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工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

吉田満寿美小品彫刻完成 

2020/03/19
Thu. 23:30

ワイフの彫刻が完成した。
春彼岸の法要が終わり次第、万善寺でグループ展の彫刻やテーブルなどを梱包して銀くんへ積み込んで東京へ向かう。 

コロナウイルス関連のニュースが絶え間なく聞こえてくる。
東京や大阪など、大都会を中心に患者が日に日に増えている。
島根県から東京までは銀くんで移動になるから人の接触は極力避けることができるが、東京へ到着して搬入陳列から会場の受付まで考えると、公共交通機関を使う回数も増えるし、感染のリスクが高まる。
チキンオヤジは、今のうちから少々ビビっております・・・

今回のグループ展へ出品のワイフの彫刻は、大作のためのマケット的位置づけで制作をしているようだ。
島根県での小品彫刻展や、地元山陰での展覧会へ出品する彫刻は、工法や素材はほぼ同じなのだが形の方向性に少しタイプが違っていて、どちらかといえば具象的色彩の強い彫刻になることが多い。
昔のように、制作の一つ一つでお互いの意見交換をすることもなくなったから、彼女の目指す先に何があるのかよくわからないが、とにかく、私から見ると最近は微妙に細かなところでかたちのまとめ具合に具象を意識していることが増えてきたような気がする。
彼女は、日頃の付き合いの中で時々イラストやポスター原稿を頼まれることがある。そういう時は、とても私には恥ずかしくて描けそうにないほどの可愛らしい絵に仕上げている。知り合ったときから彫刻のことしか観ていなかったから、元々からそういう造形のセンスのようなものを持っていたのかもしれないが、いまだに私には彼女の造形の本質をつかめないでいる。
一見、女性らしい優しくて柔らかい感じの彫刻が多いから小品展の会場では一般の反応が良くて旦那のボクより人気もある。ある意味でキャッチーな彫刻であるとも云え、それはそれで彫刻の大事な要素であるから良いことなのだが、一方で、彫刻のあまりにもの優しさが彫刻の存在の強さを邪魔しているようにも感じてしまう。
自分がそう思うだけのことかもしれないが、やはり彼女にとってはそろそろ少し落ち着いて今までの制作を再度系統立てて客観的に振り返ってみる機会があって良いのかなぁとも思う。もうかれこれ20年くらいは続いている彫刻素材の見直しをしてみるのも良いかもしれない。
彼女は、学生の頃から彫刻を造りはじめてそろそろ40年を過ぎ半世紀近くになろうとしている。彫刻家としての作家歴は私より長いベテランである。
これから、体力は減退に向かい、身体も思うように動かなくなってやがて制作の気力も萎える時が来る。集中力も持続力も続かなくなるかもしれない。
私にも云えることだが、やはり今の時期にもうひと踏ん張り彫刻の造形表現の基本に踏み込んで現状を冷静に把握しておく必要を感じる。年齢相応に知的で思慮深く、奥深い思考の淵を見定め、一人の人が生きた証として、自らの彫刻表現を通して時代や社会に対しての提言になりうるほどの重たい志向の彫刻を準備することも大事なことのように思う。

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安西水丸さんのこと 

2020/03/18
Wed. 23:29

Amazonへ頼んでおいたユーシン君の絵本が届いた。
ハードカバーの折り目を気にしながらページの隙間を開けて覗き込むように試し見した。
安西水丸さんの表現解釈はボクが受けてきた日本の美術教育や受験の実技勉強の世界とはかなり違ったベースから始まっているのではないかと、改めて感じた。

安西水丸さんのことはそんなに詳しく知っているわけではない。
彼をはじめて知ったのはまだ美術の受験勉強を続けていた頃から購読していたキネマ旬報で、映画の一場面などの簡単なイラストと短いエッセイ風の文章が1ページになっている「シネマストリート」というコーナーだった。
確か、それまで読んでいた和田誠さんの「お楽しみはこれからだ」(だったかなぁ〜・・間違っているかも知れない・・)が終わって、それを安西水丸さんが引き継いだかたちで始まったのがシネマストリートだったと思う。
その頃の私は、西洋の透視図法を駆使しながらギリシャ彫刻の石膏モデルを必死になって木炭紙サイズへ写し取っていて「美術の基礎はこれしかないのだ!」とか「このデッサンをマスターしなければ自分の美術表現を認めてもらえないのだ!」とか「受験美術にとって東洋的空間表現は意味を成さないのだ!」とか、そんなふうな今思えばある種盲目的な思い込みと信念を頼りに、狭い世界から抜け出せないまま偉そうなことばかり云って悶々とした毎日を過ごしていた。

和田誠さんのイラストは洗練されていて、簡潔に整理された一本の線に必然性があって単なる似顔絵の領域を越えた素晴らしく完成度の高いもので、受験デッサンの勉強中だった頃の私にとってとても参考になった。エッセイ風の文章も面白くて、キネマ旬報購読の楽しみの一つだった。
ソレがある日気づくと安西水丸さんのコーナーに変わっていた。正直、はじめは拒否反応に近いものがあって全く馴染めなくて、しばらくの間なかなかそのページを受け入れることが出来なかった。それでも、なんとか文章を読んでいるうちに彼独特の極度に主観的な鑑賞感になんとなく親近感を感じるようになって、そうして文章に添えて描かれた速記のようなイラストを見ると、不思議にその映画のその場面の記憶が現実性をましてくる。そして、無性にすぐにでもまたその映画を見直してみたくなってしまう衝動に駆られる・・・気づくと、いつの間にか水丸ワールドの虜になっていた。

自分にはとても安西水丸的感性とか表現は出来ないと思う。ソレだからこそかも知れないが彼の表現感性に一種憧れのようなものを持っている。彼の絵を見ていると「絵を描く」という技法とか手法に頼り流されること無く、現実の具体的な事物が極端に主観的解釈で整理されて簡潔に無駄なくまとめられている・・・と、そういう具合に私は感じる。これは、ある意味で極めて具象的な表現だと思う。その具象表現の裏にデッサン力の誇示とかおごりを全く気づかせないところが凄いと思う。私も、自分の彫刻に彼のような一見気負いのないシンプルな表現が出来たら良いと思うがなかなか難しい。

春彼岸の前日の3月19日は、安西水丸さんの祥月命日になる。

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彼岸間近 

2020/03/17
Tue. 23:20

工場のすぐ前を流れる潮川周辺は菜の花が満開に咲いて黄色の絨毯を敷き詰めたようにきれいだ。
なんとなく、いつもより満開が早い気もして過去の記憶を手繰って思い出そうとしたが、無理だった・・・

銀座のグループ展へ出品予定の彫刻制作も先が見えたし、なっちゃんの新居用に制作中のテーブルも完成の見通しがついたから、気持ちを万善寺の春彼岸へ切り替えた。
今年は初午祭と日程が近かったからお参りがどれだけあるか予測が難しい。
それでも、一応例年と同じように準備はしておこうと思っているのだが、いつもはこの時期まだ寺の境内にたっぷりと雪が残っていて庭掃どころか車も玄関先へ横付けできないほどだから、境内へ雪のかけらもない今年はどうもいつもと勝手が違って準備の都合の整理がつかない。
ワイフへは法要後のお茶会用に20人前ほど何か見繕っておいてもらうようお願いした。

庫裏の観音様の八畳部屋に冬の間ほどドームテントを広げている。
寒い夜は、このテントに潜り込んでiPadのKindleを開いて読書しながら過ごす。
数年前の強力寒波襲来の時に、あまりに寺が寒かったものだから思いついてテントを使ったのがなかなか快適で、それ以来、万善寺の冬は観音様の部屋へテントを常備するようになった。
今年のシーズンは、寺の夜が極端に冷え込むこともなかったのでテントに潜り込むことが殆ど無いままになった。
お彼岸にはお檀家さんがお参りされて、檀信徒会館代わりに使ったり、お茶会の準備で何往復もしたりするところへテントがそのままになっているのもいかがなものかと、これを機会に撤収することにした。
敷布団代わりのクッションマットや毛布をテントから引き出したら、カメムシがポロポロとこぼれ落ちた。殆ど未使用だったシーズン中、カメムシたちの越冬場所になっていたようだ。
久しぶりにしばらく締め切ったままになっていた縁側のガラス戸を開けて外の空気を入れた。それからテントを外に出してひっくり返したりしていたら、本堂の座の下からあのふてぶてしい目つきの黒い野良猫が覗いてこちらの様子を見ていた。

夜は万善寺へ泊まることにした。
なっちゃんの新居へテーブルを搬送することになったので、幾つかのナビアプリでルートを確認した。休憩なしの直行だと約9時間半で到着するようだが、さすがにそれは無理だろう。だいたい16時間位を予定して給油とか仮眠とかの場所をおおよそ決めておいた。
それから思い出してAmazonで安西水丸さんの絵本を3冊ほど注文した。孫のユーシンくんもそろそろ1歳になるし、おじいちゃんからの誕生日プレゼントということで丁度良い機会だ。
それに、安西水丸さんの祥月命日が近い。もうそろそろ七回忌がくる頃のはずだ。あの人のセンスはすごいと思う。

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直感のレリーフ 

2020/03/16
Mon. 23:24

4月からの展覧会のことで何度かメールのやりとりがあった。
話が少しずつ大きくなってワイフの彫刻も一緒に展示することになった。

お互い、40年近く彫刻制作を続けて、世間では「職業は彫刻家!」であると云ってもおかしくないほどに認知されていると思うが、一方で吉田家の夫婦でもあって家族もあるから二人が同時に彫刻制作をして一定期間同時に発表をするとなると、それなりに家庭内のスケジュールを調整して、どちらかが彫刻の表向きの対応に従事して、どちらかが家庭内の家事全般に従事して、それぞれの過不足を調整して役割分担をしながらなんとか別々に「彫刻家」を乗り切って今に至った。
日常の暮らしを工夫しながらこういう状況を続けていると、なかなか夫婦で二人展をするという気になれない。

私の方は、この近年そろそろ制作や発表も少しずつ絞って「量より質!」に切り替えてもいいかな・・・と思い始めたところだったのだが、その気持を周囲に伝える間もないまま何故か毎年のように個展の依頼が舞い込んできて、今年もソレを受ければ三年連続で新作の制作が続くことになる。
ワイフが半分ほど付き合ってくれて二人展になると展覧会全般の業務も少しは「楽になるかも知れない・・」と一瞬思ったが、今までの経験を思い返して落ち着いて熟考してみると、それはとっても甘い考えだと気づき始めた。
それでイベントの企画を担当しているTくんへ「人手は確保できるの?」と聞いてみると、展示とか会場設営に限っては手配できるから「大丈夫です!」と約束してくれたが会期中の作品管理とか接客受付までは予算に入っていないと言われた。
すでに企画が進んで印刷原稿には吉田家の二人の名前も入っていて、今更辞退できる状態にはないから、このままなんとか乗り切るしかない・・・

工場の方は、彫刻もほぼ出来上がっているし、テーブルは一晩で塗装も乾いて少し先が見えてきた。
搬送の梱包材などを揃えて、あとはドック入りしている銀くんが帰ってくればリヤデッキに積み込むだけにしてから、レリーフの制作に入った。
レリーフは、制作の端材が溜まってくると思いついて一気にかたちへ置き換える。
あらたまって一般にお見せするようなモノでもないのだが、それでもある時は壁の間接照明になったりある時は即席の棚代わりになったりある時は壁専用の本立になったりある時はハンガーフックの用を足してみたりと、気楽に壁の彫刻を楽しんでいる。
今回は、銀座でのグループ展出品を狙っているからチャンとした彫刻としての体裁を整えようと決めて、端材の山から自分の勘が反応したものを幾つか引き出した。
ギャラリーの壁のことを考えて、レリーフの重量を支えるために即席の壁も自作した。
制作は、あくまで自分の直感を信じて、金属の材質やテクスチャを活かして、それに構成の緊張感を抜かないようにしながら仕事の痕跡を残しつつギリギリまで制作の力と手数をを抜いて一気に仕上げた。
ここだけの話だが、かたちは20分くらいで出来上がった。

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春先の日本海 

2020/03/15
Sun. 23:27

なにか思いついてそれなりにいつもより気合を入れてコトを始めようとするとだいたい雨になる。
今度も、彫刻を造りながらテーブルまで造ってソレを一緒になっちゃんの自宅まで陸送しようという、ボクにとってはかなり気合の入ったプロジェクトを決行しようとしているから、いずれそのうち仕事の佳境に入る頃から「雨になるのだろうなぁ〜」と漠然と考えていたら、案の定、雨になった。
それでも、思ったより寒くなくて工場の仕事は楽にはかどったのだが、塗装の段取りが狂って困った。
室内だと、いつもなら換気扇の真下に即席の塗装場を用意するのだが、今は丁度そこへ耐火レンガを積んでコークスの焼鈍し場が出来ている。わざわざそれを解体するのも面倒だし、かといって雨の中外に持ち出して塗装もできないし、彫刻の細かい部分を造りながら考えたあげく、一日の仕事の最後に狭い工場の制作台で塗装をしてそのまま翌日まで換気扇代わりの扇風機を回し続けることに決めた。
ラッカーのスプレー缶2つ半を使って塗装し、天板にはウレタン塗料を缶から直接流して木綿の手ぬぐい一枚を無駄にして塗り拡げた。

次の朝、銀くんを代車と交換することになっているから飯南高原へ急いだ。
「荷物積んで長距離走るんで後ろの空気圧高めでお願い!」
「良いよ、何処まで行くの?」
「東京ー」
「トォ〜キョォ〜〜お!?・・分かった!積載用にしておくわぁ〜」
「オイルも替えておいてくれる?」
「OK!・・まだ2年目だから車検点検そんな時間かからないはずだから・・出来たら、また連絡するわぁ〜」
「よろしく!」
「長距離なら良い腰のサポーターがあるから、それ貸してあげるわぁ〜、使ってみて」
「悪いねぇ〜、そりやぁ〜助かるわぁ〜〜」
そのクッションは、日野のトラックに乗るときに使っているモノで、ビニール製のベンチシートだと長距離は疲れるからメーカー推薦のモノを買っておいたのだそうだ。
「それで、ソレ、仁多で作ってるんだってぇ〜、世間は狭いよな!」
仁多は島根の東部にある町で、数年前まで小品彫刻展を開催していた横田町の隣町になる。仁多のお米は「仁多米」というブランド米にもなって全国へ出荷されている。思わぬところで思わぬ話になって、島根の地図が小さくなって仁多を近くに感じた。

仁多の隣の横田町は奥出雲そばで有名で、私も横田へ行くと蕎麦屋をハシゴして回る。急に蕎麦が食べたくなって、お昼は寺の近所の蕎麦やへ駆け込んで釜揚げとざるを食べた。
前日の雨は夜のうちに上がって昼過ぎにはそれなりに晴れた。大気中の埃や塵を洗いとって気持ちがいいから、工場を過ぎて日本海へ出た。北風が少々強くて沖の岩礁に白波が立っていた。
たぶん、今年はじめての日本海だったと思う。

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ノドグロ 

2020/03/14
Sat. 23:30

強力寒気団が島根県上空まで南下して、水道や電気ガスの万善寺ライフラインが大事になったのは2年前のこと。
その極寒の冬に絶えられなくてついにリタイヤした相棒の結界くんの代わりにやってきたのが今の相棒銀くん。
その銀くんの車検がきた・・・2年がアッという間に過ぎた感じだ。
銀くんが来てからの2年間は暖冬が続いて、今回の冬は雪も殆ど降ることがなかった。
このまま温暖化が進んで雪のない冬が続くとは考えにくいが、それでもこれから先、毎年昔のように雪深い冬が続くとも考えにくい気がしてきた。

同級生のカーディーラーから車検の日程調整があって、週末には代車と交換して銀くんはしばらくドック入りする事になっていた。
「あぁ〜、モシモシ吉田くん?代車がまだ戻らんでチョット予定が狂ったんよ。来週引き取りじゃぁいけんだろぉ〜かぁ〜・・」
わざわざ、工場の仕事を早めに切り上げて代車と交換しようと銀山街道を移動していたらカーディーラーのTくんから電話が入った。向こうの都合だからお彼岸までに銀くんが帰ってくればそれでいいことなので「あぁ〜、いいよ」と返事しながら銀くんの使用スケジュールを大急ぎで修正した。
彫刻を造り終わったらテーブルを一つ造ることにしていて、天板になる材料を銀くんのリアデッキに積まないといけない。車検の後にソレをしようと思っていたのだが、日程的に少し窮屈な気もするし、急きょ材料を積み込んで工場まで搬入した。

テーブルはなっちゃんのリクエストで新居への引っ越し祝いになる。
引っ越しはもう随分前に終わっているが、テーブルの納品というか運搬の都合がなかなかうまく調整できなくて今になった。
造り始めたら一週間もあればなんとか完成するのだが、ソレを島根からなっちゃんの暮らす新居まで業者さんにお願いして送り届けるとなるとその費用がばかにならない。それで色々考えて3月末から始まる銀座のグループ展に合わせて彫刻と一緒にテーブルを銀くんで搬入することにした。
サイズは新居の部屋の都合とか椅子の配置などを考慮して天板が約140cm×90cmで高さが60cmチョットくらいにした。そこまでは良かったのだが、いつも使っている彫刻の制作台がその天板より小さいものだから、とにかく造りにくい。裏表をひっくり返したり溶接したりするたびに、ヨレヨレフラフラになりながら自分の人力を使った。

夕方になってホームセンターへ寄ってテーブル関係の必要なモノを揃えて帰宅すると土間の方から何かの煮付けだろうか?食欲をそそるとても良い匂いが漂ってきた。
「おかえりぃ〜〜!半額だったのよぉ〜!」
煮付けの正体はなかなか立派なノドグロだった。食卓の隅には造りかけのワイフの小品彫刻が片付けてあった。
狭い工場で彫刻制作の合間を縫ってテーブル制作が加わって、かなり濃密な一日になった・・・

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鉄の匂い 

2020/03/13
Fri. 23:09

五月雨に続いていた仏事が少し落ち着いて、春彼岸までまだ間があるので、鉄の工場へ集中することにした。

数年前から温めていた彫刻をかたちにするのも良いと考えているところなのだが、実は、前回の個展から引き継いだテーマでもう少し彫刻の連作を残しておこうと、約10点ばかりほどパーツまで切り出しておいたものが残っていて、まずはソレを彫刻に置き換えて吐き出してしまわないと工場の片隅でいつまでたっても鉄板のままでホコリを被ってしまうことになるから、お彼岸までの一週間は溶接と組み立てに専念することにした。
延々と同じ工程を繰り返しながら続けていればそのうちかたちになって、要所要所を少し集中して丁寧に仕上げていけば、やがて小品の連作が出来上がる。そういう、ある意味惰性に近いような制作を続けることに手慣れていくと、彫刻制作の工夫が自分の身体の動きに染み込んで、段取りに無駄がなくなってくる。
あまり頭で考えすぎないようにしておかないと、一つ一つの工夫につまづいて、いつまでたっても完成が見えないままになってしまうから、このたびのような短期間での制作は効率重視を優先しておくと完成度が下がらないで良い。これは、あくまで自分に限ったことだから一般にこういう考えが通用するかどうか責任持てないことだけど・・・

夕方まで工場にいて銀くんに乗ると、ファンの風に乗ってつなぎの作業着からほのかに血なまぐさい鉄サビの匂いが漂ってくる。換気の悪い埃っぽい工場にこもってだいたい1日中溶接と研磨を繰り返して、ディスクグラインダの砥石を3枚位使い潰しているから仕方のないことだけど、こういう、特に鉄の匂いが体に染み付くような仕事が続くと自宅までのたった5分の移動時間が臭くて絶えられない。最近は少しずつ陽が長くなって雨も降らなければ、車の外でパンツ一つになって用意しておいたジャージへ着替えたりするようにしているが、それでもやはり鉄の匂いが鼻について気になる。

帰るとすぐにシャワーを浴びてさっぱりしてやっと落ち着いた頃を見計らったように近所の知人が吉田家へ来た。
「もう、ご存知かもしれませんが・・・こんど4月から石見銀山町内の端から端までを使ってウォーキングミュージアムのようなイベントを企画しまして・・・そこで、吉田さんにも彫刻で参加してもらえないかと云うことになって・・・・」などと始まった。立ち話も何だから、ちょうど夕食時だし「よかったら上がらない?」と誘ってみると「それじゃぁ、チョット・・・」と、レジュメを取り出して打ち合わせが始まった。
その後、結局ワイフの手料理をつまみに彼も一緒にいつもの麦とホップをシュポッと開けて一杯が始まった。打ち合わせになったのかどうかよくわからないままダラダラと夕食が過ぎて「それじゃぁ、よろしくおねがいします!正式な販促はもう少し煮詰まったところでまたお持ちしますので・・・・」と言いおいて帰っていった。
この企画は、学生時代の同級生で今はデザイン事務所を持っている卓ちゃんが吉田を指名してきたようだ。
そろそろ、身の回りのシガラミを少しずつ整理して身軽になろうと思い始めていたところだったのに、まだもうしばらくは厄介なことが続きそうな様子だ。

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琴引山遠望 

2020/03/12
Thu. 23:50

大練忌の朝、万善寺はマイナスまで冷え込んだ。
前日には法要の準備などをして横になったのが深夜になった。その少し前くらいから冷え込みが厳しくなってきたから、雪になるか放射冷却で空が晴れ上がるかどちらかだろうと思った。目が覚めると庫裏の南側の窓が障子越しに明るくなっていた。布団の中で吐く息が白い。いつもより早めに起きて玄関の鍵を開けて、それから本堂から庫裏までぐるりと一周朝の用事を済ませた。
吉田家からはワイフとじゅん君が怜子さんの大練忌にお参りしてくれる。
トシちゃんたち夫婦は直接遺骨と一緒にお寺へ来てくれる。
法要のお手伝い随喜を隣町同宗ご住職へお願いしておいた。

予定した大練忌差定が粛々と進み、喪主以下ご親族の焼香で無事に全て終了した。
斎の会は、飯南高原の丘陵にある薬膳レストランを予約しておいた。
地産の野菜や島根各所の地物をふんだんに使ったコース料理で満腹になった。
そのレストランは、時々の節目にワイフと食事に出かける。いつだったか「怜子さんにも食べてもらいたいね・・」と二人で話した記憶があるが、結局叶わないまま過ぎた。
万善寺先代夫婦は、まだ彼らが元気な頃に何度か連れてきたことがある。
内室のおかみさんはその日のおまかせコース料理が好きだった。晩年は指の関節が固まっていて箸が思うように使えなくなっていたから、豆などの箸を使いにくい皿のものは直接指で摘んで食べていた。あまり行儀の良いことでないが「美味しく食べてくれたらソレが良い・・・」と、見ないふりをした。

レストランからは琴引山の山稜がよく見える。
植林の中の登山道を一気に登って最初の尾根へ着くと、そこから幾つかの稜線が緩やかにアップダウンを繰り返しながら山頂まで続く。
その山頂は草野球ができるくらいの広い平地で、その端の岩場に御宮が安座されてある。
昔は、その御宮から山頂に広がる平地へ40以上の宿坊があったらしい。宿坊と云っても、仏道修行者が寝起きする程度の掘っ建てのようなものだったと思う。万善寺の起源はその宿坊の一つから始まったようだ。
琴引山の麓である飯南高原一帯は、戦国時代毛利と尼子の領地争奪の激戦地だった。戦国の武将たちは戦略や策略や政略などあらゆる手段を駆使して時代を生き延びた。万善寺開基殿はその中の一人の武将に行き着く。彼は、最後まで尼子方に組みして敗戦を期に出家したらしい。その出家僧の生地がどうやら銀山街道沿いの宿場町であったようだ。私は、通勤坊主で朝夕その町を通過している。銀山街道古道はくねくねと続く渓流を渡りながら両岸のわずかな平地をたぐって飯南高原まで続いていた。町に続く小山の山頂にあった山城は銀山街道の関所の一つとして機能していたようで、その宿場町はたたら製鉄とか養蚕業などの地産や石見銀の運搬業などで賑わっていた様子がうかがえる。

葬儀開練忌から続いた仏事も大練忌をもって一区切りついて、少しだけ気持ちが晴れた。
琴引山の遠望が雲ひとつない飯南高原に映える。
いつもの万善寺に戻った境内を、あの目付きの悪い黒猫が横切った。

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雪が消えた 

2020/03/11
Wed. 23:07

春のお彼岸を前に、万善寺境内の雪が全て消えた。
この近年は雪解けも少しずつ早くなっていたが、例年だと境内北側の裏庭はだいたい4月に入っても雪が残る。豪雪だと5月の連休を過ぎてもまだ雪があるから、今年のようなことは異例のことだ。

春が早くなったせいか、お檀家さんからチョクチョクと電話が入る。
鉄の工場にいてもなかなか集中できないで、仕事が思うようにはかどらない。
今日も午前中から2つほど電話が入ったし、明日は怜子さんの四十九日大練忌になるから、夕方早めに工場を引き上げて制作中の彫刻パーツを銀くんのデッキに積んだ。どうせ気休めにしかならないということは分かっているのだが、それでも少しは彫刻のことを気持ちの何処かで抱え続けていられるから、ソレだけでも気楽でいられる。
工場から直接寺へ向かった。

万善寺くらいの規模の末寺で毎年のようにお檀家さんが微減し続けている現状で、仏事のことだけは一昨年くらいから微増を続けている。
俗なことを云うと、仏事がそのたびに少しでも布施収入に変われば坊主暮らしも若干の余裕ができるかも知れないのだが、現実はなかなかうまくはいかなくて、年間収支を決算してみると坊主の出勤回数は増えているのに現金収入は減り続けているという、おかしな経営事情が見えてくる。要因については幾つか思い当たる節があるので、ザックリと仏教活動の一環として「大事な仏事でもあるから・・・」と自分に言い聞かせて納得するようにしている。
そのかいがあったのか、今年の冬の2つの法事では「このくらいのことで申し訳ありませんが・・」とレジ袋いっぱいのお米を頂いた。合わせて1升くらいにはなって随分と助かる。「お米なくなったから持って帰って」と、ワイフに催促されるたびに寺の冷蔵庫で眠っている古古米どころか古古古古米を、それこそレジ袋へ入れ替えて持ち帰っていたのだが、今年はすでに2回も新米をワイフへ手渡すことが出来た。
お金は無くても食べるものと飲むものがあればなんとか生き続けることができるはずだが、なかなかそんなに巧くはいかない。実際には年金やら保険やら医療費やら光熱水費や通信費などなどの必要経費が毎月口座から自動引落されている。
丁度申告の時期で、納税申告書を作成中だから余計に寺の運営状況が気になるわけである。吉田家の申告の方は入院のことと設備の老朽修繕投資が重なって大赤字を出してしまった。今年いっぱいしばしも休まずに働いたとしても、赤字解消までには至らないだろう。とにかく、材料屋さんを始めとしてお付き合いのある業者さんの迷惑になるようなことだけはしてはいけない。個人事業主としてはいちばん大事な信用だけはなんとかして確保することが大事だ。

夕方まだ明るいうちに寺へ着いて、本堂の舎利棚殿へ四十九日法要のセッティングをした。夜になってから小さな塔婆を書いて簡単な法要の差定を決めた。
まだ怜子さんのお墓が決まらないままなので、ひとまずご遺骨の安座法要がメインの大練忌法要にした。

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幹カンジ 

2020/03/10
Tue. 23:06

「早くからすんませんなぁ〜・・○○寺でずが、チョットお時間大丈夫でしょうか?」
住職の朝は比較的早いから、まがりなりのナンチャッテ住職のボクももう起きていて特に支障はなかったっが、それにしても一般的には躊躇してしまうような時間の電話だった。
だいたい坊主業では、一般的な時間外の電話というのはあまり良いことでない場合が多いし、同業ご住職からの電話だし、何事かと若干緊張した。
「ハイ、大丈夫ですが、何か?昨年は何かとお世話になりまして、ご面倒をおかけしました・・」
ひとまず、当たり障りのない返事を返すと、
「その節はこちらこそ、なかなか至らないところもありまして・・・」
などと、しばし、儀礼的会話が続いたあと・・
「ところで、お願いがありまして連絡させていただきました」
やっと本題に入った雰囲気だと弔事のことではなさそうで、少し安心した。それで、要件は宗門組織の事務的なことだった。
「教区から幹カンジを二人ほど出すことになっておりまして、その役を引き受けてもらえないかと・・・」
「ソレはご心配なことです・・・が、私にできるようなことでしょうか?」
「もちろん大丈夫なことです。オタクのようなユニークな方に是非引き受けていただきたいことです。用事と云っても1年に2〜3回の会に出席して頂く程度のことですので、なんとか引き受けていただくと有り難いのですが・・・」
「そういうことなら、もっと適任がいらっしゃると思いますが・・・」
「イヤイヤ、オタクが適任ということでお願いしておりますので、いかがなものでしょうかねぇ〜」
「よくわかりませんが、私で良ければ構いません。受けさせて頂きます・・・」
・・・と、云うことになった。
先方の方丈さまは、何となく安堵された様子で、それから少しして電話が終わった。

今年は、万善寺が教区の総会会場で回ってくる。
私が先代から住職を引き継いだ年に当番会場が回ってきたからこれで2回めになる。
説教老師の巡回があって、それに教区の総会がセットされる。当番寺院は老師の接待と、教区の護持会会員の総会出席の世話をすることになる。昭和の昔は、総会が終わったあとの懇親会も夕方まで賑やかに盛り上がって、各寺のみなさんが散会されるとそれから万善寺役員の皆さんで慰労会が始まるという、数年に一度巡ってくる一大事業だった。
今は、そういう親睦も割愛が普通になって、老師のお話と総会が終わると出席分のお弁当を配布して散会になる。あとは数人の役員さんが後片付けがてら残ってささやかな慰労をしてその日の夕方には終了する。前日の老師接待からだと1日半くらいあれば事業全て終わる。それでも、会場となるとそれなりに気遣いも多いし、人並みの心労もある。
幹事の方は一度引き受けると「再選は妨げない・・」などと都合の良い理由をつけて任期がしばらく続きそうな気がしないでもないが役不足は棚に上げておいて「一人一役」を前提に、まずは一応「NO!」は言わないことにしている。
益々彫刻業が減って坊主家業が増えてきた・・・

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境内の春 

2020/03/09
Mon. 23:21

銀座のグループ展用に造っていた小品が形だけ完成した。
あとは2〜3日かけてサビの調子を整えて搬入ギリギリのところで錆止めをすれば出来上がり。
自分では、なかなか面白い彫刻になったと勝手に思っている。

今回の展覧会場は、展示に関してあまり細々と厳しいことが無くて助かっていて、過去にも彫刻に苔やリュウノヒゲを使ったりしたことがある。
自分の彫刻は、ほとんどが展示に制約のない野外で、室内でも美術展示に限ったギャラリーとか画廊での彫刻展示は殆どしない。

今度は、彫刻に蓋を作ってみた。
取っ手は寺の境内にある黒竹を何年か前に切って乾燥させていたものから一節だけ切り取って使った。
彫刻の中は線香を焚くことができるようにしてあって、まぁ、香炉のような彫刻だと思ってもらえば良い。煙も、タバコを吸うよりはずっと少ないし、防火の煙感知器が反応することもないだろう。会場にほんのりと香が漂う感じを彫刻で造りたくて、もう何年も前から試作を続けていて、実は現在も個人的には多少の問題が解決できないでいる。それで丁度これから実使用のデータを重ねながら完成度を高めようとしていたところだった。
新型肺炎が流行しはじめて、展覧会の開催そのものも実施が危ぶまれていたようだから、たぶん来場のお客様も少ないだろうし、会場の展示効果を試すには良い機会になった。約1週間の会期中は会場の受付当番をしながら香炉彫刻の完成度を確かめることになる。

黒竹は、私がものごころついた頃からすでに寺の境内の今の場所にあったから、もう随分と以前から毎年筍が芽吹きながら世代交代を繰り返して絶えないで生き続けているはずだ。
自生することはまずないだろうから、昔の誰かがその場所に植え付けたものだろう。
その黒竹は、例えば、床の間の軸を掛けかえる竿になっていたり、洗面のあとの手拭き掛けになっていたり、寺の庫裏の各所で何かしらに使われて重宝している。今と比べるとあの頃の黒竹は何年も大事に育てられて古竹になっていたのだろう黒々と太くて立派だ。
この2年間は冬に雪が殆ど降らなかったから、そのおかげで昨年の若竹にダメージがなかった。良い機会だから、このまま大事に養生して使用に絶えられるまでの立派な黒竹に育てようかと思っている。

天狗巣病にやられていた駐車場脇の桜が生き返って、今年はもうすぐ花が咲きそうなところまで蕾が膨らんでいた。幹の根元だけ残してバッサリと切り倒したのだが、その根株から脇芽が伸びて見上げるほど大きくなった。
少年の私に天狗巣病とか気根のことを教えてくれたのは長い間林業で働いて50歳で定年退職したあと、お寺の作務に信心してもらっていたおじさんだった。天狗巣病は大胆に幹からバッサリとヤルのが良いのだそうだ。それに桜とか百日紅のような比較的寿命の短い木は気根を伸ばすことがよくあるそうだ。境内の百日紅はそれで再生した。

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ゴロゴロシンキング 

2020/03/08
Sun. 23:56

鉄の工場にいると時間がすぐに過ぎる。

長い間の経験上、午前中の制作工程がその日の進捗状況を大きく左右させるので、早朝に目覚めるとそのまま布団の中でゴロゴロしながらその日の制作のシミュレーションを頭の中でアレコレと工夫する。
まずは、完成までの制作のスピード優先で無駄な付け足し要素を一切省いたかたちをおおよそ想像してみる。そうすることで例えば鉄板の使用枚数とかサイズが見える。彫刻の完成予想サイズを鉄板の工業規格から割り出すわけだ。

今回は小品だから4✕8サイズの鉄板が1枚あれば彫刻1つを造って余るくらいになるはずだが、その鉄板がまだ真新しい黒皮鉄のままだと小品としての密度が鉄材の表情を造り込むには希薄になって味気ない。それで、過去の制作端材を溜め込んだ中から適度に味わいの出た鉄サビの鉄板を探し出して、それらの表裏を見比べて組み合わせながら平面図や立面図などに当てて正面とか背面の表情を決めていく。その平面図などが今はボクのとろけた脳みその中にしまい込まれていて、鉄板の現物に併せて頭の中で自由に伸び縮を繰り返す・・・その工程が、布団の中のヨシダオリジナルゴロゴロシンキングタイム。
このゴロゴロシンキングがすんなりと決まれば、すぐにチョークのドローイングに置き換わって、工場の午前中が実に無駄なく有効活用されて制作が手際よくはかどる。

溶断したパーツが全てそろうと、昼飯のパンでもかじりながらしばし鉄板のパーツと向き合って無言の会話が始まる。
この切り出した鉄板の表情を観ながら続く無言の会話でだいたいの完成予想図が見えてくるから、ひとまず工場の何処かへチョークでメモ(他人が見たら落描きのようなものだけど・・)して残しておく。
あとはひたすら無駄なく手際よく溶接を繰り返していくわけだが、ここで最も大事な彫刻のテーマを慎重に引き出して1点の彫刻へ託しておかないと、造形の方向が堅苦しい無機的人工の建築的構造物のようなつまらないモノになってしまうから、ソレは避けなければいけない。
私の場合は、自分の造形におけるテーマの重みがさり気なく造形物としての彫刻に映っていないといけないから、そのひと手間が私の鉄の彫刻にとても重要な役割となっている。

午後からは、切り出した鉄板パーツの1枚1枚を金槌でひたすらたたき続ける。
なんの表情もない錆びた薄汚い鉄板に、この「金槌で叩く」という工程を加えることで有機的な柔らかさが生まれる。
それは彫刻造形の張りになって量感を増す手段でもあるが、野外彫刻を基本とする私の場合は、自分の彫刻がある程度の一定期間は島根の四季の天候環境に溶け込んで存在し続けるための重要な条件ともなっている。
今制作中の小品彫刻は、屋内設置を前提としているから野外彫刻としては欠陥するところがある。しかし、一方で屋内彫刻だから可能になる造形上の工夫もあって、それはそれで自分としては十分に納得しているし制作を楽しませてもらっている。

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前向き 

2020/03/07
Sat. 23:39

年末に石見銀山の小品彫刻展を撤収して、今年に入って2月までの間に全ての彫刻返送を終わらせてすぐに節分が来て立春になると、思い出したように重たい雪が降った。
やっと冬が戻ってきて「やはり飯南高原は雪が降らないと冬になった気がしないな」と少し安心していたら、なんのこともない1回ほど雪かきをして一本道を開けた次の日には山陰の2月に珍しい冬晴れになってアッという間に参道の雪が溶けた。
こんなことなら、腰痛を無理して雪かきなどしなきゃよかったと思いつつ、今度は何年もの間にだらしなく枝葉の伸びきって見苦しい庭木のことが気になりはじめて剪定などはじめた。2月のうちに庭木の剪定をすることなど今まで想像もつかないことだったが、穏やかな小春日和がしばらく続くうちに身体がモヤモヤしてジッとしていられなくなってトリマーやチェンソーを倉庫から引っ張り出してしまった。
2・3日ほど良い天気が続いたおかげで境内地の外仕事はソコソコはかどったのだが、ついでにお墓までの参道も秋からの落ち葉が乾いている間に掃除しようと予定を立てたところで雨になった。
一度降り始めた雨はそれからしばらくダラダラと降り続いて、せっかく乾いていた落ち葉もまたジットリと濡れて地面に張り付いてしまって、予定が未定になった。

週末は激しく雨が降った。
吉田家のデスクワークも溜まってはいるのだが、どうもキーボードやテンキーをプチプチやるのもめんどくさいし、ロフトにこもって炬燵に潜り込んでいても気持ちが滅入るばかりだから鉄の仕事を再開することに決めて、久しぶりに朝から工場へ出かけた。
石見銀山の自宅から鉄の工場は、万善寺方面とは真逆に向かって5分ほど銀くんを走らせると到着する。
丁度、小品彫刻展に絡んで制作を続けていた連作のパーツが溜まっていて、ソレを溶接して組み立てるところから仕事に取り掛かることが出来て無駄が無い。
コンプレッサーのスイッチをONして、圧縮空気がタンクに溜まるまでの間に工具のチェックをしたり防じんマスクを用意したりして制作の準備を整えた。
世間では新型肺炎でマスクどころかトイレットペーパーまで品薄になってしまったようだ。人口密集地では日常の生活に支障が出てしまうまで流行が加速しているようだが、私の日常は坊主も彫刻も全くいつもと変わらない毎日が過ぎている。
これから銀座のグループ展に向けて彫刻を造ることになる。すでに搬入から受付搬出と1週間の上京も決めていて、ソレを思うと、小心者のチキンオヤジは今のうちから少々ビビっている。もっとも、銀座の会場は外出自粛の影響でほとんど開店休業状態が予測されるし、この際だから溜まった文庫本をいつもより多めに持参して「読書に集中できるかも知れない・・」などと不謹慎な想像をめぐらしてニヤつく自分がいたりもする。
いずれにしても、今のうちから実態の伴わないことで深刻な想像ばかりしていてもきりがないから、とにかく肉体の抵抗力を鍛えて精神の弱さに負けないように銀座の1週間を前向きに乗り切ろうと思っている。
グループ展や個展などの彫刻制作と発表は、まだ学生だった頃から毎年欠かさず続けていて、もう40年を過ぎた。
継続は力にもなるが惰性に堕ちることもある。そのあたりの見極めに失敗すると「労すれど功なし」となる。自分には受付当番も制作に匹敵する重要な業務と考えている。

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休息 

2020/03/06
Fri. 23:42

学校の春休みが近づいて、石見銀山やその周辺では卒業式もそろそろ近づいたり既に終わったりと、毎年恒例の年度末行事が進行している。
万善寺は初午祭が終わって、これから春彼岸が来る。

いつもなら境内やお墓にはまだ雪がたくさん残っているから、掃き掃除などの外仕事にかかわる作務が出来ないままお彼岸を迎えるのだが、今年は過去に例を見ないほどの暖冬になったおかげで、庭掃どころか境内のアチコチで茂っている庭木の剪定まではじめている。
学校へ美術の時間講師で出かけているワイフは、少し前に年間の予定授業のほとんどが終わって、時間に若干の余裕ができたようだが、これから年度末に向かって地域の付き合いで引き受けている幾つかの用事が残っているようで「お雛様展の展示があるから」とか「今日は婦人会のお弁当作りがあるから」とか「明日の夜は自治会協議会の会議が入ったから」とか「民生委員で小学校まで行ってくるね」とか、とにかく連日のようにせわしなくアチコチへ出かけている。
そうやって、いつも忙しくしていることが彼女にとっては生活の張り合いになっているのかも知れない。
そんな中、久しぶりにお供えのお花を持って寺まで来てくれたから、せっかくなのでお昼は近所のお蕎麦屋さんへ二人で出かけた。
世間では新型肺炎の情報が飛び交って商業施設や学校を中心に対応対策で混乱してるようだし、お蕎麦屋さんもそれなりの影響を受けているかも知れないと気にしていたのに、お昼時のお客さんも絶え間なく続いて、全然いつもと変わらなくて安心した。
美味しいお蕎麦を食べたあと、ワイフとはそこで右と左に別れた。
彼女は「せっかく、コッチまで来たから・・」と近所の道の駅を幾つか経由してみるのだそうだ。

お寺の用事を切りの良いところで終わらせて夕方になって吉田家へ帰った。いつもならクロが土間の入り口で鳴きなから出迎えてくれるのに珍しくソレがない。ワイフは道の駅でゲットした食材を使って夕食の支度をはじめていた。部屋を見渡してもネコチャンズの姿が無いからきっとアイツラはロフトで寝てるのだろう。
ワイフの夕食が出来上がるまでまだ間があるようだし、このところ寺のことで働き詰めだったから少しほど2階のボクの部屋で休息することにした。
炬燵テーブルには少し前に届いたグループ展のDMがまだ発送されないままになっている。新型肺炎のこともあるし、ハガキをそのまま発送するより、何か一言書き添えて封書にしてみようと考えている。吉田は、ひとまず銀座で受付当番を予定しているが、来客も殆ど無いだろうから、この度は作家の研究発表的色彩が濃厚な展覧会になりそうだ。彫刻のメモはたくさん溜まっているし、私もそのことを少し意識して制作に取り掛かったところだ。

案の定、クロはボクのベッドのド真ん中で爆睡していた。炬燵に足を入れたときシロの背中を蹴ってしまったのに動く気配もない。シロもまた炬燵のド真ん中で爆睡中でした。

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怜子さん檀弘忌 

2020/03/05
Thu. 23:07

初午祭の法要が終わって後片付けもあるから万善寺単身赴任で一泊した。
お参りが6人でも、湯呑とかお皿とかお箸とか各種の鉢や大皿など食器の洗い物が典座寮を縮小改造した台所の流しへ大量に溜まって、その量を見ただけで1日の疲れがドッと出た。
盆正月の法要は、もっと大量の洗い物をワイフが一人でこなしてくれていることを思えばたいした仕事量でないのは分かっているが、それにしてもその日のうちに全て片付けるのは少々つらい。どうせ寺で一泊するのだから、洗濯も含めて溜まった食器の洗い物は翌日に回すことにした。

その翌日は怜子さんの6・7日檀弘忌になる。
ワイフも含めて、怜子さんに近い親族の関係者はそろそろ巡ってくる四十九日を早く短く感じたのか、それとも遅く長く感じたのか、どうだったのだろう。
私は、親族の一人でもあるが一方で坊主でもあるからそれなりに客観的にクールにこれまでの期間を乗り切っている。
人が一人死ぬるということは、周辺の近い身内にとって当分の間の日常生活に多少の不具合を生じることのストレスは避けられないことだ。その上で、一般の俗世間では通用しないよなことも多々ある宗教上の慣習にはそれなりの誠意を込めて従うことになるから、ソレがまたソレで気持ちの重しになってしまったりする。
ワイフの近くで彼女が怜子さんを偲ぶことの行動を見ていると、どこかしら乙女チックで可愛らしく微笑ましく思う。
今ではボクが一人で使っているシアタールーム兼用のリビングに設置したスピーカーを即席の祭壇にして、昔の怜子さんの写真を探し出して、お猪口に水を入れてお供えして、私がストックしていた比較的高級な白檀の香を探し出して1日に1回焚いて手を合わせている。
流石にその白檀香も底をついて残りがあと少しになった頃、彼女はAmazonで探しだしたお香の詰め合わせを注文したようで、2・3日前からリビングが上品な白檀の香から一気に俗っぽいエキゾチックな香りに変わった。
吉田家の即席祭壇では、ご本尊さまと三具足の仏教上最低の条件でもある常識が通用しないまま今に至っている。
まがりなりにもすぐとなりに一応万善寺住職でもあるナンチャッテ坊主がいるのだから、そのあたりのことをチョット聞いてくれても良いと思うんだけどネ・・

積み残しの食器洗いを済ませ、洗濯機をONしてから本堂へ上がって怜子さんの檀弘忌を始めようと予定していたら、珍しくワイフの方から電話が入った。
「今、途中でお花を買ったところだから、あと20〜30分でお寺へ着くネ!」

さて、あと1週間お花が保つかどうか心配だがこのまま寒い日が続けばなんとかなるかも知れない。お経が終わってワイフが親族を代表して焼香して檀弘忌法要が終わった。
四十九日大練忌は、喪主施主のトシちゃん夫婦が怜子さんの遺骨持参で万善寺へ来ることになっている。吉田家からはじゅん君も仕事の都合をつけてお参りしてくれる。

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国家平安万邦和楽 

2020/03/04
Wed. 23:22

この数年で随分と坊主家業に従事することが増えた。
昨年は、今まで前例がないほど葬儀が多くて、ソレに付随した法要仏事も絶え間なく続いて、その上、例年変わりなく寺の過去帳から繰り出している年回法事もあるし、とにかく、1年で70%以上は万善寺のことで始まって終わった気がする。
先代の憲正さんは、生涯100%専業坊主で乗り切って住職在職も60年に至った。
その先代の御蔭で自分が40年以上彫刻制作を休まずに続けてこられたのだと、今更ながら間違いなく確信できる。
昭和から平成令和と世の中の情勢が大きく変わる中で、昭和20年代から殆ど大きく変更することもなく万善寺の諸仏事が引き継がれてきたのは、禅嶽憲正大和尚のブレない仏教家としての強い信仰心があったからだと思う。それでも、元号が昭和から平成に変わろうとする頃から憲正さんの愚痴が少しずつ増えた。お寺の仏事行事へのお参りが1年毎にみるみる減っていったことに我慢ならなかったのだ。
その頃から人々の仏教離れの加速が始まっていた気がする。

副住職時代が長かった私は、憲正さんの仏教家としてのジレンマと間近に接しながら、一方で寺の仏事から隠れるように彫刻制作へ逃避していた。
嬉々として彫刻に没頭していた頃が懐かしい。
今は、時々フッと出来たヒマに描きためた小さな彫刻のメモがかたちにならないまま貯まる一方になっている。たぶん、このままなにかの反故に紛れていずれ破棄されてしまうのだろう。
憲正さんを引き継いで住職になって、職業坊主の末席に着いたように自覚できる今、彫刻を絶やそうとは思わないが、できるだけ万善寺の過去からの伝承も絶やさないようにはしようと考えている。

1年に一度の万善寺初午祭が巡ってきた。
初午の日は毎年動くからその都度飯南高原をグルッと一回り約60枚ほどのお知らせを配布して回る。今年は雪もなくて楽に一巡できたが、当日は前日までの好日が嘘のように前夜から雨になって冷え込んだ。
それでも、法要には6人ほどお参りがあった。
それこそ憲正さんの頃は、雪をかき分けて20人以上のお参りがあって賑やかな法要になっていて、お参りのみなさんも内室のおかみさんが心づくしの手料理で世間話に花を咲かせ、ちょっとした地域の情報交換の場にもなっていた。
今のように、ワイフがおかみさんのあとを引き継いだときには、すでにお参りも半減していたから、当時の賑やかな初午祭を彼女は知らない。それに、殆ど毎年平日の祭事になって彼女の手伝いもないから、住職一人で本堂と庫裏を数え切れないほど往復した。
いずれそのうち、お参りが0人になる日が近いかも知れないが、それでも自分の身体が動くうちは法要を絶やさないでいようと思う。
前日までの美食が過ぎて、お経の最中は足の裏がピリピリ傷んだ。
万善寺豊川稲荷荼枳尼天さまへ、国家平安万邦和楽五穀豊穣商売繁盛を祈念し、お参り各家の家内安全身体堅固を祈り、ついでにチョットだけボクの痛風減痛を願った・・・

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回顧展 

2020/03/03
Tue. 23:11

山陰在住の二人の絵画作家がほぼ同じ会期で個展をした。
一人は松江の県立美術館で竹田さん。
一人は米子の市立美術館で濱田さん。
二人共そろそろ作家歴40年近いベテランである。
ワイフが紅ズワイガニを買って帰ってくれたのもその二人の個展を観に行ったついでだった。
それぞれ立派な個展リーフレットが出来上がっていて、見開きには作家の挨拶文が添えられていた。ワイフの感想めいた話を総合すると制作の初期から近作までを系統立てて展示した回顧展の色合いが強い個展になっていたようだ。

濱田さんの近作は、本人曰く「最近具象から抽象に表現が変わった・・・」ということらしい。
私は制作の殆どを彫刻に絞っていて絵画のことはあまり良くわかっていないから、鑑賞するとなると純粋に自分の主観的な好き嫌いを優先してしまう。それでも、抽象表現となると自分もだいたいが抽象彫刻で制作を続けているから、絵画と云っても少しは面倒くさく客観的な見方をしてしまうこともある。
それで濱田さんだが、彼の抽象性は連続した繰り返しのパターンでひたすら画面を隅から隅まで埋めつくしていく作業性の強い表現になっている。これは、原始的アニミズムに起因する精神的思考を絵画という領域定義を借りて表現活動に置き換えたふうに思える。一連の決まった表現パターンに終始してそれを繰り返し続けていれば、いずれ時間とともに終了の時が予測できるし、確実な完成の瞬間を実感できる。そこに制作の喜びを感じ達成の満足感に浸る・・・ソレが、今の彼が「絵を描き続ける」ことに託した現実逃避になっているのかも知れない。表現の違いはあるが、それこそ今の自分も似たような制作の繰り返しにこだわっている時期でもあるし、今後の彼の表現の変化を楽しみにしたい。

竹田さんは高校の先生を37年間勤め上げ、退職の記念も兼ねて個展を計画していたようだ。挨拶文を読むと、彼は本当に心身ともに学校の先生であり続けていたのだということがヒシヒシと伝わってきた。彼とは私がまだ島根の学校の現場でいた頃からの長い付き合いで、ほぼ全ての彼の絵画作品を観てきたのだが、こうして改めて彼自身の言葉で美術教員であることとか美術教育に捧げた人生であったこととか語られると、とにかく全身頭の天辺から足の先まで教育者であったということが伝わる。
アレコレともっともらしい理由をつけて学校現場から逃げ出したボクにはとても彼の真似はできない。ある意味、彼にとって美術教師は天職であったのかも知れない。
名実ともに4月からフリーになるタケちゃんの今後の活躍を期待したい。

登美さんからもらった牡蠣は2日に分けて一杯やりながらポン酢の生食でペロリとやり、ワイフが揚げてくれたカキフライをパクつき、紅ズワイガニは2匹ほど足の先から味噌まで貪り、残ったカラなどはダシをとっておじやで完食。
その次の朝・・・足の膝とか指先の関節あたりがチクリと疼き始めた。
どうやら、痛風の前触れの気がする・・・でもいいや!美味かったから・・・

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竹田個展
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贅沢な食卓 

2020/03/02
Mon. 23:59

法事では珍しいお頭付きの鯛が入った斎弁当を持って、ウキウキと吉田家へ帰った。
この頃は随分と陽が長くなって西陽に照らされた雲がオレンジに染まってきれいだ。

駐車場へ着いて荷物を降ろしたりしていたら、仕事帰りだろうか?自転車から降りたばかりの登美さんと出会った。
「正チャン最近痛風どぉ〜お?」
石見銀山町並みのド真ん中で大きな声に「なんで今さら??」と少々気恥ずかしくもあったが、石見銀山の場合、私の持病に限らず町内の殆どの住人に関する持病事情はすでにみんな周知のことで個人情報がどうとか守秘義務がどうとか、そういう堅苦しい近所付き合いとは無縁である。
「薬も欠かさず飲んでるし、特にこれと云って良くもなく悪くもなく・・普通ですよ」
「あのネ、牡蠣あるの・・・正チャン牡蠣好きなの知ってるけど、痛風に良くないらしいし、どうかなと思って・・採れたてで新鮮だからまだ生食で大丈夫なんだけど・・・どぉ〜お?いるぅ??」
今年・・・というより、随分前から口にしていない牡蠣が貰えそうとわかって、法事の疲れが一気に吹き飛んだ。
「えぇ〜、いいんですか?」
「封を切って少しほど味見させてもらったんだけど、やっぱり美味しいわよねぇ〜、それに身も大きいし、食べごたえがあるわよ。私一人で全部はとても無理だから、残りものだけどいらないかと思って・・・でも、痛風大丈夫?ほんとに??」
「全然平気です!後で痛くなっても美味しさ優先ということで、初物ですよ!」
「じゃぁ、後で持っていくわね」
「ありがとうございます!」
それからしばらくしてビニール袋いっぱいの大きくて立派なむき身の牡蠣を持ってきてくれた。

吉田家はワイフがまだ帰宅していなくて、日が落ちて少し暗くなり始めたリビングは寒々としていた。ひとまず頂いた牡蠣を冷蔵庫にしまって、斎弁当を食卓のワイフの定位置へ置いて、ストーブに火をつけ始めたところでワイフが帰ってきた。
しばらくの間、土間で何やらゴソゴソしていたワイフが「しょぉ〜ちゃぁ〜ん、ただいまぁ〜・・・カニ買ってきたわよぉ〜」と、大きなビニール袋に氷と一緒に入れてある紅ズワイガニを重そうに抱えて入ってきた。
私の法事の裏番組で、彼女は朝から山陰の作家仲間の個展会場を2箇所ほどハシゴして、その途中で境港の卸売市場へ寄ったらしい。

その夜の吉田家は、1年に一度あるかどうかの盆と正月が一緒に来たような・・いや、むしろソレ以上の超豪華で贅沢な料理の数々が食卓に溢れた。
「あとになって、痛風が出るな・・・きっと・・・」
ふと、不安と確信めいた予測が脳みそをよぎったが、ボクの心は美食を目の前にて完全にポキリと砕け折れて理性が遠くへ消えていった。

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お祝い法事 

2020/03/01
Sun. 23:11

3月になって早々の法事は朝から穏やかな日差しが降り注ぎ、気温もぐんぐん上昇して、着物に着替えて改良衣を羽織ったりするとジットリ汗ばむほどになった。

万善寺では50回忌からお祝い法事としてご案内させていただいている。
先代のお供で50回忌を越えた法事へ出かける時は、すでにお檀家さんの方で法事趣旨を心得ていらっしゃって、ご親族も遠方まで声を掛け合って参列されることが普通で、ソレはソレは賑やかな法事になっていた。
まだ20〜30年前はお斎の膳に酒がつきものだったし、お祝い法事になるとソレにプラスして各自の膳に尾頭付きの鯛がついていたり、刺し身の盛り合わせや巻き寿司があったりと、大盤振る舞いの豪華で賑やかなことだった。先代は法事が終わるとしこたま酒を飲んで施主家の歴史を交えた昔話に花が咲き、引き物や大皿やお供えのお下がりなどのお土産と、食べきれなかった斎膳を弁当に詰め直して、抱えきれないほどの大荷物を副住職(もちろんボクのこと・・)へ持たせて良い機嫌で寺へ帰って、それから酔が冷めないまま内室のおかみさん相手のお茶飲み話に花を咲かせ、その日の法事の顛末を嬉々として語り継いでいた。
50回忌からの塔婆は、それまでの板塔婆から角塔婆へ変わる。
法事の数日前に大工さんがお寺まで特注された角塔婆を持参して、住職は半日くらいかけてたっぷりと墨を摺って4面それぞれに戒名や経文や禅語香語などを書く。それからしっかりと1日位墨を乾かして施主家へ電話するとその角塔婆を引き取りに来て大事そうに持ち帰る。法事の当日に施主家へお邪魔すると、床の間の「南無釈迦牟尼仏」の掛け軸と並べて角塔婆が立てかけられて、その前に三具足が並び仏膳がお供えされてある。
特にこれと云った住職からの指示があるわけでもないが、だいたいどこでも似たりよったりの扱いがされていた。

・・・さてさて、今はどうかと云うと・・・
「角塔婆は建てるところが無いですけぇ~、板塔婆でいいですけぇ~」とか、「100年も前の先祖さんは顔も知りませんけぇ~、お盆の塔婆回向でいいですわぁ~」とか、「みんな用事があるそうなんで、法事は家にいる者だけしかおりませんけぇ~、簡単によろしく!」とか、だいたい殆どが、そんなふうな「お祝い!」とは遥かに程遠い法事になってしまった。
「昔は、誰かが亡くなると組内の者が遠くの親戚まで知らせに走ってましたけぇ〜」
「そうそう、冬は雪で車も使えんから、組の若いもんが一日がかりで山越えして広島県まで行って帰ったりしよりましたがぁ〜」
「もっと遠くは仕方がないけぇ〜電報にしたりして・・・住所がわからんかったりしてアッチに聞いたりコッチに聞いたりして、葬式になるまで何日もかかったりしてねぇ〜」

3月1日の100回忌お祝い法事は、角塔婆こそ板塔婆で済まされたが、久しぶりに副導師の随喜も頂いて立派で賑やかに終始した。
私が住職になって約10年・・・50回忌を越えたお祝い法事で角塔婆を書いたのは5回とない。楽といえばソレまでだが「ソレで済ませていいのだろうか?」とふと思う時がある。

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逃げる2月 

2020/02/29
Sat. 14:12

早いものでもう怜子さんの5・7日小練忌がおわった。
万善寺に安座した仮位牌や仏具の前で一人七日努めのお経を読み続けているが、もう命日から5週間が過ぎた。急逝だったから、ワイフもトシちゃんも心の準備が無いまま慌ただしく通夜葬儀から告別式を終わらせて、気持ちの落ち着かないまま日常の仕事へ帰っていった。
いつもなら、2月の万善寺は立春が過ぎて時々初午祭のご縁日が巡った年は法要でお参りが数人ある程度で、あとは年回法事の仏事も殆どない。それでも1年で一番雪が沢山降り積もる時期でもあるから、単身赴任に切り替えて朝夕の参道雪かき道開け作務が欠かせない。
今年はその参道雪かきを1回しただけで、もう3月になろうとしている。

雪がないからだろう、2月は毎週末から連休にかけて年回法事が続いて、そのうち2日ほどは県境を越えて広島まで出かけた。
広島は毛利公の関係で浄土真宗が多く、法事の様式も万善寺とはかなり違う。法事にお集まりのご親族もいつもと勝手が違って戸惑い気味だ。
こちらもお檀家さんであるとは云っても飯南高原の気のおけない勝手知った近所付き合いの延長のような法事付き合いにならなくて緊張する。前日から塔婆を書いたり経本を揃えたり法要用の線香や焼香用の香炭を用意したりと準備だけで時間がすぐに過ぎた。

雪が降り積もっていないからなのか、目付きの悪い黒猫を頻繁に見かけるようになった。
以前は保賀の谷のアチコチへ出没していたようだが、最近は万善寺境内のどこかでほぼ毎日目が合う。
庭木の剪定をしていたらサツキの株脇で丸くなっていたし、銀くんを庫裏玄関へ横付けして荷物をおろしていたらボクの造った彫刻脇でジッとこちらの動きを凝視していた。勝手口で灯油のポリタンクを出し入れしていたら物置の曲がり角で行儀よく猫座りをしていた。その物置に入って剪定用のノコやカマなどを物色していたら日当たりの良い南側の窓際でゴロリと寝たまジッとこちらを見ていた時はかなりビックリした。本堂の仏花を替えていたら高床の座の下からボクの動きをしっかりとロックオンしていた・・・
2月になって接近遭遇が激増したので、境内へ出入りするたびに「ネコちゃん!」と声掛けを続けていたら、そのうちその黒猫の方も「どうやら自分は(ネコちゃん!)であるらしい・・・」と自覚するようになって、あてもなく「ネコちゃぁ〜ん!」と呼ぶとどこかからひょっこりと現れるようになってきた。まだ手が届くほど近くへ寄ってくるまででもないから彼か彼女か判別はできていないが、以前よりはお互いの距離が短くはなっているようだ。それにしても、いまだにその猫の鳴き声を聞いたことがない。まだ「鳴く」ということが人間とのコミュニケーションの手段の一つであるということを知らないでいるのだろう。

飯南高原で雪のない2月は私の人生で初体験になった。境内の掃き掃除や墓地への参道整備、それに俊江さんが健在だった頃からの懸案事項である荒れ放題に繁茂したツツジの伐採も少しずつ進んできたところだ。雪かきとは違った忙しい2月が終わろうとしている。

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花が咲いた 

2020/02/21
Fri. 23:37

怜子さん四・七日阿経忌の朝も前夜からの放射冷却でかなり冷え込んだ。
まずは本堂の業務用灯油ストーブを点火して、それから一連の朝の用事を済ませてから阿経忌のお経を読んだ。

正月用にお供えした梅とシキビに花が咲いた。
シキビは花入れの水を時々補充したり入れ替えたりしてお世話していると、半年を過ぎてお盆の頃まで長持ちして、条件が良ければ花入れの中で根を出すものもチラホラ出てくる。
梅は松や竹と一緒にお供えしたものだが、その時は小さくて硬い蕾が確認された程度だった。それが約1ヶ月の間に少しずつ膨らんで、立春を過ぎたあたりからチラホラと花を咲かせ始めて、今はだいたいどの花入れも満開になって見頃を迎えている。
松は元々丈夫にできているから水を絶やさなければかなり長い間松葉の緑を見ていられる。流石に春彼岸を過ぎて大般若転読の法要まで花入れにそのままというわけにもいかないから、少し寒さが緩んで春めいた頃合いを見てひとまず挿し木にまではしておくのだが、殆どはそのまま根付くこと無くいずれ枯れて地に帰る。
竹は切ってすぐから青葉が丸まって1日と保たない。それでお正月飾りの松竹梅を代表してとんど祭のお焚き上で天に帰ってもらう。

御仏前に線香と蝋燭と一緒にお花をお供えすることは、仏事の一つとして欠かせない大事な意味がある。
本堂の須弥壇には、木製金箔の蓮が一対お供えされてある。宗門の場合、それに季節の切花を添えてお供えするのだが、その決まり事は住職の考えや代代の引き継ぎなどで寺ごとに違っている。
万善寺先代の場合は、だいたい1週間に一度位を目安に季節の状況を見ながら花の入れ替えをしていた。先代がまだ元気で日常の買い物などが自分でできていた頃は、そのついでに花入れの数分ほど季節の花をドッサリ買って帰って、自分で入れ替えをしていた。一般在家のお仏壇へお花をお供えするようなイメージとは全く違って、本堂から庫裏まで全てのお供えを総入れ替えした後の大量のお花は、その捨て場所が決まっていて一箇所に集まって山になる。私は、少年の頃から時々住職の指令で花の入れ替えをしていたのだが、実はソレがとても嫌だった。シーズンが春から秋にかけては花入れの水とか廃棄された花の山がすぐに腐って、その匂いが万善寺中に広がる。慣れてしまうと気にならないのだろうが、時々お参りがあったり近所の用事で来客があったりすると、その人達は絶対に腐った匂いを敏感に感じていたはずだ。

先代から住職を引き継いだ頃から、少しずつジワジワと花入れの様子をシキビに変えてきた。飯南高原はシキビを仏花にする習慣が根付いていないから、はじめはお参りのお檀家さんも須弥壇や位牌堂の様子が地味になったことに違和感があったようだが、今はソレもなくなって、少しずつ在家のお仏壇へもシキビが浸透し始めている。
シキビは、一方で毒花でもある。お墓花に使われるのは、昼夜の動物に仏花が悪さをされないようにする意味もあるし、何より丈夫でいつまでも緑でいてもらえるからでもある。

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ラムと古古古古米 

2020/02/20
Thu. 14:30

日曜日の夜から降り始めた雪が月曜日は終日降り続き、火曜日の朝には膝下まである鉄板入りの安全長靴の履き口から雪が入り込むくらいに一晩でドカッと積もった。
その日は六・七日檀弘忌があるので、いつもなら施主家に10時着くらいで準備をして出かけるのだが、これだけ雪が積もると参道の道開けをして銀くんを国道まで移動させるだけでお昼を過ぎてしまう。まずは、施主家に電話して現状を伝え、七日参りはお昼を過ぎてからということで了解を得た。

今度のドカ雪は水分をたっぷりと含んだ重たい雪だった。
こういうタイプの雪は除雪に苦労する。スコップもプラスチックの華奢なものだと雪の重さに絶えられなくてすぐに破れ壊れてしまう。それで土蔵にしまってあったアルミ製の雪かきスコップを取り出して雪を払いながら一本道を長靴で踏み固めつつ参道をお地蔵様の前まで降りた。夜の雪は一気に降り積もるから、あらかじめ前日の夕方にお地蔵様横の林道脇まで銀くんを降ろしておいたのだが、その銀くんも雪にすっぽりと包まれてすぐに動かすことができない。林道にはすでに車の轍ができていたから、その轍へ銀くんをはめ込めば国道まで進めるはずだ。
保賀の谷へ除雪車が上がってくるのはだいたい午後の3時位になる。それまで待てば楽に銀くんを動かせるのだが、夕方まで七日参りを遅らせるのもどうかと思うし、とにかく少しでも早くに銀くんを脱出させることにした。
前日から降り続いていた雪は七日参りが終わる頃になって止んだ。
しだいに雲が薄くなって雪の積もった琴引山から大万木山の峰が雲の切れた青空をバックにくっきりと白く浮かび上がって目があけていられないほど眩しい。例年だと3月のお彼岸前後に降る雪の後がこういう感じになる。今はまだ2月で1ヶ月ほど早いから、夜の放射冷却でかなり冷え込むはずだ。
寺へ帰ってから庫裏の南側にある縁側の温度計を取り外してお風呂場へ移動しておいた。
屋外はすでに夕方から氷点下まで気温が下がっていたし、深夜になって屋内の温度が氷点下5℃を下回るようなら水道管が凍結する。

その夜、飯南高原は午前2時に−7℃まで下がり、夜明け前の午前4時には−8℃になった。万善寺のお風呂場は夕方から電気ストーブを持ち込むなどして気をつけていたから、深夜の時間帯でー3℃まで下がったがソレ以下にはならないで済んだ。
水曜日の朝をほぼ徹夜に近い状態で迎えた。
本堂の朝の用事を済ませていると、東からの日差しに自分の動いて巻上げたチリがキラキラと反射していた。
庫裏の方で雪吊りのものすごい音がして本堂が少し揺れた。朝日に緩んだ屋根の雪が一気にずり落ちたようだ。それから一日中絶え間なく小規模の雪吊りがアチコチで続き、お昼を過ぎた頃からそれに雪解け水の雨だれの音がにぎやかに加わった。
この様子だともう一晩ほど放射冷却が続きそうなので寺に泊まることにした。
年が変わって冷蔵庫で眠っている古古古米が乾燥しきった古古古古米になった。捨てるわけにもいかないから最近は一人用の土鍋を灯油ストーブに乗せて出汁味のおじやを作っている。夜はソレにラムを5切れほど解凍して野菜と炒めた。

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冬が来た 

2020/02/19
Wed. 19:48

シーズン一番の寒気団が峠を超えた。
飯南高原は−8℃位まで下がるから夜間の水道凍結に十分注意するようにと週が変わってから何度も町の防災放送で注意報が流れた。
数年前にも同じような事があって、その時は水道の元栓から庫裏の西側へ集中している水道管の養生ばかりに集中してソレで安心して石見銀山の吉田家へ避難していたら、その間に風呂のカランが破裂して一晩中蛇口から温水がタレ流しされていた。水道水とプロパンガスの請求がいつもの3倍から4倍とすごいことになって、修理代もかさむし、生活費の圧迫で万善寺の備蓄がたった3ヶ月で一気に底をついた。
その年の夏は連日30℃を超える猛暑になって、万善寺台所にある唯一のエアコンをひと夏フル稼働してなんとか乗り切ったが今度は電気代がすごいことになった。
吉田家の生活費から万善寺へ経費を補填しながらなんとか半年を乗り切った矢先の猛暑は万善寺経営に深刻な影響を与えた。

もう、かれこれ10年以上前から500円貯金を続けている。
始めた時の主たる目的は彫刻の制作に関する諸々の必要経費と会費の捻出にあった。
とにかく、買い物は現金をメインにしてカード決済を極力避けるように気遣いながら1年を過ごしてお釣りの中から500円を抜き取って家中の至るところへ設置した仮の貯金箱へ溜め込んでいたものを集めるとそこそこの金額になっていて制作の経費補填がずいぶんと楽になった。500円貯金もなかなか侮れないところもあって、そういうことを10年も続けていると、最近ではチョット高額の買い物をする時の目標にもなったりして、貧乏なりの楽しみにもなって達成の喜びもひとしおだ。
Powerbeats Pro 貯金は3月からはじめて9月末に目標を達成した。彫刻の展覧会で上京の時、往復の高速バスで大活躍してくれて、今は銀くんを運転中のハンズフリー電話でiPhoneの強い味方になってくれている。

自分の周辺に起こる具体的で深刻な環境変化がこの10年間で地球の温暖化を確実に証明している。
10年前は吉田家のリビングにエアコンが一つあれば家族6人が苦もなくひと夏を乗り切っていたのに、今はワイフと気楽な二人暮らしでも20年前のエアコン性能が環境の変化に追いつかなくなってしまって用をなさなくなってしまった。
これから先、昔のように温暖で過ごしやすい環境を期待することは諦めるしか無いことだと極寒猛暑を乗り切った時に痛感した。自然を相手にジタバタあがいても無駄なエネルギー浪費と、今の現状を大所高所に受け入れるしか無い。
それで、自分に何ができるか考えるに・・・
ひとつは、おおよその将来を意識した上で生活に密着した環境の改善を具体的に進めること。とにかく、暮らしの無駄を省いて極力シンプルに生活環境を整理すること。
そしてもうひとつは、彫刻の制作を通して環境の経年変化を記録し続けること。これはすでに2014年の石見銀山個展から具体的に現場へ落とし込んでいて、幾つかのデータも集まっている。彫刻制作による一連の表現活動は今の自分にとってとても大事なライフワークになっている。

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処世の道 

2020/02/18
Tue. 21:04

節分を少し過ぎた頃にちょっとした寒波が北から島根県上空へ降りて雪が少し降った。
それが過ぎると、冬とは思えないほど穏やかな小春日和が続いた。
通勤坊主を続けてもいいと思っていたが、法事の準備や塔婆書きもあるし朝夕の移動が面倒になったので単身赴任坊主に気持ちを切り替えた。
寺暮らしが続くと、炊事とか洗濯とか家事がついて回る。それに、せっかくの良い天気に外仕事の作務をしないのももったいない気がして、庭木の剪定などをした。気がつくと通勤坊主で往復に使う時間とドッコイくらい、いやむしろそれ以上に家事でドタバタしている。本当に改めて心からワイフのありがたさを噛み締めている。

週末になって冬には珍しい大風が吹き始めてそれから土砂降りになった。
1周忌法事の当日は朝から生憎の風雨になって気温も一気に下がった・・・といっても、いつもだとこの時期風雪が当たり前だから寒いと云っても随分と温かい。
1月から続いている七日努めがまだ残っているから、とにかく1週間が落ち着かない。連日のように銀くんを乗り回して飯南高原のアチコチへでかけていると、国道の補修や脇道の拡張とか、神戸川支流にかかる橋の架替とか、とにかく公共工事がやたらと多くて片側とか交互通行で足止めされる。どこへ行くにも迂回路が無いから赤信号で捕まる度にジッと我慢して青信号を待つしか無い。
そもそも、2月のこの時期にこれほどたくさんの仏事が続いたり重なることも極めて珍しいことだが、例年だと除雪作業くらいの仕事で重機を動かす程度の土建業の方も公共工事でフル稼働していてまた珍しい。

塔婆の裏書きに「一月在天 影印衆水 (いちげつてんにあり かげはしゅうすいにうつす)」と書いた。この禅語は好きで、時々塔婆に書かせてもらっている。坊主解釈はその筋の書物に詳しく解説されているからソレをチェックする方が間違いない。
私は坊主的立場で好きな言葉というより、一個人としてこの言葉を大事にしている。大げさに言えば自分が毎日の暮らしの中で忘れないようにしておきたい処世の道とでも云っていいかも知れない。
自分の何気ない言動は、時として周囲の人達にとても重たい影響を与えてしまっている可能性がある。それが常識的に正しいことであれば特に大きな問題にならないかも知れないが、一方、限りなく個人的で主観的な言動が自分の気づかないまま周囲に良くも悪くも何かしらの影響を与えてしまうということもあり得る訳で、そのことの責任の自覚がないと自分の真意を正しく伝達する道が絶える可能性もある。自分が伝えたいことであったり託したいことであったりするものは一つでも、それを受ける側の解釈は種々様々である。

まだ学生の頃、師匠であるY教授から「守破離」の話を聞いた。前後の経緯は全く記憶にないがなぜかその言葉が強く印象に残って脳みその片隅に張り付いた。道元禅師様は「喜心老心大心」の重要を説法された。僧堂老師のお話でその言葉を知った時、自然とY教授の守破離とつながった。坊主であり彫刻家である自分の環境がたまたまその2つの言葉を結びつけて意識させてくれたことだと思う。心身が両輪になって蛇行しないでいられるのもそろそろ先が見えている。周囲を整理したシンプルを探すのもかなり難しいことだ。

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令和の日常 

2020/02/14
Fri. 12:25

怜子さん洒水忌前日はなっちゃんの誕生日だった。早いもので彼女ももう○○(ご想像ください・・)歳になる。
今は、長男を産んで産休中だが、新年度になったら仕事に復帰するはずだ。

そのなっちゃんは昭和最後の年に生まれて、長男のユーシン君は平成最後の年に生まれた。これもなにかのめぐり合わせかも知れない。ちなみに、怜子さんとボクは月は違うが同じ27日生まれだったから誕生日を忘れることがなかった。ワイフとキーポンは29日生まれで憲正さんも同じ日だった。じゅん君となっちゃんとノッチは12・13・14と日にちが続いているから時々混乱する。吉田家の家族LINEでも誰かが誰かの誕生日を忘れていたり、1日早かったり遅かったり、何かとややこしい。
ボクの母親の俊江さんは大正15年1月1日生まれだったが、本人は昭和元年1月1日生まれだと言い張っていたし、実際には前年の12月中にはもう誕生していたという話だ。大正の頃は、出生の諸手続きも種々の都合の自己申告をそのまま飲み込んで済まされることが多かったのかも知れない。

大正から昭和平成令和と元号が目まぐるしく代わって、その間に世界や世間の事情も大きく変化した。この近年は、自分の周囲でも周辺寺院の随喜も含めて寺の年中行事はほとんど増減もないまま過ぎているのに万善寺暮らしが随分と増えた。10年前には想像もできなかったことだ。それだけ万善寺に葬儀や法事の仏事が増えているということだ。その仏事の合間にも、今年の冬は雪もなくて良い天気が続くから外仕事の作務が絶えないし、時々雨が降ると前住職夫婦から引き継いだものの整理が延々と続いて終りが見えない。
とにかく、まだかろうじて身体が動く今のうちから自分の後に面倒を残さないようにアレコレドタバタしていると、1日がいつの間にか終わっている。

週が変わって七日努めの五七日小練忌が過ぎた頃から、どうも身体がだるくて重くて食欲もないし、何より酒を飲む気になれなくて体調が優れないものだからいつもお世話になっているドクターの診察を受けたらいつも以上に血圧が高かった。そのせいだけでも無いだろうと、問診を受けながら最近のことを話していると「それは、多分疲労がたまっているんじゃないですか?・・・なにか心当たりでも無いですか??昔の若い頃と同じようにはいきませんよ。それなりの年齢でもあるし」・・というわけで、結局疲労の蓄積は年齢のせいで済まされた。要するに、あまり無理をしすぎないでボチボチ休みながら緩やかに過ごせ・・ということ。
だからというわけでもないが、以前から買い置きして溜まっていた文庫本もこのところ落ち着いて読むこともないままになっていたから、少し意識してゴロリと横になって「久しぶりの時代小説でも・・」と、佐伯泰英さんを読み始めたのだが、これが失敗だった。
読み始めたら終わらなくなって、結局連日夜ふかしが続いて血圧が上がりっぱなしのまま今に至っている。
全50巻を超える平成のベストセラーは主人公磐音の波乱の日常が延々と綴られる。
江戸時代が200年続いたということは、善悪悲喜その時々色々だったろうが、概ねそれらを飲み込んだ分相応に平和な暮らしが続いていたからのような気もする・・

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冬の朝日 

2020/02/13
Thu. 15:06

1週間がすぐに過ぎてしまう。
怜子さんの三・七日洒水忌が来た。
朝から雲が低くて小雨が絶え間なく降っている。例年ならこの雨が雪になっているはずだ。2月もすでに半分が過ぎて川岸では温い水につられて菜の花が咲いているし銀山街道のアチコチで紅白の梅も咲き始めた。
島根中央部の暖冬は尋常でない。このままだと、農繁期の水量を確保できなくて稲の生育環境を維持することが確実に難しくなるだろう。

先週末はシーズンで一番の寒気団が北から島根県上空まで降りてくるような事を言っていた。仕事というほどでもない用事が江津であるので、雪の心配もあって直接寺から出かけるのも少し億劫だから、夕方のうちに石見銀山の吉田家へ帰っておくことにした。
その日も保賀の谷は上空に雲が広がっていて、むしろその雲のおかげで地表が適度に保温されて冬なりに温かだった。

およその作務に一区切りつけて帰り支度を済ませてから吉田家のストーブ用に本堂の床下を漁って薪になりそうな製材の板を引き出した。
万善寺は観音堂形式で高床の男寺だから、飯南高原に点在する各宗派寺院の中で一番座が高い。それでそれが特に自慢であるわけでもなくて、要するに江戸中期に再建された古い形式がそのまま今に残ってしまっただけのオンボロ寺であるというだけのことだ。
それでも、あの時代は建材だけは比較的柔軟に確保できていたらしく、構造物の主要な部材には欅がたくさん使われてある。縦柱にはホゾの補修や羽目木が目立つから、ほとんどの建材は以前の寺院を解体して移築の時に再利用したものだろう。まぁ、そんな感じのガタピシとねじれ狂った本堂の座の下には、まだ槍鉋で面をさらった古い杉板などが積年のホコリを被ってしまい込まれている。子供のときには、本堂の床下が丁度いいかくれんぼの遊び場でもあったから、そういう古い杉板の影に隠れたりして鬼の追跡を上手にかわしていたものだ。
ここだけの話だが、現住職は、ある意味歴史の資料になるかもしれない古材を引き出して吉田家ストーブの焚付にしようとしているわけだから、その筋の研究者でもいたら大騒ぎになってしまうような行為を平気でしているわけだ。

かれこれ半月ほど前、1月31日から月替りの2月1日は徳島県の阿南町にいた。
石見銀山で個展をしてくれた武田さんの彫刻を彼女の倉庫まで搬送して荷降ろしをした。
近所でワンボックスと若いスタッフを調達して経費をギリギリまで削減した貧乏旅行になったが、坊主家業が日常のボクは高齢者との付き合いばかりで毎日を過ごしていたから、20代の若いスタッフと二人旅はたくさんの発見もあって久しぶりに新鮮だった。
彫刻をしていても仲間がみんな一緒になって一年ずつ歳を重ねているから、気がつけばみんなでジジババになっていて会話にトキメキもない。彫刻は積年の経験の積み重ねもあって、それなりに深みも味も渋みもでて安心できて、それはそれで良いことかも知れないが、一方で造形の限界も見えたりして気が滅入る。
北ヘ向かって帰路につく早朝、東から昇る冬の朝日が眩しかった。

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我儘 

2020/02/07
Fri. 13:03

土地の立地条件が関係しているのかどうなのかよくわからないが、飯南高原で俗に云う「節分寒波」は、良くも悪くも不思議なほどに今までだいたい言い当てていて、そこに暮らす住民は冬の過酷な環境をそれはそれとして飲み込んで受け入れているようなところがある。
節分から立春は、万善寺で年間に幾つかある寺の仏事行事として毎年欠かさず引き継いでささやかな法要をする。
本堂が寒くてナンチャッテ住職の気持ちが萎えることもあるが、その程度の我儘で仏事をサボるわけにもいかないから、自分の軟弱な心身を騙し騙し下手くそなお経を読み続けている。
吉田家の方でも、節分の豆まきをするから、吉田家施主であり万善寺住職であるボクは二箇所で行われる2つの年中行事を時間差で乗り切るしかないことになって、節分寒波の真っ最中に銀山街道や出雲街道界隈を朝夕行ったり来たりの通勤坊主を続けている。今年は、それに怜子さんの七日努めが加わったから、この時期にドカ雪でも降ったらどうしようと毎日気象情報を検索しながらビクビク暮らしていたが、幸い、運良く、過去に前例を覚えていないほどの暖冬になって、立春も里雪で済んで、自他共認める雨男も随分と楽をさせてもらった。

昔の仕事で付き合いのあった美術の先生が3月末までの勤務を終えて定年退職をする。
それに併せて回顧展をすることになって先日立派な展覧会案内状が届いた。リーフレットには初期の頃からの作品写真がテーマごとに系統立てて几帳面に配置されて、彼の性格が手にとるように良く伝わってくる・・・と同時に、数十年もの期間休まずに制作を続けてきた多数の作品群をよく大切に保管管理できていたものだと感心し感動した。
彼とは若い頃からの飲み仲間で制作仲間でもあるから、回顧展のほぼ全ての作品を知っている。幾つかは、随分と熱く語り議論を繰り返した結果の作品もあって、その時のことを懐かしく思い出される。
彫刻家の吉田には、彼のような几帳面さもないし制作を終わった彫刻を資料ファイルで残すようなことを思いついたこともない。出来上がった彫刻も、ほとんどサインすることがないからあとになって制作年代や正確なサイズの問い合わせがあったりすると大騒ぎになって気持ちが萎える。彼のように自分の作品に対して責任を持ち続けることも大事なことだと、リーフレットを見ながら改めて反省した・・・といっても、今更どうなるわけでもないけどネ・・・

平成元号が終わろうとする頃から回顧展案内が頻繁に届くようになった。自分の作家歴がそういう制作を一区切り付ける作家諸氏とうまい具合にシンクロしているのかも知れない。丁度その頃から、彫刻家としての活動を大幅に整理しようとボンヤリ思っていたのだが、こうして彼からの案内状を見ると、これから先わずかに残った作家活動の方向というか方針というか、そういうものが具体的に見えてきた気がする。長年付き合っている彼には悪いが、基本的に彫刻家吉田正純が絡まない各種展覧会を失礼することにした。大鉈を振るって絶断する気はないが、例えば年賀状のように、少しずつ規模を整理してさり気なく何気なく表立ったお付き合いから消えていければいい。
我儘なことだがそろそろ造形に対する我欲の毒を抜いて天地に向き合う自分を大事にしてみようと思うようになった。

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怜子さん以芳忌 

2020/02/06
Thu. 16:01

吉田家前の駐車場には、夜のうちから降り始めた雪が3cmくらい積もっていた。
通勤坊主の荷物を銀くんへ積み込んでいたら、隣の旦那が自分の車へ積もった雪を払うついでに銀くんの雪も払い落としてくれた。
「これからお寺ですか?あっちは結構積もってるんじゃないですか?」
「さぁ、どうでしょうかねぇ~、参道が登れるかどうか・・なんとなく里雪のような気もしますしねぇ~・・」
「道中気をつけて・・・」
「あぁ~どうも・・雪のほうもありがとう・・」
朝の挨拶がわりに雪を払ってもらったお礼をしている間も、休み無く綿雪が降り続けていた。銀くんを暖機運転する間に「雪道だからいつもより少し時間がかかるだろう・・」とAppleMusicからルイス・キャパルディを探して50分チョットのアルバムを再生した。
牧場の真ん中を切り取るように伸びている銀山街道を登り切ると、雪の重みでアーチ状にたわんだ竹がかろうじて銀くんの屋根をこすらないで済むくらいのトンネルを作っていた。それからしばらくの間、江の川へ合流する支流に沿って緩やかな下りの銀山街道が続く。雪が綿雪から粉雪に変わりはじめてはいたが、積雪は逆に少なくなった。中国山地をえぐる深い谷の底を流れる江の川周辺は山の中でも海抜が他より低いから降った雪はすぐに消える。
雪国に暮らす者の経験では、こういう雪の降り具合だと飯南高原の雪も大したことはないはずだ。
銀山街道から出雲街道へ合流して丁度保賀の谷へ右折するところで、ルイス・キャパルディが終わった。参道下の林道にはそれでも5cm位の積雪があった。4WDとシフトチェンジを駆使してお尻を降りながら銀くんを寺の駐車場まで上げた。予想通りいつもより5分位遅れて万善寺へ到着した。

早いもので怜子さんのドタバタ葬儀が終わって、二・七日が来た。
あれから、ワイフとトシちゃんの姉弟では、曽祖父の代から続く菩提寺を離れることに気持ちが傾いている様子だ。仏教のくくりは同じでも宗派が違うから仏式や経典解釈などが違って、善し悪しの判断は出来ない。その上、ワイフも義弟もこれまで信心深い仏教徒であったとは言いにくいし、単純な好き嫌いの感情だけで宗派替えを即決するのもどうかという気がしないでもなく、坊主の末席にしがみついているボクとしては、自分の身近な親族身内の出来事として見過ごすことも出来ないし内心なかなか複雑な気持ちだ。
とにかく、菩提寺さんと葬儀話がこじれて「万善寺流でよければ」と引き受けたわけだから、四十九日までは責任を持って曹洞宗として七日ごとのお経を絶やさないでいたい。
まずは底冷えのする本堂を業務用の灯油ヒーターで温めて、怜子さん用に即席の祭壇を用意した。お供えのことなど十分なことは出来ないが、しきびの花と線香蝋燭を準備して、怜子さんの好きだった梨と、私が常飲しているそば茶の熱いのをお供えに変えてから二・七日参りのお経を読んだ。
万善寺の先住職夫婦は二人とも生前すでに得度授戒を済ませていたから、七日ごとの供養も無くてほぼ1ヶ月をゆっくりと四十九日の大練忌法事厳修に向けて準備に使うことが出来た。非力ながらせめてボク一人でも怜子さんの仏道修行を引き継いでお助けしよう!

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ナンチャッテ坊主はナンチャッテ住職 

2020/02/05
Wed. 12:17

立春を過ぎて少しは寒さが厳しくなるだろうと覚悟していたら、東の琴引山の向こうからまばゆいほどの朝日が昇って、夜の放射冷却で保賀の谷一面真っ白に張り付いていた霜を一気に溶かし始めた。

昨夜は、飯南高原の地元に残っている同級生が集まって新年会のような飲み会があった。
常々女房殿の下僕で小さくなっているオヤジどもは、普通になんの目的もないまま集まって飲むほどの勇気もなく、いくつかの理由をあれこれと画策してでっち上げて涙ぐましい努力を繰り返しながら集まっている。それで今度は新年会という名目の元、町内のプラント会社で永年勤務の重役U君とMさんが退職したことの祝と、6月に決まっている同窓会の事前打ち合わせというもっともらしい言い訳をつくって親しいところから順を追って連絡網が回ってきた。
三日市にある居酒屋は万善寺からだと下りで徒歩10分、帰りの上りだと徒歩20分の距離にある。数日前まで怜子さんのことで東京のアチコチを延々と歩き続けていた疲労が膝と腰に溜まってしまって寺の用事や吉田家の階段を上り下りしている間にシクシクと痛むものだから片道だけでも楽をしようと酒を飲まない友達へ連絡して迎えに来てもらった。
同級生の何人かは「真面目」を絵に描いたような世話人がいて、時々思い出したように審議事項の議題を持ち出しながら鍋をつつき、酒を飲みつつしているうちに、少しずつ辻褄もあって話もまとまって、それからあとは他愛ない世間話になった。

昨年に我々同窓生の担任だった先生が天寿を全うして大往生された。曹洞宗の隣町のお寺の檀家総代を永年務められた立派な信心者であった。晩年は年中行事の仏事でそのお寺へ随喜のたびに教え子のボクに向かって「ワシが死んだらお経をあげてぇ~よ!頼むけぇ~ねぇ~」が口癖のようになっていた。それで、こちらもその気になって葬儀の時は誠心誠意副導師の職を努めようと思っていたのだが、結局は代替わりされた現住職のお考えもあって、サラリと告別式も過ぎて、万善寺としてはどこかしら消化不良のままに終わった。せめて「四十九日の時にでも改めて・・・」と気持ちを切り替えたのだが御導師さんの方から「四十九日はお参り結構ですから・・」と云われて、それも菩提寺様のご意向とゴクンと飲み込んで全てが終わった。
怜子さんの菩提寺は浄土真宗大谷派になるが、御院家さんの都合で葬儀が日延べ先送りになりかけた。私個人としては「坊主は喪主施主の都合に併せてナンボ・・」と決めているところがあって、仏事と仏事が重なる時でも出来る限り喪主施主さんの意向に添えるよう最善策を考える。先代からの申し送りでもあるが、やはりソレであることが菩提寺住職の務めであると自分では思っている。

この近年、仏事が殺伐として寺務がしだいに事務的になってきたように感じる。
彫刻を造る時は、打算など気にすることのないまま必死でテーマを追いかけながら制作にしがみついているような、そういうある種純粋であることが彫刻家としての務めと思う。
今の万善寺住職は、宗教家の欠片も無いタダの職業坊主として世間の事情に流されながら、気がつけば自分で気づかないうちに打算を追いかけていることが増えていたりする。結局、ナンチャッテ坊主はナンチャッテ住職しかできそうにない・・虚しいなぁ~・・

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冬の東京 

2020/02/04
Tue. 13:59

立春の朝は青空が高くて冷え込んだ。
見上げると、石見銀山の谷のはるか上空には箒でサッと掃いたような筋状の雲が東西に横切っていた。
銀くんの窓ガラスは一面霜が厚く張り付いて真っ白だ。
霜が溶けるまで暖機運転をしながらApple Musicをチェックした。

このところ、ゆっくりと音楽を聴く余裕も時間もないままだったからその間にニューリリースのアルバムが増えていた。
年末から年始にかけて新譜のリリースで賑わっていて、お陰様でお正月の寺の一人暮らしは夜な夜な大音量のエアチェックが続いて全然寂しくなかった。
ホールジーの久しぶりのアルバムは彼女の透き通るような声に惹かれる。もうかれこれ40年も前に買ったDIATONEの古いスピーカーから流れるアコースティックの柔らかな音を聴いていると自然に睡魔がやってきて右半身の痺れもしばし忘れていられる。
メーガン・トレイナーの4〜5年ぶりのアルバムは、ある意味で彼女らしくて、運転のバックミュージックで聞き流すにはいい感じだ。石見銀山の自宅前の駐車場で再生を始めると、だいたいアルバム1枚聴き終わる頃に寺の境内へ到着する。丁度いいタイムキーパーになっていて、今のところ通勤坊主が飽きないでいられる。

怜子さんの急逝で高速バスの移動中には、寝付くまでトルド・グスタフセンの賛美礼拝を繰り返し聴いていた。
具体的な情報がなくて状況がよくわからないまま移動していることのなんともいえないもどかしさというか落ち着かなさというか、そういう感覚は、昔、憲正さんの緊急手術が決まってその連絡を受けて新幹線に飛び乗った時以来のことだ。それでもあの時はまだ生存の予測が可能だったからこの度よりは気持ちに若干の余裕があった。
坊主が賛美礼拝というのもおかしな場違いかもしれないが、歌の意味はわからなくても心が静かでいられるということはいいことだ。
いつの間にか眠っていて、気がつけばあと少しで新宿へ到着の時間だった。

新宿バスタから重たい荷物を引きながら地下通路をJRの南口まで移動して、そこから電車を乗り継いで怜子さんの住む最寄り駅へ降りると、傘が必要なくらいの雨が降っていた。
石見銀山を出発して高速バスへ乗り込むまでは良い天気だったのに・・・とにかく、私が大事なことに関係すると、かなりの確率で雨になる雨男であるようだ。
荷物を引いて抱えて雨に濡れながら青梅街道を渡ってガスタンク脇から石神井川に沿ってしばらく歩いた。見下ろすと水面のあちこちで雨跡の同心円が次々と重なり合って広がっている。久しぶりの石神井川は流れが絶えて澱んだ水溜りにしか見えない。
そういえば、冬の東京は雨も降らなくて毎日肌をさす冷たい風ばかりが強かった。
まだ貧乏学生でワイフと付き合っていた頃、ワイフの実家で数え切れないほどの夕食や朝食を食べさせてもらったし、お風呂に入ることも出来た。
貧乏は今も変わらないが、怜子さんの手料理を味わうことはできなくなった。

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2020-04