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工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

道の駅ツアー 

2018/04/30
Mon. 23:20

世間では春の大型連休がはじまった。
吉田的には、特にいつもと変わらない毎日が過ぎている・・・ということは、ようするに毎日が連休のようなものだから・・・です。
これで、鉄の材料が週末までに届いていれば工場にこもって草取り機の制作が出来ていたのだが、炭素の入った鋼材はすぐに取り寄せが出来ないまま、いつもの業者さんと何回か電話のやり取りをして、結局直近納品でも連休明けになってしまった。

朝からなにもしないでゴロゴロしているのもヒマすぎて飽きるし、いつものように通勤坊主となるとせっかくの連休でワイフを家に残して乏しい会話も一層乏しくなって殺伐とするし、ウツラウツラしながらそんなことを思っていた。
連休後半は、万善寺の用事がいくつか入っていて、それから、1年ぶりにキーポンが帰省することが決まって、それなりに自分の周囲が賑わいそうな気もする。

「そうだ!道の駅ツアーをしよう!!」
最近、自分のことばかりでワイフとの距離が遠くなっている。
この際、石見銀山を起点にして、島根から県境を越えて広島県まで足を伸ばして春の旬を目当ての道の駅めぐりを思い立った。
「良いわよ・・・でかけてみようか?」と、ワイフから珍しく気軽にOKがでた。
浜原ダムのところで江の川沿いの道に合流した。
国道54号は、北上すると万善寺へ向うが、南下すると広島県との県境を越える。
周囲は海抜1000m級の山々に囲まれて、石見銀山あたりからは2週間ほど春が遅く感じる。旬のものというと、孟宗竹の筍が少し時期を過ぎたくらいだろうか?ワラビとかフキとか、他にも天ぷらのネタになるような山菜がタップリ揃っているはずだ。

大きな盆地で雲海がキレイな三次まであと少しというところまで南下して途中から国道を左折した。そのまま東へ進むと松江尾道道の俗称やまなみ街道へ合流する。そのあたりに広がる君田は高原の町で周囲に中国山地が遠望できる。公共の温泉施設に併設されて道の駅があって、駐車場は連休の車でいっぱいだった。最近再流行中のキャンピングカーとバイクオヤジ集団もいて賑やかだ。
いつものことだが、ワイフの買い物は私が隣りにいると落ち着かないという。暇つぶしはいくらでもあるから特に不都合もないし、彼女の買い物の邪魔にならないように遠慮して車で待つことが多い。君田では、野草の鉢物とアスパラガスを買って戻ってきた。それからやまなみ街道へ乗って高野町の道の駅まで北上した。連休の車で駐車場がいっぱいだったから、いつもは使わない空き地が臨時駐車場になっていた。アチコチで犬が散歩していて、家族連れがお昼の弁当を広げていた。山菜というより地物の野菜が豊富にあって、ワイフはまたアスパラガスを買った。即席のテント村が出来ていて手打ちそばが美味そうだったからワイフと食べた。高野町はこんにゃくの産地でもあるらしい。ジックリと煮込んでだし汁の染み込んだ串刺しのこんにゃくも美味かった。それから、島根県に入って道の駅をあと2つ経由して、石見銀山の吉田家へ到着した時には、満腹になっていた。
ワイフの道の駅ツアーは、それなりに満足したようでメデタシメデタシ・・・!

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聖地 

2018/04/29
Sun. 23:47

この1週間で落葉樹の新芽が一気に開いた。
やわらかな萌黄のグラデーションが中国山地一面に広がってマイナスイオンが満ち溢れて降り注いでいる。
街道沿いの斜面では、所々に山吹や山藤が咲き、春の花が入れ替わってきた。

そろそろ結界くんから銀くんへ代わって1ヶ月になる。
いまだにシフトチェンジが慣れなくて緊張しているが、燃費だけは良くなった。ワイフが助手席へ乗るたびに、シートがフカフカで座り心地が良いと云う。私には、実はそれがいまひとつ気に入らない。前の結界くんのほうがガッチリしていて業務用のハードな使用に耐えられるつくりだったと思う。今の銀くんは、見た目はいかつい今風の悪人面にまとめられているが、中身は限りなく乗用車仕様になって軟弱に動く。いずれにしても、多少の不満はあっても、とにかくそれで慣れるしか無いから、少しでもはやく銀くんがボクの相棒で欠かせない存在になってくれるよう努力するしかないと思っている。

それはまだ、4月のはじめで山桜が咲いていた頃。
銀山街道沿いにある平屋の家にユンボが入った。
その家は、昨年の初夏頃のことだったろうか・・・お葬式があった。万善寺との往復で、その参列に遭遇したからよく記憶している。浄土真宗のご院家さん2人ばかりが葬列に混じって、これも銀山街道のすぐ脇にある寄せ墓へ移動中だった。
前日の夕方、万善寺をすませて石見銀山へ帰宅する途中には、周辺の住民がご親族に混ざって喪主家の坂道にあふれていた。通夜が始まる少し前の頃だった。
お葬式の次の日、その平屋前を通過すると、寄せ墓には生花がビッシリと供えられていて、庭先に乗用車が2台停まっていた。そして、また次の日通勤坊主で通過した時は2台の乗用車が無かった。
たぶんその平屋は、その日を境にして空き家になったのだと思う。
1年足らずの間にユンボが入って平屋が1軒解体されて更地になったわけだが、それにしても、まれに見るハイペースのことだった。その絶縁の家は、1周忌の法要を待たないまま暮らしの痕跡も消えて、山野に帰った。街道脇に残された寄せ墓もこのまま野ざらしの無縁墓になっていくのだろうか・・・

たぶん、カトリーナだっただろうか?・・・猛烈なハリーケーンの直撃を受けて壊滅状態になったJAZZの聖地ニューオリンズへノッチが旅行したようだ。フロリダからは飛行機で1時間位らしく、東京羽田と出雲空港でも1時間半はかかるから、旅行といっても現地では「チョットそこまで・・」という感覚なのだろう。
JAZZというと、お父さんの聖地はライブは新宿ピットイン(昔の場所ね・・・)、喫茶とバーは新宿のDIGとDUG(今もあるのだろうか??・・)だった。
私とJAZZの出会いは18歳で上京してからあとのことだった。バイトの金を貯めてTEACのドルビー付きカセットデッキを買ってから、PIONEERのプリメインアンプ、DIATONEのスピーカー、それにDENONのダイレクトドライブプレーヤーと、お金を貯めては買い揃えながら、少しずつJAZZにのめり込んでいった。

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石見銀山の夜 

2018/04/28
Sat. 23:10

いまさらいい歳して誕生日に浮かれることも無いと、気持ちでは思っているし、特にあらたまって何かすることも無いまま過ごしているつもりだったが、夕食にはワイフがいつも以上のご馳走をたくさん造ってくれて、それにボクの好物まで幾つか散りばめてくれたりするものだから、なんとなく気持ちも高揚してきはじめたところへ、子供たちが時間差のSNSで「おめでとう!」などと云ってきてくれたりして、ジワリと実感が湧いてきた。
こうして、自分の誕生日をお祝いしてもらうのも、せいぜいあと20回も続けば良いほうだろう。ひょっとしたら、そのうち自分で自分の生まれた月日を忘れてしまうことも十分に考えられるし、まぁ、とにかく、そういう先が見える年齢になってきたということだ。

夕食が終わってからゴロリと横になってウツラウツラしていたのだが、日が変わる頃になるとなんとなく目が冴えて眠れなくなってしまったから、小さな音でウエブラジオを垂れ流ししながらKindleの無料小説を読み始めた。
基本的に、本は昔ながらの紙媒体のアナログが好きなのだが、老眼へ乱視が混ざったような年齢相応にくたびれた視力を駆使して夜の電灯の下で文庫本の小さな文字を追いかけるとなると結構な体力を使うことになって、今読んでいる長編などはストーリーの展開を追いかけることがつらくなってしまってなかなか本の中へはまり込むことができなくなってしまった。だから、そういう時にはiPadにダウンロードした小説がとても便利で都合がいい。周囲が真っ暗でも、バックライトと文字の調節でストレス無く読みやすくなる。真夜中に、エコーのたっぷり効いたアルトサックスのフュージョンなど聴きながら文字を追いかけていると、時間の過ぎることを忘れてしまう。

本のおかげで朝の目覚めが少々辛かった。
重い体を銀くんへ乗せて万善寺へ向かった。
銀山街道から出雲街道のあたりは、田仕事が一気に進んで早いところは早生の田植えが終わっている。保賀の谷も用水路から水が引かれて半年ぶりに田んぼが活気づいている。
夕方からは卓ちゃんと飲むことになっているから、寺の用事を早めに切りあげてから上組班長の用事で配り物をして回った。
石見銀山へ帰った頃にはもう周囲が暗くなりかけていた。予定の時間から少し遅刻したようなのでワイフにお願いして町内の会場へ送ってもらった。
最近は、石見銀山の町内で飲むことも激減した。会場はすでに盛り上がって賑わっていたが、私が知っている顔は少なかった。紹介をすることもされることも無いままその場の成り行きで飲み会の輪に入った。ビールからはじまって途中日本酒のぬる燗を経由してシングルモルトに変わってそれで落ち着いた。
前回卓ちゃんと飲んだのも石見銀山だった。
会話の流れで銀座の彫刻展のことになったら、「アレ?DM届いてないんだけど??」と卓ちゃんが云うものだから「だって、住所知らないもの・・・」「そぉ〜かぁ〜!そりゃぁ〜失礼しました!!」で、かれこれ30年ぶりにやっと名刺をもらった。まぁ、学校の同級生であっても、そういうクールな付き合いがいまだに続いているということ。
そのうち、蝋燭のついたケーキが登場した。会場に集っていた誰かの子供がボクと1日違いで誕生日だったらしい。

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今日はボクの誕生日 

2018/04/27
Fri. 23:15

朝からワイフを出雲まで送った。
彼女の用事はだいたい2時間足らずで終わるから、その間ボクの新しい相棒銀くんのスピーカーを慣らしがてらウエブ配信のJAZZを聴きつつ獏さんの長編を読んでいた。

出雲にはBOOK OFFがあるから、こまめに古本をチェックし続けていればソコソコ掘り出し物が出てきてストックを切らすことも無いのだが、最近はどうもうまい具合に寄り道する機会をつくれないことが増えた。たとえば獏さんのような人気作家は、なかなか新しい古本??にめぐり合えないし、最近亡くなった葉室さんの古本も品揃えが悪いし、やはり古本だけで自分の都合をまかなおうと思うと限界があるようだ。

用事が終わったワイフがたまには落ち着いて買い物をしたいと云うので、スーパーまで送り届けてからとっても久しぶりにコメダ珈琲へ寄った。
コメダ珈琲は無料のWi-Fiが使えるのでデスクワークに都合よく利用する。いつもは周囲の雑音も特に気にならないし、それなりに集中できるのだが、今日はとにかく隣の親父二人連れがやたらとうるさかった。しばらく我慢してラップトップをつついていたが、どうも集中できないし我慢できないからiPhoneにイヤフォンを繋いだ。
出雲は、俗に言う出雲弁のお膝元で、吉田周辺も出雲に親戚があるし、仕事も出雲弁圏内のお付き合いが多いからだいたいの出雲弁は理解出来ているが、飯南高原の万善寺周辺はどちらかというと広島弁が強く入っているし、石見銀山の周辺は石見弁が主流だから、どうも出雲弁に馴染むことが出来ない。なんとなく居心地が悪くて落ち着かないから珈琲のおかわりでもしようかと考えていたら「買い物終わった!降りたところで待ってる!」と、思ったより早くワイフから電話が入った。せっかく久しぶりのコメダ珈琲だったのに、なんとなく不満が残った。

帰りに、美味しい手作りパン屋さんへ寄った。できたてホヤホヤのまだ温かいパンを冷めないうちに食べた。特に何をするでもない1日が少しずつ過ぎていく。たまにはこういう日があってもいい。パンのおかげであまり腹も減らないから「夕食は遅くてもいいよ」とワイフへ云っておいたが、台所にいる時間がなにやらいつもにも増して長い。
獏さんの続きを読んでいたら玄関で「こんにちわぁ〜」と声がする。どうせワイフの用事だと思うから無視していたら「しょぉ〜じゅん、いるぅ〜〜?」と聞こえてきて、自分の用事だと気付いた。慌てて土間へ下りたら、逆光に2人の男が立っている。目が慣れると一人は近所の会社役員でもう一人は卓ちゃんだった。そう云えば卓ちゃんが仕事で石見銀山へ来るから「確か明日だったはずだけど・・・」一緒に飲もうと誘われていた。
卓ちゃんは大学時代の同級生で、今は銀座三丁目に自分のデザイン事務所を持ってバリバリ活躍している。NHKのテレビにも出たりしているようだが、吉田には縁がないからいつもスルーしている。学生の頃は時々一緒に飲む付き合いだったから、今でもそれでいいと思っている。

今日はボクの誕生日だった。それでワイフがセッセと料理を作ってくれていたのだった。久しぶりの買い物は、ボクへのプレゼントでユニクロのシャツ2枚・・・幸せなことだ!

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墓納め 

2018/04/26
Thu. 23:31

大田市の地震は、その後情報通の「〜〜だげな話し」をまとめると、どうやら石見銀山の幾つかある谷の一つで釜屋間歩の近所が震源地らしい・・・という、もっともらしい話題が住民の一部で飛び交っているようだ。
情報通の中には市役所のリタイヤ組もいるから、まんざら大嘘でも無いような気もするが、本当のことはわからない。吉田個人は俗にいう世間話とか野次馬的情報収集に積極的でないところがあるので、石見銀山の住民を中心に、震源近くで暮らしていて実際に被害を受けた当事者にとってはひとごとでないから微細な情報にいつも以上に敏感になっている時期でもあるだろうそういうことも、なんとなくどこか遠いところの出来事のように感じてしまっている。
一種の余震なのだろうが、忘れた頃にドンと地面を突き上げるような地鳴りと揺れが来ることがある。最初の地震の時は飯も食べないで1日以上も何処かに潜り込んでいたネコチャンズも最近は余震があっても毎日の生活の一部へ組み込まれたように無反応でいることが増えた。私の方は、冬の強力寒波で苦労したこともあるし、念のために高いところの物を降ろして片付けたり2Lの水を常備したりして防災の意識を少しだけ強化している。もうずいぶん前のことになるが、東日本大震災の後にウエブブックで東京防災が無料配布されたことがあって、そのときダウンロードしておいた本を今更ながら読み返したりしている。

さて、愚図ついていた空も、少しずつ青空が広がって春風の爽やかさを通り越して暑さを持て余すくらいになってきた。
もう2年ほどは前からのことになるだろうか?・・・随分前に絶縁になった万善寺の檀家さんがあって、その遠いご親族が細々とお墓を守っていらっしゃったのが、そろそろそれも限界だということで墓納め(墓仕舞い)を思いつかれた。
前住職の頃は、役場も特に込み入った書類様式があるわけでもなくて、当事者と菩提寺のお茶飲み話程度のことでそっくり何とかしてお経を一つ読んで済ませていたようなことが、平成の代になった頃からしだいに面倒なことになってきて、それで結局誰が何をすることもなくモタモタと時間だけだ過ぎて、それこそ同じことの繰り返しを電話で話したり話されたりして先に進まないから、田舎坊主の無い知恵を絞って、必要な諸経費を中心に年回を割り出したりして具体的な費用を数字に置き換えた。俗に言う永代供養のようなものなのだが、仏教の世界も何かしらのたたき台が用意されていないと話しにならないような時代になって、今更「信心」がどうこう云うほどの心の余裕もなくなってしまった。
それで、そのデータを元にクドクドと説得のような話を繰り返して、納得されたかどうかわからないまま、粛々と一つ一つの決まり事を終了して、万善寺の舎利棚殿へ納骨の仮安座を済ませた。
もちろん、遠方であるからとか、仕事の用が外せないとか幾つかの理由があって縁者の参列は無い。墓石の始末を依頼した石屋さんと一緒に拾骨をして、お骨をまとめて火葬にして、骨壷ひとつに集めて、それに付随した供養のお経を読んだ。
こういう一連のおつとめが、丁寧なのか粗末なのか比べる対象が無いのでなんとも曖昧なままなのだが、それでも何もしないわけにもいかないし、そういうことで1日が終わる頃には、白衣や襦袢が自分の流した汗で湿るほどだった。

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衣笠さんのこと 

2018/04/25
Wed. 23:58

月曜日の深夜というか火曜日の早朝というか・・・
雨の音とクロの夜回り徘徊で目が覚めて、しばらく寝付けなくなったのでiPadを引き寄せてウエブニュースを見ていたら、衣笠さんの訃報記事が目に入った。その時は、あまり具体的な情報はまだなかったから、そういうこともあってなかなかすぐには信じることができなかった。それで目が冴えて朝まで眠られないまま過ぎた。
衣笠さんには失礼かもしれないが、一度見たら忘れられない特徴的な顔だったから、広島カープがセリーグ最下位を爆走中から覚えて知っていた。もう昔のことだから記憶が前後して曖昧なところもあるが、確か、山本さんのほうが少しあとから広島カープへ入団されたようなきがする。広島カープがあまりに弱すぎるものだから、監督がコロコロ変わってとにかくなんとも不甲斐ない負け方をすることばかりだったが、何故か巨人戦になるとそれがあの弱いばかりの同じ球団かと疑ってしまうほど粘り強い野球になって、ワクワクしながら白黒テレビを見ていた覚えがある。

眠れないままあの頃のことを少しずつ思い出していた。
実を言うと、野球はそれ程好きなわけでもない。理由は幾つかあって、たとえば、島根県の田舎でいると、大人も子供も自分の周辺の90%はジャイアンツファンばかりだったということ。子供ながらに、広島はすぐ隣の県なのにどうして近所の球団を応援しないのだろうと不思議に思った。だから、学校での男子の会話も野球のことはジャイアンツのことばかりでそれがとにかく自分には面白くもなんとも無かった。本格的というわけでもないが、あまりストレス無く野球情報が入るようになったのは、上京してからあとのことだった。アルバイトの先にはスポーツ新聞が常設してあって、絶え間なく連日の野球情報が入ってくるから、その活字を通して試合の状況を想像していた。それでも、周囲は圧倒的にジャイアンツファンが多かったから、隠れカープファンの吉田は実に居心地が悪いまま何年も過ぎた。
あれは、ワイフとも知り合って、そろそろ将来のことも真剣に決めなければいけないと思い始めた頃だったと思う。山本さんや衣笠さんを中心に広島カープの選手たちの役割が少しずつ噛み合って、高橋さんがよく走り、福士さんがよく投げ、それから津田さん川口さん北別府さん大野さんやそれに金田さんとか山根さんとか・・・まぁ、とにかくみんな凄い選手で、江夏さんまで加わったりしてもう、広島カープが大変なことになっていった。

とにかく、衣笠さんは私の好きな野球人であった。訃報のあとに色々な情報で知ったことだが、彼は部類の洋楽好きだったということだ。ジャズとかブルースとか最近ではブルーノ・マーズまでよく聴いていらしたようだ。そういうことがわかってよけいに好きになった。それに、ボク的には彼が生涯監督をしなかったことの潔さが好きだ。
吉田は、いつの頃からか石見銀山では鉄人と呼ばれてもう30年近くなる。たぶん、鉄で彫刻を造っているからそれと繋がったのかもしれないが、自分としては鉄人衣笠さんのことが頭の隅に記憶されているから、なんとも恥ずかしく嬉しくもあって、そういうこともあって、メールのアドレスに使わせてもらったりしているわけであります。
安西水丸さんとドッコイくらい衣笠さんはこれからも忘れられない人であり続けるはずです・・・合掌・・・

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坊主の都合 

2018/04/24
Tue. 23:14

雨が本格的に降っている。
この雨で、寺の境内は一気に草が伸びることになるだろう。
母親が生きていてまだ元気だった頃は、この時期にJAの販売する除草剤を大量に蒔いていた。○○は枯れるが、△△や□□は大丈夫だから安心して使っても良い・・・などと、もっともらしいいことを云いながら「大丈夫大丈夫!」と境内の隅々まで除草剤の水溶液が入ったジョロを持ってヨチヨチ歩いていたことを思い出す。
資源ゴミが溜まってきたのでそれを集めてリサイクルセンターへ持っていく時に、母親の残していた農業関係の容器類を何の気なしに一緒にして持っていったら、仕分けしていた職員の人から「これは農薬関係ですから、処分はJAの方でお願いします」と差し戻しを受けた。田舎の事情がいまだによくわからないまま寺の暮らしを続けているようなところがあって、そういうこともあってなかなか一気に片付かなくて困っている。

そんなこんなで、寺の用事もなかなかすんなりと回らないまま毎日がアッという間に過ぎてしまう。
組寺付き合いの手間替え法要がはじまった。
毎年4月の21日は、お付き合いのある臨済宗のお寺でお大師講法要が厳修される。
だいたい、1年の付き合いのはじまりがこの法要になっていたのだが、今年は、同宗の方丈さんが一人減った。その上もう一人は導師さんの都合で法要が1日ズレて、自分の寺の都合と重なったりと、何か居心地の悪い落ち着かない法要になった。万善寺の場合は、住職だけ(ボク一人のことね)ですべてを仕切ってしまうような法要は、自分の都合の良いように動かしながら周辺へお参りを告知しているが、こうして、近所の坊さんの手間替え随喜をお願いする時は、原則として日時を動かすようなことはしない。理由はザックリまとめると二つあって、一つは現実的都合ともう一つは宗教的都合。
別に、小難しい理由があるわけでもないが、現実的都合というのは、我々坊主のスケジュール管理の問題。1年で外せない手間替え随喜法要は、お互い暗黙のうちにその日時を軸にして周辺の行動を予定計画しておくから、それをチョコチョコとむやみに動かされても困ってしまうわけだ。今度の万善寺大般若会法要移動に関しても、2年ほど前から周辺に告知して承諾を得たものだ。
そして大事なのが宗教的都合。
そもそも、それぞれの寺が厳修する法要は、その日にそれなりの意味があってのことなので、住職坊主の都合でむやみにその日を変えることはよろしくないことなのだ。
たとえば、弘法大師さんのご縁日である21日は、月命日に当っていて、毎月1回、年に12回ほどは、その日を特別な日として供養法要をしていることになる。面倒臭いことを云うと、宗門は弘法大師さんとは宗派が違うから、供養法要の厳修が義務付けられているわけではないが、万善寺住職のような地域密着型の田舎坊主は、近所のお寺とかお堂とかそういうところで弘法大師さんがお祀りされていて、何かしらの供養を依頼されれば、NOということもなく、セッセとお経を読んで弘法大師さんのご真言をお唱えしているわけだ。

坊主も人間だから、一人ひとり頭の数だけ考えや思いの違いがあって当然のことだが、それをわかってゴクリと飲みこんでソコソコ波風を静めながら付き合っているのです。

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雨の月曜日 

2018/04/23
Mon. 23:43

予報では一日中雨になるということだった。
朝からワイフと出雲へ出かけることになっていたので、雨の9号線を東進した。
いつもだとこういう早い時間帯は銀山街道をノンビリ走ることばかりで、交通量の多い道を走ることがない。
ほとんどが通勤の車列なのだろうが、これが月曜日から毎日続くのだと思うと、自分にはとても耐えられない。それに、銀くん(リタイヤした結界君の代わりになってくれたボクの新しい相棒)はミッションだから渋滞のノロノロ運転に弱い上に、現在右足の不調が続いているオヤジにとっては、アクセルとブレーキの踏み分けだけでも結構なハードワークになっているから、よけいに耐えられない。
そんな感じで、半日かけて出雲の往復を済ませた。

昼から半日ほど空いたので、少しでも身体を休めておこうと、吉田家で過ごすことにした。
雨のせいというより、この数日が逆に暖かすぎたからいつもより肌寒く感じる。
暖かかったせいで一気にネコチャンズの猫草が伸びて、彼等の食いつきが良いものだから、もう少し補充してやることにした。
基本的に面倒くさいことは避けて通るボクではあるが、一方で、自分の気が向いたコトにはこまめに立ち動くことも結構あって、この猫草栽培も苦にならないし、むしろ発芽の楽しみがあって世話をしたくなってしまう。種をせっせと並べていると、クロがちょっかいを出しに来たりして、そのあたりの距離感も良い。

一仕事というほどたいしたことでもない用事を済ませてから、先日依頼のあったグランドの草取り機の材料計算をした。
前回制作した時の記録写真を探してみると、2015年の3月末のことだった。
そう云えば、あれは校長まで勤め上げて退職した友人の退職記念品で造ったものだった。あの時の縁もあって、今回もその彼がつなぎの役目をすることになったのだろう。
前回もそうだったが、依頼から制作して納品までの日数に余裕がない。
学校の先生は総じて物心ついた頃から定年退職するまで学校の塀の中で暮らしてモノを考えているようなところがあるから、世間的に知識人を通していても、その知識の領域がだいたいに机上の学問へ偏っているようなところがある。1年の行事にしても、学校行事中心で人生の殆どを乗り切っているから、色々な職種や年齢層が入り乱れて暮らしている一般的な社会構造には少しばかり縁遠いようなところもある気がする。そういう人が、退職して第2の人生を送るとなると、地域の社会教育とか公民館活動とか民生委員とか、そのあたりのどこかしら教育機関の影が見え隠れするような役職に滑り込むことも多くて、友人の彼などは紛れもなくその常道を脇目も振らないで歩き続けているような人だ。だからといって、それが悪いわけでもないし、その人の聖職であるかもしれないし、それはそれで誰かが勤め上げなければいけない立派な役職のことであるから、適材適所で実力を発揮していただくことが一番いいことだと思う。
だいたいが周囲を斜めに見て自分に都合よく楽に楽に生きようとばかり思っているようなボクにはとても出来ないことであります。

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吉田家のこと 

2018/04/22
Sun. 23:06

最近、家族LINEでノッチの動きが活発になってきた。
少し前にワシントンDCへ行った時の写真を載せていたが、それから直後にメキシコの写真を載せてきた。夏の終わりには帰国するから、その前に出来るだけ色々なところへ行っておこうと思っているのかもしれない。

先日、吉田家の子供たちがお世話になっていた小学校の頃の先生とバッタリ出先で会った。今は子供たちも独り立ちしてそれぞれに暮らすまでになっているから、もうその先生とはずいぶん長い間接点のないままだったが、さすがに商売柄というものなのだろう、4人の子供の名前をみんな覚えてくれていて感心した。
キーポンはあの頃まだおむつのとれないほどの赤ん坊で、そのことまで思い出してくれて、今はどうしてると聞かれたので、東京で保育士をしていて1歳児のクラスを担当していると云ったら、「えぇ〜〜、あの赤ちゃんがぁ〜〜!!」と、元々丸い目をもっと真ん丸にして驚いていた。
なっちゃんは結婚したと云ったら、「もうそんな歳になったんだぁ〜」と昔の色々なコトを思い出したように「あの子はシッカリした子だったから・・・」と懐かしがってくれた。
じゅん君はどうしてると聞かれたので「隠岐の海士町で音楽の講師になっている」と云ったら、さすがに現役の先生だけあって、隠岐事情もソコソコ詳しいふうに、しきりにウンウンうなづいていた。
ノッチはフロリダにいて、そろそろ帰ってくると話したら、どういうわけでそうなったのか興味津々に質問を受けた。「実は、うちの近所でも外国で働いている若い人が増えていて、最近のブームなんでしょうかねぇ?」と聞き返された。たまたま吉田家の家族で一人の子供がそういうふうに暮らしているだけのことだから、世間の事情はよくわからないものの、そう云われれば、自分の周辺でも似たような暮らしぶりの青年がいることを思い出した。彼は、ノッチ以上にアクティブで、一定期間働いてお金をためたら、また次の場所へ放浪の旅を続けるとった暮らしを続けていた。

ノッチもそうだが、自分の思い通りにやりたいことが出来るのも人生のホンの短い間だけのことだ。そういう機会を失ってしまえば、なかなか次の好機に巡り合うことも難しい。あとになって後悔してもどうなるわけでもないし、周囲のしがらみで不自由しないうちにやりたいことをしておいたほうが良いと、自分の経験上そう思っている。だから、吉田家の子供たちには親の方から先々のコトを押し付けるつもりもなかったし、だいたい彼等の自由意志を汲み取って付き合ってきたつもりでいる。
それでも、幾つかは面倒なこともあって、たとえば、ノッチの国民健康保険にしてもその一つ。昔暮らしていた住所から上手に転送されて、保険料の督促や支払い通知が吉田家に届いた。総額数十万になっているが、それも個人の都合だから、親の方で身代わりに納入しようなどという気はない。
オヤジの世代でも誰のために保険料を払っているのかわからないような先々不透明な日本の国政が、ノッチの世代にどうなっているのかも予測不能だし、まぁ、自分のことは自分で考えて決めていただくのがいちばん妥当かなと思っている。

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まずは鉛筆削り 

2018/04/21
Sat. 23:24

江津にあるキリスト教系の高校へ1ヶ月に2回程度通いはじめて4年目になるだろうか?
全寮制の学校で、先生の家族も同じ敷地内で暮らしながらみんなで共同生活をしている。
系列の学校が全国に数カ所あるらしいが、詳しいことは知らない。

まがりなりにも仏教の坊主がキリスト教の学校へ行くというのもどうかと思ったが、その学校の校長先生とは私が30代の頃から知り合いで、彼がまだ独身だった頃からそれなりに親しく付き合っていた仲だし、断ることも出来にくくて1ヶ月に2日位ならなんとかなるだろうと引き受けている。
それで、何をするかというと、美術全般のなんでもアリ的生徒活動の支援。
俗に言う高校の芸術美術の授業のような堅苦しいことはしないでいいということだから、気楽でいられる。生徒たちは自分の希望を幾つか提出して、その中から好きな科目を決めていくようになっている。今までは美術系の選択者が2〜3人程度だったから、そのくらいの人数なら自分の道具や材料を提供しながらなんとか1年位は乗り切れていて、かえってそれが遠慮もなくて良かった。
4月に入って新年度になってからなんの連絡も入らなかったから、今年は少なくても半年間は江津方面へ出かけることもないだろうと思っていたら、1週間くらい前にいつも美術を担当している先生から「今年もよろしく!」と電話が入った。
早速、次の土曜日からお願いしたいといわれたので、生徒の希望優先にするとなかなか選択ゼロにするのは難しいことなのだろうなぁとチラリ思いつつ寺務手帳でスケジュールを確認して記帳しておいた。
生徒活動の前日になって、また担当の先生から連絡が入った。
「あのぉ〜〜・・・美術の選択が9人なんですけどぉ〜〜・・・他が定員オーバーで第2希望で流れた子が何人か出てしまいまして・・・、美術は特に定員を用意していなかったものですから・・・大丈夫でしょうか?・・・」
まぁ、どう考えても、もう決まったあとのことだろうから、いまさら「無理です!」とか「出来ません!」とか言っても、どうなるものでもないだろうと思いつつ、道具や材料の調達のことがチラリと脳みそを駆け巡った。
「それで早速ですが、何か用意しておくものが有りましたら言っていただけると・・・教材費のことも、人数が多いので今までのようなわけにはいかないような・・・」
それから、具体的な話がしばらく続いたが、そういうことよりも、そもそも椅子が人数分あるかどうかそちらの方が心配になってきた。なにせ、今まではせいぜい多くて5人以内で用が足りていたから、気楽でいられたのだが・・・さて・・・1日で9人分のナニが用意できるだろうか寺務をしながら考えたが、急には何も出てこないので、とりあえずスケッチブックを吉田家の何処かから探し出すことにした。私の方はもう長い間スケッチブックとは縁のない彫刻家になっているので、ワイフが家事をしている間に彼女の仕事場をゴソゴソあさって、表紙が日焼けして色が変わっているような新古品を1冊探し出した。

久しぶりの美術小屋には昨年度制作した生徒たちの作品がまだそのままになっていた。
片付けてあった道具の中から鉛筆をかき集めて削っていると、新年度の選択生たちが少しずつ集まってきた。男子5人女子4人で、そのうち2人は昨年度と同じメンバーだった。

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さまざまな付き合い 

2018/04/20
Fri. 23:58

ウエブ情報によると週末は夏のように暑くなるらしい。
吉田家や万善寺にいても、家の中は結構ヒンヤリしているし、今のところまわりが大騒ぎするほど暑くなるような気配を感じない。

少し前に、ネコチャンズ用の猫草栽培を復活した。
吉田家のネコチャンズは、基本的に室内で暮らす箱入り猫だから、体調が悪かったり胃の具合が思わしくなかったりするとそのあたりの草を食べて消化器系を洗浄するような野生の行動がとりにくい。
クロはまだ小さい時から胃の中のものをよく吐き出していて、もうそれが癖になっているようなところもある。彼は時々上手に脱走を成功させて、その後に帰宅するとしばらくのあいだは吉田家のいたる所でゲェーゲェーやっていたりする。
シロはクロほど吐くことがなくて、時々突然ゲェーゲェーやり始めたりすると、誰よりも自分がそのことにビックリしてしばらくのあいだそれで落ち込んで何処かへ潜り込んでしまったりする。
ネコチャンズは、これから世間が暖かくなると抜け毛が激しくなって吉田家のアチコチで彼等の抜け毛が集まって荒野の根無し草のようにコロコロと隙間風に誘導されながら家具の下や部屋の隅の方へ吹き溜まっていく。それだけではすまなくて、起きているとだいたい自分で自分を身繕いしているから、かなりの量の抜け毛を飲みこんで、ウンチと一緒に出てしまうものもあれば、胃の中で消化されないまま毛玉になってしまうことも多くて、そろそろそれを吐き出す時期になった。

冬の間はネコチャンズの様子を見て、少しずつ時間差で猫草の種をまいていたが、やはり世間が寒いと成長も遅くて芽が出るまでにかなりの日数が必要だった。これからはそれも短縮されて一度芽が出ると成長も早い。一回の必要量を調整しながら種を蒔いて、セッセとこまめに水を補充したりしていたら、2日ほど前からモリモリと芽が出て成長をはじめて葉も開き始めたので彼等が食べやすいように床へ降ろしてやった。クロがそれをかぎつけて早速ぱくついていた。
特にあらたまって猫の世話をしているわけでもないのだが、こうして付かず離れず同居していると、人間としてそれなりの責任や自覚を持って猫とつき合う必要もあるわけで、そういう付き合いを面倒に思ってしまうと、どこかしら彼等との良好な信頼関係が崩れてしまって厄介なことになる。ワイフにはワイフの役割があるから、彼女の領域へ踏み込み過ぎないようにしながら自分に出来ることを続けることが大事と思っている。

麗らかな春の日差しに包まれて猫草をいじっていたら、高校時代の同級生から電話が入った。自分にとっての高校生活は不毛の3年間だったから、いい思い出もあまりないし、親しく付き合う友人もいないのだが、彼ともう一人広島にいるヤツはまだ付き合いのある方で例外といえるだろう。その彼の電話が何だったかというと、学校のグランドの草取り機制作依頼だった。彼が校長時代に頼まれて一つ造った。まんざら知らない仲でもないから材料代程度で引き受けたのだが、それがいけなかった。やはり商売と温情は切り離さないといけないな。結局引き受けることにしたが、制作費はずいぶん足元を見られた・・・

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石見銀山ギャラリートーク 

2018/04/19
Thu. 23:56

「和尚さん、お元気ですか?」
京都在住のアメリカ人Bさんから、まだ春には程遠く雪も降る寒い時に連絡が入った。

彼は、主にアメリカの旅行者を相手のツアーコンダクターをしている。
年に何回か石見銀山へ旅行者の団体を引き連れてやってきた時、時間が上手く調整できれば吉田の方へも声がかかる。彫刻のことや鉄の制作のことを少しほど話たりする程度だが、そういう彫刻のことに強く興味を持ったツアー客が何人かいたりすると、近くの宿泊施設まで呼び出されて一杯やりながら男芸者風に付き合うこともある。
知り合ってからもう20年近く経つかもしれない。それほど、古い付き合いということになる。

そのBさんが、また似たようなツアーを組み立ててそれが石見銀山へやってくることになった。今回は、彼の友人が代わりに旅行者の案内をすることになっていて、そのためのスケジュール管理がなかなかシビアなものになった。寺のこととか、すでに幾つか用事を決めていたのだが、そのことでツアーのスケジュールをいじるのも面倒だし、SNSを駆使して、難局を乗り切った。
今回の旅の仕切人さんはメチャクチャ真面目な人で予定の待ち合わせ時間の30分前には吉田家玄関前で打ち合わせをするくらいだった。こちらも、どこかしら相手の真面目な雰囲気に引き込まれる形になって、5分刻みのスケジュールを組み立ててから、急いで待ち合わせの場所へ移動した。

日頃、だいたい毎日のように石見銀山で寝ているから、長く留守をしているわけでもないのだが、朝早くに自宅を出て夕方日が暮れてから帰宅するような状態が続くと、どうしても昼の石見銀山と疎遠になる。少し早めに待ち合わせ場所へ着いて、ノンビリとツバメの飛び交う様子を眺めて過ごすことなど、久しぶりのことだった。
目の前に広がる田んぼには己生えだろうレンゲの花がまだらに咲いている。朝も早いのにすでに観光さんがうろついていて、近くのレンタサイクルが忙しそうにやり取りをしている。銀山川の反対側から吉田家の裏庭がみえる。春のめぼしい花はすでに終わっていて、つい少し前まで薄っすらと萌黄に染まった程度の下草が一気に伸びていた。5月の連休までには裏庭の整備をしておかないと後が厄介になるだろうとボンヤリそんなことを思っていたら、遠くからツアーのみなさんがゾロゾロと歩いてやってきた。総勢20人くらいだろうか、60代から80歳近い高齢の方もいらっしゃるように思ったが、欧米の人たちは年齢がつかみにくいから、もう少し若いのかもしれない。

石見銀山の谷間に点在している吉田の彫刻から幾つかをピックアップしてギャラリートークした。鉄の素材のこととか、造形のこととか、そういう彫刻の専門的なことより、どういう経緯で石見銀山の谷へ彫刻を設置し始めたのかとか、どうして吉田が石見銀山を始めとした島根の地域に密着した野外彫刻を制作し続けているのかとか、そういうことを中心に話した。
よくわからないが、質問も幾つかあって、皆さんの反応はまずまずだったと思う。

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寝る子 

2018/04/18
Wed. 23:10

日頃はあまり気にもしないでネコチャンズと付き合っているが、ふとした拍子に彼等の態度が今までと少し違っていたりすることに気づくことがある。

この2日間、右の足首から先が腫れてきて身動きできないまま自宅療養をしていた。原因は「アレだな!」とか「あの時だな!」とかだいたいわかっているのだが、いまさら病院通いで長く待たされて飲み薬と湿布をもらって帰るくらいなら、自宅でクラシックでも聴きながら療養していおたほうが良い!・・と、勝手に自己診断してゴロゴロしている。
思い返すと、2日間なにもしないでメシもろくに食べないで寝続けたことなど、この近年の記憶にまったくないほど珍しいことだった。それで、なにもしないでただひたすら眠り続けていたわけだが、この歳になってもまだ、昔の若かった頃のように眠っても眠っても、また次々と寝ていられるものだと云うことがわかった。
電話があったりするし、オシッコもしたくなるしで時々目が覚めてゴソゴソしていると、どこからともなくネコチャンズがそろりと私の横を通り過ぎて行ったりする。彼等も、ほぼ同じような1日の暮らしぶりで、メシを食べ、オシッコやウンチをして、チョット窓際に佇んで世間の様子を確かめて、またどこかへ潜り込んで見えなくなる。

私が吉田家に居る時はだいたい何かしらの用事でドタバタとうるさくしていて、ネコチャンズもそれでなかなか落ち着かなくて一緒になってウロウロしていることが多い。気がつくと、ソファーとか日の当たる窓際とかで爆睡していることもあるが、そういう現場を見つけると、なんとなくチョッカイを出したくなってベタベタ触ったり頬ずりしたりして起こしてしまう。彼等もしばらくオヤジの我儘へ付き合ってからフギャーと面倒臭そうに鳴いてオヤジの手の届かない安全地帯へ避難する・・・そんな感じで、けっこう昼間は吉田家のアチコチをせわしなくうろついていると思っていたし、夜は夜で毎晩深夜の夜回りがひとしきり続くし、彼等もそれなりに慌ただしい毎日を過ごしているのだと思っていたら、療養中の2日間でそうでもないということがわかった。
何のこともない、オヤジかそれ以上にだらしなく惰眠をむさぼっているのだ。

寝るにしても、耳のお供くらいの癒やしは欲しいから、40年前から使用しているくたびれたDIATONEスピーカーの前に陣取って療養と称する惰眠を貪っていると、クロがフギャーとひと声鳴いて静々と私の腹の上に乗ってきて、そこから少しずつ居心地の良さそうな場所を探して移動しながら結局股間の隙間へはまり込んで落ち着いた。それからしばらくして、今度はシロがやってきて慎重にオヤジの様子を確認しながらさり気なく痛い右足を伝って股間のクロへ擦り寄ってくる。ここまでになるとさすがに熟睡中の私でも彼等の重さに目が覚める。とても延々と我慢できる態勢でないから、イジイジと身体を捻ってソファーベッドの隅へ身をかわすのだが、ネコチャンズはそういうオヤジの優しさを完全無視して都合よく布団のど真ん中をキープする。臆病者のシロは、私の動く気配を敏感に察知して、すぐに飛び起きて安全地帯へ避難するが、クロの方はピクリとも動かないで眠りこけている。アレコレ用事の最中も動く様子がないから心配になって覗き込むとわずかに背中が上下して息をしていることが伝わる。この2日間観察を続けていると、彼等は少なくても18時間ほどは寝てばかりいる。やはり猫の語源は「寝る子」に間違いない!

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麗らかな春 

2018/04/17
Tue. 23:32

ボクは雨男だと思う。
ボクが何かしようと決めるとなぜがその日が雨になる。

たとえば今にしても、大事で真面目な用事だから特にこれと言って強い文句もないけど、どちらかといえば、「どうせ降るならこういう日に降ってほしいよね・・・」と、思っていると、そういう時に限ってとってもいい天気になって、「あぁ~~、こんなにいい天気になるんだったら予定を変更しておけばよかった・・・」などと、天気を相手に意味もなくイラツイてしまったりする。
このところ、そういう状況が絶え間なく続いていて、まさに本日がその典型。
昨日まで愚図ついてシトシト春の雨が降って肌寒かったのに、ワイフの用事にドライバーで付き合って時間つぶしくらいしかすることのない時に限って、見る見る天気が良くなって気温も上がって麗らかな春の日差しが降り注いでいるという、なんとも釈然としない状態になっている。
せめてもの慰めというと、このところ体調不良が続いていて、身体を休めるには「ちょうどいい感じかな?」と口実を付けることが出来るくらい。

先日のこと・・・
琴引山のてっぺんまであと少し登るだけという、万善寺のお檀家さんで一二を争う僻地の不便なところで暮らしていらっしゃるお宅へお邪魔して、33回忌の法事を一つ済ませてきた。
そのお宅から先はひとが歩く山道も絶えて無い。
昔は、炭焼き窯やたたら製鉄の遺構があったようだが、農地整理の工事で壊されてしまったらしい。そういうところだから、琴引山の豊富な地下水を汲み上げた綺麗な水がその辺り一帯の飲料水になていて、ステンレスで作られた立方体状の貯水を兼ねたポンプ施設がそのお宅から少し下った砂防ダムの近くに近年建設された。結局ポンプ施設より高地にあるそのお檀家さん宅では上水道の施設がすぐ下にみえるのにその恩恵に預からないままいまだに自力の間歩水で生活していらっしゃる。
40歳を過ぎて独身の息子さんは、長い間その家から近くの職場へ通って仕事をしていたが、数年前に転職されて今は出雲のアパートで一人暮らしになった。母子が離れて暮らすようになってから、高齢のお母さんが立て続けにアチコチを骨折されて何回か手術をされた。そういう生活の心配もあって最近は、1週間に半分くらいは昼の間ほど息子さんのアパートに引き取られて暮らしていらっしゃる。
「やっぱりねぇ〜、不便なようでも自分の家が良いんよぉ〜・・ここだと外仕事もあって退屈もないし、犬もいてくれて寂しくないし・・・アパートは退屈で退屈で・・・」
80歳は過ぎていても身体の不自由を注意して気をつけながらゆっくり暮せば、まだまだ十分に一人で生活できるほどしっかりしていらっしゃる。

時々、寺のお知らせを持ってそのお宅を訪問するが、最近はほとんど留守ばかりで、土間につながれた犬も寂しそうで鳴くこともしない。少し前には、同居していた猫が死んだそうだ。本当の豊かで幸せな暮らしというのはいったいどういうことなのだろう。

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自分の時間 

2018/04/16
Mon. 23:51

少し前、4月に入ってすぐの頃、保賀の自治会から訃報が入った。
一人暮らしだったその人は、数年前から闘病の生活だったが今年に入って病状が一気に悪化して、2月の半ばに再入院してから退院できないまま永眠された。後を引き継ぐ親族も無く、このまま家が絶えてしまうことになった。私が万善寺住職を引き継いでからこの数年の間に保賀の自治会から6軒が空き家になった。過疎地の地域事情は何処もだいたい似たようなものだと思う。万善寺もひとごとでない現実が目前に迫っていて、私もそろそろ次のことを具体的に考える時期が来ていると感じる。

体調が完全でないまま納骨法要前の墓掃除をすませた。
島根県はこのところ愚図ついた天気が続いていて、お墓までの足元の悪くなった急勾配の参道往復が膝にこたえる。箒や熊手を杖代わりにしたりしながら慎重に注意しながら登り降りしていたのだが、参道に露出した桧の根っこに足を取られて右足を痛めてしまったのが前日のこと・・・
朝から納骨が控えていて法要を休むわけにもいかないので、そのまま痛い足をダマシダマシお経を読んで、墓参をした。
お昼過ぎには全て修了して、それから本堂を片付けたりしたのだが、そうする間に右足の足首から先が腫れて来始めていよいよ痛くなって歩きにくくなってきた。午後からは出雲に用事があったので、痛い足を我慢しながらアクセルとブレーキを踏み続けて、夕方石見銀山へ帰った時は、まともに歩けないほどになっていた。あまり渋い顔ばかりしているとワイフが心配するので、彼女の前では何気なく普通を装ってすませた。

4月に入ってから良いことがひとつもなくて滅入っていたところへ、フロリダのノッチが久しぶりに元気そうな写真を送ってくれた。
職場の友人とワシントンDCへ行ったらしい。
アメリカドラマや映画でよく見る風景で、あちらの方はちょうど桜が満開の時期のようだ。ワシントンDCは日本でいうと東北あたりだったと思うから、今くらいが桜の見頃なのかもしれない。
ノッチは、今年の秋に帰国するはずだ。
「もう国外はコレが最後だよ!」と、そう宣言していたことを思い出した。
私は、物心ついた頃から万善寺の小坊主で節目節目の法要行事には住職の侍者をしていたから、学生で島根を離れて暮らしていた時も、盆正月は欠かさず帰省して寺の勤めを続けていた。まわりのみんなのように、民族の大移動のごとく長期休業や祝祭日を旅行や行楽で過ごすようなことも皆無だった。こういうことは、坊主という職業に限ったことでもないと思うが、とにかく、我が子にだけは人並みに堂々と自分の意志で自分の自由に自分の時間を使ってもらいたいと思い続けていたことだけは確かだ。
今は、両親も死んで万善寺の一人暮らしや通勤坊主で、だいたい自分の思うように乗り切っているから副住職ほどの気楽さが無い代わりに、それ程きついストレスを感じることもなくなった。これから先、寺の運営は厳しくなる一方だと思うが、自分の代をなんとか乗り切ることができればそれで御の字だ。
この度の納骨で、また1軒お檀家さんの付き合いが一気に遠のいていった。

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万善寺お墓事情 

2018/04/15
Sun. 23:25

予期せぬ胃痛で1日ほどダウンしたからその時間を取り返そうと、朝早めに石見銀山を出発した。
万善寺の境内へ上がると、アチコチに色々なものが散乱している。
昨日の暴風雨の凄さがよく分かる。
まずは玄関の鍵を開けて、それからその散乱した幾つかのものを探したりもとに戻したりしていたら、また小雨が降り始めた。
お墓への参道に比較的大きな枯れ枝が落ちていた。強風で裏山の何処かから飛ばされてきたのだろう。この様子だと墓地の方もなにかあるかもしれないと心配になって、急いでつなぎの作業着に着替えた。
雨のやむのを待って掃除用具一式を持って、途中、強風の影響で散乱していた山のものを片付けながら墓地へ上がった。
1週間前の地震で墓石の幾つかが倒れたり横ずれしたりしていて、前の墓掃除の時にそれを治しておいたのだが、開祖さんの自然石だけはさすがに一人ではどうすることもできないから石材屋さんへ復元を頼んでおいた。春の墓地は、ひと冬で積もった雪の水分をたっぷり吸っていつもより地盤が緩んでいる。それに加えて、雪が解けながら墓石を押し出して倒してしまうこともある。だいたいそういう時は小さな60cmくらいのバールが一つあればなんとか一人で修復出来るのだが、今回はそれに地震が加わったからいつもよりずいぶん厄介なことになった。
とにかく、病み上がりの身体で墓地と寺を都合3往復してひとまず作務の遅れをとりかえした。

最近は、市街地の墓地を中心にお墓やお供えの管理ルールが厳しくなっていて、本来お墓参りで大事な幾つかのことができなくなってしまって、そのまま人々の記憶が薄れていつのまにか習慣が消えてしまっていることも多い。それは、街場の寺院でも同じで、何から何まで大事なことが割愛されて楽な方へ流されていく。
万善寺では・・・というより、現住職はそういうことがあまりいいことだと思っていないので、とにかく自分のからだの動くうちは昭和からの知る限りの流れに逆らわないでそれを出来るだけ守っていこうと考えている。

昔は線香蝋燭と一緒にお花と旬のモノと主食相当のモノを墓前にお供えしておくことがお墓参りの常識だった。それに、年回法事の後の墓参は塔婆が加わるわけだが、最近のお墓ではその各種お供えや塔婆を見かけることが激減している。昭和の時代には特に問題なく過ぎていたお墓参りの常識が、今は生きている者の都合優先で廃れていく上に、それが管理とか環境とか衛生とか、そういう都合を優先したルールに変わってしまう。坊主の方もそれに流されて塔婆や葬儀旗や六道などの大事なものを割愛したり書かなくなったりすることも増えた。
世間の事情も色々あるだろうが、それはそれとして大事なことが消えてしまうのも自分ではどうかと思っていて、だから、せめて万善寺の場合はこうしてお寺の聖域でもある墓地の移転も考えないし、線香や花立ても出来るだけ自然のもので毎年自作しながら更新するようにしている。

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春の嵐 

2018/04/14
Sat. 23:37

胃痛が激しくなって一晩苦しんだ。
特にこれといった原因がみつからないので、とにかく薬だけでももらっておこうと朝イチで病院へ走った。かなり早く家を出たつもりなのに駐車場は受診の車でいっぱいになっていた。診察を待っている間に少しずつ痛みが和らいで、
「しばらくは腹八分目じゃなくて、腹六文目くらいにしまようね」
「お酒の飲み過ぎはいけませんよ」
「胃でなかったら、胆嚢とか膵臓かもしれないから・・・」
・・・ドクターの前へ座ったらほとんどがカウンセリングに近い世間話で終わった。
診察料金を払って出掛けに、知り合いの看護師さんから「一度胃カメラ飲んだほうが良いですよ!」と小さく耳打ちされた。このまま症状が変わらなかったらそうするしか無いかと思っている。

本当は万善寺の用事を済ませたいところだが、これから春の嵐になる予報だし、まずは無理をしないで一日休息しようと決めた。
帰宅したら、テレビもついてキッチンの電気もついて、吉田家の生活感はシッカリ漂っているのにワイフの姿が見当たらない。ネコチャンズも例のごとく何処かへ入り込んで出てこない。どうしたのかと心配していたら何処かからワイフの声と近所のご婦人の声が混ざって聞こえてきた。「そぉ〜いうことか・・・」と状況がだいたいつかめて安心して少ししてから、玄関口でご婦人のお礼の声が聞こえた。
「裏庭の花がほしいっていうことだったから・・」と、特に何も聞いていないのに、そう云いながらワイフが部屋に入ってきたらシロがフギャフギャ甘え鳴きしながら出てきた。
「わるいけど、お昼はおかゆにしてくれる?」
そう頼んでから、一日休むことにしたことを伝えて即席のソファーベッドへ潜り込んだ。

それからしばらくして強い風が出てきて雨も激しく降り始めた。

胃が痛くてウンウンうなりながら眠れないまま途中まで見ていた昨夜のアメリカドラマの続きを見ていたら、「ごはぁ〜ん!」と、ワイフが台所から声をかけてきた。久しぶりのおかゆが美味しかった。

昼寝をして休んだら体調が少し回復して気分が上向いてきた。
せっかくの吉田家時間をムダにするのももったいないから、しばらく途絶えていた猫草の種を蒔いておくことにした。その頃になってクロが何処かから出てきた。地震以来少しずつ落ち着いて日常の行動が戻りつつある。少しの変化といえば、このところ珍しくシロが頻繁に擦り寄ってくるようになったし、メシを催促するクロの鳴き声が異常に大きくなったことか・・・

暴風雨は夕方になってもやむ気配がなく、むしろ昼間より激しくなった。
なにもしないでいると肌寒いからストーブをつけることにした。
強風で焚付の煙が煙突を逆流してなかなか思うように火がつかなくてかなり苦戦した。

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春の木漏れ日 

2018/04/13
Fri. 23:45

午前中出雲での用事を済ませて、午後からお寺へ移動した。
先日の地震の身体に感じるくらいの余震が1日に数回続いていて、出雲に居る時もそれを1回感じた。

この4〜5日のあいだに少しずつ幾つかの地震情報が流れてきた。
自分としては特に頑張って情報収集をしているわけでもないが、こういうどちらかといえば悪いこととか不幸な情報は広まることが早い気がする。
三瓶山の志学にあるジンギスカンのお店が、地震の被害で営業不能になったらしい。
ひと頃は、吉田家の家族で食べに行ったり、近所の友人が誘ってくれたりしてよく行っていたお店だった。急な傾斜地へ張り付くようにお店が建っていて、斜面へテラス状に張り出した店の床下のデッドスペースがトイレと駐車場になっていた。駐車場へ下りるまでのドライブテクニックを問われる難しい坂道と、なんとも前時代的トイレを我慢すれば、シンプルでとても美味しいジンギスカンが絶品だった。私をラム肉好きにさせたのも、その店があったからのことだ。今後の営業のことが心配だが、島根県どころか広島県の方までその店のファンが広がっているから、再建も比較的早いかもしれない。

午後からの半日は万善寺のお墓掃除にあてた。
墓地への参道から草刈機を使いはじめて、墓地まで登りきるまでに2時間弱かかった。
昨年の秋からひと冬の間にもう少したくさん枯れ葉が溜まっているかと覚悟していたが、思ったほどでもなかった。直径10cmほどの楢の木が参道の途中に倒れて道を塞いでいた。雪の重みに絶えられなくて枝の付け根から折れて落ちたふうだ。
生命力がすごくて枝先からは春の若葉が芽吹いていた。楢の木は保水力がすごいから、幹に蓄えられた水分と栄養で葉芽が成長しているのだろう。その枝木だけで相当量の薪になりそうだから、少し落ち着いたら切り刻んで寺の雨内まで持って帰ろうと思う。
春の参道は、広葉樹の葉が無い分だけ日当たりが良くて積年の腐葉土がよく乾いている。熊手や箒を使っていると土ホコリが舞って、参道脇に立つ杉並木を通過した木漏れ日にキラキラと輝いてみえる。
あとひと月足らずの間に筍や笹の芽が伸びて参道を荒らし始める。これから秋が深まるまで万善寺の保全作業が絶え間なく続くことになる。

先月の母親の1周忌にじゅん君がお墓参りをしてくれて、墓地を掃き掃除してくれた。
参道から墓地にかけて杉の植林をしていて、数本がかなりの巨木に成長している。杉の枝が雪の重みで折れ落ちて、春は墓地一面が杉葉の絨毯を広げたようになっているから、それを掃き集めるとかなり大きな杉葉の山ができる。じゅん君が本格的に墓掃除をしたのはこの度が始めただっただろうから、杉葉の処理にかなり苦労したと思う。彼の御陰でずいぶん楽をさせてもらって夕方日のあるうちにおおよその掃除を済ませることができた。
昔、まだ万善寺の風呂や台所の煮炊きに薪を使っていた頃は、1年の節目節目に墓地まで上がって墓掃除を兼ねた杉葉拾いをしていたものだ。あの頃は、山の何から何まで色々なものが生活の貴重な必需品だった。年中誰かが山に入っていたから今のように手付かずで荒れることもなかった。たった半世紀の間にずいぶん山の様子が変わった。

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遅れた入学式 

2018/04/12
Thu. 23:51

新しい相棒の銀くんが1000km点検をしてもらった。
10日間の間に1500km以上走っていて、自営業というより自由業に近いボクとしては、ちょっと走り過ぎだと思う。この調子で銀くんを乗り回していたら燃料代がいくらあっても足らない。

その銀くんがドック入りしている間に境内の植栽を刈り込んだ。庭木によくあるツツジやサツキをまだ元気だった時の母親がところかまわず挿し木にしたものだからその始末がいつまでも終わらなくてイヤになる。気がつくと五葉の松も芯が伸び始めていて、これも近いうちに芯を止めておかないと際限なく伸び続けて収集がつかなくなる。
この2〜3日で下草が一気に伸び始めた。今のうちに草刈機を振り回しておかないと後が厄介だと思っていたら、保賀の谷の向こう側で草刈機のエンジン音がし始めた。だいたいみんな同じことを考えているようで、草刈りの先を越されてしまった。
このところ天気の変わり目が早くてなかなか外の仕事に集中できない。それに、晴れている時に限って改良衣に雪駄履きで坊主の仕事が入ったりしてタイミングが狂う。来週早々には万善寺墓地の永代供養納骨の法事も入っていて、それまでに参道から墓地までの草刈りと掃除を終わらせないといけない。だいたいが、年中ヒマにノンビリとしているのに、重なる時は容赦なくアレモコレモ重なってしまう。なかなか思うようにいかないものだ。

先日の地震の影響で、大田市の小中学校では入学式が順延になっていた。
通勤坊主で石見銀山の町並みへ出ると、近所の新一年生になる子供が正装したお父さんとお母さんに手を繋いでもらって自宅を出るところだった。
ちょうど2年前まで、この時期は小学校の入学式や卒業式の来賓で招待を受けていた。自分の子供も成長して社会人になったし、いつまでも地域の役員にしがみついているのもどうかと思うし、町民の代表は適度なスピードで回転を続けているくらいが良いと思って、役員を辞退してから早いもので1年が過ぎていた。

地震は大田市全域に大きな被害を与えた。水道の復旧が遅れていまだに給水車の世話になっている地域もあるし、家屋の被害が深刻で、避難所生活を続けている住民も多い。
銀くんで大田市のアチコチを通過すると、ブルーシートを屋根に載せた家屋が点在している。家の新旧とか、構造の違いとか、そういう基準など自然災害の前には全くの無意味にみえる。新築に近い家がブルーシートでラップされているすぐ横に、半分傾いたような古い納屋が普通に何もなかったように建っていたりして、なんとも釈然としない不条理を感じる。まぁ、ヨレヨレボロボロの納屋が倒壊しても良いとは思わないが、真新しい家屋の被害を見ると、その家の施主さんの悲壮感を思って気の毒になる。吉田家も見えないところで家屋の不具合があるかもしれない。今度の週末にはまとまった雨がふるようだし、ソレに併せて雨漏りの点検をするつもりでいる。とにかく今はまだ、大工さんをはじめ、地域の建設業者さんは天手古舞だろう。

万善寺の境内にある椿の枯木が例年にないほどたくさんの花を咲かせた。この近年は、もろくなった枝木が雪の重みで次々に折れて弱っていたから久しぶりに見る光景だ。

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銀くんデビュー 

2018/04/11
Wed. 23:53

石見銀山は、時々思い出したように小さな余震がある程度で落ち着いている。
ネコチャンズも少しずつ落ち着いて、チョロチョロと吉田家を彷徨く姿を見かけるようになってきた。それでも、いまだに彼等が何処に入り込んで身を隠しているのか見当がつかない。人間の自分でも、時折聞こえてくる地鳴りや、揺れが続くとあまり気持ちの良いものでないが、人類の数倍敏感な猫達にとっては恐怖のレベルも相当なものだろう。関東の知り合いからお見舞いの電話をいただいたときそのことを話したら、東北の震災の時に飼っているネコがそうなって、おびえている様子が痛々しかったそうだ。

通勤坊主で出かけようと土間へ降りたら、クロがどこかからやってきて「行かないでぇ〜〜」と訴えかけるように珍しく視線を合わせてきた。日頃はことごとく無愛想なのに、あぁいう目を見ると可愛げにみえて愛おしく思えてしまう。
銀山街道は、所々にヤマツツジが咲き始めた。黄色の菜の花も至る所で群生して4月に入って雪が降ったりして天候不順が続いているが、吉田の周辺では順当に春の変化が進んでいて、万善寺の境内では、水仙の蕾が緩みはじめた。

走行距離が20万kmを越えたあたりから急にアチコチの調子が悪くなってきた結界君をダマシダマシ乗っていたのだが、半年ほど前から一気に不具合が酷くなって、運転していても必死で頑張って走っている様子がヒシヒシと伝わってきていた。もうそろそろ限界かもしれないと、中古車をチェックしても結界くんと同タイプの車で条件の良いものが出てこないので年末ギリギリになって同級生のカーディーラーへ中古車の伝手がないか聞いてみたら、少し調べてみてくれたようだが良い返事が返ってこなかった。
同タイプの車は1年くらい前に大幅なモデルチェンジをしていて、それ以前のタイプは新古車も含めて在庫切れになったようだ。現在の生産ラインでは新しいタイプの車しか製造していないことがわかって、遂に中古車更新の手立てが絶えた。
せめて冬の間だけでもなんとか走ってくれと、とにかく慎重に丁寧に運転していたが、22万kmに達する間際でまた一段と調子が悪くなって、例のごとく今年の飯南高原は猛烈寒波が次々に襲来して万善寺で孤立している最中だし、もうどうしようもなくなってスズキ代理店の同級生君を頼ってダイハツのピックアップを探してもらうことにした。

坊主の吉田としては、バイク1台とあとはお檀家さんの送迎にすがればなんとか万善寺の住職を務めることは出来るが、彫刻家の吉田としては、とにかく何が何でも結界くんと同等の車がないと身動きできない。「あの車は特別仕様車で何時もすぐにあるわけでもないから・・」ということらしく、「3月にはなんとかなるだろうから」と約束してくれて、なんと、この歳になってほぼ30年ぶりで新車を購入することになった。彼はさすがにその道のプロで、慣れた感じでサクッとこなして3月末の銀座の彫刻展の最中に新車登録の全てを仕切ってくれた。

4月1日はクロの誕生日で、銀座の彫刻展搬出が終わってその日の朝に出雲市まで帰ってきて、それから新車引きとりを済ませて、つい2〜3日前に1000kmを越えた。ちょうどそのくらいで一度点検をしてくれるらしい。誕生日がクロと同じになった。さて、どっちが長生きしてくれるだろう?・・・その前にボクがお陀仏になるかも・・

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地震の後 

2018/04/10
Tue. 23:31

深夜の地震から、約12時間ほどは、絶え間なく余震が続いた。
その間に、これも絶え間なく電話やSNSなどでお見舞が届いた。
どちらかといえば友達の少ない我儘者のボクなのに、ありがたいご厚情が信じられないほどだった。皆さんの好意に助けられて活かさせていただいているのだと改めて痛感した。

日頃新聞もテレビも見ないで過ごしているから、「こういう時は、ちゃんとテレビとか見ないとダメよ!それ、常識よ!!」と、ワイフに厳しく叱られたから、一応テレビは付けておいたが、特に変わった情報があるわけでもなく、常に最新の情報が流れるわけでもなく、それよりは、ケーブルテレビ付属の防災有線放送の方が現状把握に適していると客観的にそう思った。
テレビのニュースとかワイドショー番組では、大田市の地震被害がもっとも重大な地域ばかりピンポイントで取材するから、そればかりの情報で全てを判断されてしまうと、とんでもなく大げさな大災害に錯覚される恐れを感じた。今回のように、地震災害地域に暮らす当事者として、情報の取捨選択の難しさを身をもって感じた。

それで、ご心配頂いた皆様へのご報告も兼ねて、少し詳しめに吉田オヤジの行動を時系列でまとめておきます。まぁ、特に参考になるとも思わないけど・・・
9日深夜1時30分過ぎに地鳴りが三瓶山方面から石見銀山へ近づいてきた。その直後にドーンと巨大ハンマーで地面を叩かれたように激震が走ってそれが結構長く続いて日本海方面へ去っていった。それに合わせて吉田家の食器棚とか台所のこまごました物が床へ次々に落ちてきてネコチャンズがものすごい勢いで土間へ飛び出ていった。
すぐに電気をつけてスリッパを探して床を確認しながら台所を確認した。水道も普通でガスの匂いも感じなかったが、灯油ボイラーの耐震装置が作動したらしく、その時は水がお湯になることはなかった。それから夜が明けるまで、地鳴りが止むことがなく3〜4回ドカンと地面から突き上げるような大きな揺れが来た。あとはお昼までの間に少しずつ余震が弱まって午後になると地鳴りも消えて揺れもほとんど無くなった。
万善寺のことも心配だから夕方になって寺へ出かけようと準備をしたが、ネコチャンズが何処かに潜り込んで見当たらないままで、それも心配だから、結局食料の買い出しをしてもう一晩吉田家で寝ることにした。大田市は、石見銀山より被害が大きくて、ブルーシートをかぶった屋根が点在し、アチコチで窓ガラスが割れて応急修理がされていた。余震もほぼ収まった夕方になって、吉田家のライフラインを確認した。灯油もスイッチのリセットで使えるようになって、日常の暮らしが復活した。
まだ何処かに隠れたままのネコチャンズが気にかかったが、寺のことも心配で早朝から吉田家を出発して銀山街道を登った。
万善寺は、台所のフライパンがずり落ちていたくらいで、灯籠もお位牌さんも仏具も花入れも倒れること無く無事だった。きっと、観音様が守ってくださったのだろう。
境内の日陰に、先日に3日間降り続いた雪が解けないで残っていた。

寺の用事を一つ済ませて、なんとなく緊張が緩んで炬燵に潜り込んだらいつの間にか寝てしまっていた。やはり、それなりに緊張が続いて疲れが溜まっていたのかもしれない。

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島根で地震! 

2018/04/09
Mon. 13:04

豊川稲荷の二の午祭は、ワイフがいつものリンゴのケーキを作ってきてくれて、お茶会も賑わって無事に終わった。
雪が降ったりしたからご高齢の方々にはお参りもつらいだろうと、ワイフと二人で法要をつとめようと思っていたが、当日はお檀家さんもお参りされて住職としては嬉しい誤算だった。
この豊川稲荷の祈念法要は、元々仏教の宗派を問わないで周辺各地から信者のみなさんがお参りされる地域に根づいた仏事の一つだった。それで、先代住職夫婦はお檀家さんへ法要の告知をしないまま保賀地区を中心とした心安いお付き合いへお知らせする程度になっていた。だから住職交代からあと、お知らせチラシを飯南高原のお檀家さんへ配布するまでは、万善寺と豊川稲荷の関係を知らないお檀家さんがほとんどだった。
毎年、私が春の万善寺仏事のお知らせを持って回るようになってそろそろ10年近くなる。その成果が現れたのかどうなのかわからないが、今年はお檀家さんが4軒もお参り頂いた。柄にもなく嬉しくて少し興奮して、浄土真宗の門徒さんが多い中で曹洞宗と豊川さんの深い関係を熱弁してしまった。あとで振り返って少し反省したところだ。

ひと通り後片付けをして、用事絡みの出雲経由で石見銀山へ帰った時は、すでに日が暮れていた。
まぁそれなりに色々あって、さすがに少々疲れた。
ネコチャンズとグッピーへ夕食をあげて、映画でも1本見ようと吉田家シアターをセットして落ち着いたところまでは覚えているが、いつの間にか眠ってしまっていた。

どこか遠くから、「ゴォーッ!!」と地鳴りのような音が近づいてくる。
夢でも見ているのだろうと思っていたら、それからすぐに吉田家が地面から突き上げられるような感じに揺れ始めた。台所や食器棚あたりがうるさい。床にモノが落ちる音が断続的に聞こえて、それに町内の防災放送が重なった。
しばらく続いた揺れが少し収まった直後に、次の揺れが来た。これもそれなりに揺れた。
さすがに、夢ではないこともわかるから、電気を付けた。映画はいつの間にか終わっていて、時計は深夜の1時半を少し過ぎていた。
トイレでオシッコをしていたらじゅん君が心配の電話をくれた。Applewatchで話をしていたらまた揺れた。
それから朝まで地鳴りが止まないで揺れも続いた。
途中から雨が強くなって、それに地鳴りが重なって、雷に聞こえる。いや、本物の雷が鳴っていたのかもしれない。揺れるたびに吉田家のアチコチがガタピシうるさいし、軽いものがズレ落ちてくる。

あれは、まだ私が小学校の低学年くらいだったと思う。
夜、親子三人川の字になって寝ていたら、三瓶山方面からゴォーと地鳴りが近づいて、直後に万善寺が強烈に揺れた。それから地鳴りが南へ去って、しばらくしてから地鳴りが北上してきて万善寺の床下を三瓶山方面へ帰っていった。あの時は、ブルブル震えながら三瓶が噴火したのかと本気で思った。余震の続く中であの時のことを思い出した。

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豊川稲荷二の午祭 

2018/04/08
Sun. 23:52

豊川稲荷二の午祭は、雪ではじまった。
なかなか眠れない夜だった。
早朝に目覚めて、もう二度寝も出来なさそうなので、そのまま起きることにした。
窓の外は、どんより曇って春の淡雪が絶え間なく降り続いている。
この様子だと、お参りもないだろうと思いつつ、それでもお経は読むつもりで豊川稲荷さまの荘厳を整えて、椅子を10脚ほど配置した。

お昼前になって空が明るくなって、低い雲が消えた。
境内の雪をどうしようか迷ったが、春の雪はすぐに消えるからそのままにしておくことにした。
椿の枯木に咲きはじめている花と葉の補色のコントラストにシャーベット状の白い雪が光を吸ってとてもキレイだ。
豊川稲荷の初午祭は2月から3月になるから例年だいたい雪が降る。
万善寺は、基本的に旧暦で初午祭を厳修していて、今年は3月のお彼岸を過ぎた頃だった。法要があまりに近くで続くのでカレンダーを作りながら迷っていたのだが、二の午が4月8日で丁度お釈迦様の誕生日と重なるから、それに併せた法要をすることにした。まさか、その日に雪が降るとは予測していなかったが、やはり、万善寺の豊川稲荷さまの法要には雪が付きものになっているようだ。

ご本尊の吒枳尼尊天さまは、五穀豊穣のご利益をお持ちの女神様で、九尾狐の背に乗って天界から舞い降りていらっしゃる。
昔々は神仏が一緒の信仰だったから、主に吒枳尼尊天さまを仏教がお祀りして、九尾狐さまを商売繁盛のお稲荷様としてお祀りしていた。明治新政府の政策で日本の宗教が神仏別けられてしまってから後は、お稲荷様の信仰がメジャーになって商売繁盛の比重が重くなった。
この世に生を受けた生き物たちのそもそもの生きることの根本は、「食べること」にあると、機会があれば言っている。そういう意味で五穀豊穣はとても重要な祈念の一つと思っている。経済産業の発展が社会の発展につながるのであれば、それを支えているのが五穀豊穣であると思う。日本の食事情は、国内での自給自足率が低くて、輸入に頼りすぎている気がする。そういう現状をクールに把握して今後目指す先を正しい方向に修正する努力も大事なことだ。豊川稲荷さまの法要を厳修する真の目的はそのあたりにあるのではないかと思いながらお経を読み、大般若転読をさせていただいている。

午後になって一気に天気が回復し、青空が見えてきた。それでも、雪のあとで風がいつもより冷たい。そんな中、保賀のみなさんが三々五々参道を登って来られた。それから少しして五月雨にお檀家さんがお参りになった。
都合8人の参詣を得て法要がはじまった。
お茶会は、やはり雪が話題になった。私がまだ小学生だったずいぶん昔のこと・・・
「あのときぁ〜、春になってちょうど今頃1尺も積もりましたけぇ〜ねぇ〜」
・・・雪は降っても今は薄っすら白くなるくらいで積もるほどでもない。ずいぶん温暖化が進んでいる気もする・・

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4月の雪 

2018/04/07
Sat. 23:15

このところ、島根県は雨が降り続いて寒い日が続いていたから、久しぶりにストーブを焚いた。
寒いとはいえ、もう4月に入っているから溜まった紙類を火付け代わりに炊き始めただけで吉田家がほんのりと暖かくなった。薪の残りはまだ十分にあるので、その中から適当なサイズのモノを選んで3〜4本投げ込んだら、一気に部屋が温もった。
正直者のネコチャンズが、吉田家の何処かからさりげなく湧き出てきて、ストーブの近くへ寄ってきた。
人間がヤツラに使われているような気がしないでもないが、嘘をつかれるよりはマシで、彼等のために居心地が良くてストレスの少ない環境を提供してやっているのだと思って自分の好意を噛みしめる。
部屋が温まったせいか、急に眠気が襲ってきて誰よりも先に寝てしまった。

天気予報だと、北海道を中心に日本海側では雪が降るようなことを云っていた。
夜中に目が覚めると、ストーブも消えてとにかく寒い。天気アプリで確認すると島根県の飯南高原や石見銀山は雪マークになっている。
万善寺の法要もあるし、保賀地区内の訃報も入っていて、どうしても朝のうちに石見銀山を出発しておかないといけない。それで、それが気になって目が冴えて眠れなくなった。仕方がないから、FOXテレビ配信のアメリカドラマを立て続けに3本見ているうちに夜が明けた。ドラマが1本終わるたびに天気アプリで確認をしていたのだが、やはり飯南高原は雪マークが午前中続いている。朝になって吉田家の玄関から町並みを覗いてみると、幸い石見銀山は雪になっていなかった。それから、ワイフとネコチャンズのためにストーブを焚いて、吉田家を出発した。

銀山街道はシャーベット状の雪で濡れている。道の両脇は溶け残った雪が白い。ノーマルタイヤの溝は信用できないから、とにかく慎重に走るしか無い。出雲街道へ合流して飯南高原へ入ると、あたり一面雪で真っ白だった。雪混じりの雨が絶え間なく降ってワイパーが忙しい。万善寺の方へ右折してお地蔵さんの前まで来ると、路面は濡れているが4WDでなんとか登れそうな様子だ。そのまま慎重に参道を登ってみると、境内は屋根の雪吊りが山になっていた。
4月の桜に雪が降り積もっている。標高1000m級の中国山地は、冬に逆戻りしたようで真っ白になっている。

今から随分前、私がまだ小学生だった頃、境内の北側には5月の連休すぎまで雪が残っていて、大人たちが田植えをしている時期に近所の子供は雪遊びをしていた事もあった。
梅雨に入って半夏が近づいた頃に、強烈な台風並みの集中豪雨があって、それで一気に気温が下がって、寒くてしょうがないから掘りごたつへ炭を入れたこともあった。
あの頃のことを思うと、今は境内の雪もだいたい3月のうちに消えるし、桜の花も入学式には散った後だったりして、ずいぶん暖かくなっている。もう、身体がそういう春先の環境へ慣れてしまった今になって、今回のこういう雪は心身ともにつらくこたえる。
保賀自治会だけが集まった家族葬の寂しい通夜の間中、冷たい雪が降り続いていた。

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オヤジ彫刻家その3 

2018/04/06
Fri. 23:41

万善寺の豊川稲荷は、愛知県豊川にある「円福山 豊川閣 妙厳寺」境内に祀られ安座される吒枳尼尊天(だきにそんてん)様に由来する。
この妙厳寺は、もともと真言宗であったらしいが、開祖さまが曹洞宗で修行をされた関係で、寺院再建にともない、曹洞宗寺院として妙厳寺を建立されたようだ。
万善寺先代住職の憲正さんは、常日頃から仏教のことはあまり多くを語らなかった人で、寺の由来も、町史編纂の時に町内に残る幾つかの資料と、万善寺で代々口伝されてきた内容を総合してまとめられたようだ。そもそも、曹洞宗は世襲寺院ではないので、代々の住職は師弟関係で引き継がれてきた。近年になって、社会の情勢に習って師弟関係をそのまま養子縁組に抱き合わせて、表面上は親子の世襲として住職を引き継ぐ形に変わった。憲正さんもそれに習って生まれて間もなく養子縁組で万善寺の先代に引き取られている。そういうこともあって寺歴に関して、寺に残る文書などは歴代の住職交代があるたびに飛散した可能性が高く、あまり引き継ぎ口伝されてこなかったのではないかと思っている。
いずれにしても、妙厳寺の御本尊様は千手観音菩薩様で、万善寺の千手千眼観世音菩薩に通じるものもあるし、万善寺の前身は天台宗と思われるし、密教から曹洞宗への改宗となる経緯など、重なる部分も多い。その関係もあって万善寺の境内に豊川稲荷さまが祀られることになったと解釈してもおかしくはない。明治以前の昔から日本宗教は神仏混合で推移しているから、豊川稲荷のように民衆の間では宗教の区別とか垣根を越えて信仰の対象になっていたのだと思う。
ちなみに、吒枳尼尊天(だきにそんてん)様は、元々ヒンドゥー教の女神様が仏教の神として祀られたようである。

鎌田さんは徳島在住の具象彫刻家で、島根の小品彫刻展へも毎年出品していただいている。静かな佇まいの一見温厚そうなひとに見えるが、どうなのだろう?彫刻は構造やムーブマンをシッカリ固めた堅牢な作風だと思う。六本木で毎年顔を見るが、彫刻の展示場所が違うのでお話できる機会は多くない。
太田さんも出品歴が長いはずだ。実は、もうかなり前から彼のことを滋賀県の作家だと勝手に思い続けていた。どうしてそうなったのかどこかに原因があるのだろうがまったく思い出せなくて心当たりがない。とにかく、関西弁のひとであるから近いと云えばそうなのだろうが、私は関西に詳しくないので、神戸も大阪も奈良も京都のひともみんな同じように聞こえてしまう・・・そいんなわけで、実は京都在住でした。ゴメンナサイ!
片瀬さんは神奈川在住の木彫作家で、彼も見た感じ、とても温厚そうだ。だいたい、具象彫刻の作家は皆さん温厚な方が多いのかもしれない。私のような抽象彫刻を作っている人間は、どこかしら世間を斜めに見ているようなところがある・・・気がする。同じ彫刻でも、具象の彫刻家とは思考構造が何処かで違っているのかもしれない。

今回の会員有志のグループ展は、極端に参加者が少なかった。
会場費用など、展覧会を運営するための必要経費は毎回ほぼ同じだから、それを出品者の頭数で割った金額が個人負担の出品料になる。私のような田舎者は、隔年で開催される東京銀座のギャラリーへ彫刻を展示できるだけでも安いと思って500円貯金をしながら展覧会費を貯めているが、まぁ、その個人負担をどう意識して彫刻を造るかは作家次第だね。

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オヤジ彫刻家その2 

2018/04/05
Thu. 23:25

午前中かけて万善寺の法要お知らせチラシを配った。
朝も、あまり早くからお邪魔するのもどうかと思ったが、飯南高原の方は殆ど全戸が農家のようなものだから朝の早いのも大丈夫だろうと自分勝手に解釈して、いつも通りに石見銀山の吉田家を出発した。
あいかわらずネコチャンズは冷たいもので、出かけるボクを「いってらっしゃぁ〜い、きをつけてねぇ〜〜」と、ワイフのように優しく見送ってくれる気配もない。

このところ、雨続きの寒い日が続いていて、うっかりするとチラシが軒先からの雨だれで濡れてしまったりして苦労した。前日に少しほど配っておいたから、それだけでもいつもより楽になって助かった。
天気が悪くて境内の外回りを掃除できなくてこまる。庫裏から本堂まではとりあえず掃き掃除もしてあとは本堂で法要の準備をすることと、庫裏にお茶会の場所を用意することぐらいだ。動いているとそうでもないが、休憩したりデスクワークになると肌寒い。それでも、春は春だから邪魔な建具を片付けたりして彫刻展示の模様替えをした。とくに大きな法要もないうちは、庫裏の一部をギャラリー風に使うことにしてそろそろ1年が経つ。今後、平面を展示できる壁スペースを確保したいとも思っている。

二紀会の会員有志が集まった銀座のグループ展では、たぶん長谷川さんが最年長だと思うが、間違っていたらゴメンナサイ!それだけ、出品歴の長いベテランだともいえる。彼は富山県の欄間彫刻で有名な井波在住で、ときどき、ゆっくりと会話できるときなど、井波の今を話してくれる。私がまだ学生だった時、彫刻や工芸を見ながら北陸の各地を回ったことがあって、懐かしい。彼は、近年福井大学の方へ出講していると聞いたが今も続いているのかは知らない。
栃木の木彫作家森戸さんは、展覧会の事務局をしていて、DMの手配や展示台の集計など細々とした事務を引き受けてくれている。こういう仕事は、展覧会の会期を越えてほぼ1年中何かしら動かなければいけない仕事があって気が抜けない。私などは基本的に年中ヒマにしているから島根の彫刻展もなんとか出来ているが、飯を食うための仕事をしていてその合間の事務仕事となると結構大変なことだと思う。彼はその上に彫刻も造っているわけだからなかなかの働き者だ。
石彫の飯村さんも栃木の人で、少し前まで美術館の学芸員で出向していたらしいが、本業は学校の先生だということで、今は学校の現場へ復帰しているらしい。彼の石彫は、かなり前から彼なりのテーマに沿って制作されていてブレがない。おおよその方向性はシンプルで少なくても私には彼が何をしたいのかよく理解できる。造形の緊張感とかボリュームやバランスは作家のセンスで決まるようなところもあるから、私がとやかくいうこともないが、彼の場合、一つ一つの彫刻にもう少し強い関連性のような基本的な形状が見えてくると連作彫刻の強さが増してもっと面白くなると思うのだが、まぁ、それはボクの勝手な欲目ですから気にしないでください。
それにしても、彫刻家はみんな学校の先生が多いなぁ・・・たまたま、会員のメンバーに先生が多いだけなのかもしれないけど、そういう中では、坊主の彫刻家は珍しく見えるのかもしれないが、坊主の中には結構絵描きや彫刻家もいたりするんですよ、実は!

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オヤジ彫刻家その1 

2018/04/04
Wed. 23:25

お釈迦様の誕生日と豊川稲荷二の午祭が近づいてきた。
飯南高原に点在するお檀家さんと万善寺がお世話になっている保賀地区の各家に簡単なお知らせのチラシを配布して歩いた。
ぐるりと一周すると2時間ほどかかる。

保賀地区が終わりかけたところで電話が入って、そちらの用事を優先することにした。
そのまま54号を北上して三刀屋で用事を済ませて斐伊川土手を出雲へ向かった。
このところ、雨降りの絶えないぐずついた天気が続いている。
島根の各地は桜が満開で何処へいっても街道筋や河川敷の桜並木が綺麗だ。
ほんとうなら、もう少し気持ちも華やいで浮かれても良いはずなのだが、どうもそういう気になれない。島根に帰ってから体調不良が続いていて、遂に健康のバロメーターになっていた飲酒を休むまでになった。食欲もないので1日の食事もまともに出来ていない。こういうことは久しぶりだ。そろそろ、身体の何処かで体質の大きな改変が進行しているのかもしれない。それでもと思って、スーパーで買い置き用の食材をいくつか買ったが、ひょっとしたらそれも冷蔵庫で眠ったままダメにしてしまうかもしれない。
気持ちは坊主も彫刻も前向きでいられているはずだが、自分の身体のほうが無理を拒否している気もする。

銀座の彫刻展のオヤジ彫刻家たちは、圧倒的に具象系の作家が増えた。
もう、数年前からそれとなく気付いていたのだが、最近の二紀会は抽象の作品が減ってきたように思う。
もう、30年以上も前は、色々なタイプの色々な切り口の抽象彫刻がたくさんあって、駆け出し彫刻家の吉田は大いに勉強できたし、たくさんの刺激を受けた。あの時期があったから今の吉田があると思っている。
まだ学生で勉強していた頃、研究室の先生が「一流の師匠のビリ弟子でも、二流の師匠の1番弟子より上だ!」と言っていたことを今でも時々思い出す。吉田自身がビリ弟子だったからさりげない慰めの言葉だったかもしれないが、なんとなくわかるような気もして、その一言が自分の心にスッと入って納得できた気がする。あの先生は一流だった。

周藤さんは、私が島根に帰って30代の頃に出会った。
最初は、石膏に置き換えた具象の塑像彫刻を見せてもらったが、それは、彫刻というよりお人形さんのような造形力の弱いものだった。機会を見つけては彫刻の話をするうちに金属の勉強がしたいと云い始めたので吉田家に招待して自分の溶接機などの道具を貸してあげることにした。
早いもので、それからすでに30年近く経った。
今では、立派な金属彫刻の作家に成長して、具象抽象の枠を超えた見ごたえのある面白い彫刻を精力的に造っている。幾つかの大賞展にも積極的に出品しているし、波に乗っている。
島根在住の彫刻家に金属彫刻の作家が少ない中で、周藤さんは島根彫刻界の将来を開拓してくれる作家の一人だと思っている。

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オヤジの朝 

2018/04/03
Tue. 23:13

前年度事業で最後になっていた報告書をやっと発送することができた。
年度末の貴重な1週間を銀座のギャラリーで過ごしてしまったから、その間の事務が停滞した。島根を出発する前に全て終わらせたつもりでいたところへ、発送ミスの連絡が入って、結局は自分の責任で年度をまたいでしまったわけで、関係の皆さんに迷惑をかけることになってしまった。

ワイフが留守にしている間は、万善寺に加えて吉田家の家事も自分ですることになって、朝の数時間がアッという間に過ぎる。
最近、年齢のせいか少しずつ朝が早くなっていて、特に苦労することなく普通に目が覚めるようになった。おかげさまで通勤坊主の時間までにおおよそひと通りのことを済ませて自宅を出る時に玄関先へゴミ袋を出しておくくらいは無理なく出来ている。ネコチャンズのご飯やトイレの世話も出来ているし、グッピーたちのご飯も欠かさずあげているし、時々植物の鉢に水を足すことも出来ている・・・が、自分にできることはせいぜいそのあたりまでで、掃除とか洗濯をするまでの時間を造ることはなかなか出来ないでいる。
最近は、石見銀山で暮らす時間が激減した。日のあるうちは殆ど万善寺の外や内で何かしらの用事を済ませている。留守がちな吉田家を見渡すと、冬のシーズンにワイフでは処理しきれないダンボールや紙類がアチコチで山積みなって溜まっていた。ストーブを使っている間は焚きはじめの火付け役に重宝するが、シーズンが過ぎるとそれらがそっくりゴミに変わる。このまま見て見ぬふりで過ごすことも出来ないし、自分の周囲の紙類を集めて一気に処理することにした。まぁ、だいたいが日常の暮らしは時間の都合がつきやすいヒマにしている誰かが世話をして乗り切るしか無いから、寺の法事も無くて彫刻の制作も一段落している私が適任ということになっている。

今度の彫刻展で受付をしながら出品作家の皆さんと世間話をしていたら、女子美出身でワイフの後輩が多いことがわかった。たまたまのめぐり合わせなのかもしれないが、二紀会の彫刻部に在籍する女性彫刻家には女子美出身がかなり在籍して彫刻を出品しているようだ。その中でも、吉田満寿美はすでにベテランの域に達した存在になる。最近、作風も安定しているし、あとは構造上の丈夫さと野外での耐久性の問題をクリアーすれば、造形がもっとレベルアップするはずだ。
石彫の山手さんは群馬の方で産出される貴重な石を使っていた。木材もそうだが、近年は日本の各地で閉山する石山が増えた。島根の福光石もその一つで、江戸時代の採石場跡が今は石見銀山と絡めて地域の観光地に変わりはじめている。
青い彫刻の照沼さんは、一時期乾漆の勉強をしていたように聴いたが、私の勘違いかもしれない。彼女も女子美でワイフの後輩にあたる。
徳島の上月さんは、具象彫刻をメインにして、時々抽象を造ったりしている。基本的には可塑性のある素材の特徴を活かした独特の造形感を持っていて、一般の具象からは一線を画しているように感じる。今のテーマというか作風はずいぶん長く続いているから、そろそろ次の展開を期待しているところだ。
ワイフもそうだが、自然の持つ生命観を造形に昇華する方向性の彫刻は、私のような無骨オヤジではとても造れそうにない。

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梅と桜 

2018/04/02
Mon. 23:21

ワイフがしばらく留守にするので、出雲まで送っていった。
その足で松江の用事を一つ済ませて、それから寺へ回ることになる。
4月に入ったばかりなのに、暑すぎる。こういう天候の急激な変化が身体にこたえるようになってきた。ほぼ半日の間ずっと運転していたから、万善寺の境内へ上がった時は脱力感でしばらく動けなかった。

彫刻展の作品が吉田家へ届いていたので、それを寺へ移動した。
吉田正純の彫刻はアチコチへばらまかれているから寺にも少ししか残っていないが、吉田満寿美の彫刻は少しずつ寺へ集まって一箇所へ並ぶと彫刻の時間軸に連作の流れができて面白い。
確か2007年に彼女の個展を企画してから、気がつくともう10年も本格的な個展から遠ざかっている。
制作は絶え間なく続けているし、そろそろ次の展開を確かめる良い時期である気がするし、年末には自分の個展が具体的に決まりそうだし、良い機会だから石見銀山の何処かで同時開催を計画するのも良いかもしれない。

とにかく、このところ女流彫刻家の元気がいい。
福岡に住む井形さんは会員展の出品歴は浅いが、この近年確実に彫刻のテーマが安定してきた。島根県でも昨年11月に大田市の富山町で小学校の廃校を使った教室個展をしてくれた。あのときに集まった彫刻群の造形と会場の構成力は目をみはるものがあった。彼女とはかれこれ20年以上の付き合いになるような気がする。島根の小品彫刻展にも毎年欠かさず出品してくれていて頼りになる。
東京に暮らす醍醐さんは木彫彩色でネコのレリーフを展示していた。自分はどちらかといえば抽象の彫刻家だから、彼女のような日常の何気ない様子の一コマを切り取った具象的観察眼は鈍い方だと思っている。そもそも、展覧会へ出品する作品でそういう具象彫刻を造ろうという気にならない。二紀会彫刻部の面白いところは、そのあたりの表現の多様性とか自由度の幅が広いところだ。
今回の彫刻グループ展のボスというか仕切人というか代表というか事務局長というか・・・とにかく、ワガママ者の集団である彫刻家を束ねて展覧会を成功させたのはシノブさんの人望によるところが大きい。昔から彼女とは受賞年が重なることが多かった気がする。彼女は基本的に木彫の作家だから、野外作家の吉田とは特にこれといった接点があるわけでもないのだが、それでもいくつかの機会に宴席で同席することもあって知らない仲でもないし会話が無いわけでもない。たまたま前回の会員展で会場受付の重なることが多くて付き合いの距離が縮んで、それ以来、わざわざ出品料のかかる小品彫刻展へ出品してくれるようになった。秋の本展で見る大作も良いが、こうして、銀座のギャラリーとか島根の小品彫刻展で見る小さな彫刻も女性らしいオシャレでセンスの良い彫刻に仕上がっていて好きだ。

万善寺の梅の枯木がそろそろ花も終わりになってきた。今年は、桜が一気に開花して遠くからだと梅と桜の見分けがつかないほど花が重なった。こういう年も珍しい。

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ワイフの彫刻 

2018/04/01
Sun. 23:07

新宿バスタでキーポンと待ち合わせをしていたのだが、結局仕事が長引いて彼女は高速バスの出発時間へ間に合わなかった。
東京は2日ほど前から気温が下がって肌寒くなった。それまでが3月にしては暖かい日が続いていたから、普通に平年並みの気候へ戻っただけなのだろうが、新陳代謝の鈍ったオヤジジイは肉体の反応が目まぐるしく変わる周辺の環境に取り残されてしまう。

キーポンに「来なくていいからね!」とメールを送って、バスは定刻に出発した。
MacMusicのウエブラジオからピアノのクラシックを選んで聴き始めた。
バスは、島根の出雲市駅前へ到着するまで、途中5回ほどトイレ休憩をする。最初の休憩で何か夜食でも買おうと思っていたのに、いつの間にか寝てしまっていた。気がつくと、深夜の2時過ぎだった。ピアノ曲はまだ続いていて、しばらく聴いていたがそのうちまた寝た。次に目が覚めたらバスはもう高速道から国道へ降りていた。
やはり、1週間の東京滞在はいつも以上の疲労が溜まっていたようだ。

ワイフへは到着時間を教えておいたのだが、少し遅れるとLINEで知らせてきた。バスの方も30分程度遅れていたから丁度良いタイミングになった。出雲市駅の待合室へ移動していたら彼女の車が見えた。運転していたのはじゅん君だった。彼はこれから隠岐の海士町へ帰るようだ。新年度も職場の移動がなかったから今年で海士町へ4年間住むことになる。3人で朝食をとって、その店からじゅん君が別れた。
運転を変わって出雲市から飯南高原の万善寺へ直行した。お昼過ぎに寺の用事が一つ入っていて、それでワイフは寺経由で石見銀山へ帰ることになった。彼女はアチコチにある道の駅へ立ち寄るのが好きで、その土地土地の旬の食材をチェックしている。出雲市から万善寺を経由して石見銀山までの島根中央部グルッとひとまわりコースで立派な椎茸や野菜などをゲットしたようだ。

銀座の彫刻展会期中に、山陰二紀が主催の地域密着型美術研究会展が松江の美術館であったので、ボクが1点制作する間にワイフは都合3点の新作小品彫刻を造った。
島根もそうだが、この近年は、全国的に女性彫刻家の活躍が目立つ。
銀座の二紀会彫刻部有志グループ展も、出品者17名の内女性彫刻家が8名と、ほぼ半数に迫った。現代社会の現状では、彫刻制作に集中して没頭できるようクールに時間調整することが男には難しくなっているのかもしれない。会場で受付をしていても、来場者は女性作家の友人知人が圧倒的に多い。女性のコミュニケーション能力レベルが高いのかもしれないが、やはり、こうしてわざわざ会場へ足を運んで自分の苦心した彫刻作品を観ていただいたという具体的刺激は、何にも代えがたい制作の特効薬になっているはずだ。
ワイフの彫刻を観続けていて、「こういう造形の発想は俺にはないな・・」と、いつもそう思う。とにかく、彼女の造るかたちの方向性とかムーブマンは、彫刻家吉田正純の発想からは出てこない。今回の彫刻も、日本海の石の海岸で波に洗われて丸くなった凝灰岩を拾ってきて、もう何年も「なんとか面白い彫刻にならないか・・」と自分の近くで手を加えられないまま眺めていたのに、「ねぇ〜、あの石、使わないならチョウダイ♡!」ということになって、アッという間に彫刻を一つ造ってしまった。女流彫刻家怖し!!

IMG_6278.jpg

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2018-04