基本的に木彫の作家だから、野外作家の吉田とは特にこれといった接点があるわけでもないのだが、それでもいくつかの機会に宴席で同席することもあって知らない仲でもないし会話が無いわけでもない。たまたま前回の会員展で会場受付の重なることが多くて付き合いの距離が縮んで、それ以来、わざわざ出品料のかかる小品彫刻展へ出品してくれるようになった。秋の本展で見る大作も良いが、こうして、銀座のギャラリーとか島根の小品彫刻展で見る小さな彫刻も女性らしいオシャレでセンスの良い彫刻に仕上がっていて好きだ。

万善寺の梅の枯木がそろそろ花も終わりになってきた。今年は、桜が一気に開花して遠くからだと梅と桜の見分けがつかないほど花が重なった。こういう年も珍しい。

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ワイフの彫刻 

2018/04/01
Sun. 23:07

新宿バスタでキーポンと待ち合わせをしていたのだが、結局仕事が長引いて彼女は高速バスの出発時間へ間に合わなかった。
東京は2日ほど前から気温が下がって肌寒くなった。それまでが3月にしては暖かい日が続いていたから、普通に平年並みの気候へ戻っただけなのだろうが、新陳代謝の鈍ったオヤジジイは肉体の反応が目まぐるしく変わる周辺の環境に取り残されてしまう。

キーポンに「来なくていいからね!」とメールを送って、バスは定刻に出発した。
MacMusicのウエブラジオからピアノのクラシックを選んで聴き始めた。
バスは、島根の出雲市駅前へ到着するまで、途中5回ほどトイレ休憩をする。最初の休憩で何か夜食でも買おうと思っていたのに、いつの間にか寝てしまっていた。気がつくと、深夜の2時過ぎだった。ピアノ曲はまだ続いていて、しばらく聴いていたがそのうちまた寝た。次に目が覚めたらバスはもう高速道から国道へ降りていた。
やはり、1週間の東京滞在はいつも以上の疲労が溜まっていたようだ。

ワイフへは到着時間を教えておいたのだが、少し遅れるとLINEで知らせてきた。バスの方も30分程度遅れていたから丁度良いタイミングになった。出雲市駅の待合室へ移動していたら彼女の車が見えた。運転していたのはじゅん君だった。彼はこれから隠岐の海士町へ帰るようだ。新年度も職場の移動がなかったから今年で海士町へ4年間住むことになる。3人で朝食をとって、その店からじゅん君が別れた。
運転を変わって出雲市から飯南高原の万善寺へ直行した。お昼過ぎに寺の用事が一つ入っていて、それでワイフは寺経由で石見銀山へ帰ることになった。彼女はアチコチにある道の駅へ立ち寄るのが好きで、その土地土地の旬の食材をチェックしている。出雲市から万善寺を経由して石見銀山までの島根中央部グルッとひとまわりコースで立派な椎茸や野菜などをゲットしたようだ。

銀座の彫刻展会期中に、山陰二紀が主催の地域密着型美術研究会展が松江の美術館であったので、ボクが1点制作する間にワイフは都合3点の新作小品彫刻を造った。
島根もそうだが、この近年は、全国的に女性彫刻家の活躍が目立つ。
銀座の二紀会彫刻部有志グループ展も、出品者17名の内女性彫刻家が8名と、ほぼ半数に迫った。現代社会の現状では、彫刻制作に集中して没頭できるようクールに時間調整することが男には難しくなっているのかもしれない。会場で受付をしていても、来場者は女性作家の友人知人が圧倒的に多い。女性のコミュニケーション能力レベルが高いのかもしれないが、やはり、こうしてわざわざ会場へ足を運んで自分の苦心した彫刻作品を観ていただいたという具体的刺激は、何にも代えがたい制作の特効薬になっているはずだ。
ワイフの彫刻を観続けていて、「こういう造形の発想は俺にはないな・・」と、いつもそう思う。とにかく、彼女の造るかたちの方向性とかムーブマンは、彫刻家吉田正純の発想からは出てこない。今回の彫刻も、日本海の石の海岸で波に洗われて丸くなった凝灰岩を拾ってきて、もう何年も「なんとか面白い彫刻にならないか・・」と自分の近くで手を加えられないまま眺めていたのに、「ねぇ〜、あの石、使わないならチョウダイ♡!」ということになって、アッという間に彫刻を一つ造ってしまった。女流彫刻家怖し!!

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銀座の彫刻展終了! 

2018/03/31
Sat. 23:20

展覧会の1週間がアッという間に過ぎた。
自分としては、近年まれにみる濃厚な日々となった。
当分の間、何かにつけてこの数日の出来事を思い出すことになりそうだ。

島根に帰って落ち着いてからだいたい35年ほどになる。
その間に4人の子供が生まれて、それぞれそれなりに育って、久しぶりにワイフとの二人暮らしがはじまったと思ったら、私の両親が相次いで他界した。
万善寺のことも、誰に気兼ねすることもなく自分の思うようにコトを進めることが出来るようになったはずなのだが、いまだに先代夫婦の後始末で毎日が過ぎている。
それに加えて今度の強烈寒波のダメージがのしかかって、またその上に今回の彫刻展が迫って、結局修繕半ばで1週間ほど寺を留守にすることになった。

彫刻の方は自分の好きで始めて、それから今まで続けていることだから、少々の無理も苦労も気にならないで乗り切っている。
今年に入って最初の制作になった彫刻も、計画では立春が過ぎたら工場へ通うつもりにしていた。ところが、次々と押し寄せる寒波のおかげで寺を離れることが難しくなって、その計画が大幅に狂った。それでも最後の辻褄をあわせるところまではなんとか持ち直して展覧会のメンバーへ大きな迷惑をかけることは回避できた気がする。
いずれにしても、幾つかの彫刻展は毎年恒例のことになっているし、長期的な計画を練っておけば直前のドタバタで大騒ぎすることもないのだが、やはり生来の怠け者にはそれがナカナカ出来なくて難しい。

午後になって、関東各地から出品の作家が少しずつ集まってきた。
遠方の作家は、奈良からiさんが搬出に上京された以外は、会場へ集まったメンバーで梱包を手分けして発送するまでを代行することになる。会員も年数を重ねたベテランになると、すべて遺漏なく手配できているが、出品歴の少ない作家は展覧会全体の流れに不慣れなところもあって、なかなかトンチンカンで微笑ましいミスがあったりする。30分足らずの間に全ての彫刻を梱包してクロネコさんへ託すわけだから、よほどに手早く作業を進めないとみんなが迷惑する。まぁ、こういう展覧会の前フリ後フリの諸々の作業は、自分の流した汗の量で身体に覚えさせるしか無いことだと思う。そうしてみると、彫刻家吉田正純は、まだ自分の彫刻を造る以前からワイフの制作や搬入出を手伝ったりしながら少しずつ大事なことを覚えて今に至っているわけだから、相当量の汗を流したことになる。

島根の彫刻展も、こういう過去からの彫刻絡みのアレコレが蓄積されているから、自分の動きやすいようにスケジュールを組み立てて楽にすることが出来ている。
助成金で運営していた企画が、昨年度で一区切り着いた。
2010年に思い立って企画がスタートして、当初の2年間は実績を積み上げることを目標に自己資金で運営した。そういう原点に帰って、今年度の島根県各地巡回の彫刻展は自己資金をメインにして協賛金を獲得しながら乗り切ってみようと思っている。コレが上手くいったら、助成金母体への報告書作成の義務が無くなってボクとしてはとても気楽になれる。そろそろ、こういう少々堅苦しい文化事業も後進につなぐ時期だとも思っている。

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花冷えの銀座 

2018/03/30
Fri. 23:41

2年前も銀座のギャラリーで1週間彫刻展の受付をしたが、確かあの時は会期が今より1週間ほどあとで、4月に入っていたと思う・・・が、記憶が間違っているかもしれない。
とにかく、今度の展覧会は、2年前より来場が少なく感じる(気のせいかもしれない・・)。
芳名録の記帳簿へ記帳する人は、今回が多い気がするけど、それでもフラリとギャラリーへ立ち寄った人は記帳しないでそのままフラリと去ってしまう。そういう人が減ったように感じる。日が長くなりつつあっても、今の時期でクローズの迫った夕方の7時となると看板の灯りのほうが目立ってくる。そういうことも来場数に関係しているかもしれない。
吉田家二人の彫刻家目当てに16人が会場へ来てくれた。最終日に来るという連絡も入っているので、もう少し増えるかもしれない。総入場者数が150人チョットだから、島根在住彫刻家としては広報活動も健闘している方だと勝手に納得している。

前回いつ映画館に入ったか全く覚えていないほど久しぶりにキーポンと新宿で映画を観た。その帰り道に小さな公園があって、そこに咲く桜の花びらが路肩の電柱脇へビッシリと吹き溜まって、辺り一帯が淡いピンク色に染まっていた。桜の種類にもよるだろうが、東京は4月になる前に桜の花が終わりそうだ。
田舎に暮らしていると、周囲の草木の変化がそのまま季節の変わり目を教えてくれるので、なんとなくそれと連動して節目の行事を覚えていたりする。
今は1週間を留守にしているから、島根の現状がわからなくて落ち着かない。
ワイフと電話で話すたびに桜はどうだとかすももはどうしたとか聞くものだから、今日になって吉田家グループLINEへ銀山川に面した裏庭の様子写真を添付してくれた。すももは白い花がキレイに咲いているし、菜の花もアチコチに黄色い島をつくっているが、吉田家の桜はまだやっと一つ二つ花が開いている程度だった。石見銀山でそのくらいなら飯南高原の万善寺は、まだ梅の花が残っているかもしれない。

日が暮れてから一気に冷え込んだ。このところ暖かい日が続いていてそれに慣れていたから少々つらい。会場をクローズして最寄り駅で下車してキーポンのアパートまで帰っていたら、居酒屋の集まった横丁を抜けた当たりで細い路地からキジトラのネコがヒョイと飛び出してきた。たまたま方向が同じでしばらく横に並んで歩いていたが、それからまたすぐ先の民家の隙間へ曲がって見えなくなった。ソコソコ立派に太って貫禄のある老猫に見えた。キジトラの模様がもう少しグレーっぽくてほっそりと若返らせたら、明大前で同居していたタマの雰囲気によく似ていた。それで久しぶりにあの頃を思い出した。
どういうきっかけでタマが私に近づいてきたのか覚えていない。特にだきあげて頬ずりするわけでもなく、もちろん、貧乏暮らしで猫飯を自分で食べることはあってもタマのためにつくってやることなど無かったのに、なんとなくお互いの距離が縮まって、私が帰宅して鍵を開けて部屋の電気をつけると、タマはゴミの掃き出し窓から入って自分から私の膝へ乗ってきたりする、なんとも奇妙な適度な距離感の関係が2年位は続いただろうか?・・・それから、その家を取り壊すことになって引っ越しが決まって荷物の整理などをし始めたところで、フラリと何処かへ行って見えなくなった。あのタマはもうとっくに死んでいるくらい昔のことだ。吉田家のネコチャンズは今頃どうしているだろう・・・

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東京の夜 

2018/03/29
Thu. 23:36

銀座の展覧会場で受付をしていたら、出雲のお檀家さんから電話が入った。
墓納め(墓終い)のことでもう2年前から継続してお話していたことが、この数ヶ月で一気に先へ進んだ。一連の先祖供養が終わったら、晴れて離檀されることになります。
血縁親族も絶えてお墓の維持が出来なくなる家もこれから一気に増えることでしょう・・・まぁ、これは万善寺のある飯南高原のような田舎過疎地のことで、人口流入が続く市街地寺院には関係ないことだけどね。

今の小品彫刻の展覧会は隔年で開催されていて、確か今年で8回展になるはずだ。私は初期の頃に出品参加していたが、途中で会期が少しずれたことと、寺の春の仏事が重なったことでしばらく出品が途絶えていた。
開催要項は欠かさず届けられていたので、スケジュールの調整がうまくいけば出品をしようと思っていたところへ、数年前に1週間ほど展覧会の会期がズレたことがあって、「コレなら出品可能だ!」と久しぶりに新作の小品彫刻を造ることに決めた。せっかくだからと、ワイフも誘い続けて、それからあとは彼女も小さな彫刻を造ることが増えた。
この彫刻のグループ展は、公募団体二紀会の彫刻部会員有志が集まって成立している。だから、メンバーの出入りは実に流動的で、委員になる彫刻家もいれば新しく会員になる彫刻家もいて、出品者の定着が無いことがある意味で面白い。ちなみに私は永久会員のようなところがあって、そろそろこの展覧会の生き字引的存在になりつつある。
関東一円在住の会員作家が中心になって展覧会の運営を仕切っていらっしゃるが、島根の田舎暮らしから見ると、煩雑な事務仕事を粛々とこなされるコアなメンバーの皆さんには頭が下がる。隔年開催とはいえ、会期直前まで何もしないでボォ〜〜っと過ぎている吉田家彫刻家とは比較にならない忙しさだと思うから、せめて会期中だけでも業務軽減になれば良いと思って、出来る限り1週間ほどは受付を引き受けるようにしている。

毎日受け付けをしていると、それなりにあらかじめ発送しておいたDMの効果があって、だいたい毎日知り合いの誰かが会場を訪ねてくれる。それでも、結局は田舎暮らしの吉田目当ての来場者は美術業界に影響力のある偉い人など皆無で、展覧会をネタにした同窓会みたいな様相に近いノリで、作品鑑賞もしたかどうかわからないまま、気がつけば昔話に終始して、そのうち「せっかくだから何処かで一杯!・・・」ということになったりして、本末転倒実に不順な動機の方へ流されてしまう。
だいたい毎日がそんな風に過ぎているところへ、島根で縁のある写真好きの高校生が両親と一緒に会場を訪ねてくれた。彼等は吉田目当ての訪問者の中では実にトップクラスの鑑賞者で、ジックリとそれぞれの彫刻をみてくれた。そのあとは例のごとく、「せっかくだから食事でも・・」ということになって、銀座の老舗のレストランで夕食になった。こういう機会でもないとなかなか出会えない良い雰囲気のレトロな店で、食事もとても美味しかった。
それからキーポンへ連絡して新宿へ移動して、新宿ピカデリーで待ち合わせした。昔の面影は皆無でオシャレな最新の映画館に変わっていた。貧乏学生にとって封切り映画館は高嶺の花だった。かれこれ30年ぶりにピカデリーでチケットを買った。やっぱり、映画は大画面の大音響の迫力でないとダメだなと、改めて感動した。

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トイレの絵本 

2018/03/28
Wed. 23:15

キーポンの部屋へ転がり込んで数日過ぎた。
その間のほとんどが早朝出勤で夕方6時くらいまで仕事をしている。
ついこの前まで、アマエンボォーのガキだと思っていたが、もう立派な社会人になって働いている。

彼女は東京で働くようになってから、まだ一度も石見銀山へ帰省していない。吉田家はそういうことで特に面倒なことは言わないほうだから、帰省したければ自分で何かの都合をつけて考えるだろう。
オヤジのこういうスタンスはキーポンに限らないで、吉田家の家族みんなに浸透している。ワイフに至っては、東京生まれの東京育ちなのに、自分から進んで実家を恋しがることもないし、こうして彫刻の用事で上京するたびに「一緒に行こうよ・・」と誘っても、だいたい幾つかの用事を理由に断られる。

吉田家の90%は朝シャワー派で、残り一人(ボクのことです!)だけが夕方のまだ世間が明るいうちから風呂に防水スピーカーを持ち込んでチャポリッと湯に浸かる。だから、どうも朝シャワーになれないのだが、居候も長くなるとだんだんそれに慣れてきて、シャワーにあたりながら歯磨きをするようになった。じゅん君が吉田家へ帰ると、歯磨きチューブが風呂に移動している理由がわかった。
自分の着替えを洗うついでにキーポンが洗濯機へ投げ込んでいるモノも一緒に洗って、展覧会場へ出かける前に部屋干しをしておく。せめてもの居候のお礼と思っているが、それも毎朝になるとなんとなく習慣づいて、狭い部屋の動線がシンプルになって整理されるようになってきた。
日常の避けられない習慣も、こうして状況が変化するとかえって新鮮に思えて苦にならない。それでもせいぜい1週間位が限界で、あとはしだいに日常の形式化されたパターンに組み込まれて気持ちの揺れもなくなっていくのだろう。

キーポンは、都内の保育園で保育士をしている。
今の仕事を始める時に、私も含めて家族の殆どが「どうせだったら幼稚園の方が良いよ」と、文科省管轄下の先生を勧めた。本人は、終始一貫して家族の提案を無視して保育士一本でブレないまま自分で就職を決めた。
彼女が自分で決めたことだから、彼女なりの理由でもあるのだろうと思いつつ、それを聞き出すこともなく過ぎたが、いまだになっちゃんがしつこく「なんで幼稚園にしなかったの?」と云い続けていて、昨夜一緒に飲んでいる時、やっとその理由を話してくれた。聞くと、なるほど最もなことで、学校で色々な勉強や実習をしながらそれなりの取捨選択をしてよくよく考えて自分の働く場所を決めて来たのだとわかった。
「幼稚園はゼロ歳児から見れないから・・」
キーポンはゼロ歳児からの成長を確かめられることが働く楽しみになっているようだ。今になって彼女の知られざる一面を見た。
部屋のトイレには彼女の工夫で絵本がオシャレにディスプレイしてある。開くと朝礼進行の小さなメモが挟んであった。彼女にとっては大切な忘れがたいある日の仕事の1シーンだったのかもしれない。

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銀座で一杯 

2018/03/27
Tue. 23:02

キーポンの部屋へ鍵をかけて、最寄り駅まで7〜8分歩いて、電車に乗って、1回乗り換えて、有楽町駅から10分位歩くと、彫刻のグループ展会場へ到着する。帰りは、キーポンの部屋までだいたいその逆をたどっているが、時には新宿で夕食をしたり、最寄り駅で軽くいっぱい飲んだりすることもある。
展覧会が日曜日からはじまって、毎日そういう生活をしているが、とにかく、東京の人は早く歩く。田舎オヤジはなかなかそういうペースについていけなくて、今朝、駅まであるきはじめてしばらくしたら、右足の小指が靴ずれで痛くなってきた。もう1年以上履き続けている靴なのに、今になってどうも収まりが悪くなってしまった。1日会場の受付をしていると、夕方には足がむくんでいる。靴ずれはそのせいもあるかもしれない。

上野の都立美術館で東京二紀や独立の春展をやっていて、せっかくだからそちらへも回ろうと思っていたのだが、受付のタイミングがうまくあわなくて今日になってしまった。
朝に画廊を開けてすぐに彫刻出品のメンバーが来てくれたので、2時間ほどヒマをもらって痛い足を引きずりながら上野まで行ってきた。
このところの陽気で満開の盛りは過ぎた様子だが、まだ十分にきれいな上野の桜を横目で見ながら美術館へ急いだ。ずいぶん昔、8年間ほど通い慣れた上野公園も、あの頃の面影を探すのが難しいほど様変わりした。知らない別の町の似たような雰囲気の公園を見ている感じだ。

展覧会の絵画や彫刻はどれも力作ぞろいで見応えがあった。
作家の個展形式の部屋が5つくらいあって、美術館の高い天井も開放感があるし作品の統一された部屋の雰囲気が良かった。
広島出身の彫刻家が、結婚して東京に住んでいて、東京二紀の展覧会へ出品している。とても真面目で丁寧な彫刻で、自分にはああ云う制作の仕事をすることは「絶対にできない!」といつも思っている。
今回も、テラコッタの首像を始めとして幾つか出品していた。昼間は銀座の画廊から5分位のところで仕事をしていて、DMを送っておいたら2日続けて職場の昼休みを使って差し入れをしてくれた。
短時間だけど、彫刻の感想を話した。メシの糧を稼ぎながら時間を調整して彫刻を造り続けることそのものが、ナカナカ普通にできることではない。自分もそれでこの年齢まで乗り切っているからひとごとに思えなくて気になって、言わなくても良い余計なことまで言ってしまった。
継続して彫刻を造るだけでオオゴトなのに、その先のことまでオセッカイがすぎると、それこそ本人には大きな迷惑だ。
頂いた差し入れをほうばりながら反省した。

週が変わって今日になってはじめてキーポンの勤務が早く上がる。彼女はまだ銀座の画廊を見ていないから、LINEで地図を送っておいた。
夕方になって合流して、会場のクローズを見届けて、その広島出身の彫刻家と銀座の何処かで余計なことは言わないで楽しく一杯飲もうと思う。

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鉄のテーブル 

2018/03/26
Mon. 23:34

まだ寝ている間に、いつのまにかキーポンが出かけていた。そういえば早番だと云っていたが、想像以上に朝が早い。

1週間の東京暮らしで必要な最低限の衣類は彫刻の梱包材で使って、銀座のギャラリーに届いている。そこから少しずつ小分けしてキーポンの部屋へ持っていって洗濯をしたりしながら一応毎日それなりにコーディネートを考えて着替えている。
東京は思ったより寒くて、島根のほうが暖かく感じる。昔東京で暮らしていた時も、晩秋や春先は風が冷たく感じて厚着をしていたことを思い出した。

キーポンの生活ルールに従って、朝シャワーを浴びて髭を剃った。それから、自分の下着などをキーポンの洗濯物と一緒に洗った。
ギャラリーの受付で出かけるまでまだ十分に時間があるから、その間に洗濯物を部屋干しするところまで済ませた。
やはり、朝には一杯のコーヒーが欲しいところだが、彼女はコーヒーを飲まないから、仕方がないのでインスタントのポタージュスープを飲んだ。

キーポンは高校を卒業して一人暮らしを始めて、それから就職が決まって昨年の3月に東京へ引っ越して1年が過ぎた。
久しぶりにオヤジが来るというので少し慎重に部屋を片付けたのかもしれないが、何気なく散らかっているようにも思うし、総じてキレイに片付けられている風に見える。
部屋のほぼ中央には娘のためにオヤジが手造りしたテーブルがある。冬はそれが炬燵にもなるから、今は二人で並んでそれに潜り込んで寝ている。夜中に寝苦しくて目が覚めるとキーポンの頭が私の腕に乗っている。彼女は、小さい時からオヤジの腕枕で寝ていて、いまだにそれが続いていることになる。

その炬燵にもなるテーブルは、長女のなっちゃんが進学して一人暮らしをすることが決まった時に造ってやったのがはじまりで、その後ノッチが一人暮らしを始める時に「私もアレがほしい!」とせがむので2つ目を造った。
なっちゃんは、引っ越しのたびにそのテーブルを持ち歩いて、結婚した今では旦那と二人でそれを使っていて、「今度は、吉田家にあるような大きいヤツ造ってね♡!」と、すでに次のテーブルを催促している。
キーポンが使っているテーブルは、ノッチから預かっているもので、ノッチが帰国したらそれがダレのものになるか今はわからない。セミダブルの比較的大きなベッドも、元々ノッチが買って使っていたものをキーポンが使っている。だから、これからノッチが帰国したら、少し揉めてめんどくさいことになるかもしれない。結局、その炬燵テーブルがノッチへ戻ることになったら、それこそ3つ目を造らないといけなくなる可能性もある。

「彫刻を造って生活できるんですか?」と、時々質問を受ける。あまりにも分かりきったことだからかえって回答に困ってしまうが、吉田の場合は、こうやって日常の幾つかの場面で使い勝手の良い何かを造ったりして暮らしの糧に変えているわけであります。

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銀座の彫刻展 

2018/03/25
Sun. 23:59

結界君を同級生のカーディーラー君に預けて、ワイフの車に乗り換えて出雲へ向かった。
スズキの代理店へダイハツを預けることになって、「ダイハツなんだけど・・・?」と聞いたら、「ぜぇ〜んぜん大丈夫よぉ〜!!」と云ってくれた。
田舎の自動車屋さんは、メーカーがドォーのコォーの云っていたら商売にならないし、周囲は高齢者がほとんどだから、とにかく、相手の希望をそのまま飲みこんで最善を尽くす商売をすることが「生き残りには大事なことになるのだろう・・・」と、勝手に一人納得して、結界君を託した次第。

出雲市の駅前を夕方に出発して、新宿バスタへは翌日の朝に到着する高速バスへ乗り込んだ。すでに彫刻は島根から一緒に出品する彫刻家に預けていて、自分は肩掛けのバッグひとつの軽装。「あなた、荷物それだけ?スペイン行ったときのトランクドォ〜したのよ?」などと、ワイフが頓珍漢なことを急に云い始めた。チョット1週間ほど展覧会の受付で出かけるだけで、海外旅行並の大げさな荷物もいらないだろうに・・・
東京では、キーポンの部屋へ居候する。
新宿バスタへ着いてから彼女に連絡したら、まだもうしばらく部屋にいると云うから、「それじゃぁ、荷物少し軽くさせて・・」と彼女の承諾を得て急いでJRへ乗った。

少し身軽になって、銀座の画廊へ着いたのはオープンの少し前だった。すでに、何人か出品の彫刻家が集まっていて、展示台の微調整をしてくれていた。
私は、自分の彫刻の最終仕上げに取り掛かった。
今回出品した彫刻は、植物を植え込むことにした。
1週間の展覧会受付を引き受けているのも、出品者のみんなへ吉田が恩を売ろうとしているわけでもなんでもなくて、ようするに、自分の彫刻の生物のメンテナンスが大事だからそれのためなのです。

植栽の植物は、彫刻を制作するよりずっと長く考えて、それなりに悩んだ。
簡単な彫刻のメモに、色々なタイプの植物を描き加えてみたが、イメージが一回りすると、だいたい同じようなところへ落ち着くので、そのイメージに近いかたち(植物)を探して花屋さんをあるいて回ったりし始めたのは、ちょうど1月に入って2度めの強力寒波が島根上空へ降りてきた頃だった。
万善寺の周囲は一面見渡す限り雪だらけだから、境内の端っこの雑草の中からそれらしき植物をヒョイと簡単に採取できるわけでもないし、色々情報を収集してペットショップの猫草へたどり着いたのが2月の節分の頃。「立春大吉」の御札を配ったり発送したりするついでに猫草の種を仕入れて栽培を始めた。芽が出てノビてそれなりの全貌が整って、ピークを過ぎて黄色く枯れ倒れるまでの一連の経過を確認し、それを2回ほど繰り返してデータのベースにして、それから彫刻の本体を造った。植栽の構造を見えないところで工夫して、出品の梱包ギリギリまでその猫草で全体のフォルムを確認しながら、万善寺の雪解けを待って、お彼岸法要が終わって母親の一周忌が終わって梱包の準備を整えて、それから雪が溶けて下草が覗き始めた境内の端っこからリュウノヒゲを掘り起こした。
今、銀座で展示してある彫刻は約2ヶ月かけて、練りに練った渾身の力作である!

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2018-04