FC2ブログ

工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

如愚 

2017/12/21
Thu. 20:41

如愚~ぐのごとし~
有能であり利口であることが目指す先であれば、それは楽なこと
あたりまえのことがあたりまえにできること
それは、誰かのためにでなく自分のためになること
コツコツと精一杯のおこないの継続は難しい
何に対してもどんな時も、常にベストを尽くす先に真の結果がみえる
~~~~~~~~~~~~
2018年の4~6月カレンダーの言葉。
万善寺では、朝課やお正月三ヶ日のおつとめなどに「宝鏡三昧」というお経を読む。
そのお経の最後の方に、「如愚如魯」の一句がある。
「愚」も「魯」も似たような意味で、それを二つ続けてあるところに、ことの重大さがうかがえる。

万善寺の毎日は、だいたい似たようなことを続けながら過ぎていく。
小さな山寺であっても、年末の今の時期は1日に何回か宅急便が届くこともあるから、こちらの都合で寺を離れることが出来ない・・・というより、出来る限り寺にいるようにする。お正月の1ヶ月も年始のお参りがあったりするから同じような寺暮らしが続く。
ザックリと云ってしまえば、寺に居ることが坊主の仕事ということだ。
私も最近になってやっと「住職(じゅうしょく)」と呼ばれることが増えてきた。
この住職はつまり、「住む職業」であるというわけで、坊主であるなら、「フラフラとアチコチ出歩かないで、日々修行に励みつつ、御本尊様を守り寺の維持管理に励みなさい!」といわれているようなものだ。
私の場合は、檀家も少ないし彫刻を造ったりもしているから素直に粛々と住職暮らしを続けることにはならないが、お檀家さんからの法事収入で家計を賄えるほどの住職なら、それも可能になるというわけだ。いずれにしても、コツコツと実直に仏道修行に励むということが大事なことだと、宝鏡三昧で教えていただいていることになる。

こういう教えは、坊主である以前にひとりの人間として、とても重要な生き方の指針であると思っている。
彫刻に向かい彫刻を造る姿勢もそうでなければいけないと思っている。
ただ闇雲に気持ちの動くまま身体の動くまま、造りたいものをひたすら造り続けているだけで良いのか?
自分の個人的感情とか主観の塊の自己満足で彫刻を造り続けていて良いのか?
誰でも一つ事をそれなりに長く続けていればそれなりの技術や技巧も身につくし、上達もする。だいたいの制作の方向性が決まったら、それほど苦労することもなく技術や技巧を駆使してそれなりの完成度を保つ彫刻を造ることも出来るようになるだろう。
・・・それで良いのか??
ある程度の熟練の彫刻家がそういう安直な思考で彫刻を造っていてそれで良いのか?
自分にできる表現の原点で造形の提案であったりするものが、彫刻という表現形態を借りてひとの感動を刺激し気持ちのゆらぎを引き出すほどに昇華したいなぁ〜と思うけど・・・

IMG_0791.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

2017-12