工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

ブルース・スプリングスティーンを聴きながら 

2018/06/17
Sun. 23:38

5月の連休中に102歳の大往生でお檀家のおじいさんが亡くなった。
それからあと、葬式を済ませ七日つとめを続けて、早いものでそろそろ四十九日をむかえる。ご親族の集まりやすいところで日程調整をされて、少し前倒しの法事になった。
万善寺は大般若会が終わったばかり。
連日の仏事法要が続くから単身赴任住職を続けることにして、ワイフとは慰労代わりの夕食を近所の蕎麦屋で済ませてそこから左右に分かれた。

法要や準備の疲れが溜まっていたのだろう、蕎麦で腹一杯になって寺へ帰ったら睡魔が襲ってきた。
最近ずいぶんと日が長くなった。それに、梅雨のわりに晴れる日が多くていつまでも外が明るい。
庫裏の主だったところを片付けて白衣などを洗濯機へ放り込んで一段落して、インターネットラジオをONしてゴロリと横になったところまでは覚えているが、いつの間にか寝落ちしてしまったようであとが空白になった。時々、ラジオから流れるポップな洋楽が遠くで聴こえることがあって、それが数回あった。
次に目が覚めると、すでに深夜だった。
ラジオはフュージョン系の軽めのJAZZが流れていた。
少しずつ覚醒して、大般若会のひと通りのことが思い出されてきて、夕方まだ明るいときに寝落ちしたところまで記憶がつながった。
そこで、「そうだ!・・・法事の準備が出来ていない!」ことを思い出した。
塔婆を書くこと、仏前香資を包むこと、経本を揃えること、大般若会で着ていた大衣をたたんで襦袢や白衣などを用意すること、それに、法事後の15分程度のお話のネタを探すこと・・・四十九日の節目の法事だから、いつもの年回法事より支度の内容が重たい。
さて・・・目が覚めたついでにこのままそういう準備に取り掛かるか、又は、もうひと眠りして早起きしてそれをするか・・・そうこうするうちにラジオの曲種がJAZZからR&Bに変わった。

のどが渇いたから、大般若会で余った番茶を飲んでオシッコをした。
法事の準備で悩みながらSNSをチェックしていたら、ノッチが写真をウエブアップしていた。
日本の島根県の万善寺で坊主家業にせいをだしている、ほぼ同じ頃に、ノッチはラスベガスからグランドキャニオンへ移動してパワースポットを堪能している。
それにしても、北アメリカ大陸は広大で日本の飯南高原や琴引山あたりとはスケールが違う。
ダウンロードしてモニターで拡大した写真を見ていたら、ラジオからEaglesが流れてきてそれからクラシック・ロックに曲種が変わって、グランドキャニオンの断崖に立つノッチへBruce Springsteenが重なった。
結局、眠気もどこかへ飛んで目が覚めたから硯を持ち出して墨をすることにした。別に信念を持って決めているわけでもないが、塔婆を書く時の水は洒水の清めも兼ねて井戸水にしている。それで、洋楽のロックを聴きながら塔婆を書くのもどうかと思うけどね・・・

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大般若会厳修 

2018/06/16
Sat. 23:49

美術のコアなメンバーで午前0時過ぎまで作戦会議と称した飲み会を続けたから、普通どおりに起きれるか心配しながら寝たのに、なんのこともない、大般若会当日の朝はいつもにも増して爽快な目覚めになった。

まずは飲み散らかした食器類などを片付けて、本堂を一巡して、玄関の掃除に取り掛かっていたら、自前のシュラフへ包まって寝ていたタケちゃんが目を覚ました。少し落ち着いたらコーヒーでも淹れてあげようと思っていたのに、そのまま慌ただしく身の回りを片付けて帰っていった。
タケちゃんの場合、土曜日は普通休みなのだろうに仕事があるようなことを言っていた。私のような自営業と云うか自由業は世間の休日や祭日など関係なしにその時々を乗り切っているから、前回の休日はいつだったのかまったく記憶にないまま普通に毎日が過ぎているが、月々の給料で暮らしている厚生年金組の人たちはもっと規則正しく就業することをしても良いはずなのに、なかなかそうも云っていられなさそうだ。当事者で慣れてしまえば、いつの間にかそういう暮らしも当たり前になってしまうのかもしれないが、やはり労働条件のねじれ具合を身近で見聞するとあまり良い感じがしない。

大般若会の受付帳場で必要なものをプリントアウトしたり塔婆回向用の硯箱を準備したりしていたら、手伝いのワイフが到着した。
万善寺の年中法要は、全てワイフとナンチャッテ住職のボクと二人で大雑把に役割分担を手分けして切り盛りしている。
近隣寺院でこの極小規模の寺院経営は例がない。1日の仕事量を収支計上すると、万善寺主催の法要事業としては、なんとかして現状維持を続けないと収支のバランスが崩れて一事業での赤字が確定してしまう。厳しい話だが、もちろん役員報酬は返上して布施収入の全てを随喜方丈さんへの接待費と薄謝、お参りのお檀家さんの茶菓子代と粗品、本堂の荘厳やお供えの消耗品、それに若干の事務費や案内配りの行動費に当て、残りがワイフの人件費になるというスンポウだが、場合によっては人件費大幅カットもあったりして、そういう時は別立てのポケットマネーをかき集めてワイフのご機嫌をとらせていただいているといったあんばい。
そうまでして、「わざわざ年中行事を増やす必要もないだろう!」と、ワイフに小言を言われつつ、やっと念願かなって大般若会を別立てにして厳修することが出来た。
結果、事付けも含めて予想以上のお参りになった・・・といっても、17人。
この数字は、今の万善寺としては上出来だと思う。それに、この法要で女人信者さんが微増したことも特筆に値する。
そうそう・・・随喜をお願いしていた方丈さんがお一人欠席された。事前にお知らせはしておいたのだが、法要の移動を失念されたのだろう。おおよそ予測もできていたから大勢に影響はないものの、やはり大般若会としてはもう少し賑やかであってほしかった。

今の宗教離れに拍車のかかった殺伐とした世の中にあって、寺の役割が葬式や法事の弔事だけではないのだ!・・・ということを、少しでも体験的に知ってもらえるようにできればいいと思っている・・・
「おつかれさま!」「おつかれさま!」・・・ワイフと二人で1日をねぎらいあった。心地よい疲労になった・・・

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箪笥 

2018/06/12
Tue. 23:36

大般若会には手間替え随喜の方丈さんが5人集まるはずだが、昨年までと日程の変更をしたから、さて・・覚えてもらっていて集まってもらえるかどうか・・・微妙なところだ。
これは、檀家さんにも言えることで、万善寺の法要と云うと、盆正月のお参りで20人集まれば良いほうだから、これも日程移動の影響で半減する確率が高そうに思う。
雨の中、案内の印刷物を配って歩いたが、「今はちょうど忙しい時期だけぇ〜ねぇ〜〜」と先手を打たれるところもあった。近年の神仏信仰離れは目に見えて加速しているから、それも時代の流れということで、私一人が「信心、しんじん、シンジン・・」とドタバタ大騒ぎしてもしょうのないことだ。日頃のお檀家さん仏事教育を怠けていたツケが回ってきて、それが今頃になってボディーブローのごとく効き始めている。
ひところは、代替わりにもなったことだし、気持ちを引き締めて「仏法興隆に励もう!」と意気込んだこともあったが、とっくにその熱も冷めた。
残りわずかの人生、今以上に心身が充実して盛り上がることもまず無いし、体力の低下と上手に付き合いながら、万善寺の作務の日常を繰り返すだけのことだ・・・というわけで、年代物のガタピシ箪笥をやっとメンテナンスすることが出来た。
この箪笥は、私が物心ついた頃から先代夫婦が日常の小物入れに使っていた。
最上段の引き戸には薬や電池電球などの日常の消耗品が入っていた。
その下の三列の引き出しには左から文房具類、封筒便箋類、そして一番右にはドライバーとか肥後守とか千枚通しとか爪切りなどの工具刃物類が入っていた。
その下の2列に並んだ引き出しの左側は憲正さんの日記帳や印鑑小銭入れなどで、右側は俊江さんの日記帳や健康手帳などが入っていた。
その下には5段の長引き出しが縦に並んで、それぞれに障子紙などの日常のものや仏事絡みの半紙などの消耗品、繕い物に使う端切れとか、タオル・てぬぐい・布巾が集めてあったりと、その箪笥は半世紀以上全く同じ状態で使い続けられた。
3年の間に相次いで永眠した前住職夫婦の日常が今まで手付かずのまましまい込まれてあった。
箪笥を使うかどうかは後で決めることにして、とにかく、ひとまず中の物を全て出して廃棄するものと残すものを選別しなければいけなかったのだが、それが今まで延び延びになっていた。外は雨だし、大般若会の法要では庫裏の二部屋を方丈さんの控えの間で使うことになるし、どうせそういうこともあってキッチリと掃除する必要もあったから、こういう機会でもないとまたズルズルダラダラ何年も箪笥の片付けを引き伸ばしてしまうだろうし、思い切って整理することに決めた。ことを始めれば、せいぜい2〜3時間もあれば片付くことなのだが、それが今まで出来ていなかったわけだ。
引き出しからは思いもしない色々なものが出てきた。二人ともとにかくやたらと物持ちが良かった。憲正さんの日記帳は、独特のクセ字でビッシリ書き込まれてあったが、平成の時代から少しずつページの余白が目立つようになってきて、入退院を繰り返すようになった後は連日の書き込みも途絶えることが増えていた。俊江さんは、死ぬ週までビッシリと細かい字で1日の出来事が記入されていた。几帳面な性格で健康オタクでもあったから日記帳の他に健康手帳の血圧データも血圧の計測器が壊れるまで毎日欠かさず記帳されてあった。あらためて時間をつくって二人の日記を読むまでのこともないとは思ったが、なんとなく処分を躊躇した。箪笥の方は私の代までは使い続けることになるだろう。

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雨の万善寺 

2018/06/11
Mon. 23:32

夜中に雷で目が覚めた。雨もかなり激しく降っている。
万善寺大般若会のご案内を飯南高原に点在するお檀家さんへ個別配布しようと印刷まで済ませておいたのだが、朝からあいにくの悪天候でボクの心は折れそうになった。
天気のことだから坊主の神頼みも当てにならないし、俗人ナンチャッテ坊主の仏頼みはもっと当てにならないし、モーゼさんとか弘法大師さんのように奇跡を起こせるわけでもないし・・・夏シーズン用のシュラフに包まって眠れないままゴソゴソしていたら、部屋の何処かでクロが「フニャァ〜〜」と小さく鳴いた。
クロは、手乗りの小さな頃から吉田家に同居するようになったから、猫らしくない猫に育ってしまった。それでかどうかわからないが、飼い主のボクに似て内弁慶のチキン猫になったものだから、このくらいの雷でもけっこうビビっていたりする。あいつのビビっているようすが気になって余計に眠れなくなったので、ウエブ配信のラヂヲを流して、それを聞きながら寝ることにしたのだが、結局まともに眠れないまま朝になった。そしてその頃には雷がいつの間にか収まって雨だけが激しく降り続いていた。

V字に切り立った山並みの谷底を流れる江の川の支流に沿って銀山街道を飯南高原まで登り続けると、勾配が緩やかになったところから飯南高原が始まって広がる。ちょうどそのあたりから正面に見える山の尾根には戦国時代の山城跡の石組みと平地が遠望できる。
飯南高原は石見銀山で精錬された銀を尾道まで運搬する陸路のちょうど中程で、ソコを過ぎると中国山地の難所を越えて瀬戸内側の広島県に入る。そういうところだから、銀が発見されてからは戦国の土着豪族たちの利権を巡っての攻防戦が絶え間なく続いた。山城跡のすぐ下を流れる川は、やがて幾つかの支流が合流して最終的に神戸川になって大社近くの日本海へ注ぐ。

飯南高原は、今でこそ高齢者人口が大半を占めるかぎりなく限界集落に近づいた過疎地になっているが、江戸時代中期くらいまでは、日本の先進工業地帯を支える重要な物流と工業資源の拠点でもあった。
何故か万善寺のお檀家さんは、そういう飯南高原のいちばん端っこの辺鄙なあたりを選んだように点在している。雨が降っても軒下を使えば濡れないで托鉢ができるほどの町の中心にある近所の同宗寺院がこういうときほど羨ましく感じることはない。
いつもより、30分は余計にかかっただろうか・・・昼近くになってやっと全て戸別訪問でご案内を配り終えて万善寺の境内へ到着したら、リーバイスの裾がグッショリ濡れてそのまま座敷に上がることも出来ないから、まぁ、自分の他に誰もいないし庫裏の玄関先でパンツだけになった。それから、1合の土鍋でご飯を炊いて、そのあいだに冷凍庫に保存中のワイフが持たせてくれた蕗の佃煮を解凍して、またその解凍中にコーヒーを淹れたりして、そんな感じで昼食にした。
午後からは、本堂へこもりっぱなしで荘厳を整えた。外は雨だから、かえっていつもより集中できた。はしごの上り下りを数え切れないほど続けたから、それが膝に応えて後半はかなり辛かったが、現状の万善寺の荘厳関係の備品としては、ソコソコの出来栄えになったのではないだろうか。近所のお寺さんでは仏具屋さんとかお檀家さん青年部へ委託することもしているらしい。ボクの自力で荘厳できるのもあとどのくらい先までだろう?

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線香の効能 

2018/06/07
Thu. 23:15

梅雨に入って一日中雨が降って湿っぽくなった。
いつもの通勤坊主で万善寺の庫裏玄関を入ると、家の中がヒンヤリして寒いくらいだ。
前日の雨で湿気が入り込んで部屋中に停滞している。

坊主の知恵というより、ボクの思いつきだが、少し暖かくなってからあとのこういう湿っっぽい時は、長巻の蚊取り線香を点けることにしている。それで、煙の漂う方向を追いかけて、その日の空気の動きをザッとチェックして、一番効率の良い場所へ置く。朝にそれをしておくと、夕方には田の字のガタピシ庫裏の端から本堂の端まで線香の煙が行き渡って、家の中の小虫がはびこることをそれなりに食い止めてくれる。
周囲を耕作放棄地や雑木の茂った里山に囲まれている山寺は、ほったらかしにすると小動物や虫たちの絶好の繁殖場所になってしまう。
蚊取り線香も、長巻一缶50巻を使い切る頃はうっとうしいシーズンがだいたい終わっているから、それほど無駄使いしているふうには思わない。むしろ、そういうことをケチって日常の環境の不具合を見て見ぬふりで1シーズンを過ごしてしまうと、気づかない間に虫たちにアチコチ蝕まれて色々なものが使い物にならなくなっていたりする。それこそ、余計もったいないことで、未然の予防に蚊取り線香の一缶くらいたいしたことでもなんでもないと思っている。

蚊取り線香とは成分も用途も違うが、寺ぐらしで線香は欠かせない。
特別の時は香木のエキスを練り込んだ上等なものを使うが、いつもは杉葉線香を常用している。俗に言う墓参り線香のようなものだから香りを楽しむアロマの効能など期待できないが、それでも、使用が習慣になると、線香の香りが寺の隅々まで染み付いて、時折風の向きが変わって室内の空気がかき混ぜられるときなど、ほのかに漂う香りが気持ちを仏様へ向けてくれる。

朝のうちの肌寒さが嘘のように天気が回復して暑くなった。
草刈り機の修理も終わったし、チェンソーのパーツはまだ未納だがそれでもなんとか母親の呪縛で苦戦している駐車場周辺の整備が一気にはかどりそうだ。
剪定ばさみと枝ばさみに鋸と鎌と熊手を駆使して夕方まで約2時間かけて水路の土手をザッと刈り込んだ。
一息ついてデッサンを確認するように少し離れて全体を見渡すと、半世紀ほど前の子供の頃に見ていた昔懐かしい石垣の様子が再現されていた。それでもあの頃からすると今は、石垣の東の端がサツキの根に掘り起こされて崩れ落ちていた。やはり、手付かずのほったらかし荒れ放題ではダメだ。年間の節目を上手にわきまえて適度なメンテナンスを継続することがだいじなことだ。「守り育てる」とはそういうことだと思う。

「山は人が入らんようになると死ぬけぇ〜ねぇ〜・・・」
憲正さんと同級生だったまぁーちゃんがまだ元気だった頃、法事の斎膳で昔話のついでにそう話していらした。彼は定年退職まで林業に従事していて保賀周辺の山を熟知していらした。寺に小虫や小動物が増えたのも山が人間に放棄されて荒れたからかもしれない。

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万善寺植込根絶やし作戦失敗の巻 

2018/06/04
Mon. 23:01

3月末の母親の1周忌法事あたりから足の古傷がうずき始めて、それをかばいながら過ごしていたら下半身全体に不具合が連鎖して、そのうち腰が痛くなって車の運転もつらくなるまでになった。特に忙しいわけでもないが、だからといって暇なわけでもなく、1ヶ月前は真っ白だった宗門の手帳も少しずつ埋まって、結局1ヶ月が終わる頃には予定の空白が5日と無いほどに埋まってしまっている。そうこうするうちに、春が本格的になると翌月の予定も少しずつ埋まり始めて、今は6月の予定も連日埋まってきて、7月の書き込みが増えてき始めた。
1日のうちに、できるだけ休息の時間を増やすようにして、夜もすぐに寝るようにして、とにかく下半身をいたわりながら暮らしていたら、10日ほど前からほぼ普通に歩けるようになって、無理をしなければ1日中立ち動いていてもなんとか身体が耐えられるまでになってきた。

そういう状況で、自分の身体をダマシダマシ働いて、万善寺の北側だけを残してあとの周囲はだいたい一通りの手を入れて、それがやっと一巡した。梅雨へ入る前にできるだけやり残した整備の手を広げておかないと、せっかく刈り込んだ草木がまた一気に元気になって蘇る。夜寝るときとか、朝目が覚めたときとか、1日の予定を凡そシミュレーションしてみるのだが、気になるところがあまりにも多すぎて、どうもハッキリと決断できないままラビリンスの世界へ迷い込んでしまう。いつまでもこういう状態でいてもしょうがないから、せめて6月の万善寺大般若会までは雨の合間を縫って駐車場周辺の整備だけは完了させようと目標を立てたのが5月末のことだった。
本調子ではないものの、とにかく身体が普通に動くようになったことが良かったのだろう、気持ちのゆらぎも少しずつ安定してきて、今まで遅れて溜まっていたことをこれから一気に片付けてしまおうと、ひとまず迷いが消えて気合を入れ直した。

週も変わって、いつもの通勤坊主のあと、朝のまだ涼しいうちから万善寺駐車場の整備を始めた。
境内の石垣下の用水路脇へ母親が元気で若かった頃に挿し木したサツキが、その後大きな株になって年々整備の手が遠のいて伸び放題に荒れはじめ、それに蔦葛が巻き付いてはびこって収拾がつかない状態になっていたから、一気に根絶やしにして元の用水路土手へ復元しようと手を入れ始めたのが今から4・5年前だった。
途中までサツキを刈り込んだところで母親の「待った!」が入った。
せっかくアレほど大きく成長して土手を隠してくれている上に毎年きれいに花が咲いているのだし、わざわざ刈り込むことも無いだろう・・・と、母親の考えや思いが頑なで、現住職は前住職内室の気持ちを飲み込むしか無いまま作業を中断せざるをえなかった。
その母親の1周忌も過ぎたし、今年は本格的にサツキ刈り込み根絶やし作戦に取り掛かったのが花の終わった5月末だった。
ほぼ1週間してこんどはサツキ植え込み本体へチェンソーを導入して一気になぎ倒してしまおうと準備万端、エンジンを始動させたら、なんと、摩耗して劣化したバーの溝が開いてチェーンを噛み込んでクラッシュした。
その時、一瞬母親の怖い怒った顔が脳裏をかすめた。母親の怨念を見た気がした。

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久しぶりの鐘つき坊主 

2018/06/03
Sun. 23:45

なんとなく寝苦しくて、何度も目が覚めた。
そうなると、いつもは全く気にならない寺の夜の音が耳に付き始めて余計眠れなくなる。
冷蔵庫の電気音とか、風に揺れる竹の葉音とか、立て付けの悪い雨戸兼用の古いガラス窓の音とか、それに、ネズミが何処かをカリカリかじる音とか、遂には自分の耳鳴りまで気になり始めて、いよいよ眠れなくなってきた。
ネズミは、5月に入ってから庫裡のアチコチに出没し始めた。だいたい、1年のうち2回位こうして活発に動き回ることがある。春のこの時期は、保賀の谷の田んぼに農業用水が引かれて一気に水田になる。豊富な春の旬のモノに引かれて山野田畑で過ごしていたネズミたちが、田んぼの水攻めにあって万善寺へ避難してきたのだろう。

とにかく、静かな田舎の山里ではあっても、夜は夜でそれなりにけっこう賑やかだったりするわけだ。こういう時は、迷わずウエブ配信のラヂヲを垂れ流すことにしている。周囲の夜のノイズに悩まされるよりは、好きな音楽でも聴きながらウツラウツラしていたほうがまだマシだ。

6畳のシアタールームから微かに流れるピアノのクラシックに混ざって朝の鳥の声が聞こえてき始めた。もうこうなると眠気も去って完全に目が覚めた。葬儀は10時始まりだから起きるにはまだ早すぎるが仕方がない。井戸水をケトルに入れてガス台へ乗せた。それから、コーヒー豆をミルに移してガリガリやって、お湯が湧く間に寺の朝の用事を済ませて1日分のコーヒーを淹れた。昨日くらいから一気に暑くなったが、寺の朝は冷え込んでかなり寒い。温かいコーヒーで人心地ついた。

葬儀の鐘つき坊主は久しぶりのことで冷や汗をかいたが、なんとか一通りの役を終わって斎膳をいただいてお昼すぎに全て終了した。
今年に入って永代供養の申し入れが続いている。懇意の石材店と相談しながらいろいろ試行錯誤を繰り返して、本堂の正面階段の端へ石の戒名碑を置いた。万善寺の墓地にはすでに永代供養墓が建立されてあるが、お年寄りには参道の登り降りが負担だし、本堂の正面でお参りできればまだ少しは楽だろうと考えた。それに、境内にある方が住職のメンテナンスが楽になって都合がいい。
葬儀に使った仏具や教本を片付けて、戒名碑の青葉を更新して水を足したりしてから、本堂の冬物を片付けて模様替えをし始めたら電話が鳴った。
「モシモシィ〜・・、今日のお帰りは何時くらいになりますかぁ〜・・」
珍しくワイフの方から電話してきたから、大事な予定を忘れてしまったのかもしれないと一瞬焦って「どおして?何か用事でもあったっけ??」と聞いたら特に無いと云いつつ、言葉の端々になにか訴えるような様子も伺えて問いただしたら、入金の督促があったことを忘れていて、期限が今日だということで、それで「お葬式もう終わったぁ〜・・?」と、お布施を当てにしたお金の無心だった。
世間は日曜日で、金融機関の都合も難しくてどうしようと悩んでいたら、万善寺住職のボクがお葬式に出かけていることを思い出したというわけだ。
冷や汗をかきながら、ありがたく頂いたお布施が、たった数時間で生活費に消えた。

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ハチクの頃 

2018/06/01
Fri. 23:52

居間の引き戸を開けたら、買い物袋からハチクが5・6本覗いているのが見えた。
そういえば、万善寺墓地への参道脇でハチクが何本か伸びていたのを思い出した。
いつの間にか筍がモウソウからハチクへ変わっていた。

いつもの懐石盛りへハチクと納豆入り油揚げステーキが加わって、なかなか豪華な夕食を堪能していたら電話が鳴った。
「今大丈夫ですか?夜分にすみませんん・・・」
夜の8時だと、まだ夜分と云うほど夜が更けているわけでもなかったが、日の出とともに働き夕方暗くなったら1日の仕事を切り上げる田舎のお百姓さん的日常だと、普通に夜分と云ってもおかしくない時間ではあった。
電話は、飯南高原から広島県との県境に近い隣町の同じ宗派寺院のご住職からだった。こういう時間帯で方丈さんからの電話はだいたいが訃報絡みのことだ。
「昨日、うちのお檀家さんが亡くなって、お葬式のお手伝いをお願いしたいんですが・・・土・日になるんですけど、お忙しいでしょうねぇ〜・・・」
なんか、とても申し訳なさそうに低姿勢の電話だったが、だいたい年中暇な万善寺は土・日だからと云って特に忙しくもないから、その旨伝えると、早速通夜から葬儀までの具体的スケジュールの話になった。
「週末は寺泊になるなぁ〜・・・」
ボンヤリと、そう思った。

数え歳で米寿になるおばあさんの往生だった。
その施主家は、元々万善寺のお檀家さんだったのを、当時の住職との折り合いが悪かったのと、一家転居で隣町の現在の場所へ移られたのを契機に離檀されて寺院替えされた。昔は、住職の無体な横暴も頻繁だったろうから、離檀はそれほど珍しいことでもなかったようで、万善寺の過去帳をみてもそういう様子がそのまま記録されて残っている。今の時代は完全に個人情報非公開が常識となっているから坊主の方でペラペラと施主家の内情をしゃべることもないが、役場の戸籍情報とドッコイくらいのデータが記載されていることだけは確かだ。

最近は一般大衆の宗教観が大きく変化して、仏教離れが加速しているふうに感じる。
平成の時代になった頃だったと思うが、JAが葬祭業務に本腰を入れはじめて、その後数年の間に「虹のホール」が一気に増えた。最近では僻地での葬祭へもJAの移動葬祭が定着してきはじめて、そうなると、地域の自治会単位で行っていた葬儀の手間替えが軒並み消えていった。万善寺のある保賀自治会もすでに移動葬祭になっている。坊主の身としてはどうもすんなりとこういう営業職の強い葬祭業のシステムを受け入れにくかったりするのだが、時代の大きな流れに逆らうことも難しくて、まさに、万善寺の先代住職夫婦の葬儀も、現住職(ボクのこと・・)の力不足と地域事情で、JA移動葬祭主導の形骸化された檀家葬になった。
正純和尚としては、在家坊主ながらもお釈迦様の教典を信心の根本として日常の大事や無事に向き合っているわけで、法事坊主ばかりをセッセと務めているわけではないと思っているのだ・・・

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衣替え 

2018/05/30
Wed. 23:19

夜が明ける前から寒くて目が覚めた。石見銀山と違ってさすがに飯南高原は冷え込む。

寺で寝る時は、だいたい季節に応じたシュラフをメインに毛布や羽毛布団を足したりして使い分けている。もうそろそろ衣替えにもなるし、つい先日のよく晴れた日に冬用のシュラフを庫裏の南側の縁側に一日中広げて天日干ししたばかりだった。
そのかわりに夏用のシュラフを2枚ほど座敷へ広げて何時でも使えるようにしておいて、昨夜はその1枚をいつものベットへ広げたのだが、それがまだ時期的に早すぎたようだ。
寝室は、台所のほぼ中央で半分に間仕切りした東側を使っている。だから、朝はかなり早くから朝日が窓越しに差し込んですぐに部屋が明るくなる。今朝は、それでも薄曇りでいつ雨が落ちてもおかしくないほどだったから、いつもより世間が暗い方だった。それでも5時前からほんのりと裏山の木々のシルエットが浮かび上がっている。
まだ起きるには早すぎるからしばらくシュラフにくるまってウツラウツラしていたのだが、やはり寒さが気になって二度寝する気になれない。夏用シュラフと一緒に薄い夏布団を出して風通しも兼ねて6畳のソファーへ掛けておいたのを思い出して、それをとりに立った。
「今朝はさむかったですがぁ〜〜・・こうして一枚上に重ね着したのにまだ寒いですけぇ〜・・」
七日つとめに伺って、玄関で奥さんの最初の挨拶がそれだった。飯南高原の住人はだいたいみんな同じような朝を迎えていたようだ・・・

6月から衣替えになるから、今まで着ていた袷の改良衣や厚手の単白衣などを洗濯して秋が来るまで仕舞うことになる。
着物は洋服に比べて「半額大売り出し!」などというセールは見たことがないし、それに坊主の正装である白衣や改良衣は、ある意味特別仕様だから普通に値が張って高い。今の万善寺の収入では、Amazonの買い物のように気軽にタイムセールでポチッ!と云うわけにいかないから、衣替えになると、まずは1枚ずつ小分けして洗濯機で洗濯をしてから、半年の間に劣化した糸のほつれをセッセと修復してたたんで大事にウコン風呂敷で包む。
やはり普通に袷の着物は単より高いから、私はできるだけ1年中使い回しが効くような化繊混合木綿の単白衣や少し厚手の改良衣を着るようにして寒い冬をしのいでいる。今は昔と違って移動も車の暖房があるし、施主家も電化住宅が増えたり、エアコンフル回転で熱くて汗がでるくらいに暖房が行き届いているから、見た目バレないように1年中単着物で通してもそれほど苦にならない。

まぁ、こんな感じで1週間は衣替え作務が続くことになるだろう。庫裏の縁側が洗濯物でいっぱいになった。明日は手間替えの大般若会があって、それが終われば冬物一式をたたんで一段落するはずだ。
吉田家へはいつもより早く、まだ明るいうちに着いた。土間へ入ると揚げ物の良い匂いが漂ってきた。そろそろ先日買い込んだ海と山の食材がなくなる頃だ。ワイフの懐石盛りがまだしぶとく続いている。ノッチのSNSでラム酒の残りを思い出した。オン・ザ・ロックが美味くなる季節になった。

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奇妙な組み合わせ 

2018/05/29
Tue. 23:05

そろそろ5月も終わろうとしている。
いつになく早く過ぎた5月だった。色々予定が変更になってつまづくことが多かったから、それで余計に早く過ぎたふうに感じたのかもしれない。
結局は彫刻の仕事にしわ寄せが集まって、6月へずれ込むことが確実になった。

現在の自分の仕事というと、万善寺の住職と彫刻家であると云っていいだろう。その2つの柱を立てたり倒したりしながら都合をつけて辻褄を合わせているわけだが、最近の過ぎた月日を冷静に振り返ってみると、ほぼ7割位が住職業に偏っていたと思う。
住職業と云っても、特に法事とか葬儀が立て込んで忙しかったわけでもなく、万善寺の修繕とか草刈りの作務が忙しかったわけで、正に住職の業務そのものであったわけだ・・・ということはつまりどういうことかと云うと、収入につながらない無償の勤労に終始したということだ。これは、吉田個人としては日常の生活に直結する重大な問題である。
収入がなくても光熱水費のような日常の欠かせない出費は絶え間がないから、その補填には細々と積み立てた貯金を切り崩すしか手段が無いわけで、今年の春はこれがなかなか厳しい状態であった。今更現状をネガティブに引きずってもどうなるわけでもないから、気持ちは前向きに、とにかく気楽に乗り切ろうと思って過ごしている。幸い、ワイフもくどくどと現状の不満を訴えることもなく、喜々として旬の出会いを楽しんでいるふうでもあるように感じるし、見た目だけかもしれないが、彼女がそうしてくれているだけで、自分としてはとても救われているのだ。

実は、明日が七日つとめで朝が早いから今夜は寺泊になる。
先日の江津と奥出雲の食材買い出し以降、毎晩のように海のものや山のものが美味しい手料理に変わってだいじにチビチビと小出しされながら食卓を飾ってくれていたのだが、今夜はそれも無い。それで、寺の焼香料などの小銭を集めて近所のスーパーへ行った。3割引や半額を中心に食材を買い込んで、あとは寺のストックで夕食にした。乾麺のそばに、半額練り物に、3割引加熱用イカのアヒージョ・・・なんとも奇妙な組み合わせになったが、空腹が解消できればそれでいい。

七日つとめへ訪問しているお宅は、息子さんたちの仕事が広島なので、お母さん一人で自宅を守り暮らしていらっしゃる。最近はそういう一人暮らしのお宅が増えていて、ナニをするにも家族で手分けが出来なくてたいへんだ。
亡くなったおじいちゃんは、比較的信心深い人で、万善寺先代の憲正さん夫婦の元気だった頃は、春になって暖かくなると頻繁にお参りされて、庫裏の縁側でお茶飲み話に興じていらっしゃった。万善寺は曹洞宗だが、特に宗派も関係なく色々な情報を収集しては観光も兼ねてアチコチのお寺へお参りされていたくらいだから、ひょっとしたら憲正さんより観光仏教に詳しかったかもしれない。
そのおじいちゃんにとって、仏教が信仰の対象であったかどうかはわからないが、趣味の延長にお寺巡りがあったような気がしないでもない。それはそれで、大きくくくれば巡礼の旅に通じることであるし、お仏壇の引き出しには、数冊のお経本も仕舞われてあった。
明日は一人で留守番のお母さんに生前のおじいちゃんのお話でもしようと思う。

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戒名料って・・? 

2018/05/24
Thu. 23:11

情報によると、今年は梅雨が早くやってくるようなことをいっている。
昨年まで、万善寺の大般若法要を8月に行っていたのだが、今年から前住職憲正さんの祥月命日6月16日に当てて法要を移動させた。
いろいろ、事情があったし思うところもあってのことだが、自分や家族も含めて、お檀家の皆さんへも先代住職のことをいつまでも忘れないでいてもらいたいということが日程変更の一番のねらいである。

石見銀山から通勤して、庫裏の玄関へ荷物を置いたら、そのままつなぎに着替えて境内へ出て、午前中の万善寺作務に一区切りつけて、それからやっと座敷へ上がってお昼ご飯の準備に入った。
作務の間にチビチビすすっていた携帯ポットのコーヒーが少なくなったので、現在の事務所兼用の台所で米を研ぎ置きしてから豆を挽いてコーヒーを入れた。

デスクトップをONして、ウエブ配信のニュースなどをチェックしていたら、「お寺から指定されたお布施の額にビックリ!」なる記事を見つけた。
気になって読んでみると、万善寺では考えも及ばない寺と住職の実態が書いてあって、唖然とした。
葬儀の経緯とそれに関する諸経費のことやご住職への布施や寺からの必要経費請求のことなどが長々と書いてあって、最後に「私はお寺や住職に対してあきれるというか、信じられない気持ちになりました。ですので、さらに自分の気持ちが固まったのです。お墓も仏壇も処分してしまおう。そう強く思いました」・・・と結んであった。
嘘か真か・・・葬儀費用の他に、お布施と戒名料で65万円。四十九日の法要料でお布施の5万円と7日努め諸経費の請求が8万円。それに永代供養料が100万円・・・あぁ~~~・・・1回の葬式と四十九日の法要総諸経費で施主家から約200万円が消えていることになる。
ちなみに、万善寺先代で東堂(引退住職)の憲正さんの時は、本葬までの葬儀費用が導師副導師をはじめ約20人の坊さんにお手伝いいただき、約400万円で済んだ。昨年遷化された隣町の大和尚様は現職のご住職だったから葬儀経費も軽く憲正さんの2倍にはなっていただろう。我が身の恥を晒すようだが、内室の母親の葬儀や墓石建立も含めて、未だに関係各所へ借金が返せないままになっている。
万善寺の実情と比較するに、一軒の家から一人の坊主へ一つの葬儀で200万円が渡っているという実態が、今の仏教界全体に行き渡っている訳でないことはわかってもらえると思うが、一方で、同業坊主の葬儀役務にこれだけの格差が生じているという現実があるということも事実だ。そもそも、お布施の他に戒名料という費目が計上されること自体、仏教の根本から逸脱した事態といえる。此岸の世界で生涯を全うした時点で、彼岸の世界に生まれ変わったあとの名前をいただく、その名前が戒名となるのであって、戒名がないと葬儀そのものが成立しないことなのだと、憲正さんから教わってきた。
永代供養料にしてもそうだが、一つ一つの仏事のことで、その内容がよく理解されないまま都合よく金に変えようとするねじれた卑しげな打算が世間に通用しすぎてしてしまっている。

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草刈りの日々 

2018/05/22
Tue. 23:22

墓納めの朝は気持ちよく晴れた。
あらかじめ石材屋さんと打ち合わせをしておいて、直接施主さんの墓地で待ち合わせることになった。
通勤坊主は1時間半ほど早く吉田家を出発した。

途中ですれ違う通勤の車列がいつもと少し違っていて、今朝は、猿の集団にも出会った。
最近、ほぼ毎日のように朝か夕方同じような場所で猿の群れを見る。春の子育ての真っ最中のようで、見かけるのはだいたい母子猿。少し大きくなった子供猿が厄介で、街道を挟んだ山岸と谷をチョロチョロ行ったり来たりして、その行動が予測しにくい。前の結界くんはもうかなりヨレヨレのくたびれた車だったから、少々猿を引っ掛けてもなんとも思わなかったが、今度の銀くんは、それでもまだ1ヶ月チョットの新車だから猿を跳ねるのも躊躇する。彼らも、毎日のことですれ違う車に慣れてしまっているからよけいに厄介だ。

墓地は、万善寺の墓地への参道がまだ楽に思えるほど急な斜面へ申し訳程度についている階段を最上段まで登りきったところにある。
足の不具合をいまだに引きずっているから、くるぶしの悪いところを中心にサポーターとテーピングを厳重にしておいた。愛用の杖を頼りに、約200段くらいのつづれおり階段を上がって、あらかじめ万善寺で用意しておいた五穀と切り餅を早逝だったご主人の墓前にお供えしてから、いつものように撥遣のお経を読んで、米と塩を墓地全体へ撒いて最後に、これも寺の井戸水を汲み置きしておいたもので洒水した。
今のように墓納めが増える前は、施主さんに必要なものを用意してもらって、自分は身軽にサクリと坊主の務めをこなすくらいで良かったが、施主さんのお参りも無いような墓納めが増えてくるとそうも言っていられないし、一式自分で用意して済ませたほうが面倒もなくて楽に思えるようになってきた。
先代の憲正さんに何度かお供した頃とは、ずいぶん様子が変わった。あの頃は、墓納めも一日仕事で、主だったご親族の参列があって最後は斎膳まで出て一杯が始まったりして、年回法事とドッコイくらいの一大イベントだった。

石材屋さんの作業へあとを引き継いで、杖を頼りにヨチヨチと坂を下りた。上半身は普通に何ともないが、下半身はこの急坂の登り降りがかなり辛かった。帰りは銀くんのクラッチを踏み込むのも難しいくらいだった。
草刈り機の消耗品パーツが壊れて使えなくなったので途中のホームセンターへ寄った。石見銀山では吉田家もあるし、工場の山岸も雑草が伸びているし、このところ毎日のように草刈り機を銀くんへ積み下ろしばかりしている。

じゅん君がおじいちゃんの誕生日でプレゼントした花が今は荒れ地になったおばあちゃんの畑の端できれいに咲いた。プレゼントした時は鉢植えだったが、知らない間に今の場所へ地植えされていた。毎年きれいに咲くし、気のせいか株が少しずつ大きくなっているようにも思う。草刈りする身としては邪魔でしょうがないが、大事な記念でもあるから、いつもそれなりに慎重に気をつけている。

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そもそもの万善寺 

2018/05/15
Tue. 23:50

新年度に変わってはじめての坊主総会があった。
年度初めの総会はどういう組織でも似たような議題で終始するが、万善寺の属する教区の坊主総会では毎年内容を変えた研修会が抱き合わせで行われる。
たとえば、部落差別のこととか、自然災害時の取り組みのこととか、戒名の問題とか、過去帳に絡む情報公開の有無に関する周知徹底とか色々だが、今年は寺にお参りを中心とした障害者対応に関しての現状と対策や提案が協議された。

自分で言うのもどうかと思うが、だいたいに日頃から性格の捻くれたところがあって、世間を斜めに観ているような坊主の仮面を被った生臭い人間であるから、こういう真面目な直球豪速球の話題になかなかついていけないところがある。
「うちの寺は観音霊場の一つになっているので、時々高齢の信者さんがお参りされるのですが、あれだけ長くて急な階段の上にお堂があったりすると、ご案内して良いものかどうか躊躇するんですよねぇ〜・・・まさか、エスカレーターとか昇降機を設置することもできないし、そもそもそれだけの投資をする余裕もないですし・・・」
まぁ、そんな感じの話題でしばし賑わった。
ひと昔前のことだと、宗教家としての坊主の口から出ることなど無かった話だ。

万善寺は俗にいう(のかどうかわからないけど・・・)男寺というやつで本堂の床が高い。その上、それがまた基礎石で境内のレベルから一段あげられているから、より高くなっている。最近は年齢のせいもあって少し背が縮んだが、本堂の濡れ縁がだいたい身長170cm位のボクの顎のあたりの高さになる。これは、飯南高原の数ある寺院の中でも一・二を争う高床の本堂といっていい。一方で、女寺(いまでは、「差別用語になる!」とこういう時に限ってうるさいことをいうひともいるだろうが、ボクはそれを「区別」だと思っているのだ!)の本堂はせいぜい高くて1m前後のゆったり横に広がった造りになっている。私は、仏教の長い歴史の中でどちらが良いとか悪いとかそういうことで本堂の造りや構造が決められてきたわけではないと思っている。では、ナニが根本かというとそれは「信仰の象徴」であり「信仰の具現化」であると考える。

日本のお城の天守閣へ続く階段は、わざと高さをランダムに組み上げて敵の進撃スピードを狂わせていたという。
殺伐とした戦と清浄な仏教の信仰心とは一見似たような造形物であっても、その創造の根本が全く違っている。仏教で云うところの急な階段とか高床の本堂とかは、そういう障害を克服した後に照らされる仏の光明に出会った時の達成感を噛み締め至福の喜びを目指すべく、自らの苦行修行の実践的体験をさりけなく提供していることなのだ。男寺と女寺の違いは、修行者とか信仰者がどのように考えナニを求めるかで造形や構造の違いが出てくるというわけで、どちらが良いとか悪いとか、信仰心が強いとか弱いとかそういう飛沫の信心で出来上がっているものでは無いと私は思っている。

そもそもの万善寺は、土留めの丸太を寝かした緩やかな勾配の参道に、禅寺特有の結界の象徴である門や回廊を持たない江戸中期再建の男寺であった。当時の住職の考えでそのような建造になったのだと私は思う。

カーブミラー

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ある日の通勤坊主 

2018/05/10
Thu. 23:24

雨で延びていた絶縁離檀の納骨がやっとできた。

お墓脇の山桜は葉を広げ、その後に咲き始めた梨の花も散って、今は朴の木の若葉が少しずつ大きくなりはじめている。
前日には万善寺墓地までの参道も草刈りをしておいたし、土と若葉の混ざりあった春の香りがほのかに漂って清々しい。

もともと山育ちだから、小さい頃はよく寺の裏山に入り込んで一日中飽きもしないで山遊びをしていた。
5月の今頃は木苺があって、それを見つけると棘に注意しながら摘み取った苺を食べながら頭陀袋へ忍ばせておいたアルミの弁当箱を取り出して詰め込みながら山歩きをした。2時間も山に入っていたら弁当箱が2つくらいはすぐいっぱいになって、胃袋の方もご飯がいらないほど満腹になった。

午前中に待ち合わせをしておいた石材屋さんが来てから骨壷を持って一緒にお墓まで登った。
急な坂道の参道をだいたい200m位登ると、息が切れる。
納骨を石材屋さんへお願いして、私はその間にお経を読んで回向をする。
お墓での色々なことを30分くらいで終わった。
調子の悪い膝と足首をかばいながら坂を下る。この下り坂が厳しくて杖がないと身体を支えきれない。それに今は、参道の直ぐ側まで笹がはびこってしまって気軽に山へ入り込むことが難しくなった。もう昔のように木苺採りで山へ入ることなどできそうにない。

昼からは初七日の七日つとめへ出かけた。
喪主のお孫さんは広島の会社勤務で、住居も広島へある。
「広島からどのくらいかかりますか?」
「2時間半くらいですかねぇ〜・・だいたい・・」
焼香が終わってから少しほどお話ができた。初七日が過ぎるくらいまでは慶弔休暇をもらったらしい。これから四十九日法要まで、毎週帰省されるのだろうか?・・・今どきの世知辛い時に勤務のシフトも難しいのではないだろうかと余計な心配をしてしまった。もっとも、坊主の自分だって収入につながる仕事など数えるほどしかない状態で細々と毎日の暮らしを維持しているわけだから、どちらかといえば生活が厳しくて大変なのはこちらの方で、他人の暮らしの心配をしている余裕など最初から無いのだけど・・・

夕方まで、長い間放置して伸び放題になっていた庭木の剪定をして、シャワーで汗を流してから通勤坊主の帰り支度をした。
出雲街道から銀山街道へ合流するところで薬膳レストランの桃太郎旗が目に入った。
「しばらくご無沙汰してるし、母の日も近いから、ワイフでも誘ってみようか・・」
右にウインカーを出しながら、ふと思いついた。
「ワタシ、あなたの母親じゃないから!」・・・そう言うだろうワイフの顔が浮かんだ。

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程々の付き合い 

2018/05/09
Wed. 23:29

石見銀山から飯南高原にかけて朝から雨が降らないのは久しぶりだ。
1年前の今頃は、寺の草刈りが一段落して石見銀山の吉田家周辺の草刈りもほぼ終わったくらいだった。今年の島根は、春先には異常なほど暖かかったのに4月になってから雨の降ることが増えて、寒い日が続いていた。
いずれにしても、相手が地球の天気のことだからチッポケな人間ごときがジタバタしてもどうなるわけでもない。毎日の空模様と上手に付き合いながら一日を乗り切るしかないことだ。

貴重な晴れの日になるかもしれないから、急いで吉田家を出発して万善寺へ向かった。
刈り残しのある本堂東側からはじめて、出来たら参道脇を刈りながらお地蔵さん周辺まで終わらせたい。それで、まだ余力があれば庫裏側の石垣から耕作放棄地にした畑まで刈り進めたい。
3月の展覧会の頃から調子を崩していた足首から膝にかけて、痛みがとれないままもう2ヶ月近くになる。アッチが直ったかと思ったら次にはコッチが痛くなって、一晩寝ている間に膝が曲がらなくなっていたりと、際限がない。

まだ元気だった頃の母親は、一時期花物とツツジやサツキやアジサイなどの低木庭木へ夢中になっていたことがあった。
彼女は何かに凝ると脇目も振らないでそればかりにハマるきらいがあって、それが数年間続く。一番すごかった時は、サツキの季節が終わる頃になると剪定をしながら寺の境内を片端からグルリ囲むように挿し木して回ったことがあった。シーズンになると、住職まで駆り出されるし、まだ小学校の高学年だった息子のボクまで手伝わされることがあった。
1年目は挿し木がだいたい60%くらい根付いて、2年目は枯れてダメだった穴埋めの挿し木をしてそれがまた60%くらい根付いて、3年目にはほぼ一面サツキの壁になっているというスンポウだ。母親はそれを計画的に行っていたのかどうか分からないが、とにかく、低木の壁が出来上がると、こんどはその要領を次の場所へ移して、当分の間それが続いた。気がつくと、中学校を卒業する頃には、両親が田植えなどの農作業で忙しくしている裏番組で、ボクが低木の剪定係になっていた。1学期の中間テスト期間にはテスト勉強もしないで夕方日が暮れるまで剪定ばさみを使っていることもあった。
高校に入学して一人暮らしを始めた時は、5月の連休で帰省すると、結局寺の用事を手伝わされることがわかっているから、「勉強が難しくて遅れているから・・・」と、適当な理由をつけて帰らないでいた。クラスに映画好きがいて、007を今はない松江中央の封切りで観たのも確か連休中だったはずだ。

草刈り機を振り回しながら、昔のことを思い出していた。
結局、母親の挿し木は私が上京してから後もしばらく続いていて、今はその頃の後遺症の荒れ放題で自分が悩まされている。挿し木が広がってから後は、その隙間や周辺へ己生えがはびこって、それが境内の石垣を侵食するまでになった。
植物も動物も、それに人間も・・・生き物を相手は、何事も程々のところでクールに切り上げないとあとになってまわりが迷惑をする。母親の挿し木の後始末が2年目を迎えた。

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永代供養 

2018/05/08
Tue. 23:05

この時期にしては珍しいほどの大雨が夜半から降り続いた。
夜が明けても、雨の勢いはおさまらなくて辺りが薄暗い。肌寒いからなかなか布団から出られないでイジイジしている間にいつの間にか通勤坊主で出かける時間になっていた。
鉄の工場のこともあるから、毎日のように通勤坊主ばかりしているわけにいかないのだが、少しでも寺の用事が出来ると、それをしないわけにもいかなくなる。

もう、かれこれ2年くらい前から少しずつ進展している離檀の墓納めと納骨供養のことが今年に入って3月のお彼岸前あたりから一気に加速した。
施主さんと菩提寺と墓石業者さんと、それに地域の行政窓口が、一つ一つの決まり事を一つ一つ片付けて、やっと菩提寺万善寺の舎利棚殿へ先祖様の遺骨を仮安座した。
それを5月の連休が終わってから永代供養墓へ合葬するように日取りを決めて、その日が週明けの月曜日で、まさにその当日大雨になった。

すでに血縁のご親族は皆さん他界されて、残されたのは叔父叔母の縁で微かにつながっている縁者の数人だけになった。その中から、島根と広島と京都で暮らすみなさんが4人ほど納骨や永代供養に参列されることになった。皆さんがまだ若い頃には、何度か万善寺の本堂で年回法事に参列されていらっしゃって、あの頃の記憶が蘇ったようで、しばし当時の思い出話に花が咲いていた。
外は、大雨が絶えることなく降り続いて、時折吹く突風で本堂の濡れ縁まで雨が上がってくる。
そういう悪天候のことで、当日の納骨が出来るわけもなく、墓地の永代供養墓のことは、寺と業者さんへ一任させてもらうことになった。

この数年間で、墓地の維持管理を放棄される施主さんが増えた。
この度の絶縁檀家さんのように、キチンと自分の責任で墓納めをして後始末されるところは、まだ信心の気持ちが絶えなくて、縁は切れても寺としては永代にご先祖様を供養させていただくことへの誠意を心の支えにすることが出来るからずいぶんマシだ。
私の代になってから、連絡先も消失して、年回告知や護持会費の請求が出来ないままになってしまった施主家が増えてきた。代替わりの引き継ぎが出来ていなかったことも考えられるが、高齢者世帯が増えている現状では、原因はそればかりでもなさそうな気がする。
結局は坊主も宗教法人の組織員の一人だから、自分の都合ばかりで寺の経営を適当に乗り切ってしまうことが難しくなった。今の社会構造の中で宗教の立ち位置をどのように定義付ければよいのか、私のような軟弱脳みそには名案どころか迷案も浮かんでこない。

お昼を少し過ぎて法要が終わって散会となった。その頃になって雨が少し小降りになったが、それで外仕事が出来るという程ではない。本堂から庫裏にかけて、ザッとひと通りの掃除と後片付けを済ませてから、通勤坊主の帰り支度をした。

参道脇の電線の引込線へカラスが1羽とまっている。そういえば、春先から保賀の谷でカラスの声を聞かなくなった。つがいのカラスも保賀の谷の棲家を捨てたのだろうか?

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仮通夜の夕方 

2018/05/05
Sat. 23:29

島根県全体がどうか分からないが、飯南高原では5月の連休が田植えの最盛期にあたる。
この近年は兼業農家がほとんどで、若い農業従事者はだいたい町役場を代表とする公務員か社協や福祉事務所などの外郭団体や、農協や郵便局へ勤務して地元に残る人とか、県境を越えて広島県にある企業へ就職して通勤する人が多い。だから、平日は農作業が出来ないからこうして5月の連休のような祝祭日と土日を農業に当てて、一気に農繁期の仕事を終わらせることが常識になっている。

102歳で大往生されたおじいさんの葬儀は、自治会の話し合いで5月の連休中の土日に行われることが決まった。喪主であるお孫さんが広島の企業に就職していて、そのこともあったし、荼毘の日程上そうせざるを得ないという事情もあった。
万善寺では、通夜が先に延びた場合は、その日が来るまで夜伽を兼ねた仮通夜にお邪魔することにしている。農作業の地域の事情もあって、仮通夜は家族だけの近親者で済ますことになった。

葬儀があるといつも思うことだが・・・長生きの大往生は本人や家族にとって本当に幸せなのだろうか・・・?
長い間介護施設へ入所されていたご本人は、所内で親しくされていた職員や友人に見送られての旅立ちだっただろうが、これだけ長生きされると、たとえば生前の仕事仲間だとか、学校時代の同級生だとか、地域で親しかった老人会だとか、その上、気がつけば家族親族も先にいなくなって、ご自分一人があとに残されてしまっていた・・・などという、寂しい旅立ちである場合が多いと思う。

順当にいけば、年長者から順番に死んでいくことが一番幸せなことだと、あの一休宗純禅師もおっしゃっている。
智光正純和尚は、元々友達もそれほど多くないし、身内家族も離れて暮らしていて、ワイフともだいたいがニコニコ別居の暮らだし、一人暮らしの寂しさをあまり感じることもなく毎日を生きているから、自分の周囲に誰もいなくなっていたとしても特にこの世に未練を感じることもなく、また、周囲に惜別の悲しみを抱かせることもなくさりげなく死んでいくことが出来る気もする。
人が死ぬということは、やはりその人だけのことでもなく周囲の動揺を避けることが出来ない人生の大きなイベントの一つであることは確かだ。今のうちから、まわりに迷惑をかけないように自分の身辺を整理してシンプルに暮らすことを心がけたいものだ。

仮通夜は通夜というよりはまだ明るすぎるほどの夕方になった。
自治会の参列者もなく近親者だけのことだから、夜の時間に余裕があったほうが助かるということだった。
「特に強制というわけでもないですが・・・もし、出来るのなら、線香蝋燭は絶やさないでいただけるとよろしいかと・・・まぁ、夜伽とはそういうものだと思っていただくと、故人も喜ばれる気もいたしますが・・・」
そう言い置いて、当家をあとにした・・・

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墓納め 

2018/04/26
Thu. 23:31

大田市の地震は、その後情報通の「〜〜だげな話し」をまとめると、どうやら石見銀山の幾つかある谷の一つで釜屋間歩の近所が震源地らしい・・・という、もっともらしい話題が住民の一部で飛び交っているようだ。
情報通の中には市役所のリタイヤ組もいるから、まんざら大嘘でも無いような気もするが、本当のことはわからない。吉田個人は俗にいう世間話とか野次馬的情報収集に積極的でないところがあるので、石見銀山の住民を中心に、震源近くで暮らしていて実際に被害を受けた当事者にとってはひとごとでないから微細な情報にいつも以上に敏感になっている時期でもあるだろうそういうことも、なんとなくどこか遠いところの出来事のように感じてしまっている。
一種の余震なのだろうが、忘れた頃にドンと地面を突き上げるような地鳴りと揺れが来ることがある。最初の地震の時は飯も食べないで1日以上も何処かに潜り込んでいたネコチャンズも最近は余震があっても毎日の生活の一部へ組み込まれたように無反応でいることが増えた。私の方は、冬の強力寒波で苦労したこともあるし、念のために高いところの物を降ろして片付けたり2Lの水を常備したりして防災の意識を少しだけ強化している。もうずいぶん前のことになるが、東日本大震災の後にウエブブックで東京防災が無料配布されたことがあって、そのときダウンロードしておいた本を今更ながら読み返したりしている。

さて、愚図ついていた空も、少しずつ青空が広がって春風の爽やかさを通り越して暑さを持て余すくらいになってきた。
もう2年ほどは前からのことになるだろうか?・・・随分前に絶縁になった万善寺の檀家さんがあって、その遠いご親族が細々とお墓を守っていらっしゃったのが、そろそろそれも限界だということで墓納め(墓仕舞い)を思いつかれた。
前住職の頃は、役場も特に込み入った書類様式があるわけでもなくて、当事者と菩提寺のお茶飲み話程度のことでそっくり何とかしてお経を一つ読んで済ませていたようなことが、平成の代になった頃からしだいに面倒なことになってきて、それで結局誰が何をすることもなくモタモタと時間だけだ過ぎて、それこそ同じことの繰り返しを電話で話したり話されたりして先に進まないから、田舎坊主の無い知恵を絞って、必要な諸経費を中心に年回を割り出したりして具体的な費用を数字に置き換えた。俗に言う永代供養のようなものなのだが、仏教の世界も何かしらのたたき台が用意されていないと話しにならないような時代になって、今更「信心」がどうこう云うほどの心の余裕もなくなってしまった。
それで、そのデータを元にクドクドと説得のような話を繰り返して、納得されたかどうかわからないまま、粛々と一つ一つの決まり事を終了して、万善寺の舎利棚殿へ納骨の仮安座を済ませた。
もちろん、遠方であるからとか、仕事の用が外せないとか幾つかの理由があって縁者の参列は無い。墓石の始末を依頼した石屋さんと一緒に拾骨をして、お骨をまとめて火葬にして、骨壷ひとつに集めて、それに付随した供養のお経を読んだ。
こういう一連のおつとめが、丁寧なのか粗末なのか比べる対象が無いのでなんとも曖昧なままなのだが、それでも何もしないわけにもいかないし、そういうことで1日が終わる頃には、白衣や襦袢が自分の流した汗で湿るほどだった。

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坊主の都合 

2018/04/24
Tue. 23:14

雨が本格的に降っている。
この雨で、寺の境内は一気に草が伸びることになるだろう。
母親が生きていてまだ元気だった頃は、この時期にJAの販売する除草剤を大量に蒔いていた。○○は枯れるが、△△や□□は大丈夫だから安心して使っても良い・・・などと、もっともらしいいことを云いながら「大丈夫大丈夫!」と境内の隅々まで除草剤の水溶液が入ったジョロを持ってヨチヨチ歩いていたことを思い出す。
資源ゴミが溜まってきたのでそれを集めてリサイクルセンターへ持っていく時に、母親の残していた農業関係の容器類を何の気なしに一緒にして持っていったら、仕分けしていた職員の人から「これは農薬関係ですから、処分はJAの方でお願いします」と差し戻しを受けた。田舎の事情がいまだによくわからないまま寺の暮らしを続けているようなところがあって、そういうこともあってなかなか一気に片付かなくて困っている。

そんなこんなで、寺の用事もなかなかすんなりと回らないまま毎日がアッという間に過ぎてしまう。
組寺付き合いの手間替え法要がはじまった。
毎年4月の21日は、お付き合いのある臨済宗のお寺でお大師講法要が厳修される。
だいたい、1年の付き合いのはじまりがこの法要になっていたのだが、今年は、同宗の方丈さんが一人減った。その上もう一人は導師さんの都合で法要が1日ズレて、自分の寺の都合と重なったりと、何か居心地の悪い落ち着かない法要になった。万善寺の場合は、住職だけ(ボク一人のことね)ですべてを仕切ってしまうような法要は、自分の都合の良いように動かしながら周辺へお参りを告知しているが、こうして、近所の坊さんの手間替え随喜をお願いする時は、原則として日時を動かすようなことはしない。理由はザックリまとめると二つあって、一つは現実的都合ともう一つは宗教的都合。
別に、小難しい理由があるわけでもないが、現実的都合というのは、我々坊主のスケジュール管理の問題。1年で外せない手間替え随喜法要は、お互い暗黙のうちにその日時を軸にして周辺の行動を予定計画しておくから、それをチョコチョコとむやみに動かされても困ってしまうわけだ。今度の万善寺大般若会法要移動に関しても、2年ほど前から周辺に告知して承諾を得たものだ。
そして大事なのが宗教的都合。
そもそも、それぞれの寺が厳修する法要は、その日にそれなりの意味があってのことなので、住職坊主の都合でむやみにその日を変えることはよろしくないことなのだ。
たとえば、弘法大師さんのご縁日である21日は、月命日に当っていて、毎月1回、年に12回ほどは、その日を特別な日として供養法要をしていることになる。面倒臭いことを云うと、宗門は弘法大師さんとは宗派が違うから、供養法要の厳修が義務付けられているわけではないが、万善寺住職のような地域密着型の田舎坊主は、近所のお寺とかお堂とかそういうところで弘法大師さんがお祀りされていて、何かしらの供養を依頼されれば、NOということもなく、セッセとお経を読んで弘法大師さんのご真言をお唱えしているわけだ。

坊主も人間だから、一人ひとり頭の数だけ考えや思いの違いがあって当然のことだが、それをわかってゴクリと飲みこんでソコソコ波風を静めながら付き合っているのです。

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万善寺お墓事情 

2018/04/15
Sun. 23:25

予期せぬ胃痛で1日ほどダウンしたからその時間を取り返そうと、朝早めに石見銀山を出発した。
万善寺の境内へ上がると、アチコチに色々なものが散乱している。
昨日の暴風雨の凄さがよく分かる。
まずは玄関の鍵を開けて、それからその散乱した幾つかのものを探したりもとに戻したりしていたら、また小雨が降り始めた。
お墓への参道に比較的大きな枯れ枝が落ちていた。強風で裏山の何処かから飛ばされてきたのだろう。この様子だと墓地の方もなにかあるかもしれないと心配になって、急いでつなぎの作業着に着替えた。
雨のやむのを待って掃除用具一式を持って、途中、強風の影響で散乱していた山のものを片付けながら墓地へ上がった。
1週間前の地震で墓石の幾つかが倒れたり横ずれしたりしていて、前の墓掃除の時にそれを治しておいたのだが、開祖さんの自然石だけはさすがに一人ではどうすることもできないから石材屋さんへ復元を頼んでおいた。春の墓地は、ひと冬で積もった雪の水分をたっぷり吸っていつもより地盤が緩んでいる。それに加えて、雪が解けながら墓石を押し出して倒してしまうこともある。だいたいそういう時は小さな60cmくらいのバールが一つあればなんとか一人で修復出来るのだが、今回はそれに地震が加わったからいつもよりずいぶん厄介なことになった。
とにかく、病み上がりの身体で墓地と寺を都合3往復してひとまず作務の遅れをとりかえした。

最近は、市街地の墓地を中心にお墓やお供えの管理ルールが厳しくなっていて、本来お墓参りで大事な幾つかのことができなくなってしまって、そのまま人々の記憶が薄れていつのまにか習慣が消えてしまっていることも多い。それは、街場の寺院でも同じで、何から何まで大事なことが割愛されて楽な方へ流されていく。
万善寺では・・・というより、現住職はそういうことがあまりいいことだと思っていないので、とにかく自分のからだの動くうちは昭和からの知る限りの流れに逆らわないでそれを出来るだけ守っていこうと考えている。

昔は線香蝋燭と一緒にお花と旬のモノと主食相当のモノを墓前にお供えしておくことがお墓参りの常識だった。それに、年回法事の後の墓参は塔婆が加わるわけだが、最近のお墓ではその各種お供えや塔婆を見かけることが激減している。昭和の時代には特に問題なく過ぎていたお墓参りの常識が、今は生きている者の都合優先で廃れていく上に、それが管理とか環境とか衛生とか、そういう都合を優先したルールに変わってしまう。坊主の方もそれに流されて塔婆や葬儀旗や六道などの大事なものを割愛したり書かなくなったりすることも増えた。
世間の事情も色々あるだろうが、それはそれとして大事なことが消えてしまうのも自分ではどうかと思っていて、だから、せめて万善寺の場合はこうしてお寺の聖域でもある墓地の移転も考えないし、線香や花立ても出来るだけ自然のもので毎年自作しながら更新するようにしている。

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2018-06