工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

再開ー旅の空 その2 

2016/10/29
Sat. 22:24

不眠症というわけでもない。
その不眠症は、時間に拘束される「ある仕事」をリタイヤしてすぐに軽度の症状が出て苦労した後、ニートオヤジに慣れた頃には自然に治っていた。
最近は、吉田の日常生活が夜型に変わった関係で、真夜中になって覚醒するというバイオリズムが定着してしまったふうな症状と云っていいだろう。
9月から10月にかけて、とにかくやたらと夜に走った・・・といっても、ジョギングしたわけでもなんでもない。
ある時は、レンタカーで・・・
ある時は、ワイフの車で・・・
そしてまたある時は、ボクの相棒の結界くんで・・・
走行距離でいうと総計3000kmくらいは普通に走っていると思う。それでオヤジの身体が固まって、万善寺の仏事で固まって、それなりに精度を要する鉄板の溶接や溶断で固まって、とにかく、俗に云う運動不足に近い状態が長時間続いて、身体中の筋肉が退化した感じの上、ときおり思いついたように強烈ハードワークな力仕事がやって来るという、動いてもジッとしていても、それだけで肉体労働を強いられるという、いいかげんなジジイにとっては、過酷な2カ月が続いた。

そして・・・
本日は、松江の法類寺院の落慶とそれ関連の法要がスタートした。
だいたい、50人くらいのボォーさんが集まるほどの盛大な法要に、たぶん、その寺から島根県でいちばん遠くに位置する万善寺が随喜するには、山寺の和尚さんは本日早朝からスタートすることになった。
ワイフの朝食はスルーできない。
厚切りのトーストに、具だくさんのスープをかき込んで夜露に濡れた結界君をスタートさせた。おおよそ予定通りに新築の寺へ到着して、本堂裏の物置にあるコンセントを基地に決めて、撮影機材をセッティングしたのは10時を過ぎていた。それから法要準備が進む寺の内外の要所を撮影していると、今回の相棒撮影要因の方丈さん到着。
その後、法要定刻の少し前から続々と寺院参集。
それから後は、とにかくめまぐるしく予定された次第が粛々と過ぎていった。
全てが終わって、薬味たっぷりのうどんをかけつけ3杯いただいて人心地ついた。気がつくと、膝から下がパンパンに浮腫んで、足首など思うように動かないまでになっている。思い返せば、本日早朝以来、何かしら座っていたのは、メシを食べる時と結界君を運転している時とデジカメのJPGデータをボクのヨレヨレMacBookへ移動している時だけ。あとは、ひたすら立ちっぱなしの動きっぱなし。

松江一泊になるので用意していただいたホテルは、ボクの生涯で通り過ぎていく風景の如く縁の無いような一流ホテル(・・と言っても三つ星がどうこうは良くわからないけど・・たぶん、縁もないだろうけど・・)!
例の如くセブンイレブンで買い込んだおつまみと麦とホップで、疲れを癒しながら「とみやま彫刻フィールドアートワーク」の関係者に事務連絡をさせていただいております・・

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再開ー旅の空 

2016/10/29
Sat. 06:26

特にオフレコというわけでも無いのだろうが、こういうことは何かとデリケートなもろもろも無いわけでも無いだろうし・・・なんて、喉の奥に魚の骨でも刺さった感じの言い回しになってしまったが、とにかく、節目の時期というものを誤ると八方ややこしいことになりそうだからと思って、どちらかというと最近はその話題を避けていたようなところもあった。
やたらともったいぶった感じになってしまったが、ようは、万善寺と比較的縁の深い松江の同宗寺院の落慶法要が2日に渡って盛大に挙行されるということ。
総工費が推定2億円くらいかかっていそうな立派な本堂が完成して、その記念法要をするにあたって、関係寺院が参集してお手伝いをすることになるわけだが、私の役割は、式典全体の記録用写真係を当てていただいた。
膝が壊れて回復不能状態でもあるし、それで長時間の正座も難しいと思っていたから、丁度良い配役のような気もしたが、一方で延々ととめどなく続く内外の様子を遺漏無いように記録するという大役でもあって、少々緊張もしている。

昨日、記録写真でペアを任された松江市の吉祥寺さんへ事前の打ち合わせに出かけた。
松江で泊まり込みの随喜になるので、万善寺にあるいちばん見た目に上等そうな大衣や袈裟を探したり、謹上の書物や封筒を折ったりして準備した後、松江に向かった。
島根県の県境辺りから北上を始めると、途中から雨がしだいに強くなってきた。改良衣でいるから念のために黒傘を結界君へ用意したのだが、大正解だった。
グーグルマップを頼りに吉祥寺さんを目指したが、何せ通信制限がかかりっぱなしのiPhoneのことで、全く用をなさない。途中、松江の市内へ入ってから何度もハザード駐車して現在地を確認しながら、ほぼ予定通りの時間で到着した。
はじめての方丈さんで、山寺のナンチャッテチキン坊主は心臓ドキドキバクバクだったが、おかげさまでとても気さくで優しそうな方丈さん(見た目は・・・)だったので助かった。
春先に絶不調に陥った年代物のボクの愛機MacBook Proを開いて、方丈さんのデジカメの動作確認をしたり、式典での動線を打ち合わせたりして、あとは世間話に花が咲いた。
方丈さんは、永年勤務の職を辞してから、一念発起船舶免許を取得して、ほんの数年前まで松江城周遊堀川遊覧の船頭さんをしていらしたそうだ。自分で言うのも何だが、吉田もそれなりに変人坊主にくくられても言い訳できないような暮らしぶりだが、吉祥寺さんもなかなかの気骨坊主に思えて、不覚にも身勝手に親近感を覚えてしまった。
午前中のドタバタでコーヒーの禁断症状が出かかっていたところへ、タイムリーな奥さんの気遣いコーヒーをたっぷり飲むことが出来て、それで随分気持ちがシャンとした。
約1時間ほどがアッという間に過ぎて、吉祥寺さんをあとにして、そのまま先日お葬式をした施主さん宅へ移動した。
初七日のお経を読んで、ここでもなかなかおもしろい世間話に花が咲いて、珍しいどら焼きを食べることも出来た。
すでに夕闇が迫ってほとんど夜になった松江の街は雨の勢いが増して傘なしでは歩けないほどになっていた。帰りに途中の同宗寺院へ用事をすませた。
これから2日間緊張が続いたあと、一気にとみやま彫刻フィールドアートワークになる。

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携帯電話ストレスイライラ症候群 

2016/10/28
Fri. 05:55

久しぶりにラップトップを使っている。
島根県や吉田家をしばらく留守にしていたうえに、速度制限のかかったままのiPhoneしかデータ通信の手段がないままアチコチウロウロしていたら、そのうちそれも慣れてきて、特別こまめにメールやウエブニュースのチェックをしなくても平気になってきた。

思えば、上京して一人暮らしを始めたころなど、連絡の手段は街のアチコチに設置された公衆電話くらいのもので、はじめてアパートの自分の部屋に黒電話を引いたのは中野区南台へ引っ越してしばらくしてからのことだった。
あの頃は、だいたい電話が必要になるほどの仕事もしていないし、頻繁に電話をし合う程の親しい友人がいるわけでもないし、さしあたって特に急を要して必要に迫られていたわけでもなかったから、なんの不自由もなく電話無しで暮らしていた。
私の周辺諸氏の事情の成り行きで、大学へ通いながら高校の時間講師を引き受けることになって、校長先生との最初の面談のとき連絡先の電話番号を聞かれたことがきっかけで黒電話を引く羽目になってしまった。
その中野区南台のアパートは、一階が大家さん経営の酒屋さんで、店が空いている時は普通に10円玉何枚かで店の電話を使わせてもらっていたが、電話の取次まではなかなかしてもらえる環境でもなかった。「これこれこぉ〜で、電話がないといけないような状況になりまして・・・」と大家さんに相談したら、設置費用を自分で持つんだったら引き込み工事入れてもいいよと快諾を得た。
結構な額の投資になるし、そこまでしてどれだけその黒電話が活用されるんだろうと、まったく予測のつかないまま必要に迫られた電話設置だったが、さすがに目の前へ黒電話の現物が鎮座してマイデンワバンゴウなるものが出来ると、何かしら少し大人になって社会人になったような気になってウキウキしてしまう自分がいた。まずは勤務することになった学校の事務へ番号を伝えて、それが呼び水のように、一気にアチコチへマイデンワバンゴウが広まった。
どちらかというと、吉田の一人暮らしも若干便利になったようでもあったが、一方でそれまでの気楽な一人暮らしに若干の乱れが生じるようになった。留守中の着信音の苦情だ。「うちのほうじゃないんだけど、隣の・・ほら、中庭を挟んだ向かいのアパートがあるでしょ。その真向かいに住んでる人から電話うるさいって不動産屋通して苦情入ったのよ・・」
そんなこと言われても、自分が留守に鳴ってる電話の世話までは出来ないでしょう・・と思ったが、だからどうなるわけでもないし、苦肉の策で、出かける時は、押し入れの布団の中へ黒電話を突っ込んで当面を凌いだ。
古き良き時代のことだ。

最近、寺の一人暮らしが寂しくてしょうがない後期高齢者の母親から、私の都合など全く無視で、しょっちゅうiPhoneへ電話が入る。だいたいに出られないことのほうが多いから無視しておくとワイフの携帯へもかかるようになってきた。ここまでくると、便利とか不便とかの問題ではない。携帯電話ストレスイライラ症候群が、吉田家に蔓延してきた。病原はマイママである。

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旅暮らし 

2016/10/25
Tue. 20:57

先週末から、旅ぐらしが続いている。
10月に入って、ほとんど自宅で寝ることがない・・・ということは、万善寺の用事もないまま、彫刻絡みであちこちうろついているばかりということ。

飯南高原と石見銀山を行ったり来たりしているだけでも、自分の周辺のいろいろなものがあっちへ行ったりこっちへ行ったりしてとろけた脳みその記憶がオーバーフローして収集がつかなくなってしまった。それで今、最大の問題となっているのは、万善寺の大事な印鑑が見当たらなくなったこと。それに気づいたのが先週の初め頃で、それからあと今に至るまで自分の脳みそは常にカラカラと印鑑のことで回転し続けている。その上、幾つかの心当たりのところへすぐに出向いて探すことも出来ない旅ぐらしのままだから始末に負えない。

あまり気にもしないでiPhoneを使っていたら、知らない間に通信速度規制がかかってしまった。
ワイフが最新のiPhoneに機種変更した時に、家族みんなで使用するような契約に代えたと言っていたが、それが良かったのかどうなのか、その内容をあまりよく理解することもないまま使い倒していたら、あと半月も残っている時期から速度規制でとにかく使いづらくなった。キーポンが鳥取の地震で一次避難して帰省したときも、オヤジの速度規制のとばっちりで苦労しているようなことを言っていた。ワイフは携帯も不携帯状態だから特に気にしている様子もない。

彫刻の撤収と搬出が終わって、リニューアルされた高速バス乗り場まで移動した。
そのあたりは、東京のど真ん中でもあるから、公共のWi-Fiスポットだらけでバスが出発するまでの待ち合わせの時間に旅ぐらしで溜まったメールや諸連絡が簡単に出来るだろうと気楽にしていたら、使っているアドレスやパスワードが脆弱で危険だという通知が入ってそれから先にコトが進まない。しばらく、アレコレ工夫してみたが、インターネットにつながっても、世間のどうでもいいような情報が垂れ流れてくるだけで、自分の使っている書類のページまでたどり着けない有様・・
日頃から、日常の文房具のようにパソコンを使って暮らしはじめてもうかなりの時が過ぎた。光ケーブルも街道沿いに続くケーブル線が見えるだけで、それが我が家で使えてるわけでもない島根の田舎で、不自由なりにそれはそれとして都合よく使っているくらいのほうが今の自分には分相応のことなのかもしれない。何かしら不具合が起きると、吉田家のコーヒー一杯で付き合ってくれるケーブルテレビのメカニック兄さんがすぐ来てくれるし、とにかく、旅暮らしの不自由なことには心身ともに悩まされた。

あと少しで、大田市駅に列車が到着する。
今日はこれから富山へ直行する。
公開制作用の竹の切り出しと、会場へのパネル設置が主な仕事。
吉田家のネコチャンズはどうしているだろう・・・しばらくぶりのオヤジの顔を覚えていてくれるかなぁ~~・・

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二紀展終了! 

2016/10/25
Tue. 11:50

心優しき二紀会彫刻部野外メンバーのご協力をいただき、無事に(だと思うけど・・・)搬出作業を終了しました!
本当にメチャメチャ久しぶりに一人で搬出することになって、朝からどうも落ち着かない1日だった。
チャータートラックの運転手さんからお昼に電話が入った。
彫刻の撤収作業は14:30以降になるから、いやに早い到着で、それで余計に緊張が増した。
野外の彫刻展示会場には、いつもの見慣れた彫刻家たちもちらほら確認できる。
東京を中心にした関東圏の作家は、今日の搬出撤収作業要因で大勢出かけてくれている。
彼らのおかげがあるから、島根の出品者メンバーも手分けして代表が一人くらい立ち会うだけでなんとか撤収や搬出が出来ているわけで、やはり、こういう大事な一日は出品作家一人ひとり自分の目で確認して自分も一緒になって汗を流す経験もした方がいいと強く感じた。

落ち着かないままベンチへ座っていると、埼玉の本多さんが隣へ座ってくれた。
彼とはもう随分長い付き合いになる。
今年が70回の記念展だったから、私の出品歴もそろそろ30年を過ぎたくらいのはずだ。彼は、その頃から多分一緒に出品していたような気がする。
最初はワイフのお供で搬入や搬出の手伝いをしていたのだが、結婚して島根に帰ってからはワイフが造った彫刻を小荷物に梱包したりして手伝ってけっこう大変な思いをしていた。どうせ苦労するなら自分もワイフと一緒に彫刻を造ってみようかと思うようになって、その後吉田家の二人が一緒になってそれぞれ自分の彫刻制作をして搬入して陳列して搬出することをした。
当時は、島根県から二紀会へ彫刻を出品していたのは、吉田家の二人だけだった。
今では、年によって流動的ではあるが、それでも10人近くのメンバーが共同で搬入出をするまでになった。
毎年同じようにやってくる秋のこの時期の展覧会は1年間のスケジュールに組み込まれているから、気持ちの切り替えや体調の管理などをしながらそれぞれの作家がそれぞれに制作を続けている。それでも、結局は1年に1点の彫刻を造ることがやっとだったりして忙しくしている人もいるし、彫刻も継続するにはなかなか厳しい世界である。

まだ上野の都立美術館へ彫刻を陳列していた初期の頃の私は、どうも指定の安定した場所が定まらないで、毎年のようにアチコチ展示場所を移動していたから、なかなか親しく会話できる作家が見つからなかった。今にして思えば、それもいい勉強になっていた。自分の彫刻の力量が不安定だから、展示の場所も決まらないでいるようなことだったのかもしれない。
それまで世間話程度だった本多さんと親しく話せるようになったのは、野外の展示会場で彫刻が安定し始めた頃からだったような気がする。
田舎者の、一年に1・2回しか展覧会の仕事もしないナマケモノの吉田へ親しく声をかけてくれるだけで気持ちが楽になる。

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同窓会in大阪 

2016/10/24
Mon. 11:15

先週末は来島中学校の学年同窓会で大阪だった。
来島中学校は、確か私が学生で東京にいる頃、隣の赤名中学校と統合して現在の場所へ移動した。
当時の中学校は、木造2階建ての校舎で、職員玄関を入ると、広いたたきの土間があって、左側すぐに事務室を兼ねた職員室、右側に幅広の踊り場でL字に曲がった階段があった。一学年が最低80人はいたから、250人規模の学校だった。
中学校のすぐとなりには、高校と小学校があって、小中学校のグランドを全部使って町民体育大会をする時は、地域の住民が一斉に集まってくるし、出店も開店してとにかく賑やかで活気があったが、今はその校舎も無くなって当時の面影はない。
中学校を卒業すると、隣りにある高校へ相当倍率の受験を勝ち抜いて周辺の3つの中学校を卒業した生徒が入学する。
当時は、まだ中学校卒業で都会へ就職する生徒がいた。それに、進路指導や保護者面談を繰り返して、島根県内の大きな普通高校や実業高校へ受験を振り分けることでそれぞれの中学校が地元高校への進学率100%を死守していた。私はすでに寺の息子で、自分の意志関係なく両親から「お前はこの寺の住職になるんだから・・」と事あるごとに呪文や真言陀羅尼のように繰り返し洗脳されていたから、進路希望で自分の意志を聞かれることが無いまま、主役不在の高校受験をした。浄土真宗の跡継ぎも同学年にいたから、彼も私と似たような条件で志望校が決まった。将来坊主になって地元へ帰ることがわかっているから、少々遠くの高校でも受験させておけば地元の高校が入学しやすくなる・・・くらいの認識で学校と保護者が決めた高校受験だったと思う。
商家の子は商業高校で、農家の子は農林高校で、大工さんや自転車屋さんの子は工業高校で、寺の子は普通高校といった具合で、中学校を卒業した同級生は島根県内へ散らばっていった。
それぞれの進路へ別れて、高校を卒業した頃から、なんとなく近場の同級生が盆正月に集まるようになった。就職して社会人になって日本各地へ散らばってしまうと、それからあとは、誰かが本気で同級生をまとめるようなことでもしない限り、結局散り散りバラバラに収集がつかなくなって同窓会の案内をすることもできなくなる。私の学年は、運良くそういうマメな事務屋が何人かいたから、たとえば10年の節目同窓会とか、たとえば同窓生名簿の作成とか、連絡網が比較的活発に機能していた。私も、根無し草でアチコチブラブラしていたのが落ち着いてくると、幹事団の誘いに同席するようになって今に至っている。
世間では、早い者は定年を迎えて退職する年齢になって年金暮らしに入るようになったから、ここらでひとつけじめの同窓会をしようということになって、いきおい大阪グループが動き始めた。島根の山奥で暮らし続けている地元組が多数を占めるものの、一方で、東京や大阪に定住した連中も多いし、嫁に行ったおばちゃん連中は、嫁ぎ先の事情も色々あるだろうからということで、ほぼ中間地点の大阪集合となった次第。
早朝にチャーターバスで島根組が出発して、お昼過ぎに大阪入りして若干観光した後、大阪組が用意した会場へ到着。その後は、とにかく盛り上がりっぱなしで一次会が終了。そこで若干解散組が去って、残留組は二次会から三次会。私はもちろん、最後の最後までキッチリ勤め上げて、翌朝大阪から東京へ移動して、これから彫刻搬出作業であります!

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ゆれた! 

2016/10/21
Fri. 23:10

本日も、ヨレヨレオヤジにとっては過酷な1日でありました・・・
松江でのお葬式の前に、前から約束をしていた百ヶ日の法事があったので、石見銀山の自宅を早朝に出発した。だいたいこんな時は万善寺で一泊すれば楽なのだが、とみやまの彫刻イベントの事務処理もあったりしてなかなかすんなりといかないところがある。昨夜も、少しほど仮眠して真夜中からゴソゴソと起き出した。ちょうど、不眠症気味だったりしているから都合がいいところもあるが、やはり移動が多くて結界君を運転している時は眠気が襲ってきてつらいこともある。
飯南高原から松江へ移動していたら、国道がアチコチで工事中。葬儀開始の時間に間に合いそうにないから松江道から山陰道へ乗った。さすがにど田舎の島根県も松江あたりまで行くと通勤ラッシュらしきものがあったりして、あなどれない。おみそれしました。

荼毘を終わって斎膳についてしばらく喪主さんと歓談していたら、斎場のホールがグラリと大きく揺れ始めた!最近珍しいほどの大きな地震だ。葬儀参列の皆さんの携帯電話が一斉にけたたましく鳴り始めた。喪主さんは目が不自由なのでキララちゃんという盲導犬が寄り添っている。その犬が、揺れているテーブルの下でピクリともしないでのんびり寝ているから、この地震も大したことないだろうと予測してしぶとく弁当膳を食べ続けた。「松江震度4だって!」だれかが早速情報を収集していた。「震源地鳥取の方らしいよ」とか、「倉吉が震度6あったらしい」とか、次々に情報が斎膳の席に伝わる。
「キーポン大丈夫かな?」彼女は倉吉で暮らしているから少し心配になった。
それからしばらくして、喪主さんへ挨拶して斎場の駐車場へ出ながら携帯電話を確認すると、やたらとたくさん着信が溜まっている。
一つは、ワークショップの参加予約の電話だった。
一つは、徳島の彫刻家からの着信だったので、仕事の打ち合わせでもあったのかと返信したら、地震の心配だった。
一つは、キーポンからだった。ちょうどとんこつラーメンを食べている最中で、スープがカバンに溢れて臭くてしょうがないと愚痴をこぼしていた。すごい揺れで、お店の器が割れて散乱して大変だったらしいが、カバンの心配をするくらいだから本人は無事だった。
一つは、なっちゃんからだった。何かの報道番組で知って電話してきた。
他にも、メールが来たりメッセージが届いたり、友達の少ない吉田をこんなにも沢山の知人が心配してくれていて、斎場の駐車場でしばし電話を眺めつつ思わずウルッときそうになったが、喪主さんがキララちゃんを連れてお見送りをしていらっしゃるので、さりげなく微笑みを返して結界君をスタートさせた。
寺の用事で、松江のK寺さんへ電話したら、地震の関係で全く通じない。それから4時間位過ぎた夕方になってやっと通じた。
そのご住職、なんと震源地のすぐ近くで用をしていらしたらしい。「もう、すごかったですわぁ〜、生きた心地しませんでしたわぁ〜、人生で初めてですわぁ〜、いやぁ〜すごいのなんの・・」
鳥取の倉吉辺りはかなりの被害が出ているようだ。
これから週末だし、キーポンは急きょ石見銀山へ避難することに決めたようだ。
夜になって帰宅した私と入れ替わって、少し前にワイフがキーポンを迎えに出かけた。

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眠れない夜 

2016/10/21
Fri. 03:02

最近、朝夕が少し寒くなってきたかなと思うようになったが、それでも少し動くとすぐに汗ばんでくる。そろそろ10月も終盤に差し掛かっているこの時期に、昼間は半袖でいても何の問題もなく過ごせている。

落ち着いてデスクワークが出来ないまま午前中を石見銀山に居た。
大工の棟梁が気を利かせて、最近慌ただしく過ごしている吉田の日常にピタリと自分のスケジュールを合わせてくれた。
棟梁の仕事場は石見銀山の町並みから少し離れたところを走るバイパス道の脇にある。そこは携帯各社の電波の谷になっていて、こちらの用事で電話をしてもほぼ100%通じることがない。それでも、着信履歴を残しておいたら適度なタイムラグを挟んで用が済んでしまう。長い経験値のなかで絶妙な棟梁ペースが出来上がっているのだろう。
確かに、自分の仕事中に都合を無視した容赦ない電話が入ったりすると、途端に集中力が切れて仕事の手順が乱れたりすることも多々経験しているから、「何の用事だったかナ?」と、それこそ自分の都合で電話を返してくるあたりの棟梁の仕事ぶりは、ある意味理にかなっているのかもしれない。

私の彫刻絡みのプロジェクトには、棟梁の存在を欠かすことが出来ない。
石見銀山に移り住んで20年を過ぎたが、その間に、少しずつ自分の周辺の付き合いが整理されて、それなりの信頼関係が出来上がって今に続いている付き合いはそう多くない。周辺に暮らす彫刻仲間でも、それぞれ自分の暮らしがあるからどこかしら遠慮しているところもあって付き合いにくかったりしているから棟梁は別格の存在になる。

万善寺の都合が優先になった何年も前から、思いついては立ち消えしていたギャラリーが、棟梁の手早い仕事ぶりで再稼働しつつある。
大工仕事のノイズを聞きながら、戒名を考えて決めたりセッセと墨をすって七日塔婆や白木位牌などの葬儀用仏具一式を午前中いっぱいで書き上げたりした。
先日の早朝電話からスタートした葬儀の日程が固まって、昨夜が通夜だった。斎場まで片道1時間半の距離を往復する事になったのだが、数か月前から決まっていた万善寺近所の施主家墓石点眼もあったから、結局島根県の中央から東をぐるりと一周りする格好になって、帰宅したのが夜の10時近かった。
夕食とも夜食とも酒のつまみともいえるような、なんとも曖昧な食事を終わって書斎へ引き上げたらもう午前0時近くなっていた。明日は葬儀があって荼毘があって初七日法要も引き続くことになるから結局それだけで1日仕事になる
何事もなければ、富山地内で公開制作用の竹を切り出す一日を予定していた。
ワイフに代行を頼んで、富山のセンター長さんへことわりの電話を入れて凌ぐしか無い。

一晩寝たら、またまた早朝に自宅を出発して大阪へ向かう。
彫刻の搬出がその直後だから、大阪から東京へ直行することになる。
2・3時間寝たら、すぐに目が覚めて、色々なことが真夜中の脳みそを刺激する。
クロが鳴きながら夜の吉田家を巡回し始めて、私の足元を通り過ぎた。ヒンヤリとした夜気が揺れた。

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2日間に渡って市役所へ日参して大田市内全域へ「とみやま彫刻フィールドアートワーク」の回覧配布集配作業をした。
今週末には、市内の各地で回覧板が回り始めることになるだろう。
行政からの地域広報作業がどれだけ面倒なことか、こういう時によく分かる。前回の奥出雲町でも同じような配布集配作業をしてきた。行政区が変わると、作業内容もかなり大きく変わって、行く先々で前例が通用しないので何かと混乱してややこしい。

吉田が貧乏事業を足で稼いでやりくりしている手段の一つに「後援」の獲得がある。
後援申請くらいだと、紙数枚の作文でほとんど許可が下りる程度の気楽な事務処理なのだが、これが通過しないと関係施設の利用や使用規定などで厄介なことになって無駄に予算を食いつぶしてしまう。反面、こういう面倒なやり取りでひと汗流すのも時間の無駄になっていたりする。ようするに、「時間を取るか金を取るか」の二者択一であって、彫刻絡みの企画など、寝食忘れて日夜動き回ってナンボのもんだから、自分では悶々としつつ、無駄を受け入れながら粛々と用をこなすしか無いところもでもある。

大田市の場合は、回覧配布のみで約2000枚を印刷した。これが戸別配布となると途端に印刷枚数が増えるから、広報衆知もそれぞれの地域事情で難しい選択を迫られている。
とにかく、何かと失敗を繰り返したものの、一応行政総務のクレームを乗り越えてひと仕事を終わらせることが出来たわけだが、それにしても、どう考えてもやたらと無駄が多い回覧配布になっている。たぶん、遠い過去からの習慣が定着して今に至っているのだろうが、たった1枚の回覧配布にA4封筒とそれに添付する用紙の印刷とそれを貼るテープやノリ代までを自腹で乗り切ることになる。それが例えば、100枚の回覧を封筒一つに入れるとなると、若干のお得感はあるが、たった1枚の回覧でここまでの作業をする必要があるのだろうか、ケチ臭い疑問が湧き出してしまった。
昔々、大田市の人口も今の数倍あるいは数十倍であった頃を思うと、今のシステムもそれなりに機能していたのかもしれない。まぁ、行政職員でも月給取りでも何でもない、必死で日銭を稼いでいる程度のただのフリーターオヤジが考えていることなど、世間ではまったく通用しないことなのだろう。
無駄に印刷のゴミを増やしてばかりの配布集配作業だったが、もし来年があるなら今度はミスのないようにキッチリと全てをやりくりしようと心に決めて市役所をあとにした。

夕方につけて、会場の旧富山小学校で展示作業を続けた。
1階の教室には、「現代の彫刻家たち展〜石と鉄の彫刻室〜」と題した教室展の会場を設営した。ほぼ全体が整ったところで、ケーブルテレビ用の広報写真を撮ったりした。そうこうしていたら、個展をすることになっているノリちゃんが教室の寸法を測りに来た。これから2週間位で個展の準備や設営に入るようだ。私が個展を計画する時は、だいたい遅くても1年前には準備をスタートさせている。長くなると計画から交渉まで5年以上かかっていたりすることもある。長ければいいとか、時間を使えばいいとかいうだけのものでもないが、それにしても2週間程度で個展を仕立てるとはなかなかのものだと感心する。ノリちゃんがどんな個展をするのか、今から楽しみだ。

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そろそろ終了・・旅の空 

2016/10/18
Tue. 23:50

少し前のことになるが、東京帰りにとみやま関連の印刷物を受け取ってから、ワイフを石見銀山の自宅へ送り届けて、そのまま島根の西へ走った。
久しぶりに浜田世界こども美術館へおじゃまして、ポスターの掲示をお願いしてチラシも少しほど預けておいた。館長さんはあいにく留守だったが、こども美術館とはもうかれこれ5年以上の付き合いになるから職員のみなさんも私の顔を覚えてくれていて話が早い。

島根から共同搬入で彫刻を出品したノリちゃんが、二紀会の準会員に推挙された。その授賞式が週末にあって東京の六本木まで出かけることになるから、出来上がったチラシを彫刻関係者へ手渡してもらおうと彼女に連絡したら、都合よくその日は浜田に行っていて、帰りの何処か都合のいところで待ち合わせすることにした。

江津で暮らしている根付彫刻作家の田中さんには今年もワークショップでお世話になるから、そちらへもポスターなどを届けておいた。彼は、この時期展覧会の関係で東京へ出かけているはずだと思いつつ訪問したら、案の定、自宅兼工房はシッカリ施錠されていた。ポストに投げ込んでおいたら、きっと気がついてくれるだろうからそうしておいた。

江津というと、今年の春からお世話になっているキリスト教系の高校があるので、そちらへの用事も兼ねてとみやまの宣伝営業をしておいた。事務のお姉さんや美術担当の先生と立ち話をしていたら校長先生も現れたので、改めて訪問の趣旨を伝えておいた。

大田市内へ帰ってから地元のケーブルテレビさんへもポスター掲示や告知放送の依頼をしておいた。まぁ、そんな感じで半日ほどあちこちうろついて帰宅すると旅の疲れがドット出てきた。外交の間はそれなりに緊張感も持続しているが、やはり身体のアチコチに旅の疲れが溜まっているようで、気持ちの緊張感が取れると肉体の疲労が具体的な痛みになって現れてくる。

だいたいに、毎年10月はあわただしく過ぎていくが、今年はとにかくやたらと忙しく感じる。
たぶん、万善寺の不定期な用事が突然に飛び込んでいるからだろう。
お檀家さんの数も少ないし、1年間を均すと、まったく仏事の用事が無いまま一ヶ月を過ごすことも多いのだが、何かの拍子で法事の依頼などが入ると、不思議なほどそういうことがアチコチからやってきて重なってくる。
日の出が遅くなった早朝の、まだ石見銀山の町並みが静かな頃、枕元に置いてある携帯が鳴り始めた。こういう時間に電話が鳴るとあまり良い知らせではない。案の定、お檀家さんからご親族の訃報の知らせだった。
日頃自堕落にノラリと暮らしている私が、ときおり思いついて彫刻のアレコレでドタバタ忙しくし始めると、それを狙っていたように仏事が舞い込んでくる。それはそれで、万善寺を必要としていただいているわけだからありがたいことでもあるし、この10月の旅の空を思うと、六本木やら徳島やら倉敷やら、そんな県外の空の下でいる時に万善寺仏事が重ならなかっただけでもありがたいことだと思っている。

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旅の空・・その5 

2016/10/18
Tue. 04:57

10月の9日早朝に石見銀山を出発してから、約1週間で走行距離がかるく2000キロを超えた。
昼となく夜となく、ひたすら車を走らせては何処かで小休止し、また走らせては何処かで仮眠し、起きている間は彫刻がらみの用事を済ませたり、飲み食いが続いたり・・・というなんとも不規則な暮らしが続いていた。
昨日から、やっとしばらくぶりに自宅で寝るようになったが、夜中の2時とか3時とかに目が覚めて、身体は疲れているのに神経が高ぶって眠れなくなってしまう。
万善寺の用事も時々入って、それで予定がずれたりしてとにかく何かしら落ち着かない。

東京から一度帰宅して、それからすぐに徳島へ出かけた。
私は昨年に続いて2年目の野外彫刻展へ出品させてもらったが、ワイフは初出品となる。
彼女は作家歴は長いが野外彫刻に慣れていないところもあって、彫刻の制作方法がまだ安定していない。
徳島の野外彫刻展は、搬入展示から搬出までの会期が約1ヶ月ほどあるから、その間に彫刻の時間変化がどのようになっているか確認も兼ねてワイフを連れ出した。
今年は、会期が始まって以来、今までに2つの大きな台風が通り過ぎた。
私の彫刻は、竜巻でもやってこない限りピクリとも動かないようにきっちり固定しておいたから心配することもないが、ワイフの方は、彫刻の素材も含めてそれほど頑強なものでもないから、台風の暴風雨にどれだけ耐えられたか心配だった。
それに、彫刻展へ出品の作家作品も現場で見ておきたかった。

会場の徳島中央公園は、天守閣の無い平城だったところをそのまま公園にしたものだそうで、昔は周囲に大規模なお堀が巡っていたが、今のJRの前身の国鉄の頃、そのお堀の一部を埋め立てて鉄道を敷いて徳島駅が出来たのだそうだ。公園は、その徳島駅のすぐとなりに開けていて、市民の憩いの場にもなっている。やはり、昔から続く土地の魅力もあるのか、庶民に対して敷居の低い開放感が感じられる。それに、様々な古木が茂り、マメに手入れされ、花壇などの植栽が充実して、なにより敷地に垣根がなくて境界がないところが開放的でいい。

私の昨年の彫刻は、現在徳島の個人宅に移動して置かれてある。
当主はすでに90歳を超えるご高齢だが、腰も伸びてかくしゃくとしていらっしゃる。ネパールとの友好親善の用もしていらっしゃるようで、年に何回かは諸外国へ出かけて用を済ましていらっしゃる。書家でもあるらしい奥様もお元気で、夫婦がとても仲睦まじい。吉田家夫婦も、こんな感じで歳を重ねられると良いなと思ったが、さて、ワイフはどう感じたのだろう。
帰りは、富山の公開制作でお世話になる草月のお姉様に合った。ちょうど倉敷駅の北側に広がる公園へ野外展示の作品設置が終わったところだったので、短時間だったが打ち合わせもできて助かった。
徳島といい、倉敷といい、野外の公共施設が文化事業にとても有効活用されている。
島根ではどこまでひろく野外施設が文化活動に開放できているのだろう・・・

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まだまだつづく・・・旅の空その4 

2016/10/17
Mon. 20:08

「おはよぉ〜〜・・・ところで、今日何曜日だっけ?」
「月曜日でしょ!午後から◯◯の日だから、午前中しかいないから・・」

東京から石見銀山へ帰って、そのあと徳島の野外彫刻展会場を訪問して、帰りに倉敷で草月の師範さんととみやまの公開野外オブジェの打ち合わせをする予定にしていた。
まるまる1日までは休息できないまでも、ほぼ半日以上は吉田家でのんびり出来るはずだった。
しばらく「旅の空」が続いて留守にしていたから、ポストが新聞と郵便物で溢れかえっていた。
「出る前に、新聞止めておくように◯◯君に言っておいたのにぃ〜〜」
彼は、「ハイハイ!」と返事をしていたらしいが、そのことが全く脳みそに記憶されていなかったようだ。

その、新聞紙に埋もれた郵便物の中から、吉田家へ転送された万善寺檀家さんの封筒が紛れていた。宛名のヌシは、すでに90歳を過ぎてまだまだ元気なおじいさんだった。彼の少年時代は万善寺先代の憲正さんと遊び友達で、先々代住職からしょっちゅう一緒に叱られていたらしい。今は松江の方へ家を建ててそちらで暮らしていらっしゃるが、数年のうちに五月雨である法事の時は、少年時代を過ごした保賀の地内へある万善寺で法事をするのが楽しみだということだ。
手紙には「今度15日は、午後の2時頃にお邪魔しますので、33回忌の法事をよろしくお願いします」といった趣旨のことが懇切丁寧に書きしたためてある。
「アレレ???」
どうも、私には、そのような法事を引き受けた記憶がない・・・
宗門の手帳にもメモがない・・・・
年回のお知らせをひっくり返して、何回か届いているその施主さんからの手紙も読み直して、過去の時間軸を組み立てていたら、施主さんから問い合わせがあった法事の予定日を幾つか書き出した私からの返信に「今だったらこの日があいてますよ!」という内容の月日を記載した手紙があって、そのひとつに「現在、15日と16日は終日あいてます」が書き込まれてあった。返事を返したのが8月のお盆前のことで、その後、何の返事もないから、次々スケジュールを入れていたら、この度の手紙になった次第。
どうにもこうにも、仏事のからむこればかりは、施主さんの都合で物事が進んでしまうから、対案とか選択肢とか全く機能しないことになってしまう。結局、当初予定のスケジュールに無理やり法事をはめ込んで石見銀山と飯南高原を駆け回って、おまけにワイフにも色々迷惑をかけて、大騒ぎの半日となってしまった。

さすがに、その法事は自分の体力を一気に奪ってしまった。
法事でお経の時間より、終わったあとの思い出話が長いくらいになってしまうから、お経が済んだら91歳の私の母親へ全てを任せて、ワイフと待ち合わせの場所へ結界君をすっ飛ばした。
徳島まで移動すること約4時間。久しぶりに高速道路の追い越し車線を走り通した。

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旅の空・・その3 

2016/10/15
Sat. 03:37

ワイフの車へ荷物を積み込んで東京を出発したのはお昼を少し回った頃だった。
これから半日と少しほど時間をかけて島根の石見銀山まで移動する。
ルートは、東名ー名神を走って京都から下道。
途中、倉吉でキーポンへ冬シーズン用のシュラフを届け、ついでに東京からのお土産を手渡す。
その時間から逆算して、名神高速へ入ってから幾つかのサービスエリヤで仮眠しながら西走したが、流石に夜の国道9号は信号の障害も少なくてずいぶん早く倉吉へ到着してしまった。
路上で2時間ほど仮眠して7時前にキーポンへ電話したが、まだ爆睡中で目が冷めない。それからしばらくして、やっと返事が返ってきた。
「こんな時間に早すぎるでしょ・・・」
まだ半分くらい寝ているふうのキーポンが、それでもニコニコしながら出迎えてくれた。
ほんの2・3分の立ち話で別れて、米子から境港へ向かった。
東京へ出発する前に、丹波篠山から黒豆の枝豆が届いていたから、そのお返しを目当てに境港で海のものを色々と調達した。兵庫県は、日本海と瀬戸内に挟まれているような県だが、篠山はだいたい真ん中あたりの山の中だから、お返しは海のものが良いだろうということだ。
それから、中海の北側を走って松江を通過して宍道湖の北側を走って印刷屋さんを目指した。富山町での彫刻イベントのポスターなどが刷り上がっている頃だ。
いつもの営業のお兄さんへ電話したら、オペレーターのお兄さんが出てきた。
「お兄さん」といっても、私から見てのことで、世間の目で見るとすでに立派なオヤジだけど、それでもそれなりにまだ十分に若い。島根県の印刷業界も都市部の安い印刷に仕事を持っていかれることも多いだろうから、経営もなかなか厳しいだろうに・・・私の、わがまま放題のめんどくさくてケチな印刷依頼を、嫌な顔もしないでもうずいぶん長い間引き受けてくれている。チラシはゼット折りをお願いしていて、それが若干手こずったようで、受取りまで少し待った。
久しぶりの石見銀山まであと少し・・・もう、出雲まで帰ったら先が見ているから気楽だが、自宅の駐車場までは気が抜けない。山陰道の高架橋工事の進み具合を横目で見ながら大田市に入る前の最後の峠を登った。
助手席でワイフが、ネコチャンズの心配をしはじめた。彼らにとっては、はじめての1週間近いお留守番になる。
玄関の鍵を開けて土間に入ったら、しばらく空気が動かないままの吉田家がなんとなくかび臭くなっていた。
ネコチャンズを呼んでも、コトリとも音がしない。いつも居そうなところを探し回ったら、キーポンが帰省した時に使っているベットの布団の上で寄り添って丸くなっていた。しばらくぶりに見る私に向かって、2匹とも大あくびを繰り返す。少し遅れて土間へ入ったワイフが声をかけたら、フギャフギャ甘え鳴きしながらすっ飛んでいった。あいつら、完全にオヤジを無視している。
オヤジの四畳半に広げてあったオヤジのシュラフの真ん中でクロが食べすぎた猫飯を吐いていた。もう水分も無くなってほぼ乾いていた。

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旅の空・・その2 

2016/10/13
Thu. 10:48

彫刻の陳列作業が無事に終わって、二紀展が始まった。
今年は、70回の節目を迎える記念展であったから、出品者はみんなはりきって、どの彫刻も力作揃いだった。

彫刻家吉田正純の鉄の彫刻は、制作中の幾つかの障害を乗り越えて見た目にはそういう痕跡も残さず見事にサビて野外会場の定位置へさり気なく落ち着いた。
自分の贔屓目かもしれなが、このところ年々いい感じになっていて、今のテーマにして数年前にスタートさせた連作のシリーズもなかなか面白い展開を見せるようになってきた。
自分の彫刻については、それをかたちに制作することでその時々の色々な思いを表現しているから、それをわざわざ別の表現手段にかえて伝えるのもどうかと思うので、よっぽどしつこく問いかけられない限り、制作の背景を自分の方からペラペラ語ることはしない。今までもそのノリで過ぎているから、これからも当分の間それほど多くを語ることもないだろう。

この近年は、自分でも気がついて自覚できるほど体力が落ちた。
だから彫刻はそれなりに出来ることを出来るように工夫していかないと、一定の安定した造形感を維持することは難しい。
島根のような田舎で細々と制作している周辺の彫刻家も、私と一緒になって必ず1年毎に歳を重ねているわけで、彫刻に対する心身の調整が少しでも狂ってしまうと、とたんに制作の意欲が失せたり組織(たとえば二紀会とか・・)への帰属意識が希薄になったりして彫刻の完成度が下がったり、時には、彫刻の制作そのものをリタイヤすることにもなってしまう。
一人の彫刻家の離脱は、周囲の彫刻家にとって色々な場面で大きな打撃になる。
制作そのものは個人の造形の追求であり表現であるから、お互いにそれぞれの彫刻感を尊重することは当然のことだが、やはり、造形上の完成度や表現の方向性や制作の技法技術の追求といった基礎基本は向上心や向学心の継続がされないと、制作者はタダの自己満足の世界にハマってしまってそれで固まって、それからあとは取り付く島も無くなって、そういう状態になると、結局は付かず離れず一定の距離をおいた作家付き合いしかできないことになる。

だいたいに、彫刻の制作などというものは、始めから終わりまで個人の出来事であって、そういう個人が組織だって何かしようとなると、それだけでなかなかに意思の疎通が難しくて、そういうことでドタバタとなってグッタリ疲れ切ってしまう。
私など、今までさんざん自由気ままに自分の思うようにしてきた。それでも、田舎暮らしの一人の彫刻家としては、ある程度の組織だった動きも個々人の制作の継続には大事なことだと思っている。
島根からの共同搬入出も、組織的に行動できていることでそれに参加するそれぞれの彫刻家は随分助かっていることもあるはずだ。今年は、個人の事情が幾つか同時に重なって、共同搬入出に3名が欠席となった。心身の安定と融通の効くスケジュール管理は彫刻の制作に欠かせない大事な要素の一つだと思っている。

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東京家族 

2016/10/12
Wed. 11:08

JR中央線、西荻窪南口の商店街を抜けたあたりにRe:gendoという雑貨とお食事の店がある。
その店は、実は石見銀山の町並みにある群言堂の系列店で、町家を改装してそういう店にするときは、島根県の石見銀山や周辺の工務店が東京まで出張して、島根の各所から集めた古材を再利用して現在の店に再生させた。
吉田家長女のなっちゃんは、群言堂と縁があって関西の方で働いたあと、東京の八王子へ転居して高尾で働くようになった。その後巡り巡って今は石見銀山に本店がある群言堂の東京事務所で営業の仕事をしている。

彫刻の展覧会が六本木でスタートするので、その展示作業にワイフと二人で上京した。
もともとワイフは、東京生まれの東京育ちで私と結婚するまで一人暮らしの経験がなかった。
今、里帰りも兼ねてその実家へお世話になっているのだが、せっかくだから吉田家の家族で食事をしようということになって、なっちゃんが西荻窪のその店を予約してくれた。
最初、ワイフのお母さんは強硬に会食参加を断っていたが、娘や孫の説得があって、東京暮らし(なっちゃん夫婦は埼玉だけど・・)のみんなが集まった。

お昼の食事は秋刀魚か鳥肉を選ぶことが出来るというので、それらを分け合って注文してくれた。
食材も凝っていて量もボリュームがあって、なかなか旨くて結構満腹になった。
私とノッチとなっちゃんの旦那は生ビールを飲んだ。これもなかなか旨かった。
これだけ大人数の家族が外で集まって会食をするなどこの数年無かったことだ。

ワイフの家族も、万善寺の吉田家も、外で食事をする習慣が殆ど無かった。
両家とも、それなりに慎ましく暮らしていたのだろうが、私はその反動もあってか、一人暮らしをはじめて、少しずつ社会の様子がわかるようになってからあと、一気にジャンクフードが好きになった。マクドナルドのハンバーガーをはじめて食べたのが19歳になったばかりの頃だった。新宿通りにある新宿三越の隣にあった店で最初に注文したときはドキドキして声が震えていたような気がする。吉野家の牛丼をはじめて食べたのも19歳のときだった。カウンターだけの食堂にもならないようなお店でこんな旨いメシが食べられるのかと感動して、それからしばらくは1週間に3日くらいは吉野家へ通い、3日位はマクドナルドへ通った。そんな贅沢をしていたら、みるみる生活費がなくなって、それで5月の連休が終わった頃から新宿三越の裏通りにある3階建の喫茶店ビルでアルバイトを始めた。そこだったら、休憩時間が15分くらいあれば、マクドナルドでも吉野家でもどちらもすぐ近くだから都合が良かったわけだ。

家族で食事をして、西荻窪の改札の前で3方向に別れた。ワイフと義母は新宿へお買い物。なっちゃん夫婦は埼玉へ帰った。私とノッチは、2次会で焼き鳥。島根の山奥の田舎暮らしでは、とても想像できない家族の付き合いだ。万善寺にしがみついて暮らしている母親は、こういう家族の世界もあるのだということを知らないまま死ぬのだろう。

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旅の空・・その1 

2016/10/10
Mon. 19:46

早朝4時に石見銀山を出発して東京のワイフの実家へ到着したのが20時30分。
移動が連休にぶつかっているから、東名でも中央道でも関東圏の夕方は混んでいるだろうなぁと予測して、それでも少しはマシだろうと考えたことと、どうせ混雑するならのんびりと絶景の山々を眺めながらノロノロ走るのもいいだろうと中央道を選択した。夕方には山梨県へ入って逆光の富士山も黒々と雄大なアウトラインを見せてくれた。情報では大月から東は渋滞になっているということだったので、それからあとはサービスエリアでこまめに休憩でもしながらのんびりと東京入りしようと決めた。それでも結局3時間程度の渋滞遅延でワイフの実家へ到着した。

調布から甲州街道に入って武蔵境方面へ北上するルートをグーグルマップが教えてくれたので、その案内に従って車を走らせたら、その道が思ってもいなかった場所へ合流した。
中学校を卒業してすぐに一人暮らしをはじめたノッチは東京の高校を卒業している。
ちょうど彼女の受験の頃は、吉田家もワイフの実家も何かしら色々なことがあって、ノッチはそのカンフル剤のような役割を担って東京の高校受験を目指した。
第一希望の高校は、田舎者中学生にとって見聞の全てがはじめてのことだから受験会場の過酷な空気に圧倒されて完全に飲み込まれてしまったようだ。それで見事に不合格。貧乏オヤジの財力では私立受験など夢のまた夢のことだから、石にかじりついてでも、浪人してでも公立高校へ合格するしかノッチは進路の選択肢がない。それで必死に踏ん張って、その上生来の強運も加わって、見事第二次募集の激戦都立高校へ合格した。それから3年ほどお世話になったのがワイフの実家のご両親だったというわけ。
それで合流地点は、ノッチの不合格思い出の高校のすぐそば・・・という奇遇。これも何かの縁かも・・・

ノッチの高校生3年間を親身に育ててくれた病身の義父が、高校卒業と大学合格を祝ってくれたあとしばらくして永眠した。義父の病気が見つかって、なんとか気持ちが落ち込まないように張り合いのある老後を送ってもらいたいと、ヤンチャなワガママ者のノッチを送り込んだのだが、その心配事もたくさんあっただろうし、数え切れないほど迷惑もかけただろうが、寡黙な義父は愚痴一つこぼさないで見事に思春期のノッチを育ててくれた。その後、大学を卒業したノッチは自力でお金を貯めてシンガポールで仕事に就いた。

長女のなっちゃんが結婚して埼玉県で暮らすようになったとほぼ前後してノッチが帰国した。またそれと前後して万善寺先代の憲正さんが永眠した。
吉田家はそれぞれの事情があって憲正さんの密葬や本葬で全員揃うことがなかった。
家族がジジババから順番に死んでいくことも幸せなことである。親族一同が揃って葬儀に同席出来なくても、それぞれが心の中で手を合わせて故人を偲んでくれて様々な思い出を忘れないでくれていたらそれで十分供養になると思っている。むしろ、それぞれが生きているうちになんとか都合が付けば、5分でも半日でも何処かで一緒に過ごす時間をつくることのほうが大事で、それを面倒がるということは、それだけ家族の絆が希薄であるという事だと思う。
吉田家の娘達は、少しずつ関東を本拠地にして暮らし始めている。

島根の早朝は厚い雲に覆われていた。
八ヶ岳は雲を突き抜け、夕日に染まっていた。

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とみやま彫刻フィールドアートワークのお知らせ 

2016/10/08
Sat. 22:21

石見銀山は冷たい雨が激しく降っている・・・って、ほんとうに冷たいかどうかわからないけどね??
何せ、現在私は半袖Tシャツ一枚にパンツ一丁というスタイルで、キーボードをプチプチ叩いているのです。
まったく、すでに10月も1週間を過ぎたというのにいまだに扇風機を回しているのだ。

午前中は、キリスト教高校へ雪駄スタイルで出かけた。
美術の授業らしきことをしているのだが、生徒たちは喜んでいるのかつまらないのか、どうもよくわからない。10月から後期に入って履修も変わるらしいが、ひとまず前期に選択していた男子2名がそのまま引き続いて残っていたから、吉田の人気も全く無いわけではなさそうだ。
日当は◯◯◯円ほど出る。だから一ヶ月に二日ほどは少し贅沢な昼ご飯をすることにしていて、今日はワイフもいないしとみやま彫刻フィールドアートワークのデスクワークも残っているから、思い切って国道沿いの食堂へ入ってカツ丼を注文した。9月に入って彫刻の制作で工場通いが続いて、三度の食事も変則的になって食べたり食べなかったりしていたら、胃袋が少しずつ小さくなってしまったようで、どんぶり一杯のご飯を食べると動くのが辛くなるほど満腹になった。身体にとっていいことなのかどうなのか良く分からないが、全く痩せる気配もなくて体重も減らないから、食が細っても栄養だけはそれなりに吸収できているようだ。

先ほど、遅れに遅れていた広報ポスターやチラシの原稿がやっとカタチになった。
いつもの印刷屋さんへメール添付にして原稿を送っておいた。来週になったらオペレーターのお兄さんが吉田のいい加減な原稿をせっせと手直ししてきちんとした印刷原稿に置き換えてくれるはずだ。
これからシャワーして一眠りして、ワイフの車で東京へ向かう。
高速料金と車の燃料代とボクとワイフの燃料代で、結局高速バス料金の2倍以上の出費になるが、ワイフの実家へのお土産や、その他もろもろと、あまり気にすることもなく荷物をいっぱい積めるし時間の拘束も無いから、それはそれで気楽な旅になりそうだ。
旅のお供の音楽は、最近のクラウド事情でずいぶんストレスが無くなった。問題は活字媒体の方だが、今のところ、群さんのエッセイと半村さんの小説の2冊くらいをカバンへ入れておこうと思っている。
毎年この時期は旅の空がほとんどで、一月の半分も島根県にいない。自宅でのんびりゴロゴロしているよりはずっと神経も疲れるし、肉体疲労もたまるから、体調の管理は慎重にしないといけない。歳もそれなりにとってきたしこれからの数日は無理をしないようにゆっくりと行動しよう。
日曜日の夜にはワイフの実家に到着するはずだ。それから六本木の彫刻展示があって、彫刻部の懇親会もある。周藤さんが会員になって初めての年だから、懇親会を欠席するわけにもいかないだろう。
ワイフには、絵画と合同のオープニングで仕事が割り当てられているようだ。
私は気楽なもんだから、ノッチでも誘って夜の居酒屋へ繰り出そうと思っている。

2016とみやまチラシ (1)
2016とみやまチラシ裏

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最近、1日がアッという間に過ぎてしまう。

昔はこういうこともあまりなかった気がする。
強いて言うなら・・・
ほぼ一晩中続く酒の飲み過ぎで二日酔いならぬ二日寝をして目覚めた時の空白の一日。
延々と続くエンドレスのセブンブリッジで費やす一日。
若い頃は、1年のうちに何回かはこういうこともあった。
ワイフと結婚してからは、ずいぶん品行方正になって夜遊びが激減した。

だいたい、1日が一瞬で終わるようなことというと、遊び狂っていた頃のことしか思い出せない。
ところが、そろそろジジイの領域に踏み込み始めている今頃になって、また、1日のスピードが早く感じるようになっている。
そういうことを積み重ねると、結局は1年過ぎるのがやたらと早く感じて、つい先日10月になったと思っていたのに、もう1週間も経ってしまっている。
この調子でいくと、もうすぐしたらコロッと死んでしまって、我が人生の終焉も近いかもしれない。
これから、どんどんジジイになって、醜くなって、身動きできなくなって、さまざまな醜態を晒して周囲に迷惑をかけながら生きながらえるよりは、サッパリとキッパリとサッサとこの世におさらばしたほうが八方丸く収まって都合がいいかもしれない。

万善寺は島根県の第二宗務所第九教区に属している。今日は、その九教区の特派布教研修総会だった。
何時もの年は、9月のうちに開催されていて、秋のお彼岸と重なったり、彫刻の島根県搬入と重なったりして、やたらと慌ただしい。特派布教老師の都合で日程が決まるのだろうが、やはりこの時期の会合集客はなかなか厳しい気がする・・・といっても、万善寺の住職だけの都合かもしれないけどね。
まぁ、そんな訳で、大事な1日が坊主家業で潰れるから、前日は1日中吉田家の書斎へこもってデスクワークに励んだ。

今年の「とみやま彫刻フィールドアートワーク」は、富谷町内にはびこる竹の間伐を兼ねて、草月流師範による、野外竹オブジェの公開制作を計画した。
地元有志の皆さんが、10月の月末に集合して竹の伐採にとりかかる予定だ。棚田風景がキレイな富山がこういう美術イベントで活気づいてくれるといいなぁと思っている。
ひとまず、今までに決まってきたデータを元に、ポスターの初稿を造ってみた。
作家や関係諸氏に目を通してもらって、抜けているところとか、間違った記述とかをチェックしてもらって、今週中にオペレーターさんへ引き渡す。
あとは、私のザックリとしたなんちゃってデザインをきちんとした印刷物に仕上げる手直しをしてもらうことになる。
また、今夜も眠れそうにない。

2016ポスターA3印刷原稿

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台風通過 

2016/10/05
Wed. 23:29

台風が来る前に外の用事をできるだけ済ましてしまおうと決めて、石見銀山から東へ向けて移動した。
往きの道中は、風も無く日本海も静かで、台風が来る気配もないように感じた。
今年の富山はまったくいい写真が撮れないままなので、これが最後のチャンスになる。
とにかく、遠くから用事を済ませて、富山入はできるだけ影が長くなる時間帯にしようと調整した。

出雲市で用事を済ませている間に風が強くなった。
窓の外では防風林が大きく揺れ動いて、ビニールの袋が上空まで舞い上がって踊っている。
強風が停滞していた雲を一気に吹き飛ばして、出雲平野の上空に青空が広がった。
帰りの9号線を西に向けて走っていると、日本海の沖合まで小さな白波が広がっている。
内陸からの南風のせいで、海岸へ打ち付ける波は殆ど無い。
台風の影響は、太平洋側と日本海側でここまで大きく違っていて、内陸部では中国山地のお陰でもっと風被害が少ない。

一方、万善寺の場合はそういうわけにいかなくて厄介だ。
北に山を背負ったかたちで南側へ狭い境内が広がっているから、南風が正面から吹き付ける。
台風が中国山地の南を通るか日本海を通るかで、風の当たり具合が全く違ってくる。
風に煽られてフラフラと揺れながら走る結界君のハンドルを握りしめながら、万善寺の心配をした。
こういう時に寺から電話が入ったら何かあったということだ。
昭和の終わり頃に吹き付けた旋風のような強風は、万善寺の蔵のトタン屋根を東から西へ吹き飛ばして、上空で一回転して畑の横へ着地した。
瓦が屋根に乗っていたら吹き飛ばされることも無かったかもしれないが、貧乏寺は財力がない。
過去にそういう事例もあるので、現住職はドキドキものだ。

富山地内へ入ると、風に吹き飛ばされた色々なものが路上へ散乱している。
それでも、雨もふらないし青空も広がっているから、天が撮影のラストチャンスを与えてくださったようだ。
富山の幾つかのスポットの一つで、椎木の巨木がある鎮守の森と要害山を組み合わせてみようと思っていたので、その撮影現場へ急いだ。
こうなると、台風との競争のようなものだ。
雪駄から坊主仕様の長靴に履き替えて田んぼの畦道を走った。
絞りを変え、シャッタースピードを変え、感度を変え、そうやって50枚ほど写真を撮る間に、みるみる雲が広がって、一気に暗くなった。
さて、時間にして10分位のものだっただろうか?

帰宅してデータを確認したが気に入った写真は1枚もなかった。ドット1日の疲れが出た。

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老婆親切とは・・ 

2016/10/04
Tue. 23:46

だいたいが雨だったり曇ったりばかりで富山の良い風景がなかなか撮れなくて苦労している。
今週末には彫刻イベントポスターの入稿しようと思っているので少々焦っているのだが、また台風がやってくるという始末で、自然を相手には逆らうことも出来ないし現実は厳しいものだ。私程度の崖っぷち彫刻家など、日々是好日の暮らしなど夢のまた夢だ。

マイママ、齢91歳となる母親の定期通院日なので、急いで朝食をかき込んで石見銀山の自宅を出発した。
主治医のドクターは、見た目さっぱりと屈託のなさそうな比較的若い女医さん。
島大病院から毎週1日だけ田舎過疎地の小規模総合病院へ出かけてくれている。
私としては、初対面の印象が良かったので信頼しているのだが、母親本人はどう思っているのか、その女医さんの言うことを全く聞こうともしないで、診察の間中自分の話ばかりしていて意思の疎通には程遠い状態だ。ときおり、「チョットこのばあちゃん何とかならないの?」と視線で私に訴えてこられるが、こればかりはどうにもならなくて、「すんませんなぁ〜・・実の息子だともっとワガママになってしまって・・・」などと、返す視線で会話している。
この度の受診も、診察の途中からドクターの話が耳に入らなくなってしまって、自分の素人診断を延々と語り始めたから、「それじゃぁ、このへんで失礼します」とドクターに視線で挨拶して喋り続けている母親を診察室から連れ出した。
自分では頭がしっかりしていて、正気だと思いこんでいるから、精神は健康だと思っているというところに一般の常識とのギャップがあって、まわりが迷惑をする。薬局でもあの薬がどうとかこの薬が足らないとか、わがまま放題で時が無駄に過ぎた。

宗門の祖師道元様は修行僧に「老婆親切」が大事だと厳しかったそうだ。
この「老婆親切」というやつは、なかなか解釈が厄介で、チンピラ坊主には荷が重い。
「老婆の孫子に対する理屈抜きで惜しみない愛情慈しみを捧げる心境と具体的実践的諸行為」とでも略したらいいのだろうか?
道元様は、そういう老婆の行為を「仏の慈悲心」に重ね合わせてお考えだったのかもしれない。
一方、その惜しみない老婆親切を受ける孫子の側からすると、「小さな親切大きなお世話」的行為と受ける場合も多々存在する。
与える側と受ける側のお互いの正常な関係がまず前提に築かれていないと、正しい「老婆親切」の授受に至ることがない。我が身をわきまえた上での老婆親切であれば、それは大きな支援になるだろうし、そういう師弟関係の向上は学ぶべきものだと思う。
自分を見失った者の自己中心的な老婆親切ほど、融通が効かなくて厄介で始末が悪い。

薬局で薬をもらってから、うどんが食べたいという母親を蕎麦屋へ連れて行った。もうお昼はとっくに過ぎていて、次の用事が待っていたから、そのまま母親をドライブに連れ歩いた。親子は約200kmを結界君で過ごした。途中2回ほど大きな母子のバトルがあった。それでも、私からのささやかな老婆親切であったと自分ではそう思っている。

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始動!とみやま彫刻フィールドアートワーク 

2016/10/03
Mon. 22:33

とみやま彫刻フィールドアートワークが動き始めた。
今年のメインは昨年に引き続いての「ものつくり教室」と、新企画、竹オブジェ公開制作。
竹オブジェは、岡山県在住草月流師範の西本氏にお願いして、会期中に会場になる旧富山小学校周辺野外の一角で公開制作をしていただく。作品に使用する竹のこととか、作品の設置場所のこととか、協力スタッフのこととか、そういう色々な幾つかの条件を話し合うために、事前打ち合わせを兼ねて富山町まで来てもらった。

10時現地集合の予定通り、だいたいそのくらいに到着するとの連絡が入ったので、石見銀山の自宅を出発した。
「今、○○のあたりです♡」
しばらく結界君を走らせていたら電話が入った。まったくトンチンカンな場所だったから、「さては、道を迷ったな・・・」と思ったが、そのまま聞き流した。
狭い日本の狭い島根県の片田舎程度のことだから、せいぜい1時間も待てばそのうち到着するだろうと思っていたが、30分位遅刻して到着した。よく出来たほうだと思う。

富山町のセンター長さんや、自治会連合会の会長さんなどと書類上の説明や打ち合わせをして町内の現場視察に入った。
富山町は、大田市の中でも比較的高地にある。そのほぼ中央に要害山と呼ばれているおむすびのような山が突き出している。その山は昔山城があった。石見銀山の銀を我が物にしようと豪族や大将が戦を繰り返していた戦乱の激戦地でもあった。今は水田と畜産が主な産業になっていて、支えているのはリタイヤした高齢者の皆さん。
富山町も、島根県の他の地域とだいたい似たような農村地帯であるわけだが、少し違うのは、比較的整備された棚田が多く残っていて、実際に稲作で機能していること。春の田植えの時期から秋の刈り入れまで、富山の谷に広がる水田の風景が実に美しい。
私は、かれこれ5〜6年くらい前にこの富山町の棚田を見る機会があって、それでひと目で惚れてしまった。それから、毎年事あるごとにコツコツと通い続けて、やっと昨年から彫刻のイベントを具体的に動かすことが出来るようになって、今年で2年目を向かえる。
人口約500人のいつもは静かなこの地域で彫刻のイベントを開催することで、その期間だけはほんのすこしほど人が動き賑わいが広がる。

現在、野外彫刻は3人の彫刻家の4点の彫刻が町内各所に置かれてある。小品の彫刻は野外彫刻を置かせていただいている地権者のお宅に一つずつ差し上げた。宿泊や会期中の事務所でお世話になったお寺にはワークショップで制作した石のお地蔵さんを安座させてもらった。
ひょっとしたら押し売りのような大迷惑の行為になっているかもしれないが、今のところ強烈なバッシングも無いし、どちらかといえばそれなりにさり気なく受け入れられているのではないのだろうかと都合よく前向きに解釈させてもらっている。

ついでだから、西本氏御一行には帰りに石見銀山を経由して、若干の観光と、「モッタイナイス展」を観てもらった。自分としては、濃密な1日になったと思っている。

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奉納ミュージカル 

2016/10/03
Mon. 08:42

アッという間に過ぎた1日だったが、それなりに充実していた。

すでに数か月前から予約が入っていた年回法事があったので、石見銀山の自宅を8時前には出発した。
もう10月に入っているのに、土間から町並みへ出るとムワァ〜〜っと生ぬるく淀んだ、なんとも秋らしくない空気が漂っていた。宗門では衣替えが厳しくて夏用の大衣はもう着衣できないのだが、とてもそこまで真面目に堅苦しく振る舞うことも出来そうにないくらい蒸し暑い。なんちゃって坊主としては、そのあたりの自覚も希薄だったりするから、特に迷うこともなく普通に夏衣一式を準備した。
法事には、埼玉の方からもご親族が帰省されていて、和やかな雰囲気が漂っていた。前夜は久しぶりのご親族再開でさぞかし盛り上がったことだろう。
夏衣の言い訳をして昔ながらの万善寺様式の法事をして、久しぶりに、本当に久しぶりに3時間の法事を済ませた。
先代の頃でも、近年は万善寺の古式に則った法事など、1年に数回しか無かった。私の代になってからは急激に旧態の様式が崩壊しつつある。こればかりは施主さんの都合もあるから坊主の見解を押し売りするわけにもいかない。なんちゃって坊主としもそれなりに悩んだりしているわけですよ。

墓参りを済ませて斎膳について午前中がアッという間に終わって、石見銀山へ引き返すと、すでにワイフがコーヒーをポットに用意してくれたりして準備万端。
夕方から稲田神社の拝殿前で行われる奉納ミュージカルがある。
何時ものラフなスタイルに着替えて奥出雲へ出発した。

曇り空だったが、ギリギリで雨にならなかった。
私もワイフも、昔々は演劇や映画へよく出かけた。今では改まって観劇することなど本当に稀になった。テレビをみることも激減しているし、2時間程度の映画も、それをゆっくり観る時間がなかなか確保できない。そういう毎日で都合をつけて観ることが出来たミュージカルは、色々な創造を想起できる良い機会になった。音響や舞台や照明のことなど、たくさんのスタッフが協力して造り上げることの難しさを感じた。観客の立場としては、脚本や演出の振り幅がもう少し広く出来ていると一般に受け入れやすいのかなとも感じたが、そのあたりであまり大衆に迎合しすぎるのも演劇のテーマとかコンセプトがブレてしまうこともあるし、まぁ、自分たち組織メンバーがやりたいことをやりたいように素直に演じきったほうが達成感もあるだろうなと思った。
このあたりの表現活動は、彫刻も演劇も何も変わることがない。
それぞれの領域でシンプルに表現できる手段をそれぞれが見つけて全うすればいい。
少なくても、私はそう思って自分の彫刻と向き合っている。

帰りの石見銀山までの2時間は、なんとなく気が高ぶっていた。途中、出雲市を通過するので、駅前の居酒屋で1杯飲んだ。それからワイフが運転を変わって帰宅したのが12時前。ネコチャンズはすでに爆睡してオヤジの帰宅は完全に無視された。

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吉田満壽美の彫刻 

2016/10/01
Sat. 22:35

島根県女流彫刻家ではブッチギリの吉田満壽美が、久しぶりに野外彫刻へ挑戦した。
制作時間も最近では珍しいほどタップリと用意して、ジックリと彫刻に向き合っていた。

常々、彼女の彫刻に耐久性とか耐候性が加わると、一気に彼女の世界が大きく広がると思っているから、もう何年も前からことあるごとに呪文のごとく「野外に出そうよ・・」とささやいていた。
色々と条件が整って、今年になってから野外彫刻へ彼女の関心が向いた。
そして、一気に2点の彫刻を制作して、その一つはすでに徳島中央公園へ設置を終わった。
そちらの彫刻は、完全なパブリックスペースだから、期間中に何が起こるかわからない。
たとえば、落書きをされたり傷つけられたりパーツが無くなったり・・・際限なくネガティブなイメージが湧き出してくる。
野外彫刻というと、やはりそのあたりのフンギリというかオトシドコロがしっかりとして腹を据えて取り掛からないと気持ちが萎える。
これまで、あれほどしつこく野外を推薦しても聞き流していたのは、彼女なりの思い切った決断が出来ないでいたからかもしれない。

野外彫刻の素材というと、石とか鉄とかステンレスとかブロンズとか強化プラスチックとか・・・耐候性の強い素材がほとんどだが、吉田満壽美の場合は、いまのところウレタンに紙がほとんど。
今回の野外彫刻も、この素材感を壊さないように制作をしていた。
ある意味で無謀とも思われるほどの素材へのコダワリだと感心する。
彼女なりに、その素材に対して誰からも踏み込んでほしくない彫刻表現の可能性を強く意識しているのかもしれないし、他人に頼らないで自分で納得のいくまで素材と向き合って造形に仕上げていく制作スタイルを崩したくないところがあるのかもしれない。
ひとまずは今回の制作と野外展示でそれなりの結果が間違いなく見えてくることだろう。
そろそろ彫刻家としての作家年齢も半世紀近くなった今、ここで過去から続く一連の作風を守るか、もしくはそれを打ち壊すか、そういう岐路にいるような気がする。

一つ屋根の下でお互いの制作スタイルを横目で見ながらそれぞれのスケジュールで制作を続けていると、知らない間にお互いの造形に慣れてしまって新鮮な感動が薄れてしまっていたりする。
島根県のような文化の辺境の地で彫刻制作に踏ん張り続けることは普通に苦労するし感覚も鈍る。知らない間に自分の彫刻に満足して納得してしまっていたりして、造形への厳しい感覚が何処かに捨てられていたりする。
彫刻制作を続けるという行為が惰性で流れてしまわないようにしなければ、彫刻制作を続けているという意味が無くなってしまう。
いずれ近い将来、色々な障害がやってきて彫刻制作を断念しなければいけなくなる時が必ずやってくる。そのときになって、過去を懐かしんでニヤリと笑っていたいものだ。
吉田満壽美の踏ん張りは吉田正純の彫刻制作のエネルギーになっている。
そのエネルギーのおかげで自分の彫刻を造り続けていられる。

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2016-10