工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

年度初め 

2017/04/20
Thu. 23:22

遅咲きの桜もほぼ散った。
1時間半の会議が長く長くとても長く感じて、耐えられる限界に達していたら、町会議員選挙の立候補者が選挙運動に現れたりして、もう我慢も限界。

保賀自治会は、他の2つの自治会と併せて連合自治会のような組織になって行政の下部組織を形成している。
その中で、それぞれの自治会から幾つかの役員を選出して(ほとんど1年交代の輪番制だけど)連合自治会の組織委員になる。
私は、保賀地区上組班長の役があって2年連続で今夜の会議へ出席した。
連合の自治会長さんの上部組織議題の報告会と会計の決算報告と予算案報告程度のことで、長々と会議1時間半は誰がどう考えても長過ぎる。
保賀の自治会からは、総勢7人も役員が出席していた。
20戸を切る保賀地区から、7名もの出席が必要だということがすごい。こんなことをしていたらあと10年も経たない間に保賀地区は一戸一役から一人一役になりそうな勢いだ。行政のトップダウンは、過疎と高齢に喘ぐ田舎暮らしの住民にはあまりにも役が重すぎて動きようもない。

参集の会議メンバーは、会議慣れしている元や現の行政マンだったり、消防団とか◯◯会とか、だいたいが役付の仲良し組だったりして、誰かの一言に誰かが食いついてどうでもいいような質問を投げたり、報告を審議に持ち込んだり、とにかく会議が好きなのか、日常会話の乏しいさびしんぼうか、自宅に帰りたくないヤバイ理由でもあるのか、何時までたっても集会の終わる気配がない。それに、だいたいの歳廻りがそうさせるのか、私の同級生が3人も役付になっていて、そのうち一人は連合自治会長だったりするから逃げようがない。

先日、坊主家業で説教とは程遠い仏教話しをして、その終わりがけに、「方丈さんの話が長すぎるから後が迫っとりますけぇ〜」と、私に聞こえるほどの捨て台詞を吐かれたことを思い出した。
檀家さんの寺参りでそのくらいの仏教認識だから、現代のナンチャッテ坊主としては世間の政治経済社会に対して宗教の価値観を正論でぶちあげても、とても太刀打ち出来ないというか、暖簾に腕押し糠に釘的状態で気力も萎える。
結局自治会の集まりのことなど、出席者のだいたい4分の3程度はその筋のコトが好きな方々なのだと思ってしまう。
いくら持ち回りだとか順番だとか輪番制だとかいっても、役を引き受けるという意思があっての役付は大なり小なりその筋に関わることで自分のステータスを維持する自分に酔っているようなところがあるのかもしれない。
そういう連中にとっては、保賀の上組の班長のような使いっ走りごときでも、役付の一役として意識されているのだろうが、ただの使いっ走りごときがアレコレドウコウ言える立場でもないことは重々承知のはずだ。
田起こしの水田で鳴きあうカエルたちの合唱のほうがずっと耳に心地よく響く。

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彫刻撤収 

2017/04/19
Wed. 04:06

鷲羽山レストハウスから更に登った展望台から彫刻を撤収した。
昨年からほぼ1年間、私の鉄の彫刻を置かせてもらっていた。
瀬戸中央道の大橋が展望できる絶景の場所で、ヤマツツジの濃いピンクと桜の淡いピンクが春の瀬戸内海の日差しを反射してとてもキレイだった。
「桜とツツジが一緒に咲いているのを始めてみました・・ボク」
岡山の赤礬市に暮らす陶芸家が彫刻移動を手伝ってくれながらそう云っていた。
私より少し若いくらいの年齢だと思うから、今年の春の瀬戸内の気候は、まぁ、とても珍しいといえるのかもしれない。
まだ、2回しか春の鷲羽山を見たことのない私の方は、そういう異常な気候のことなど時に気にもしないまま「キレイなことだ!」と単純に納得してしまっていたが、岡山の瀬戸内一帯は、どうやら異常な春であるらしい。

自分の彫刻が、潮風にさらされながら1年間でどのように変化してきたか、それを確認するのも、今回の搬出では重要な狙いであった。トラックに積み込みながらサビの色や粗さをさりげなくチェックしたが、山陰の彫刻より若干黃観がかっているくらいに感じた。
化学者ではないから、成分の化学的変化をどうこうと研究することもないが、それでも自然の環境の変化に自分の彫刻がどのように反応しているのか、そのあたりのことは興味があるし、彫刻素材の経年変化も自分の彫刻の味にしているようなところもあるから、こういう実践的実験が長期に渡って出来る展覧会とかイベントは大歓迎なのだ。

鷲羽山からほど近い児島にある塩田で財を成した旧家の前にも彫刻を置かせてもらったが、こちらは約1ヶ月間だったので、特に大きな変化もなくなかなかいい感じの色合いに落ち着いていた。彫刻を造る時、幾つかのテーマを使い分けている。この彫刻はそのうちの一つで、鷲羽山の彫刻とは制作のコンセプトが違っている。
別に、自分だけのことだからワザワザそういう事情を語る必要も無いことだが、誰かの何かの参考にでもなれば良いかもしれない。

私の造る彫刻のほぼ80%は野外設置を前提としたものだ。
一口に野外と云っても、私の暮らす島根県のような雪が降り積もるところもあれば、このたびの瀬戸内のように雪とは縁がないところもある。潮風のこともあるし、夏の日差しの違いのこともある。雨が多かったり、風当たりが強かったり、とにかく、自然の様々に違う環境にあって、自分の彫刻が周囲の環境と共生しながら美しい造形として存在してくれるということが制作者のつとめであり責任である。
かたっ苦しいことでもあるが、自分にとっては大事なことと思っていて、常々そういうふうに自分の彫刻と付き合うようにしている。
そこで、鷲羽山の彫刻のように移動が難しいものばかりを造っていると、さまざまな環境で実践的実験にストレスがかかりすぎるから、比較的楽に何処へでも移動できるシンプルな造りで持ち運びのし易い「移動式野外彫刻」なるものを用意しておくと都合がいい。
何かそれにふさわしいテーマはないかと考えて、この数年それらしき都合のいい彫刻も造るようにしている。

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思い出した・・ 

2017/04/18
Tue. 10:12

今から1ヶ月ほど前のことになる。
キーポンの卒業式やお彼岸やお檀家さんの四十九日法事などが幾重にも重なって身動きできないほどだった頃、ふとした拍子に、そろそろ私が敬愛していた「安西水丸さんの祥月命日じゃないかなぁ」と思い出すことが何回かあった。
結局は、蝋燭線香を灯すとかお経を読むとかそういうこともなく、普通にあの人の映画の本の事とか、キネマ旬報のイラストのこととか、そういうモノを只々思い出すだけのことで、懐かしむくらいのことなのだが、何かしら忘れられないで自分の記憶の何処かへ張り付いているようなところもある不思議な人だ。
ある意味、自分の父親や母親が死んだ後に、日常の暮らしの積み重ねの過程で突然彼らの記憶が蘇って懐かしがったりする、そういう感じに近いかもしれない。

この数日間は、2tアルミのレンタカーを借りて長距離を移動したり、連日結界君と一緒に石見銀山と飯南高原を往復し続けたりして、書斎にこもったりデスクワークを続けたりすることがなかったから、当然、デスクトップやラップトップに触ることもないし、プチプチとキーボードを叩くこともなかった。
備忘録の方は、宗門の手帳に用事をメモする程度で済ませるし、その日の天候がどうとか、誰に逢ったとか、何に感動したとか、そういうことはどんどん忘れてしまって、改めて思い出そうとしても全く脳味噌が反応しないまま数日前の出来事が空白のまま取り残されていく。

万善寺の鍵を開けて片付かない庫裏の様子が視界にはいると、自分の思考スイッチが「片付けモード」に切り替わって、ひたすらウロウロと動き回っている。
ふと気がつくと、石見銀山の吉田家を出発して万善寺の庫裏の玄関を入ってもう2時間が過ぎている。
今日は、午後から夜にかけて法類寺院の大夜があって、明日は朝から本葬が始まる。
先代の憲正さんが頼りにしていた弟弟子さんの本葬だから大事なおつとめだし、こういうことを日常の慌ただしさに埋没させてはいけない。
どこかで気持ちを切り替えて乱れた習慣を整理しておかないといけないし、もうそろそろ自分の記憶力に自信が持てなくなってきたし、この時を逃すと、またダラダラと目先の用事に流されそうなので、庫裏の中では比較的片付けが進んでいる、3畳の書斎部屋へ半日ほど閉じこもることにした。

境内まで乗り入れた結界君に荷物を積んだままになっていて、その中にMacBookも入っている。3畳の寺務所兼用書斎へ閉じこもるにはそれがないと始まらない。
気がつくと、iPhoneも運転席横へそのまま残っていた。
ルームミラーに写った自分の顔が、やたらとむさ苦しい。
そういえば、しばらくバリカンも当ててないし髭も伸び放題だ。
「このむさ苦しさは何処かで見たような・・・そうだ・・・水丸さんの無精髭だ!」
自分の顔が水丸さんに似ているわけ無いが、しばらくぶりにまた彼を思い出した。
安西水丸さんは、もう3回忌は過ぎたと思う、3月19日が祥月命日だったはずだ。

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雨のあと 

2017/04/14
Fri. 23:47

風邪ごときでいつまでも寝ているわけにいかないから、とにかく朝から起き上がることにした。
これで、もう3日も寝込んだことになる。
ワイフが、婦人会のお弁当作りに出かけるというので、私も思い切って万善寺へ行くことにした。
風邪薬を飲まないといけないから、いつもは食べない朝食をとって薬を飲んだ。
寺までの40分が睡魔との勝負になる。

前夜から雷の鳴る大荒れの空模様で、時折大雨が激しく屋根を叩いていた。朝になって石見銀山の町並みへ出てみると、側溝の水位もそれほど上昇している様子もなく、だいたいいつもと同じような感じだ。
夜中の雰囲気だとかなりの豪雨に感じたのだが、風邪のせいでどこかしら意識が朦朧としていたのかもしれない。
万善寺の境内へ結界君を乗り上げないとゴミなどの荷物を詰めない。
雨の後は、柔らかい真砂土の庭にワダチが残るので嫌なのだが仕方がない。
3日ぶりの万善寺は特に大きな変化もなかった。たたんでおいたブルーシートが風に煽られて何処かへ飛んでいっているかもしれないと心配したが、それもなかった。

飯南高原もやっと春めいて暖かくなってきた。
アチコチで桜が満開になっている。
万善寺の墓地にある桜も満開に咲いている。
3月のお彼岸は雪が多くてお墓まで行けなかったから、長靴に履き替えて登ってみることにした。
お墓への参道脇には杉が植えられている。秋から冬にかけての杉葉が積もっている。私は、この杉葉の積もった坂道を歩くことが好きだ。ちょうどいい加減のクッションになって、長靴がいい感じでやわらかく沈む。
墓石の並ぶ平地も杉葉の絨毯になっている。
今年の冬は何年ぶりかの豪雪になったから、墓地の周囲を囲む雑木も折れ倒れているだろうと覚悟していたら、それほどでもなかった。桜の枯木も心配したが大丈夫だった。梨の木は少し太い枝木が折れて落ちていた。墓石の倒壊もなく、憲正さんの新しい墓も、法事の塔婆も倒れないでいた。
墓の桜は、見上げるほど高いところで満開になっている。周囲の杉に負けないようにセッセと上へ伸びようとするから仕方がない。
風邪で鼻が詰まっているから春の匂いを嗅ぎ分けることが出来なかったのが少し残念だった。それでも柔らかい杉葉の地面を感じられただけでも少し気が晴れた。

1日中、庫裏の片付けをしていたのだが、どうも片付いた気がしない。
「大丈夫、絶対に確実に片付けが進んでいるから!だって、何もしてなかったわけじゃないでしょ!」
帰宅して1日の報告をしたら、ワイフが慰めてくれた。

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ヨレヨレオヤジ 

2017/04/13
Thu. 23:50

風邪をこじらせて絶不調が続いている。
昨日は一日起きあがることが出来なくて、風邪薬を飲むからと、牛乳やヨーグルトを胃に流し込むくらいしかできなかった。
身体中の筋肉が痛くて、オシッコで起き上がるのも一苦労だった。

吉田家の子供達をはじめ、家族はよく風邪をひく。
ワイフは花粉症もあって、この時期絶え間なく鼻を鳴らし咳を繰り返している。
年に数回しか遭わないじゅん君も、そのたびにだいたい風を引いていて、咳をしながらタバコを吸ったりしている。
ノッチもよく風邪をひくらしいが、彼女は扁桃腺が大きくて何かの拍子にすぐ熱を出す。
キーポンは、自分の不注意ですぐに風邪をひく。これから、もう少し大人になれば改善するかもしれない。
なっちゃんは、私とドッコイくらい風邪をひかない人だと思うが、花粉症などの慢性の病気を持っていて、自分ではそれなりに苦労しているようだ。

私は、15歳から結婚するまで一人暮らしを続けていた。
寺で家族と暮らしている時は、なんとなく気持ちが緩んでいるのだろう、よく風邪をひいていたし、腹が痛くなったり便秘が続いたり虫歯がひどくなったりして、町の病院の世話になることが多かった。
一人で暮らすようになって、一番惨めだったのは、やはり病気で寝込んでしまうと誰も世話してくれないということ。
それだけ、母親が甲斐甲斐しく息子の私を看病してくれていたのだろうと、そういう時になって気がついた。
あの頃は、胃腸も丈夫ではなかったから、15歳で下宿暮らしを始めた1年間は、風邪と腹下しと便秘が次々に繰り返されて、とても苦労したことをよく覚えている。
その後、しばらくしたら新しい環境に慣れてソコソコ健康になってきたが、上京して環境が変わるとまた体調不良がぶり返して苦労した。
特に健康オタクでもないが、ソコソコ我慢できるくらいの体調不良は体力の勢いと精神力で乗り切ろうと気持ちを入れ替えて、調子が悪くなる兆候を敏感に感じて予防に神経を使うようになってから少しずつ病気と縁が切れて、あれほど毎日通っていた歯医者さんも、2〜3年に一度くらい虫歯の様子を診てもらうくらいになって、2本ほど抜いて無くなったけどいまだに自前の歯で食事ができている。

朝起きて、腹筋に力を入れたら一気に咳が吹き出して止まらなくなった。
この調子で週末の用事を片付けなければいけないと思うと気が重くなる。
2tアルミのレンタカーを借りて倉敷の児島まで彫刻搬出へ出かける。
児島の主催者との日程調整が上手く噛み合わなくて、結局人手の確保が曖昧なまま見切り発車で出かけることになった。
最悪、すべて一人で彫刻移動をすることになるかもしれないが、今の自分にそれだけの体力が残っているだろうか?

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風邪ひきオヤジ 

2017/04/12
Wed. 23:35

只今、吉田は絶不調であります・・・
何年ぶりかで風邪をこじらせて、寝込んでおります・・・

風邪の全ての症状が、ボクの体力をどんどん奪っている。
デスクワークをしていると、目の前に幕がかかったようになってモヤッとしている。
身体の節々が痛くて、トイレへ立つのもやっとのこと。
咳も止むことがなく、喉は痛いし、数十年ぶりにに腹筋まで痛くなり始めている。
夜は夜で、頭から全身が痛だるい感じで寝返りもし難いし、完全な睡眠不足。
どうせ眠れないし、何かしようとも思うが、その気力も出ない。
そんなわけで、布団にくるまってゴソゴソしているうちに朝になってしまった。
前回は、何時風を引いたか思い出せないほど昔のことだった気がして、自分の過去ブログを検索し始めたのだが、うまく見つけ出せなくて途中であきらめた。

昨日だっか、久しぶりにクロが脱走を成功させた。
世間が少しずつ暖かくなって、クロも野外の開放感を思い出したのだろう、ときおり30分位吉田家のアチコチをフギャフギャ怪しげな甘え声で鳴きながらうろついている。
隙間風の多い吉田家では、外気の冷え込みがそのまま室内へ潜り込んでくるが、まだ寒くて部屋の中で白い息を吐いていた頃のクロは、私やワイフの布団の上に登って、人間の腹や太腿のあたりで丸くなっていた。
最近は、それもなくなって布団へ上がることも拒むくらいだ。
まったく、わがままこの上もないが、そのクロの最近の寝場所は、吉田家2階の私の仮の書斎のゴミ箱の裏へ置きっぱなしにしていたAmazonの空箱になっている。
もっと寝心地の良い場所は他にもいっぱいあるだろうに、わざわざその場所で寝始めてからそろそろ1ヶ月近くになってきた。
Amazonの空箱は、重くて大きなクロの体重につぶされて、猫型に凹んでしまっている。
昼も夜も、だいたいその場所でゴロゴロして身繕いしているか牙と舌先をチラリとのぞかせて爆睡しているかどちらかだ。

クロは、昨夜も同じように同じ場所で寝ていたが、脱走の成功で日頃のストレスが軽減して満足したのか、私が苦しげな咳をしてもだえていても、何時にもましてピクリとも動かないでだらしなく眠りこけていた。
朝方になって、例の吉田家巡回が始まった。
それでなくても体調不良で睡眠不足な私の横を、何度となく鳴きながら往復している。
とても普通に寝ていられる状況でもなくなってオシッコに立った。
節々の痛みに絶えながら階段を一歩ずつ降りかけていると、クロがよりによって私の足元へ絡みついてくる。
1階まであと一歩のところでバランスを崩して大きくふらついた。
どうしたのか?とチラリと振り返って私を見上げたが、ポーカーフェイスの猫顔からは風邪ひきのオヤジを気遣うような心配顔は微塵も感じ取れなかった。
それでも体調不良極まりない私にとってはクロが近くで寝てくれるだけで救いになる。

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それぞれの暮らし 

2017/04/11
Tue. 23:46

キーポンの就職が決まって、卒業式を済ませ1ヶ月のうちに2回の引っ越しも済ませ、本格的な一人暮らしを始めてから、早いもので3週間が過ぎた。
日本全国で就職や進学絡みの引っ越しが集中するこの時期は、都会も田舎も何かと慌ただしい。

島根県の場合は圧倒的に若者の流入より流出が多いだろう。
そんな中、万善寺のある保賀の谷は、広島と兵庫から2人の青年がやってきて住み暮らし始めた。この数年で介護施設入所とか絶縁で空き家が増え、世帯数が減り続けていた保賀地区で、少しほど人口が増加し平均年齢が下がった。

彼らは、先日行われた行政区内一斉清掃の時に地域住民へ紹介され、本格的に年間の地域行事へ参加することになった。そのスタートが国道沿いの一斉清掃だったわけだ。
これから先、グランドゴルフとかソフトボール大会とか、地域のお祭とか、子供会の花火大会とか、そういう福利厚生親睦事業のアレコレに参加してくれと声がかかることになるだろう。
私個人も、まだ転勤族だった頃はこういう「田舎の世間付き合いも大事なことだから」と、自分の本心を飲み込んでスケジュールの許す限り過不足なくお付き合いをさせてもらっていた。その付き合いのサジ加減がなかなか難しくて、引っ越しの度に若干の苦労が絶えなかったが、場数を踏むうちに少しずつ自分の立ち位置を調整できるようになって、ストレスを感じることも無くなった。もともと田舎育ちでもあるし、田舎付き合いの実情を薄々気づいていたから、それも助けになった。
生まれも育ちも東京の都会暮らししか経験のないワイフの方は、私のようには素直に田舎暮らしへ馴染みきれなかったところもあっただろう。それでも、彼女なりの努力で今では私以上に自然に田舎へ溶け込んで暮らしているふうに感じる。

先日、彫刻家の卵になりかけている若い子に木彫の材料を提供した。
もともとストーブの焚付にしようとしていた材料だから、それほどたいした木でもないが、大学を卒業してまだ数年で、業者付き合いも知らなくて材料を仕入れるところから躓いていたらそれだけで制作の意欲も消え失せてしまう。若い時の勢いがあるから出来る彫刻もあるわけだし、まぁ、日常的に暇な部類のオヤジは、「そのくらいのおせっかいをしても良いかな?」と思ったわけだが、そういう行為を思いついて実行するあたりが「田舎的世間付合い」の価値観に通じるようだと気がついて、自分で自分のおせっかいを笑ってしまった。

キーポンの都会暮らしは、ソコソコ気ままに乗り切っているようだ。
都会には田舎のような粘っこい付合いも無いし、若いうちはそれなりの常識を踏み外さない程度に自由な方がいい。
家電や家具も揃わなくて若干不自由であるようだが、それも始めのうちだけのことだ。彼女は、どちらかといえば自分の住処を作り込むほうだから、今は楽しい盛りだろう。
一人飯の写真を送ってくれた。鍋釜冷蔵庫も無い状態でなかなか工夫された夕食だ。

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桜満開 

2017/04/10
Mon. 23:02

「桜って、なにか特別にキレイよね。こんな感じ他にはないよね・・」
銀山街道のすぐ脇にある枝垂れ桜の枯木が満開になった。

私は、毎年その枝垂れ桜の下を何往復も繰り返し走りながら、蕾の頃から満開になってやがて散り終わって葉桜に変わるまで見てきているが、ワイフの方は、この時期に万善寺の用事が重なることもないので、よほど運が良くないと満開の枝垂れ桜を見ることもない。
今年は、3月末から延々と続いている万善寺の家財断捨離に付き合ってくれることが増えて、たまたま桜の満開に遭遇したわけだ。

ワイフと二人の時は、どちらかといえば私のほうが良くしゃべっていると思う。
日常の吉田家では比較的寡黙で無口な方のワイフが、自分の感想を感慨深げに語ることも珍しい。
4人の子供たちが成人して、それぞれ独り立ちして吉田家を離れてから、数十年ぶりに夫婦二人の暮らしが戻ってきた。
結婚して長男のじゅん君が産まれるまでのだいたい3〜4年くらいの若かった頃の二人暮らし以来になる。
それに、先日の私の母親の死亡で嫁の役目も完了して、やっと吉田家コミュニティーのトップに立った。

万善寺の庫裏を片付けていると、憲正さん夫婦の長年の思い出が彼方此方から次々に出てくる。
彼らが結婚した時は、憲正さんの母親が庫裏に同居していただけで、その母親も孫である私の顔を見て10年と経たないうちに他界した。
その後の憲正さん夫婦は、半世紀近くの期間、何から何まで自分たちの思い通りに万善寺を切り盛りして経営することが出来た。
そのことを思うと、我々夫婦はどう頑張ってもせいぜいこれから20年程度しか万善寺の主導を得ることが無い。
住職とその妻の立場で我々に出来ることというと、先代までの過去に溜まり積もった数々のムダを整理して、スッキリとシンプルな状態に整えるくらいしか用がない。
今は特にこれと言って自分たちの名が残るような寺の経営企画など思いつくことも無いし、かといって漫然として仏事を流す程度では生きていけないし、なかなか難しい。

やっと夫婦の二人暮らしが戻ってきたというのに、こういう状態だから先々思い悩むことが尽きない。
甲斐性のないオヤジは、自分のやりたいことばかり優先して、とにかくワイフに苦労ばかりかけている。
一度しかない人生だから、後悔しない毎日を丁寧に積み重ねようと思うようになってきた。
そろそろ、目先の具体なものに思い出を託して溜め込むばかりのチープな暮らしからオサラバする時期でもあるのだろう。

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正純和尚の1日 

2017/04/10
Mon. 06:28

智光正純和尚法事ライブ1日2回公演でダウンの巻・・・
いやぁ〜〜、とにかくハードだった。
前日から万善寺入りして、本堂を法事用に荘厳し、墨を摺って塔婆を2枚書いて、経本など準備した。

1つめの午前中からの法事は、施主家へ訪問。
お参りのご親族もだいたい10人までだろうと予測して檀信徒用の経本を用意しておいたら、なんと15人近くお集まりで、賑やかな法事になった。
施主さんの奥さんが亡くなって1周忌だからということで、参列も増えたのだろう。
年齢層も高齢で、お経が終わってお墓参りをして帰ってみると、昔ながらに手づくりの赤飯とか旬の煮しめが、折膳と一緒にテーブルへビッシリと並べられていた。

万善寺では、法事を前半と後半の2回に分ける。
前半は30分位で、間に、衣を着替えたりする時間を用意して、後半は幾つかの回向を集めると40分位かかる。ここまでで普通に1時間半はかかるが、それにお墓参りをしてお斎の膳を含めると約3時間の法事になる。
施主家へ訪問しての法事はスタートの30分前にはお仏壇の前で荘厳を整えたり改良衣を着替えたりするから、半日仕事と云っていい。
普段は寡黙に暮らす私にとって、鐘や木魚を叩きながら1時間以上もお経を読むことはかなりハードだ。

2つめの法事は午後の2時から万善寺の本堂で始まる。
法事が終わって始まった斎膳の席を中座して、急いで寺へ帰ってお参りの皆さん用にお茶の準備をして位牌堂の荘厳を整えた。
こちらも1周忌法事で、ご親族が集まりやすい時期を調整して納骨と墓石建立を併せて計画された。その関係か遠方からのご親族も参集され、こちらも賑やかな法事になった。墓参を済ませ全てのお経や回向が終わって寺へ帰ったのが夕方の5時前。それから斎膳が用意された保養施設の会場へ向かった。
其処には沸かし湯もあって、宿泊の他に、近所の皆さんが湯入りしたり休憩がてら簡単な食事をしたり出来るようにもなっている。5時からの斎膳は、いわば夕食を兼ねたものになって、坊主の中座の後は2次会も兼ねてカラオケでも始まるのかも知れない。

母親の葬儀で参列してくれたじゅん君が風邪を持って帰って、それをワイフへ移した。そのワイフが鼻水を垂らしながらコツコツと咳を繰り返す間に、どうやら私も風邪をもらったらしい。普段なら、その程度では私にまで風邪が移ることもないのだが、この度は感染してしまったようだ。どこかしら身体が弱っているのだろう。2つの法事が終わって万善寺を片付けて石見銀山へ帰宅すると、咳が我慢できなくなってきた。
ワイフと2人で遅めの夕食を終わったら、一気に1日の疲れが出たようで、夜のメールチェックを始めたはずなのにそのことも記憶にないほどいつの間にか寝てしまっていた。

下手な若い鶯の鳴き声で目覚めると、外はすでに明るくなっていた。

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さくらさく 

2017/04/08
Sat. 23:04

1日中吉田家の書斎へ閉じこもってデスクワークをした。
書斎は、現在2階の町並みに面したひと部屋へ移動している。
もともとはじゅん君が一人で使っていた部屋だったのを、キーポンが引き継いで高校を卒業するまで勉強部屋にしていた・・・はずだが、本来の目的で使われていたことはほとんどなくて、小学校から中学高校を卒業するまで日常のだいたいを私の四畳半の書斎で過ごしていた。
その四畳半の書斎は私の寝室も兼ねている。
どうも落ち着かないから寝るときくらい一人になりたいと、ほとんど使っていないキーポンの部屋へ移動して長い間家庭内別居をしていたワイフを説得して四畳半へ呼び戻していたのに、先頃、倉吉で学生生活をしていたキーポンがめでたく卒業して吉田家へ引き上げると、またその狭い四畳半へ転がり込んできた。
どう考えても、家族三人の居場所として四畳半は狭すぎる。その上、四六時中ネコチャンズもウロウロするし、あまりにも劣悪な環境でデスクワークも思うようにはかどらないから、結局巡り巡って私が2階へ避難することにした。

吉田家の2階にはクローゼットを兼ねたもうひと部屋があって、ノッチが中学を卒業するまで使っていた。
今は完全に物置部屋になっていて、時々私の大衣をたたむくらいにしか使っていない。
書斎移動のドタバタが少し落ち着いた先月の終わり頃、就職の決まったキーポンの引っ越し整理と、ノッチの何度目かの転職就活で必要な過去の資料を探すことが重なって、久しぶりに2階の二部屋が活性した。

ノッチは、吉田家の家庭事情で中学校を卒業と同時に東京の高校へ入学した。
2年生になる前に留学の資料を自分で揃えて親を説得して、高校へ通いながら数カ月の研修を続けて、7月にアメリカへ留学して、1年間をケンタッキーのルイビルで過ごした。
周囲に日本人がいなかったことが幸いして結構英語が喋れるようになったようだし、アメリカの高校で勉強した教科の単位読み替えも上手くいって、帰国してから学年をダブること無く3年間で高校を卒業出来た。大学も自分で決めて受験をしつつ親を説得した。
とにかくノッチは頑固に自力ですべてを決めて乗り切るものだから、親として口を挟むスキもないまま彼女主動でコトが進んだ。
卒業後も特にアクセク就活に励むでもなく、フラフラとフリーター暮らしを続けながら資金を貯めて、上手に彼女の人脈をタグってシンガポールへ渡航し、上司のパワハラに絶えつつ2年近く勤め上げ帰国して今に至っていたはずだったのだが・・・何処からか、アメリカ企業の1年契約求人募集を見つけ出して何度目かの就活に入った・・・ということは聞いていたが、何回かの面接試験をクリアーしてひとまず「補欠採用」というところまでこぎつけたことを聞いたのがつい先日のこと。

夕方までデスクワークをして、ワイフと一緒に万善寺へ移動した。
断捨離の最中にワイフがなにやら大声で話している。
会話の相手はノッチ・・・補欠採用が正採用になって渡米決定!・・あいつは凄い娘だ。

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石見銀山の朝 

2017/04/07
Fri. 21:51

生来の怠け者だから何かしなければいけない事を始めるまで、なかなか心身のエンジンがかからない。
暖気運転で少しずつやる気を引き出して目先のアレコレに取り掛かるのだが、やっといい感じで仕事が回転し始める頃に限って電話がかかってきたり認印の必要な郵便物が配達されたり集金の誰かがやってきたり、その上、自由気ままで身勝手なクロがチョッカイを出してきたり人見知りのシロが珍しく擦り寄ってきたりと、とにかく自分の周辺が落ち着かないまま1日が過ぎる。

母親の葬儀から1週間が過ぎた。
その間、毎日があまりにも早くに過ぎて消えてしまうから、自分の仕事や用事がどんどん後に回ってしまう。大なり小なり肉親の死に別れが精神のダメージを誘うものだと気持ちでは解っているつもりだが、自分の現実となると日々感傷に浸って鬱々としている暇もないほど眼前の客観的事実に責められる。
やはり、世間の他人はそういうもので、他人(ひと)の都合より自分の都合を優先する。

寺での法事が迫っているから、とにかくそれまでに見た目だけでも小奇麗にして平静を取り繕っておかないといけないし、毎日朝から夕方まで食事も忘れて立ち働いていたら、調子の悪い膝がみるみる動かなくなって、階段の昇り降りで膝を曲げる度に激痛が走るようになってきた。
早めに仏壇用の位牌を作っておかないと四十九日に間に合わないから、約45分かけて仏具屋さんまで走った。
「この度は突然のことで・・・」などと形ばかりのお悔やみを頂いた後早速位牌作成の商談に入った。
事務的に粛々と進む会話がとにかく空虚だ。

仏教では四苦八苦の教えがある。
この度の、母親との別れはそれの一つ「愛別離苦」に該当すると云っていいだろう。
これも、自分の人生で避けて通ることの出来ない当然の根本だということは商売柄十分承知していることだが、それが我が身のこととなるとやはりどこかしら気にかかることもあって、素直にゴクリと飲み込むことも難しいところがある。
見た目にはクールに平静を装っていても内心は結構深刻なダメージを受けていたりする。
こういう時になると「自分の人生は、果たして幸せなのだろうか?」などとふと考え始めたりする。
それこそそのことでとろけた脳みそが飽和状態になって大事な仕事の思考システムが断続的にフリーズして何度となく再起動して気持ちを切り替えたりする。

自分の事情は抜きにして、毎日世間は世間の事情で絶え間なく動き続けている。
一方で、とても辛くて心の支えがポキリと折れてしまいそうなときもあるが、とにかく踏ん張るしか無い。
石見銀山の朝は、いやに生暖かくて霧に包まれていた。

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住職の居場所 

2017/04/06
Thu. 23:57

92歳で死んだ母親の葬儀が終わって1週間が過ぎた。
その間、幾つかの法事などを片付けながら万善寺の庫裏を中心に積年溜まり続けた過去をアレコレ断舎離し続けた。まだまだ始まったばかりで何時になったら終わるのか何時になったら片付くのか、まったく予想できない状態である。

もともと、彼女の夫であり私の父であり先代住職であった憲正さんは、自分の私物や仏具などの身の回りのものを人目に触れないようにきちんと整理して仕舞い込むタイプの人だった。その憲正さんの妻であり私の母であった俊江さんは、私からすると病的とも思えるほどモノを大事にして最後の最後まで使い続け、その用途が耐えると色々工夫して他の何かに改変してまた使い続けるといったタイプの人だった。
この二人が結婚してどちらかが先に死ぬまで連れ添って暮らしていたわけだ。
若い頃は身体も動くし、古くなってゴミになったりしたものを焼却したり廃棄したりしてなんとか身の回りを整理しながら暮らしていたが、年齢が増すとともにそれも難しくなり、その上行政指導の厳しいゴミ処理ルールが常識化すると、二人共とたんに生活思考の何処かがショートし始めて断捨離できなくなって、何もかも溜め込むばかりになってしまった。どちらかといえば小さくて狭い極小規模の末寺は、収納という収納へはどこもかしこも目いっぱいにいろいろなものが詰め込まれて、そこから溢れ出たゴミ同然のモノが庫裏の外の軒先まで溜まり続けるまでになっていた。

憲正さんが死んだとき、主を失って行き場の無くなった憲正さんの周囲の幾つかを整理してゴミ処理場へ持っていったことがある。
どう見ても使いみちもなくてゴミにしか見えないものを集めて処分したつもりだったのだが、その中に母親が大事に使っていたモノが幾つかあったようで、その後しばらくのあいだ私を見ると呪文や陀羅尼のように大事なモノを捨てられたと言われ続けた。憲正さんの葬儀に至っては、本堂の片付けで檀家さんが捨ててしまったものにまで恨み節が及んで、「もう、これは彼女の目の黒いうちは見て見ぬふりで当たらず触らず付き合うしか無いな!」と、それからあと私は、目も耳も口も、それに心も閉ざして庫裏を母親に渡した。

それから約2年の間、万善寺の庫裏に掃除を入れたのは寺の仏事と憲正さんの1周忌法要の時だけだった。
母親が死んでこの1週間を掃除や片づけに費やしている息子を見ると、親の思い出を次々に捨てる「まことに薄情な息子だ!」と思われているかもしれないが、万善寺のような小さな寺は、本堂は仏事の式場で、庫裏は式典参加者の待合室で方丈さん方の控え室であり、台所は飲食配膳の厨房となり、隅から隅まで公の場として機能することになるのだ。
そういう時は、住職の居場所も含め寺暮らしの全てを仏事に提供出来るということが、庫裏に暮らす者の生活のルールになって、そこに個人のプライベートは無い。

憲正さんが仕舞い込むタイプの人であったことは坊主として理に適った行為であったわけだ。私には、現住職として少しでも早く万善寺の庫裏を公的使用が可能な本来の施設に戻す役目がある。

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癒やしのクロ 

2017/04/05
Wed. 23:01

結界君が大活躍で、毎日ゴミ処理場へ2〜3往復している。
老夫婦の積年の思い出なのだったのか、とにかくモノが捨てられないまま、寺の本堂や庫裏のアチコチにしまい込まれていて、片付けの終わりがない。

引き物とか大皿とか中元歳暮とかの包装紙。
出先でもらった紙の手提げ袋。
仏具屋さんのカタログ。
日本全国の温泉や宿泊施設のタオルや手ぬぐい。
それに大小の空き箱。
全てがキチンと整理されてしまい込まれてある・・・が、これらは、どう考えても燃えるゴミにするしかしょうがない・・と、思ってしまうのは私だけだろうか?

とにかく、すぐ目の前の目につく物から燃えるゴミを選別してひたすらビニール袋へ詰め込んで、結界君のリヤデッキに載せる。
袋にするとだいたい無理をして10袋くらいを詰み込んでロープでギリギリと縛り上げる。
1回の持ち込みで215円から310円を払い続けているが、そのゴミ処理場と寺を往復しているあいだに燃料が底をついてきたので、最後の往復が終わって燃料ゲージの点滅を見ながらいつもの安いスタンドを目指した。
セルフで給油が満タンになると5100円。
最近は、何をするにもお金が絡む。

4月に入って新年度になって早々からこんなことをしていて良いのだろうかと、ふと思ったりもしたが、こればかりは業者に任せるのもしのびない。90年の人生全てを万善寺へ捧げた先代と、結婚で嫁入してから70年の思い出が詰め込まれた嫁入り道具の数々は、やはり血の繋がった身内の手で整理するのも大事な供養になるはずだ。
私の様子を見かねてなのか、ワイフが1日万善寺へ付き合ってくれた。
彼女へは、寺の食器や台所用品を中心に整理してもらうことにした。
これも、寺のアチコチへしまい込まれていて、それを一つに集めるだけで半日かかった。
晩年は老夫婦の二人暮らしだったし、年に数回の仏事でお参りの檀家さんもせいぜい20人程度だから、おもてなしの食器類もそのくらいの人数がまかなえたら十分だ。

本日の最後はダンボールの整理。
例のごとく、結界君のリヤデッキへ積み込むのだが、結局1回では全てが乗り切らなかった。石見銀山の近所にあるゴミ処理業者さんへ持ち込んだら、ひと山160円で引き取ってくれた。それでも、煙になって消えてなくなるより少しでも再生紙で利用されて資源の無駄にならなければそのほうが良いだろうと、自分を慰めた。

1日中手伝ってくれたワイフは、夕方から婦人会の集会へ出かけた。
疲れたオヤジにクロがさり気なく寄り添ってくれた・・・やたら重くて息苦しいけど・・

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ブッチャケ話し 

2017/04/04
Tue. 23:40

キーポンの国民年金未払いで督促状が来たのは3月の頃だった。
気にはなっていたが、そのままにしておいた結果の督促だ。
この国民年金なるもののシステムが具体的にあまり良く頭に入ってこないから、数年前の自分の時もギリギリになって出雲の年金機構の窓口へ直接出向いて職員の説明を聴きながらイマイチ納得も理解も出来ないまま必要な書類を記入したりした記憶がある。

11月の誕生日でめでたく20歳になったキーポンは、その時から年金の支払い義務が生じて、必要な手続きもしないまま5ヶ月未納分が自動的に溜まって5〜6万円くらいになっているようだった。
そもそも、キーポン本人が年金をもらえる年齢になった時に、今の年金システムがそのまま彼女に適応されるかそれ自体が曖昧なものだと思うから、職員に私の気持ちをブッチャケダイレクトに伝えた。
「20歳になってから5ヶ月分が溜まっているようですが、未納のままにしておいても、結局はその未納分が差し引かれるだけのことでしょう?」
「それはそれは、ご成人おめでとうございます!」
「4月から就職も決まって、その後は厚生年金で処理されるはずですから、結局それも自分のことだし5ヶ月分くらいはそのままにしておいても問題ないでしょう。年金をもらえるようになって、国民年金だぁ厚生年金だぁ申請の書類が増えて面倒になるだけで、自分の時も結構それで大事な時間つぶしましたからね」
「それはそれは、ご就職おめでとうございます!」
・・・まったく、食えないオヤジだ・・・

そんなわけで、学歴証明書なるものを提出しておけば、それで未払いを書面上正当化して証拠資料の保存ということで黙認してあげよう・・という、都合のいいシステムが出来上がっているようだ。
内心、「やっぱりこういう手があったか・・」と納得しつつ、督促状の過激な脅し文句につられて慌てる20歳とその親が全国にどれだけいるのだろうと、ムカツキつつ、満面の笑顔をキッチリ造って「どうもありがとうございましたァ〜、やっぱり、こういうことは窓口で相談するのが一番ですねェ〜、とても助かりましたァ〜」と、丁寧な礼を言ったら、その窓口オヤジは気まずそうに苦笑いを返した。
貯蓄型の保険でもかけておいたほうが変な年金よりずっと安心できると思うんだけどね。

吉田家の夕食は、新鮮な野菜のアレコレとオカラと一人前の砂肝アヒージョ。それにボクの好きなアジのタタキ。
午前中はお経を読みっぱなしだったし、午後は年金オヤジと腹の探り合いだったし、万善寺のゴミ出しもして、吉田家のピアノ搬出もあって、気がつけば朝飯も昼飯も抜きでドタバタしていたから、いつも以上に美味しく感じた夕食だった。
麦とホップがどんどん空いた。昨年末に頂いた日本酒も少し飲んだ。
久しぶりのストーブで心底温まった。
明日は母親の2回目の七日が巡ってくる。さて、導師の方丈さん来てくれるかな??

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ゴミの山 

2017/04/03
Mon. 22:32

気がつくとこの6日間自分の耳に音符のある音が全く入っていない。
「こういうこともあるのだなぁ」と気がついたことに、自分で驚いている。

ワイフは、母親の葬式が終わって、そのまま石見銀山の吉田家へ帰った。
私の方は、母親の白木位牌を守りながら寺暮らしを続けつつ、すでに決まっている法事や七日務めを続けている。
朝のおつとめを終わってから、落ち着く間もなく庫裏の整理をしている。
古いものは明治の頃からの什器や衣類や寝具などがアチコチへしまいこんであって、普通なら手のつけようもないくらい複雑に絡み合っている。
今更ながら、前住職夫婦の物持ちの良さには呆れるほど感心する。

お葬式前の片付けで、目につく目先のモノを片端からゴミにしていたら、人の動線にゴミ袋の山が出来てしまって収集がつかなくなった。
檀家に振ってもワイフに振っても地域のお手伝いへ振っても、だいたいみんな自分のことが優先で、「ハイハイ」と気軽にゴミの始末を引き受けることもないだろうと、はじめから水を向けてお願いすることもしないまま、それでも一番頼みやすいワイフへだけは万善寺の仮のゴミ置き場を指示しておいた。
今日になって少し余裕ができたから、押し込んでおいたゴミの山からひとまず燃えるゴミを集めて町内のゴミ処理場へ持っていった。行政区域が変わると微妙に分別内容も変わってくるから、まずはそのノウハウをチェックしておいたほうが無駄がないだろうと思ったからだ。処理場の受付のご婦人が丁寧に分別システムを伝授してくれた。案の定、寺のゴミの山はとてもいい加減なまま袋へ詰め込んでしまっていた。

もう、かれこれ20年位前のことになる。
まだ憲正さんがそれなりに元気に歩いて、寺の参道を自力で登り下りしていた頃、保賀の集落のほぼ中所にあるゴミ集配所まで1輪車へ山のように寺のゴミを積んでヨチヨチと運んでいたことを思い出す。その後、次第に体力も衰えて集配所までの往復が出来なくなってからは、寺の庫裏のアチコチへゴミを押し込みつつ、一方で燃えるモノはことごとく畑の炭へ持っていって焼却するようになった。

寺の風呂は、葬式の手伝いを兼ねてノッチがセッセと片付けてくれた。それでもたった1日にもならないくらいで全てキレイに片付くわけもなく、掃除が途中のまま東京へ帰っていった。現在は、その状態が手付かずのままだから、ゴミ捨て場経由で石見銀山の吉田家へ向かった。
シャワーを浴びて髭をそった。久しぶりにさっぱりした。
夜になるとまだまだ冷え込むから、薪ストーブがいい働きをしてくれる。
1日中何処かでゴロゴロと寝てばかりいるネコチャンズが、何処からかストーブ周辺へやってくる。あいつらは、人間を上手に使う。ストーブごときで猫に愚痴を言ってもしょうがないが、せめて傷心過労のオヤジに「たまには抱かれてやろうか」くらいの気配りもほしいな。

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お葬式のあとさき 

2017/04/02
Sun. 18:29

母親の骨壷を床の間の観音様の横へ安座した。

その場所は、母が死ぬまで先代の憲正さんの遺影が置かれていて、その前にはお供え物や香炉や花器があって、ちょっとした祭壇のようになっていた。
全ては母親の仕業で、まだ元気なうちは毎日朝晩その遺影へお参りをしていた。
もう1周忌も過ぎて、そろそろ3回忌も来る頃になっても、母親はひたすら憲正さんの写真へ手を合わせていたことになる。
本堂の歴代住職位牌堂へ安座されている憲正さんは、さぞかし寂しい思いをしていたことだろう。

今は、憲正さんの写真に移動してもらって、その場所へ母親入れ代わった。
出来たらこの状態で1周忌までお参り出来ると良いと思っているが、これから1年の間にはいろいろな万善寺の仏事もあるし、49日あたりで納骨することになるかもしれない。
いずれにしても、少ない吉田家の家族と親戚がどれだけ法事へ参集してくれるかわからないから、あまりに寂しい法事になるようだったら、もう少し先まで納骨を引き伸ばすことにもなりそうだ。

ワイフは、お葬式が終わってから子どもたちを最寄りの駅まで送って、その足で石見銀山の吉田家へ帰宅した。
万善寺のある保賀の自治会は、町内のお葬式を手伝うことをJA葬祭へ任せるこちになってからすでに5年は過ぎているはずだ。各家の高齢化が加速して、町内住民だけでお葬式を引き受けることが難しくなってきたからだ。
そのことで、負担が増大したのは喪主とその家族になった。
参集の親族の三度のご飯も、弔問客の接待も、導師の方丈さんのお茶方まで全て喪主家が引き受けることになる。
万善寺というより、吉田家の家族は、私達夫婦と4人の子供の6人家族だから、その数でこれらの全てを遺漏ないように取り仕切ろうと思っただけで目眩がする。
それに、檀家さんが絡んだりすると、もうワイフなどはいつ倒れてもおかしくないほどの心身の疲労を溜めながら立ち働くことになる。
それが、3〜4日続いて、最後は子どもたちの見送りまですることになったわけだから、今日あたりは疲労の度合いもピークに達していて、心配の電話をしたらトロケきった声が電話口から返ってきた。

お葬式の裏で留守になった石見銀山の吉田家では、クロが見事に脱走を成功させていた。
帰宅したワイフの報告によると、ほぼ1日中、人間が留守にした吉田家の玄関から自由に出入りして町内の散歩を楽しんでいたらしい。

ネコチャンズも気になるが、疲れきったワイフの声も気になる。
母親は、もう飯も食うこともなく骨壷に収まっているから、今夜はこれからワイフの様子を見に行ってやろうと思う。

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母死す 

2017/04/01
Sat. 23:37

坊主をやっていると人の死について普通に冷静で客観的で感情の揺れが鈍くなってしまうようなところがある。
それでも、小さな子どもの死とかまだ働き盛りの若い人の死とか突然の事故死とか、そういう時の葬儀はなんともやるせなくてつらいもので、とにかく、最初から最後までキチンと自分が納得できるほどの強い意志を持って見送ることをしなければいけないと自覚しているつもりでもいる。

高齢者の死は、どこかしら当然のように避けることの出来ない死期がやってきて、或る日予告なしにそういう時がきても、親族をはじめ周囲の人々は九分九厘納得して粛々と見送ることもできるほどに心の余裕があったりする。
これがやはり人生のもっとも幸せで目出度い死といえるのかもしれない。
我が身のすぐ近くでそういうことがあると、多少の心の動揺はあるものの、やはりどこかしら死というものに平常心を持って付き合うことができやすいものだと思うこともあって、見送る方も心安らかであったりする。

3月のお彼岸を過ぎて彼岸あけを待ったように、私の母親が92歳で死んだ。
普通だったら何の問題もなく大往生で、ある意味目出度い部類の死を迎えたと云うべきだろうが、私と私の母の間にある「死」という事実には、いまひとつ納得できないわだかまりが残ったし、どこかしら自分の自分に対する負い目を意識せざるを得ないものになってしまった。
これからの私には、その一点が心のわだかまりとなって生涯ついてまわることであると自覚している。
そのわだかまりとは母を「孤独死」させてしまったということ。
誰にも看取られること無く一人で死んでいった母は随分と寂しい思いをしたことだろう。
常に頑固でプライドの高い人であった母ではあるが、何事にも強い人であったわけではない。
どちらかといえば、甘えん坊で寂しがり屋で、臆病者であったようにも思う。
そういう母が、息子の私に対してはとにかく素直になれない自分がいて、どうしてもどこかしら自分に正直でいられないところもあって、常にそのジレンマに苦しみながら息子の私と接していたような気がした。
そうであるなら、母は最後まで自分の意思を貫いて死んでいったとも言えるかもしれない。
つまり、私はこれから死ぬまで母を越えることが出来ないまま生き続けなければいけないということである。
そういう死に方をした母は、やはりとても強い人であったということである。
軟弱でワガママでナマケモノの私など、母の足元にも及ばないほどのケチなオヤジであるということ。

葬儀から初七日の法事は、3月の年度末から4月の年度スタートをまたがった。

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♫Can't help falling in love with you♫♫♫ 

2017/03/29
Wed. 15:31

月額1000円弱で、世界の音楽聴き放題!・・・というのは、高校生の頃からのエア・チェック派としてはヨダレが出るほど美味しいサービスだ。
延々とこもりっぱなしでデスクワークをしている時など、時々の気持ちの振り幅で聴きたい楽曲選り取り見取りというのがとてもありがたい。

特別本気になってマニアックに何かとか誰かとかを追いかけているわけでもないが、気になる曲が巡ってくると、フッと我に返って集中していたデスクワークが一瞬で遠ざかっていく。
かえって、そのくらいの方が自分のミスに気づいたり、物事の整合性がチェックできたりして、随分助かっていることも多い。
その、気になる曲が流れている間は、固まった身体をほぐしたり、冷え切ったコーヒーをすすったりして小休止する。
年中こういうことを繰り返しているわけでもないが、この度のように、なにかの申請書や報告書を作成したり、つい数週間前のように確定申告をしていたりする時は、まぁ、似たり寄ったり音楽漬けの暮らしが続いている。

先日も、2晩くらい使って約1時間位のキース・ジャレット絡みのオリジナルジャズアルバムをプレイリストに仕立てた。
キース・ジャレットは、クラシックのアルバムも幾つかリリースしているから、今度ヒマができたらそちらもチェックしてみようと、今のところそう思っているが、時間が経てば日常の慌ただしさに紛れてそのうちそんなことも忘れてしまうのだろう。

そんなわけで、今少し気になっているのは・・・
たとえば、ショーン・メンデス。彼はキーポンも気に入っているようで、何かの用事で移動している時にしばらく一緒に聴いていた。
その少し前(といっても、もう1年くらい前からだと思うが・・)は、チャーリー・プース。比較的飽きもこないし、かるく聞き流せるので、少し間を置いては何度も繰り返しながらアルバムを聴いている。彼はノッチも好きなようで、彼女もアルバムをiPhoneへしまっているらしい。次のアルバムが楽しみだ・・が、コケなければいいけどなぁ〜・・
それこそ、1ヶ月ほど前の確定申告の最中に再発見したのがピンク。彼女の楽曲はやたらとCoverされていて、ひところはそちらのイロイロなアレンジで聴くほうが多かったが、改めてオリジナルのアルバムを何枚か聴いてみると、これが最近のオヤジにハマった。
変わったところで云うと(・・というと叱られそうだけど)Kiiara。EP1枚聴くと、もういいかと思ってしまうところもあるが、なんとなくキャッチーなところがあって耳につくので、時々思い出したように聴き返している。
Kina Grannisはネイティブかアジア圏の血が入っているような気もするキレイなオネイサンで、YouTubeで見つけた。あの、エルビス・プレスリーのCoverでCan't help falling in loveがなかなか良い感じで、最近のボクの癒しになっている。
〜・・・♫Can't help falling in love with you♫♫♫・・・〜
結界君を運転しながら、般若心経から引き続いて口ずさんだりしていたりする。

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雨男の運 

2017/03/29
Wed. 12:07

毎週火曜日になると冬に戻ったように寒くなる。
2月の頃からそういう周期が定着したように規則的に繰り返されて、すでに3月も終わろうとしている。

前夜から降り始めた雨は吉田家の薄いトタン屋根を嫌というほど激しく叩き続けていたが、それが早朝まで続いて、それで、またその火曜日がやたらと冷たい雨になった。
飯南高原では、その冷たい雨に氷の小粒まで混じっていた。

もう1ヶ月以上続いている七日務めがまた巡ってきて、1周間がアッという間に過ぎる。
先週末から、報告書の最後の追い込みに入って、雨音を聴きつつ一気にそれを仕上げた。
インターネットラジオからは、(たぶん??)カル・ジェイダーの軽めのラテン系ビブラフォンが流れているが、雨音がうるさくて聴き取りにくい。
ビブラフォンというと、ミルト・ジャクソンが好きでMJQをよく聞いていたから、その演奏は「彼でないことは確かだ!」と確信した。

1日のスケジュールに、報告書の提出も繰り入れて、午後から松江の県庁へ回ることにした。万善寺の近所を2軒ほど回って、それから松江へ向かおうと思っていたが、出かける前にそれでもと思って「今日のスケジュールは?」とワイフに聞くと、
「別に・・午前中の予定も無くなったし、何もないよ」
「たまには、松江に行かない?あのコロッケもしばらく食べていないし・・」
「わかった。じゃぁ、昼過ぎ出発ね♡!」
何時になくあっさり決まったものだから、飯南高原の万善寺業務を早めに切り上げて、石見銀山へ引き返した。
それから、仲良く二人で松江へ向かったのだが・・・その後、思わぬ展開が待っていた。
↓メールからの抜粋です
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さて、報告書の件についてですが・・・
(中略)
諦めきれないで周囲まで捜索範囲を広げて見ました・・・といっても、田舎のことで何もないとことばかりですが・・
それでもと思って、側溝を覗いて移動していると、グリーチングの下で何やら四角い白いものを見つけました。
水量も多いし取り出すのも大変なのでそのまま諦めることにしました。
かなりショックでしたが、ひとまずは見つかったので悪用されなくて助かりました。
そんなわけで・・・またはじめからやり直すことになりました。
(後略)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
上記内容で、経緯をご想像ください・・・
年度末の〆が、次年度に繰り越してしまいそうな状況となった次第・・
最近の雨男は、あまりにも雨にフィットしすぎて「ウン」が流されてしまったようです。

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いつの間にかもう日曜日 

2017/03/26
Sun. 09:03

保賀地区の最終常会が終わったのは夜の9時を過ぎていた。
それから1年間の納会が始まるから、盛り上がれば午前0時を過ぎることになるだろう。
私は、3月の年度末の用事もあるから、常会が落ち着いたところで早退した。

まだ三十五日を過ぎたばかりで、6・7日も来ていないのに49日の法事をした。
施主さんの都合だから仕方のないことだけど、坊主としてはなんとなく収まりの悪い法事に思えて、今ひとつ気持ちが滑ってしまう。

倉敷児島から搬出関係の事務連絡が入った。
引っ越しの時期でトラックレンタルも出来ないし、なかなかスケジュールが決まらない。
児島にはワイフやノリちゃんも彫刻を展示している彫刻の仲間でもあるし自分のことでもあるから、もう少し親身になってスケジュールの調整へ積極的に加わって欲しいが、二人とも他人ごとと決め込んでいるようで話題の一つも返ってこない。
いつものことだから、特に気にもかけないで自分の都合を優先して乗り切っている。
なにごとも、スタートの時点ですでにだいたいのお膳立てが整ったところから自分の都合を振り分けるようなコトを繰り返していると、あとになって苦労するのは結局そういう楽をしている連中だということもそろそろ気がついてほしいものだ。

銀山街道を結界くんで移動している時は、ひたすら運転をしているだけのことだし、脳味噌の方はヒマにしているから、イロイロアレコレ考え事ばかりしている。
それから、法事などの仏事の前は般若心経を繰り返して発声練習をしたりもする。
最近の法事は朝が早くなりつつあって、どうしても声が出にくい。音楽は好きな方だと思っているが、カラオケでガンガン歌うようなタイプでもないし、どちらかといえば日頃は声帯を使うこともなく無口を通してコツコツ彫刻制作に励んでいる部類に属している人間にとっては、約2時間近い法事のお経はとってもとっても疲れてしまうのだ。

移動の途中で思いついて、東京での一人暮らしが本格的にスタートしたキーポンへ電話をしてみた。水は出るけどお湯が出ないと言っているから、きっとガスの元栓が閉まっているのだろうと直ぐに気づいたが、今までの彼女は何事もだいたい前準備が出来てからあとに絡んでくることばかりだったから、そういう単純なことにも気が付かないままでいたのだろう。そのあたりは、何処かの誰かと似たようなものだ。それでも、彼女なりの対応策も考えていて、特に不自由はしていないようだし、まぁ、こうやって少しずつ一人暮らしが普通になって慣れていくのだろう。
なっちゃんは、高校から一人暮らしをはじめて何度も引っ越しを繰り返しているベテランだし、ノッチも高校から親元を離れて暮らしはじめて、海外暮らしも含めてトランクひとつの引っ越しには慣れているし、そういうお姉ちゃんたちが近くで暮らしているから、キーポンはかなりの幸せ者だ。

帰宅して夕食を始めたのは22時を過ぎていた。
ウエブニュースを見ていたはずなのにいつの間にか寝ていて、気がついたら朝になっていた。例のごとくクロに起こされた。

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キーポン一人暮らしスタート 

2017/03/24
Fri. 22:29

ワイフの新しい赤い中古車(名前は知らない)は、なかなかスグレモノだった。
キーポンの引越荷物を一回で全て積み込むことが出来た。
お母さんの収納タップリ新しい赤い中古車。
お父さんの念入りな引越荷物の梱包。
それに、キーポンのプロ並みの確かな積み込み技術。
吉田家3人の華麗なる連携プレーが実に見事だった。

島根の何時も彫刻運搬でお世話になっている運送屋さんへ持ち込みして、キーポンが別便で移動して現場待機。予定の時間ピッタリに引越荷物が到着して、アッという間に荷降ろし完了。
厳重にラップでぐるぐる巻きにした布団などの梱包を解いたりさり気なく整頓したりして、残るはオヤジ手造りのコタツを組み立てるくらい。

お父さんもお母さんも島根での用事があってキーポンの引っ越しに付き合えなかった。
中学校から高校を卒業するまでの6年間を吹奏楽で過ごしたから、年に何度となく楽器の積み込みで引っ越しのような重労働を経験していたことがこういう時に役立ったようだ。
部屋にはエアコンもあるが、ホームセンターの格安電熱器を取り付けたオヤジ制作のコタツの方が若干電気代も安いだろうから、まずは木ねじでコタツを組み立てるところから彼女の一人暮らしがスタートした。
プラスのドライバーが必要で、アチコチ探した挙句、ヨドバシカメラでグッドデザインのドライバーセットを買ったようだ。こういう工具が一組あるだけでも日常の暮らしが随分楽になる。なかなか良い買い物をしたと感心した。
久しぶりにワイフと二人水入らずで夕食をとっていたら、キーポンから絶え間なくLINEの着信があった。その中に、部屋の様子や組立ったコタツの写真が送られてきた。
フローリングを傷つけないように応急処置で鉄製の足に梱包で使ったラップが巻きつけてある。なかなか良い思いつきだ。
吉田家の自宅では、一日中ゴロゴロして何もしなかったナマケモノが、こうして一人になると結構こまめに立ち働いて色々とやりくりしているようだ。

急な仏事が次々と入って、予定の仕事が後回しになって苦労している。それでも、やっと少しばかり先が見えるようになって、来週早々には関係各所へ提出できそうなところまでになった。
今週末には、保賀地区自治会の年度末常会もある。
4月に入ったら、倉敷児島のイベントへ設置してある彫刻を搬出することになる。それが終わったら、万善寺法類の遷化された東堂さんの本葬があって、それから1ヶ月後には、新命住職の晋山式がある。近所の寺では弘法大師の縁日法要で塔婆回向をすることになるし、憲正さんの3回忌もある。アッという間に春が過ぎて梅雨になりそうな勢いだ。
梅雨が終わる頃に長女のなっちゃんの結婚式がある。そろそろ衣装合わせなどしているようだが、和服にドレスに和洋折衷神仏混合なんとも現代日本らしい披露宴になりそうだ。

その頃にはキーポンの一人暮らしも慣れて落ち着いていることだろう。

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石見銀山小春日和 

2017/03/22
Wed. 19:33

昨日は冬が戻ってきたような寒い1日で、晩酌も日本酒の熱燗にしたくらいだ。
冷え込んで寒いからシッカリとシュラフにくるまって寝ていたらどうも寝苦しくて目が覚めると、石見銀山の町並みはすでにほんのり明るくなり始めていた。
気がつくと、クロが私の足元で丸くなって寝ている。寝苦しさの原因がわかった。

銀山街道はいつも以上に朝もやが濃い。
多分、この様子だと今日は暖かく春らしい1日になるだろうと予測しながら結界君を走らせた。
2月のはじめから続いていた七日務めがやっと大練忌(49日)を向かえる。
すでに法事の方は少し前の親族が集まりやすい頃合いを日程に組んで終了している。それでも、正規な満中陰は、それはそれで大事な意味もあるし、施主さんの都合に不具合がなければ菩提寺として区切りのお経をあげさせてもらうことにしている。
お経が終わってから、お仏壇の荘厳を整えて、香華灯明などの配置や湯茶仏飯などのお供えのことなど、ひと通りお話をさせてもらった。

「お昼は何時くらいになるの?」
珍しく自宅を出る時ワイフが聞いてきたから何事かと思っていたら、夕方出発の高速バスでキーポンが上京するのだという。アパートも決まって、これから引っ越しや職場の社員研修の日程のこともあって、本格的にキーポンの一人暮らしがスタートする。
これで吉田家の子供たちが全て社会人になった。
出発前のお昼ごはんは何が食べたいかと聞いたら、「お母さんのつくったハンバーグ!」ということになって、家族水入らずの昼食にするために私の帰宅時間が気になったようだ。
あいかわらず、ワイフのハンバーグは絶品だった。何処かのファミリーレストランよりズッと美味しい。調子に乗って2個も食べてしまった。

駐車場でレシート太りした財布からお札を2枚引き出して手渡した。
多分、上の子供たちにはそんなこともしなかったはずだ。やはり、なんだかんだ云っても末娘は可愛いものだ。もちろん、他の子供たちもそれぞれ可愛いのだが、オヤジもそれなりに歳をとってジジイになったということなのかもしれない。

母娘を見送ってから、クロと一緒にしばらくストーブに暖まってボォ〜っと過ごした。それから、気持ちを切り替えてコタツ兼用のデスクとその周辺(つまりコタツの周囲)へ書類を広げた。それからキース・ジャレットのマイ・アルバムをシャッフル再生した。そのリストにはワイフの彫刻タイトルになっている「Birth」も入れている。
ゆったりしたバラードが心地よい。
ワイフは日常であまり音楽を聴かない。テレビが大好きで目覚めると直ぐにテレビのスイッチを入れる。彫刻の制作中もテレビがつきっぱなしだったりしている。結局耳にも目にも入っていないのだろうから、どうせだったらイメージの膨らむ音楽でも流しながら制作したほうが彫刻のレベルアップになる気がするんだけどなぁ・・

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オヤジ道中記〜ラムの焼肉〜 

2017/03/21
Tue. 15:45

最近数回続けて同じ夢を観た。
だいたいの夢は、目覚めて気がつくといくら思い出そうと頑張っても、その内容のカケラも思い浮かばないほど忘れてしまっている。そんな自分が、自分の見た夢を覚えているということは非常に稀で珍しいことなのだ。

まだ小学校にあがったばかりくらいの少年が、山羊の乳で造ったプリン(だと思う)を食べている。
プリンの容器は、小ぶりの磁器雑器の煎茶茶碗が代用されていて、それを小さな菓子皿に伏せて何度かイジイジと揺すったりしていると、中のプリンがプルンとお皿に出てくる。形は煎茶茶碗がひっくり返ったというか、皿に茶輪を伏せた感じ。それを、大量生産のプレス型で打ち抜いて整形した安っぽいステンレス製のスプーンでスクって食べている。スプーンの形に切り取られた断面の端っこが粘っこく伸びて、やがてちぎれて欠けたプリン本体がしばらくのあいだ皿の上でプルプルとゆれている。その様子を見ながらスプーンをパクリと咥える。独特の生臭くて野性的な味が口の中に広がる。なかなか旨い。
それが延々とリピートされるという夢なのだが、そのプリンの味まで覚えているというか感じているというか、とにかく、プリンを食べるという行為のその一連の状況を現実の出来事のように鮮明に記憶している・・・という、ある意味奇妙な夢を何故か連続して観た。

銀山街道を往復している時に、その夢のことをふと思い出した。なぜプリンの素材が山羊の乳なのか?なぜその山羊の乳なるものの味を自分が覚えているのか?そして、そのプリンを食べている少年は間違いなく自分自身だということ。
古い記憶を手繰ると、保賀の谷の林道を登っていった先にある家で山羊を飼っていたということと、小学校の下校途中にまだ現在の国道が出来る前の昔の砂利道だった国道脇にある掘っ立て小屋に捨てられていた子山羊を見つけて、かわいそうだからと約1kmの距離を寺まで抱きかかえて帰った(結局飼うことはできなかった)ということを思い出した。
それらの出来事は吉田少年にとって、成長の過程の通過点の些細な出来事くらいのものだったのだろうが、山羊というキーワードからは、その程度のことしか心当りがなかった。

東京で半年ぶりにノッチと逢って飲んだ。
昨年に帰国してから、そろそろ1年になる。やっぱり生身の娘と飲んだりすると、時々思い出したようにSNSの会話で盛り上がる程度の距離感が、一気に縮まる。この1年近くの間に大人のオンナになった気がした。色っぽくなったと云うより、分別のある社会人になったと云う印象だ。傍目にはいつまでも落ち着かなくてプラプラ気儘にその日暮らしをしているように見えるかもしれないが、父親としては、親娘の距離が少し遠くなったように感じて、それが彼女の人格の成長だと錯覚したのかもしれない。
彼女が池袋のお店を予約してくれて、ラムの焼肉をたらふく食べた。実に美味かった!
「あっ!ヒョットして、山羊のプリンの夢のネタ元はラムの焼肉かも知れない!」
一瞬、そう思ったが、山羊と羊は、まぁ似ているといえば同類のようなものだろうけど、まさかそれと夢とが重なったとも思えないし・・・なぁ〜・・

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正福寺再中興大和尚遷化 

2017/03/20
Mon. 23:59

東京では都立美術館の展覧会が、飯南高原では万善寺のお彼岸が、それぞれ終わった。
これで、吉田の春の大きなイベントを乗り越えた感じだ。

石見銀山の吉田家を8時に出発した。
石見銀山の町並みから出てすぐに結界君の燃料が少ないことに気がついた。1週間位前から少しずつ油価格が値上がりしはじめて、給油1回で5000円を越えるようになってきた。
49日までの七日務めが結構財布に響く。下世話な話だが、七日務めにお布施が出ないことが多い。飯南高原あたりだけのことかもしれないが、こういう地域オリジナルに近いような慣習は、坊主にとってかなり厳しく生活費を圧迫する。一般の各種職業のように、必要経費と割り切って別途請求するのもはばからられるし、現実はなかなか厳しい。
春彼岸の法要は、15名弱のお参りを頂いた。
毎年のことだし、万善寺オリジナルカレンダーにも年間行事が記載してあるから、とくに改めてご案内する必要もないことのはずなのに、万善寺お檀家様各位は彼岸仏事にあまり関心がないようだ。それぞれ各家でお墓参りくらいはしていただいているものとささやかな願いを込めて法要をおつとめした。

今年は先代住職の憲正大和尚3回忌の法要がある。
昨年は、記念事業として憲正さんの墓石と舎利棚殿を建立し1周忌を厳修した。
今年は、永代供養塔を建立し、ひとまず、憲正さんの報恩仏事として3回忌を厳修する。
これらの事業は、お檀家さんとは一線を画してすべて現住職である吉田正純とその家族で取り仕切る。本来は、万善寺運営役員会で協議してもおかしくないほどの大事業であると思うが、人の頭の数ほど人の考えも口もあるから、そういうことでモタモタするのも性に合わないし、ひとまず自腹を切って5カ年計画くらいで借金を返せればいいかなくらいに思っている。それでも、総額は高級な新車が1台買えるほどのかなりのものになるし、いつまでたっても家族に辛い思いをさせてしまって心苦しい。

上野の都立美術館へ彫刻搬入と展示が終わったのを見ていたように、万善寺法類(親戚寺)から訃報が入った。憲正さんの弟弟子に当たる東堂(住職を引退された前住職)さんが遷化(死亡)されたという。
生前の憲正さんは、何かとその弟弟子の方丈さんを頼っていた。私も、ついつい甘えて頼ってしまったりして随分お世話になっていたし、現住職さんには、憲正大和尚遷化以来本葬に到るまで葬儀仏事全てを取り仕切ってもらって随分助かった。
展覧会のオープニングから2〜3日は都立美術館の会場へ出かけようと思っていたが、急きょ取りやめてとんぼ返りした。それでも、枕経には間に合わなかった。
翌夕方からの通夜から引き続いて密葬、荼毘、拾骨までお付き合いさせてもらった。

新聞を読まなくなって久しいが、彼岸法要にお参りの檀家さんから、島根の地方紙にその東堂さんの本葬日程が掲載されていたと聞いた。
憲正さんの本葬は檀家葬で散々にお世話になっているから、おかえしも兼ねて、せめて万善寺檀家役員の皆さんくらいは万象繰り併せて参列して貰いたいものだが・・・

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オヤジ道中記〜キーポン卒業〜 

2017/03/20
Mon. 03:18

東京から帰って以来、毎日改良衣や大衣を着ていて、1日中帯を締めない坊主の自由服で過ごしたのは久しぶりのことだった。
その日はキーポンの卒業式であり、石見銀山にある今では全国でも珍しい昭和の木造校舎が現役で使用されている大森小学校の卒業式でもあった。

吉田家は、私が学校評価委員なる立場で、ワイフが民生委員なる立場で、毎年それぞれ式に来賓招待されていて、どんなに都合が悪くてもだいたいどちらか一人がやりくりして出席をさせてもらっていた。それが、今年はキーポンの卒業と重なってしまって二人して欠席になってしまって、とても残念なことだった。
全校児童20名を下回る大森小学校の卒業式は、少ない児童数だから出来る対話式の演出がされていて、それがとても感動的だ。
世間で常識的な代表の送辞答辞がなくて、1年生から6年生までの児童一人一人が自分の思い出を大きな声で発表し、まるでミュージカルのような全員の合唱に続く。
卒業式や入学式がない年も時々あるような極小規模の小学校だから、子供も大人もよけいに練習に力が入って、濃縮されて熟成された夢のような世界が木造の体育館に満ちる。
吉田家の4人の子供たちは全員その大森小学校を卒業して、このたび、最後の末娘が同じ日に卒業式を迎えることになったわけだ。

早朝に石見銀山を出発して、雪の大山を横目で見ながら少し余裕を持って鳥取の倉吉へ着いて、お世話になっていた学校の寮へ挨拶に回ってから卒業式の会場へ向かった。
倉吉は昨年に大きな地震があって、いまだにその後遺症が残っていて、アチコチでブルーシートの屋根が目につく。地震の直後は市内の給食センターが機能しなくなって、急きょ、キーポンの通う学校の調理室を開放して急場をしのいだということだ。余震も頻繁で学園祭も中止になって、急きょ帰省することになったキーポンを迎えに行った時は、歩道のインターロッキングが液状化現象で波打っていた。あれから約半年後にその同じ場所を通過すると、あの時のことがウソのように改修されて元の風景に戻っていた。
倉吉には彫刻の作家も暮らしていて、地震からあと、なかなか連絡がつかないままでいたが、先頃やっと消息が確認できて少し安心した。

卒業式に続いて謝恩会やクラスのお別れ会などがあって、その間ワイフと二人で車中待機した。私は、多分こういうことになるだろうとおおよそ予測してデスクワークの準備をしておいたから待機時間が全く苦にならなかった。
日本海へ沈む夕日の見えるパーキングまで移動してAppleMusicでラムゼイ・ルイスのアルバムを見つけてiPhoneからBluetoothで飛ばして垂れ流しながらラップトップをつついた。昔は「なんて軽くてつまらんジャズだ」なんて思っていたが、今はそうでもないし、むしろ懐かしく感じたりする。歳をとったせいかもしれない。

キーポンが助手席へ滑り込んできたのは夜の10時を過ぎていた。それから石見銀山まで約2時間半。自宅前の駐車場に到着した時はすでに日が変わっていた。
ほぼ一日中座りっぱなしで見事に足がむくんだ。

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オヤジ道中記〜東京都立美術館〜 

2017/03/18
Sat. 12:39

隔年開催の春季展へ先週のはじめに彫刻の搬入をすませたのに、もう搬出の日が迫っている。その搬出の方は、島根県彫刻界の新進気鋭ホープ作家周藤豊治氏が行ってくれる。

私にとって春の展覧会は、公私を含めて日程の調整がとにかく難しい。
作品発表の場が東京の美術館に集中することが多いから、島根県のように東京から1000km近く離れていると、こうして、何人かの同好の士が周辺にいてくれないと、年々歳を取る一方のヨレヨレ彫刻家としてはとても彫刻制作や展覧会を継続できるものではない。

最初の展覧会らしきグループ展に誘われて銀座のギャラリーへ作品展示させてもらったのが、確か22〜23歳の時だった。
その頃は、強い意志を持って何かしら作品発表を継続しようと決めていたわけでもなかったが、気がつけば毎年何かしらの展覧会らしき作品発表が続いていて、結局、この歳になるまでしばしも絶えることなく制作を続けることが出来ていた。
もう、ここまでくると自分のライフワークの一つと踏ん張ってみるのも良いかもしれない・・・と、具体的にそう思うようになったのは2010年の春だったと記憶している。

石見銀山が世界遺産認定登録されたのは2007年だったはずだ。
その2〜3年前から周辺がとにかく騒がしくなって、昼夜公私を問わず、何処かで何かの世界遺産認定に関連した会議とか説明会とか研究会とかイベントとかが開催されていた。
石見銀山のど真ん中で、それなりに緩やかなスケジュールをこなしつつ、つつましく静かに彫刻の制作や発表を続けていた私も、いつの間にか流行性感冒の熱に感染したかのように世界遺産の熱に飲み込まれてしまっていた。
それまで、普通に楽に石見銀山町内の好きなところへ彫刻を設置させてもらっていた(もちろん、地権者の承諾を得てのことだけど)し、町内で美術の展覧会が出来ていたのに、急に文化の規制が厳しくなって彫刻家の住みにくい町になった。
規制の根拠としては、過去の文化遺産を保存し後世に伝えるうえで、個人の文化活動が時代考証や地域文化伝承の妨げや弊害になる可能性が高いと判断されたわけだ。
個人の文化活動は趣味の延長とか大衆の文化祭くらいに留めておけばそれが妥当だくらいにしか認識されないことへのいきどおりを強く感じた。
彫刻の制作で、彫刻のかたちを借りて自分の今を表現させてもらっている私としては、そういう、一部の硬直した官民一体のまずは世界遺産保全ありき的不透明で希薄な寄生虫のような管理体制に対して、あくまでも自分の彫刻表現で抵抗するしか無いと決めて、現代彫刻小品展を石見銀山で立ち上げたのが2010年だったわけだ。

都立美術館がリニューアルオープンして、久しぶりに彫刻展示を手伝わせてもらった。
学生時代からお世話になっている思い出深い美術館だったが、ほとんど変わらない外見に対して、あまりにも大きく様変わりした管理システムには驚かされた。
美術館という器は、やはりそこに美術芸術表現をもって参集する作家の資質に、毅然として、且つ包容力を持って対峙するくらいの度量が欲しい。
石見銀山しかり都立美術館しかり、担板漢的類友の衆には心底疲れる・・・

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オヤジ道中記〜シェーキーズ〜 

2017/03/17
Fri. 20:04

吉田家の子供たちは長男を除いて、すべて関東で暮らすことになった。
長女は結婚して埼玉県人になった。
次女は今のところ東京で暮らしているが、また何処かへ移動するかもしれない。
三女は先日職場が決まったばかりで、その近所で暮らすことになった。
何故か、長男は島根県が好きなようで県内のアチコチをウロウロしている。ヒョットしたらそのうち石見銀山へ帰ってくるつもりでいるのかもしれない。
まぁ、そんな感じでひとまず私とワイフの波乱の子育て人生が一段落したと思っている。

キーポンは、就職先が決まってからあと配属先が不確定のまま時が過ぎていたのに、都合良くというか、運良く(または運悪く・・)というか、ちょうど私の彫刻搬入展示終了を狙ったように職場決定の連絡が入って、その流れで一緒に家探しをすることになった。

吉祥寺を彷徨いていたらシェーキーズを見つけた。
シェーキーズというと、18歳で上京して東京暮らしをはじめてから「ピザ」なるものを産まれて初めて食したのがシェーキーズだった。
あまり正確に覚えているわけではないが、確か最初に入ったのは新宿のシェーキーズだったと思う。お店のドアを開ける前から賑やかなデキシージャズが漏れ流れていた。それまで、食事をしながらデキシージャズの生演奏を聴く機会などなかったから、ピザの味も含めて何もかも全てが初体験で、身も心も震えた。
誘ってくれた友人が勧めてくれたフライドポテトはスパイスタップリでホクホクで確かに美味かったし、当時はフライドチキンもメニューにあったはずだ。
一人暮らしの貧乏学生には、しょっちゅう出入りできるお手軽な店でもなかったが、それでも何かの節目だったり、アルバイトの給料日だったりすると、周囲の何人かで誘い合って生バンドのステージ2回ぐらいは長居をしていた。
マクドナルドも上京して18歳の春が初体験だったし、吉野家の牛丼もそうだった。そうそう、ハンバーグは昼バイトを始めた喫茶店のランチタイムではじめて食べた。
とにかく、田舎の山寺で生まれ育った少年は、18歳を過ぎてはじめて食した食べ物が他にも上げればキリがないほど山のようにあったことになる。
いまだにこの年齢になってもジャンクフードが大好きなのは、その頃の食体験があまりにも衝撃的であったからかもしれない。

吉祥寺のシェーキーズは、さすがに時代の流れを感じた。それは、スイーツのような具材のピザが増えたこと。新宿の頃のサラミとかイカ・エビの海鮮とかハムトマトとか、そういう、ある意味定番ピザのようなトッピングが少し減ったような気がする。
それに、客層が変化したようにも感じた。これは吉祥寺という土地柄のことも影響しているかもしれないが、(良く言えば)少し個性の強そうなオジサマとかオバサマがお一人で来店されること。そういう方が隣の席に座ったりすると、純朴な田舎者のチキンオヤジは少々ビビる。
それはさておき、なにわともあれ、いまだにピザというと、やはりあの薄くてペタンとした生地のアメリカンクリスピーピザが一番好きだ。

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オヤジ道中記〜上野の餃子〜 

2017/03/16
Thu. 23:51

石見銀山でもみぞれが降るくらいだから、夜のうちからかなり冷え込んだ。
このところ、いやに規則正しく1週間毎に冬型の気圧配置が巡ってくる。
それを待っていたように、万善寺の仏事や彫刻の用事が重なってしまって、雨男や雪男に変身しながらときどきの用事を粛々と片付けている。

ボクの結界君は、すでにスタッドレスタイヤを脱いでいるから、ワイフの新しい中古車トヨタ(車種名はまだ覚えられていない)を借りて飯南高原へ向かった。
銀山街道のいつものあたりで道に雪がたまり始め、周囲は一面雪景色に変わった。
3月のこの時期に降る雪は水分をたくさん含んでいてすぐ消えるから、それほどおおごとになることもないのだが、この近年続いていた暖冬に自分の身体が慣れてしまっていて、久しぶりに巡ってきた平均的な冬気候へ順応できないでいる。

吉田家は、キーポンの引越し準備と、ワイフの年度末資料の数々と、焚きつけの廃材と、洗濯物の山と、若干のネコチャンズグッズが散乱して、足の踏み場もない状態である。
私の方は、相変わらず落ち着かなくて慌ただしい毎日を過ごしてはいるが、基本的に暇なことに変わりなく、1日に2〜3時間くらいの家事時間を確保するくらいは簡単なことで、部屋の片付けくらいは直ぐにできるのだが、我が家の女性方からのそういう依頼は皆無に近い。理由は簡単で、ようするに私に片付けを任せてしまうと、「何処に何を片付けたのか分からなくなるから嫌なのヨ!」ということで、とにかく「自分の都合で勝手にアチコチ触らないで!!」と、まぁだいたい叱られてしまうから、乱れまくった吉田家の現状をひたすら見て見ぬふりで過ごしているところだ。
たぶん、それもあと少しの辛抱で、キーポンの引っ越しが終われば、今よりは若干改善できて平和な日常が戻るはずなのだが・・・その時が来てみないとなんともいえない。

先日の上京の折に、都立美術館の搬入が終わったあと、手伝ってくれたキーポンと上野公園を御徒町方面へ下って、京成上野駅の不忍池側にある蓬莱閣で昼食をとった。
蓬莱閣は、学生の頃からの思い出深い中華料理店で、上野界隈の用事があって、お昼時に時間の余裕がある時は、不思議とそのお店に足が向いてしまう。
店の様子は、レジの場所からテーブルや椅子の種類や配置まで30年以上も前から全く変わっていないし、メニューも同じように思える。
「この椅子、すごくグラグラ揺れるんだけど」・・・そんなことを言っているキーポンも、すでに何回かこの店で五目そばや餃子などを食べている。
唯一、昔と違うのは料理の味。少なくても、私が確認できているだけで4回は味が変わっている・・・ということは、料理人の代替わりがあったということ。
学生の頃に食べていた蓬莱閣の餃子は、他のどの餃子とくらべて別格だった。
あの頃は、小さめサイズの餃子が6枚皿に乗っていた。その後、巨大な餃子が3枚になって、また小さめサイズ6枚に変わって、今回は大きめサイズ6枚が皿に乗って出てきた。
そのたびに餃子の味が違っていて、それはそれで仕方がないことだし、不味くて食べられないわけでもないし、むしろソコソコ美味しかったりもして、納得もできる・・が、やはり、何と言っても学生の頃に食べた初代餃子はなんとも美味かった。

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オヤジ道中記〜プロローグ〜 

2017/03/15
Wed. 19:16

こんどの冬シーズンは、いやに正直で真面目に寒気団が繰り返して南下してくる。
そのたびに飯南高原では雪が降って一面白く染まる。
1週間前も南下した寒気に悩まされて東京の展覧会に向けて準備していた色々なことがつまずいた。幾つかの不具合もあって心身ともにかなりダメージを受けたが、とりあえず展覧会の展示までは終わらせることが出来た。
相棒の結界くんも、若干のオイル漏れに苦しみつつ良く健気に頑張ってくれて、無事に上野の都立美術館往復約1800kmを走破してくれた。

東京で就職が決まったキーポンが一足先に上京していて、その流れで配属先も決まった。
父親としては、そこまでは「良かったよかった!!」と目出度いことで浮かれていたのだが、研修も終わって美術館の展示を手伝う予定だったキーポンが結局遅刻した。
慣れない東京で、山手線に乗り間違えたのだろうくらいに思っていたら、指定銀行へ口座を作ったり、配属先周辺の最寄り駅とソコから徒歩10分以内の圏内で◯◯円以下の宿舎を探せとかなり厳しい条件を提示されて、指定業者さんへ連絡したりしていたらしい。

もう、半世紀近くも前のことだが、一応ワタシも東京暮らしを経験しているから、こんなオヤジでもいないよりはマシだろうと、急きょ宿探しへ付き合うことになった。
お彼岸が終わるまでには住む場所を決めて、家財道具などの引っ越し搬入を済ませておかなければいけない。職場の事情もあるだろうが、個人の事情は完全に無視された状態で容赦がない。もっとも、思い返すとそういえば私の場合も似たようなものだった。

吉田家の上の3人の子供は、もう少し楽に余裕があった気もするがよく覚えていない・・というより、あの頃は私自身も務めに拘束されて身動きがとれなかったから、子供の方ではじめから父親を抜きにしてコトを進めていたのかもしれない。そうすると、末娘のキーポンはそれなりに楽をしているのかも知れないが、いずれにしてもやはり、こういう時は身内や親に頼るしか仕方がないことだから、ワザワザこちらからシャシャリ出るつもりもないが頼られるうちはできるだけマメに付き合おうと思っている。

今更どうでも良いことだが、「ブログ」の定義をウィキペディアでチェックしたら、「ログ」とは「記録」という意味で、Web上でLogするWeblogが略されてBlogになったようだ。
私がそのブログなるものを始めたのは2010年の1月からだった。
その頃はまだ島根の片田舎に暮らす自分の周辺でブログ記事を公開している人は殆どいなかったと思うが、それからアッという間に世間へ広がって、またそれからしばらくしてツイッターやフェイスブックが登場して、少し前からLINEが加わって、還暦を過ぎたジジイとしてはとてもややこしいことになってしまった。
私自身は、自分の備忘録的データの記録として、とても都合よくブログを利用させてもらっているが、この度のように日々の記録が追いつかなくなってしまうと、途端に幾つかの時間軸に狂いが生じて収集がつかなくなってきた。
多少前後するが、記憶が薄れないうちに根気よく先週の出来事を整理しておこうと思う。

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早朝の富士山 

2017/03/14
Tue. 15:13

数少ない(たぶん、それなりに暇な)吉田ブログ訪問者の皆様・・・お久しぶりでございます。

吉田本人は、この1週間がクソ(失礼!)忙しくしていて、アッという間に過ぎてしまった・・・と思っていた。
とにかくこのブログが存在するのも、限りなく暇に過ごすひとときが1日のうちにだいたい1〜2時間くらいあるからダラダラとほぼ毎日続いているだけのことだから、いつものことなら、その無駄な時間も無いほど忙しいことなどありえないことなのだ!・・・と思って、1週間を振り返ってみたら、何のこともない、結局、ただひたすら結界君を運転して、バカバカ飲み食いして、グースカ寝て、「腰が痛い」とか「膝が痛い」とか「目がかすむ」とか「ムネヤケがする」とか文句ばかりたれて、気がつけば2〜3kg太ってしまっていたという、なんともいつも通りの自堕落な生活が過ぎていただけのことだった。

さて、ことの始まりは・・上野の東京都立美術館で隔年開催される春の展覧会へ彫刻の小品を制作して搬入出品するという、彫刻家吉田正純の一見計画的と思えるだけで実態は無計画この上ない行動だった。
それは、ボクの身勝手な勘違いからスタートした・・・
「マッチャン(ワイフのこと)、東京行きの予定決まった?」
「ワタシ仕事があるから行けないよ。あなたが彫刻搬入してくれるんでしょ?」
「えっ??キーポンも一緒に東京行くんでしょ?彫刻も積むからシート3人分確保しなきゃいけないし・・・」
「キーポンは、研修があるから先に出かけるよ。ワタシは仕事休めないよ!ネコチャンズもいるしね♡!」
「えぇ〜〜??そぉ〜なのぉ〜〜??」

上野へ出発の朝は、七日務めを3軒回った。
島根県の飯南高原は前の夜から今年何個目かの寒気が入り込んで雪が降っている。
片道1000km弱を走ることになる結界君へ、少し前の春めいて暖かな日にノーマルタイヤを履かせたばかりだし、またしても雨男ならぬ「雪男」パワー全開となってしまった。
その日は、何時もだったら2時間もあれば十分の用事が昼から2つほどあって、それを済ませながら東へ向かうことにしていたが、雪のお陰で予定がドンドンずれ込んで、確定申告の後半はワイフに託すことになった。
島根県や鳥取県をはじめとして、東京までの降雪地帯の道路情報を検索しながらルートを決めて、石見銀山の自宅を出発したのは結局夕方近くになってしまった。途中で共同搬入の彫刻を積み込んで、申告の結果を気にしつつひたすら広島県へ南下して雪のチラつく中国山地を越えて一安心。あとは、山陽道から吹田を経由して新名神へ入って新東名へ抜けた。早朝の富士山を観て少し元気が戻って、首都高から上野の都立美術館搬入ゲートへ到着したのは、9時30分を少し過ぎた頃だった。
彫刻を降ろしているとキーポンが手伝いに駆けつけてくれた。
キーポンは、就職も決まってこの春から東京で働くことになる。

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2017-04