工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

紫陽花の咲くころ 

2017/06/20
Tue. 23:29

「わたし、いつもデジカメ携帯してるから♡!」
少し前に、キーポンから紫陽花の写真が届いたので、上手に撮れてキレイだと返事した。

4月から保育士で働き始めた彼女は、現在ゼロ歳児を担当しているのだそうだ。
仕事で、色々なシーンを記録しておくこともあるから「デジカメ買ったの!」だそうだ。
それから、出かける時はそのデジカメを鞄に忍ばせているらしい。

私がキャノンAE-1プロギラムを買ったのは、新宿ピットインの斜め前にあったカメラ屋さんだった。
当時学生だった私は、特にカメラが好きだというわけでもなく、どちらかといえば必要に迫られて「買わされた」ような状況だったと記憶している。
カメラ本体売りが常識で、それにどのレンズを組み込むかオプションの選択肢で価格が決まるシステムで、その日暮らしの貧乏学生にとっては、かなり高価な買い物だった。
結局、店員さんの推薦というか、助言と言うか、まぁ、云うなりに標準レンズをセットして設定されていた最低標準価格のモノに決めて、それがキャノンだったわけだ。
カメラのことは特に詳しいわけでもないし、ひとまず一眼レフで被写体の構図やピントが狂わなければいいくらいの写真になっていれば良かったから、買ってしばらくは、プログラム設定のおまかせ写真ばかり撮っていた。
その頃中元と歳暮を狙って定期的に開催していた展示即売のクラフトグループ展があった。まだバブルがハジケル前で、学生の分際でも何かそれらしきものを造ればソコソコ売れていた時代だった。庶民でも日常の暮らしが少しばかり贅沢できていたから、クラフトのオリジナルデザインが気に入られていていたし、学生の手造りクラフトは価格も安く設定してあったし、それに、大量生産でない一品物であるという付加価値も加わって、需要と供給の思惑が合致してよく売れた。
キャノンはその展覧会と称した展示即売会の売上で買った。

グループ展の先輩にカメラの詳しい人がいて、立体作品の撮り方を丁寧に教えてくれた。
被写界深度と絞り優先とかシャッタースピード優先とか、ISOのことやフィルムの感度など、グループ展の会期中に集中してやたら親切に指導してくれた。
「一見怖そうだけど優しい先輩だなぁ〜」くらいに思いつつ熱心に教わっていたら、「俺、他の用事があってもう会場へ来ること出来ないのよ。悪いけど、俺の代わりに、展示作品全部、写真撮っておいてくれる?よろしく頼むわぁ〜」ということだった。
私が一番暇してるふうに見えたのだろう、マンマとハメられた感じだったが、ある意味信用されたふうにも感じて、やたら緊張しながら三脚使って撮影を続けた。

今は、キャノンでもお手軽PowerShot Gシリーズ愛用者になったが、あの時の先輩のお陰で写真撮影の基礎がシッカリ身についてとても助かっている。
展覧会の図録用写真から、お正月の年賀状までなんでも一人でまかなっている。
憲正さん遷化の時は、遺影や本葬差定冊子まで手造りした。
あの先輩とはその後疎遠のままだが、とても感謝している。

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三日坊主 

2017/05/19
Fri. 23:55

最近、鏡を見る機会が増えた・・・かといって、ナルシシストに目覚めたわけでもない。
現実は、営繕作業で汗を流すのでシャワーの機会が増えたことと、一日の半分くらいが仏事絡みの仕事だったりする時に無精髭を剃ったり伸びた頭にバリカンをあてたりすることが頻繁になったことで、その度に鏡を見る時間が増えただけのことだ。

頭を刈るとか髭を剃るとかいうことは、どちらかと言うと彫刻家の吉田スタイルというより坊主の吉田スタイルの身だしなみのようなものだから、バリカンなどの道具一式を万善寺の洗面所と風呂へ移動した。
今月唯一の法事があるので、いつもの営繕作業を終わって陽のあるうちに風呂の鏡を見ながら坊主スタイルを整えた。
前々から気づいていたことなのだが、後頭部の頭蓋骨の出っ張りと、その周辺の頭皮のダブツキがひどくなって、そのあたりになるとバリカンが思うように動かない。
さすがに、鏡でも後頭部までは肉眼で見ることが出来ないから、首を捻じ曲げたり余った片手で頭皮を引っ張ってみたり、指先の触感に頼ったり、いろいろとそれなりに工夫しながらバリカンをあてている。もう一箇所、顎の先から喉へかけての髭剃りで剃り残しが出来るようになって、こちらの方は少し慎重にその気になって鏡を覗き込んだら状態が確認できるから、ひととおり石鹸の泡を流してから再確認をする。
さすがに、今の自分くらいの年齢になると体全体の毛に白いものが目立つようになってきた。光のあたり具合によっては、白くなった毛が皮膚の色に同化して見えなくなることがあるので、毛が抜け落ちたかと錯覚することがある。毛が長く伸びていると禿げたのか白髪になったのか判断しやすいが、私のように極端に短く刈り上げた時は区別しにくい。

坊主が30人ほど集まることがあって、その席でそれこそ坊主頭のことが話題になった。
「私達坊主は、何時の頃から頭を丸めるようになったのでしょう?」
「どうして坊主が頭を丸めるのにカミソリを使うことが普通になったんでしょう?」
万善寺のナンチャッテ住職は、頭にバリカンをあててすませているし、口髭も剃り残してハサミで切りそろえているから、まぁ、ようするにわたし名指しの当て付けであったかもしれないが、それも考え過ぎのことであったかもしれないし、よくわからないまま、「さぁ、どうしてでしょう??禅の開祖の達磨さんは髪も長いし髭もありますよね・・」と、返答しておいたら、周辺の坊さんたちが坊主頭の話題に食いついてしばし盛り上がった。
「ようするに、昔はバリカンという道具が存在しなくて、頭を丸める時は髭を剃るカミソリをそのまま使いまわすしかなかったからですよ」
言われてみると確かにそうで、納得できる。聞くところによると、昔々は、ハサミもないから、長い髪もカミソリで削ぎ整えていたらしい。

結局は長い髪が修行のジャマになるとか、不衛生の元になるとか、坊主を見た目で識別しやすくするとか、それなりの幾つかの理由が都合よく集まったのだろう。
私の場合、坊主頭に慣れてしまうと、もう髪を伸ばそうという気にもならない。バリカンをあてて3日もすると、もう頭皮がムズムズしてくる。坊主頭はやめられないですね。
・・というのが、ナンチャッテ坊主的解釈の「三日坊主」というヤツであります。

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吉田家裏庭営繕作業継続中 

2017/05/16
Tue. 23:37

この数日、私の周辺は比較的良い天気が続いている。
ノッチが帰省している時は雨が多かった。
彼女は雨女なのだそうだ。私は雨男だから、二人でウロウロしていたら天気が悪くなるのも仕方がないだろう。

島根県内で彫刻の展覧会やイベントを企画開催する時は、石見銀山の町並みに工務店を構える棟梁へお手伝いを頼む。
若い頃は東京で大工をしていたから仕事が早くて都合がいい。
万善寺のお檀家さんにも大工さんが3人いたのだが、その中で一番頼みやすかった棟梁が1年ほど前に若くして病気で死んだ。彼が死ぬとしばらくして工務店は解散して工場の工具や機械を売却して店じまいしてしまった。その棟梁のやり残した仕事もいくつかあったようだ。その一つに万善寺の舎利棚殿もあった。全体の80%以上は完成していて、細かな仕上げ仕事がいくつか残っていたが、結局次への引き継ぎが上手くいかなかったようで、なんとなく完成の曖昧なまま、しばらくして請求書が届いた。
「まだ、お願いしていたことが最後まで終わってないんだけどなぁ〜?」と、モヤッとした気持ちで請求書の明細を見ると、特に細かなことも書いて無くて「◯◯一式」で済まされていた。
本人のいなくなってからあとになって、「あれはどうなってる、これはこうだった・・」などと、蒸し返してもしょうがないから、少し値がはるものの「香資」ということで飲み込んで、先々代から続いていた万善寺お抱え大工のようなお付き合いを断った。

檀家さん以外の工務店や棟梁と付合いが無いから、寺の修繕も停滞したまま1年が過ぎたところで俊江さんが死んだ。考えようによっては、やっと「過去からの義理も切れて自分の思うように自分の責任で物事を済ますことが出来るのだ!」と気持ちを切り替えて、石見銀山の棟梁に相談したら「あぁ〜良いよ!」と、いつもの軽いノリで引き受けてくれたので、早速万善寺へ案内して修繕の打ち合わせをして見積もりをお願いした。
棟梁は、「まだ仕事の途中で忙しいから」と、お茶も飲まないで帰っていって、それから10日ほどして見積もりを持ってきてくれた。
例のごとく、吉田家裏庭の営繕作業が続いていたので、棟梁には銀山川を渡って直接裏庭へ来てもらった。
「いやぁ〜、こりゃ大きなスモモ!!これがポポーの木かね??アレッ、グミもあるがね!まぁまぁビワもあって・・・この花何かね??」
吉田家を建ててもらった時は、だだっ広いだけのタダの空き地だったのが、この20年でジャングルのようになって当時の面影も消えた上に、鬱蒼と様々な草木が茂って里山を切り取ったような裏庭へ変貌を遂げ、それでしばし話題が広がった。
ちょうどいい機会だからと、早速吉田家のトタン屋根へ上がって現状を見てもらって、天窓の修繕もお願いした。

あとで見積もりを見ると、思ったより安かった。
棟梁へは、今年も島根県内で開催予定の彫刻イベントへも付き合ってもらうつもりだ。

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実践!オヤジのルール 

2017/05/14
Sun. 23:04

次女のノッチが、春の大型連休を1週間ずらして帰省してきた。
石見銀山で5日間位のんびりしたあと、夜行の高速バスで東京へ帰っていった。
早朝にバスタへ着いて、自宅へ寄ってから会社へ出勤する。

吉田家の4人の子供たちは、末娘のキーポンが保育士になって働き始めたので、全員が社会人になって独り立ちしてくれた。
長男と末娘だけは18歳まで吉田家で暮らしたが、長女と次女は15歳から吉田家を出て一人暮らしをはじめた。
子供たちへは、学校が終わるまでは親の援助が必要だから、その支援内容に見合うくらいの口出しはさせてもらおうと密かにオヤジなりのルールを決めさせてもらっていた。結局は、稼ぎの悪いニートオヤジの支援など無いに等しいことだから、気がついたら子供たち一人ひとりがソコソコ自活して、ひとまずは自力でメシを食べながらそれぞれの学校へ通ってそれぞれそれなりの学生時代を経験して卒業してくれた。だから、4人共すべてバラバラの仕事をしていて全員がバラバラに暮らしている。今年に入ってからは、私の寺暮らしがいっきに増えたから、親も子も吉田家全員がバラバラに一人暮らしをしているようなふうになった。

オヤジのルールとは、大それたものでも何でもなくて、「アルバイトなどで働く時は飲食業などの水モノ職業を探せ!」というだけのこと。
要するに、「稼ぎは悪くてもメシには困らない」ということ。
これは、まったくもって私の経験に基づく根拠があるだけのことだから万人に当てはまることもないだろうし、アルバイトに頼らないでも楽に暮らせる青年もたくさんいるだろうから、完全に吉田家オリジナル吉田家限定のルールであると思っているが、4人の子供たちは4人共ソコソコ忠実にこのルールを実践してくれた。
中でも次女のノッチの就業遍歴は筋金入りで、ことごとく水モノ職業を渡り泳いでいる。
始まりは喫茶店のホール。ここでは、時々消費期限の迫ったケーキなどをもらって帰ってきていた。
高校の時はラーメン屋でアルバイトをしようと探していたが、おじいちゃんの反対で断念。
大学の時は、居酒屋のチェーン店。結局ほぼ4年間続いて、贅沢なまかない飯で腹を満たしていたらしい。
国外脱出して働いていたシンガポールは日本食焼肉レストランだったから、食いっぱぐれナシ!
帰国してしばらくは、なんと◯◯のおいしい水なる、家庭用飲料水をコンテナ販売して関東一円を回っていたこともある。
今は、20代で起業した若社長の下で事務経理を任されているようだが、かなりの確率で食事に誘ってくれるらしい。
そして、今年の8月からは1年間フロリダのオーランドにあるエプコットの日本館レストランで働くことが決まった。
この就職活動がなかなか強気で面白い。未だに吉田家のノッチネタで話題に登っている。

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吉田家営繕作業〜草刈り 

2017/05/09
Tue. 23:26

石見銀山は朝から雨になった。

石見銀山の大森町町並みから銀山川まで続く土地へ20年ほど前に引っ越した時は、全面隅から隅まで細かく仕切られた畑だった。
ほぼ中央に桃の木が1本あって、畑が日陰になるからと横に広がった枝木はすべて切り落とされて、二股に分かれてYの字に上へ伸びてバランスの崩れた枝ぶりがどこかしら弱々しく寂しげに感じられた。
その畑の町並み側へ慎ましく建っていた廃屋同然の平屋を修繕して今の吉田家になった。
吉田家の大屋根が大森町の家並みに埋もれるように低いのは、それだけ建築時期が古いという証拠なのだそうだ。大屋根が抜けて青空が見える状態の家を修理するにあたって、奈良県の方からやってきたその筋の歴史的建築研究の専門家が調査してわかったことだ。
石見銀山の町並み全体は文化財指定の網にかかっていて、原則として更地にしてから新築することが出来ないことになっている。家とその真下の土地セットで中古車価格並に安く買い取ったものの、結局は改築工事の経費が膨大にかかって、終わってみれば、新築並みかそれ以上の費用がかかっていた。そのおかげで死ぬまで借金返済を続ける羽目になって今に至っている。
もともと私の書斎になっている四畳半は、江戸中期の文化文政時代に出来上がったということがわかっていて、黒く煤けた柱や天井板もその頃のものだということだ。
今は、その柱にインパクトで木ねじをねじ込んだりケーブルテレビの同軸ケーブルを這わせたりして、伝統とか保存とか、全く無視して使い倒している。

万善寺での暮らしが増え始めてから、吉田家内外の営繕が手付かずのまま放置されることが増えた。
移住してすぐの時に、以前暮らしていた家の庭先に植えていたウメやスモモやグミやビワなどの果木を裏の畑へ移植した。その後、ワイフの趣味の延長で次々と草木が植えられた。
もともと長い間畑で使われていた土地は栄養タップリで肥沃だから、移植の草木果木はスクスクと面白いように成長してアッという間に林になった。

現在の吉田家裏庭は、荒れ放題の雑木林的状態になっていて足の踏み場もない。
だいたい、1年に2〜3回は草刈り機を振り回しているが、その度にワイフが大事にしている草花も一緒に刈り倒してしまうものだから、「そろそろ裏の草刈りしておいてくれない♡」などと、依頼する時は優しげなのに、ひと仕事終わった後はやたらと機嫌が悪くなって、だいたいいつも叱られている。
毎年同じような展開が続くと、最近はもう慣れてしまって、ワイフを無視して都合よく自分の良いように刈り取ってしまう。どうせ何やっても叱られるのはわかっているからね。

1日、雨に濡れながら混合油の切れるまで草刈り機振り回し続けたが、結局最後まで刈り切ることができなかったから、日を改めて仕切り直しになった。
この時期には珍しいほど冷え込んだから、夜になってストーブに薪を投げ込んだ。

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オヤジ道中記〜東京都立美術館〜 

2017/03/18
Sat. 12:39

隔年開催の春季展へ先週のはじめに彫刻の搬入をすませたのに、もう搬出の日が迫っている。その搬出の方は、島根県彫刻界の新進気鋭ホープ作家周藤豊治氏が行ってくれる。

私にとって春の展覧会は、公私を含めて日程の調整がとにかく難しい。
作品発表の場が東京の美術館に集中することが多いから、島根県のように東京から1000km近く離れていると、こうして、何人かの同好の士が周辺にいてくれないと、年々歳を取る一方のヨレヨレ彫刻家としてはとても彫刻制作や展覧会を継続できるものではない。

最初の展覧会らしきグループ展に誘われて銀座のギャラリーへ作品展示させてもらったのが、確か22〜23歳の時だった。
その頃は、強い意志を持って何かしら作品発表を継続しようと決めていたわけでもなかったが、気がつけば毎年何かしらの展覧会らしき作品発表が続いていて、結局、この歳になるまでしばしも絶えることなく制作を続けることが出来ていた。
もう、ここまでくると自分のライフワークの一つと踏ん張ってみるのも良いかもしれない・・・と、具体的にそう思うようになったのは2010年の春だったと記憶している。

石見銀山が世界遺産認定登録されたのは2007年だったはずだ。
その2〜3年前から周辺がとにかく騒がしくなって、昼夜公私を問わず、何処かで何かの世界遺産認定に関連した会議とか説明会とか研究会とかイベントとかが開催されていた。
石見銀山のど真ん中で、それなりに緩やかなスケジュールをこなしつつ、つつましく静かに彫刻の制作や発表を続けていた私も、いつの間にか流行性感冒の熱に感染したかのように世界遺産の熱に飲み込まれてしまっていた。
それまで、普通に楽に石見銀山町内の好きなところへ彫刻を設置させてもらっていた(もちろん、地権者の承諾を得てのことだけど)し、町内で美術の展覧会が出来ていたのに、急に文化の規制が厳しくなって彫刻家の住みにくい町になった。
規制の根拠としては、過去の文化遺産を保存し後世に伝えるうえで、個人の文化活動が時代考証や地域文化伝承の妨げや弊害になる可能性が高いと判断されたわけだ。
個人の文化活動は趣味の延長とか大衆の文化祭くらいに留めておけばそれが妥当だくらいにしか認識されないことへのいきどおりを強く感じた。
彫刻の制作で、彫刻のかたちを借りて自分の今を表現させてもらっている私としては、そういう、一部の硬直した官民一体のまずは世界遺産保全ありき的不透明で希薄な寄生虫のような管理体制に対して、あくまでも自分の彫刻表現で抵抗するしか無いと決めて、現代彫刻小品展を石見銀山で立ち上げたのが2010年だったわけだ。

都立美術館がリニューアルオープンして、久しぶりに彫刻展示を手伝わせてもらった。
学生時代からお世話になっている思い出深い美術館だったが、ほとんど変わらない外見に対して、あまりにも大きく様変わりした管理システムには驚かされた。
美術館という器は、やはりそこに美術芸術表現をもって参集する作家の資質に、毅然として、且つ包容力を持って対峙するくらいの度量が欲しい。
石見銀山しかり都立美術館しかり、担板漢的類友の衆には心底疲れる・・・

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予定変更 

2017/02/02
Thu. 23:36

先日、出雲へ出た時に衝動買いしたベルギー産のチョコを、初午祭まで待てなくて味見してしまった。
ようするに、軟弱坊主は食欲の誘惑に負けて甘いものに手を出してしまって、その原因は倉敷の森山珈琲深焙煎を飲んでしまったことによる!・・・などと、また他人のせいにして我が身を守ったりしている・・・という、このいやらしいオヤジだったりする。
万善寺の3畳寺務所で珈琲飲んでマッタリしていたら、知らない間にそういう状況にハマってしまったりしてしまう訳だ。

このところのブログネタは、延々と万善寺のことや雪のことばかりで、自分のひらめきとか発見とかワクワク感とかがまったく無い。
「立春が過ぎたら、彫刻家の吉田に変身するぞ!」
しばらく前からそういうふうに自分の気持を切り替え始めていて、やっと、モヤッとしていたスケジュールが具体的になり始めたところだった。
その区切りの一つに、母親の通院日程を組み込んで、雪の状況とか参道の具合をチェックしながら、一方で最近やたらとしぶとく超元気な我儘自己虫母親を牽制しながら適度に負荷を与えつつ過ごしていた。
その通院が本日で、昨夜から雪がぱらつき、夜半から明け方は星が降るほどの晴天になり、もう最悪の雪が積もってガチガチに凍った放射冷却の朝になってしまったのだ!
仕方がないから、鉄の先が尖ったスコップを持ち出して参道の氷をカキ砕いて結界くんを無理やり境内まで上げたら、彼の軟弱なFRPバンパーがグニャリと曲がったりして、なかなかイラつく通院になった。

母親を病院へ預けて自分の用事を済ませていたら、電話が鳴った。
いつもは1年に1度も会話がないほどのお檀家さんからで、とてもイヤな予感がした。
やはり、的中で、大正13年生まれのお母さんが亡くなったとのこと。
時間の調整をして枕経を読んでから葬儀日程を打ち合わせした。
節分から立春が面白いほどピタリと見事に重なった。
実は友引が重なったりしていたから内心ビクビクしていたが、自治会の世話人さんは見事にスルーしてくれて助かった。
気がつけば、密かに温めていたボクの彫刻計画があっけなく崩れ去ってしまった。
自分にとっては坊主も外せない仕事のうちだから、仕方がないことなのだが、それにしても、日頃の付き合いが全くないお檀家さんで、それも亡くなったお母さんの方は、年に1度の棚経でもお話をしたことがなかったりして、坊主は坊主なりに複雑な心境の枕経になった。

夕方から、仮通夜で出直して、1時間ばかりしっかりとお経を読んで、日頃お寺参りの皆さんに少しずつ積み重ねてお話している仏教のアレコレから幾つかをまとめて、少し長めの説教とも言えない「今さら聞けないお経の話」なる講釈を垂れておいた。
週末から3日間はすでに予定を決めて連絡しあっていたことが幾つかあったのだが、それのキャンセルやら日程変更やら、夕食後は慌ただしい夜になって、今になった。

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大寒波襲来がどうした! 

2017/01/15
Sun. 22:17

世間的にいうと、島根県の東部を中心にそれなりの強烈な寒気団にスッポリと包まれているようであります!
吉田的にいうと、まぁ、毎年何回か遭遇する厄介な降雪の1回分に遭遇した・・と、そんな感じの1日を過ごしたわけであります。

万善寺の早朝は、絶え間なく降り続く雪から始まった。
保賀の谷のとんど祭りの日で、前夜には御焚きあげ用の御札を書いて守護印をペタペタ押して準備完了して、夜の冷え込みが結構厳しかったから、「これは、夜のうちに降り積もるな!」と雪の心配をしながら2枚重ねのシュラフに潜り込んだ。
やっぱり冷え込みが何時もより厳しかったようで、早朝の尿意を我慢できなくてオシッコに起きたら、だいたい一晩で30cmは雪が積もっていた。

島根県の飯南高原でその程度の積雪は普通に常識の範囲だから、特に気にすることもなくとんど祭りの仕度をしていたら、保賀の自治会長さんから電話が入った。
「おはよぉ〜〜〜ございますぅ〜〜、それで、お清めは何時ぐらいがいいでしょぉ〜かぁ〜〜〜?」
さて、そんなに早くても、この雪で参道を下りるまでに20分はかかるだろう・・と、判断して、
「そぉ〜ですねぇ〜・・・それじゃぁ、9時ということで・・・」
チョット見栄を張ってそぉ答えたものの、寒い朝をそれなりに自堕落に過ごしていたナンチャッテ坊主は、それはそれなりに焦ったのでありました。

絶え間なく降り続く雪の中で、とんど祭りのお焚きあげ法要を済ませ、その足で広島県との県境を越えた。
保賀地内にあれだけ降っていた雪が、県境を越えると「なにこれ??」という感じで雪風景が軟弱になった。

法事は結局、この度の大雪(でもなかったけど・・)報道でビビッたご親族の欠席が続いて、当初予定の半分以下の参列になった。人の頭数でお経の長短が決まるわけでもないから、それなりにいつも通りのゆったりとした法事を済ますことが出来た。
斎場の仕切りオヤジが、「とても勉強になりました!なかなかこういうご法事は無いものですから・・・」などと、話題を振ってきた。
「それで、何かどうかしたということで??・・・」などと、話題を繋げていたら、「このあたりでは、法事はだいたい20分というところでしょうか・・・」
「広島県の仏事の実態はこれなんだ!」と、唖然とした。
「まずはティータイム!」から始まる法事の法式が、島根の万善寺と広島でここまで違うのかと、もう、むちゃくちゃビックリ!!
普通の法事で、短くて1時間半から始まる万善寺の法式は、果たして正しいのだろうか・・??だれがどう考えても、法事一つを20分で片付けるのは無理でしょぉ〜〜〜?

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納行脚 

2016/12/15
Thu. 23:48

昨日に続いて、今年の納行脚に出かけた。
こういう時に、自分の自由さが痛感される。
こうして、今でも夜中になってもネコと戯れながらコーヒーをすすりながらゴソゴソと昨日のことや明日のことでデスクワークなどしているが、自分としてはとても真面目に「ボクの仕事」をこなしているつもりなのだ。ところが、世間はちゃんと業務時間なるものがあって、朝は○○時から夕方は○○時までの間に1日の仕事を片付けなければいけないことになっていて、諸官庁になると特にそれがキッチリと守られていて、場所によっては窓に灯りがついて人影があるのに入口が閉まっていたりする。昨日は、そういうところをお昼のど真ん中で訪問するようにスケジュールを調整していたが、それはそれで面会の相手がお昼休みで連絡できなかったりする不都合もあって、とにかく行く先々で都合をあわせることがなかなか難しい。年末の忙しさは何処も似たようなものだから仕方がないことだということにして、比較的自由に動き回っている吉田の方は、大事な用事の合間に私用を適当に混ぜ合わせて不測の事態にさり気なく対応しているようなところもある。

富山へ納会の道具などを搬入して、青空と富山の棚田風景などを写真に記録した。それからあらかじめ予定を打ち合わせしておいた奥出雲の方へ確認の電話を入れたら、「何時でもどうぞ!」と云ってくれたので、富山から直行することにした。時間が短縮できる山道のルートにするか、時間はかかるが気楽に運転できる斐伊川土手を回るか少し迷ったが、ちょうどお昼時だし、その時間は外したほうが良いだろうと決めて斐伊川の中流から上流へノンビリと結界くんを走らせた。斐伊川は数日前からの雨で水かさが増していたし、日陰やトンネルの中など路面が濡れていて少し走りにくかった。奥出雲に近づくと結界くんの空調が肌寒く感じてきた。予報では雪マークもあったから、外気がけっこう冷え込んでいるのだろうと思っていたら、目の前に雪をかぶった船通山が見えてきた。

奥出雲での彫刻展でお世話になった各所へ、お礼代わりに私の彫刻を配って回った。
どちらかといえば、欲しくもないものを貰わなければいけない面倒の方が多いかもしれないが、見た目はそういう本音を見せるわけにもいかないし、一応は建前の笑顔で対応していただいた。それでも、自分としてはおおよそのねらいどおりにいい感じでいい場所へ収まったと思っている。

奥出雲を出発して、斐伊川と付かず離れず結界くんを走らせていると、燃料がなくなっていることに気付いた。このところ、2日に1回位のハイペースで給油している。安いセルフスタンドには車の列が続いていた。年末の燃料の高騰はなかな厳しい。
国道を走っていたら検問にぶつかった。この慌ただしい時期に、わざわざ渋滞の元をつくらないでもいいだろうと思いつつノロノロ走っていたら、2台前の2tアルミがそのまま検問をスルーした。1台前の軽トラダンプもスルーした。結界くんのスピードを緩めたら警察官がそのまま行けと合図している。バックミラーに映るすぐ後ろの軽の乗用車は検問に引き込まれて、その後ろのユニックはまたスルーした。どうも、商用車と自家用車を選別して検問しているようだ。
そうか・・・ボクの結界くんは商用車だったのだ!

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節目の納会 

2016/12/13
Tue. 19:06

今の吉田にとって、1.5日の休息はとても良い心の疲労回復になった。

面白いものだ。
ほんの10年前は土日の休日があたりまえで、たまに、その休日返上で万善寺の法事が入ったりすると、メチャクチャ損をしたふうに感じて、だいたいがふてくされ気味に憲正さんのお付坊主を務めていた。土日休日の決まっている仕事を辞してからも、その癖が身体にも心にも染み付いていて、「他人が休んでいるのになんで自分だけ働かなきゃいけないんだ・・」と、不満タラタラに仕事をすることばかりだった。そういう気持ちの動きは、どこかしら態度になって現れるから、はじめからほとんど持ち合わせることもない信用もアッという間に崩れ去ってしまって、目先の仕事もどんどん減って、1年毎に収入も減収が加速して、年収が辞職前の4分の1くらいに落ち込んでしまっていたのを2010年の申告時期になって気付いた。それからしばらくはドタバタと慌ててワンオーナーのギャラリーを立ち上げたりしたが、それもしばらくして憲正さんの病気悪化で頓挫した。

いい歳をしたオヤジがこれといった人生の目標もなく定職にもつかないままフラフラと坊主家業を引き継いでしまっているわけだから、普通だったらとっくに家族に見放されてしまっていておかしくないくらいなのに、その頃のワイフはこれといって過激な愚痴をこぼす訳でもなく粛々とアルバイトやパートや時間講師などを引き受けながら家事を支えてくれていた。私の方はそれでも彫刻だけは真面目に本気に制作を続けていて、ワイフの個展を企画したりして暇を乗り切っているうちに、「やっぱり自分にはこれしかないな・・」と、改めて正面から自分の彫刻に向き合うことを決めた。それで始めたのが、「現代彫刻小品展」というわけで、貯金も家計も底をついて、借金だけはタップリ溜まっているという金欠状態なのに、そういう吉田家の経済状態を全く無視して、とにかくありったけの金をかき集めてスタートさせた。

現代彫刻小品展は、石見銀山で5回、浜田世界こども美術館で5回と、今年奥出雲町で1回ほど開催するまでになった。
石見銀山の5回の内、最初の2年間2回分は出品作家の出品料と自己資金でまかなった。今思うと、よく2年間も自腹で乗り切ってきたものだと恐ろしくなる。しかし、その2年間の蓄積というか実績というか、そういうものがないと現在のように各所からの助成金を獲得することはできなかったと思う。助成金のおかげでプロの彫刻家も講師依頼できて、展覧会やワークショップの質も保てたわけだ。

気がつけば、あれから10年近く経った。今は1日の休日もなかなか確保できない。
これから先、確実に歳をとって心身の老化が進む。いつまでも、現状にしがみついているわけにもいかないし、そろそろ、それなりの潮時が近づいているような気もする。なかなかすんなりと次に引き継ぐことも難しい・・・というより、まず限りなく不可能に近いことかもしれない。
今週に入って、今年最後の再稼働を始めた。
今週末は、空に近い町とみやまの旧富山小学校で今年最後の納会を盛大に開催する。

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砥部焼の器 

2016/11/17
Thu. 17:37

午前0時30分、石見銀山の自宅を出発して徳島へ向かう。
銀山街道は出雲街道と合流するまで遭遇した車が1台。
三次からやまなみ街道へ乗って尾道まで約2時間。
瀬戸中央自動車道へ入って、水島のI.Cで降りて日本第一熊野神社の一般駐車場へ入ったのが午前4時前。
それから保護材の古い毛布をコンパネの上に重ねて、シュラフに潜り込んでiPhoneのSadeを聴きながら仮眠。
四国の旅のお供にお願いしていた倉敷の森山さんがワンボックスの窓を叩いて起こしてくれたのが早朝5時。空には、まだ十分に大きくて明るいお月さまが輝いていた。
最近また調子の悪くなったG12を取り出してしばしお月さまを撮影。それから瀬戸中央自動車道を渡って高松道を板野で降りて松永邸へ着いたのが朝の7時半。
美味しいコーヒーとトーストの朝食を用意してもらって少し落ち着いてからワイフと私の彫刻をワンボックスへ積み込んだ。

今回の四国の旅でもう一つの計画は、砥部焼の作陶家遠藤さんの器を見ること。
磁器の食器は丈夫だから広く世間へ出回っているものの、自分の周辺はどれもこれも美的センスのカケラもない雑器ばかりで、特に万善寺に残って日常に使っている磁器の味気なさといったら、それだけで食欲が失せる。
日常で使いまわす器など、所詮その時々の決まった用をこなせばそれで十分なことなのだろうが、それでなくても殺伐とした環境で、せめて家族の団欒や希少な来客との食事くらいは心豊かな一時にしたいものだ。
石見銀山の周辺は、質の高い丈夫な陶土の産地でもあって、窯元もアチコチにたくさんあって、日用雑器から作家物まで気に入った陶器を探すに苦労がない。だから、吉田家には陶器だけは溢れかえっている。そのうえ、実は約10年間位吉田自身も粘土や釉薬造りからロクロを回したり窯を焚いたりしていた時期があって、その時に造った器も食器棚でホコリをかぶったまま放置されていたりする。気がつくと過去のボクの力作がネコチャンズの食器になっていたりして、なかなか複雑な心境であったりもする。
まぁ、ようするに色々な過去の痕跡を適当に使いまわして消去して日常の暮らしを更新してそういうことを繰り返しながら毎日の食卓を楽しんでいたりするわけで、今回、ひょんなことで砥部焼の遠藤さんと知り合いになった機会を逃すまいと、いきおい、徳島から松山へ午前中のうちに移動したわけだ。
途中少し迷って、遠藤さんに電話してえんどう窯へ到着したのは11時位だったか・・・
早速自宅のひと部屋を使ったショウルームで器を物色した。
デザインのセンスに磁器土や釉薬の魅力がシッカリと裏付けられていて、観ていて楽しくて飽きない・・・というより、目移りしてなかなか心が定まらないまましばし時が過ぎた。ここでも美味しいコーヒーを頂いて、気持ちを絞って、とにかくスタートはシンプルにしようと決めて5枚の皿にした。お土産にご夫婦それぞれの器も添えてもらった。
帰宅してワイフに見せたらとても気に入ってくれた。
キーポンは「かわいいぃ〜〜!私がもらっとくぅ〜〜!」と大騒ぎだった。
キーポンが使うには50年早いわ!!

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オヤジの朝 

2016/11/10
Thu. 09:29

気がつけば、もう11月も3分の1が終わりそうですよ!!
吉田はいったい何をしているのでしょう??

このところ、デスクワークを何処かへ置いて、肉体労働ばかりが続いていて、昨夜も10時前に帰宅して・・・もうグッタリ・・という状態・・
富山町でのイベントが終わって、その事後処理の資材什器運搬や関係各所へのお礼廻りなどをこなしながら、万善寺の幾つかの用事や母親の通院もあるし、保賀地区の祭り準備など、毎日が目まぐるしく始まって終わる。いつものことだが、自分のことが一番後回しになって、ワイフには迷惑をかけっぱなしだ。

1周忌の法事と納骨があるので、夜遅くに帰宅してバリカンを当てようと思ったら充電が切れていて、それで一気にその気が萎えた。施主さんには無苦しい姿を見せてしまったが、なんとなく法事の合間の話題が彫刻やワークショップのことになって、若干救われた。たぶん、伸びた坊主頭に無精髭が偏屈な彫刻家風に見えたのかもしれない。
飯南高原のあたりでは、けっこう「彫刻家の方丈さん」的知名度があったりする。だいたい、「知る人ぞ知る」といったところだ。

幼稚園実習のキーポンを送りがてらワイフが仕事に出かけた。今日は帰宅が19時くらいになるそうだ。一方私は今まで早朝から出かけることが続いていたから、今朝は久しぶりにゆっくりしている。
奥出雲で旅の空を続けている間にLittle Mixへハマってからいまだにそれが続いている。結界君と移動しているときも、彫刻展の作業をしているときも、一日のかなりの時間聴き流すにはちょうどいい。グッピー家族の水を補充し、ネコチャンズのトイレのウンコやシッコを片付け、ストーブに薪を補充し、四畳半を少し片付け、今もLittle Mixをバックにコーヒーをすすりながらキーボードを叩いている。

旧富山小学校教室個展の一人ノリちゃんの個展会場は教室棟の生徒昇降口から教室までの1階を使って展示された。
もう一つある1階の教室は小品彫刻の会場になっていて、これはこれから2日間で撤収搬出する。富山町の収穫祭も兼ねた文化祭が11月20日に決まって、その会場の一部でこの旧富山小学校を使うから、教室の復元も兼ねてノリちゃんの個展会場を若干移動しなければいけない。
まぁ、何時でもそうだが、ひとつの事業を回すのは普通に最低半年は使ってしまうから、幾つかの事業が重なったり万善寺の用事もこなして彫刻も造るとなると、暇なオヤジも暇なりにあわただしい毎日を過ごしていたりするのだ。

富山は終日冷たい雨が降り続いていた。
ノリちゃんから連絡が入って個展会場の件で少しほど具体的に調整できた。彼女も仕事があって忙しいのに、吉田の無茶振りへとてもよく付き合ってくれる。富山がはじめての個展会場になったのだが、それでよかったのだろうか?

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2日間に渡って市役所へ日参して大田市内全域へ「とみやま彫刻フィールドアートワーク」の回覧配布集配作業をした。
今週末には、市内の各地で回覧板が回り始めることになるだろう。
行政からの地域広報作業がどれだけ面倒なことか、こういう時によく分かる。前回の奥出雲町でも同じような配布集配作業をしてきた。行政区が変わると、作業内容もかなり大きく変わって、行く先々で前例が通用しないので何かと混乱してややこしい。

吉田が貧乏事業を足で稼いでやりくりしている手段の一つに「後援」の獲得がある。
後援申請くらいだと、紙数枚の作文でほとんど許可が下りる程度の気楽な事務処理なのだが、これが通過しないと関係施設の利用や使用規定などで厄介なことになって無駄に予算を食いつぶしてしまう。反面、こういう面倒なやり取りでひと汗流すのも時間の無駄になっていたりする。ようするに、「時間を取るか金を取るか」の二者択一であって、彫刻絡みの企画など、寝食忘れて日夜動き回ってナンボのもんだから、自分では悶々としつつ、無駄を受け入れながら粛々と用をこなすしか無いところもでもある。

大田市の場合は、回覧配布のみで約2000枚を印刷した。これが戸別配布となると途端に印刷枚数が増えるから、広報衆知もそれぞれの地域事情で難しい選択を迫られている。
とにかく、何かと失敗を繰り返したものの、一応行政総務のクレームを乗り越えてひと仕事を終わらせることが出来たわけだが、それにしても、どう考えてもやたらと無駄が多い回覧配布になっている。たぶん、遠い過去からの習慣が定着して今に至っているのだろうが、たった1枚の回覧配布にA4封筒とそれに添付する用紙の印刷とそれを貼るテープやノリ代までを自腹で乗り切ることになる。それが例えば、100枚の回覧を封筒一つに入れるとなると、若干のお得感はあるが、たった1枚の回覧でここまでの作業をする必要があるのだろうか、ケチ臭い疑問が湧き出してしまった。
昔々、大田市の人口も今の数倍あるいは数十倍であった頃を思うと、今のシステムもそれなりに機能していたのかもしれない。まぁ、行政職員でも月給取りでも何でもない、必死で日銭を稼いでいる程度のただのフリーターオヤジが考えていることなど、世間ではまったく通用しないことなのだろう。
無駄に印刷のゴミを増やしてばかりの配布集配作業だったが、もし来年があるなら今度はミスのないようにキッチリと全てをやりくりしようと心に決めて市役所をあとにした。

夕方につけて、会場の旧富山小学校で展示作業を続けた。
1階の教室には、「現代の彫刻家たち展〜石と鉄の彫刻室〜」と題した教室展の会場を設営した。ほぼ全体が整ったところで、ケーブルテレビ用の広報写真を撮ったりした。そうこうしていたら、個展をすることになっているノリちゃんが教室の寸法を測りに来た。これから2週間位で個展の準備や設営に入るようだ。私が個展を計画する時は、だいたい遅くても1年前には準備をスタートさせている。長くなると計画から交渉まで5年以上かかっていたりすることもある。長ければいいとか、時間を使えばいいとかいうだけのものでもないが、それにしても2週間程度で個展を仕立てるとはなかなかのものだと感心する。ノリちゃんがどんな個展をするのか、今から楽しみだ。

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まだまだつづく・・・旅の空その4 

2016/10/17
Mon. 20:08

「おはよぉ〜〜・・・ところで、今日何曜日だっけ?」
「月曜日でしょ!午後から◯◯の日だから、午前中しかいないから・・」

東京から石見銀山へ帰って、そのあと徳島の野外彫刻展会場を訪問して、帰りに倉敷で草月の師範さんととみやまの公開野外オブジェの打ち合わせをする予定にしていた。
まるまる1日までは休息できないまでも、ほぼ半日以上は吉田家でのんびり出来るはずだった。
しばらく「旅の空」が続いて留守にしていたから、ポストが新聞と郵便物で溢れかえっていた。
「出る前に、新聞止めておくように◯◯君に言っておいたのにぃ〜〜」
彼は、「ハイハイ!」と返事をしていたらしいが、そのことが全く脳みそに記憶されていなかったようだ。

その、新聞紙に埋もれた郵便物の中から、吉田家へ転送された万善寺檀家さんの封筒が紛れていた。宛名のヌシは、すでに90歳を過ぎてまだまだ元気なおじいさんだった。彼の少年時代は万善寺先代の憲正さんと遊び友達で、先々代住職からしょっちゅう一緒に叱られていたらしい。今は松江の方へ家を建ててそちらで暮らしていらっしゃるが、数年のうちに五月雨である法事の時は、少年時代を過ごした保賀の地内へある万善寺で法事をするのが楽しみだということだ。
手紙には「今度15日は、午後の2時頃にお邪魔しますので、33回忌の法事をよろしくお願いします」といった趣旨のことが懇切丁寧に書きしたためてある。
「アレレ???」
どうも、私には、そのような法事を引き受けた記憶がない・・・
宗門の手帳にもメモがない・・・・
年回のお知らせをひっくり返して、何回か届いているその施主さんからの手紙も読み直して、過去の時間軸を組み立てていたら、施主さんから問い合わせがあった法事の予定日を幾つか書き出した私からの返信に「今だったらこの日があいてますよ!」という内容の月日を記載した手紙があって、そのひとつに「現在、15日と16日は終日あいてます」が書き込まれてあった。返事を返したのが8月のお盆前のことで、その後、何の返事もないから、次々スケジュールを入れていたら、この度の手紙になった次第。
どうにもこうにも、仏事のからむこればかりは、施主さんの都合で物事が進んでしまうから、対案とか選択肢とか全く機能しないことになってしまう。結局、当初予定のスケジュールに無理やり法事をはめ込んで石見銀山と飯南高原を駆け回って、おまけにワイフにも色々迷惑をかけて、大騒ぎの半日となってしまった。

さすがに、その法事は自分の体力を一気に奪ってしまった。
法事でお経の時間より、終わったあとの思い出話が長いくらいになってしまうから、お経が済んだら91歳の私の母親へ全てを任せて、ワイフと待ち合わせの場所へ結界君をすっ飛ばした。
徳島まで移動すること約4時間。久しぶりに高速道路の追い越し車線を走り通した。

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最近、1日がアッという間に過ぎてしまう。

昔はこういうこともあまりなかった気がする。
強いて言うなら・・・
ほぼ一晩中続く酒の飲み過ぎで二日酔いならぬ二日寝をして目覚めた時の空白の一日。
延々と続くエンドレスのセブンブリッジで費やす一日。
若い頃は、1年のうちに何回かはこういうこともあった。
ワイフと結婚してからは、ずいぶん品行方正になって夜遊びが激減した。

だいたい、1日が一瞬で終わるようなことというと、遊び狂っていた頃のことしか思い出せない。
ところが、そろそろジジイの領域に踏み込み始めている今頃になって、また、1日のスピードが早く感じるようになっている。
そういうことを積み重ねると、結局は1年過ぎるのがやたらと早く感じて、つい先日10月になったと思っていたのに、もう1週間も経ってしまっている。
この調子でいくと、もうすぐしたらコロッと死んでしまって、我が人生の終焉も近いかもしれない。
これから、どんどんジジイになって、醜くなって、身動きできなくなって、さまざまな醜態を晒して周囲に迷惑をかけながら生きながらえるよりは、サッパリとキッパリとサッサとこの世におさらばしたほうが八方丸く収まって都合がいいかもしれない。

万善寺は島根県の第二宗務所第九教区に属している。今日は、その九教区の特派布教研修総会だった。
何時もの年は、9月のうちに開催されていて、秋のお彼岸と重なったり、彫刻の島根県搬入と重なったりして、やたらと慌ただしい。特派布教老師の都合で日程が決まるのだろうが、やはりこの時期の会合集客はなかなか厳しい気がする・・・といっても、万善寺の住職だけの都合かもしれないけどね。
まぁ、そんな訳で、大事な1日が坊主家業で潰れるから、前日は1日中吉田家の書斎へこもってデスクワークに励んだ。

今年の「とみやま彫刻フィールドアートワーク」は、富谷町内にはびこる竹の間伐を兼ねて、草月流師範による、野外竹オブジェの公開制作を計画した。
地元有志の皆さんが、10月の月末に集合して竹の伐採にとりかかる予定だ。棚田風景がキレイな富山がこういう美術イベントで活気づいてくれるといいなぁと思っている。
ひとまず、今までに決まってきたデータを元に、ポスターの初稿を造ってみた。
作家や関係諸氏に目を通してもらって、抜けているところとか、間違った記述とかをチェックしてもらって、今週中にオペレーターさんへ引き渡す。
あとは、私のザックリとしたなんちゃってデザインをきちんとした印刷物に仕上げる手直しをしてもらうことになる。
また、今夜も眠れそうにない。

2016ポスターA3印刷原稿

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とみやまものづくり教室始動! 

2016/09/14
Wed. 23:54

今度の連休は台風の影響がでそうだ。万善寺では法事があるし、彫刻を徳島まで搬入しようと思っていたし、なかなか厳しい連休になりそうなきがする。

このところ雨が降り続いていたから、吉田の青空工房が開店休業状態だった。
大きな鉄板から彫刻のパーツを裁断してしまえば、あとは工場の変形6畳へ持ち込んで溶接をしたり出来るのだが、雨のおかげで制作の最初の工程がなかなか進まなかった。
それでもこの2日間は比較的順調に仕事がはかどった。長い間の坊主家業で鈍っていた筋肉が少しずつ動き始めて彫刻家の身体に戻りつつある。

奥出雲の現代彫刻小品展が終わってしばらくして、いつものように工場へ出かける時に吉田家のポストを覗いてみたら、今年のとみやまでの「ものづくり教室」の企画を申請していた助成金の通知が届いていた。
封を切るまでは採択されているかどうかもわからないから、久しぶりに心が騒いだ。
玄関先で無理矢理指を使って封筒を破りちぎって中身を確認したら、減額されたものの事業の採択がされて助成金を使うことが可能になった。これで本格的に事業が動き始める。
本当はなんとかして自己資金でこういう企画を運営していけたら良いのだが、そこまでの裁量が私にあるわけもなく、いつもいつも助成金に頼って自転車操業ばかりしているが、とにかく、もう10年近くこうして島根県内で彫刻絡みの企画を実践させてもらっているだけでもありがたいことだと思っている。

最近、日暮れが早くなった。
雨が降って雲が広がっている日が多かったからそれでだろうと思っていたが、この2・3日の夕日を見ると、世間は確実に秋にかわっている。
夕方、いつもより早めに仕事を切り上げて助成金の報告も兼ねて工場から富山へ向かった。
まちづくりセンターの職員さんと事務連絡をすませて旧富山小学校の昇降口へまわると、広場のインターロッキングは夏の間に伸びた雑草がはびこって廃墟のごとくみすぼらしく見える。これから暇を作って校舎周辺の営繕作業をしなければいけないかもしれない。
教室個展の作家へは、すでに見切り発車で会場使用を許可しているから、夏の間に少しずつ作品搬入を済ませている教室もある。すでに彫刻の展示台などの什器搬入は済ませてあって、これから時期を見て会場設営を続けることになる。
学校の業況を確認してから、昨年設置した野外彫刻の周辺を草刈りした。
草刈りは、これで今年になって3回目になる。
万善寺の斜面ばかりの境内地と比べると、楽に草刈りが出来る。それに、地元の地権者の方や、彫刻を設置してある近所の方がマメにサイサイ草刈りをしてくれているからとても助かっている。聞くところによると、彫刻を置かせてもらったことで、そのあたりの住民の皆さんの地域環境への意識が少し変わってきたとゆうことだ。休耕田や耕作放棄地の有効活用とか、景観保全の活動も町の経費として予算立てする方向で決まったような話だ。
誰かが何かしなければいけないということはわかっていても、それを実行に移すとなると障害も多くて身体も重くなって動きも鈍る。
ささやかな彫刻イベントが少しでも富山の活気につながればいいと思う。

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悶々の日曜日 

2016/09/11
Sun. 23:42

施主さんの気持ちはその場の微妙な雰囲気からそれとなく伝わってくるもので、知りたくもないその家の家庭状況が薄々見えてきたりして何かしら気まずい。
最近こういうことが頻繁になった気がするのは、私の感が敏感になったのか、坊主経験が鍛えられたのか、それとも世間事情がそういう方向に流れているのか、とにかく、そういう法事は気持ちが乗らないまま終始してしまう。
法事というのはだいたいが供養法要だから、塔婆の主のご先祖さまにはなんの落ち度も無いのに申し訳ないことだと、坊主的立場ではそう思っているものの、結局は、その家の家族身内の法事に対する見識や品位の問題だと云う気もする。
今年のお盆の真っ最中にもそういうなんとも味気ない法事を幾つか片付けたところだが、9月の入ってまたそういうたぐいの仏事に付き合う羽目になった。だいたい、こういうことはお布施の中身の問題などではない、もっと次元の違うところで悶々としてしまうのでありますよ。もらったお布施は手を付けたくもないし、そのまま舎利殿の施主家の先祖位牌に立てかけておいた。どうせ、これから先死ぬまで本人はお参りもしないだろう。
もっとも万善寺というか吉田家というか、そういう自分の身内の母と息子の関係もギクシャクしたままで推移しているから、他人のことでとやかく言えるわけでもないのだけどね。

まぁ、日曜日はそんなどんよりとした気持ちの晴れないまま飯南高原を半日ほどうろついていた。
石見銀山への銀山街道へ入ってから、無理に意識して彫刻の仕事に気持ちを切り替えた。
吉田家に帰宅して土間へ入ったら、何処からとも無くボクの好きなジャンクフードの匂いが漂ってきた。ワイフの車も駐車場にあるし、ひょっとして吉田家の匂いではないのかもしれないと思いつつ雪駄を脱いでリビングへ上がったら、テーブルにケンタッキーの包がデンと鎮座していた。
まさか、ワイフが午前中の落ち込んだ坊主姿を見ていたわけでもないだろうに、気の利いた粋なはからいに、思わず鼻水が出そうになった、が、実のところヨダレが湧き出ていたのかもしれない。
昼食代わりのケンタッキーをパクツキながら、昼間から麦とホップをプシュッと開けて、いつになく饒舌に日曜日の午前中の一連の毒を吐いたらスッキリしたが、ワイフは迷惑なことだっただろう。

それから、短時間二人仲良く昼寝をして二人仲良く工場へ移動した。
ワイフは、すでに徳島の野外彫刻をカタチにしつつある。
私は、いまだにハンモックのアームで苦戦している。
ひと晩寝ながら工法について再考をしてみたが、やはり今の形態がいちばんシンプルで理にかなっているように思える。ワイフに相談してみたら、「カッコイイじゃない。これで良いわよ。とにかく、もう一度取り付けてみようよ!」と励ましてくれたので、シブシブと前日の失敗を披露した。「やっぱり、良いじゃない。これで良いわよ。十分よこれで」いつになく、確信のあるワイフの言い回しに助けられて、ひとまず、結界君の屋根へ載せて搬入することにした。自分では今ひとつ納得できないでいるが、それはそれとして、少しばかり様子を見てみることにした。

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誤算 

2016/09/10
Sat. 23:54

石見銀山で暮らす毎日が続いているが、自分ではどうも石見銀山に居るという実感が薄い。
たぶん、朝から夕方まで工場にいたり万善寺の寺務や仏事で出かけたりばかりしているし、先日までは彫刻展もあって奥出雲だったし、それでだと思う。
このところ日に日に夕暮れが早くなって、今日も黒のアクリル塗料の塗装を始めたらすでに周囲が暗くて判別不能だったから途中であきらめた。

彫刻を造る前の手慣らし程度で考えていた鉄の手仕事が予想に反して躓いて苦戦している。
ナニをするにも、初心を忘れてはいけないと慢心の自分を戒めながら仕事をしている。
それにしても、こういう失敗は久しぶりのことだ。
どう考えても、構造としてのフレームに大きな問題はないと思っているのだが、ハンモックのパーツを装着すると全く用を成さなくなってしまう。
狭い工場で、できるだけコンパクトに収まることをコンセプトに造っていたフレームの設計ミスとわかった時の落胆は、ヨレヨレの老体にけっこうなダメージを与えた。
気持ちを入れ替えて再考することにしてハンモックを測りなおしたら、寸法的にはやはり問題なく私考案の鉄のフレームで用が足りるハズになる。どうも構造の様子が上手く把握できないから、編み上げてある紐をほどいてみると、その紐の素材がやたらと伸びることがわかった。これだと、平ボディーに荷物を積んでアメリカ縛りで縛り上げても、伸びに伸びてなかなかシャンとロープの役割を果たしてくれそうにない・・ということがわかった。結局、そのハンモックの構造をメインにフレームの工法や構造を練り直すと、なんと全長6mにも及ぶ巨大フレームが必要だと結論に至った。
その頃にはすでに夕暮れが迫っていて、仕事を進めることも難しいと判断して、心身ともに疲れきって帰宅した。

ワイフは、夜の会議があるからと私と入れ違いに出かけた。
すでに作りおきの夕食がテーブルに置いてあった。
こういう時は、麦とホップも不味いだろうと思ってひとくちススッたら、これがいつもと一緒で美味い。
ツマミはポテトサラダとナスの煮物。
これがさり気なくボクの好物だったりして、食も飲みも進んでワイフが帰宅した頃には3つ目の缶が空になってつまみは完食だった。

早朝に石見銀山を出発して、万善寺の3畳の寺務所で塔婆を2枚書いて施主家へ移動。
だいたい普通だと午後の1時位には法事も終わるだろう。
それから急いで石見銀山経由で工場へ向かうと、だいたい2時半から3時位。
それから塗装の続きに入って、ひとまず結界君の屋根へ巨大なフレームを積んで途中で警察に見つかったらヤバイから裏道を走って納品先へ移動。
現場の研修室へ搬入して様子を見て善後策を検討。
徳島の野外彫刻があるし、この土日でおおよその材料取りを済ませようと計画していたが、見事にズレこんだ。
ナンチャッテオヤジの人生、だいたいいつもこんなもんさ!

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あのときの椅子 

2016/09/04
Sun. 03:48

暑い夏の間中、何度も通って実現した奥出雲町での現代彫刻小品展も、早いものであと1日が終わればそのまま後片付けに入って撤収搬出になる。
今回の彫刻展は、どちらかといえば会場の雰囲気とか地域の事情とか事務の内容とか開催時期のこととか、そういう展覧会開催に絡む全てのことで様子を見るということと、島根県初の東部地区開催による各種条件のリサーチを兼ねたものだった。
まだ結果は出ていないものの、会期スタートから例の東北北海道を襲った台風の影響による天候の悪化が始まって、途中持ち直したものの、結局週末から最終日にかけて今度は九州上陸のおそれがあるという台風の影響をモロに受けることになった。
台風ばかりは何時何処でどうなるか全く予想の付かないことだから逆らうことなど出来ないしどうなるものでもない。
長い人生、こういうこともあるさ!・・・ということで、あまり正確なデータを残すことが出来なかったが、それでも何かしら地域の刺激にはなったと思うし、「彫刻」に特化した文化活動の存在も少しは地域に知ってもらえた気がする。それに何より、奥出雲町を中心にしたたくさんの人達と知り合いになれたことが自分への収穫になった。

終盤の2日間はワイフが頑張って家事もほったらかして受付をしてくれた。
吉田家がアレコレ乱れてしまうのもしかたがないことだし、こういう人手が必要な時は何かが犠牲になってのことだし、そういうことも十分に認識しているつもりだから、ワイフの存在が実にありがたいことだと思う。
キーポンとの付き合いで若干時間のロスがあったものの、予定していた工場の制作はほぼ終了し、あとは早朝の作品移動を済ませるだけのところまで片付けた。
問題といえば、指定の用紙に指定の内容に従ってそれなりにそれらしいことを作文しなければいけないということ。

だいたいに、何かのアンケートとか作品解説とか、そういうたぐいのことがいちばんめんどくさくて気に入らない。そもそも、自分の造った表現の何かについて、それに上乗せするように自分から進んでくどくどと解説する必要があるのかが疑問なところだ。アンケートにしても、結局はそれに答えることで何かしらどちらかの方向へコトを仕向けているような様子がチラチラと見え隠れするしそういうことに自分が加担しているようで嫌になる。
「表現」というものはもっとシンプルであるべきだと思う。自分が造った彫刻は、それは彫刻を制作するという行為そのものが自分の表現の全てであるから、それをわざわざ文章にしたり作品解説をしたりと、別の表現媒体に置き換える必要も無いと思うのだ。
まぁ、表現の壁を少しでも低くして乗り越えやすくすることをしておけば、それはそれなりに次の展開への動線になっているのかもしれないが、そのあたりのことはそのあたりのことにストレスを感じないというよりむしろ喜々としてそのあたりのことにハマるタイプの方々をチョイスしておいたほうが八方丸く収まるような気もする。
社会生活の営みの中ではこういう少しめんどくさいたぐいの付き合いも大事なことだと自分に言い聞かせつつこれからその原稿に手を付けようと思っている。
という訳で、Landscape situation ~Seventeen hours~「或る日の情景~あのときの椅子」について、これから指定の様式にしたがって作文させていただきます・・・

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工場の一日 

2016/09/03
Sat. 06:25

保育実習中のキーポンを隣町の保育園まで送ってから工場へ向かった。
7月から8月にかけて工場で仕事をすることが出来なかったから久しぶりのことだ。

4〜5年前までは、1年のほとんどを毎日のように工場へ通っていた。
自分の周囲が多く激変したわけでもないのに、最近工場へ行くことが難しくなったのはどういう訳か探ってみると、やはり両親の介護が増えたからだと思う。
昨年は父であり師匠であった憲正さんが遷化した。
その後の1年間で、残された母でありおかみさんの介護が迷走している。
工場へ行く時間が激減したのも、単純に物理的な時間の捻出の問題というより、私の心の余裕の問題が解決しないまま慢性化してしまったといったほうがいい。
頭のなかでは、次々と新作が浮かんで完成しているのだが、それが具体的に実現しないまま、自分の中で過去の制作になって消えていく。

密かに温めている制作のことがあって、今年は絶対に現実に引き出してやろうと思っている。今までに何度もそういう機会があったのに、結局時間切れの消化不良で大幅な妥協をすることになってしまった。
現代彫刻小品展の会場受付をやりくりして、今まで2回ほど制作をすることが出来た。時間で云うと約12時間くらいにはなっただろうか?まだ半日程度のことだが、おおよそ全体の形が見えてきた。
あと12時間あれば楽に完成することがわかっているのに、なかなかそれが難しい。
今回も、〆切りのことを優先して、一番やりたかったかたちの工夫を諦めることにした。
次は徳島の野外彫刻があるから、その彫刻へ出来なかったことを引き継ぐことにした。

そういうことで貴重な工場の一日になったわけだが、展覧会の方は、ノリちゃんとワイフが受付を引き受けてくれた。それでなかったら、工場の仕事も出来なかったわけだ。
ワイフが、奥出雲からの帰りに出雲のスーパーでラムを買ってきてくれた。
久しぶりに家族3人で焼き肉夕食になった。
真っ黒に汚れた手や顔をシャワーで洗い落としてサッパリしてから、麦とホップを空けた。
身体はグッタリと疲れているはずなのに、気持ちに疲れがない。
ラムをむさぼり、セセリをつまみ、焼き野菜をぱくつき・・・気がつけば麦とホップが3缶空いていた。
テレビがどんな番組だったか、夕食後にナニをしたか、何時くらいに四畳半へ引き上げたか、今思い出そうとするのだが全く無理。
「あなたご注文の(生どら)買ってきたわよ。この間の店長のひと昨日は見なかったわ」
「珈琲味がいいな?」
「じゃぁ、半分頂戴♡!あとは冷蔵庫へ入れとくわよ」
そういう会話があったことは覚えていて、目覚めたら枕元に生どらの空き袋が落ちていた。

工場の脇にあるねむの木がまた一回り大きくなって枝を広げていた。
そういえば、今年はねむの木の花を見ることがなかった。

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2017-06