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工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

ポテトサラダ 

2018/08/14
Tue. 23:28

オヤジの単身赴任一人暮らしが続いている。
中国山地の海抜450mくらいのところに寺があって、すぐ裏には1000m級の琴引山が鎮座している。
どちらかと云えば高原地帯で、いつもなら夏も暑いなりに比較的爽やかで過ごしやすい。
Web環境や携帯電話の電波事情など、現代市街地のように一般的な便利生活が充足して保証されているわけでもないが、それなりにそんなもんだと割り切って、それに慣れてしまえば、それほど不便を感じること無く過ごすことができるようになった。

それにしても、今年の夏は例年と状況が違って、何もかもが今までに経験がないほどのきびしい猛暑が続いて、棚経が本格的になる前から日頃のたるみきった体力を完全に使い果たしてしまった。
これから万善寺のメインイベント施食会に向けて準備作業が本格化する。
毎年のことで夏の事情がわかっているじゅん君に7月のうちから調整をお願いして、2・3日だけ寺の整備作業をお願いしておいたのだが、結局直前のドタキャンで期待の半分程度しかオヤジに付き合ってくれなかった。
いつもなら、そういうこともあるだろうと、おおよそ予測して当てにしているのだが、今年に関しては彼への期待が少し過ぎてしまって、ドタキャンの精神的ダメージからなかなか立ち直ることができなかった。

そういうわけで、施食会準備がピクリとも動かないまま、棚経をして通夜を仕切って、あっという間に一日が過ぎた。
いろいろと考え事が脳みそをグルグルと駆け回って、身体は疲れているのになかなか寝付けないまま一夜が過ぎて寝不足のままむかえた朝は、久しぶりに涼しくなったというより、寒く感じるほど気温が下がっていた。お陰様で午前中の棚経は楽に過ぎたが、午後からの葬儀に向けて寺の仏具を準備したりしている間にどんどん気温が上昇していつもと変わらない猛暑に戻った。
このたびの葬儀は、葬祭業者の無い家族葬のようものになっているから、会場へ葬儀の祭壇があるだけで、それ以外に必要な仏具の殆どは寺で準備するしか無い。昼食抜きで改良衣のまま大汗をかいて銀くんへ必要なものを積み込んで葬儀会場へ走った。
ボク一人で導師から鐘つき坊主や司会進行までして引導を渡して参列の焼香がすべて終わると、急いで納骨の準備へとりかかって喪主家のお墓へ移動して墓前のお経を読んだ。あとは自宅の祭壇を整えて初七日のお経と簡単なお話を添えて、使った仏具をまた銀くんへ積んで寺へ帰ったのは夕方だった。
これだけの仕事量だと、世間の一般的な葬祭業で「どの位の請求がくるのだろう?・・」と、一瞬俗な打算が脳みそを走ったが、結局は島根の田舎坊主の相場で全てが決着することも分かっているので、すぐに夕食の現実に思考スイッチを入れ替えた。

このところ、お布施で頂いた各種夏野菜をセッセと消費している。
料理というほどのことでもないが、たまには少し手間のかかることでもしてみようと、ポテトサラダと野菜スープをつくった。今度の夕食で冷凍のパンが無くなる。

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ユラギの幅 

2018/08/13
Mon. 23:21

枕経のおばあさんは行年92才で私の母親と同じ年まで生きられた。
数年前から1週間に数日はデイサービスでお世話になり、最近は、自宅で過ごすより施設でいる時間のほうが多いほどになっていたそうだ。
容態が急変した日も、施設の皆さんと歌やゲームをして楽しくされていて、まさかその夜に脳溢血を発症するなどと予測もできないほどお元気であったらしい。
早朝に救急車で運ばれてから延命処置で呼吸はできていたものの、すでに脳死に同じ状態で、ただ息をしているだけのことだったそうだから、ご本人にとっては特に苦しむわけでもなく、長い闘病ぐらしだったわけでもなく、寝ているあいだにこの世からおさらばできたという楽な死に様であったと思う。
そういう時は、枕経が終わってから「元気に往生されてなによりのことです!」と、ご遺族やご親族へ言うことにしている。
残された者にとっては、故人と付き合いの浅い深いでさまざまな思いがあるだろう。それでも、一応の寿命を全うされたことに変わりはないから、清く人の死を「往生」と受け入れることも残された者の勤めであると、私は思っている。

万善寺の住職として坊主ではあるが、同業との付き合いが広いわけでもないし、すぐ隣の寺の事情も知らないことばかりで業務上の情報交換など皆無だから、私が住職としてお檀家さんとお付き合いしていることは、どこかしら業界の現状から逸脱していることのほうが多いのかも知れないと何気なく思っている。
世間では、宗派を超えて隣近所の各寺院事情の噂が飛び交っていると思うが、それはそれで自分にはどうでもいいことで、特に気にすることもなく自分が坊主として出来ることをコツコツと続けているだけのことだ。

それで、この度の通夜からお葬式にかけての仏事のことになるわけだが、結局は珍しく自分でも呆れるほど葬祭仏事全体へ口や手を出すことになってしまった。
一人残された喪主さんは、母親の葬儀へ参列することだけで精一杯の状態だから、宗派の違う親戚のご主人が後見人的役割をされることになった。「禅宗のことは全然わからんもので・・・」と、何度と無く呪文のように念押しされるものだから、お盆間際に一つ一つ解説して司令を出して指揮する手間がどこまで増えるか予測できないことになった。
いずれにしても、世間事情では故人の生前のおつきあいへ見合うだけの告別が大事なことであるから、それを送る身の事情だけで済ますわけにいかないことだけは確かなことだ。
坊主としては仏様の代行業務に徹して、故人を此岸への未練から切り離してキチッと迷わず彼岸の地までお連れすることが大事な役割で「それがすべてのことだ!」と、それだけをブレない柱と念頭に、周囲の事情に沿ってユラギの幅をもたせているつもりだったのだが、そうもいかなくなってしまった。葬祭業者もなく、地域自治会の世話役もなく、もちろん周囲のお手伝いも固辞され、それに喪主代理も務められるという、なんとも前例のない葬儀葬祭となった。

前夜の仮通夜から、午前中は棚経を済ませ、夕方からの本通夜に出かけた。
葬祭で借りた自治会館には、故人を偲んで旧知の皆さんが多数参列された。

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万善寺お盆事情 

2018/08/12
Sun. 23:02

脳溢血で延命処置中のおばあさんが亡くなったと訃報が入った。
棚経へ出かける前だったので、枕経でお伺いするのはお昼を過ぎることを伝えた。
電話口で日程の相談事が始まりそうだったから、こまかな打ち合わせは枕経が済んでからにしようということにさせてもらった。

万善寺の場合、お檀家さん以外で浄土真宗のお門徒さんも棚経をつとめる。
仏教の長い歴史の中で、自然と当たり前のようにそういうふうなことになって、住職の代替わりの時もそのまま先代を引き継いで継承されてきたことだ。
近年は、浄土真宗門徒さんの方も代替わりが進んで、棚経でお伺いすると施錠されてお仏壇の前に座れないお宅が少しずつ増えた。
「もう、次の代に譲りましたので・・・」と、棚経は今年で最後にしてくれと云われるお宅も増えた。
それに、独居暮らしから施設の入所で空き家になり、やがて絶縁のお宅も増えた。
そういうことが毎年のように続いて、10年足らずの間に100軒は棚経の軒数が減って、歳をとるばかりの我が身としては楽になったと云えなくもない。

飯南高原でお盆の入は、14日が大勢を占めるが、一部地域は13日からお盆が始まる。
そういう事情もあって、昔から万善寺では1日早いお盆の入りになる地域を中心に浄土真宗門徒さん宅を集中してぐるりと棚経廻りするのが12日に定まっていた。
まだ副住職時代に、棚経でお経が終わってお茶飲み話の時、そういう地域の古くから残る事情を古老から聞くことが時々あった。
12日の棚経も、実は昔々、何時の頃かまでその地域の中心の山際にあったお寺が火災か災害かで消失して、菩提寺を失った周辺の集落がお盆の供養をどうしようか困っていたところへ、谷を一つ越えた隣の集落にある万善寺のお盆供養の法要で塔婆の供養回向会があるから、当面はとりあえずそれにお参りして乗り切ろうというあたりのところから縁が始まったらしい。それに併せて万善寺の方でも、寺の法要仏事へお参りの皆様に台所のまかない事までお願いするのは不本意だからということで、周辺地域から他宗派のお宅へまかない事のお手伝いを依頼することが仏事信心の習慣になって、その名残が先代住職まで引き継がれてきた。
その後消失した寺周辺の集落でも世代交代が進み、その信心習慣も絶えて久しいし、無理してまかない事のお願いしてもお礼のヤリクリ算段が厳しくなって、今は万善寺仏事の一切を家内身内でまかなうことになった。ワイフも、このことだけは文句も言わないで粛々とナンチャッテ住職のボクに付き合ってくれている。

日頃はヒマにノンビリと続く万善寺暮らしも、盆月の時期はスケジュールが立て込んで融通がききにくくなる。
いろいろ作務の日取りを決めてあることが、訃報一つで泡のごとく消える。
だいたいが住職一人で切り盛りしている万善寺のことだから、いまさらジタバタしてどうなることでもないし、周辺の成り行きに身を委ねるしか無い。
棚経が終わってから、その足で枕経を読みに向かった。また、昼食抜きになった・・・

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作務の朝 

2018/08/11
Sat. 23:28

万善寺が住職の私一人になってから、それまで寺の家族で分担していた幾つかの作務をすべて一人でまかなうことになった。
どうしても一人では無理なことも幾つかあるので、そういう時はワイフへお願いして助けてもらっている。
子供の頃から、寺のお盆行事がおおごとになって家族の負担が増えることのストレスを身をもって感じていたから、吉田家の子供たちやワイフへはできるだけ普通の在家と同じような暮らしをしておいてもらいたいと思っていた。
そういうこともあって、子供たちが独り立ちしてからあとは、お盆の帰省はしないでいいと云ってある。
ワイフにはかわいそうだが、万善寺の仏事が一段落して少し落ち着いてから一人で実家へ帰省してもらっている。

吉田家の夏事情は、私が住職を引き継いでから少しずつ調整して、今はだいたいそのようになって落ち着いている。
それで、数年間かけて棚経の日程を調整して11日の一日を寺の作務に当ててある。
施食会用に本堂の配置換えをしたり、境内やその周辺の整備と墓掃除が主な内容になる。
寝苦しい一夜が明けて保賀の谷の鳥たちよりも早くに蜩がやかましく鳴きはじめた。
「今日も暑くなりそうだなぁ~~」と、思いながら抱きまくらをかかえてゴロゴロしていたら、国道を救急車が過ぎていった。
そろそろお盆が近いのに本人をはじめとして親族関係者は落ち着かないことだろうと気にかかったが、いつもの寺の朝の支度を始めるとそれもすぐに忘れてしまった。
少し落ち着いてから電話を確認すると、着信履歴が残っていた。まだ7時を過ぎたばかりで「いやに早い電話だなぁ~・・」と、少し不安になりながら発信者を見ると、お檀家さんの親戚からだった。返信しようとiPhoneを持って電波の強いところまで移動していたら、その親戚からまた電話が入った。
「○○園で△子さんが寝ている間に脳溢血になりまして・・・」
あの救急車と電話の内容が繋がった。
ひとまずは延命処置をしてあるが、頭には出血がいっぱい溜まっていて、もうどうすることもできない状態だから、いずれ近い内に万善寺へ「お世話になることになる」ので、その相談をしておきたいということだった。

それからしばらくして、ご親戚が3人揃ってお参りされた。
危篤状態のおばあさんには、70歳くらいになるかもしれない息子さんが独り身でいらっしゃる。いろいろと複雑な家庭環境で、親戚のみなさんも前々から気にかけておられた。
万善寺の立場となると、ひとまずは静観するしか無いところだが、ご親戚の相談事は葬儀の段取りにまで話が先走ってくる。夏の万善寺大イベント施食会どころではなくなってしまいそうな雲行きになってきた。とにかく仏事絡みの善後策を話しておいた。
納得されたかどうか?・・・
またそれからしばらくして、iPhoneの着信があってワイフがネコチャンズの写真を送ってくれた。何気に物憂げな彼等の後ろ姿に、今のボクの心情を見た気がした。

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喜心・老心・大心 

2018/08/10
Fri. 23:50

世間は夏休みとかお盆とか、夏の行楽が本格的になっているから、きっと石見銀山も観光客で賑わっていると思う。
万善寺の一人暮らしがメインになってもう3週間ほどは経っただろうか・・・

棚経が始まって、しばらく暖機運転が続いて、10日も経ってアクセルを踏み込む頃になった。
これからお盆が終わるまでに、琴引山を中心に、北から西を経由して南に向けてU字に広がる農村地帯から三日市を中心にした町家にかけて点在するお檀家さんを廻ることになる。
農村地帯はやはり農家が多くて、時々夏野菜をお供えに頂くことがある。
昔は、行く先々で手提げ袋やダンボール箱いっぱいの野菜を頂いて、自転車の荷台へそれらを積んだりハンドルへぶら下げたりして、棚経を終わって寺へ帰って参道の坂道を登る頃はフラフラになっていた。
ひと夏ではとても食べきれないほどのお供えを頂いて、殆どが漬物になったりしていたこともあったが、今ではそれも全部合わせてビニールの買い物袋ひとつ分ほど集まるかどうかくらいに激減した。
それでも、オヤジの一人暮らしには十分な量で、8月の初旬に頂いた野菜はお供えしてもお盆まで保たないから、とにかくアレコレ工夫して有難く胃袋へ収めることにしている。

お供えの頂き物は、自分の都合に合わせてスーパーで好きなものを揃えるわけではないから、基本は煮しめか野菜スープになる。
煮しめは母親の手料理で散々食べさせられたから、今更自分でつくろうとは思わない。
手っ取り早いのはスープにしてタップリと作り置きすること。
野菜のエキスを出しきって、コンソメベースのスープにしたものをタッパーウェアへ移して冷蔵庫で冷やしておくとサッパリしてなかなか美味しい。
ちなみに、刻んだ各種野菜は土鍋で煮込む。今回はサバの水煮をブッ込んでみた。
土鍋は、熱保ちが良いし、野菜のエキスが土鍋に染み込んでくれるし、何より、1年中使い続けることで、鍋に染み込んだ煮汁がカビにならなくてすむ。

現在の日本に残る日本食の作法は、ザックリいうと曹洞宗開祖道元禅師さまの教典が起源になるところが多い。数多くの修行の重要なポイントの一つとして、食事の心得が重要視された。器の上げ下ろしや、食材に対する心構えなどが「典座教訓」に記されてある。
典座(てんぞ)とは、料理長坊主のことで寺院僧堂の要として高位の役職になっている。
「喜心・老心・大心」を心得て料理に望む重要が説かれてある。

喜心は、食材に対しての感謝と料理を作ることの喜び。
老心は、作る料理への愛情とおもてなしができることの喜び。
大心は、料理を通した作る人と食べる人の気持の通じ合う喜び。

私の場合、自分でつくって自分で食べているわけだから、まぁ、自分の1日の坊主業に対しての慰労でもあると思って、セッセとつくっては食べ、そして、一杯また一杯・・・となるわけで、この一杯の喜びは何にも代えがたいもので、健康のバロメーターでもある。

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施食会荘厳の日 

2018/08/09
Thu. 23:16

おばあさんは子守をしながら朝夕は外に出て境内の草取り。
おかあさんは田や畑の世話で1日過ごす。
おとうさんは朝早くに自転車で出かけると夕方まで棚経。
少年は午前中の涼しい間に夏休みの宿題などを済ませ、午後は昼寝。
夕方におとうさんが帰宅するとみんなでお墓参り。

昭和の高度経済成長期直前の万善寺のひと夏は、だいたいこのような毎日が繰り返されていた。
寺は、お盆が1年でいちばん忙しい。
この夏の毎日のスケジュールは半世紀の間、大きな変化もなくだいたい同じように繰り返されている。
私が、寺を留守にしていたのは学生の頃の約10年間。
その間に、9日に決まっていた万善寺の施食会が18日の大般若経転読会へ日程移動した。
それと同時に、趣旨の違う2つの法要を午後からの半日へ詰め込むことになって、とても窮屈で慌ただしい法要が進行するようになった。

おばあさんが亡くなってから庭の草取りの1部が少年のボクの仕事になって、残ったところはおかあさんがセッセと除草剤をまいた。
おとうさんが50ccバイクの免許をとってから、それまで乗っていた自転車がおさがりで少年のボクにまわって、同時にボクの棚経範囲が一気に倍増した。
寺を留守にしている間におとうさんが病気になって、ひと夏ほど棚経をすべて一人で済ませた。
それが契機になって、その次の年の春に自動車免許を取得した。
ワイフと結婚して島根へ帰省してしばらくして、おとうさんはおじいちゃんになって棚経が趣味に変わった。その趣味の棚経専属ドライバーがワイフ。こころやすい家に上がり込んで、お経を終わって茶飲み話が終わるまで、ワイフはジッと車で待機していた。

やがておじいちゃんが寝たきりになって仏事全てがボクの仕事になって住職に昇格。
おかあさんはおばあちゃんに昇格して孫の相手がはじまり、ワイフは棚経専属ドライバーからおばあちゃんの家事助手に配置換えとなった。
子供たちが成長してワイフの子育てが本格化して忙しくなると、万善寺の掃除洗濯から、ジジババの食事や台所と日常家事がボクの仕事になった。

そして現在、万善寺の内外表裏一切合切の80%がボクの仕事になった。
残りの殆どをワイフが手伝ってくれて、ほんの少しだけじゅん君が助けてくれる。
9日は施食会が移動してから本堂荘厳の日になった。
今年は、じゅん君が数時間ほど手伝ってくれて、それからザッと境内の草刈りをして帰っていった。
猛暑が続いているから、じゅん君の手伝いがとても助かった。
綱渡りのような万善寺経営がこれから先何時まで続けられるか、年々不安が増している。

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棚経 

2018/08/04
Sat. 23:42

自分の不摂生がすぎているのか、体力が落ちているのか、その両方か・・・
とにかく、身体が上手く動かないし昔の古傷から始まって膝や足首を中心にお尻から腰まで下半身が四六時中痛くて棚経や手間替え随喜がとてもつらい。

万善寺のお檀家さんは、飯南高原から県境を超えて広島県の2軒ほどを含め、とにかく、お経を読むより移動時間のほうが長いことがほとんどで、棚経の効率がとても悪い。
今日は、広島県との県境にある大万木山の島根県側入り口あたりまで30分ほど銀くんを走らせて、午前中いっぱいかけて5軒の棚経をおつとめする。
数年前までは7軒だったが、1軒は介護施設へ入所されて空き家になり、一軒は松江へ家を持たれて転居された。残り5軒のうち、1軒はおばあさんが亡くなってからあと空き家になったが、近所に暮らす娘さんが棚経の日は玄関を開けてお仏壇の準備をされている。その空き家にあるお仏壇には、その家の初代から4代までのお位牌さんがお釈迦様の両隣へ安座されてあるが、次の年回法事が済んだところで万善寺の舎利棚殿へ預かって永代供養へ繰り入れることになっている。
そんなふうに毎年数軒ずつ棚経の軒数が減っていて、これから先、今より軒数が増えることは100%無い。

棚経の本来の意味というか、役割はどういうことであったかというと、年に1度巡ってくる盂蘭盆会にあわせて、それぞれの家へご先祖様をお迎え供養するための棚を縁側に用意して、いつもはお仏壇でお釈迦様と一緒に安座のお位牌を遷座し荘厳を整え、雲水修行中や近所の方丈さまにお経を読んでもらうことで、ご先祖さまの御蔭をもって今の自分が生かさせていただいていることの感謝を伝えるという趣旨が隠されている。
だから、棚経のお宅には、必ずその家のご先祖様がお仏壇に安座されていることが必須の条件となる。そもそものお仏壇は、ご先祖様の安座されるお宿的役割である以前に、御本尊様に安座していただいてその家で暮らす全てのモノをお守りいただくための心の支えの聖域としてある。だから、例えば分家新築でまだお葬式のない家にも仏教徒であれば、まずはお仏壇を用意して御本尊様をお祀りして荘厳を整え、朝夕に御本尊様をお参りするコトが至極当然の常識であるわけだ。

俗説か通説かよくわからないが、棚経は時の政権から命を受けた坊主が隠れキリシタンのあぶり出し作戦としてはじめたというようなことも云われているらしい。そういう密命を坊主が受けて従った時点で、宗教家思想家としての立場を自ら捨てて政権に身売りしたことにもなるわけで、そういう信心の根本を全うできなくなって俗に染まった坊主もかなり沢山いたということなのだろう。
門前どころか門内の小僧から始まった価値も重みも無い私のような家業在家坊主の仏教観で偉そうなことなど言えるわけもない。静かに目立たないように波風を避けて慎ましく職業坊主の毎日を乗り切るだけのことだが、特に毎年夏の盆月はいつも以上に坊主の付き合いも増えて気持ちが沈んで無意識に顔が曇る。たまに石見銀山へ帰ると、ワイフが敏感にそれを感じてすぐに気が高ぶったりするものだから、よけいに落ち込む。彫刻の工場がもう少し近くならそちらへ逃避も出来るのだがなかなかそうもいかない・・・

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地獄の夏 

2018/08/03
Fri. 23:58

盆月に入った。
飯南高原では8月中頃のだいたい13日から16日がお盆になる。
万善寺の場合は、昔、17日の観音様ご縁日にあわせて法要をしていた関係で14日からお盆がはじまる。17日のお盆最終日の夜に観音様の供養法要と塔婆回向があって、地域の皆さんがお寺参りをされて各家のご先祖様とか古墓一切の供養塔婆をお坊さんに読み上げてもらうことで、お盆行事の締めくくりをしたあと、導師さんのお説教を聞いたり境内で盆踊りをしたりして夜遅くまで賑やかに過ごし、次の18日は大般若経転読会の法要にお参りして大般若経典の風を全身に受けて身体安全を祈念するという、お墓やお仏壇の掃除や準備からお供え物や荘厳の後片付けまでほぼ1週間のお盆行事を毎年繰り返していた。

盆月は、棚経の月でもある。
棚経とはどういうことかと云うと、諸説諸々、地域や宗派の違いでまた違ったりと、定説が決まっているわけではないが、万善寺的棚経は、歴代住職からの口伝を引き継いでの解釈として自分の代まで言い継ぎがされている。
嘘か真か、そのあたりの万善寺的定説の真意まではわからないが、私がまだ小学生だった頃に前住職の憲正さんが聞かせてくれたことを薄っすらと思えていて、おおよそ聞いた話の大事なところだけは忘れないように引き継いでいるつもりだ。
簡単に云えば、坊主的立場での解釈と在家的立場での解釈があって、それぞれの都合が程よく絡み合うように気をつけておけば、宗教的摩擦も起きない上、気持ちのすり合わせが出来て平和でいられる・・・というようなものだから、それぞれお邪魔した先では、「こんちもさいなら」で簡単にお経を読んで「サッサと帰ってしまうようなことが無いように!」することが大事だと云われていた。
そんなことを云われても、小学生の子供が大人相手に流暢に世間話など出来るわけもなく、行く先々で出されたお菓子やお茶やジュースなどを食べたり飲んだりするくらいのことしか出来なかった。だから、棚経がはじまって3日もすると腹具合が悪くなって、体調が悪いままお盆が過ぎるまでそれが続くという、地獄の夏休みになっていた。そんなことが、中学校になっても高校生になっても、大学生になっても、ひたすら毎年繰り返されて、この歳になるまで地獄の夏が絶え間なく続いている。
高校生の時はそれなりの反抗期も加わって、棚経の先にかなり不快な思いをさせたと思う。上京してアルバイトをしながら10年一人暮らしを続ける間に、少しずつ世間の厳しさもわかるようになって、気持ちが少し丸くなって、棚経のお茶飲み話も前よりは間が保てるようになった。Uターンからあとは、前住職の持者を兼ねた棚経に変わって、それからしばらくして、副住職の役目になって、それがそのまま住職になってからあとも変わらないまま続いている。今は宗派を超えて一夏で100軒ほど棚経をつとめている。昔、中学生になって通学で自転車へ乗れるようになってからは、憲正さんと手分けしながら200軒以上を回っていた。だいたい半世紀の間に棚経が半減するまで過疎化が進んだことになる。

毎年8月3日は、広島の原爆で家族を亡くした施主家へ伺う。その日が広島で被災されて亡くなったご本人の誕生日なのだそうだ。

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縁が切れた 

2018/07/15
Sun. 23:19

唐突に「明日お寺へお伺いしますので・・だいたい、お昼すぎの2時か3時くらいになると思います・・」と、寺参りの電話が入った。

坊主家業の90%は受動的にスケジュールが決まっていくから、そういう突然の電話にも出来る限り誠意を持って対応しているつもりだが、それにしても、『今日の明日』というのは、あまりにも突然で・・・というわけで、せっかくの3連休はジワジワ潰れていく。

朝から日差しが容赦なく強い。
寺参りの内容もよくわからないまま、とにかく掃除機だけでも掛けておこうと本堂の窓を開けたら、外から一気に熱気が侵入した。
厚手のカーテンを閉めて暗くしてある本堂は、想像以上に涼しいものだ。
いつもは、何もしないでジッとしておくことが諸々の仏具や荘厳が長持ちして都合が良い。朝のお供え線香の香りが1日中本堂に漂って、それが毎日のように続いて少しずつ柱や壁や天井や畳や座板などに染み込んでいくことが、五感に伝わる聖域の最低条件のようなものだ。
私は、自分の性格なのだろうか、常に締め切ったままの鬱陶しさが性に合わないから、寺暮らしの時はだいたいその日の天気と相談しながら窓を全開にして外の風を通してしまう。
前住職の憲正さんはそれを極度に嫌がって、まだ身体の動くうちは「仏様の功徳が逃げる・・」と云って私が全開にしていたアチコチの窓や引き戸などを片端から締めて回っていた。燭台の灯明は『仏様の智慧』。お供えの花は『仏様の慈悲』。そして香のかおりは『仏様の功徳』だと、三具足の意味を特に大事にしていた。
気持ちはわかるが、崖っぷち在家坊主のボクとしては、どうしても信心の気持ちが自分の暮らしの楽な方へ傾いてしまう。

本堂の荘厳を調整して、お参りの施主家の位牌を整えて、番茶を沸かしてお供えして、着物に着替えて帯を締めて・・・いろいろ滞りなくお参りの準備を整えて一休みしていたら、庫裏の玄関先で訪問の声が聞こえた。
急いで出てみると、電話があったお宅の娘さんが玄関先に立っておられた。
「お母さんがヨロシクとのことでしたので・・それじゃぁ~、先がありますので、これで・・・」
取り付く島もないまま、玄関先で立ったままお供えらしきものを受け取ってそれで終わった。
本堂の準備がすべて意味のないことになった。

もう、その施主家とは「縁が切れたことになったのだろう・・・」と、ボンヤリ確信できた気がする。
こちらから強く引き止める気もない。信心は自発的能動的行為の先にある。
本堂を元に復元して、戸締まりを確認して、万善寺をあとにした。
あの、やたらに暑い吉田家とワイフの小言と無視を決込むネコチャンズが恋しくなった。

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梅雨本番 

2018/07/04
Wed. 23:53

飯南高原とその周辺に点在する禅宗寺院の大般若会法要が一巡して一段落。

昨年までは、万善寺だけがポツンと離れて8月にあった。
そもそもの大般若会法要の意味合いから、地域の事情を考慮した春から初夏へかけての時期に法要を集めたほうが妥当だとして、住職を引き継いでから何年もその気持を温めていた。それが今年になってやっと具体的に実践できたことになる。

島根の飯南高原あたりは毛利元就さん以降寺院の改宗などで浄土真宗が殆どになった。
その中で禅宗は臨済宗2ヵ寺、曹洞宗3ヵ寺が現役で機能していて、他宗も含めて他の幾つかの寺院は廃寺か空き寺か兼務寺になる。
大般若会法要を厳修するのは現役で機能する禅寺だけで、それぞれ手間替え随喜する。

大般若会は、原則として600巻の大般若波羅蜜多経典を転読する佛法興隆国家平安身体安全祈祷としてとても重要な法要になる。各寺院の住職が導師を勤め、大般若理趣分経を読み通し、同時に随喜の方丈さまが大般若波羅蜜多経を転読される。
住職の理趣分経作法は寺ごとに口伝されたものでそれぞれ違うが、住職の世代交代もほぼ落ち着いた最近は、特におたがい申し合わせるわけでもなく、なんとなく随喜の方丈さまに負担のかからないような工夫が各寺院でされるようになってきた。
ざっくりいうと、割愛も出来ない大事なポイントを抽出して法要を簡易的簡潔にまとめるということ。
正式な法式に沿って法要を勧めたら相当長いことになって、お参りの檀信徒さんもグッタリ疲れて祈祷どころではなくなって本末転倒と化す。
時代の流れに流されてばかりもよろしくないが、世間の目が向く先を無視もできない。
大事なのは、それぞれの方丈さまが経典の根本をしっかり自覚して粛々と念を込めて一つの法要に向き合うということだと思う。
もっとも、万善寺住職のナンチャッテ坊主は、なかなかキッチリと念の入った理趣分経読み込みが出来ないで恥ずかしい始末だが・・・

とにかく、6月に万善寺が終わって、7月に入って昨日厳修された臨済禅寺の大般若会で今年の各寺院が一巡した。なんとなく気持ちもスッキリして清々しい・・・といったところだが、天気の方は思わしくなく、法要が終了するのを待っていたように、曇天が増して雨になった。梅雨だから仕方ないことだが、それにしても最近の島根全域はいつも以上に水含量が増して、このまま雨が続くと災害を避けられないところまできている。
寺のことはもちろんだが、石見銀山も気になるし、断続的な豪雨の続く銀山街道を北上して夕方少し早めに吉田家へ帰着した。
珍しくクロが愛想よく出迎えてくれた。シロもどこかから現れて甘え鳴きしながら抱っこをせがんできた。ネコチャンズも豪雨の天候不順で落ち着かないのかもしれない。
ワイフに帰宅を伝えて荷物をおいてシロを抱きしめてやった・・・のだが、それが気に入らなかったのか?突然腕の中でもがき始めておもいっきり引掻かれた・・・汗をかきながら大般若波羅蜜多経を転読したのに、ボク自身へのご利益は付いてこなかったようだ・・

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突然一瞬多忙万善寺 

2018/07/03
Tue. 23:58

先月の終わり頃になって法事が立て込んだ。
「基本年中暇万善寺」が「突然一瞬多忙万善寺」になって、住職の暮らしが一時期大きく変わった。

些細なことも含めて一つずつ上げればキリがないが、強いて「コレだ!」と云えば、食生活に炭水化物が激増したこと。
年齢のせいもあるのだろうか、最近は食欲をあまり強く感じることが薄らいで、日頃から朝食と昼食を併せてお昼前後の1食と、あとは吉田家でワイフの手料理を夕食に堪能させてもらって、その時にちょいと1杯やれば、それで1日が満足して終わる・・・という日常に慣れていた。
その日常が法事の連続で乱れた。

法事の度に頂く斎膳弁当、お餅と赤飯、法事まんじゅう、和菓子・・・どれも、あまり日持ちのしないものばかり・・・
法事が終わって斎の席をしばらく過ごし、「坊主は中座が習わしとなっておりますので・・」と断って少し早めに席を辞して寺へ帰ると、まずはお布施以下、法事の一式をお供えして、それから御下がりを一つずつ確認して、日持ちのするもの、夜の留守番諸氏の好物、ナマモノなどなど仕分けする。
お布施は頭の黒い夜の輩にとっては好物だろうが、いつも留守番しているネズミ達にとってはそれほど興味が無いものなので、そのままご本尊様へしばらくお供えする。
海苔とか麺類などの乾物やクッキーなどの洋菓子とか調味料詰め合わせなど日持ちのするものは三方へ懐紙を広げてこれもしばらくご本尊様とか両祖様とか位牌堂とか、それに豊川様へ分配してお供えする。
一考を要するのは、夜の留守番諸氏の好物を仕分けすることと、日持ちのしないナマモノのお供え管理・・・これは、原則として夕方の本堂巡回にあわせて御下がりとして庫裏へ持ち帰ることにしている。
最後に、斎膳弁当・・・これは、さすがに仏様へお供えするわけにいかないので、大体はワイフへのお土産にする。

そして・・・贅沢にも有難く坊主頭を抱えてしまうのは、生菓子やお餅赤飯。
これは、吉田家へ持ち帰っても冷蔵庫でパリパリに固まって眠り続けることになるか、テーブルの端に放置されてカビの温床になるか・・・だいたい先行き粗末なことになってしまうので、万善寺の冷凍庫でしばらく保管することになる。
お供え餅は、包丁が入るほどの硬さを見計らって切り餅にした後冷凍庫行きとなる。
この、万善寺冷凍庫がこの度連続した法事でオーバーフローした。
その冷凍庫から溢れた幾つかは冷蔵庫で保管するがそれも限りがある。

結局この1週間あまり、毎日寺の一人飯は冷蔵庫から溢れた麺類と餅と赤飯を順繰りに回転させながら、和風洋風手を変え品を変え味を変え食べ続けている。
それで今夜は3巡目のパスタ・・・これでやっとあと一束茹でればパスタ完食となる!

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豪雨の小祥忌 

2018/06/29
Fri. 23:30

最近・・というか、近年の雨の降り様は尋常でない。
昨日から本格的な雨になったが、これが突然物凄い豪雨がドッと降り出して境内がアッという間に池になってしまうほどのゲリラ豪雨。これほど激しい雨が一瞬で降ると、いつもの排水の傾斜や大屋根からの雨樋などまったく役に立たないでアチコチでオーバーフローを起こす。
一昔前はこういうタイプの雨など降らなかった。
それに、しばらく続いた猛暑も6月のうちに気温が30℃を超えることなど記憶の限り経験がない。

前日から深夜にかけて、飯南高原は大荒れに荒れた。
浄土寺前住職の一周忌法要の朝も大雨で明けた。
司会原稿はすでに届いていて、それを元にお参りのお檀家さん用レジュメ解説も45部印刷しておいた。万善寺住職の事前準備はすでに終わっていて、あとはそれらを忘れないように大衣用の頭陀袋へ仕舞えば良い。
玄関前に横付けしておいた銀くんの屋根で大屋根からあふれた雨が大きく跳ねて窓ガラスを流れ落ちている。銀くんへ乗り込むのも一苦労で、雨のタイミングを読み誤ると改良衣が一瞬でずぶ濡れになりそうだ。他に荷物もあるし、一周忌法要は朝からえらいことになった・・・

なんとか、大雨の間隙を縫って銀くんへ飛び乗って、国道へ合流して右折した。
朝のこの時間帯は対向車線を通勤の車列が広島方面へ流れている。飯南高原の町役場や小中高の学校もそっち方面になるから、それが影響しているかもしれない。
国道54号線は、数年前に松江から広島尾道を結ぶ松江尾道道が全線開通した。一部区間を除いてほとんど無料通行区間になっているので、長距離の物流や商用車はほとんどそちらへ迂回するようになった。
それ以来、国道の交通量が激減して、日頃は近隣地域の生活車専用道となった。国土交通省の出先機関がすぐ近くにあって頻繁に巡回している様子なのに、なぜか国道の補修工事が殆ど無い。自動車道が開通する前は一年中どこかで補修工事をしていて、片側交互通行でイライラの連続だったが、最近はそういうことも稀になった。
今度の猛烈な豪雨が補修のない国道のくぼんだ轍を頼りに流れ下って一瞬で川に変わった。轍を避けられないまま銀くんを走らせていると洗車マシーンを潜っているようにすっぽりと雨水に浸かってしまった。
いつもはたった5分の距離がやたら遠く感じた・・・

そんな悪天候の中、法要は粛々と進み、斎膳の頃にはそれまでの雨が嘘のように上がった。
プリントの部数がかなり余った。この雨でお参りを躊躇されたお檀家さんも多かったのだろう。自然を相手にどうなるものでもないから無理はしないことだ。
司会解説をしながら先ごろ書いた塔婆の裏書きを思い出していた。さすがにこの豪雨では「坐看雲起時」の境地に浸る余裕など、ナンチャッテ坊主には無理なことです・・・

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浄土寺一周忌解説

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差定配役 

2018/06/26
Tue. 23:18

今週末には同宗寺院の先住忌法要がある。
早いもので、現職のまま遷化されて1年が経つ。
その大和尚さまは、遷化の半月前に万善寺の憲正さん三回忌の法事で導師をしていただいた。
あの時は、まさかそれから1ヶ月も経たないで亡くなられるとは思ってもいなかった。焼香にも立たれ、香語も用意され、お経もいつもどおりおつとめになられた。斎膳でもお酒を飲まれ、終始にこやかに過ごしておられた。
1年後の今にして思うと、すでにその頃は病気も進んで体調不良が続いていたのだろう。それを周囲に悟らせないまま平然とされる姿を思い出すと、そこまでの精神力の強さや覚悟に驚くばかりだ。

一周忌の法要では、司会の配役を指名された。
私の膝が曲がらなくなってしまったので、正座や三拝などの所作が難しいだろうと配慮を頂いたことになる。
膝のことは、もう10年は前に「アレッ?なにかへんだぞ??」と思い当たることがあって、それをかばいながらそれまでと同じ日常を過ごしていたら、今から4年くらい前のことだっただろうか??・・・彫刻の制作中に些細なことで怪我をしてしまって、その怪我が膝の症状悪化を誘発してしまったことが、現在の状況の原因になってしまった。
10年前というと、ちょうど、それまでの彫刻のテーマを次につなげようと悩んでいた頃で、何度めかの個展も思いついていて、それで一気に制作の展開を決めてしまおうと、そのことばかり思いながら1年近く彫刻を引きずっている時期だった。
膝の不具合を無視して、数十kgの鉄材をほぼ人力で動かし続けていたことも、膝にとっては大きな負担になっていたのだろう。

いずれにしても、曹洞宗の方丈さま方の差定配役所作は、素晴らしくキリリと締まった振る舞いに終始するから、私のように正座もできない坊主は法要全体の流れを乱す不届き者であって、無理して表舞台へしゃしゃり出るような真似は慎むべきことである。何もしないわけにいかないし、あてがわれた配役を謹んで承って、現ご住職のお考えに即した。
いずれ、期日が近づいたら原稿をいただけるだろうから、それまでに自分で出来ることを少しずつまとめているところだ。司会と云っても、結婚式披露宴のようにベラベラと賑やかに場の盛り上がるようなおしゃべりを続けるわけにもいかないし、宗門には、司会専門といえるほどの立派でプロフェッショナルな方丈さまもたくさんいらっしゃるから、わたしにできることは、ほとんどなにもないに等しい。そこで、思いついたのが、レジュメのような解説をプリントしてお参りの皆様へ配布すること。こうしておけば、法要までの暇つぶしにもなるし、法要中に場の読めないおしゃべりを続けることも減るし、それに、メモ程度のことでも文字に置き換えておけば、檀信徒の皆さんもあとになってよくわからない仏教用語の確認ができるかもしれないし、なにもないよりは少しはなにかの役に立つこともあるだろうと、無い知恵を絞って原稿を作り始めた。
カットの一つくらいは「あってもいいかな?」と、久しぶりに筆でメモしてみた。お仏壇の重要な三具足(みつぐそく)の配置ですが、みなさん、なんの絵かわかりますか??

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縁日 

2018/06/24
Sun. 23:15

毎年弘法大師さまのご縁日前後に御大師講があって、地域の集会所におじゃまして、安座されたお大師さま尊前の守護祭事とお参り各家先祖供養の塔婆回向を厳修する。

そもそも、お大師さまは真言宗の開祖様なので曹洞宗の万善寺が宗派を超えて大事な法要を厳修して良いものなのかどうか・・・現住職としては判断に苦しむところではある。
そういう、一抹の疑念を感じながらも、代々地域に根づいた民衆の宗教行事もそれはそれで大事なことだし、仏教の場合は此岸の高僧が入滅後の彼岸の国ではすべて立派な仏様となられてこの世に暮らす我々俗人の救済活動に日夜専念されていると言われていることでもあるから、ボクのようなナンチャッテ坊主でも「少しはお大師さま代行の役に立っているのかもしれない・・?」と思うようにして、前住職から引き継いだことを心をこめておつとめさせていただいている次第。
それで、だいたい春の田植えが落ち着いて、梅雨に入って田の水の心配も落ち着いた今頃から、お盆を挟んで秋分の日に至る時期で適当な日を決めて法要の依頼が入ってくる。
お大師さまは毎月21日がご縁日となる。縁日の定義は主役の神仏によって色々だが、お大師さまの場合は入滅の日が縁日になったようで、それが現在まで引き継がれている。
私が御大師講へ前住職のお供でお参りするようになってからそろそろ20年位なるかもしれない。前住職の身体が動くうちは送迎要因でお付き合いし、そのついでに鳴り物の担当などをしていた。その後、仏事の全てを任されるようになって塔婆回向の和讃も私がするようになった。

縁日の場合、最近の年回法事と違って施主家の都合で日程調整されることは、基本的にあまりよろしくない。その日その当日の法要厳修がご利益につながる訳だから当然のことだ。だから、縁日の法要は昼の仕事が一段落した夕方から深夜にかけて厳修される。昔々は神仏がそれぞれの役割を果たしてバランスよく共存していたから、毎月の縁日になるとお参りのあとさきに夜店が出て娯楽の役を果たしていた。今でも日本の各地でその名残が続けられていて、規模は極小であるものの、万善寺の場合も縁日法要は全て夕方日が暮れて夜になってから始まる。周辺の寺院がその時々の事情で縁日法要を取りやめたり割愛したりするようになってからあとも、万善寺の前住職はそれをしなかったし、むしろ頑固に守り続けようとしていた。理由を詳しく聞き取ったわけではないが、基本的には仏宝興隆の重大さを祈念してのことだったと思う。
こうして、今現在縁日法要を引き継いでみると、その重大さが少しはわかるようになってきた気がする。
神仏の役割は現代文明や科学経済社会では証明の実態がない嘘言で済まされているようなところもあるが、そうはいっても、ひとの存在全てを客観的に必然的に証明できる社会構造が確立されているわけでもない。ひとの考えはひとそれぞれで、世間の常識が全ての人類に機能しているわけではない。今の世の中、殆どの人類はファジーなカオスに支配された迷宮で蠢いているばかりだ。そうであれば、能動的に何かを信じて何かにすがることで自分を楽にして浄化する具体的な手段が少しは現代社会に存在しても良いと思う。「おかげさまで・・・」生かさせてもらっている自分を客観的に見つめることも大事なことだ。
お大師さまの御下がりをいただいて、万善寺へ帰宅したのは夜9時を過ぎた頃だった。

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隠居が消えた 

2018/06/23
Sat. 23:48

10時始まりの法事なので、その準備をしていたらどうも体の節々が重たくて動きがポンコツロボットのようになってしまう。
いつもだったらしばらく我慢して動き続けていたら夜の間に硬直していた筋肉が少しずつ緩んで楽になる・・・そう思ってコーヒーを入れて白衣を着たりして、足袋を履こうと思ったら腰が曲がらないし膝も上がらない。
「どうもいつもと様子が違うなぁ〜・・・」と、しだいに気になり始めて、最近の数日間を振り返ってみたら、思い当たることが一つあった。
「本堂の荘厳の片付けだな・・・」

1年に2〜3回は本堂の荘厳をする。
まだ副住職だった頃は、年間のスケジュールを住職が取り仕切っていて、荘厳の日程も副住職(ボクのこと)の都合関係なく、寺の都合ですべてが決まっていた。どうしても私が荘厳を手伝えないことも時々あって、そういう時は内室の母親がブツブツ言いながら住職を手伝っていて、その時の様子をあとになって逐一漏らさず副住職の私へ報告というより小言の矛先を向けてきた。
そこまでして手伝ってもらわないでもいいだろうにとその頃は思っていたが、今になると荘厳作務の厳しさが身にしみてよくわかってきた。小事を聞きながらでもそれを我慢して手伝ってもらうほうがまだマシで助かる・・・のだ!
荘厳の片付け復元は、準備ほどではないがそれでも結構体力が必要になる。
踏み台の上り下りや長梯子の上り下りを20〜30回は繰り返しているだろう。これは、日頃自堕落に過ごしているナンチャッテ住職としてはかなりのハードワークといえる。
1週間の間に荘厳の上げ下げ2回を一人でこなしているわけだから、老体の節々が重たくなるのも当然のことだ。

「今朝は、身体が動かなくて足袋を履くのも一苦労で・・・まったく、体力も弱ってつまらんよぉ〜になりましたわぁ〜・・・」
お仏壇の前で法事朝課のお経を一通り終わった中休みのお茶をいただきながら世間話のつもりで万善寺の事情を話していたら、隣で聞いていた施主の親父さんが申し訳無さそうな神妙な顔で頷いていらっしゃる。
その様子に「シマッタ!」と気付いた。
飯南高原に点在する寺院は80%以上が浄土真宗さん。
だから、門徒さん方は毎月のように報恩感謝の勤労奉仕を習慣にしていらっしゃるし、寺の報恩講などの仏事法要には門徒さん参集で荘厳作務に汗を流される。
地域の付き合いの中でそういう実態は周知のことだから、万善寺のお檀家さんが寺の法要仏事にどれほど楽をしているかをよくご存知で、それの実態に目をつぶってヤブを突かないようにと、かえってその苦労があるかもしれない。
今は核家族が進んで、昔のように各家に「隠居」が消えた。寺とはだいたい施主家を代表して隠居さんが責任を持ってお付き合いされていたから、寺のことに堂々と手も口も出せていたところもある。
現住職の方も、ヤブを突きすぎないようにそれなりに気を使っているところであります。

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ブルース・スプリングスティーンを聴きながら 

2018/06/17
Sun. 23:38

5月の連休中に102歳の大往生でお檀家のおじいさんが亡くなった。
それからあと、葬式を済ませ七日つとめを続けて、早いものでそろそろ四十九日をむかえる。ご親族の集まりやすいところで日程調整をされて、少し前倒しの法事になった。
万善寺は大般若会が終わったばかり。
連日の仏事法要が続くから単身赴任住職を続けることにして、ワイフとは慰労代わりの夕食を近所の蕎麦屋で済ませてそこから左右に分かれた。

法要や準備の疲れが溜まっていたのだろう、蕎麦で腹一杯になって寺へ帰ったら睡魔が襲ってきた。
最近ずいぶんと日が長くなった。それに、梅雨のわりに晴れる日が多くていつまでも外が明るい。
庫裏の主だったところを片付けて白衣などを洗濯機へ放り込んで一段落して、インターネットラジオをONしてゴロリと横になったところまでは覚えているが、いつの間にか寝落ちしてしまったようであとが空白になった。時々、ラジオから流れるポップな洋楽が遠くで聴こえることがあって、それが数回あった。
次に目が覚めると、すでに深夜だった。
ラジオはフュージョン系の軽めのJAZZが流れていた。
少しずつ覚醒して、大般若会のひと通りのことが思い出されてきて、夕方まだ明るいときに寝落ちしたところまで記憶がつながった。
そこで、「そうだ!・・・法事の準備が出来ていない!」ことを思い出した。
塔婆を書くこと、仏前香資を包むこと、経本を揃えること、大般若会で着ていた大衣をたたんで襦袢や白衣などを用意すること、それに、法事後の15分程度のお話のネタを探すこと・・・四十九日の節目の法事だから、いつもの年回法事より支度の内容が重たい。
さて・・・目が覚めたついでにこのままそういう準備に取り掛かるか、又は、もうひと眠りして早起きしてそれをするか・・・そうこうするうちにラジオの曲種がJAZZからR&Bに変わった。

のどが渇いたから、大般若会で余った番茶を飲んでオシッコをした。
法事の準備で悩みながらSNSをチェックしていたら、ノッチが写真をウエブアップしていた。
日本の島根県の万善寺で坊主家業にせいをだしている、ほぼ同じ頃に、ノッチはラスベガスからグランドキャニオンへ移動してパワースポットを堪能している。
それにしても、北アメリカ大陸は広大で日本の飯南高原や琴引山あたりとはスケールが違う。
ダウンロードしてモニターで拡大した写真を見ていたら、ラジオからEaglesが流れてきてそれからクラシック・ロックに曲種が変わって、グランドキャニオンの断崖に立つノッチへBruce Springsteenが重なった。
結局、眠気もどこかへ飛んで目が覚めたから硯を持ち出して墨をすることにした。別に信念を持って決めているわけでもないが、塔婆を書く時の水は洒水の清めも兼ねて井戸水にしている。それで、洋楽のロックを聴きながら塔婆を書くのもどうかと思うけどね・・・

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大般若会厳修 

2018/06/16
Sat. 23:49

美術のコアなメンバーで午前0時過ぎまで作戦会議と称した飲み会を続けたから、普通どおりに起きれるか心配しながら寝たのに、なんのこともない、大般若会当日の朝はいつもにも増して爽快な目覚めになった。

まずは飲み散らかした食器類などを片付けて、本堂を一巡して、玄関の掃除に取り掛かっていたら、自前のシュラフへ包まって寝ていたタケちゃんが目を覚ました。少し落ち着いたらコーヒーでも淹れてあげようと思っていたのに、そのまま慌ただしく身の回りを片付けて帰っていった。
タケちゃんの場合、土曜日は普通休みなのだろうに仕事があるようなことを言っていた。私のような自営業と云うか自由業は世間の休日や祭日など関係なしにその時々を乗り切っているから、前回の休日はいつだったのかまったく記憶にないまま普通に毎日が過ぎているが、月々の給料で暮らしている厚生年金組の人たちはもっと規則正しく就業することをしても良いはずなのに、なかなかそうも云っていられなさそうだ。当事者で慣れてしまえば、いつの間にかそういう暮らしも当たり前になってしまうのかもしれないが、やはり労働条件のねじれ具合を身近で見聞するとあまり良い感じがしない。

大般若会の受付帳場で必要なものをプリントアウトしたり塔婆回向用の硯箱を準備したりしていたら、手伝いのワイフが到着した。
万善寺の年中法要は、全てワイフとナンチャッテ住職のボクと二人で大雑把に役割分担を手分けして切り盛りしている。
近隣寺院でこの極小規模の寺院経営は例がない。1日の仕事量を収支計上すると、万善寺主催の法要事業としては、なんとかして現状維持を続けないと収支のバランスが崩れて一事業での赤字が確定してしまう。厳しい話だが、もちろん役員報酬は返上して布施収入の全てを随喜方丈さんへの接待費と薄謝、お参りのお檀家さんの茶菓子代と粗品、本堂の荘厳やお供えの消耗品、それに若干の事務費や案内配りの行動費に当て、残りがワイフの人件費になるというスンポウだが、場合によっては人件費大幅カットもあったりして、そういう時は別立てのポケットマネーをかき集めてワイフのご機嫌をとらせていただいているといったあんばい。
そうまでして、「わざわざ年中行事を増やす必要もないだろう!」と、ワイフに小言を言われつつ、やっと念願かなって大般若会を別立てにして厳修することが出来た。
結果、事付けも含めて予想以上のお参りになった・・・といっても、17人。
この数字は、今の万善寺としては上出来だと思う。それに、この法要で女人信者さんが微増したことも特筆に値する。
そうそう・・・随喜をお願いしていた方丈さんがお一人欠席された。事前にお知らせはしておいたのだが、法要の移動を失念されたのだろう。おおよそ予測もできていたから大勢に影響はないものの、やはり大般若会としてはもう少し賑やかであってほしかった。

今の宗教離れに拍車のかかった殺伐とした世の中にあって、寺の役割が葬式や法事の弔事だけではないのだ!・・・ということを、少しでも体験的に知ってもらえるようにできればいいと思っている・・・
「おつかれさま!」「おつかれさま!」・・・ワイフと二人で1日をねぎらいあった。心地よい疲労になった・・・

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箪笥 

2018/06/12
Tue. 23:36

大般若会には手間替え随喜の方丈さんが5人集まるはずだが、昨年までと日程の変更をしたから、さて・・覚えてもらっていて集まってもらえるかどうか・・・微妙なところだ。
これは、檀家さんにも言えることで、万善寺の法要と云うと、盆正月のお参りで20人集まれば良いほうだから、これも日程移動の影響で半減する確率が高そうに思う。
雨の中、案内の印刷物を配って歩いたが、「今はちょうど忙しい時期だけぇ〜ねぇ〜〜」と先手を打たれるところもあった。近年の神仏信仰離れは目に見えて加速しているから、それも時代の流れということで、私一人が「信心、しんじん、シンジン・・」とドタバタ大騒ぎしてもしょうのないことだ。日頃のお檀家さん仏事教育を怠けていたツケが回ってきて、それが今頃になってボディーブローのごとく効き始めている。
ひところは、代替わりにもなったことだし、気持ちを引き締めて「仏法興隆に励もう!」と意気込んだこともあったが、とっくにその熱も冷めた。
残りわずかの人生、今以上に心身が充実して盛り上がることもまず無いし、体力の低下と上手に付き合いながら、万善寺の作務の日常を繰り返すだけのことだ・・・というわけで、年代物のガタピシ箪笥をやっとメンテナンスすることが出来た。
この箪笥は、私が物心ついた頃から先代夫婦が日常の小物入れに使っていた。
最上段の引き戸には薬や電池電球などの日常の消耗品が入っていた。
その下の三列の引き出しには左から文房具類、封筒便箋類、そして一番右にはドライバーとか肥後守とか千枚通しとか爪切りなどの工具刃物類が入っていた。
その下の2列に並んだ引き出しの左側は憲正さんの日記帳や印鑑小銭入れなどで、右側は俊江さんの日記帳や健康手帳などが入っていた。
その下には5段の長引き出しが縦に並んで、それぞれに障子紙などの日常のものや仏事絡みの半紙などの消耗品、繕い物に使う端切れとか、タオル・てぬぐい・布巾が集めてあったりと、その箪笥は半世紀以上全く同じ状態で使い続けられた。
3年の間に相次いで永眠した前住職夫婦の日常が今まで手付かずのまましまい込まれてあった。
箪笥を使うかどうかは後で決めることにして、とにかく、ひとまず中の物を全て出して廃棄するものと残すものを選別しなければいけなかったのだが、それが今まで延び延びになっていた。外は雨だし、大般若会の法要では庫裏の二部屋を方丈さんの控えの間で使うことになるし、どうせそういうこともあってキッチリと掃除する必要もあったから、こういう機会でもないとまたズルズルダラダラ何年も箪笥の片付けを引き伸ばしてしまうだろうし、思い切って整理することに決めた。ことを始めれば、せいぜい2〜3時間もあれば片付くことなのだが、それが今まで出来ていなかったわけだ。
引き出しからは思いもしない色々なものが出てきた。二人ともとにかくやたらと物持ちが良かった。憲正さんの日記帳は、独特のクセ字でビッシリ書き込まれてあったが、平成の時代から少しずつページの余白が目立つようになってきて、入退院を繰り返すようになった後は連日の書き込みも途絶えることが増えていた。俊江さんは、死ぬ週までビッシリと細かい字で1日の出来事が記入されていた。几帳面な性格で健康オタクでもあったから日記帳の他に健康手帳の血圧データも血圧の計測器が壊れるまで毎日欠かさず記帳されてあった。あらためて時間をつくって二人の日記を読むまでのこともないとは思ったが、なんとなく処分を躊躇した。箪笥の方は私の代までは使い続けることになるだろう。

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雨の万善寺 

2018/06/11
Mon. 23:32

夜中に雷で目が覚めた。雨もかなり激しく降っている。
万善寺大般若会のご案内を飯南高原に点在するお檀家さんへ個別配布しようと印刷まで済ませておいたのだが、朝からあいにくの悪天候でボクの心は折れそうになった。
天気のことだから坊主の神頼みも当てにならないし、俗人ナンチャッテ坊主の仏頼みはもっと当てにならないし、モーゼさんとか弘法大師さんのように奇跡を起こせるわけでもないし・・・夏シーズン用のシュラフに包まって眠れないままゴソゴソしていたら、部屋の何処かでクロが「フニャァ〜〜」と小さく鳴いた。
クロは、手乗りの小さな頃から吉田家に同居するようになったから、猫らしくない猫に育ってしまった。それでかどうかわからないが、飼い主のボクに似て内弁慶のチキン猫になったものだから、このくらいの雷でもけっこうビビっていたりする。あいつのビビっているようすが気になって余計に眠れなくなったので、ウエブ配信のラヂヲを流して、それを聞きながら寝ることにしたのだが、結局まともに眠れないまま朝になった。そしてその頃には雷がいつの間にか収まって雨だけが激しく降り続いていた。

V字に切り立った山並みの谷底を流れる江の川の支流に沿って銀山街道を飯南高原まで登り続けると、勾配が緩やかになったところから飯南高原が始まって広がる。ちょうどそのあたりから正面に見える山の尾根には戦国時代の山城跡の石組みと平地が遠望できる。
飯南高原は石見銀山で精錬された銀を尾道まで運搬する陸路のちょうど中程で、ソコを過ぎると中国山地の難所を越えて瀬戸内側の広島県に入る。そういうところだから、銀が発見されてからは戦国の土着豪族たちの利権を巡っての攻防戦が絶え間なく続いた。山城跡のすぐ下を流れる川は、やがて幾つかの支流が合流して最終的に神戸川になって大社近くの日本海へ注ぐ。

飯南高原は、今でこそ高齢者人口が大半を占めるかぎりなく限界集落に近づいた過疎地になっているが、江戸時代中期くらいまでは、日本の先進工業地帯を支える重要な物流と工業資源の拠点でもあった。
何故か万善寺のお檀家さんは、そういう飯南高原のいちばん端っこの辺鄙なあたりを選んだように点在している。雨が降っても軒下を使えば濡れないで托鉢ができるほどの町の中心にある近所の同宗寺院がこういうときほど羨ましく感じることはない。
いつもより、30分は余計にかかっただろうか・・・昼近くになってやっと全て戸別訪問でご案内を配り終えて万善寺の境内へ到着したら、リーバイスの裾がグッショリ濡れてそのまま座敷に上がることも出来ないから、まぁ、自分の他に誰もいないし庫裏の玄関先でパンツだけになった。それから、1合の土鍋でご飯を炊いて、そのあいだに冷凍庫に保存中のワイフが持たせてくれた蕗の佃煮を解凍して、またその解凍中にコーヒーを淹れたりして、そんな感じで昼食にした。
午後からは、本堂へこもりっぱなしで荘厳を整えた。外は雨だから、かえっていつもより集中できた。はしごの上り下りを数え切れないほど続けたから、それが膝に応えて後半はかなり辛かったが、現状の万善寺の荘厳関係の備品としては、ソコソコの出来栄えになったのではないだろうか。近所のお寺さんでは仏具屋さんとかお檀家さん青年部へ委託することもしているらしい。ボクの自力で荘厳できるのもあとどのくらい先までだろう?

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線香の効能 

2018/06/07
Thu. 23:15

梅雨に入って一日中雨が降って湿っぽくなった。
いつもの通勤坊主で万善寺の庫裏玄関を入ると、家の中がヒンヤリして寒いくらいだ。
前日の雨で湿気が入り込んで部屋中に停滞している。

坊主の知恵というより、ボクの思いつきだが、少し暖かくなってからあとのこういう湿っっぽい時は、長巻の蚊取り線香を点けることにしている。それで、煙の漂う方向を追いかけて、その日の空気の動きをザッとチェックして、一番効率の良い場所へ置く。朝にそれをしておくと、夕方には田の字のガタピシ庫裏の端から本堂の端まで線香の煙が行き渡って、家の中の小虫がはびこることをそれなりに食い止めてくれる。
周囲を耕作放棄地や雑木の茂った里山に囲まれている山寺は、ほったらかしにすると小動物や虫たちの絶好の繁殖場所になってしまう。
蚊取り線香も、長巻一缶50巻を使い切る頃はうっとうしいシーズンがだいたい終わっているから、それほど無駄使いしているふうには思わない。むしろ、そういうことをケチって日常の環境の不具合を見て見ぬふりで1シーズンを過ごしてしまうと、気づかない間に虫たちにアチコチ蝕まれて色々なものが使い物にならなくなっていたりする。それこそ、余計もったいないことで、未然の予防に蚊取り線香の一缶くらいたいしたことでもなんでもないと思っている。

蚊取り線香とは成分も用途も違うが、寺ぐらしで線香は欠かせない。
特別の時は香木のエキスを練り込んだ上等なものを使うが、いつもは杉葉線香を常用している。俗に言う墓参り線香のようなものだから香りを楽しむアロマの効能など期待できないが、それでも、使用が習慣になると、線香の香りが寺の隅々まで染み付いて、時折風の向きが変わって室内の空気がかき混ぜられるときなど、ほのかに漂う香りが気持ちを仏様へ向けてくれる。

朝のうちの肌寒さが嘘のように天気が回復して暑くなった。
草刈り機の修理も終わったし、チェンソーのパーツはまだ未納だがそれでもなんとか母親の呪縛で苦戦している駐車場周辺の整備が一気にはかどりそうだ。
剪定ばさみと枝ばさみに鋸と鎌と熊手を駆使して夕方まで約2時間かけて水路の土手をザッと刈り込んだ。
一息ついてデッサンを確認するように少し離れて全体を見渡すと、半世紀ほど前の子供の頃に見ていた昔懐かしい石垣の様子が再現されていた。それでもあの頃からすると今は、石垣の東の端がサツキの根に掘り起こされて崩れ落ちていた。やはり、手付かずのほったらかし荒れ放題ではダメだ。年間の節目を上手にわきまえて適度なメンテナンスを継続することがだいじなことだ。「守り育てる」とはそういうことだと思う。

「山は人が入らんようになると死ぬけぇ〜ねぇ〜・・・」
憲正さんと同級生だったまぁーちゃんがまだ元気だった頃、法事の斎膳で昔話のついでにそう話していらした。彼は定年退職まで林業に従事していて保賀周辺の山を熟知していらした。寺に小虫や小動物が増えたのも山が人間に放棄されて荒れたからかもしれない。

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2020-08