FC2ブログ

工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

彫刻家Hさん 

2019/03/08
Fri. 21:46

3月3日の桃の節句は前日からの雨がまだ残っていて、ロフトの天窓から入り込む朝の日差しはいつもよりずいぶんと弱々しかった。

最近ほぼ毎晩のように私の近くで寝ているクロが、まだ夜の明けきらない早朝から起き出して「メシくれよぉ〜!」と催促鳴きを繰り返しながら周囲をぐるぐる回り始める。
ご飯係はワイフの仕事になっているし、ダイニングテーブルの脇にあるネコチャンズのお食事コーナーはワイフの寝室が近いから「メシくれよぉ〜!」の催促は彼女の方へ回ってもらいたいのだが、何故かわざわざロフトで寝ているボクを起こしに来る。
しばらくは無視して寝ているが結局根負けしてゴソゴソと起き出して、まだおぼつかない足元を気にしながらゆっくりと階段を降りて土間にある踏み板をまたいでリビングの隅にあるお食事コーナーへたどり着いて一握りのご飯をネコ茶碗へ放り込んでからトイレに入って焦点の定まらないままブックスタンドの文庫本の文字を追いかけながらオシッコを済ませる。
いつもなら、そうこうするうちにワイフが起きてきてお互いに軽く朝の挨拶を交わして、私はまたロフトの布団へ潜り込んで二度寝を決め込む・・・という恒例のパターンが繰り返されるのだが、今年の桃の節句は特別なスケジュールが決まっているので、ベッドメーキングを済ませると、少し無理をしてそのまま起きておくことにした。

わがままで身勝手な彫刻家吉田正純の何処がいいのか、もうずいぶんと長い間上京のたびに面倒がらずに付き合ってくれている彫刻仲間のHさんが、わざわざ吉田正純鉄の彫刻展を見に来てくれる。
彼は埼玉に在住で、具象彫刻の作家。素材は主に粘土や石。だから普通なら主に鉄ばかり使ってどちらかといえば抽象彫刻の吉田と表現上の接点があるわけでもないのだが、なにかしらどこかしら気持ちの通ずるものがあるようで、大勢の彫刻家の中では、裏表のない一歩踏み込んだ会話が成立する唯一の彫刻家であり友人であると私は思っている。
さて、彼の方は吉田のことをどういうふうに思って付き合ってくれているのかわからないが、彫刻界での友人知人の少ない吉田からすると、Hさんのブレのない造形観や表現上の技工に流されない彫刻に対する真摯な姿勢がとても素敵にみえる。それに、だいたいが自己主張の強い協調性の欠けた彫刻家どもの組織にあって、とりまとめの政治力や事務能力の優秀さには頭が下がる。
まぁ、結局なんだかんだ云っても彼は優秀な彫刻家であるということだ。その彼が年度末の忙しい中、わざわざ島根まで来てくれるということが実に嬉しいことなのだ。

「おはようございますぅ〜〜とうふやですぅ〜〜」
朝のうちにデスクワークを少しでも先に進めようとデスクトップをつついていたら、玄関の引き戸が開いて聞き覚えのある声がした。まさか彼がこんなに早く石見銀山入りするとは思ってもいなかったから少々焦った。すぐに土間へ降りて久しぶりの再会となった。
町並みや田んぼにある吉田の彫刻を案内して、一緒に昼食をとって、それからそれぞれに別れた。時間にするとせいぜい3時間程度のこと。それでもとても濃密なひとときになった。

IMG_0986 (1)

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

2月の新年会 

2019/02/02
Sat. 23:25

そろそろ1月もあと僅かのある日、節分から立春へ向けて準備をしていたら着信があった。
名前を見ると中学校の同級生で元野球部、少し前まで郵便局の局長からだった。
彼からの電話はだいたい内容がわかる。
「2日新年会するけど、来れる?・・・夕方6時半で会費4000円・・・」
「寺は節分あるけど、そっちは大丈夫?前日だよ?」
「節分3日でしょぉ〜、大丈夫大丈夫、そんな遅くまでヤラないから・・・みんな昔みたいに飲めなくなってるし」
「チョット遅れると思うけど、行くよ・・・予定変わったらすぐに誰かへ連絡しておく」
「だいたい、いつものメンバーだから誰でも良いよ、都合変わったら知らせといて・・」

それで、2日は明るいうちに本堂を片付けたりお経を一つ読んだりしておいたのだが、結局なにかしらアレコレ用事を片付けていたら時間がどんどん過ぎていた。
膝と腰の具合が思わしくないし、夜になったら歩道が凍みるだろう。
銀くんに常備のステッキを引き出して、ソレを支えに参道を下って町道から国道へ出て三日市の町まで歩いた。
寺を出るときはまだ明るかった。
もう少し時間がかかるだろうと思ったら、道がズゥ〜っと下りだからだろう、15分で三日市に1軒の居酒屋へ着いた。
店に入るとメガネが一気に曇った。
「早いじゃない。もっとおそくなるかとおもったわぁ〜」
「吉田のぶんチャンと残してあるゾォ〜」
「お前の席、コッチコッチ!」
「ハイ!改めてカンパイィ〜〜!」
「おつかれぇ〜」
「ハイ、今年もヨロシクゥ〜!!」

地元同級生が10人位集まった。
みんな、もう現役は退職の年齢だが、まだ何人かは嘱託か何かで引き続き仕事をしている。他に自営業もいて、身体が動くうちは現役続行が決まっている。万善寺住職もその一人。
いつもラム肉を分けてくれる獣医も来ていた。
銀くんを世話してくれたカーディーラーの社長は酒が飲めない。
カープのファンクラブ会員で元役場職員もいた。
パチンコ好きなプラント役員もいた。
元教頭は去年ハチに刺されて救急車で運ばれた。
棟梁は相変わらずクールに飲んでいた。
ビールが酒に変わってワイワイやっていたが、気がつくといつのまにか奥さんが迎えに来て一人二人と消えていった。
帰り道は20分かかった。上り坂ばかりだからだろう。案の定、歩道はもう凍みていた。

IMG_3740.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

~のようなもの~ 

2019/01/25
Fri. 23:10

夕方に待ち合わせをして「新年会!・・・のようなもの・・・」をした。
調整は周藤さん。
美術公募団体二紀会のメンバー有志(~ということになっている)。
吉田の方は、石見銀山を起点に、近所のノリちゃんなどへ声をかけた。

島根県内で展覧会絡みの企画を運営してそろそろ10年になるし、自分のモチベーションや年齢のことも考えるとそれなりの潮時もみえてきたので、1年くらい前から仕事の規模を縮小して無理しないで乗り切れる程度に気持ちを切り替えた。
何かと便利に使っていたSNSの利用も減って、最近は大きな動きが無くなってきた。SNSも頻繁に各種諸連絡を回しているうちは経費や時間や事務など色々と都合が良いが、そういう事務連絡の必要もなくなると、知らなくても良い情報やどうでも良い広告ばかりが頻繁に続いてだんだんと鬱陶しくなってくる。
このところ冬とは思えないほどよい天気が続いて、どこかしら外仕事をしない冬の1日がもったいなく思えてしまうものだから、工場へ行けば行ったで青空工房の整備や鉄の廃材を仕分けたりでなかなか制作が本気になれないし、寺は寺で冬のこの時期に境内へ雪が無いことなど自分の人生で初めてのことだから、おもわず草刈り機のエンジンをかけたりしてしまう。

新年会(~のようなもの~)は、出席メンバーの都合で出雲市へ集合することになった。
そうすると、当然飲んだ後は銀くんで車中泊になるから、ソレ用のベッドが必要になる。
午前中はいつものように工場で過ごして、午後から寺へ移動して銀くんの寸法を測りながら現物合わせでスノコ状のベッドを造った。
作品梱包用の毛布などはだいたい常備してあるから、それらを使って隙間を埋めて、助手席のシートをフルフラットに倒して、その上にスノコを敷く。シュラフを用意して枕を積み込んで、寒さ対策にカシミアの毛布も追加した。あとは、飲み屋の近くのワンコインパーキングの然るべき場所へ駐車して、飲み終わったら朝まで寝てしまえば無駄がない。
準備万端整えて出雲市へ向かうころから冬らしい天気になって、飲んでいる間に雪になりそうな様子だ。
1番に会場へ着いた。それからタケちゃんが来て周藤さんが来てノリちゃんが来て、都合4人の新年会になった。
今年は春季展開催の年だから、制作の原案を持ち寄って検討会からスタート。久しぶりの冬型悪天候で風も激しくなったから、居酒屋の客もまばらでひそひそ話には好都合。
絵画のタケちゃんはかなり沢山のメモを用意していた。具体的な素材とか制作方法を変える必要は無いが、テーマの精選はすべきだと思う。まだまだ整理淘汰の余地が残されているように感じた。彫刻のノリちゃんは、彫刻表現の方向性を再考する時期だと思う。いずれはフォルムとしての彫刻造形上の堅牢さを追求することも必要になる。センスと技術は持っているのだから、それに流されすぎないようにしないといけない。周藤さんは自分で造形のことをよく考えているから、適当なところで満足しないように気をつけつつ、しばらくはこのまま乗り切ればいいと思う。ワイフには、飯を食べながらアレコレ話したし、あとはボクが自分のコトで妥協しないようにしないとね・・・コレが一番ヤバイ・・

IMG_2354_201902062110469f9.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

年の瀬の訃報 

2018/12/23
Sun. 17:28

年の瀬になって急に慌ただしくなった。
宗門手帳を見ると、12月のページはほぼ空白で2日のワークショップと14日の新蕎麦の会と松永さんの来訪くらいだったのが、ここにきて連日のようにアチコチから駆け込み法事などの問い合せが入って、土日祭日を中心に年末ギリギリまで寺の用事が立て込んできた。
たぶん、そういうことも今年だけのことだと思う。
例年だとこの時期は根雪になるかならないか微妙な感じの雪がそれなりに積もっていて、そういう時に駆け込み法事の依頼などまずこない。寺の方は毎年変わりなく冬シーズンの維持管理を中心に年末年始の決まりごとを粛々と繰り返しているだけのことなのだが、今年はそれもなかなか出来なくて、その影響で石見銀山の吉田家のことがどんどん後回しになっている。このままだと年内に済まそうと思っていた自分の彫刻制作など、完全に何処か遠い彼方へ消え去ってしまいそうだ。せっかく材料も届いて消耗品の補充も済んだところなのに・・・なかなか自分の思うように上手く事が進まないものだ・・・

萬善寺で幾つかの用事を片付けていたらワイフから電話が入った。
石見銀山の天理教大森支部長さんのご母堂が亡くなったとの知らせだった。天理教は日本宗教をザックリくくると神道に寄っていて仏教とは葬祭の様式がずいぶん違っている。私は仏教でいうところの通夜に当たる神事しか参列できないからその開始時間へ間に合うように急いで石見銀山へ帰った。喪服は着る機会もないまま何処かに仕舞い込んだままだから、寺で改良衣に着替えてそのまま通夜神事に出席した。坊主が改良衣で榊を玉串奉奠するという、日頃はなかなか遭遇しない機会を得たわけだが、個人的には故人を見送る気持ちに変わりがあることでもないし、それはそれで何の問題もないと思っているのに、隣に着座の参列者がやたらとうるさく根掘り葉掘り知ったかぶりの宗教を問い掛けてくるものだから、とにかくボク的には面倒臭い居心地の悪い通夜神事になってしまった。

帰宅して、賞味期限が切れて不味くなった日本酒を飲みながら遅めの夕食を済ませて少し落ち着いてから自宅のパソコンを開いてメールチェックをしたら、木彫家の小島弘さんの訃報が入っていた。詳しいことはわからないが、もうかなりの高齢だったからきっと大往生だっただろうと思うことにした。
島根県の小品彫刻展をスタートした当初から数年前まで毎年欠かさず素敵な木彫作品を出品していただいた。奥様に先立たれ、その後しばらくして自ら介護移設へ入所され、静かな余生を送られたようだ。小品彫刻展の方は、入所を決断されたところで丁寧な出品辞退の手紙を頂いた。
何事も几帳面に滞りなく処理される様子は、日頃から自堕落に過ぎる私にはなかなかマネの出来ないことだ。
まだ健在だった頃の厳格な所作言動は、気楽に近づき難いオーラが漂っていて、田舎者のボクなどは視線を逸らせて避けて通っているようなところもあったが、小島さんの方はキチンと吉田と吉田の彫刻のことを認識されていたようだ。
木彫の小島彫刻は抽象への境界を踏み越える一歩手前までデフォルメされた緊張感のある洗練されて気骨のある具象のムーブマンが実に魅力的だった・・・九拝合掌・・

IMG_3630.jpg

更新追記:11/11坊主彫刻家的嗜好
徳島でいい感じの錆色に色づいた彫刻が石見銀山のいつもの田んぼへ帰ってきました。
これから年越しをして3月末まで動きません・・・みなさん、冬の間しか観ることができませんよ!

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

萩の穴窯 

2018/12/04
Tue. 04:50

山陰で高速道路の整備が一番遅れている島根県西部も、この数年間で工事が加速して少しずつだが開通区間も伸びて長距離移動が便利になってきた。

萩焼の内村さんとはもうずいぶん長い付き合いになる。
彼の窯は登り窯よりもっと原始的な穴窯で、そういう窯で焼成する作陶家は萩地域だけでなく島根県や山陰でも珍しい。付き合い始めの頃は、窯焚きの手伝いをさせてもらうかわりに、自分の器を焚き口の灰被りのあたりの邪魔にならないところへ置かせてもらったりした。やはり、薪窯の味わいは他のガスや灯油の窯とは比べ物にならないが、穴窯はそれにも増して独特の窯変がみられる。酸化と還元が曖昧に混ざりあった中性窯の様子は、薪のくべ方ひとつで大きく変化するから最後の練らし焼成になるまで緊張の連続だ。

富山町での教室個展へ作陶展をお願いしたのは今年の会期スタートからだいたい1年半ほど前のことだった。
私は特に差し迫った用事がない限り内村さんの工房がある明木で5月の連休に行われる往還まつりのイベントへ出かけることにしている。中国地方の各所から集まってきた陶芸やクラフト工芸などの作家が店を出すので、器や小物を見たり買ったりすることを楽しみにしている。
そのまつりの主催で忙しくしている内村さんを捕まえて富山町での作陶展を打診しておいたのだが、その後少し落ち着いてからOKの連絡をもらった。
展示会で生活している彼は、旅慣れているし作品展のノウハウは心得ているから、会期や搬入出のデータと会場の様子を知らせておけば、あとは自分の都合で動いてくれるので依頼する私の負担も減って助かる。
この度も、そんな感じで展示作業は彼に任せっきりにしておいたのだが、いつも忙しい彼に島根と萩を2往復してもらうのも悪い気がして、イベントが終わってからの後片付けと作品梱包などはすべて私が責任を持って行うことにした。それで、11月の連休中にそれを済ませて、あとは萩まで運搬するだけになっていたところへ「久しぶりに私も行きたいなぁ〜・・萩!」とワイフが言いだして「それじゃぁ〜、何時か良い日があったら教えてよ」ということになって、週明けの月曜日早朝、ワイフの車へ内村さんの陶器一式を積み込んで萩へ向かった。

昔は、石見銀山から萩まで5時間ほどはかかっていた。
10年くらい前から少しずつ自動車道が整備されて片道5時間を切った。
2年くらい前から一気に高速が伸びて、今は3時間半あれば内村さんの工房へ到着する。

「今、改築中で年内には完成させる予定!」だということで、焚き口と煙突下の袋窯だけを残してあとの穴窯の部分はレンガが撤去されていた。
「アレコレ考えながら造ってるとなかなか進まなくて・・」
工学系にも強い内村さんが自分で改修工事をしている。
こだわりの穴窯が完成したら、来年の3月まで空焚きをしたりしてそれから窯詰め本焼きと続く。私もなんとかして、再生初窯焼成メンバーに加えてもらえるといいなぁ〜・・

IMG_6608.jpg
IMG_6612.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

再会 

2018/10/30
Tue. 23:08

マリちゃん(・・・って、今はもうオバサンだけど・・)と久しぶりに逢った。
彫刻の搬出で前日に東京入していたからマリちゃんが何処かで逢おうと云ってきた。前回は5・6年前だったと思うが、確か田園調布に住んでいたこれも学生時代の同級生のマンションに数人が集まって小規模の同窓会のような感じで飲んだ。

自分で云うのも何だけど、ボクはどちらかといえば人嫌いな方で一人でいることのほうが気楽で良かったりするほうだから、学生の時もそういう感じで自分の方から積極的に友達をつくろうと思うようなことはなかった。それでも、ナンダカンダと気軽にくっつく連中がいないわけでもなくて、マリちゃんもそのうちの一人だった。
今にして思えば、何かの縁のようなものもあったのかも知れない。
きっかけは、確か新入生歓迎会の時だったと思う。新入生はあいうえお順に並ばされてどんぶりいっぱいの日本酒を回し飲みしながら自己紹介をさせられるという、今にして思えば実に過酷極まりない歓迎会だったのだが、その順番で吉田の前にいたのがマリちゃんだった。だいたい、一般常識として成人間もない女子がどんぶりに波波と注がれた酒を飲み干すことなど普通に無理なことで、彼女も酒の入ったどんぶりを手にしてアタフタしながら悶絶していたところを、その次に控えていたボクが引き受けて(つまり、吉田はどんぶり2杯の酒を飲んだということです・・)事なきを得たという、まぁ、それなりの男気を示した!・・・というあたりから、付き合いが始まったような気がする。
四六時中ベッタリくっついていたわけでも何でも無いが、何故かそれぞれの行動が重なることも多くて、気がつけば付かず離れず一緒にいたりして、不思議な関係が卒業するまで続いた。
当時、彼女は藤沢でおねえさんと一緒に住んでいて、私はその隣の駅で降りてバスに乗ってしばらく行ったところに親戚のオバサンの家があって、それでそちら方面へ行くときはよく電車が一緒になることもあったし、鶴見の北口のロータリーに面した焼き鳥屋でバイトしていた時も学校から帰りの方向が一緒だった。彼女が渋谷の近くへ引っ越した時もたまたま自分も渋谷でバイトをしていたりして、まぁ、一般的に一緒にいる時間も多いとしゃべることも増えてそれなりに親近感もわくし、特に男と女の深刻な関係に踏み込むこともないまま気楽な縁であったと、自分では思っているが、彼女がどう思っていたのかは知らない。

キーポンと六本木の美術館へ行ってお父さんとお母さんの彫刻などを見て、そちらから銀座へ移動した。マリちゃんは和光の前の花屋さんの角で待っていて、そこからすぐ近い銀座ライオンの本店で飲んだ。
前回に逢った以来の空白を埋めるるようにアレコレと話していると、キーポンが山野楽器で楽譜を見てから合流し、それからしばらくして仕事帰りのノッチが合流した。
マリちゃんは「大丈夫だろうか??」と心配になるほどよく飲んで「二次会へ行こう!」と言いはじめて、それから吉田父娘たちと一緒に彼女の自宅が近い中目黒へ移動してまた飲んだ。
しばらく逢わないうちにずいぶん飲めるようになったもんだ。彼女なりに色々と場数を重ねてきたのだろう。今は一人息子も結婚して手が離れて制作を再開している。

IMG_0951.jpg
IMG_0950_2018112804092957b.jpg
IMG_0949.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

カムバックグッチャン 

2018/10/18
Thu. 23:31

グッチャンが石見銀山に点在する鉄の野外彫刻を観て、フラリと吉田家へ立ち寄ったのは、まだ彼女が20代の頃だったと思う。
初対面のその時に、お茶飲み話で彫刻のことを話したのがきっかけで、それからしばらくして勤めていた仕事をやめて吉田家へ転がり込むように単身石見銀山へやってきた。
その頃の吉田家はまだ子供も小さかったし、犬のシェパ君も居て私も定職があって昼の間はワイフが一人で吉田家を切り盛りしつつそろそろ時間講師でもしてみようかと思い始めていた時期だったから「君の仕事は犬の散歩ネ!」と、それを条件にほとんど未使用だった変形の8畳を彼女の部屋に提供した。
子どもたちも彼女によくなついて、子守代わりもしてくれて、それなりに吉田家としては重宝した。
それでも彼女は何もしないで彫刻の制作三昧で毎日過ごすわけにもいかないから、近所のアパレル会社でアルバイトをすることに決めて、それからあとは1日や1周間や1ヶ月のスケジュールもしっかりと固まってくるし、生活のリズムもつかめてきて、時々私の彫刻の手伝いをしながら塑像の制作にとりかかった。
首像からはじめて石膏取りをして、そういうことを繰り返しながら続けていたアルバイトも本格的になって、会社の重要なポジションに定着して、それがきっかけになって吉田家から独立して会社所有の一軒家に住まわせてもらうことになった。
それから、塑像制作が本格的に回転するようになって、「制作工房があると良いね」ということになって、探し当てたのが棟梁の工場事務所。
ひとの良い、面倒見の良い棟梁の御陰もあって、夜な夜な棟梁の工場の事務所へ通いながら制作を続けて、等身大の彫刻を石膏取りをするまでになった。
住まいも、自分で探して会社の社宅から独立したが、「彫刻を造ることを優先したいから・・」と、アルバイト待遇の方はそのままで仕事を続けた。

グッチャンは、どちらかというと、彫刻のセンスがあって器用にオシャレにサラリと制作できるタイプではない。
一つ事を自分が納得するまでコツコツと積み重ねて、対象に誠実に向き合い、存在をトツトツと追求することに時間を惜しまないタイプの彫刻家になりつつあった。初期の頃は、粘土に伝わる指の跡も一つ一つが点で止まって、そういうことが連続して積み重なっていくふうな作風で、それは一方で流れるようなムーブマンの勢いを阻害してしまうし、造形の重心を低い方へ押し下げてしまうような重たい彫刻になることが多かった。
自分が納得しながら一つずつ制作を積み重ねることによって、ゆっくりではあるが確実に造形力が伸びる方向へ向かっていた時に結婚して石見銀山から東京のマンションへ転居した。しばらくは生活を優先の日常が続いていたが、数年の間に小さなテラコッタの彫刻を造れるまでに立ち直った。それから、毎年島根の現代彫刻小品展を目標に制作を続けてくれて、その後関東のグループ展へ出品する機会も得てだいたい10年が過ぎた今年になって、久しぶりに六本木の展覧会へテラコッタの胸像を出品した。
素材に忠実で仕事の痕が最小限まで抑えられて、表情の内面へ引き込まれるような清楚で慎ましやかで上品な胸像に仕上がっていた。審査委員の心が揺れたのかも知れない・・奨励賞を受賞した。造形力の蓄積が裏付けられた見事なカムバックだった。

IMG_6388.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

不確か情報 

2018/10/09
Tue. 23:20

いつもこんなだったかなぁ〜〜〜・・・

今年は10月に入って展覧会絡みの報告というか何というか、特にボクにはコレと云って重要なコトでもないのだけど、まぁ、考えようによってはわざわざ吉田目指して様々な現状を大きなタイム・ラグもなく逐一こまめに伝えていただいているわけで、それはそれで、周囲が吉田を忘れていなかったということが実感できて、密かに嬉しかったりもする。こういうことが、あと何年続くかわからないが、ボクも美術とか彫刻の世界ではまだ十分に現役でいられているということだとともいえるわけで「知らない間に義理や人情が優先の付き合いだけになっていた!・・」というようなことだけにはならないように気をつけようと思う。

さて、そんなわけで、いくつかの報告の中で一番嬉しかったのが昔から苦楽をともにしている絵画の友人が「受賞するか推挙されるかどちらかもしれない??・・」という、なんとも不確かな情報・・・
今までに何度となく彼にはそういう機会が巡ってきそうだったのに、その度に何度もスルーされていた。吉田としては、彼のそういう状況がわかる気がするものの、一方で歯がゆくも感じていた。
当初から彼の作風は、彼の研究を積み重ねた先にある完全に彼オリジナルのものであった。私から見ると、目を瞠るような鮮烈なデビューだといえる。
一方で、今の公募団体展でくくられた画壇に彼の絵画性がどこまで理解してもらえるか不安だった。
「彫刻が向いてるんじゃない?」とか「絶対彫刻のほうが面白くなるよ!」とか「その作品が彫刻になっても全然問題ないんじゃない!」とか、あらゆる手段で彫刻へ誘ったこともあったが、頑固な彼はかたくなにそれを断り続けた。
何時の頃からか「あいつは本当に絵を描くことが心底好きなんだなぁ〜!」と残念だが私も納得するようになった。
その頃から彼の迷いが絵に出てきたように感じた。彼にとっては試練の数年だったと思う。
その試練の数年がとにかく長かった・・・自分でパンドラの箱を開けてしまったと云うか、ラビリンスの扉を開けてしまったと云うか、そういう感じで、少し距離をおいて見ているうちに、彼の絵画はカオスと苦悩の世界に染まった。
ある日、彼の自宅のすぐ近くを通過することがあって、ちょうど日曜日だったしひょっとしたら自宅にいるかも知れない?・・・と、ちょっとした思いつきで訪問したとき「もう、彼とはこれから先、昔のように付き合うことは難しいかもしれない・・・」と、思うことがあった。彼や彼の奥さんが在宅だったが、とにかくどことなくよそよそしくて取り付く島もないほどで吉田との距離が一気に遠ざかった風に感じた。それからあと、一歩も二歩も下がって彼との付き合いを遠ざけていたが、どうしてもその離れた距離に我慢ならなくて今年の春のある日、彼と飲む機会をつくった。とにかく、飲んで喋って私の鬱々とした彼に対しての数年間の気持ちを伝えた。
それが良かったのかどうかよくはわからないが、今年の彼の絵画は少し変わっていた。

IMG_7097.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

台風の後・・ 

2018/10/07
Sun. 23:44

法事へ出かける頃には雨も風もやんで静かな朝になった。
秋の台風が日本海を通過したことが嘘のようだ・・・それから石見銀山へ帰って・・・夕方まだ波の残った日本海へ出ると、沖の方をタンカーがゆっくりと西へ向かっていた。

鳥取在住で私と同じ公募団体展へ出品しているまだ若い絵画のMさんから「どうやら入選したらしい・・」とショートメールが入っていた。
彼女は、地元の大学で美術教育を専攻して卒業してから学校の先生になった。
ワイフが付き合って出品している山陰のグループ展へ彼女も出品していて、ワイフの搬入を手伝ったりしているとき何度か会場で絵を見かけたことがあったものの、その頃は、それほど強く印象に残る絵画であると思って観ていなかった。その次のグループ展のときだったかに観た絵もあまり印象になかったのだが、どこかしらその展覧会の中では面白いセンスを持っているように感じたので、その時企画していた美術イベントの教室個展へ誘ってみた。そうすると、いがいにすんなり食いついて出品してくれることになった。

会場は廃校になった小学校の教室だから、大きな絵画が楽に展示できるようなシステムではない。そういう現状を説明して、いくつかの過去資料も用意して、あとは作家の自由に任せて、展示の手間などの諸経費を保証することを伝えて、おおよその打ち合わせを済ませた。
会期が近づいてから手間の手配を打ち合わせして、いつも私がお世話になっている棟梁へお願いして彼女の展示へ付き合ってもらうことにした。
それから、それなりにいろんな事があったが、ひとまずイベントのオープンには間に合って展示の終わった会場へ行ってみると、グループ展へ出品していた絵画作品とは全く違ったインスタレーションになっていた。
「彼女はこういうセンスも持っているのか・・・」
意外ではあったが、一方で印象が大きく変わった。

山陰の小規模な仲の良い友達が集まって出来上がったグループ展も、それはそれで出品者にとってはとても大事な研鑽と発表の場ではあるのだろうが、吉田としては、そういうところでの造形に関するディスカッションが自分の制作や表現の伸長に影響できているか、あまり期待できない気もしている。
結局は、グループ展に限らず発表の実践においてとても重要な制作上の趣旨でありテーマであるところの根本をそれぞれ作家個々人がどれだけ共通理解を持って認識し共有してお互いを高め合い刺激しあっているかが大事なことで、そういうことにどこかしら曖昧なところがあって、ある種のヌルサの共有に作家間の居心地の良さがあったりするような環境になっていたりすると、それで自分の作家性の成長や向上を期待することはなかなか難しいことなのだろうなぁと思ってしまう。それぞれの作家が自分の造形表現を研究し成長を目指すことはまず当然なことだが、その自分の表現システムや主観を押し売りしたりしはじめたら、もうどうにもならないし表現の成長を阻害することにもなりかねない。
彼女の場合は、そういうグループ展や周辺の作家事情も含めて現状をクールに認識しながらピュアな自分のセンスを磨き続けてほしいものだ。
・・・とにかく入選おめでとう!

IMG_3404.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

22万km突破 

2018/03/23
Fri. 23:28

ボクの結界君がいよいよ調子悪くなって、脇道から本線に右折するときなど急にフラッとハンドルが揺れて血の気が引くことがある。それでなくても歩く成人病の高血圧症を持っているボクは、「あぁ〜〜、ついに脳みその何処かの血管が切れたのかもしれないぃぃ〜〜〜」と、一瞬クラリとしてお陀仏を覚悟しながらしばらく本線を走らせていると、それがハンドルというか、サスペンションというか、とにかく結界君の足回りの具合でふらついているのだとわかる。こういう症状が頻繁になると、それはそれで「こんなもんだ・・」とか、「また来たな・・」とか、慣れてしまって気にならなくなるのだろうが、前回の似たような症状から相当に日時がたったあとだったりすると、前のことなどスッカリ忘れているからメチャクチャ焦ってしまうのだ。信号待ちで停まってクラッチを踏んでニュートラにすると、途端に結界君がブルブル震えはじめて「エンジンが止まるかもしれない!」と、またまた焦ってしまう。

とにかくそういう状態が冬の間中続いて、近所の町の同級生のカーディーラーへ寄って、コーヒーをズリズリすすりながら世間話の合間にポロリと愚痴をこぼしたら、それじゃぁ、チョット見せてみろと、ハンドルを据え切りしたりエンジンをかけてアクセルを踏み込んでみたりして、感触を確かめてくれた。
今の結界くんは、その前のダットサンが潰れて乗り換えたはじめての中古軽自動車だったから、ダットサンの馬力で慣れていたところで、パワー不足にがっかりしたこともあった。それでも、地道にそんなもんだと思って乗り回していると、ダットサンでは苦労していた幾つかがすんなりと解消できて、それはそれで気楽に使い倒すことも出来るし、知らない間に無くてはならない大事な相棒になっていた。
東京の往復も何度かして、新名神や新東名を走ることもできた。九州や四国も彫刻と一緒に出かけたし、自作のフックを造って100号の油絵を運んだこともあった。もちろん、薪ストーブの燃料を山のように積んでフラフラしながら吉田家まで運んだことも数え切れない。助手席をフルフラットにして、180cm✕45cmの自作ベットをはめ込んだりした。シュラフはシーズンごとに積み替えて、遠出の時はカセットコンロやポットを積み込んだりと、とにかく、都合の良いように使っている。
平均すると1年で3万kmくらいは走っている。オイル交換は出来るだけ3000〜5000でするようにしてきた。仕事の流れでアチコチぶつけたりこすったりしてはいるが、特に大きな故障も無いまま22万kmチョットまで走っている。なんとなく「調子が悪いなぁ〜」と気付いたのが21万kmくらいの頃で、夏の猛暑が続く四国へ出かけていた時、ついにエアコンが壊れた。
ダットサンは24万km、その前のハイラックスが28万kmで潰れた。軽貨物車の結界くんは22万kmだから、そろそろ限界も近いだろうと覚悟をしつつ、それなりに大事に乗っていたのだが、「こりゃぁ〜、もぉ〜、やれんでぇ〜、あんまり遠くへ行かんほうがえぇ〜でぇ〜」という、カーディーラー君の話でした・・・
スズキの代理店で元々は自転車屋だった。中学校は自転車通学をしていて、父親の御下りを使っていた。その自転車のパンク修理は彼のおじいちゃんがしてくれた。彼のお父さんがスズキのバイクを取り扱うようになって、それから、自動車を販売するようになった。
ボクの寺暮らしも本格的になったから、そろそろ、次の車は彼に頼もうと思っている。

IMG_5357_20180326132827a09.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

ニカラグアの珈琲 

2018/03/13
Tue. 23:28

ついに大牟田の珈琲がなくなった。
近所のスーパーで安売りを買ったり、茶の子で頂いたスティックやドリップタイプの珈琲などと併用しながら、大事にチビチビ飲んでいたが、ついになくなった。

吉田家の場合は大きなコーヒーメーカーがあって、ワイフがさりげなく気を使ってポットいっぱいの珈琲をつくり置きしておいてくれる。
万善寺は自分で用意するしかないから、通勤坊主や単身赴任坊主の時は、ネルドリップとかペーパーフィルターとかステンレスメッシュとか、その日の気分で珈琲をいれている。
やっぱり、飲む分だけ豆を挽くのが一番美味しいから、だいたい朝のティータイムはミルを使うことが多い。
そんなわけで、万善寺の珈琲豆がなくなったから、ワイフを誘って出雲まで買い出しに行くことに決めた。

毎年、この時期は確定申告があるから税務署の近くでワイフと待ち合わせをした。
申告の手続きをしていたら、昔一緒に仕事をしていたときの友人とバッタリ会った。お互い、自営業というか自由業というか、源泉徴収とは縁のない世界の日銭で暮らしているから、仕事も趣味もまったく接点がないのに、それでもどこかしら類友のような親近感がある。奥さんや子供も知らないわけでないし、立ち話で昔のことが少し蘇った。

よく晴れた良い天気で、出雲への移動も気持ちがいい。
ワイフと他愛ない会話を楽しみながら運転をしていると、電話が鳴った。
「今何してるの?もう申告終わった?」
誰かと思ったら、先程の彼からだった。今出雲へ向かっているといったら、帰りに寄らないかという。
「5時過ぎると思うけど、それでもいいの?」
「全然大丈夫!子供も帰国しているし、久しぶりだからいらっしゃいよ!」
「それじゃぁ、寄らせてもらうよ!」
ということになって、彼へのお土産に浅煎りの珈琲を粗挽きしてもらった。

お土産を渡すと、彼は、早速アメリカンのさっぱりした珈琲をいれてくれた。
昔、長野の方で短期間だけペンションを経営していたことがあるから、そのあたりのことは手際が良い。
息子さんはずいぶん大きく逞しく立派な大人になっていた。つい先日までオーストラリアのファームで働いていたそうだ。そのあたりはオヤジに似てワイルドだ。同じ外国暮らしでもフロリダディズニーで働いているノッチは吉田家のオヤジに似て軟弱チキンだったりするから、血は争えないものだ。
1時間がアッという間に過ぎていた。
夜も遅いからと再会を約束して別れた。
申告も終わって、1年が一区切り付いたし、旧知の友人と久しぶりの再会もあったし、なんとなく温かい気持ちになった。

IMG_2823.jpg
IMG_2822_201803141130125af.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

くされ縁 

2018/02/24
Sat. 23:19

一頃に比べたらずいぶん暖かくなった。
このまま春になってくれるといいのだが、まぁ、地球を相手にそんなに甘くはないだろう。

江津は東西に長い島根県のほぼ中央に位置していて、冬でも雪がほとんど降らない過ごしやすい地域なのだが、吉田的には二つほど気になることがある。一つは水道料金がやたらに高いこと。もう一つは韓国のラジオ放送が嫌になるほど鮮明に受信されること。これには、韓国のテレビ放送も付属についてきて、画像の乱れを少し我慢すれば普通に韓国番組を家庭で楽しめるレベルでもある。これらが改善できれば地域的な魅力もあるし、とても住み良いところだと思う。

数年前からその江津へ縁ができてひと月に2日ほど石見銀山や万善寺から出かけている。
今年度最後の美術活動講師で仏教の坊主がキリスト教系高校へ出かけた。その高校は全寮制で、全国から先生や生徒が集まってくる。規模はそれほど大きくないから、みんなで仲良くほぼ自給自足の共同生活をしながら暮らしている。今の校長先生は島根県の浜田出身で、昔私が学校の先生だった頃副担任をしてくれた。あの頃の彼はまだ独身だったから、ほぼ毎日夕方になると吉田家へやってきて夕食を食べながら一杯やっていた。吉田家もまだ子供が生まれていなかったし、ワイフも彼の訪問を特に気にしていなかったから、共同生活というか合宿というか、そんな感じの毎日を過ごしていた。
あの頃から彼は日曜日になると近くの教会の礼拝へ出かけるような熱心なキリスト教信者だった。その関係で、江津の今の場所を開墾した時も信者が集まってほとんど自力で学校を建てるところからそういう活動に参加していて、開校と同時にその学校の教職員になった。今にして思うと、限りなく違法建築に近い掘っ立て小屋が幾つか林立して、それが宿舎であったり美術室のような特別教室であったり、農作業の小屋であったりしていた。
それから30年ほど経過して彼が校長先生になった。昔からの付き合いでもあるし、吉田の家業のことは特に気にならないようだし、こちらも宗教的事情で特に固辞する理由も無いから、コトの成り行きで美術を引き受けたまま年数が更新されて今に至っている。

共同生活をしている高校生たちは、とても純粋で気持の良い子ばかりで居心地がいいから、年度替わりで校長先生から「来年度も一つよろしく・・・」と改まって依頼されると給料がどうとか待遇がどうとか全く気にしないで軽いノリで引き受けてしまう。
美術活動を選択する生徒はせいぜい2〜3人だから、子守のようでそれがまた楽しい。
東京に自宅のある2年生の男の子は、植田正治写真美術館の写真コンクールで受賞したりするほどの高校生らしからぬマニアックなカメラマンでなかなか良いセンスを持っている。彼の自作の写真アルバムは完成度が高くて感動した。そういうセンスはムダにしないほうが良いと思うから、「写真の個展をしてみないか?」と誘ったらやってみたいと言うので、それから後、時々連絡をとりあいながら、学校とも調整しつつ、少しずつ内容が具体的になってきた。たぶん、今年の秋には彼の写真展を島根で開くことが出来るはずだ。3月には彫刻のグループ展で東京へ行くし、帰省中の彼を誘って打ち合わせがてら飯でも食べようとたくらんでいる。

IMG_2751.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

岡山倉敷児島にて 

2017/02/09
Thu. 23:56

3回目の寒波がやってきたようだが石見銀山は一晩中雨が降っていた。

岡山へ行くには中国山地を越えないといけないので、そのあたりは雪になっているから、出発する時間を見極めるのが難しい。
色々迷ったが安全策で出発を2時間遅らせることにした。
8時に自宅前の町並みへ出ると、雨だった。
いつもの銀山街道を10分ほど走ったら、雨が雪に変わった。
面白いものでこの時期の銀山街道は、飯南高原へ登るまでに二箇所ほど天候事情が大きく変わるところかあって、雨になっても雪になっても、それに晴れても曇ってもだいたいその場所が境界になっている。
石見銀山から出発した場合、一箇所は雨が雪に変わるところで、もう一箇所は降る雪の量が一気に増えるところ。
地元の人はみんなそういうところを心得ているから、車の運転もそのあたりは慎重になるが、その道になれない車は、頻繁に脱輪したり法面に突っ込んだりして立ち往生している。それがトラックだと完全に交通渋滞の元になって、数時間も身動きできないままジッと救助を待つしか無い。今回は、そのうちの一箇所で見事に乗用車がカーブを曲がりきれないで側溝に突っ込んでいた。

島根県の方は、寒波の影響でそんな感じだったが、広島県に入ったら雪の量が激減した。
松江と尾道を結ぶ自動車道のやまなみ街道は、交通規制もなく渋滞もなく快調に走ることが出来た。
瀬戸中央道へ入ってから四国のMさんに電話したら元気な声が返ってきたので、そのまま瀬戸内海を渡って四国へ入った。
お昼を少し過ぎたくらいに徳島へ到着した。
彼は、あと1週間したらオーストラリアへ出発するそうだ。
船便で送った彫刻より自分の往復の飛行機代が安かったそうだ。
同じ彫刻仲間でも、山寺に張り付いている私とは住む世界が違う。
そういえば、岡山の彫刻家Kさんは、現在北海道の方で雪像彫刻を制作中だ。

自分の立場で自分の彫刻を造っていることだから、色々なタイプの彫刻家が色々な制作の活動を続けることは当然のことで、彫刻のネットワークも広がってとてもいいことだと思う。
私のように行動半径が極端に狭い彫刻家にとってはそういう同業の人たちの様々な制作活動の実践を聞くだけで十分刺激になる。
そういう楽しみもあるから、アチコチの色々なタイプの彫刻家との付き合いを大事にしているようなところもある。
まぁ、それが坊主の付き合いと全く違って常に新鮮でいられるからありがたいことだ。
とはいえ、全国共通何処へ行ってもだいたい似たり寄ったり同じスタイル同じ作法で同じお経が通用するということも坊主として大事なことで捨てがたいほどの魅力も感じる。
それはそれで、貴重な体験というか経験になっているのだ。

IMG_5514_2017021000570904a.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

奥出雲のマニアなメンバー 

2017/02/04
Sat. 23:59

何か色々あったけど、葬儀が終わった。
坊主家業を続けていると、1年に数回は反応の場が読めない仏事があって、自分の坊主経験の浅さに落ち込んでしまう事がある。
今回も、2月に入って間もないのにそういう状況が巡ってしまったようだ。
こういうことをいつまでも悶々と引きずっても事態が好転するわけでもないので、気持ちを入れ替えて万善寺を留守にすることにした。
そんなわけで、久しぶりの完全フリー無住職を過ごしている。

告別式のようなお葬式が終わって、お斎の膳も終わって坊主解散して、万善寺に帰ってから、セッセとフリー無住職坊主に向けての準備をした。
次の目指す先は、昨年お世話になった島根県奥出雲町を基地にして活動する音響プロオヤジの事務所兼倉庫兼スタジオ兼たまり場兼ボクの仮の宿。

例の、倉敷森山オリジナル焙煎珈琲と、その周辺の道具一式を結界君へ積み込んで万善寺を出発した時は、すでに午後の1時を過ぎていた。途中。幾つかの用事を済ませて事務所前の駐車場へ結界君を乗り入れたら、音響オヤジがタイミングよく出迎えてくれた。
早速、彼の自慢の薪ストーブの、概ねボクの定位置へ落ち着いて、森山珈琲の深煎り焙煎をミルにかけた。若干怪しげな珈琲を飲みながら、しばらく音響さんとマッタリマニアックなオヤジ談義をしていたら、奥出雲の土地っ子怪しげなオヤジがもう一人加わった。
そこで、3人のオヤジ談義で盛り上がっている間に、いつの間にか時は過ぎ、ボクのささやかな造形絡みの用事で連絡をしていた本人が近所まで来ているということで迎えに行って、それで都合4人となった。
この4人目の本人は、私の長男とドッコイの年齢で、美術家である。
幾つかの事情がダブリあって、作品展の出品仲間になったから、そのための出品作品の事前打ち合わせで都合つけた次第。
森山珈琲のマッタリとした香りに包まれながら、世間のことや趣味のことや、もちろん珈琲のことなどの会話に、造形の工夫や、方向性や、表現力のことなどアレコレ私なりの考えをけっこう真面目に話したりしていたら、奥出雲のコダワリ蕎麦屋のお兄さんが彼女とやってきてこれで6人になった。

土曜日の夕方にここまでマニアなメンバーが集まったら、普通だとアルコールに流れてしまいそうなところだが、一方では結構真面目な造形のアレコレの話になっているし、一方ではマニアックな音響絡みの話題で盛り上がっているし、そこに蕎麦屋のお兄さんの熱い熱い地域活性の会話が絡んだりしてくると、もうそれらの流れに身をゆだねるすべは一杯の美味い珈琲とその香りしかないだろうというわけで、それから後は、それぞれの限りなく身勝手な音の話題や香りの話題や造形の話題や文化活性の話題が絡み合って際限がなくなってしまった。
そんなわけで、石見銀山の吉田家へ到着したのは夜の9時少し前。
ワイフは、お風呂に入っていて、猫のシロは土間へ締め出されて寒さに震えつつフニャフニャ泣いていて、クロはストーブのぬくもりに包まれながらマッタリしていた。

IMG_5463.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

冬の結界くん 

2017/01/25
Wed. 20:38

ボクの超個人的な備忘録ブログに飽きもせず時々立ち寄ってくださっている皆様のことですから、すでに重々ご承知のことと存じますが・・・「結界くん」という、ボクにとっては切っても切れない大事な相棒がいるのです!
彼は、マニュアル5段切り替え4WDデッキバン貨物車仕様で、現在はヨコハマのスタッドレスタイヤを履いて何処までもひたすら健気に走ってくれています。

冬シーズンは、出先のどこで何があるかわからないから、昨年末に結界くんを少しほど重装備して今に至っている。
幸い運良く、それらの装備のお世話になるところまでに至らないまま、厳しい寒気を2つばかり乗り越えることが出来た。
その、重装備とは(べつにたいしたことではないのだが)・・・
後部座席をフラットにした上に、若干改造した助手席をフルフラットにして、45cm✕180cmのパネルをはめ込んで作った簡易ベット。
チャチで薄っぺらな、それでも見た目は羽毛布団(これは、結構コンパクトになってそれなりに温かいから便利!)と、何時ものシュラフにバスタオル、歯磨とお泊りセット。
パジャマ代わりのジャージ上下と、パンツにシャツ数枚。
履き替え用の雪駄、サンダル、長靴、それに子供からの誕生日プレゼントカジュアル革靴と、傘、もしもの時の坊主の必需品一式に改良衣などの法衣一式。
そうそう、最近トレッキング用の杖を2本積んだ。
そして、欠かせないのはカセットコンロと、それ用ボンベなど。
他にも、大工道具や鉄工道具とそれに関連する必要最小限の電動工具も常備してある。
それで、iPhoneとその充電器があれば少々の渋滞でも普通に気楽に乗り切ることが出来る。

今回の2回めの寒波は、島根の隣鳥取県で交通網が分断されて大変だったようだ。
島根の方は、今のところ昨年並みかそれ以下の積雪で、万善寺のある飯南高原も吉田家のある石見銀山も、比較的楽な毎日を送っている。
このままいけば、「モテル結界くん」のお世話にならないで春を迎えられそうな気もする。

昨日の保賀の谷は、ひと晩で50cmは積もったと思う。
その前日から同じくらい降り続けていたから、1本道を歩く時は腰のあたりまで降り積もった雪だまりをスコップでかき分けながら結界くんまで歩いた。
そして、今朝は薄く降り積もった今季最高のパウダースノーを舞い上げながら慎重に1本道を探りつつ参道を下った。
こういう朝は、放射冷却が特に厳しいから、結界くんの暖気運転がいつもの3倍位必要だった。
それでもワイパーにこびりついた雪というより氷の塊が溶けるまでにはかなりの時間を要した。
過酷な飯南高原の冬に、文句一つ言わないで耐え続ける結界くんが愛おしくなる♡!

IMG_5356_20170125203643bc8.jpg
IMG_5360.jpg
IMG_5465.jpg
IMG_1372.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

さすらいの珈琲マン 

2016/11/19
Sat. 22:19

さすらいの珈琲マン森山!が、突然富山町へあらわれた!・・・らしい・・・

最近、彫刻界に於いて敵前逃亡非国民甚だしい吉田が、例のごとく、今度の土日も万善寺隣の文江さんの葬儀で富山の彫刻展や教室個展の受付をドタキャンしてしまった・・その裏番組で、あの珈琲マン森山が、受付代行のワイフや富山の熟女達に珈琲を振る舞ってくれた・・・らしい・・・
まったく、先週といい今週といい、主催者のドタキャンは「許されざる者」である。
まぁ、吉田オヤジは、せいぜいこんなもんだ!・・・ということで、飲み込んでいただくしか無いわけで・・・

万善寺隣の文江さんは私の師匠で前住職二十二世禅嶽憲正さんの同級生でもありました。
その亡くなった文江さんは、かれこれ1年近く闘病生活が続いただろうか・・とにかく、一般的にいえば、それなりに人生を全うした大往生であると私は思っている。
先程、通夜を終わって万善寺の三畳へ落ち着いたところだが、通夜の前の仮通夜からご親族の様子を見ていると、悲痛とか沈痛とかそういう様子は微塵もなく、何かしら晴れ晴れとした雰囲気が漂っている気もした。
文江さんには子供の頃から何かとお世話になった。
万善寺のおかみさんでもある私の母親は、なんだかんだいっても、結局はお嬢さんがそのまま寺のおかみさんになってしまったようなヌルい人生であって、自分が自分で言うほどの苦労は経験していない。それに比べて、隣の文江さんは何かしら苦労の多い人だったと気になっていた。思い返せば、吉田少年は母子のいさかいがあるたびに、「ボクは文江さんの子でいたかった・・」と、自分をなぐさめていたものだ。あの文江さんの何気なく目先の面倒臭いものをスルーする絶妙にヌルい加減が小気味よく感じていたところもある。
文江さんの家は浄土真宗だから、今夜の鐘つき坊主は必死で仏説阿弥陀経を読んだ。明日はそれに正信偈も読むことになる。街場の坊主付き合いでは思いもよらないことだろうが、島根の山奥では普通に宗派を越えた坊主付き合いが続いているのだ。

葬儀の準備をしている時に珍しくワイフから電話が入ったから、何か富山の会場で不都合でもあったかと緊張したが、珈琲マン森山がやってきたという報告だった。
どちらかと言えば吉田もそれなりの自由業をこなしている気もするが、珈琲マン森山は得体の知れない自由人である気がする。
何時まで続くのかわからないが、吉田としては自分の周囲に似たようなノリの軽いヤツが居てくれるだけで、結構真面目に助かっているようなところもある。

彼のコーヒーは、彼の完全なるコダワリがそのまま抽出されているようなところがある。さりげなく聞くところによると、彼には彼なりの師匠がいるようで、ひとまずはその師匠の世界に心酔して、それを目標に求め自分を鍛えている時期であるのかもしれない。
物欲の氾濫する現代に、緩やかに焦ることなく自分の我欲を育くんでいるような飄々としたノリが魅力的だ。今の彼は、上手に他人に使われているようなところがある。それも大事な経験の蓄積だが、いずれは他人を上手に使えるほどの人物になって欲しいと思う。

IMG_1145.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

Hennessyと玉鋼 

2016/05/28
Sat. 21:41

島根県在住で鉄の彫刻家の一人、周藤豊治氏が制作途中のなかなか面白い力作彫刻とHennessyの箱を持って訪ねてくれた。
ワイフは夕方からコンサートへ出かけたが、その前にイサキとアサリのワイン蒸しやマダコとトマトのカルパッチョやセセリとタマネギに大根おろしを添えたポン酢あえなどのつまみを用意してくれていた。私はもらいモノの玉鋼大吟醸の封を切って待っていたが、ワイフの手料理にはHennessyだろうということで、そちらから飲むことにした。
彼と飲んだのは、確か銀座のグループ展以来だったと思うが、良く覚えていない。それほど久しぶりだったということだ。

ちょうど同じ日に、今度の浜田こども美術館での現代彫刻小品展ポスターとチラシが刷り上って、営業のお兄さん(といっても、PTA活動も忙しい普通にオヤジだけど・・)がワザワザ吉田家まで持参してくれていて、早速周藤さんにそれを見てもらった。
私としては、今年の現代彫刻小品展でひとまず浜田市での彫刻の展覧会を一区切りつけようと思っていて、周藤さんには以前からその話をしていたのだが、彼はそれをどう思っているのかよく分からないまま、展覧会の搬入展示作業などの手伝いのことに話が集中した。
私が企画した展覧会はあくまでも非拘束の任意の団体の事業として進めているので、「準備や会期中くらいちゃんと手伝ってくれよ!」などとエラソォ〜に命令できる立場でもない。だから、基本は周辺の作家に迷惑をかけないように吉田ができるだけ自分で展覧会業務のコトをすませ、あとは、各自の事情や都合にゆだねるふうな気持ちでいるのだが、たとえば周藤さんのような強力な助っ人がセッセと働いてくれているから今まで何とか展覧会を続けることが出来ていたということも事実である。

今から10年くらい前に公僕をリタイヤしてフリーになった時、それまで週休2日に特別休暇や有給休暇が当たり前の暮しがいっきに崩れた。
寺の仕事が土日に入ることもあるし、再就職で嘱託に近い仕事は昼夜の境界もなく不定期に入ってくる。みんなが休んでいる土日に仕事したり、夜中遅くまで仕事が続いたりする。
「何で自分だけ・・・」仕事中に、少し前まで同僚だった人達の顔が脳裏に甦ることもシバシバだった。そんな毎日の日課の乱れになかなか自分の気持ちが切り替わらなくて、それから2年くらいは悶々として暮していたように思う。その後自宅を少し改造してギャラリーをオープンしたら憲正さんの体調が崩れて病院の通院が続くようになった。こうなると、規則正しい休日の保証など期待できるわけもなく、宗門手帳が手放せなくなった。とにかく、五月雨に入ってくるコマゴマした仕事の一つ一つをすぐにメモしておかないと用事が重なったりして収拾がつかなくなる。
今では休みが無いことが当たり前になって、場合によっては晴耕雨読が当然のことで一仕事を片づけるようなこともある。雨が降ればデスクワークや細かな彫刻仕事に切り替えるし、晴れれば外仕事で寺や自宅の営繕で草刈りをしたり薪割りをしたりして過ごし、時々ワイフと日程調整をして休日に切り替えて温泉につかってたりして気楽に暮している。

自分の仕事を窮屈にやりくりして吉田と付き合ってくれている周藤さんには頭がさがる。
今、少しでも周藤さんのような立場の人が楽に動けるようにできないものかと、無い知恵を絞っている。

IMG_0618 (1)

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

栄泉寺さん遷化 

2016/05/15
Sun. 02:21

久しぶりにラップトップを開いた。
ネタが無くて放置していたわけではなく、ラップトップを開くタイミングが無いまま今になったということ。

このだいたい2日間の間に、けっこう目まぐるしく色々な出来事があった。

半日ほど自宅の四畳半にこもって彫刻イベントの助成事業申請書類最後のひと山の作文を完成させ、その後、松江に走り、幾つか用事を済ませて担当窓口へ書類を提出し、無事に受理していただき、また一つほど用事を済ませて急いでUターンして自宅へ着いて、慌ただしく急いでワイフに修繕してもらった改良衣に着替えて九教区総会へ移動。
三瓶山の山越えをして、開会予定時間ギリギリに到着して何食わぬ顔で出席。護持会役員の皆さんも比較的高齢者が目立つなぁ〜・・などとボォ〜ッと会場の雰囲気を見渡している間に会長以下丁寧なおはなしが延々と続き、それに引き続いて粛々と議事が進行し、時々承認の拍手が数回あって会議終了。
席を立ったところで呼び止められて「あんた今年から監事だけん、監査してもらわにゃいけんけぇ〜」と唐突なおはなし。「えっ??、それって何時に決まったことでしたっけ??」・・・前後の経緯がよく飲み込めないまま、ゴネてことわる理由もなく承知して監査日程を宗門手帳へ書込んで、配られた会議弁当を頂いて散会帰宅。

「正ちゃん・・・帰って早々だけど・・・栄泉寺さんがお亡くなりになったって・・」
ワイフから訃報を聞いた。
少し前に、病気が見つかって入院したがもう治る見込みがないそうだ・・という情報が、これもワイフ経由で入っていたのだが、あまりにも急なこと。
通夜密葬の日程を聞きとったものの、具体的な葬儀内容までの情報が入らないまま悶々と一晩を過ごすことになった。
栄泉寺のご住職は、私のようなチンピラ坊主とは訳の違う特派布教師の立派な方丈さんで、1年中日本全国を巡りながら布教活動をしていらっしゃった。
宗門開祖の道元さんが残された書物の研究や、地元地域に縁深い名僧高僧の古文書を読破されるなど、なかなかの勉強家であり仏教の研究者でもあった。島根のような田舎では、滅多に存在しない逸材の名僧だと思っていた。
もう10回を数える現代彫刻小品展も、初回から会場へ足をはこんでいただき、「専門外で分からんことですが、いやぁ〜、立派ですなぁ〜!こういう小さな町でこういう一流の彫刻が見られるということは幸せなことですよ!」などと、身に余る感想を頂いたりした。そういうご縁もあって、栄泉寺境内へ展覧会企画のワークショップで制作した都合3体の石彫を奉納させていただくことも出来た。facebookで近況を報告されたり、1カ月に1回ほど地元地方紙の日曜版へ1200字ほどの記事が掲載され続け、もう何年も続いていた。
私よりズッと若くてこれから島根の仏教界を引っ張っていただけるような方だと期待していたのに残念なことだ。
このところ、facebookにはあまり深く関係しないまま時が過ぎていたが、気がつかない間に静かにさり気なく栄泉寺さんのページや記事が消えていた。冥福を祈ります・・・

IMG_0563.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

ワイフの思い出 

2016/04/06
Wed. 00:11

まんざら異常気象のせいでもないような気がするようになってきた今日この頃・・・
東京はやたらと冷え込んで、冬物の一式を全て結界君へ置きっ放しにしてしまった吉田オヤジとしては、素肌に容赦なく突き刺さる太平洋側の冷たい寒さに打ち震えているところであります。

4月に入って入学式前のこの時期に、花冷えの頃とは云ってもあまりにも寒過ぎる一日が始まって終わった。
だいたい、私が何か事を構えて起こす時には雨や悪天候がつきまとって、そういうことは慣れていることなのだが、それにしても、小春日和にだらしなく慣らされてしまったオヤジとしてはなかなか厳しい銀座の一日を過ごすことになってしまった。

会場で受付けをしていると、やはり銀座の芸術レベルの高さを肌で感じる。
毎年のように銀座のギャラリーで個展などしている芸術家諸氏にとっては、こういう状況も普通のこととして気楽に過ぎているのだろうが、私のような田舎者の彫刻家としてはやはり田舎では味わうことの出来ない都会的芸術観のようなものをつぶさに感じて気が付けば緊張ばかりしてしまっている。

ギャラリーのクローズ間際に、ワイフの学生時代の同級生が訪ねてくれた。
ワイフは学生時代バスケットのクラブに入ってキャプテンで活躍していたから、その時の仲間の一人でもある。
そして私がまだ結婚する前のワイフと付き合っていた頃からのことだでもあって、そのiさんもよく知っている。
前回彼女と逢ったのはもう10年くらい前のことだったと思ってそういうことを云ったら、彼女はそんな昔のことではないと否定した。
お互いに失われた記憶をアレコレ探っていたら、結局、結論は前回のこの同じ趣旨のグループ展のオープニングの時に逢っている筈だということで決着した。
それでも、前回というと、もう5年以上は前のことになっていて、3月のお彼岸の時期にこのグループ展の会期が移動する前のことだから、その後万善寺のことで色々あった私にとっては10年にも匹敵するほどの遥か昔のことに思えてしまうのも仕方のないことだ。

とにかく、久しぶりの再会は嬉しかった。
予定では、会場クローズの後に吉田家長女のなっちゃんと逢うことになっていたから、そういう連絡もしながらiさんも一緒に新宿へ移動した。
新宿といえば私の青春のホームグランドといっても云い。
西口の中央公園から、ションベン横丁脇のガードをくぐって、歌舞伎町から要町の先の新宿二丁目あたりまで、とにかく連日のように徘徊していた処でもある。
そういうあたりを、ワイフの友達のiさんと一緒に歩いているということがなんとなく不思議な感じだった。あの頃と同じ風景は探すことも不可能なほど大きく様変わりした新宿の町を、なっちゃんの指示に従ってしばし彷徨っていると、あれほど冷えきっていた身体がいつの間にか温もって火照ってきた。

IMG_2157.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

倉敷の思い出 

2016/03/17
Thu. 21:44

ボクのことを愛してやまないワイフが帰ってまいりました!
やっぱり、オヤジの醸しだす芳醇で魅力的な男ホルモンは、結婚して30年以上経っった今でも彼女をトリコにしているようであります!

午前中から午後のティータイムに至るまで外せない用事があったので、それを過ぎてからワイフへ電話をしたら、寝ぼけた声で返事が返ってきた。
1周間前と変わらない感じで、ボクの四畳半のボクの書斎のボクのデスクワーク炬燵に潜り込んでボクの男くさい残り香に包まれながら昼寝をしていた。
やはり夜行の高速バスではあまり熟睡できなかったようだ。

少し前の事になるが、倉敷で久しぶりに再会した久保田くんのことを今になってまた、ちょっと思い出した。
彼は、現在凸版印刷のクリエイティブディレクターである。
そして、はるか数十年前の青春時代は浪人の苦楽をともにした仲間の一人でもある。
あまり酒が強い方ではなかったが、付き合いはすこぶるいい方であった。
浪人の悲哀を乗り越えて晴れて大学生になってからあとの彼は、色彩学の色占いなるものを習得して、その世界でみるみるのし上がった。
角砂糖にたかる蟻の如く、彼の色占い目当てに周辺のうら若き乙女どもが集まって、ハーレム状態になった。
もちろん、吉田はその彼と彼の周辺の事情を指をくわえてよだれを垂らしながら眺めていたムサ苦しい男どもの一人だったわけだ。
あまりにも悔しいから、或る日、彼の色占いをエサに吉田主催(今で言うところの)合コンを華々しく開催した。
「おんな」をエサにしたら久保田くんすぐにノッてきて、なかなかいい感じで盛り上がった。
そこで残念なのは、その時、その宴席に今のワイフがいたということ。
あの頃の吉田は本当はまだフリーだったはずなのに、せっかく汗水流して苦労して集めた女の子たちが久保田くんの色占いの話術で舞い上がってしまって、主催のはずの吉田は、酔っ払う隙もなく滅茶苦茶冷めてしまった・・・というところを、ワイフに目撃されてしまった。吉田の、甘くせつない古き好き青春時代の思い出の一コマである。

倉敷で久々に再会した折、ワイフと、こともあろうにキーポンもいる夕食会の席で、久保田くんがその思い出話を披露し始めて、一気にオヤジの酔が冷めた。
彼にとっては、数少ない吉田絡みの思い出話として記憶に残っていたのかもしれない。
それどころか、その後の展開で今も時折色占いをベースにした講演活動を展開しているらしい。
さすが凸版印刷の営業デザイナーだけのことはある。転んでもただでは起きないしたたかさがある。
田舎の山寺の和尚さんのぬるま湯につかってふんぞり返っていた吉田オヤジにはいい勉強になった・・・いろいろな意味でね・・・

IMG_1950.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

2019-03