工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

クロの仕業 

2017/04/30
Sun. 11:57

いやぁ〜〜〜、アッという間に4月がおわってしまったなぁ〜〜・・・

末寺山寺万善寺では、ナント、4月の1ヶ月で葬儀が3つ(そのうち1つはお手伝いだったけど)・・・
ハッキリ云って、ナンチャッテ坊主のボクが副住職の頃から今までにはじめてのことであります・・
下世話な話ですが、毎月こういう坊主の忙しさが続いていたら、もっと生活も楽になるだろう。
だけど、彫刻家のボクは何処かへ行ってしまって坊主家業まっしぐらの人生になるだろうな。

そんなわけで、毎日万善寺の通勤坊主が続いている・・・いやむしろ、毎晩万善寺から石見銀山の吉田家へ寝に帰っているという状態が続いている。
さすがに、寺家業が忙しいと云っても、万善寺の夜は酒飲んで飯食って寝るだけだから、2時間でも3時間でも吉田家で彫刻絡みのデスクワークをしていたほうが少しは気も紛れる。
それで、先日いつものように荷物を一抱えと、結界君のリヤデッキいっぱいの万善寺紙ゴミを積んで帰宅した。
いつものように現在仮の書斎になっているキーポンの部屋へ書類の籠を持って上がったら、階段を登りきったところでクロ君が「フニャァ〜〜」と甘え声で出迎えてくれた。
真っ暗な2階の部屋に入って蛍光灯をつけてiPadからコルトレーンを無線でスピーカーへ飛ばしてひと心地ついて、珍しくゴロゴロと喉を鳴らしながら擦り寄ってくるクロ君をイジっていたら、右目の端になにやら雪が積もったような白い物体の山がチラリと入り込んだ。
この2〜3日は、夜な夜なキーポンの一人暮らし用の視聴覚機器を吉田家中からかき集めていたから、その梱包材でも残っていたのだろうくらいに気にもしないままその時はやり過ごしてクロとしばし戯れた。
ワイフから夕食の呼び出しがかかって、アサリのアヒージョや旬の葉わさびや筍などを堪能しながら麦とホップをグビッと空けて、しばし1日の情報交換をして書斎に引返した。
何気なしにデスクの下を見ると、やはり雪が吹き込んだ感じで何やら白いものが積もっている。
蛍光灯をつけて、デスクスタンドもつけて明るくして覗いてみると、トイレットペーパーが粉砕されて散乱して山のように積もっている。
これは、クロの仕業に違いない。
先程は珍しく甘えて擦り寄っていたが、どうやら自分の仕出かしたことを誤魔化しにかかっていた風にも思えてきた。
それにしても、2階の書斎にトイレットペーパーがあるわけもなく、何処から持って上がったのだろう?ワイフに聞いても知らないという。
メタボクロの腹回り程もあるトイレットペーパーを咥えて10段の階段を持ち上がった執念はたいしたものだ。怒る気も萎えた。

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癒やしの新玉ねぎ 

2017/04/27
Thu. 12:43

「今日も燃えるゴミですか?」
「えっと、今日は殆ど鉄です・・」
ゴミ処理場受付のご婦人には、もう完全に覚えてもらえたようだ。
「まぁ、上手に積んどられますなぁ〜。これって、4人乗りでしょ?」
「ハイ!この車、結構便利なんですよ」
「また何時でも来てくださいね」
分別のおじさんやお兄さんにも覚えられてしまった。
毎日ゴミ処理場へゴミを積んで持ち込んでいたらそれも当たり前のことだろうが・・・

捨てても捨てても、一向に片付かない。
5月の連休明けには母親の四十九日法事があるし、なんとかしてそれまでに少しでも片付けてしまわないと・・・それに、連休中はゴミ処理場もお休みになるし・・・とにかく、この2日間が勝負だ!!・・・と、朝からはりきっていたら、隣町の方丈さんから電話が入った。
「あんた今夜から3日間空いとるかね?息子の◯◯寺が葬式手伝えん言うて・・」
いやぁ〜、まいった・・・お葬式のお手伝いをすることになった。
ナント、五仏(方丈さん5人)葬式だという。
万善寺では五仏葬式など50年以上も前に絶えてしまった。
あの先代の憲正さんでも三仏(三人の仏事師さん)だったのに・・

まぁ、そんなわけで、ゴミ処理場の往復の途中でそういう電話が入って、急きょ隣町の寺へ駆けつけた。
幾つか打ち合わせをして、夜は仮通夜で鐘つき坊主。
本通夜と葬儀は、シャンとした若い方丈さんに鐘つきを変わってもらおうと思っている。
拈香法語も考えないといけないし、ゴミ処理場へもう一度往復もしたいし、庭の松葉も目立ってきたし、昨日のひと雨で境内周りの草も一気に伸びたし・・ヒマに慣れたオヤジは天手鼓舞。

すっかり真っ暗になってから夜の石見銀山へ帰った。
夕食は、新玉ねぎを使ったワイフの新作料理・・・玉ねぎの甘みと、とろけて香ばしく焦げたチーズが絶妙で、挟み込まれたひき肉にまで玉ねぎの旨味が沁み込んで、これが実に旨い!
麦とホップもグイグイ進んで疲れが取れた。

母親の葬儀ではじまった4月も終わりが近い。
この1ヶ月間、万善寺の庫裏は足の踏み場もないほど積年の老夫婦の荷物で溢れている。
毎晩、散らかった荷物の中で寝るのも落ち着かないし、結局夜になって1日の片付けを適当なところで切り上げて石見銀山の吉田家へ帰宅する。一晩寝て早朝に自宅を出て万善寺へ向けて結界君を走らせる。
今では、そのパターンが定着してきつつある。

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目に見える記憶 

2017/04/25
Tue. 18:47

万善寺のある行政区のゴミ処理場は、午後3時で一般受付がクローズする。
たぶん、そのくらいに締め切らないと分別作業をその日のうちに終わらせることが出来ないからなのだろう。
最初に万善寺の積年のゴミを搬入した時に、受付のご婦人が印刷物を2〜3枚用意して丁寧に分別のことや搬入受付のことなどを解説してくれた。
それで、午後の3時までに搬入することは承知していたのだが、庫裏の玄関先で欲を出して「もう少し、あと少し、あれも積んで、これも積めるな・・」などとモタモタしていたらどんどん時間が過ぎて、法定速度ギリギリで滑り込みセーフかアウトか微妙なタイミングになってしまった。
頓原中学校前の四つ角までスムーズに走っていたのに、そこの信号で捕まってしまった。
2台前には町内の循環バスがマッタリ走っていて、それが町並みへそれるまでやたらと無駄に時間が過ぎた。
ゴミ処理場の受付へ右折しようとしたら、すでにロープが張ってあって進入禁止。
3:02でありました・・・

もう、10回近くゴミの搬入をしているから、そろそろ受付のご婦人や作業の職員の皆さんに顔を覚えられるようになった。
タイムアウトのゴミを朝一番に搬入して、それから午前中に3回往復した。
お昼を過ぎたあたりから雲行きが怪しくなって、風も強くなってきた。
この様子だと、「風がやんだら雨になるだろう」と思っているうちに土砂降りになった。

仏教では「執着」と書いて「しゅうじゃく」という。
お釈迦様は、執着は修行の妨げになるからそういう気持ちを捨てろと力説された。
一方、執着は良い意味に解釈されることも結構あったりするので、自分の気持のゆらぎを都合よく言い訳してどうにかうまい具合に正当化して乗り切ることも出来てしまう。
このあたりの主観的な立ち位置がなかなか曖昧だったりして、万善寺でも先代夫婦と私の間で数え切れないほどのイザコザがあった。
結局、私のほうが一歩も二歩も身を引いて、老夫婦の暮らしぶりを見て見ぬふりして無理な諍いをなくす方向で付き合ってきた。

昭和の初期から戦中戦後の生活苦を体験した彼らは、モノを捨てるという感覚より、モノを大事にするという感覚で日常の暮らしが機能していたのだろう。
さまざまな「モノ」に託された彼らの「思い出」とか「記録」は彼らにとって具体的に「目に見える記憶」としてある種の宝物になるほど昇華し、捨てるという行為が日常の暮らしの選択肢から完全に削除されたまま半世紀が過ぎていったのだろう。

彼らの「捨てられない気持ち」の呪縛に絡まりながら、ひたすら断捨離を続ける自分は、一方で彼らの「目に見える記憶」を捨てていることにもなる。
見える記憶は忘れることもあるだろうが、心に刻まれた記憶はいつでも鮮明に思い出すことが出来る。私はそれで十分だと思っている。

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久々の試練 

2017/04/24
Mon. 13:13

最近、一日がアッという間に始まって終わる。
母親が死んでからほぼ毎日万善寺で一日を過ごしている。
坊主の常識的な日常を過ごすには、それほど忙しいわけでもなく、どちらかと云えばたっぷり時間のかけて一つ一つの用事を坦々と済ませていくふうで、静かなものである。

庫裏の窓ガラスがガタガタうるさい朝は、「南風が強いな・・暑くなるかも知れないな・・」と思いつつ線香をくゆらせる。
用水路から水が引かれた水田でカエルがいつも以上にうるさく鳴き続けていると「雨が降るかも知れないな・・」と本堂の濡れ縁に出て西の空を確認する。
保賀のつがいのカラスが情報交換をして遠くで鳴きあう様子を聞き、深煎りの珈琲をミルで挽きながらその日一日の作務で物思いにふける。
・・・いつになったら、そういう平穏な一日が戻ってくるのだろう。

母親の死ぬ少し前に、憲正さんの弟弟子だった方丈さんが遷化された。
我が宗門では、住職クラスの方丈さんが遷化されると、まずは密葬仏事を済ませておいて、その後改めてだいたい四十九日に近いところで本葬仏事を行うことが多い。
先代住職同士は兄弟弟子でもあるし、今まで半世紀以上も長い間親しくお付き合いさせてもらっていた仲でもあるから、私も何かしら御恩に報いることでもしないと気がすまない。
母親のことや万善寺の整理をひとまず停滞させて、気持ちを本葬次第へ向ける数日が続いた。

先日、大夜から本葬仏事が終わった。
約4週間のあいだ、遺族遺弟の皆様は何かと気の休まらない毎日を過ごされたことだろう。
遺漏のない次第が粛々と続き、とても立派な本葬であった。
私は、ほぼ2日間の様々な場面を記録に残す係を務めた。
写真にして1000枚くらいになっただろうか・・・それを一つ一つ確認しながら約500枚くらいに整理して、それをウエブディスクへ移動した。
これらの作業を数日かけて万善寺で行ったわけだが、飯南高原のインターネット環境があまりにも貧弱で、とにかくデータ通信の上りも下りもやたらと時間がかかった。
一時期、クラッシュ寸前まで機能低下したボクの愛機MacBookが、幾つかのメンテナンスを乗り気って甦って以来、この度の久々の試練にどこまで耐えられるかビクビクしながら作業を続けた。
キーボードを数回ほどポチッとして、トラックパットを数回スリスリして、それから延々と画像移動が続く。
その間に、洗濯をしたり、庭掃きをしたり、両親の遺品を片づけたり、ゴミを分別してゴミ処理場へ搬入したり、そして、時々珈琲を飲んだり、食事をとったり、そんな毎日のあと昨日夕方、3枚のディスクに全ての画像をコピーすることができた。

今のインターネット依存の仕事を続けながら万善寺で暮すということは、なかなか現実的でない気がする。さて・・・これからどういう生活のスケジュールを組み立てようか??

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年度初め 

2017/04/20
Thu. 23:22

遅咲きの桜もほぼ散った。
1時間半の会議が長く長くとても長く感じて、耐えられる限界に達していたら、町会議員選挙の立候補者が選挙運動に現れたりして、もう我慢も限界。

保賀自治会は、他の2つの自治会と併せて連合自治会のような組織になって行政の下部組織を形成している。
その中で、それぞれの自治会から幾つかの役員を選出して(ほとんど1年交代の輪番制だけど)連合自治会の組織委員になる。
私は、保賀地区上組班長の役があって2年連続で今夜の会議へ出席した。
連合の自治会長さんの上部組織議題の報告会と会計の決算報告と予算案報告程度のことで、長々と会議1時間半は誰がどう考えても長過ぎる。
保賀の自治会からは、総勢7人も役員が出席していた。
20戸を切る保賀地区から、7名もの出席が必要だということがすごい。こんなことをしていたらあと10年も経たない間に保賀地区は一戸一役から一人一役になりそうな勢いだ。行政のトップダウンは、過疎と高齢に喘ぐ田舎暮らしの住民にはあまりにも役が重すぎて動きようもない。

参集の会議メンバーは、会議慣れしている元や現の行政マンだったり、消防団とか◯◯会とか、だいたいが役付の仲良し組だったりして、誰かの一言に誰かが食いついてどうでもいいような質問を投げたり、報告を審議に持ち込んだり、とにかく会議が好きなのか、日常会話の乏しいさびしんぼうか、自宅に帰りたくないヤバイ理由でもあるのか、何時までたっても集会の終わる気配がない。それに、だいたいの歳廻りがそうさせるのか、私の同級生が3人も役付になっていて、そのうち一人は連合自治会長だったりするから逃げようがない。

先日、坊主家業で説教とは程遠い仏教話しをして、その終わりがけに、「方丈さんの話が長すぎるから後が迫っとりますけぇ〜」と、私に聞こえるほどの捨て台詞を吐かれたことを思い出した。
檀家さんの寺参りでそのくらいの仏教認識だから、現代のナンチャッテ坊主としては世間の政治経済社会に対して宗教の価値観を正論でぶちあげても、とても太刀打ち出来ないというか、暖簾に腕押し糠に釘的状態で気力も萎える。
結局自治会の集まりのことなど、出席者のだいたい4分の3程度はその筋のコトが好きな方々なのだと思ってしまう。
いくら持ち回りだとか順番だとか輪番制だとかいっても、役を引き受けるという意思があっての役付は大なり小なりその筋に関わることで自分のステータスを維持する自分に酔っているようなところがあるのかもしれない。
そういう連中にとっては、保賀の上組の班長のような使いっ走りごときでも、役付の一役として意識されているのだろうが、ただの使いっ走りごときがアレコレドウコウ言える立場でもないことは重々承知のはずだ。
田起こしの水田で鳴きあうカエルたちの合唱のほうがずっと耳に心地よく響く。

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彫刻撤収 

2017/04/19
Wed. 04:06

鷲羽山レストハウスから更に登った展望台から彫刻を撤収した。
昨年からほぼ1年間、私の鉄の彫刻を置かせてもらっていた。
瀬戸中央道の大橋が展望できる絶景の場所で、ヤマツツジの濃いピンクと桜の淡いピンクが春の瀬戸内海の日差しを反射してとてもキレイだった。
「桜とツツジが一緒に咲いているのを始めてみました・・ボク」
岡山の赤礬市に暮らす陶芸家が彫刻移動を手伝ってくれながらそう云っていた。
私より少し若いくらいの年齢だと思うから、今年の春の瀬戸内の気候は、まぁ、とても珍しいといえるのかもしれない。
まだ、2回しか春の鷲羽山を見たことのない私の方は、そういう異常な気候のことなど時に気にもしないまま「キレイなことだ!」と単純に納得してしまっていたが、岡山の瀬戸内一帯は、どうやら異常な春であるらしい。

自分の彫刻が、潮風にさらされながら1年間でどのように変化してきたか、それを確認するのも、今回の搬出では重要な狙いであった。トラックに積み込みながらサビの色や粗さをさりげなくチェックしたが、山陰の彫刻より若干黃観がかっているくらいに感じた。
化学者ではないから、成分の化学的変化をどうこうと研究することもないが、それでも自然の環境の変化に自分の彫刻がどのように反応しているのか、そのあたりのことは興味があるし、彫刻素材の経年変化も自分の彫刻の味にしているようなところもあるから、こういう実践的実験が長期に渡って出来る展覧会とかイベントは大歓迎なのだ。

鷲羽山からほど近い児島にある塩田で財を成した旧家の前にも彫刻を置かせてもらったが、こちらは約1ヶ月間だったので、特に大きな変化もなくなかなかいい感じの色合いに落ち着いていた。彫刻を造る時、幾つかのテーマを使い分けている。この彫刻はそのうちの一つで、鷲羽山の彫刻とは制作のコンセプトが違っている。
別に、自分だけのことだからワザワザそういう事情を語る必要も無いことだが、誰かの何かの参考にでもなれば良いかもしれない。

私の造る彫刻のほぼ80%は野外設置を前提としたものだ。
一口に野外と云っても、私の暮らす島根県のような雪が降り積もるところもあれば、このたびの瀬戸内のように雪とは縁がないところもある。潮風のこともあるし、夏の日差しの違いのこともある。雨が多かったり、風当たりが強かったり、とにかく、自然の様々に違う環境にあって、自分の彫刻が周囲の環境と共生しながら美しい造形として存在してくれるということが制作者のつとめであり責任である。
かたっ苦しいことでもあるが、自分にとっては大事なことと思っていて、常々そういうふうに自分の彫刻と付き合うようにしている。
そこで、鷲羽山の彫刻のように移動が難しいものばかりを造っていると、さまざまな環境で実践的実験にストレスがかかりすぎるから、比較的楽に何処へでも移動できるシンプルな造りで持ち運びのし易い「移動式野外彫刻」なるものを用意しておくと都合がいい。
何かそれにふさわしいテーマはないかと考えて、この数年それらしき都合のいい彫刻も造るようにしている。

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思い出した・・ 

2017/04/18
Tue. 10:12

今から1ヶ月ほど前のことになる。
キーポンの卒業式やお彼岸やお檀家さんの四十九日法事などが幾重にも重なって身動きできないほどだった頃、ふとした拍子に、そろそろ私が敬愛していた「安西水丸さんの祥月命日じゃないかなぁ」と思い出すことが何回かあった。
結局は、蝋燭線香を灯すとかお経を読むとかそういうこともなく、普通にあの人の映画の本の事とか、キネマ旬報のイラストのこととか、そういうモノを只々思い出すだけのことで、懐かしむくらいのことなのだが、何かしら忘れられないで自分の記憶の何処かへ張り付いているようなところもある不思議な人だ。
ある意味、自分の父親や母親が死んだ後に、日常の暮らしの積み重ねの過程で突然彼らの記憶が蘇って懐かしがったりする、そういう感じに近いかもしれない。

この数日間は、2tアルミのレンタカーを借りて長距離を移動したり、連日結界君と一緒に石見銀山と飯南高原を往復し続けたりして、書斎にこもったりデスクワークを続けたりすることがなかったから、当然、デスクトップやラップトップに触ることもないし、プチプチとキーボードを叩くこともなかった。
備忘録の方は、宗門の手帳に用事をメモする程度で済ませるし、その日の天候がどうとか、誰に逢ったとか、何に感動したとか、そういうことはどんどん忘れてしまって、改めて思い出そうとしても全く脳味噌が反応しないまま数日前の出来事が空白のまま取り残されていく。

万善寺の鍵を開けて片付かない庫裏の様子が視界にはいると、自分の思考スイッチが「片付けモード」に切り替わって、ひたすらウロウロと動き回っている。
ふと気がつくと、石見銀山の吉田家を出発して万善寺の庫裏の玄関を入ってもう2時間が過ぎている。
今日は、午後から夜にかけて法類寺院の大夜があって、明日は朝から本葬が始まる。
先代の憲正さんが頼りにしていた弟弟子さんの本葬だから大事なおつとめだし、こういうことを日常の慌ただしさに埋没させてはいけない。
どこかで気持ちを切り替えて乱れた習慣を整理しておかないといけないし、もうそろそろ自分の記憶力に自信が持てなくなってきたし、この時を逃すと、またダラダラと目先の用事に流されそうなので、庫裏の中では比較的片付けが進んでいる、3畳の書斎部屋へ半日ほど閉じこもることにした。

境内まで乗り入れた結界君に荷物を積んだままになっていて、その中にMacBookも入っている。3畳の寺務所兼用書斎へ閉じこもるにはそれがないと始まらない。
気がつくと、iPhoneも運転席横へそのまま残っていた。
ルームミラーに写った自分の顔が、やたらとむさ苦しい。
そういえば、しばらくバリカンも当ててないし髭も伸び放題だ。
「このむさ苦しさは何処かで見たような・・・そうだ・・・水丸さんの無精髭だ!」
自分の顔が水丸さんに似ているわけ無いが、しばらくぶりにまた彼を思い出した。
安西水丸さんは、もう3回忌は過ぎたと思う、3月19日が祥月命日だったはずだ。

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雨のあと 

2017/04/14
Fri. 23:47

風邪ごときでいつまでも寝ているわけにいかないから、とにかく朝から起き上がることにした。
これで、もう3日も寝込んだことになる。
ワイフが、婦人会のお弁当作りに出かけるというので、私も思い切って万善寺へ行くことにした。
風邪薬を飲まないといけないから、いつもは食べない朝食をとって薬を飲んだ。
寺までの40分が睡魔との勝負になる。

前夜から雷の鳴る大荒れの空模様で、時折大雨が激しく屋根を叩いていた。朝になって石見銀山の町並みへ出てみると、側溝の水位もそれほど上昇している様子もなく、だいたいいつもと同じような感じだ。
夜中の雰囲気だとかなりの豪雨に感じたのだが、風邪のせいでどこかしら意識が朦朧としていたのかもしれない。
万善寺の境内へ結界君を乗り上げないとゴミなどの荷物を詰めない。
雨の後は、柔らかい真砂土の庭にワダチが残るので嫌なのだが仕方がない。
3日ぶりの万善寺は特に大きな変化もなかった。たたんでおいたブルーシートが風に煽られて何処かへ飛んでいっているかもしれないと心配したが、それもなかった。

飯南高原もやっと春めいて暖かくなってきた。
アチコチで桜が満開になっている。
万善寺の墓地にある桜も満開に咲いている。
3月のお彼岸は雪が多くてお墓まで行けなかったから、長靴に履き替えて登ってみることにした。
お墓への参道脇には杉が植えられている。秋から冬にかけての杉葉が積もっている。私は、この杉葉の積もった坂道を歩くことが好きだ。ちょうどいい加減のクッションになって、長靴がいい感じでやわらかく沈む。
墓石の並ぶ平地も杉葉の絨毯になっている。
今年の冬は何年ぶりかの豪雪になったから、墓地の周囲を囲む雑木も折れ倒れているだろうと覚悟していたら、それほどでもなかった。桜の枯木も心配したが大丈夫だった。梨の木は少し太い枝木が折れて落ちていた。墓石の倒壊もなく、憲正さんの新しい墓も、法事の塔婆も倒れないでいた。
墓の桜は、見上げるほど高いところで満開になっている。周囲の杉に負けないようにセッセと上へ伸びようとするから仕方がない。
風邪で鼻が詰まっているから春の匂いを嗅ぎ分けることが出来なかったのが少し残念だった。それでも柔らかい杉葉の地面を感じられただけでも少し気が晴れた。

1日中、庫裏の片付けをしていたのだが、どうも片付いた気がしない。
「大丈夫、絶対に確実に片付けが進んでいるから!だって、何もしてなかったわけじゃないでしょ!」
帰宅して1日の報告をしたら、ワイフが慰めてくれた。

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ヨレヨレオヤジ 

2017/04/13
Thu. 23:50

風邪をこじらせて絶不調が続いている。
昨日は一日起きあがることが出来なくて、風邪薬を飲むからと、牛乳やヨーグルトを胃に流し込むくらいしかできなかった。
身体中の筋肉が痛くて、オシッコで起き上がるのも一苦労だった。

吉田家の子供達をはじめ、家族はよく風邪をひく。
ワイフは花粉症もあって、この時期絶え間なく鼻を鳴らし咳を繰り返している。
年に数回しか遭わないじゅん君も、そのたびにだいたい風を引いていて、咳をしながらタバコを吸ったりしている。
ノッチもよく風邪をひくらしいが、彼女は扁桃腺が大きくて何かの拍子にすぐ熱を出す。
キーポンは、自分の不注意ですぐに風邪をひく。これから、もう少し大人になれば改善するかもしれない。
なっちゃんは、私とドッコイくらい風邪をひかない人だと思うが、花粉症などの慢性の病気を持っていて、自分ではそれなりに苦労しているようだ。

私は、15歳から結婚するまで一人暮らしを続けていた。
寺で家族と暮らしている時は、なんとなく気持ちが緩んでいるのだろう、よく風邪をひいていたし、腹が痛くなったり便秘が続いたり虫歯がひどくなったりして、町の病院の世話になることが多かった。
一人で暮らすようになって、一番惨めだったのは、やはり病気で寝込んでしまうと誰も世話してくれないということ。
それだけ、母親が甲斐甲斐しく息子の私を看病してくれていたのだろうと、そういう時になって気がついた。
あの頃は、胃腸も丈夫ではなかったから、15歳で下宿暮らしを始めた1年間は、風邪と腹下しと便秘が次々に繰り返されて、とても苦労したことをよく覚えている。
その後、しばらくしたら新しい環境に慣れてソコソコ健康になってきたが、上京して環境が変わるとまた体調不良がぶり返して苦労した。
特に健康オタクでもないが、ソコソコ我慢できるくらいの体調不良は体力の勢いと精神力で乗り切ろうと気持ちを入れ替えて、調子が悪くなる兆候を敏感に感じて予防に神経を使うようになってから少しずつ病気と縁が切れて、あれほど毎日通っていた歯医者さんも、2〜3年に一度くらい虫歯の様子を診てもらうくらいになって、2本ほど抜いて無くなったけどいまだに自前の歯で食事ができている。

朝起きて、腹筋に力を入れたら一気に咳が吹き出して止まらなくなった。
この調子で週末の用事を片付けなければいけないと思うと気が重くなる。
2tアルミのレンタカーを借りて倉敷の児島まで彫刻搬出へ出かける。
児島の主催者との日程調整が上手く噛み合わなくて、結局人手の確保が曖昧なまま見切り発車で出かけることになった。
最悪、すべて一人で彫刻移動をすることになるかもしれないが、今の自分にそれだけの体力が残っているだろうか?

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風邪ひきオヤジ 

2017/04/12
Wed. 23:35

只今、吉田は絶不調であります・・・
何年ぶりかで風邪をこじらせて、寝込んでおります・・・

風邪の全ての症状が、ボクの体力をどんどん奪っている。
デスクワークをしていると、目の前に幕がかかったようになってモヤッとしている。
身体の節々が痛くて、トイレへ立つのもやっとのこと。
咳も止むことがなく、喉は痛いし、数十年ぶりにに腹筋まで痛くなり始めている。
夜は夜で、頭から全身が痛だるい感じで寝返りもし難いし、完全な睡眠不足。
どうせ眠れないし、何かしようとも思うが、その気力も出ない。
そんなわけで、布団にくるまってゴソゴソしているうちに朝になってしまった。
前回は、何時風を引いたか思い出せないほど昔のことだった気がして、自分の過去ブログを検索し始めたのだが、うまく見つけ出せなくて途中であきらめた。

昨日だっか、久しぶりにクロが脱走を成功させた。
世間が少しずつ暖かくなって、クロも野外の開放感を思い出したのだろう、ときおり30分位吉田家のアチコチをフギャフギャ怪しげな甘え声で鳴きながらうろついている。
隙間風の多い吉田家では、外気の冷え込みがそのまま室内へ潜り込んでくるが、まだ寒くて部屋の中で白い息を吐いていた頃のクロは、私やワイフの布団の上に登って、人間の腹や太腿のあたりで丸くなっていた。
最近は、それもなくなって布団へ上がることも拒むくらいだ。
まったく、わがままこの上もないが、そのクロの最近の寝場所は、吉田家2階の私の仮の書斎のゴミ箱の裏へ置きっぱなしにしていたAmazonの空箱になっている。
もっと寝心地の良い場所は他にもいっぱいあるだろうに、わざわざその場所で寝始めてからそろそろ1ヶ月近くになってきた。
Amazonの空箱は、重くて大きなクロの体重につぶされて、猫型に凹んでしまっている。
昼も夜も、だいたいその場所でゴロゴロして身繕いしているか牙と舌先をチラリとのぞかせて爆睡しているかどちらかだ。

クロは、昨夜も同じように同じ場所で寝ていたが、脱走の成功で日頃のストレスが軽減して満足したのか、私が苦しげな咳をしてもだえていても、何時にもましてピクリとも動かないでだらしなく眠りこけていた。
朝方になって、例の吉田家巡回が始まった。
それでなくても体調不良で睡眠不足な私の横を、何度となく鳴きながら往復している。
とても普通に寝ていられる状況でもなくなってオシッコに立った。
節々の痛みに絶えながら階段を一歩ずつ降りかけていると、クロがよりによって私の足元へ絡みついてくる。
1階まであと一歩のところでバランスを崩して大きくふらついた。
どうしたのか?とチラリと振り返って私を見上げたが、ポーカーフェイスの猫顔からは風邪ひきのオヤジを気遣うような心配顔は微塵も感じ取れなかった。
それでも体調不良極まりない私にとってはクロが近くで寝てくれるだけで救いになる。

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それぞれの暮らし 

2017/04/11
Tue. 23:46

キーポンの就職が決まって、卒業式を済ませ1ヶ月のうちに2回の引っ越しも済ませ、本格的な一人暮らしを始めてから、早いもので3週間が過ぎた。
日本全国で就職や進学絡みの引っ越しが集中するこの時期は、都会も田舎も何かと慌ただしい。

島根県の場合は圧倒的に若者の流入より流出が多いだろう。
そんな中、万善寺のある保賀の谷は、広島と兵庫から2人の青年がやってきて住み暮らし始めた。この数年で介護施設入所とか絶縁で空き家が増え、世帯数が減り続けていた保賀地区で、少しほど人口が増加し平均年齢が下がった。

彼らは、先日行われた行政区内一斉清掃の時に地域住民へ紹介され、本格的に年間の地域行事へ参加することになった。そのスタートが国道沿いの一斉清掃だったわけだ。
これから先、グランドゴルフとかソフトボール大会とか、地域のお祭とか、子供会の花火大会とか、そういう福利厚生親睦事業のアレコレに参加してくれと声がかかることになるだろう。
私個人も、まだ転勤族だった頃はこういう「田舎の世間付き合いも大事なことだから」と、自分の本心を飲み込んでスケジュールの許す限り過不足なくお付き合いをさせてもらっていた。その付き合いのサジ加減がなかなか難しくて、引っ越しの度に若干の苦労が絶えなかったが、場数を踏むうちに少しずつ自分の立ち位置を調整できるようになって、ストレスを感じることも無くなった。もともと田舎育ちでもあるし、田舎付き合いの実情を薄々気づいていたから、それも助けになった。
生まれも育ちも東京の都会暮らししか経験のないワイフの方は、私のようには素直に田舎暮らしへ馴染みきれなかったところもあっただろう。それでも、彼女なりの努力で今では私以上に自然に田舎へ溶け込んで暮らしているふうに感じる。

先日、彫刻家の卵になりかけている若い子に木彫の材料を提供した。
もともとストーブの焚付にしようとしていた材料だから、それほどたいした木でもないが、大学を卒業してまだ数年で、業者付き合いも知らなくて材料を仕入れるところから躓いていたらそれだけで制作の意欲も消え失せてしまう。若い時の勢いがあるから出来る彫刻もあるわけだし、まぁ、日常的に暇な部類のオヤジは、「そのくらいのおせっかいをしても良いかな?」と思ったわけだが、そういう行為を思いついて実行するあたりが「田舎的世間付合い」の価値観に通じるようだと気がついて、自分で自分のおせっかいを笑ってしまった。

キーポンの都会暮らしは、ソコソコ気ままに乗り切っているようだ。
都会には田舎のような粘っこい付合いも無いし、若いうちはそれなりの常識を踏み外さない程度に自由な方がいい。
家電や家具も揃わなくて若干不自由であるようだが、それも始めのうちだけのことだ。彼女は、どちらかといえば自分の住処を作り込むほうだから、今は楽しい盛りだろう。
一人飯の写真を送ってくれた。鍋釜冷蔵庫も無い状態でなかなか工夫された夕食だ。

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桜満開 

2017/04/10
Mon. 23:02

「桜って、なにか特別にキレイよね。こんな感じ他にはないよね・・」
銀山街道のすぐ脇にある枝垂れ桜の枯木が満開になった。

私は、毎年その枝垂れ桜の下を何往復も繰り返し走りながら、蕾の頃から満開になってやがて散り終わって葉桜に変わるまで見てきているが、ワイフの方は、この時期に万善寺の用事が重なることもないので、よほど運が良くないと満開の枝垂れ桜を見ることもない。
今年は、3月末から延々と続いている万善寺の家財断捨離に付き合ってくれることが増えて、たまたま桜の満開に遭遇したわけだ。

ワイフと二人の時は、どちらかといえば私のほうが良くしゃべっていると思う。
日常の吉田家では比較的寡黙で無口な方のワイフが、自分の感想を感慨深げに語ることも珍しい。
4人の子供たちが成人して、それぞれ独り立ちして吉田家を離れてから、数十年ぶりに夫婦二人の暮らしが戻ってきた。
結婚して長男のじゅん君が産まれるまでのだいたい3〜4年くらいの若かった頃の二人暮らし以来になる。
それに、先日の私の母親の死亡で嫁の役目も完了して、やっと吉田家コミュニティーのトップに立った。

万善寺の庫裏を片付けていると、憲正さん夫婦の長年の思い出が彼方此方から次々に出てくる。
彼らが結婚した時は、憲正さんの母親が庫裏に同居していただけで、その母親も孫である私の顔を見て10年と経たないうちに他界した。
その後の憲正さん夫婦は、半世紀近くの期間、何から何まで自分たちの思い通りに万善寺を切り盛りして経営することが出来た。
そのことを思うと、我々夫婦はどう頑張ってもせいぜいこれから20年程度しか万善寺の主導を得ることが無い。
住職とその妻の立場で我々に出来ることというと、先代までの過去に溜まり積もった数々のムダを整理して、スッキリとシンプルな状態に整えるくらいしか用がない。
今は特にこれと言って自分たちの名が残るような寺の経営企画など思いつくことも無いし、かといって漫然として仏事を流す程度では生きていけないし、なかなか難しい。

やっと夫婦の二人暮らしが戻ってきたというのに、こういう状態だから先々思い悩むことが尽きない。
甲斐性のないオヤジは、自分のやりたいことばかり優先して、とにかくワイフに苦労ばかりかけている。
一度しかない人生だから、後悔しない毎日を丁寧に積み重ねようと思うようになってきた。
そろそろ、目先の具体なものに思い出を託して溜め込むばかりのチープな暮らしからオサラバする時期でもあるのだろう。

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正純和尚の1日 

2017/04/10
Mon. 06:28

智光正純和尚法事ライブ1日2回公演でダウンの巻・・・
いやぁ〜〜、とにかくハードだった。
前日から万善寺入りして、本堂を法事用に荘厳し、墨を摺って塔婆を2枚書いて、経本など準備した。

1つめの午前中からの法事は、施主家へ訪問。
お参りのご親族もだいたい10人までだろうと予測して檀信徒用の経本を用意しておいたら、なんと15人近くお集まりで、賑やかな法事になった。
施主さんの奥さんが亡くなって1周忌だからということで、参列も増えたのだろう。
年齢層も高齢で、お経が終わってお墓参りをして帰ってみると、昔ながらに手づくりの赤飯とか旬の煮しめが、折膳と一緒にテーブルへビッシリと並べられていた。

万善寺では、法事を前半と後半の2回に分ける。
前半は30分位で、間に、衣を着替えたりする時間を用意して、後半は幾つかの回向を集めると40分位かかる。ここまでで普通に1時間半はかかるが、それにお墓参りをしてお斎の膳を含めると約3時間の法事になる。
施主家へ訪問しての法事はスタートの30分前にはお仏壇の前で荘厳を整えたり改良衣を着替えたりするから、半日仕事と云っていい。
普段は寡黙に暮らす私にとって、鐘や木魚を叩きながら1時間以上もお経を読むことはかなりハードだ。

2つめの法事は午後の2時から万善寺の本堂で始まる。
法事が終わって始まった斎膳の席を中座して、急いで寺へ帰ってお参りの皆さん用にお茶の準備をして位牌堂の荘厳を整えた。
こちらも1周忌法事で、ご親族が集まりやすい時期を調整して納骨と墓石建立を併せて計画された。その関係か遠方からのご親族も参集され、こちらも賑やかな法事になった。墓参を済ませ全てのお経や回向が終わって寺へ帰ったのが夕方の5時前。それから斎膳が用意された保養施設の会場へ向かった。
其処には沸かし湯もあって、宿泊の他に、近所の皆さんが湯入りしたり休憩がてら簡単な食事をしたり出来るようにもなっている。5時からの斎膳は、いわば夕食を兼ねたものになって、坊主の中座の後は2次会も兼ねてカラオケでも始まるのかも知れない。

母親の葬儀で参列してくれたじゅん君が風邪を持って帰って、それをワイフへ移した。そのワイフが鼻水を垂らしながらコツコツと咳を繰り返す間に、どうやら私も風邪をもらったらしい。普段なら、その程度では私にまで風邪が移ることもないのだが、この度は感染してしまったようだ。どこかしら身体が弱っているのだろう。2つの法事が終わって万善寺を片付けて石見銀山へ帰宅すると、咳が我慢できなくなってきた。
ワイフと2人で遅めの夕食を終わったら、一気に1日の疲れが出たようで、夜のメールチェックを始めたはずなのにそのことも記憶にないほどいつの間にか寝てしまっていた。

下手な若い鶯の鳴き声で目覚めると、外はすでに明るくなっていた。

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さくらさく 

2017/04/08
Sat. 23:04

1日中吉田家の書斎へ閉じこもってデスクワークをした。
書斎は、現在2階の町並みに面したひと部屋へ移動している。
もともとはじゅん君が一人で使っていた部屋だったのを、キーポンが引き継いで高校を卒業するまで勉強部屋にしていた・・・はずだが、本来の目的で使われていたことはほとんどなくて、小学校から中学高校を卒業するまで日常のだいたいを私の四畳半の書斎で過ごしていた。
その四畳半の書斎は私の寝室も兼ねている。
どうも落ち着かないから寝るときくらい一人になりたいと、ほとんど使っていないキーポンの部屋へ移動して長い間家庭内別居をしていたワイフを説得して四畳半へ呼び戻していたのに、先頃、倉吉で学生生活をしていたキーポンがめでたく卒業して吉田家へ引き上げると、またその狭い四畳半へ転がり込んできた。
どう考えても、家族三人の居場所として四畳半は狭すぎる。その上、四六時中ネコチャンズもウロウロするし、あまりにも劣悪な環境でデスクワークも思うようにはかどらないから、結局巡り巡って私が2階へ避難することにした。

吉田家の2階にはクローゼットを兼ねたもうひと部屋があって、ノッチが中学を卒業するまで使っていた。
今は完全に物置部屋になっていて、時々私の大衣をたたむくらいにしか使っていない。
書斎移動のドタバタが少し落ち着いた先月の終わり頃、就職の決まったキーポンの引っ越し整理と、ノッチの何度目かの転職就活で必要な過去の資料を探すことが重なって、久しぶりに2階の二部屋が活性した。

ノッチは、吉田家の家庭事情で中学校を卒業と同時に東京の高校へ入学した。
2年生になる前に留学の資料を自分で揃えて親を説得して、高校へ通いながら数カ月の研修を続けて、7月にアメリカへ留学して、1年間をケンタッキーのルイビルで過ごした。
周囲に日本人がいなかったことが幸いして結構英語が喋れるようになったようだし、アメリカの高校で勉強した教科の単位読み替えも上手くいって、帰国してから学年をダブること無く3年間で高校を卒業出来た。大学も自分で決めて受験をしつつ親を説得した。
とにかくノッチは頑固に自力ですべてを決めて乗り切るものだから、親として口を挟むスキもないまま彼女主動でコトが進んだ。
卒業後も特にアクセク就活に励むでもなく、フラフラとフリーター暮らしを続けながら資金を貯めて、上手に彼女の人脈をタグってシンガポールへ渡航し、上司のパワハラに絶えつつ2年近く勤め上げ帰国して今に至っていたはずだったのだが・・・何処からか、アメリカ企業の1年契約求人募集を見つけ出して何度目かの就活に入った・・・ということは聞いていたが、何回かの面接試験をクリアーしてひとまず「補欠採用」というところまでこぎつけたことを聞いたのがつい先日のこと。

夕方までデスクワークをして、ワイフと一緒に万善寺へ移動した。
断捨離の最中にワイフがなにやら大声で話している。
会話の相手はノッチ・・・補欠採用が正採用になって渡米決定!・・あいつは凄い娘だ。

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石見銀山の朝 

2017/04/07
Fri. 21:51

生来の怠け者だから何かしなければいけない事を始めるまで、なかなか心身のエンジンがかからない。
暖気運転で少しずつやる気を引き出して目先のアレコレに取り掛かるのだが、やっといい感じで仕事が回転し始める頃に限って電話がかかってきたり認印の必要な郵便物が配達されたり集金の誰かがやってきたり、その上、自由気ままで身勝手なクロがチョッカイを出してきたり人見知りのシロが珍しく擦り寄ってきたりと、とにかく自分の周辺が落ち着かないまま1日が過ぎる。

母親の葬儀から1週間が過ぎた。
その間、毎日があまりにも早くに過ぎて消えてしまうから、自分の仕事や用事がどんどん後に回ってしまう。大なり小なり肉親の死に別れが精神のダメージを誘うものだと気持ちでは解っているつもりだが、自分の現実となると日々感傷に浸って鬱々としている暇もないほど眼前の客観的事実に責められる。
やはり、世間の他人はそういうもので、他人(ひと)の都合より自分の都合を優先する。

寺での法事が迫っているから、とにかくそれまでに見た目だけでも小奇麗にして平静を取り繕っておかないといけないし、毎日朝から夕方まで食事も忘れて立ち働いていたら、調子の悪い膝がみるみる動かなくなって、階段の昇り降りで膝を曲げる度に激痛が走るようになってきた。
早めに仏壇用の位牌を作っておかないと四十九日に間に合わないから、約45分かけて仏具屋さんまで走った。
「この度は突然のことで・・・」などと形ばかりのお悔やみを頂いた後早速位牌作成の商談に入った。
事務的に粛々と進む会話がとにかく空虚だ。

仏教では四苦八苦の教えがある。
この度の、母親との別れはそれの一つ「愛別離苦」に該当すると云っていいだろう。
これも、自分の人生で避けて通ることの出来ない当然の根本だということは商売柄十分承知していることだが、それが我が身のこととなるとやはりどこかしら気にかかることもあって、素直にゴクリと飲み込むことも難しいところがある。
見た目にはクールに平静を装っていても内心は結構深刻なダメージを受けていたりする。
こういう時になると「自分の人生は、果たして幸せなのだろうか?」などとふと考え始めたりする。
それこそそのことでとろけた脳みそが飽和状態になって大事な仕事の思考システムが断続的にフリーズして何度となく再起動して気持ちを切り替えたりする。

自分の事情は抜きにして、毎日世間は世間の事情で絶え間なく動き続けている。
一方で、とても辛くて心の支えがポキリと折れてしまいそうなときもあるが、とにかく踏ん張るしか無い。
石見銀山の朝は、いやに生暖かくて霧に包まれていた。

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住職の居場所 

2017/04/06
Thu. 23:57

92歳で死んだ母親の葬儀が終わって1週間が過ぎた。
その間、幾つかの法事などを片付けながら万善寺の庫裏を中心に積年溜まり続けた過去をアレコレ断舎離し続けた。まだまだ始まったばかりで何時になったら終わるのか何時になったら片付くのか、まったく予想できない状態である。

もともと、彼女の夫であり私の父であり先代住職であった憲正さんは、自分の私物や仏具などの身の回りのものを人目に触れないようにきちんと整理して仕舞い込むタイプの人だった。その憲正さんの妻であり私の母であった俊江さんは、私からすると病的とも思えるほどモノを大事にして最後の最後まで使い続け、その用途が耐えると色々工夫して他の何かに改変してまた使い続けるといったタイプの人だった。
この二人が結婚してどちらかが先に死ぬまで連れ添って暮らしていたわけだ。
若い頃は身体も動くし、古くなってゴミになったりしたものを焼却したり廃棄したりしてなんとか身の回りを整理しながら暮らしていたが、年齢が増すとともにそれも難しくなり、その上行政指導の厳しいゴミ処理ルールが常識化すると、二人共とたんに生活思考の何処かがショートし始めて断捨離できなくなって、何もかも溜め込むばかりになってしまった。どちらかといえば小さくて狭い極小規模の末寺は、収納という収納へはどこもかしこも目いっぱいにいろいろなものが詰め込まれて、そこから溢れ出たゴミ同然のモノが庫裏の外の軒先まで溜まり続けるまでになっていた。

憲正さんが死んだとき、主を失って行き場の無くなった憲正さんの周囲の幾つかを整理してゴミ処理場へ持っていったことがある。
どう見ても使いみちもなくてゴミにしか見えないものを集めて処分したつもりだったのだが、その中に母親が大事に使っていたモノが幾つかあったようで、その後しばらくのあいだ私を見ると呪文や陀羅尼のように大事なモノを捨てられたと言われ続けた。憲正さんの葬儀に至っては、本堂の片付けで檀家さんが捨ててしまったものにまで恨み節が及んで、「もう、これは彼女の目の黒いうちは見て見ぬふりで当たらず触らず付き合うしか無いな!」と、それからあと私は、目も耳も口も、それに心も閉ざして庫裏を母親に渡した。

それから約2年の間、万善寺の庫裏に掃除を入れたのは寺の仏事と憲正さんの1周忌法要の時だけだった。
母親が死んでこの1週間を掃除や片づけに費やしている息子を見ると、親の思い出を次々に捨てる「まことに薄情な息子だ!」と思われているかもしれないが、万善寺のような小さな寺は、本堂は仏事の式場で、庫裏は式典参加者の待合室で方丈さん方の控え室であり、台所は飲食配膳の厨房となり、隅から隅まで公の場として機能することになるのだ。
そういう時は、住職の居場所も含め寺暮らしの全てを仏事に提供出来るということが、庫裏に暮らす者の生活のルールになって、そこに個人のプライベートは無い。

憲正さんが仕舞い込むタイプの人であったことは坊主として理に適った行為であったわけだ。私には、現住職として少しでも早く万善寺の庫裏を公的使用が可能な本来の施設に戻す役目がある。

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癒やしのクロ 

2017/04/05
Wed. 23:01

結界君が大活躍で、毎日ゴミ処理場へ2〜3往復している。
老夫婦の積年の思い出なのだったのか、とにかくモノが捨てられないまま、寺の本堂や庫裏のアチコチにしまい込まれていて、片付けの終わりがない。

引き物とか大皿とか中元歳暮とかの包装紙。
出先でもらった紙の手提げ袋。
仏具屋さんのカタログ。
日本全国の温泉や宿泊施設のタオルや手ぬぐい。
それに大小の空き箱。
全てがキチンと整理されてしまい込まれてある・・・が、これらは、どう考えても燃えるゴミにするしかしょうがない・・と、思ってしまうのは私だけだろうか?

とにかく、すぐ目の前の目につく物から燃えるゴミを選別してひたすらビニール袋へ詰め込んで、結界君のリヤデッキに載せる。
袋にするとだいたい無理をして10袋くらいを詰み込んでロープでギリギリと縛り上げる。
1回の持ち込みで215円から310円を払い続けているが、そのゴミ処理場と寺を往復しているあいだに燃料が底をついてきたので、最後の往復が終わって燃料ゲージの点滅を見ながらいつもの安いスタンドを目指した。
セルフで給油が満タンになると5100円。
最近は、何をするにもお金が絡む。

4月に入って新年度になって早々からこんなことをしていて良いのだろうかと、ふと思ったりもしたが、こればかりは業者に任せるのもしのびない。90年の人生全てを万善寺へ捧げた先代と、結婚で嫁入してから70年の思い出が詰め込まれた嫁入り道具の数々は、やはり血の繋がった身内の手で整理するのも大事な供養になるはずだ。
私の様子を見かねてなのか、ワイフが1日万善寺へ付き合ってくれた。
彼女へは、寺の食器や台所用品を中心に整理してもらうことにした。
これも、寺のアチコチへしまい込まれていて、それを一つに集めるだけで半日かかった。
晩年は老夫婦の二人暮らしだったし、年に数回の仏事でお参りの檀家さんもせいぜい20人程度だから、おもてなしの食器類もそのくらいの人数がまかなえたら十分だ。

本日の最後はダンボールの整理。
例のごとく、結界君のリヤデッキへ積み込むのだが、結局1回では全てが乗り切らなかった。石見銀山の近所にあるゴミ処理業者さんへ持ち込んだら、ひと山160円で引き取ってくれた。それでも、煙になって消えてなくなるより少しでも再生紙で利用されて資源の無駄にならなければそのほうが良いだろうと、自分を慰めた。

1日中手伝ってくれたワイフは、夕方から婦人会の集会へ出かけた。
疲れたオヤジにクロがさり気なく寄り添ってくれた・・・やたら重くて息苦しいけど・・

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ブッチャケ話し 

2017/04/04
Tue. 23:40

キーポンの国民年金未払いで督促状が来たのは3月の頃だった。
気にはなっていたが、そのままにしておいた結果の督促だ。
この国民年金なるもののシステムが具体的にあまり良く頭に入ってこないから、数年前の自分の時もギリギリになって出雲の年金機構の窓口へ直接出向いて職員の説明を聴きながらイマイチ納得も理解も出来ないまま必要な書類を記入したりした記憶がある。

11月の誕生日でめでたく20歳になったキーポンは、その時から年金の支払い義務が生じて、必要な手続きもしないまま5ヶ月未納分が自動的に溜まって5〜6万円くらいになっているようだった。
そもそも、キーポン本人が年金をもらえる年齢になった時に、今の年金システムがそのまま彼女に適応されるかそれ自体が曖昧なものだと思うから、職員に私の気持ちをブッチャケダイレクトに伝えた。
「20歳になってから5ヶ月分が溜まっているようですが、未納のままにしておいても、結局はその未納分が差し引かれるだけのことでしょう?」
「それはそれは、ご成人おめでとうございます!」
「4月から就職も決まって、その後は厚生年金で処理されるはずですから、結局それも自分のことだし5ヶ月分くらいはそのままにしておいても問題ないでしょう。年金をもらえるようになって、国民年金だぁ厚生年金だぁ申請の書類が増えて面倒になるだけで、自分の時も結構それで大事な時間つぶしましたからね」
「それはそれは、ご就職おめでとうございます!」
・・・まったく、食えないオヤジだ・・・

そんなわけで、学歴証明書なるものを提出しておけば、それで未払いを書面上正当化して証拠資料の保存ということで黙認してあげよう・・という、都合のいいシステムが出来上がっているようだ。
内心、「やっぱりこういう手があったか・・」と納得しつつ、督促状の過激な脅し文句につられて慌てる20歳とその親が全国にどれだけいるのだろうと、ムカツキつつ、満面の笑顔をキッチリ造って「どうもありがとうございましたァ〜、やっぱり、こういうことは窓口で相談するのが一番ですねェ〜、とても助かりましたァ〜」と、丁寧な礼を言ったら、その窓口オヤジは気まずそうに苦笑いを返した。
貯蓄型の保険でもかけておいたほうが変な年金よりずっと安心できると思うんだけどね。

吉田家の夕食は、新鮮な野菜のアレコレとオカラと一人前の砂肝アヒージョ。それにボクの好きなアジのタタキ。
午前中はお経を読みっぱなしだったし、午後は年金オヤジと腹の探り合いだったし、万善寺のゴミ出しもして、吉田家のピアノ搬出もあって、気がつけば朝飯も昼飯も抜きでドタバタしていたから、いつも以上に美味しく感じた夕食だった。
麦とホップがどんどん空いた。昨年末に頂いた日本酒も少し飲んだ。
久しぶりのストーブで心底温まった。
明日は母親の2回目の七日が巡ってくる。さて、導師の方丈さん来てくれるかな??

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ゴミの山 

2017/04/03
Mon. 22:32

気がつくとこの6日間自分の耳に音符のある音が全く入っていない。
「こういうこともあるのだなぁ」と気がついたことに、自分で驚いている。

ワイフは、母親の葬式が終わって、そのまま石見銀山の吉田家へ帰った。
私の方は、母親の白木位牌を守りながら寺暮らしを続けつつ、すでに決まっている法事や七日務めを続けている。
朝のおつとめを終わってから、落ち着く間もなく庫裏の整理をしている。
古いものは明治の頃からの什器や衣類や寝具などがアチコチへしまいこんであって、普通なら手のつけようもないくらい複雑に絡み合っている。
今更ながら、前住職夫婦の物持ちの良さには呆れるほど感心する。

お葬式前の片付けで、目につく目先のモノを片端からゴミにしていたら、人の動線にゴミ袋の山が出来てしまって収集がつかなくなった。
檀家に振ってもワイフに振っても地域のお手伝いへ振っても、だいたいみんな自分のことが優先で、「ハイハイ」と気軽にゴミの始末を引き受けることもないだろうと、はじめから水を向けてお願いすることもしないまま、それでも一番頼みやすいワイフへだけは万善寺の仮のゴミ置き場を指示しておいた。
今日になって少し余裕ができたから、押し込んでおいたゴミの山からひとまず燃えるゴミを集めて町内のゴミ処理場へ持っていった。行政区域が変わると微妙に分別内容も変わってくるから、まずはそのノウハウをチェックしておいたほうが無駄がないだろうと思ったからだ。処理場の受付のご婦人が丁寧に分別システムを伝授してくれた。案の定、寺のゴミの山はとてもいい加減なまま袋へ詰め込んでしまっていた。

もう、かれこれ20年位前のことになる。
まだ憲正さんがそれなりに元気に歩いて、寺の参道を自力で登り下りしていた頃、保賀の集落のほぼ中所にあるゴミ集配所まで1輪車へ山のように寺のゴミを積んでヨチヨチと運んでいたことを思い出す。その後、次第に体力も衰えて集配所までの往復が出来なくなってからは、寺の庫裏のアチコチへゴミを押し込みつつ、一方で燃えるモノはことごとく畑の炭へ持っていって焼却するようになった。

寺の風呂は、葬式の手伝いを兼ねてノッチがセッセと片付けてくれた。それでもたった1日にもならないくらいで全てキレイに片付くわけもなく、掃除が途中のまま東京へ帰っていった。現在は、その状態が手付かずのままだから、ゴミ捨て場経由で石見銀山の吉田家へ向かった。
シャワーを浴びて髭をそった。久しぶりにさっぱりした。
夜になるとまだまだ冷え込むから、薪ストーブがいい働きをしてくれる。
1日中何処かでゴロゴロと寝てばかりいるネコチャンズが、何処からかストーブ周辺へやってくる。あいつらは、人間を上手に使う。ストーブごときで猫に愚痴を言ってもしょうがないが、せめて傷心過労のオヤジに「たまには抱かれてやろうか」くらいの気配りもほしいな。

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お葬式のあとさき 

2017/04/02
Sun. 18:29

母親の骨壷を床の間の観音様の横へ安座した。

その場所は、母が死ぬまで先代の憲正さんの遺影が置かれていて、その前にはお供え物や香炉や花器があって、ちょっとした祭壇のようになっていた。
全ては母親の仕業で、まだ元気なうちは毎日朝晩その遺影へお参りをしていた。
もう1周忌も過ぎて、そろそろ3回忌も来る頃になっても、母親はひたすら憲正さんの写真へ手を合わせていたことになる。
本堂の歴代住職位牌堂へ安座されている憲正さんは、さぞかし寂しい思いをしていたことだろう。

今は、憲正さんの写真に移動してもらって、その場所へ母親入れ代わった。
出来たらこの状態で1周忌までお参り出来ると良いと思っているが、これから1年の間にはいろいろな万善寺の仏事もあるし、49日あたりで納骨することになるかもしれない。
いずれにしても、少ない吉田家の家族と親戚がどれだけ法事へ参集してくれるかわからないから、あまりに寂しい法事になるようだったら、もう少し先まで納骨を引き伸ばすことにもなりそうだ。

ワイフは、お葬式が終わってから子どもたちを最寄りの駅まで送って、その足で石見銀山の吉田家へ帰宅した。
万善寺のある保賀の自治会は、町内のお葬式を手伝うことをJA葬祭へ任せるこちになってからすでに5年は過ぎているはずだ。各家の高齢化が加速して、町内住民だけでお葬式を引き受けることが難しくなってきたからだ。
そのことで、負担が増大したのは喪主とその家族になった。
参集の親族の三度のご飯も、弔問客の接待も、導師の方丈さんのお茶方まで全て喪主家が引き受けることになる。
万善寺というより、吉田家の家族は、私達夫婦と4人の子供の6人家族だから、その数でこれらの全てを遺漏ないように取り仕切ろうと思っただけで目眩がする。
それに、檀家さんが絡んだりすると、もうワイフなどはいつ倒れてもおかしくないほどの心身の疲労を溜めながら立ち働くことになる。
それが、3〜4日続いて、最後は子どもたちの見送りまですることになったわけだから、今日あたりは疲労の度合いもピークに達していて、心配の電話をしたらトロケきった声が電話口から返ってきた。

お葬式の裏で留守になった石見銀山の吉田家では、クロが見事に脱走を成功させていた。
帰宅したワイフの報告によると、ほぼ1日中、人間が留守にした吉田家の玄関から自由に出入りして町内の散歩を楽しんでいたらしい。

ネコチャンズも気になるが、疲れきったワイフの声も気になる。
母親は、もう飯も食うこともなく骨壷に収まっているから、今夜はこれからワイフの様子を見に行ってやろうと思う。

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母死す 

2017/04/01
Sat. 23:37

坊主をやっていると人の死について普通に冷静で客観的で感情の揺れが鈍くなってしまうようなところがある。
それでも、小さな子どもの死とかまだ働き盛りの若い人の死とか突然の事故死とか、そういう時の葬儀はなんともやるせなくてつらいもので、とにかく、最初から最後までキチンと自分が納得できるほどの強い意志を持って見送ることをしなければいけないと自覚しているつもりでもいる。

高齢者の死は、どこかしら当然のように避けることの出来ない死期がやってきて、或る日予告なしにそういう時がきても、親族をはじめ周囲の人々は九分九厘納得して粛々と見送ることもできるほどに心の余裕があったりする。
これがやはり人生のもっとも幸せで目出度い死といえるのかもしれない。
我が身のすぐ近くでそういうことがあると、多少の心の動揺はあるものの、やはりどこかしら死というものに平常心を持って付き合うことができやすいものだと思うこともあって、見送る方も心安らかであったりする。

3月のお彼岸を過ぎて彼岸あけを待ったように、私の母親が92歳で死んだ。
普通だったら何の問題もなく大往生で、ある意味目出度い部類の死を迎えたと云うべきだろうが、私と私の母の間にある「死」という事実には、いまひとつ納得できないわだかまりが残ったし、どこかしら自分の自分に対する負い目を意識せざるを得ないものになってしまった。
これからの私には、その一点が心のわだかまりとなって生涯ついてまわることであると自覚している。
そのわだかまりとは母を「孤独死」させてしまったということ。
誰にも看取られること無く一人で死んでいった母は随分と寂しい思いをしたことだろう。
常に頑固でプライドの高い人であった母ではあるが、何事にも強い人であったわけではない。
どちらかといえば、甘えん坊で寂しがり屋で、臆病者であったようにも思う。
そういう母が、息子の私に対してはとにかく素直になれない自分がいて、どうしてもどこかしら自分に正直でいられないところもあって、常にそのジレンマに苦しみながら息子の私と接していたような気がした。
そうであるなら、母は最後まで自分の意思を貫いて死んでいったとも言えるかもしれない。
つまり、私はこれから死ぬまで母を越えることが出来ないまま生き続けなければいけないということである。
そういう死に方をした母は、やはりとても強い人であったということである。
軟弱でワガママでナマケモノの私など、母の足元にも及ばないほどのケチなオヤジであるということ。

葬儀から初七日の法事は、3月の年度末から4月の年度スタートをまたがった。

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2017-04