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工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

シキビのポプリ 

2020/07/01
Wed. 18:06

ツツジの花が終わって菖蒲に変わった頃から剪定が追いつかなくて手つかずのままになっていたサツキが満開になった。
大般若経転読法要の厳修を目指して梅雨の雨と相談しながら境内の整備を進めていたのだが、結局今年も中途半端にその日を迎えてしまった。

飯南高原を中心に手間替え随喜でお付き合いをさせてもらっている寺院では、すでに二カ寺がコロナウイルス蔓延を受けて法要中止を決めた。
例年だと4月から始まっている弘法大師さんの供養法要も二つのお大師講が法要取りやめとなった。
いずれにしても法要の主催母体が判断して決めたことで、決定に従うことも大事な義務だと分かってはいるものの、一方で宗教信仰の根本となにかしらのズレが生じているようにも思えてしまうのは自分だけのことなのだろうか?
現代社会の世間常識がコロナに向けて世界規模である一定の方向へ舵を切っているような状況だから、一個人の宗教的思想などどうでもいいようなことなのだろうが、私個人としては現在の日本寺院は「まず檀信徒お参り在りき!」というところから各種宗教行事がスタートしているというのも何処かおかしな気がするのだけど・・・
それぞれの寺院でお祀りの御本尊様はじめ各種仏様の功徳に感謝し檀信徒お一人お一人の身体安全を祈念し、各家先祖代々を追善供養し、それに何より人類の平和や国家の安寧を祈念するというような宗教信心は、檀信徒のお参りが有ろうが無かろうが日々粛々とおつとめを続けていくということこそ宗教家の本来あるべき姿であるように思う。
私のように「チョット彫刻制作があって・・」とか「1週間ほど展覧会があるもんで・・」とか言いつつ住職が平気で無住職になってしまうような超いい加減なナンチャッテ坊主は、毎日同じように日々のおつとめを続けることなど出来ているわけもなく、だからこそせめて寺の年中行事で厳修される法要くらいは体力の続く限り休まないで続けていくことくらいしか出来ないと思っている。

法要厳修に向けて境内の整備作業しながらいつものようにお寺からの法要案内のお知らせを配布して回った。お参りもゼロでは無いだろうと思っていたら法要の当日は15人ものお参りがあった。例年でもお参りはせいぜい20人足らずのことだから、飯南高原の皆さんは日頃から十二分なコロナ対策が出来ていて「感染の恐れなし!」と自信を持っていらっしゃるのだろうと感心した。各種メディアで連日のように具体的な予防対策が流れているからすでに皆さん周知のことで、皆さんそれぞれそれを実践されながらのお参りとなったのだろう。
今年は接待を自粛してペットボトルのお持ち帰りを用意した。それに、少しでもお役に立てばと思って、いつもの大般若経守護札に加え、乾燥させたシキビをポプリにして携行用守護札を造った。当日午前中に別途祈念して香に勲じたものをお参りの皆さんへ持ち帰っていただいた。日頃気忙しい暮らしの毎日に、シキビのほのかな香りを身近に意識することで万善寺の大般若経転読会の祈念守護を思い浮かべていただければ良い。

アチコチで栗の花が終わり、今は合歓木が花を咲かせている。

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2020大般若案内

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おがむこと 

2020/05/24
Sun. 17:23

自然の再生や成長のスピードに万善寺境内の整備作務が追いつかない。
人力の手間にエンジンの草刈機やチェンソーくらいでは太刀打ちできない。
あれもこれも理想や完成度ばかり追いかけていても、現実の実態に許容量が伴っていなければどうしょうもない。今の自分にできることをコツコツと続けていくしかないことだ。

「いつもお世話になります!長谷の○○ですが・・・今年のお大師さんのことなんですけど・・・」
万善寺の大般若経転読会まですでに1ヶ月を切って、弘法大師さんの月縁日もチョット前に過ぎたところだから、そろそろ問い合わせがあるかもしれないと思っていた。
万善寺から出雲街道を北上して出雲大社参詣道の一つへ合流してしばらく行った先にある集落が長谷になる。名前でわかるように保賀の集落とは比べ物にならないほど端から端までが長い。小学校までかなりの距離があって子供の足で通学が難しいということで昔は長谷分校があった。今の長谷お大師講メンバーの半分はその分校卒業生で残りの半分くらいは分校が廃校になった後の本校卒業生で私より若い。
長谷お大師講は集会所に改修した分校へ各家にお祀りのお大師様を集めて供養法要と先祖代々や古墳一切の塔婆回向がされる。電話はそのお伺いだった。

この近年はどの地域も代替わりが進んで、お大師講をはじめ、昔ながらの観音講とか薬師講などの民間信仰が廃れてきた。住職坊主の方も同じように代替わりが続いて、それを契機にお寺の方から御講の廃止を勧められたりされてジワジワと衰退が進んでいる。
万善寺はお寺の開基が天台宗絡みの曹洞宗だったりした関係からか、代々の住職口伝で祈祷法要が大事にされてきた。私も副住職のころから先代の侍者で各地域の御講法要へ出かけていたから、毎年の慣習として先代を引き継いで絶えること無く今に至っている。
電話は、コロナ渦の影響で世話人さんが開催の有無を悩みつつの相談だった。
「万善寺の法要はお参りの自粛があってもお寺での法要中止はありませんが、それでコロナを軽く考えているわけではありません。外出や三密集合の自粛もそろそろ2ヶ月になりますし、それだけの間に皆さんの自覚の気持ちも身についていらっしゃるでしょうから、それぞれのお考えで行動されても良いようにも思いますけど・・・お寺としては、むしろこういう状況の時であるから、余計にみんなでシッカリとコロナ終息への念を込めておがむことも大事なことと思っていますので・・・」
「お寺さんの方からそう云っていただくとこちらも少し気が楽になります。実は自分も中止する必要はないだろうと考えていたものですから。今度集まりがありますので、お寺さんのお考えもお話ししてどうするか決めさせていただこうと思いますので・・」改めてどうなったか連絡していただくことになった。話し合いが上手くまとまるといいけど・・

人の気持や考えは頭の数だけ人それぞれだから、ことの善し悪しとか正解不正解とか成功失敗とか、それぞれ条件とか環境によって判断が変わるだろう。これほど世間にコロナ渦が周知されると、個々人の軽率な行動はその人の責任に委ねるということも、人それぞれの人間力を高める方策に思う。お互いの自覚の深さや重さがコロナ渦終息に向けての支えになると、私個人はそう思っている。

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お粗末住職 

2020/05/20
Wed. 17:10

島根県は不要不急の外出自粛要請が緩和されて、一見すると以前の日常の暮らしが戻ってきたように感じるが、2ヶ月近く続いた自粛生活に慣れてしまったのか、人の集まりやすい関係各所が自主的に自主規制を延長しているのか、金融機関やスーパー・コンビニなど何処へ行っても窓口に透明のビニールスクリーンがぶら下がっていたり、床に距離をおいた足跡マークやラインテープが貼り付けてあったり、それになにより公衆の場で行き交う人々のマスク姿はほぼ100%に近い。

寺の年間宗教行事は今のところすべて中止の状態が続いている。
何もなくて今まで通りの日常だと、5月中旬までに教区の新年度役員総会があったり、お大師講や大般若経転読会が開催されて、本年度の活動がスタートしている時期だ。
そうした、殆どすべての事業が中止されて宗教活動が完全に停止している中、教区のお寺さん方が事務局寺院へ集合して新年度最初の研修会と総会が行われた。
このところ雨の降り癖が続いていて、毎日のように降ってくる雨で境内周りの作務がすぐに中断してしまうものだから、雨のやみ間を見つけて10分でも20分でもチョコチョコと外に出て庭木を剪定したり裏山の熊笹を刈り込んだりしていて、研修総会の日も午前中はデスクワークをしながら外の様子を見ながら、庫裏を出たり入ったりと慌ただしく過ぎた。そういうことを言い訳にするわけではないが、総会に持参する大切な書類や印鑑などが入った手提げの籠を丸ごと忘れてしまったことに気づいたのは、車で20分くらい走った先にある会場寺院へ到着した後だった。ソレがないと総会が先に進まないほど大切なものだったから事務局にことわって万善寺へ取りに帰ることにした。そうして2往復している間に総会の定刻が過ぎてしまって、会場ではすでに研修会が始まっていた。内容は障害者差別の根絶に関する事例研究だった。その後総会で会計報告などすべての議題が終わってからマスク着用でお集まりのお寺さん方へ遅参の失礼を謝した。
教区のお寺さん方と今年度はじめて顔をあわせることになった日に遅参の失敗をするという「なんともお粗末な万善寺の住職となってしまったなぁ〜〜・・・」と1日を振り返りつつ運転しながら「去年の総会はどんなだったっけ??」と思い出そうとしたが、まったく思い出せないまま、そのうち万善寺へ到着してしまった。
昨日今日の出来事を忘れてしまうと、そろそろ痴呆を疑ったほうがよさそうであるらしいが、1年前のことを思い出せないくらいだと、それも痴呆のうちに入るのだろうか?憲正さんはどうだったかなぁ〜?
・・・とにかく、頭の思考回路が停滞して忘れることの多い1日が終わった。

午後からは台風並みの物凄い強風で帰りの銀くんが何度もふらついてかなり緊張した。
「この風だと今年の梅や李は全滅かもしれない・・・去年は良い梅がたくさん採れたのになぁ〜・・・」
右腕の痺れが残ったまま退院してまだ間がなくて、身体の無理も利かなくて庭の草刈りも出来なくて荒れ放題だったけど、梅や李の周辺はなんとかして下草だけは刈った。
「手術は成功ですがもう頚椎の中の神経が損傷してますから痺れはこれからも残るでしょぉ〜」と退院時にドクターから宣告された・・・アッ!そうだ!!去年の総会はまだ入院中だった!
陽が沈む少し前に出雲街道から右折して銀山街道へ入る頃にはすでに強風はおさまっていて、また雨が降りはじめた。

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Tさんのシキビ 

2020/05/18
Mon. 16:05

コロナウイルスのおかげで今までの我が人生で経験したことのない毎日を送っている。
それでも、都市部や市街地に暮らす人々よりは随分と楽に過ごしていると思う。
幸いなことに生まれも育ちも島根県の山間部の小さな集落が集まってできた小さな行政区であったし、成人して結婚して30歳前にUターンで帰省してからも少年の頃の暮らしと大差ない生活に戻ったくらいのことだったから、自分としては特に不自由を感じることもなく子育ても済ませて今に至った。
このままコロナがなければ、彫刻制作や在家坊主の家業もそれなりに惰性で乗り切って歳をとって行くばかりのことだっただろう。
日頃から人付き合いにマメな方でもないし、マイペースに毎日を過ごすことのほうが性に合っているし、人恋しくてしょうがないというわけでもないから、個人的にはコロナの影響もほとんど無いといえばそうなのだが、やはり、いくら末寺の山寺でも法要の中止とか法事の延期とかがこの1ヶ月に集中して重なってくると、たった数千円とか数万円のことでも収入が有ると無いでは営業維持管理に気持ちのゆとりがくなってしまう。それでも、食べることに関しては何かと手間がかかるものの季節の旬へ上手に寄り添って付き合って贅沢を考えなければ1年中食材の絶えることもなく、ありがたいことだと思う。

万善寺の諸仏様へお供えの仏花はシキビにしている。
先代の住職は色物が好きで、季節の花をお供えしていたが、特に夏場になると花入れの水がすぐに溝臭くなって線香の香りに混ざってしまうことが気になって、私はソレが嫌だった。それで、先代住職の足腰が弱って本堂の諸々と縁が遠くなった頃合いをみてさり気なく何気なく少しずつシキビの出番を増やした。
もう、かれこれ30年近く前になるだろうか?そのシキビの自生苗木を彫刻仲間の木彫作家Tさんが送ってくれた。
Tさんは、新潟の確か出雲崎あたりの出身だったかと思ったが、思い違いかもしれない。
彼は埼玉の方で宮大工の棟梁だった。職人さんを抱えてお寺を新築するくらいの立派な経営者でもあった彼は、一方で木彫の抽象彫刻作家でもあった。展覧会のデビューが私と前後して近かったし、アルプやブランクーシや、それに酒が好きだとか、坊主つながりで良寛さんのこととか共通の話題が豊富で、とても親しくお付き合いをしてもらっていた。
展覧会場が上野から六本木へ移動した頃から展覧会の不出品が増えて彫刻制作や出品から少しずつ縁遠くなった。若い頃から持病があってソレが悪化したとか、宮大工の工務店経営が思わしくないとか、そのあたりの「だろう話」くらいしか耳に入らなかったし、直接本人と話のできる機会もないまま少しずつ疎遠になって今に至っている。

彼から頂いたシキビの苗は、その後吉田家の裏庭でスクスクと育って、今は万善寺の仏花で欠かすことの出来ない大切な存在になっている。春に花が咲いてちょうど今時分、陽の光を通すほどの瑞々しい若葉が芽吹いて少しずつちぢれ枯れた古い葉が落ちて交代する。
昨年末に活けた寺の花入れのシキビも花が咲いて散って、それから少しずつ落葉が進んで若葉に変わり始めた。この調子だと6月の大般若経転読法要まで保つだろう。

こうして、Tさんのシキビは半年ごとに活けかえながら万善寺の仏花で生き続けている。

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祈る毎日 

2020/05/09
Sat. 23:51

「31日に法事したいんですが空いてますか?」
「丁度その日は大般若法要の手間替え随喜が入ってまして・・・この時期のことなので中止になるかもしれないし・・ご案内のはがきがそろそろ届くと思うんですが・・」
「そぉ〜ですかぁ〜、こういう時なので法事も近い親戚だけにして自宅の方で一切済ませようと云うことで話してるところなんですけど、それでもそろそろ予定を決めて案内しておかないと・・・」
「そぉ〜ですねぇ〜、なにかとご心配のことです・・・それじゃぁ〜、先方の方丈さまへ聞いてみますので、なにかわかったらこちらから改めて連絡させていただきますので・・」
・・・とにかく、この度のコロナ騒動は先々の展開が曖昧で見通しがつかないで困る。
生命が一大事ということは承知だが、具体的に実態が見えてこない驚異に対してはどうしても気持ちが緩んで、みんなが頭の数だけ考えも違ってなかなか一つ事にまとまらない。
在家坊主の末寺住職ごときであっても、自分の都合を優先で仏事を押し通すわけにもいかないくて、末寺住職だから余計に「あなたの都合」へ寄り添ってあなた次第を優先しながら毎日を過ごしている。

大般若法要開催の有無を問い合わせたらご住職は仕事で留守だからと老僧が応対された。「ハイハイ、こういう時期のことですから、住職も中止の方向で考えているようで、ご案内が遅れていまして・・・どうぞどうぞ、オタクの都合を優先してくださいませ・・」
「そうですか、それじゃぁ法事を受けさせていただきますので、何かのときはお知らせくださいませ。ご住職へ宜しくお伝えください」
と、一応の了解をとりつけて電話を切った。
ご住職本人は、確か小学校だか中学校だかの校長先生をされているはずだ。奥さんも学校の先生で、老僧夫婦も昔は先生だった。子供は何処かの大学の医学部で勉強中のようだし、お寺全体が先生で集まっている。
万善寺はというと、年中行事の法要が一つなくなると現金の布施収入が途絶えて、一気に生活が厳しくなって月々の光熱水費もまともに支出できなくなってしまう。何が何でも法要を中止するという選択肢は無い。万善寺23世現住職は想定外の苦労を背負ってなかなか平静でいられない。

5月に入って直ぐに本堂の仏具を須弥壇の御本尊様へ向かって正面に配置換えした。
先代住職は、祈祷法要の続くようなことがあると時々そういうふうに経机を配置換えしていたのだが、ナンチャッテ坊主の現住職はそこまでして祈祷できるほどの技量もないし、在職以来今まで祈祷で御本尊様へ向き合うことなど恐れ多いと避けてきた。
世界へ蔓延したコロナウイルスは500万人近く感染しているとされる。第二次世界大戦で民間軍人あわせて5000万人の被害者とは桁が一つ違うものの、現代地球世界の発展を思うと、自然の具体に対して人々はあまりに傲慢に驕りに過ぎ無知で無力だと感じる。
森羅万象のうつろいに寄り添って分相応の自分を静かに見つめることも今を生きる人にとって大事なことのように思いつつ、下手な祈祷太鼓に託して国家昌平万邦和楽福寿長久、それに山門康寧を祈る毎日である。

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美味しいお布施 

2020/05/08
Fri. 23:36

街道沿いの様々な萌黄色に染まった山並みの所々で遅咲きの桜が満開になっている。
桜の淡いピンクとヤマツツジの濃いピンクが一面エメラルドグリーンやライトグリーンをした山並みをバックにして引き込まれるようにキレイに映えて見惚れる。
連休中は不要不急の外出自粛で銀山街道もすれ違う車もまばらでのんびりとしたドライブを楽しむことができた。
平日に戻った日は七日努めの日だったから朝少し早めに石見銀山の自宅を出発した。
島根県は外出の自粛要請が月末まで延長されたが、農家の田植えを始めとして在宅勤務が難しい仕事もそれなりにあるようで、朝の通勤時間帯で行き交う車が一気に増えた。いつもなら、特に気になる量でもないが、いつの間にか連休中の閑散とした世間に慣れてしまっていたようで、曲がりくねった狭い道をすれ違う緊張が倍増した感じだ。

七日努めのお宅は、最近ではとても珍しくなった三世代家族が同居されている。
そのおじいちゃんが4月の終わりに亡くなった。
おじいちゃんのお父さんは若くして亡くなっていたし、まだ戦争中でもあったから自分より年下の兄弟姉妹を親代わりになって育てたと聞いた。
本人はとにかく無口で物静かな方だったから、お寺にお参りの時や棚経でお邪魔した時もこちらから話題のネタを用意しないと自分から口を開くことはまず無かった。
七日努めも早いものでもう三・七日が来た。
初七日の時はおばあちゃんと亡くなったおじいちゃんの親戚親族の他に同居の息子夫婦やお孫さんも在宅でにぎやかだった。
二・七日からはおばあちゃんが一人になって寂しくなったが、お経が終わるとお茶口代わりの煮物になったいろいろな旬の山菜が並べられてティータイムが始まる。
おばあちゃんの方はとても話し好きで、昔のことやおじいちゃんのこと、庭木の剪定や畑に田んぼのこと、息子さんや嫁さんのこと、それに、親戚付き合いのことまで絶え間なく話題が尽きない。
今はコロナウイルスの関係で学校が休みになっている。息子さん夫婦は連休中は田んぼの田植えが忙しいし、平日になるとそれぞれ仕事があるしで忙しくしていらっしゃるが、おばあちゃんのおかげでお孫さんの在宅に心配がない。そのお孫さんはおかあさんといっしょに山へ入って筍とかわらびなどの山菜や旬のものをたくさん採ってきてくれるそうだ。
収穫されたものはおばあちゃんが農家ならではの昔ながらの方法でアク抜きなどをして煮物にするのだそうで、そのお惣菜をこうしてお茶口代わりに私が美味しくいただいていると云うわけ。
おばあちゃんの家庭料理は先代住職の憲正さんも大好きだった。まだ副住職の頃から法事の時に先代住職と二人でおばあちゃんの手料理を「美味しい美味しい」とよく食べていた。帰りには引き物とは別に持ち帰りの折り詰めにしてもらった。お茶飲み話でそんな昔のことが話題になったからだろう、「チョット待っとってくださいや。今ちょうど筍の茹でたのがありますけぇ〜」と持たせてくれた。
「柔らかく茹でてあって美味しそうよ!なかなかこうはならないのよね・・」ワイフが喜んでいた。きっと美味しい煮物に仕上がるだろう。
お金には変えられない美味しいお布施を頂いた。

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不殺生戒の憂鬱 

2020/05/06
Wed. 23:17

連休最終日の朝はすでに9時前から気温が20℃を超えて夏のように暑くなった。
少し前は雨が降り続いていてトレーナーだけでは肌寒いから、もう洗濯して仕舞ってあった冬物をまた引っ張り出して重ね着などしていたのに、急激な気温の上下に自分の身体がついていかなくて苦労する。

朝のうちに境内の掃除をできるだけ先へ進めていこうと思って本堂の東側へ回ったら、猫や豆柴より少し大きいくらいのアナグマがのんびりと散歩していた。
夕方に裏庭をうろついているのは見かけるが、朝のうちに境内で遭遇することは今までになかったことだ。時々ゴロリと寝転んでリラックスしているし無理に追い払うのも可愛そうな気がして、ひとまずその場を退散してやり過ごすことにした。見た目は可愛いがすごい爪を持っていて結構凶暴だったりするからあまり刺激をしないほうが無難だ。結局、その日はそれから他のことをしていたら屋外の作務に手が回らなくなってそのまま過ぎた。

境内の東側には豊川稲荷の祠がある。
狭い境内だから冬になると本堂の屋根からずり落ちた雪に押されて今まで何度も横倒しに倒れている。
見かねたお檀家さんが「基礎石にアンカーでも打って止めてしまったほうがいいじゃぁ〜ないですか?なんならワシがやってあげますで、そのくらいのこと・・」と親切に言ってくれるのだが、そうして無理に固定してしまったらかえって祠がバラバラに壊れてしまうおそれもあるので、気持ちだけ有難くいただいて申し出を断ることにしている。
倒れた時は、雪が消えて初午祭までに近所の男手を3人ばかりお願いすればなんとか元通りに安座できる。そのかわり、ご本尊の荼枳尼天さまやあれこれの仏具がそのままだと祠の中でひっくり返って粗末になるからそれらのものは本堂の拝殿へ遷座してそちらの方で手厚くお祀りして拝ませてもらっている。
そういう、なんとも扱いにくい豊川稲荷さまであるが、たまに地域のお年寄りがお参りされることもあるので荒れ放題にほったらかすわけにいかないから季節の節目には少し念入りに整備している。
昨年の春は入院で留守にして、その間に祠の周辺に山が一気に迫って様変わりした。
アナグマがいなくなった頃合いを見て様子を見てみると、昨年まで見ることのなかった小さな黄色い花が満開に咲いていた。最初はタンポポくらいに思っていたのだが、まったく違った種類の花だった。いつの間にこれほど密集して根付いたのだろう。
その黄色い花のせいでもあるのだろう祠の周辺がどこかしら華やいだ感じだから刈払うのも可愛そうというかもったいない気がして、ひとまずその花が終わるまで境内作務を待つことにした。

軟弱な情に流されて後になっておおごとになることがよくある。
随分昔から寺の境内のアチコチへ己生えのマーガレットが根付いていて、ソレがそろそろ白い花を咲かせ始める。そうなると、今度はまたその花が咲き終わるまで刈払うのも躊躇することになってキリがない。
なかなか殺生に踏ん切りがつかない。生き物に優しすぎるというのも厄介なことだ。

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万善寺の旬 

2020/05/05
Tue. 17:41

雨後の筍とはよく云ったもので、寺の朝の用事が一段落して少し落ち着いてから境内をひと周りしてみると、イノシシの掘った穴の周辺を中心に二番目三番目の筍が一気に伸びていた。
次の雨が降るまでこのままにしておくと、筍が本格的に伸びてそのまま竹になってしまうから今のうちに掘り起こしておかないといけない。
イノシシは実に贅沢な奴で、これでもかというほど深い穴を掘って刺し身で食べられるほど柔らかくてアクのないまだ地面から頭を覗かせる前の一番目の筍を狙ったあと、二番目以降の筍は見向きもしないでほったらかしにしてしまう。人間はイノシシのお下がりをいただいているようなものだ。

筍の場所を確認してから昼食前の草刈りをした。
最近は、夜になると雨が降ってきてそれが朝まで続く。
昼のうちはそれなりに晴れてくれるから外仕事もそれほど停滞することもなくて助かってはいるが、一方で境内の周辺にはびこる熊笹や春の雑草が一雨ごとにぐんぐん伸びてしまってキリがない。
一年前は手術から退院まで春の5週間ほど万善寺のことがほったらかしになってしまった上に、退院後の仕事制限まで加わって営繕作務もままならないまま夏が過ぎ秋も深まる頃には見るも無残な荒れ寺になってしまった。一度そういう状態になってしまうと、なかなか以前のような見た目に戻すことも難しくなってジタバタしているうちに冬になって年が変わってまた春になって1年が過ぎた。
今年は暖冬で雪もなかったからお彼岸前には境内の作務に取り掛かって今に至っている。

腕や手指の痺れを騙し騙し作務を続けて庫裏の裏庭を掃除した。
これから本堂の裏庭へ掃除を進めて、東側から前庭に移って参道脇の草を刈りながら駐車場のぐるりへ移動する。其処から境内の石垣を巡って庫裏の西側まで草刈りが終わる頃にはそろそろ梅雨が間近に迫っていて、梅雨の長雨に蘇った裏庭の雑草が瑞々しく成長を再開して今度は本格的に丈夫な夏草になる・・・結局、いつまでたっても終わりのない草刈りをしながら寺の周辺をグルグル回っているわけだが、さて、こういうことがあと何年続けられるのだろうか・・・そのうち境内にはびこる雑草の成長に追いつかなくなって年々荒れ寺化が進んでいくことになるのだろう。
まだ副住職の頃に聞いた隣町の浄土真宗のご院家さんのお話を思い出した。
「○○町の✕✕寺さんが空き寺になりましてねぇ〜、この歳ですけぇ〜門徒さんの法事くらいしか引き受けられませんけぇ〜ねぇ〜」と条件付きで兼務していたら、ある年のお盆前にその寺へ行ってみると、なんと本堂の座の下で竹が伸びて座板や畳を押し上げて御本尊の阿弥陀さんのすぐ前で天井を突き破っていたそうだ。
浄土真宗さんはそれこそ世襲でお寺を守っていらっしゃるから、寺の維持管理をするにも目に見えないところでご苦労も多いことだろう。

万善寺も昨年1年で一気に竹林が境内の直ぐ側まで迫ってきた。イノシシの筍掘りもあてにならないし、床下で筍が芽を出す日も近いかもしれない・・・

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琴引山遠望 

2020/03/12
Thu. 23:50

大練忌の朝、万善寺はマイナスまで冷え込んだ。
前日には法要の準備などをして横になったのが深夜になった。その少し前くらいから冷え込みが厳しくなってきたから、雪になるか放射冷却で空が晴れ上がるかどちらかだろうと思った。目が覚めると庫裏の南側の窓が障子越しに明るくなっていた。布団の中で吐く息が白い。いつもより早めに起きて玄関の鍵を開けて、それから本堂から庫裏までぐるりと一周朝の用事を済ませた。
吉田家からはワイフとじゅん君が怜子さんの大練忌にお参りしてくれる。
トシちゃんたち夫婦は直接遺骨と一緒にお寺へ来てくれる。
法要のお手伝い随喜を隣町同宗ご住職へお願いしておいた。

予定した大練忌差定が粛々と進み、喪主以下ご親族の焼香で無事に全て終了した。
斎の会は、飯南高原の丘陵にある薬膳レストランを予約しておいた。
地産の野菜や島根各所の地物をふんだんに使ったコース料理で満腹になった。
そのレストランは、時々の節目にワイフと食事に出かける。いつだったか「怜子さんにも食べてもらいたいね・・」と二人で話した記憶があるが、結局叶わないまま過ぎた。
万善寺先代夫婦は、まだ彼らが元気な頃に何度か連れてきたことがある。
内室のおかみさんはその日のおまかせコース料理が好きだった。晩年は指の関節が固まっていて箸が思うように使えなくなっていたから、豆などの箸を使いにくい皿のものは直接指で摘んで食べていた。あまり行儀の良いことでないが「美味しく食べてくれたらソレが良い・・・」と、見ないふりをした。

レストランからは琴引山の山稜がよく見える。
植林の中の登山道を一気に登って最初の尾根へ着くと、そこから幾つかの稜線が緩やかにアップダウンを繰り返しながら山頂まで続く。
その山頂は草野球ができるくらいの広い平地で、その端の岩場に御宮が安座されてある。
昔は、その御宮から山頂に広がる平地へ40以上の宿坊があったらしい。宿坊と云っても、仏道修行者が寝起きする程度の掘っ建てのようなものだったと思う。万善寺の起源はその宿坊の一つから始まったようだ。
琴引山の麓である飯南高原一帯は、戦国時代毛利と尼子の領地争奪の激戦地だった。戦国の武将たちは戦略や策略や政略などあらゆる手段を駆使して時代を生き延びた。万善寺開基殿はその中の一人の武将に行き着く。彼は、最後まで尼子方に組みして敗戦を期に出家したらしい。その出家僧の生地がどうやら銀山街道沿いの宿場町であったようだ。私は、通勤坊主で朝夕その町を通過している。銀山街道古道はくねくねと続く渓流を渡りながら両岸のわずかな平地をたぐって飯南高原まで続いていた。町に続く小山の山頂にあった山城は銀山街道の関所の一つとして機能していたようで、その宿場町はたたら製鉄とか養蚕業などの地産や石見銀の運搬業などで賑わっていた様子がうかがえる。

葬儀開練忌から続いた仏事も大練忌をもって一区切りついて、少しだけ気持ちが晴れた。
琴引山の遠望が雲ひとつない飯南高原に映える。
いつもの万善寺に戻った境内を、あの目付きの悪い黒猫が横切った。

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幹カンジ 

2020/03/10
Tue. 23:06

「早くからすんませんなぁ〜・・○○寺でずが、チョットお時間大丈夫でしょうか?」
住職の朝は比較的早いから、まがりなりのナンチャッテ住職のボクももう起きていて特に支障はなかったっが、それにしても一般的には躊躇してしまうような時間の電話だった。
だいたい坊主業では、一般的な時間外の電話というのはあまり良いことでない場合が多いし、同業ご住職からの電話だし、何事かと若干緊張した。
「ハイ、大丈夫ですが、何か?昨年は何かとお世話になりまして、ご面倒をおかけしました・・」
ひとまず、当たり障りのない返事を返すと、
「その節はこちらこそ、なかなか至らないところもありまして・・・」
などと、しばし、儀礼的会話が続いたあと・・
「ところで、お願いがありまして連絡させていただきました」
やっと本題に入った雰囲気だと弔事のことではなさそうで、少し安心した。それで、要件は宗門組織の事務的なことだった。
「教区から幹カンジを二人ほど出すことになっておりまして、その役を引き受けてもらえないかと・・・」
「ソレはご心配なことです・・・が、私にできるようなことでしょうか?」
「もちろん大丈夫なことです。オタクのようなユニークな方に是非引き受けていただきたいことです。用事と云っても1年に2〜3回の会に出席して頂く程度のことですので、なんとか引き受けていただくと有り難いのですが・・・」
「そういうことなら、もっと適任がいらっしゃると思いますが・・・」
「イヤイヤ、オタクが適任ということでお願いしておりますので、いかがなものでしょうかねぇ〜」
「よくわかりませんが、私で良ければ構いません。受けさせて頂きます・・・」
・・・と、云うことになった。
先方の方丈さまは、何となく安堵された様子で、それから少しして電話が終わった。

今年は、万善寺が教区の総会会場で回ってくる。
私が先代から住職を引き継いだ年に当番会場が回ってきたからこれで2回めになる。
説教老師の巡回があって、それに教区の総会がセットされる。当番寺院は老師の接待と、教区の護持会会員の総会出席の世話をすることになる。昭和の昔は、総会が終わったあとの懇親会も夕方まで賑やかに盛り上がって、各寺のみなさんが散会されるとそれから万善寺役員の皆さんで慰労会が始まるという、数年に一度巡ってくる一大事業だった。
今は、そういう親睦も割愛が普通になって、老師のお話と総会が終わると出席分のお弁当を配布して散会になる。あとは数人の役員さんが後片付けがてら残ってささやかな慰労をしてその日の夕方には終了する。前日の老師接待からだと1日半くらいあれば事業全て終わる。それでも、会場となるとそれなりに気遣いも多いし、人並みの心労もある。
幹事の方は一度引き受けると「再選は妨げない・・」などと都合の良い理由をつけて任期がしばらく続きそうな気がしないでもないが役不足は棚に上げておいて「一人一役」を前提に、まずは一応「NO!」は言わないことにしている。
益々彫刻業が減って坊主家業が増えてきた・・・

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国家平安万邦和楽 

2020/03/04
Wed. 23:22

この数年で随分と坊主家業に従事することが増えた。
昨年は、今まで前例がないほど葬儀が多くて、ソレに付随した法要仏事も絶え間なく続いて、その上、例年変わりなく寺の過去帳から繰り出している年回法事もあるし、とにかく、1年で70%以上は万善寺のことで始まって終わった気がする。
先代の憲正さんは、生涯100%専業坊主で乗り切って住職在職も60年に至った。
その先代の御蔭で自分が40年以上彫刻制作を休まずに続けてこられたのだと、今更ながら間違いなく確信できる。
昭和から平成令和と世の中の情勢が大きく変わる中で、昭和20年代から殆ど大きく変更することもなく万善寺の諸仏事が引き継がれてきたのは、禅嶽憲正大和尚のブレない仏教家としての強い信仰心があったからだと思う。それでも、元号が昭和から平成に変わろうとする頃から憲正さんの愚痴が少しずつ増えた。お寺の仏事行事へのお参りが1年毎にみるみる減っていったことに我慢ならなかったのだ。
その頃から人々の仏教離れの加速が始まっていた気がする。

副住職時代が長かった私は、憲正さんの仏教家としてのジレンマと間近に接しながら、一方で寺の仏事から隠れるように彫刻制作へ逃避していた。
嬉々として彫刻に没頭していた頃が懐かしい。
今は、時々フッと出来たヒマに描きためた小さな彫刻のメモがかたちにならないまま貯まる一方になっている。たぶん、このままなにかの反故に紛れていずれ破棄されてしまうのだろう。
憲正さんを引き継いで住職になって、職業坊主の末席に着いたように自覚できる今、彫刻を絶やそうとは思わないが、できるだけ万善寺の過去からの伝承も絶やさないようにはしようと考えている。

1年に一度の万善寺初午祭が巡ってきた。
初午の日は毎年動くからその都度飯南高原をグルッと一回り約60枚ほどのお知らせを配布して回る。今年は雪もなくて楽に一巡できたが、当日は前日までの好日が嘘のように前夜から雨になって冷え込んだ。
それでも、法要には6人ほどお参りがあった。
それこそ憲正さんの頃は、雪をかき分けて20人以上のお参りがあって賑やかな法要になっていて、お参りのみなさんも内室のおかみさんが心づくしの手料理で世間話に花を咲かせ、ちょっとした地域の情報交換の場にもなっていた。
今のように、ワイフがおかみさんのあとを引き継いだときには、すでにお参りも半減していたから、当時の賑やかな初午祭を彼女は知らない。それに、殆ど毎年平日の祭事になって彼女の手伝いもないから、住職一人で本堂と庫裏を数え切れないほど往復した。
いずれそのうち、お参りが0人になる日が近いかも知れないが、それでも自分の身体が動くうちは法要を絶やさないでいようと思う。
前日までの美食が過ぎて、お経の最中は足の裏がピリピリ傷んだ。
万善寺豊川稲荷荼枳尼天さまへ、国家平安万邦和楽五穀豊穣商売繁盛を祈念し、お参り各家の家内安全身体堅固を祈り、ついでにチョットだけボクの痛風減痛を願った・・・

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お祝い法事 

2020/03/01
Sun. 23:11

3月になって早々の法事は朝から穏やかな日差しが降り注ぎ、気温もぐんぐん上昇して、着物に着替えて改良衣を羽織ったりするとジットリ汗ばむほどになった。

万善寺では50回忌からお祝い法事としてご案内させていただいている。
先代のお供で50回忌を越えた法事へ出かける時は、すでにお檀家さんの方で法事趣旨を心得ていらっしゃって、ご親族も遠方まで声を掛け合って参列されることが普通で、ソレはソレは賑やかな法事になっていた。
まだ20〜30年前はお斎の膳に酒がつきものだったし、お祝い法事になるとソレにプラスして各自の膳に尾頭付きの鯛がついていたり、刺し身の盛り合わせや巻き寿司があったりと、大盤振る舞いの豪華で賑やかなことだった。先代は法事が終わるとしこたま酒を飲んで施主家の歴史を交えた昔話に花が咲き、引き物や大皿やお供えのお下がりなどのお土産と、食べきれなかった斎膳を弁当に詰め直して、抱えきれないほどの大荷物を副住職(もちろんボクのこと・・)へ持たせて良い機嫌で寺へ帰って、それから酔が冷めないまま内室のおかみさん相手のお茶飲み話に花を咲かせ、その日の法事の顛末を嬉々として語り継いでいた。
50回忌からの塔婆は、それまでの板塔婆から角塔婆へ変わる。
法事の数日前に大工さんがお寺まで特注された角塔婆を持参して、住職は半日くらいかけてたっぷりと墨を摺って4面それぞれに戒名や経文や禅語香語などを書く。それからしっかりと1日位墨を乾かして施主家へ電話するとその角塔婆を引き取りに来て大事そうに持ち帰る。法事の当日に施主家へお邪魔すると、床の間の「南無釈迦牟尼仏」の掛け軸と並べて角塔婆が立てかけられて、その前に三具足が並び仏膳がお供えされてある。
特にこれと云った住職からの指示があるわけでもないが、だいたいどこでも似たりよったりの扱いがされていた。

・・・さてさて、今はどうかと云うと・・・
「角塔婆は建てるところが無いですけぇ~、板塔婆でいいですけぇ~」とか、「100年も前の先祖さんは顔も知りませんけぇ~、お盆の塔婆回向でいいですわぁ~」とか、「みんな用事があるそうなんで、法事は家にいる者だけしかおりませんけぇ~、簡単によろしく!」とか、だいたい殆どが、そんなふうな「お祝い!」とは遥かに程遠い法事になってしまった。
「昔は、誰かが亡くなると組内の者が遠くの親戚まで知らせに走ってましたけぇ〜」
「そうそう、冬は雪で車も使えんから、組の若いもんが一日がかりで山越えして広島県まで行って帰ったりしよりましたがぁ〜」
「もっと遠くは仕方がないけぇ〜電報にしたりして・・・住所がわからんかったりしてアッチに聞いたりコッチに聞いたりして、葬式になるまで何日もかかったりしてねぇ〜」

3月1日の100回忌お祝い法事は、角塔婆こそ板塔婆で済まされたが、久しぶりに副導師の随喜も頂いて立派で賑やかに終始した。
私が住職になって約10年・・・50回忌を越えたお祝い法事で角塔婆を書いたのは5回とない。楽といえばソレまでだが「ソレで済ませていいのだろうか?」とふと思う時がある。

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逃げる2月 

2020/02/29
Sat. 14:12

早いものでもう怜子さんの5・7日小練忌がおわった。
万善寺に安座した仮位牌や仏具の前で一人七日努めのお経を読み続けているが、もう命日から5週間が過ぎた。急逝だったから、ワイフもトシちゃんも心の準備が無いまま慌ただしく通夜葬儀から告別式を終わらせて、気持ちの落ち着かないまま日常の仕事へ帰っていった。
いつもなら、2月の万善寺は立春が過ぎて時々初午祭のご縁日が巡った年は法要でお参りが数人ある程度で、あとは年回法事の仏事も殆どない。それでも1年で一番雪が沢山降り積もる時期でもあるから、単身赴任に切り替えて朝夕の参道雪かき道開け作務が欠かせない。
今年はその参道雪かきを1回しただけで、もう3月になろうとしている。

雪がないからだろう、2月は毎週末から連休にかけて年回法事が続いて、そのうち2日ほどは県境を越えて広島まで出かけた。
広島は毛利公の関係で浄土真宗が多く、法事の様式も万善寺とはかなり違う。法事にお集まりのご親族もいつもと勝手が違って戸惑い気味だ。
こちらもお檀家さんであるとは云っても飯南高原の気のおけない勝手知った近所付き合いの延長のような法事付き合いにならなくて緊張する。前日から塔婆を書いたり経本を揃えたり法要用の線香や焼香用の香炭を用意したりと準備だけで時間がすぐに過ぎた。

雪が降り積もっていないからなのか、目付きの悪い黒猫を頻繁に見かけるようになった。
以前は保賀の谷のアチコチへ出没していたようだが、最近は万善寺境内のどこかでほぼ毎日目が合う。
庭木の剪定をしていたらサツキの株脇で丸くなっていたし、銀くんを庫裏玄関へ横付けして荷物をおろしていたらボクの造った彫刻脇でジッとこちらの動きを凝視していた。勝手口で灯油のポリタンクを出し入れしていたら物置の曲がり角で行儀よく猫座りをしていた。その物置に入って剪定用のノコやカマなどを物色していたら日当たりの良い南側の窓際でゴロリと寝たまジッとこちらを見ていた時はかなりビックリした。本堂の仏花を替えていたら高床の座の下からボクの動きをしっかりとロックオンしていた・・・
2月になって接近遭遇が激増したので、境内へ出入りするたびに「ネコちゃん!」と声掛けを続けていたら、そのうちその黒猫の方も「どうやら自分は(ネコちゃん!)であるらしい・・・」と自覚するようになって、あてもなく「ネコちゃぁ〜ん!」と呼ぶとどこかからひょっこりと現れるようになってきた。まだ手が届くほど近くへ寄ってくるまででもないから彼か彼女か判別はできていないが、以前よりはお互いの距離が短くはなっているようだ。それにしても、いまだにその猫の鳴き声を聞いたことがない。まだ「鳴く」ということが人間とのコミュニケーションの手段の一つであるということを知らないでいるのだろう。

飯南高原で雪のない2月は私の人生で初体験になった。境内の掃き掃除や墓地への参道整備、それに俊江さんが健在だった頃からの懸案事項である荒れ放題に繁茂したツツジの伐採も少しずつ進んできたところだ。雪かきとは違った忙しい2月が終わろうとしている。

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花が咲いた 

2020/02/21
Fri. 23:37

怜子さん四・七日阿経忌の朝も前夜からの放射冷却でかなり冷え込んだ。
まずは本堂の業務用灯油ストーブを点火して、それから一連の朝の用事を済ませてから阿経忌のお経を読んだ。

正月用にお供えした梅とシキビに花が咲いた。
シキビは花入れの水を時々補充したり入れ替えたりしてお世話していると、半年を過ぎてお盆の頃まで長持ちして、条件が良ければ花入れの中で根を出すものもチラホラ出てくる。
梅は松や竹と一緒にお供えしたものだが、その時は小さくて硬い蕾が確認された程度だった。それが約1ヶ月の間に少しずつ膨らんで、立春を過ぎたあたりからチラホラと花を咲かせ始めて、今はだいたいどの花入れも満開になって見頃を迎えている。
松は元々丈夫にできているから水を絶やさなければかなり長い間松葉の緑を見ていられる。流石に春彼岸を過ぎて大般若転読の法要まで花入れにそのままというわけにもいかないから、少し寒さが緩んで春めいた頃合いを見てひとまず挿し木にまではしておくのだが、殆どはそのまま根付くこと無くいずれ枯れて地に帰る。
竹は切ってすぐから青葉が丸まって1日と保たない。それでお正月飾りの松竹梅を代表してとんど祭のお焚き上で天に帰ってもらう。

御仏前に線香と蝋燭と一緒にお花をお供えすることは、仏事の一つとして欠かせない大事な意味がある。
本堂の須弥壇には、木製金箔の蓮が一対お供えされてある。宗門の場合、それに季節の切花を添えてお供えするのだが、その決まり事は住職の考えや代代の引き継ぎなどで寺ごとに違っている。
万善寺先代の場合は、だいたい1週間に一度位を目安に季節の状況を見ながら花の入れ替えをしていた。先代がまだ元気で日常の買い物などが自分でできていた頃は、そのついでに花入れの数分ほど季節の花をドッサリ買って帰って、自分で入れ替えをしていた。一般在家のお仏壇へお花をお供えするようなイメージとは全く違って、本堂から庫裏まで全てのお供えを総入れ替えした後の大量のお花は、その捨て場所が決まっていて一箇所に集まって山になる。私は、少年の頃から時々住職の指令で花の入れ替えをしていたのだが、実はソレがとても嫌だった。シーズンが春から秋にかけては花入れの水とか廃棄された花の山がすぐに腐って、その匂いが万善寺中に広がる。慣れてしまうと気にならないのだろうが、時々お参りがあったり近所の用事で来客があったりすると、その人達は絶対に腐った匂いを敏感に感じていたはずだ。

先代から住職を引き継いだ頃から、少しずつジワジワと花入れの様子をシキビに変えてきた。飯南高原はシキビを仏花にする習慣が根付いていないから、はじめはお参りのお檀家さんも須弥壇や位牌堂の様子が地味になったことに違和感があったようだが、今はソレもなくなって、少しずつ在家のお仏壇へもシキビが浸透し始めている。
シキビは、一方で毒花でもある。お墓花に使われるのは、昼夜の動物に仏花が悪さをされないようにする意味もあるし、何より丈夫でいつまでも緑でいてもらえるからでもある。

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背中が熱い 

2020/01/07
Tue. 23:20

「夕べ7℃でしたよぉ〜。あたたかいですがぁ〜・・」
お通夜のはじまる前にお茶を用意してくれたお手伝いの奥さんがそう言っていた。
確かに、この2・3日は雨は降っているがあたたかい・・・というより、雨が降っているからあたたかいといったほうが良いのか??・・・とにかく、なにか、とてもおかしな冬だ。
「わたし、嫁に来てから雪のない正月はじめてですぅ〜・・」
お手伝いの奥さんよりどう見ても年上だろうボクでも覚えがないことだから当然のことだ。
「昭和38年の豪雪の時は、うちの方でも2階から出入りしてましたけぇ〜ねぇ〜」
「そぉ〜そぉ〜、寺も本堂の屋根から参道まで雪がつながってスコップをソリにして遊んでましたもの」
「もう、あれくらい降ること無いでしょうねぇ〜・・、ありますかねぇ〜・・」
「さぁ〜・・どうでしょぉ〜かねぇ〜・・だいたいに最近はずいぶんとあたたかくなりましたからねぇ〜」
「大万木山がまだ白くないですけぇ〜・・」
この時期のお通夜で雪がまったくないことは副住職時代も含めて経験がない。
夜は冷え込むかもしれないと思って白衣の裏へホッカイロを3個も貼り付けておいたのだが、全く効果がなくてむしろお経を読んでいる間背中が熱いくらいだった・・・

節分の前後にやってくる節分寒波があるから、それなりに雪の覚悟はしておかなければいけないことだが、それにしても楽な冬の葬儀になった。お手伝いの自治会の皆さんも助かっていることだろう。
亡くなったおばあさんのご主人は、電工さんだった。
私がまだ小学生だった頃はまだご主人もお元気で、万善寺のお年始会へお参りもされていた。それこそ、昭和38年の豪雪前後のことだから、毎年のようにものすごい量の雪が降っていた時代だ。
子供ながらによく覚えているご主人のお話がある。
たまたまのめぐり合わせなのだろうが、それからずいぶん経って私が学校の先生を早期退職する少し前に、別の電工さんから同じ話を聞いた。
「若いヤツはとにかくヤルことがザツだから危なくて見てられない。一つ間違えば自分の命が無くなるような危ない仕事をしているという自覚が薄いから、よく怪我もするし、すぐにバテてアゴを出す!」・・・というような内容のお話。
電工さんといっても色々な現場の仕事があるだろうが、いずれにしても高所での作業もあるに違いない。万善寺は山寺だから、昔は周辺に山仕事の林業従事者も多くて、植林の間伐材の下敷きになったり枝打ち作業中に転落したりと、仕事中の事故で亡くなる方も多かった。年回の法事を繰り出すときも何人か事故死があって、みなさん若死にだ。ちょっとした気の緩みがあったのかもしれない。
このたびのおばあさんは、30年も前にご主人を亡くされていたが、そのご主人は病死だった。それからまだ小さかったお子さんを女手一つで立派に育てられた。荼毘のお別れのすすり泣きにつられて、不覚にもお経の声が少し震えた。

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不戯論 

2020/01/06
Mon. 23:19

冬の雨は、冷たいと云うより暖かく感じてしまう。
いつもなら雪になってもおかしくない今の時期に、夜中暴風雨が吹き荒れて眠れなかった。
万善寺の南側は昔ながらのガラス戸が雨戸代わりに建てられている。それが強風にあおられてものすごい音で、耳について耐えられない。
結局、一晩ほとんど眠れないまま夜が明けた。
ワイフが留守番している吉田家のことも心配なので電話してみると、石見銀山も一晩中強風が吹き荒れて、雨もかなり降ったらしい。飯南高原で雨だから石見銀山も雨なのはわかったことで、どちらかといえば風の方が心配だった。
「少し前から目は覚めてるんだけど、シロも一緒にまだ布団から出てないの。ゆうべはあめかぜがものすごくて寝れなかったわよ」
どうやら、石見銀山も似たようなものだったらしい。それにしてもワイフが眠れなかったと云っているくらいだから、かなりの暴風雨だったのだろう。

いつもの朝の用事を片付けていたら、電話が鳴った。
「お母さんが今朝亡くなりました・・」
年が変わって最初のお葬式ができた。
先日、年始回りをした時に、正月早々珍しく庭先に車も無くてひと気がなかったから「子供さんのところにでも行ってお正月をすごされているのだろうか?」とチラッと思ったが、認知症が入って目の離せないおばあさんも一緒に出かけることもないだろうと、その考えは一瞬で消えた。年末に寺の配りもので巡回した時、おばあさんの容態が思わしくないということを聞いていたから、病院の付添で留守なのかもしれないと勝手に理由を決めて納得していたのだが、それが今訃報の知らせを受けて本当のことになった。食事が喉を通らなくて、年越しも病院の点滴が命綱になっていたようだ。
死生観の事は法事の度に繰り返しお話しているからそれなりの覚悟はできていたと思う。
今の施主さんはご主人を先に亡くされ、その後は、おばあさんの介護も目が話せなくて嫁の立場でかなりの苦労だったようだ。
おばあさん自身もご主人を早くに亡くされていて、少年の私が夏の棚経で訪問する頃にはすでにご主人はお位牌さんになっていた。親子二代、男子が短命だったことになる。
雨の中、枕経を読みに出かけた。
お葬式から四十九日までこれからしばらくの間、坊主家業が絶え間なく続くことになって、春の彫刻展に向けた制作の日程計画を少し修正しないといけなくなった。

不戯論~ふけろん~
人の命は必ず限りのあるもの
我身はなによりかわいいもの
自分の利益が他人の不利益になったり・・
自分の行為や言葉が他人を傷つけたり・・
自分の我欲で他人に押し売りしたり・・
精一杯正しく思いやり限りある命を全うしたいものです

10~12月印刷原稿2020

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火鉢 

2020/01/05
Sun. 23:27

万善寺住職の単身赴任が昨年末から続いて10日目になる。
気楽なオヤジの一人暮らしで特に不便や不具合は感じないが、市街地のようにちょっと歩けばスーパーやコンビニがあるというような生活の便利さはないから、食料品の買い物はちょっとだけ計画的に頭を使っている。
お正月前後は夏のお盆の時期より周辺が寒いから生鮮食品の保存が効いてそれで少し助かる。もっとも、今年のような暖冬だと参道の雪の心配もなくていまのところいつもと変わりない日常生活ができて、知らないうちにそれに慣れていたりするのが怖い。
これから2月の節分や立春を迎える。
島根県の飯南高原はちょうどその頃に強い寒気が南下して一気に寒くなって大量の雪が降る。それを乗り越えれば、3月の桃の節句あたりに水分をたっぷり含んだ重たいぼたん雪が降って、その後次第に春めいてきてお彼岸前後のなごり雪が降って消えると、それから一気に春が来る。

1年に2回、半年ごとに香炉の掃除をして灰をふるいにかけて入れ替える。
冬は年末にそれをして大晦日の法要からきれいになった香炉へ線香を立てた。
香炉掃除の時、ついでに火鉢の灰をチェックしたらしばらく使っていない間に湿気を吸ってシットリと固まっていた。
この近年は、厳しい寒波が続いていたので火鉢を使うことがなかった。
強い寒波が来ると灯油やガスや電気ストーブにエアコンや電気コタツと万善寺にありったけの暖房器具をフル稼働させて隙間の多いガタピシ庫裏へ篭って暮らす。
今年のような暖かい冬は電気コタツ1つで昼間を乗り切り、朝夕に灯油ストーブを使うくらいで済むが、一日中コタツに潜ってジッとしているわけにもいかないから、部屋全体をほんのり温めるために火鉢を使う。
暖房効果はそれほど期待できないが、それでも火鉢に炭があると何かと都合が良い。
ヤカンをかけておくとコーヒーやお茶などで直ぐにお湯が使えるし、お餅を焼いたりおでんの鍋を温めたり夕食の寄せ鍋とか湯豆腐とか、そういうちょっとした鍋料理もできる。

「アンタ、火鉢使って一酸化炭素中毒にでもなったらおしまいよ・・大丈夫?」
火鉢など江戸っ子のワイフにとって縁の無いモノだっただろうからその心配もわかるけど、確かに、マレーシア産のバーベキュー炭は使っている木のせいか、それとも炭の焼き具合が悪いのか、庫裏の玄関先までなんとも言えない煙臭さが充満してしまうが、かえって部屋中にそのくらいの炭臭い煙が漂っている方が虫退治にもなって都合も良い。
万善寺は今時の2✕4住宅のように建て付けが良いわけでもないから普通に自然換気で乗り切れているし、昔ながらの日常生活が今に続いて残っているだけのことだから自分はそれほど気にもしていない。
典座寮配膳室には床下に囲炉裏がつくってあって、昔は仏事行事のたびにその囲炉裏を使って煮物などをつくっていた。
今は囲炉裏へ火を入れることは無くて豆炭や炭の収納庫にしている。
これから飯南高原で温暖化が進むと、そのうち冬の暖房を兼ねて床下の囲炉裏が再稼働するかもしれない。

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修智慧 

2020/01/03
Fri. 22:03

正月3日で新年の祝献朝課法要がひとまず終了した。
流石にほぼ徹夜状態が3日も続くと身体に応える。毎年変わらないことだからとにかく体調を整えて寿命の続く限り乗り切るしか無い。

2日の檀信徒新年会は例年並みで15名のお参り出席だった。檀家総数も実質50軒を切って、万善寺の運営もいよいよ風前の灯となってきた。この調子で行くと、お参りがひと桁になる日もそう遠くはなさそうだ。
もともと自分の性格は営業向きではないから、今になって万善寺の運営を立て直そうなどと夢や理想を持っているわけもなく、まぁ「人生なるようにしかならない・・・」くらいの気持ちでジタバタすることもない。贅沢をしなければ、万善寺の運営も自分の年金と彫刻の売り上げを切り崩していけばなんとか1年を乗り越えるくらいはできているが、それもいつまで続くかわからない。新年早々、気分の滅入る現実を心配してもどうなるものでもないから、そういう悲観は考えないように決めている。

それにしても、良い天気が続いている。もう3日も連続で雨雪がない。
保賀地内の年始回りも、いつもだったら早朝に寺を出かけて雪をかき分けて戸別訪問して一巡してやっとお昼前くらいに寺の参道を登るくらいになる。今年もそのつもりで9時前に寺を出たら、何の苦労もしないで簡単に呆気無く1時間位で年始回りが終了した。地球全体はどうかわからないが島根の飯南高原では確実に温暖化が進んでいる。
年始回りの世間話でも雪のことが話題になった。冬の今の時期に、春から夏にかけての農繁期で田んぼの水が心配なのだ。自然の天気を相手にして水の心配をしてもどうなるものでもないことはわかっているはずなのに、それでも心配をしない訳にはいかない農業の現実が目の前にぶら下がっている。
坊主のお寺参りの心配と農業の水の心配では要因の接点もなんにもなくて比べようもないことに思えるが、実はまんざらそうでもないことでもある。地球の環境変動を前にして人の知恵や行動など取るに足らない「些細な抵抗くらいのことだ!」ということが、おおよそなんとなくわかっているから諦めもついて踏ん張りも効く。物欲のダメージはそれはそれでそれなりに辛いが精神のダメージより回復が早い。
人は我が身の非力を自覚した時、それまでの自分から少しだけ強くなれる・・・そういうことを、日常の暮らしの現実を通して少しずつ学習しているのだ・・・ということ。
日常で四苦八苦と対峙しているのは坊主の修行だけではない。この世の人全てが四苦八苦と向き合って生きているはずなのだ。

修智慧~しゅうちえ~
知識は教え教わることの積み重ね
知恵は考え工夫し身につけること
知識が増えれば知恵も深まり
知恵が深まれば心が豊かになる
心が豊かになればものの道理がみえる
物事を正しく判断し見極められるようにありたいものです

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7~9月印刷原稿2020

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修禅定 

2020/01/02
Thu. 23:26

新年2日目の祝献朝課法要が終わったのは深夜の3時だった。
大衣を脱いでいつものヨレヨレトレーナーに着替えて、寺のシアタールームになっている6畳リビングの火鉢の炭をつついて豆炭を補充したり、現在の寺務所になっている3畳で年始会にお参りの皆さんへ配る万善寺オリジナルカレンダーへ手製ののし紙を巻いたり・・・色々な目先の用事や細々とした積み残しの事を片付けていたら、あっという間に1時間が過ぎた。
ワイフが寺で泊まるときには、いつもボクが使っているベッドを提供している。
今の時期、寝る少し前に電気敷毛布のスイッチをONしておくと、ベッドへ潜り込んだときに包まれるほのかな暖かさが気持ちよくて一瞬で睡魔がやってくる。底冷えする寺の冷え切った夜に、こういうなんとも例えようのない温々さ加減が寒い時期の醍醐味だ。
そういうオヤジの一人暮らしで数少ない至福のひと時をワイフへ提供しているわけで、どれだけ彼女を大事に思っているかがわかってもらえるはずなのだが・・・普通は・・・その彼女が、早朝に近い夜の私のドタバタで不機嫌そうに目を覚ました。
一区切りついたら仮眠くらいはとろうと思っていたところだったのに、自分の都合で彼女を起こしてしまった手前、入れ違いに寝ることもできにくくなって、そのまま用事の続きをしていたら長い夜が明けた。
庫裏玄関の鍵を開けたついでに境内へ出てみると、朝日が薄く広がった空の雲をほんのりとグレーに近いコーラルレッドに透かしている。
今年の万善寺年始会は近年になく雪一つ無い過ごしやすい1日になりそうだ。

本堂での檀信徒正月法要と新年会に向けて巨大な業務用灯油ヒーターを点火した。こうして、朝のうちから温めておくとお昼に新年会が始まる頃には適度にちょうどいい加減で本堂の冷え込みがやわらぐ。
それから現在ボクの寝室になっているドームテントへ潜り込んで1時間ばかり仮眠した。

住職の新年挨拶は、今年のカレンダーにした八大人覚のことにした。
万善寺のような極小規模の山寺でも、宗教法人を運営経営する組織の決められた寺務を一通りこなさねければいけない。昨年は会社でいうと定款規約のような寺務の運営規程に即して数年に一度巡ってくる書類の更新や報告業務で苦労した。ナンチャッテ住職でも一応建前上代表責任役員であるから、大規模寺院だと役僧がするような寺務も全て一人でこなしてアチコチ関係者に頭を下げて実印をもらって歩いた。
国の定めた法人業務を遵守して遺漏なくコトを進めるのも大変だ。

修禅定~しゅぜんじょう~
種々の情報が氾濫するこの世の中
気がつけば知らないでも良いことまで知ってしまう
ねじれてゆがんでなかなか住みにくい世間
せめてほんのひと時だけでも
浮世の塵や埃や垢にまみれた我身を洗って
静かに心穏やかに過ごしたいものです

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4~6月印刷原稿2020

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年々好日々好 

2020/01/01
Wed. 12:16

謹賀新年!
佛紀2586年、令和2年元日の万善寺は穏やかな朝となりました。

12月31日は朝から雪の1日となって、やっといつもの冬が戻ってきた感じだったが、上空の薄い雲から保賀の谷へ舞い落ちる雪は結局夕方から夜になっても本格的に積もることはなかった。
年が変わる少し前から本堂や庫裏の其処此処へお蕎麦や湯茶のお供えをし、太鼓を叩いて令和元年最後の祝献祈祷のお経を唱えた。
それから割れた銅鑼の音梵鐘を三分の一ほど数えながらついてワイフとじゅん君に引き継いで任せたあと、新年のお水取りをして湯茶に沸かし本尊様へお供えした。
大衣に着替えて、本堂から庫裏のお仏壇等を巡って最後に典座寮を守ってくださる韋駄天さまへお参りをして約二時間続いた元日の朝課祈念法要が一段落したのは、朝の3時過ぎだった。
特に冷え込むこともなく、在家住職業就任以来1・2を争うほど楽な祝献法要になった。
この早朝(・・といっても真夜中だけど・・)の法要は正月3日まで続く。

日頃は万善寺で気楽なオヤジの一人暮らしでいるのだが、お寺のお正月とお盆の数日はワイフが手伝いで泊まってくれる。それに、じゅん君も年越しから正月にかけて寺へ泊まって除夜の鐘とお檀家さん年始会を手伝ってくれる。
まだ先代住職夫婦が元気で吉田家の子供たちも小さかった頃は、寺の寺務作務法要等をしながら在家と変わらない賑やかなお正月だったが、子供たちが成人してからは現在のような何時もと変わらない住職業務中心の粛々とした日々が過ぎる。
別段忙しいわけでもないが、大晦日と元日は年が一つ変わるという改まった節目でもあるから、何時もの日常の連続とは違って見た目も気持ちも目先の現実と向き合ってとても具体的に切り替える必要もあって、それが少々あわただしい。

「忙しい忙しい・・って言いながらコーヒー飲んでる隙があるんだから、まぁその程度のもんサ。本当に仕事のできる奴は(忙しい!)なんて口に出さないもんヨ・・」
上京した18歳の秋、まかない飯目当てに始めたお昼の1時間だけのバイト先のマスターがカウンターの換気扇下でタバコを吸いながら皿洗いのボクに向かって独り言のように耳打ちしたことをよく覚えている。
お昼のランチもある珈琲屋に近い喫茶店は、丸ノ内線新宿三丁目と新宿御苑のほぼ中間にあった。中小の企業が同居する雑居ビルがたくさんあって、甲州街道が靖国通りと合流するあたりには世界堂新宿店があった。要町には末広亭があって、近くの厚生年金会館ではジャンル問わず何かしらのライブコンサートがあった。近くは新宿二丁目で、途中にストリップ劇場もあった。サラリーマン諸氏から夜の仕事が終わった二丁目のお姉さん方や、時々ストリップの妖艶な踊り子さんたちもコーヒーを飲みに来店していた、そういう喫茶店だった。
マスターが入れるコーヒーで、はじめて珈琲の旨さを知った。それと「~忙しい!~は云わないようにしよう!」と決めた。でも気付かないまま口が滑ってしまってるけどネ・・

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2020-07