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工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

牛スジカレーとベルギービール 

2018/05/31
Thu. 23:04

手間替え随喜の大般若会へ出かけるので頭へバリカンを当て、ジレットの五枚刃を更新した。
冬の凍結で壊れたシャワー付きカランを更新してから、水圧は以前と変わらないはずなのに温水の出が良くなった気がする。寺の風呂をシステムバスに変えてからもう30年は経っているはずだからその後性能もずいぶん良くなったのだろう。
もう歳のせいだと思うが、冬になると肌が乾燥してカサカサになって全身が粉っぽい感じになってピリピリと敏感になってくるしどうも調子が良くないものだから、ためしに赤ちゃんでも安心というボディーオイルを買ってみた。それが、冬に入る頃だったのだが、風呂に入ったあと、髭剃り痕などにそれを塗っていたらとても調子が良くてカサカサも改善されて、もう忘れるほど昔のまだ若かった頃の瑞々しいお肌が戻ってきた感じになった。特に、頭皮のシットリさ加減と首筋から背中にかけてのあたりや肘とか膝の具合がすいぶんと良くなって、今では風呂上がりのオイルが欠かせなくなった。
ほんの半年前まで、ボディーオイルなど自分には生涯縁のない存在だと思っていたのが嘘のようだ。いいかげんジジイに限りなく近づいているオヤジにとって必需品たるに間違いないモノなのだ!と気付いた次第。

シャワーの最中に電話があったようで、いつもの石材屋さんから着信履歴が残っていた。返信してみると、墓納めで収骨した遺骨の荼毘をするという知らせだった。
他の寺院はこのような状況でどうされているのか知らないが、万善寺の場合は墓納めのあと、一般葬儀と同じように葬祭場まで出かけて荼毘のお経を読んで焼香をすることにしている。
最近になって万善寺の檀家関係で墓納めが増えてから石材屋さんとの付き合いが頻繁になった。はじめの頃は、施主さんとの都合を調整しながら私の方で一つ一つの段取りを調整して間違いのないようにしていたが、坊主がいつまでも石材屋さんのマネージャーのような引き継ぎをしていてもキリがないし、そういう諸々の事務的なことは「万善寺の場合は、このような手配でよろしく!」と任せておくことにした。まぁ、それはそれで慣れてもらえば良いことなのだが、なかなかすぐにはうまくいかないところもあって、この度は坊主の確認を忘れたまま荼毘の日取りを決めてしまったらしく、それに気付いて焦っての電話だった。幸い、大般若会のスケジュールとタイミングよく時間がズレて、一応何事もなくうまくコトが進んで、手間替え随喜で出かける少し前に万善寺の舎利棚殿への遺骨仮安座を済ますことができた。これから改めて施主さんと日取りを調整して万善寺墓地の永代供養墓へ合葬をすることになる。

夕方万善寺へ帰ってから、修繕が必要な法衣を残して、袷の着物を一気にたたんだ。あたりはすでに暗くなり始めていた。もう、すっかり夜になってから吉田家へ着いた。土間へ入るとクロの出迎えがなくて少しがっかりしたが、かわりにスパイシーな良い香りが漂ってきた。夕食のメインは久々のカレーだった。「和牛のスジ肉が半額だったのよ。ホラ、あの時道の駅から農協のスーパーへ寄ったって云ったでしょ!」・・・さすがワイフだ!同じ半額でも目の付け所がボクとは違う。キーポンが一人暮らしを始めてからあと、吉田家のカレーは1年以上ぶりだ。本場ベルギービールが爽やかでカレーにピッタリだった。

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衣替え 

2018/05/30
Wed. 23:19

夜が明ける前から寒くて目が覚めた。石見銀山と違ってさすがに飯南高原は冷え込む。

寺で寝る時は、だいたい季節に応じたシュラフをメインに毛布や羽毛布団を足したりして使い分けている。もうそろそろ衣替えにもなるし、つい先日のよく晴れた日に冬用のシュラフを庫裏の南側の縁側に一日中広げて天日干ししたばかりだった。
そのかわりに夏用のシュラフを2枚ほど座敷へ広げて何時でも使えるようにしておいて、昨夜はその1枚をいつものベットへ広げたのだが、それがまだ時期的に早すぎたようだ。
寝室は、台所のほぼ中央で半分に間仕切りした東側を使っている。だから、朝はかなり早くから朝日が窓越しに差し込んですぐに部屋が明るくなる。今朝は、それでも薄曇りでいつ雨が落ちてもおかしくないほどだったから、いつもより世間が暗い方だった。それでも5時前からほんのりと裏山の木々のシルエットが浮かび上がっている。
まだ起きるには早すぎるからしばらくシュラフにくるまってウツラウツラしていたのだが、やはり寒さが気になって二度寝する気になれない。夏用シュラフと一緒に薄い夏布団を出して風通しも兼ねて6畳のソファーへ掛けておいたのを思い出して、それをとりに立った。
「今朝はさむかったですがぁ〜〜・・こうして一枚上に重ね着したのにまだ寒いですけぇ〜・・」
七日つとめに伺って、玄関で奥さんの最初の挨拶がそれだった。飯南高原の住人はだいたいみんな同じような朝を迎えていたようだ・・・

6月から衣替えになるから、今まで着ていた袷の改良衣や厚手の単白衣などを洗濯して秋が来るまで仕舞うことになる。
着物は洋服に比べて「半額大売り出し!」などというセールは見たことがないし、それに坊主の正装である白衣や改良衣は、ある意味特別仕様だから普通に値が張って高い。今の万善寺の収入では、Amazonの買い物のように気軽にタイムセールでポチッ!と云うわけにいかないから、衣替えになると、まずは1枚ずつ小分けして洗濯機で洗濯をしてから、半年の間に劣化した糸のほつれをセッセと修復してたたんで大事にウコン風呂敷で包む。
やはり普通に袷の着物は単より高いから、私はできるだけ1年中使い回しが効くような化繊混合木綿の単白衣や少し厚手の改良衣を着るようにして寒い冬をしのいでいる。今は昔と違って移動も車の暖房があるし、施主家も電化住宅が増えたり、エアコンフル回転で熱くて汗がでるくらいに暖房が行き届いているから、見た目バレないように1年中単着物で通してもそれほど苦にならない。

まぁ、こんな感じで1週間は衣替え作務が続くことになるだろう。庫裏の縁側が洗濯物でいっぱいになった。明日は手間替えの大般若会があって、それが終われば冬物一式をたたんで一段落するはずだ。
吉田家へはいつもより早く、まだ明るいうちに着いた。土間へ入ると揚げ物の良い匂いが漂ってきた。そろそろ先日買い込んだ海と山の食材がなくなる頃だ。ワイフの懐石盛りがまだしぶとく続いている。ノッチのSNSでラム酒の残りを思い出した。オン・ザ・ロックが美味くなる季節になった。

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奇妙な組み合わせ 

2018/05/29
Tue. 23:05

そろそろ5月も終わろうとしている。
いつになく早く過ぎた5月だった。色々予定が変更になってつまづくことが多かったから、それで余計に早く過ぎたふうに感じたのかもしれない。
結局は彫刻の仕事にしわ寄せが集まって、6月へずれ込むことが確実になった。

現在の自分の仕事というと、万善寺の住職と彫刻家であると云っていいだろう。その2つの柱を立てたり倒したりしながら都合をつけて辻褄を合わせているわけだが、最近の過ぎた月日を冷静に振り返ってみると、ほぼ7割位が住職業に偏っていたと思う。
住職業と云っても、特に法事とか葬儀が立て込んで忙しかったわけでもなく、万善寺の修繕とか草刈りの作務が忙しかったわけで、正に住職の業務そのものであったわけだ・・・ということはつまりどういうことかと云うと、収入につながらない無償の勤労に終始したということだ。これは、吉田個人としては日常の生活に直結する重大な問題である。
収入がなくても光熱水費のような日常の欠かせない出費は絶え間がないから、その補填には細々と積み立てた貯金を切り崩すしか手段が無いわけで、今年の春はこれがなかなか厳しい状態であった。今更現状をネガティブに引きずってもどうなるわけでもないから、気持ちは前向きに、とにかく気楽に乗り切ろうと思って過ごしている。幸い、ワイフもくどくどと現状の不満を訴えることもなく、喜々として旬の出会いを楽しんでいるふうでもあるように感じるし、見た目だけかもしれないが、彼女がそうしてくれているだけで、自分としてはとても救われているのだ。

実は、明日が七日つとめで朝が早いから今夜は寺泊になる。
先日の江津と奥出雲の食材買い出し以降、毎晩のように海のものや山のものが美味しい手料理に変わってだいじにチビチビと小出しされながら食卓を飾ってくれていたのだが、今夜はそれも無い。それで、寺の焼香料などの小銭を集めて近所のスーパーへ行った。3割引や半額を中心に食材を買い込んで、あとは寺のストックで夕食にした。乾麺のそばに、半額練り物に、3割引加熱用イカのアヒージョ・・・なんとも奇妙な組み合わせになったが、空腹が解消できればそれでいい。

七日つとめへ訪問しているお宅は、息子さんたちの仕事が広島なので、お母さん一人で自宅を守り暮らしていらっしゃる。最近はそういう一人暮らしのお宅が増えていて、ナニをするにも家族で手分けが出来なくてたいへんだ。
亡くなったおじいちゃんは、比較的信心深い人で、万善寺先代の憲正さん夫婦の元気だった頃は、春になって暖かくなると頻繁にお参りされて、庫裏の縁側でお茶飲み話に興じていらっしゃった。万善寺は曹洞宗だが、特に宗派も関係なく色々な情報を収集しては観光も兼ねてアチコチのお寺へお参りされていたくらいだから、ひょっとしたら憲正さんより観光仏教に詳しかったかもしれない。
そのおじいちゃんにとって、仏教が信仰の対象であったかどうかはわからないが、趣味の延長にお寺巡りがあったような気がしないでもない。それはそれで、大きくくくれば巡礼の旅に通じることであるし、お仏壇の引き出しには、数冊のお経本も仕舞われてあった。
明日は一人で留守番のお母さんに生前のおじいちゃんのお話でもしようと思う。

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坊主彫刻家 

2018/05/28
Mon. 23:56

いまひとつパッとしない天気だ。
石見銀山から銀山街道を万善寺方面へ登っていると、途中から路面が濡れてきはじめた。
約100mくらいの標高差を登っているわけだし、直線距離で約30kmくらい離れたところへ移動しているわけだし、その場所場所で天気が変わるのも仕方がないことだ。

しばらく前に、雨の中無理をして草刈り機を回していたのだが、それでかどうか、エンジンの回転ムラがひどくなって、そのうち動かなくなった。素人だから雨水が原因なのかわからないし、自分で修理も無理だし、機械が動かないと仕事にならないから、すぐにホームセンターへ修理を依頼した。それからもうずいぶん日数が過ぎたのに連絡がこない。修理代が高額ならいっそ新品に更新したほうが早いかもしれないとも思う。これから梅雨に向かって草は伸び放題でこちらの都合を待ってくれるわけでもないし、困ったことだ。

寺へ到着した直後に、いつもの業者さんから電話が入った。
ディスクグラインダの砥石が届いたようだ。先日の炭素鋼の時は材料の到着が思った以上に遅れて大変な思いをしたから、砥石の方はかなり余裕を持って注文しておいたのに、たった2・3日でアッという間に届いてしまった。
もう何年か前のこと、確か北京五輪開催の前年くらいだったと思うが、そのときも材料が揃わなくて彫刻制作を断念するか、スケールを縮小してその時あるだけの材料で中途半端に造ってひとまず間に合わせてしまうか悩んだことがあった。結局、あの時はギリギリまで待って、連日突貫制作を続けて搬入にまにあわせた。
私のような個人営業の鉄工所にもならない極小作業場の人間は商工業関係の組合にも属していないし、そういうこともあって大手の建材組合からは材料取引を拒否されてしまう。まだ彫刻家になりたてで、鉄の彫刻を造りはじめの頃、島根鉄工会に材料の注文をしたら、普通にサクッと取引を断られてしまった。幸い、あの時はお世話になっている鉄工所のご主人に鉄工会と付き合いがあって、その鉄工所経由で材料購入が出来ることになってずいぶん助かった。
それから、年月が経って今は完全孤独な個人営業になっているから、少しでも業者さんとのトラブルが生じると、それで全てが止まって制作できなくなってしまうほどに厳しい環境をかろうじてしのいでいる。こういう状態でいつまで取引が続けられるか先行き不安なことだが、こればかりは相手のあることで仕方がない。
吉田個人にとって、どこかしら不安定にみえる今の材料流通状況は鉄材に限ったことだけなのかもしれないが、きっとどこかで東京五輪が何かしら影響している気がする。五輪のような国家が絡むほどの巨大なプロジェクトで流通する資材は、鉄板1枚2枚のレベルなど完全に無視されて終わりだ。製鉄会社の1ロットすべてがゴッソリ五輪へ流れることも十分に考えられることで、世界の経済はこうして活性してソコソコの安定が維持できているのだろう。

遅々として進まない万善寺の営繕作務を切り上げてシャワーで汗を流したら、工場経由で吉田家へ帰るつもりだ。ワイフが江津と奥出雲で仕入れた海のものと山のものがまだ残っているはずだ。夕食の懐石盛りを楽しみにもうひと踏ん張りしよう!

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始動!奥出雲小品彫刻展 

2018/05/27
Sun. 23:10

奥出雲町から万善寺のある飯南町辺り一帯の中国山地は、昔、たたら製鉄を中心にした工業地帯であった。
中国山地は風化が進んだ山で、その関係もあって日本海へ注ぐいくつかの大きな川とその支流から渓流に至るまで、豊富な地下水の湧き水で洗われた良質の砂鉄が採れる。
砂鉄の集まる場所に鉄の精錬所が出来、その精錬所を中心にたたら製鉄で欠かせない木炭を作る炭窯が出来る。
そして、その炭の材料になる木材の植林が進み、中国山地全体がたたら製鉄の原材料を提供する工業地帯となって、製鉄の技術者や関連産業の工人職人が集まる。
吉田家が暮らす石見銀山の町も、銀の鉱山を中心に銀精錬や周辺産業が発達して工業地帯になった。
奥出雲町も石見銀山もそういう工業地帯で働く人々の食をまかなうために、周辺一帯では稲作を中心とした農業が発展した。
万善寺のある飯南町も、往時は小規模なたたら製鉄やその関連施設が点在していたし、植林による林業や稲作の農業が盛んだった。

小品彫刻展が動き始めた。
奥出雲町が日本遺産の指定を受けた年に、小品彫刻展をそれまでの浜田市から移動して開催した。船通山や吾妻山の裾野に開ける広々とした棚田では、全国的な有名ブランド「仁多米」が作られ、ちょうど今頃が田植えの最盛期になっている。現在、日本で唯一現役で稼働中のたたら製鉄所が奥出雲町にあって、1年1回の製鉄シーズンになると関係者や見学者が各地から訪れる。奥出雲町の精錬所では玉鋼が作られていて、これは日本・・イヤ、世界の玉鋼となって、各地の刀剣刀匠へ出荷される。木炭製造のために植林が進んだ関係で、銘木を原材料とした木工も地場産業として定着していて、雲州そろばんの製造産地としても有名だ。

そういう、地域の特性もあって、こぢんまりした行政区であるが歴史と伝統に裏付けされた文化レベルは島根県下でも高い方だ。
絵画と違って彫刻は、地域産出の素材と向き合う機会や、地域の特性と協働できる機会も豊富と判断して、小品彫刻展の奥出雲町開催に踏み切った。
まだスタートから2・3年のことだから彫刻が地域活性の触媒となるまでにはいかないが、まずは、この彫刻展を通して彫刻家の造形や素材交流の場になれば良いと思っている。

彫刻展開催当初から奥出雲町で積極的に協力を頂いている尾方さんと打ち合わせに出かけた。話はトントンと進みそこでの草案をもとに、これから開催要項を作成して教育委員会を始めとした関係各所へ協力依頼をしつつ、彫刻作家へ出品依頼を兼ねたお知らせ案内を発送することになる。
奥出雲町はそば処でもあるから、打ち合わせのあと昼飯はそばに決めていた。例のごとく仕事が休みだったワイフをそばをネタに誘った。ワイフは尾方さんと打ち合わせの裏番組で奥出雲の地物を仕入れていた。そのいくつかは夕食の懐石盛りになるはずだ。

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日本海の恵み 

2018/05/26
Sat. 23:42

江津へ行く日は、朝が少しゆっくりできる。
9時過ぎまで布団の中でゴロゴロしていようと、寝るときにはそう思っているのだが、いつもの癖というか習慣というか、そういうものが身についてしまっているようで、6時前後にはボンヤリと目が覚めてしまう。
ワイフの方も似たような時間帯で起きてきて、それからすぐにテレビを付ける。それでもしばらくはウツラウツラしているが、結局テレビの音が気になって眠れないから、iPadに入れてある読みかけの電子書籍を読み始めたりする。
昔は、早朝に目覚めてから眠れなくなることなど無かった。延々と睡魔が襲ってきていつまででも寝ていられたものだが、何故だか歳をとるとそれができなくなるようだ。

「今日は江津の日だけど、たまには一緒に出かけない?用事してる間に買い物でもしてれば暇つぶせるでしょぉ~」と、誘ってみたら「そぉ~ねぇ~・・」ということになって、それから二人で支度してワイフの車で出かけた。
江津のスーパーには美味しい大判焼屋さんがあって、それも目当てだった。
その店のご主人は、先ごろ亡くなられた画家の佐々木信平さんの兄弟になる。お店の横の壁には、信平さんの絵画が定期的に差し替えられながら無造作に展示されてある。誰でも何時でも気軽に間近で信平さんの絵が見られて贅沢な展示だ。
島根県出身の画家で信平さんほどの画力を持った具象絵画の実力者は、現在5人といないはずだ。すでに、かなりのご高齢だったから訃報が入ったときも、残念なことだと思いつつ、一方では「ついに来るものが来たか・・・」と納得するしかなかった。とにかく島根美術界にとっては惜しい人をまた一人亡くした。
大田市の富山町で数年前から開催している彫刻主体の美術イベントでも信平さんの大作を大判焼きのご主人から借りて10点ほど展示させてもらったことがある。
信平さんは東京在住だったがアトリエは静岡にあって、そこで制作中に倒れられたというようなことをひとづてに聞いた。島根出身の同郷ということもあって面識もあるし逢えば気さくに声をかけていただいた。
「朝が早かったからかしら?・・土曜日なのにお店暇そうで、いつもは混んでるのにすぐに貰えたの。なんか申し訳ない気になって一箱買っちゃった♡!」

江津の用事が終わって、それからワイフと合流して、途中の道の駅で新鮮な地物を仕入れて、ひとまず石見銀山へ落ち着いた。私の方は、すぐに銀くんへ乗り換えて万善寺へ向かった。出掛けにワイフが大判焼きを2個ほど持たせてくれた。それがお昼ご飯の代わりになる。オーブントースターで少しほど表面を焼くと美味しさが増す。寺へ落ち着いて、そうして大判焼きを食べながら、信平さんを思い出していた。
ほんの数時間ほどのことだが、境内のすぐ下を流れる用水路脇の石垣から土手までを少し整備できた。シャワーで汗を流して暗くなってから吉田家へ着いた。
夕食は、ワイフの懐石盛りがまだリタイヤしないで続いている。
江津で仕入れた近海のアジやタコが懐石盛りとは別でタタキや造りになっていて骨せんべいも絶品だった。今の時期の日本海のアジは脂が乗って最高に美味い。昔ながらの手作り木綿豆腐もシッカリと固めでボク好みだった。晩酌が何時にも増して美味かった。

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バカルディラム 

2018/05/25
Fri. 23:14

隣町のお寺で大般若経転読会の手間替え法要がある。
膝が曲がらなくなって苦労しているが、昨年はまだ痛みを我慢して無理をすれば不格好な正座くらいはできていた。
それから1年の間に膝も含めて足首とが腰とか下半身が悪くなってきた。
まずは、身体が動いてナンボのものだし、今年は手間替え法要も無理をやめて自前の椅子持参で乗り切ることにした。
座禅を修行の第一とする宗門の坊主としては恥さらしのことだが、周囲の目を気にしてばかりいて自分を見失うのもまた坊主として恥さらしのことと、自分を自分で都合よく慰めてこれから先のことを乗り切ることに決めた。

私は元々体育系のような集団行動が苦手だ。
曹洞宗はどちらかというと仏教各宗の中でも体育系寄りに振れている方だと思っていて、その上たまたまかもしれないが、周辺寺院のお坊さん方も学生時代は野球部に所属の方が大多数を締め、他にもバレーボールだったりテニスだったり・・・そういう方面で華々しく活躍されていた方々ばかり。その中で、美術部だったり吹奏楽部だったり完全文化系に浸りきっていた私は、とにかく、どの寺でもどの方丈さんとも打ち解けた話が出来にくくてなかなか居心地の悪い坊主付き合いをさせてもらっている。一方、かえってそのくらいの少し距離を置いた付き合いのほうが気楽でいられる気もしている。

日本と半日くらいの時差があるフロリダ暮らしのノッチが、SNSで近況を知らせてきた。
あと3ヶ月ほどで帰国が決まっているから、今のうちにあちこち旅行などして楽しもうと考えているようで、少し前のメキシコから今度はプエルトリコへ行ってきたようだ。
吉田家の子供達の中で、ノッチが一番酒好きでアルコールに強いと思う。
ワイフは、家系的に酒とは縁のないところで育って大きくなっているから、お酒の旨さをほとんど理解しないまま今に至っている。そういうこともあって、吉田家でのオヤジの晩酌は結構緊張しながら楽しんでいるところもあるのだが、たまにノッチと一緒に飲むと、何時になく盛り上がって、とにかく楽しい。彼女はこんなオヤジとどのように思って付き合ってくれているのかわからないが、父娘の関係でそういう楽しいお酒が飲めるということは、とても幸せなことだと自分では思っている。
プエルトリコというと、やはりバカルディラムを思い出す。そして、ノッチはモヒートやビールが好きなようで、SNSの写真もやはりうまそうなバカルディだった。

そのノッチが、フロリダを起点にアチコチ旅しながら着々と帰国後の就活に取り組んでいるようで、すでに、転職用の履歴書を作成済みで、検討リストも十数件ピックアップできているらしい。
私の時代には彼女のような就活形態は想像もできない未知の世界だった。たった半世紀足らずの間に情報世界が激変した。
ノッチはそういう時代の流れをとても上手にマイペースに泳いでいると思う。島根の田舎暮らしでは想像不能な現実に直面して苦労していることも多々あるだろうが、自分を信じて乗り切って欲しい。オヤジは彼女の足手まといにならないよう気をつけないとね・・・

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戒名料って・・? 

2018/05/24
Thu. 23:11

情報によると、今年は梅雨が早くやってくるようなことをいっている。
昨年まで、万善寺の大般若法要を8月に行っていたのだが、今年から前住職憲正さんの祥月命日6月16日に当てて法要を移動させた。
いろいろ、事情があったし思うところもあってのことだが、自分や家族も含めて、お檀家の皆さんへも先代住職のことをいつまでも忘れないでいてもらいたいということが日程変更の一番のねらいである。

石見銀山から通勤して、庫裏の玄関へ荷物を置いたら、そのままつなぎに着替えて境内へ出て、午前中の万善寺作務に一区切りつけて、それからやっと座敷へ上がってお昼ご飯の準備に入った。
作務の間にチビチビすすっていた携帯ポットのコーヒーが少なくなったので、現在の事務所兼用の台所で米を研ぎ置きしてから豆を挽いてコーヒーを入れた。

デスクトップをONして、ウエブ配信のニュースなどをチェックしていたら、「お寺から指定されたお布施の額にビックリ!」なる記事を見つけた。
気になって読んでみると、万善寺では考えも及ばない寺と住職の実態が書いてあって、唖然とした。
葬儀の経緯とそれに関する諸経費のことやご住職への布施や寺からの必要経費請求のことなどが長々と書いてあって、最後に「私はお寺や住職に対してあきれるというか、信じられない気持ちになりました。ですので、さらに自分の気持ちが固まったのです。お墓も仏壇も処分してしまおう。そう強く思いました」・・・と結んであった。
嘘か真か・・・葬儀費用の他に、お布施と戒名料で65万円。四十九日の法要料でお布施の5万円と7日努め諸経費の請求が8万円。それに永代供養料が100万円・・・あぁ~~~・・・1回の葬式と四十九日の法要総諸経費で施主家から約200万円が消えていることになる。
ちなみに、万善寺先代で東堂(引退住職)の憲正さんの時は、本葬までの葬儀費用が導師副導師をはじめ約20人の坊さんにお手伝いいただき、約400万円で済んだ。昨年遷化された隣町の大和尚様は現職のご住職だったから葬儀経費も軽く憲正さんの2倍にはなっていただろう。我が身の恥を晒すようだが、内室の母親の葬儀や墓石建立も含めて、未だに関係各所へ借金が返せないままになっている。
万善寺の実情と比較するに、一軒の家から一人の坊主へ一つの葬儀で200万円が渡っているという実態が、今の仏教界全体に行き渡っている訳でないことはわかってもらえると思うが、一方で、同業坊主の葬儀役務にこれだけの格差が生じているという現実があるということも事実だ。そもそも、お布施の他に戒名料という費目が計上されること自体、仏教の根本から逸脱した事態といえる。此岸の世界で生涯を全うした時点で、彼岸の世界に生まれ変わったあとの名前をいただく、その名前が戒名となるのであって、戒名がないと葬儀そのものが成立しないことなのだと、憲正さんから教わってきた。
永代供養料にしてもそうだが、一つ一つの仏事のことで、その内容がよく理解されないまま都合よく金に変えようとするねじれた卑しげな打算が世間に通用しすぎてしてしまっている。

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モーニングコーヒー 

2018/05/23
Wed. 23:01

七日つとめで朝が早いから、前日の用事のついでに一週間ぶりで寺へ泊まった。
ケトルに注いだ井戸水をコンロにかけてからいつもの万善寺の朝の用事を一巡した。

最近は台湾製のお手軽手動コーヒーメーカーを使うことが増えた。
一度沸騰させてから火を落として、ケトルが少し冷める間にミルを使う。すでに引いてある豆は粗引きとあってもかなり細かいから、やはりミルを使うほうが自分の好みに調整できて都合がいい。
お湯が適度に冷めてからコーヒーに注ぐ。それから、だいたい五分ほど蒸らす。
「吉田くんはコーヒーにうるさいからぁ〜」
近所の同級生のオヤジがそう云っているが、自分では全くそんなこともなくて実にいい加減でその日の気分に任せているだけのことだと思っている。
だいたいどちらかといえば、コーヒーをいれるだけのことで、毎日毎朝毎回、アーダコーダと面倒臭いことばかりにこだわって「ナニが楽しいのだ?」と思ってしまう方だ。

そもそも、コーヒーが美味いとか不味いとか、そういうことは自分のその時の気分や体調で変わってくるものだし、べつに珈琲屋さんを経営しているわけでもない。苦いと思えばお湯を足して薄めれば良いだけのこと程度だ。それでも、少しは気にしていることもあって、最初から薄いコーヒーをつくることはしないようにしている。薄いコーヒーだけはどうも美味いと思えない。アメリカンコーヒーというのがあって、昔は喫茶店とか珈琲屋さんへ行くとよくそれを注文していた。誤解のないように云っておくが、吉田的にはアメリカンコーヒーがイコール薄いコーヒーであるとは思っていない。アメリカンはあくまでもアメリカンで、普通にコーヒー豆をケチってコーヒー味のついたお湯を飲んでいるようなものでは無いのだ。

若い頃に何年も水商売で食いつないでいたことがあって、その時の色々な体験が今の一人暮らしの役に立っている。
人間、結局生きるためにははなんとかして飲食を繋いでいくしか無いことだ。
宗門の道元さんに至っては、「典座教訓」なるありがたいお言葉も残されている。
一人でいると、それこそ何から何まで自分一人でコトを済まさなければいけなくてそれなりに面倒なことだが、一方で、誰を気にすることもなく自分の思うように自分の好きなように暮らしのシステムを積み重ねていけば、それはそれで気楽にいられて、心穏であったりする。その甘美に浸りきってしまうと、あとで取り返しのつかない自堕落な人生で終わることも十分に考えられるが、それを自覚して堕落を踏みとどまりつつ毎日のマイペースに責任を持ち続けていられれば、シンプル克つ豊かな暮らしができると思うのだ。

お湯を沸かして朝の一杯のコーヒーを抽出するだけのことだが、その行為にその日一日の自分の気持ちの平静を託すことが出来ないわけでもない。
コーヒーが美味いとか不味いとかはどうでもいいことで、だいじなことは、「コーヒーをいれる・・・」という所作の一つ一つがその時の自分の精神や体調を写していることで、その結果に美味いとか不味いとか、そういうことがついているということである。

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草刈りの日々 

2018/05/22
Tue. 23:22

墓納めの朝は気持ちよく晴れた。
あらかじめ石材屋さんと打ち合わせをしておいて、直接施主さんの墓地で待ち合わせることになった。
通勤坊主は1時間半ほど早く吉田家を出発した。

途中ですれ違う通勤の車列がいつもと少し違っていて、今朝は、猿の集団にも出会った。
最近、ほぼ毎日のように朝か夕方同じような場所で猿の群れを見る。春の子育ての真っ最中のようで、見かけるのはだいたい母子猿。少し大きくなった子供猿が厄介で、街道を挟んだ山岸と谷をチョロチョロ行ったり来たりして、その行動が予測しにくい。前の結界くんはもうかなりヨレヨレのくたびれた車だったから、少々猿を引っ掛けてもなんとも思わなかったが、今度の銀くんは、それでもまだ1ヶ月チョットの新車だから猿を跳ねるのも躊躇する。彼らも、毎日のことですれ違う車に慣れてしまっているからよけいに厄介だ。

墓地は、万善寺の墓地への参道がまだ楽に思えるほど急な斜面へ申し訳程度についている階段を最上段まで登りきったところにある。
足の不具合をいまだに引きずっているから、くるぶしの悪いところを中心にサポーターとテーピングを厳重にしておいた。愛用の杖を頼りに、約200段くらいのつづれおり階段を上がって、あらかじめ万善寺で用意しておいた五穀と切り餅を早逝だったご主人の墓前にお供えしてから、いつものように撥遣のお経を読んで、米と塩を墓地全体へ撒いて最後に、これも寺の井戸水を汲み置きしておいたもので洒水した。
今のように墓納めが増える前は、施主さんに必要なものを用意してもらって、自分は身軽にサクリと坊主の務めをこなすくらいで良かったが、施主さんのお参りも無いような墓納めが増えてくるとそうも言っていられないし、一式自分で用意して済ませたほうが面倒もなくて楽に思えるようになってきた。
先代の憲正さんに何度かお供した頃とは、ずいぶん様子が変わった。あの頃は、墓納めも一日仕事で、主だったご親族の参列があって最後は斎膳まで出て一杯が始まったりして、年回法事とドッコイくらいの一大イベントだった。

石材屋さんの作業へあとを引き継いで、杖を頼りにヨチヨチと坂を下りた。上半身は普通に何ともないが、下半身はこの急坂の登り降りがかなり辛かった。帰りは銀くんのクラッチを踏み込むのも難しいくらいだった。
草刈り機の消耗品パーツが壊れて使えなくなったので途中のホームセンターへ寄った。石見銀山では吉田家もあるし、工場の山岸も雑草が伸びているし、このところ毎日のように草刈り機を銀くんへ積み下ろしばかりしている。

じゅん君がおじいちゃんの誕生日でプレゼントした花が今は荒れ地になったおばあちゃんの畑の端できれいに咲いた。プレゼントした時は鉢植えだったが、知らない間に今の場所へ地植えされていた。毎年きれいに咲くし、気のせいか株が少しずつ大きくなっているようにも思う。草刈りする身としては邪魔でしょうがないが、大事な記念でもあるから、いつもそれなりに慎重に気をつけている。

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悩む自分 

2018/05/21
Mon. 23:19

先日、大雨の中を出雲の先の斐伊川のあたりまで出かけたが、その時は仕事の納品だったし、あまりにの大雨で途中寄り道する気にもなれなかったから、脇目も振らず石見銀山へ帰った。
出雲には長居のできる珈琲屋もあるし、それなりの珈琲豆を置いている店もあるし、それに美味いパン屋さんや蕎麦屋さんやイタリアンのお店もあるし、何かの用事で出かけた時は、そのまま帰るのももったいない気がして、ついつい幾つかの誘惑に負けて寄り道してしまう。

かれこれ1年くらい続いているだろうか?・・・ワイフの定期通院の日だったので、「オレが送ってあげるよ。その方が道中運転しないで済むし、少しは楽だろう?・・・買い物でもあったら付き合うよ!」などと、やたら恩着せがましくワイフのお供を提案したら、「あらそぉ〜お!それじゃぁ〜そぉ〜しようかなぁ〜〜」ということになった。
道中、「チョット寝るからね・・・朝が早かったし・・・」と、助手席で寝始めたワイフの横で、運転しながら「受診の間、暇つぶしを何にしようか?・・・」と、不謹慎にもウキウキと悩む自分に気がついて、慌てて自ら戒めた。
「コメダ珈琲でも行ったらぁ〜、今日の診察、結構掛かると思うからぁ〜・・」
唐突にワイフがそんなことを云いはじめて、私の良からぬ企みが見抜かれてしまったようで、ドキリとした・・・
「そぉ〜だなぁ〜・・・、しばらく行ってないし、コメダ珈琲だと、暇つぶしにもなるから・・・じゃぁ〜そうさせてもらおうかなぁ〜〜・・・久しぶりにシロノワールでも食べようかなぁ〜〜・・・」
それから、病院の玄関先で別れた時にはもう「コメダ珈琲にしよう!」と気持ちが定まっていた。
2杯目の珈琲を飲み終わった時、タイミングよくワイフから電話が入った。
それから、彼女をピックアップしてスーパー経由で自宅へ帰った。

ワイフの定期通院もおおよそ落ち着いたようで、次は、薬を2ヶ月分もらって7月まで少し間が空くことになったらしい。
今日の残りも半日近くのことだから、このままゴロリと横になって「休んでしまうのもいいかな?」と思っていたのだが、いざそうしてみると、万善寺の用事の幾つかが積み残されていることに気持ちが巡ってどうも落ち着かない。
結局、それから支度して銀くんに飛び乗った。

大雨で流れていた納骨を業者さんと一緒に済ませてからあと、その前に墓納めが終わっていた町営の共同墓地の現状が未確認だったので移動の途中で墓地へ回った。ほんの1ヶ月前まではその場所に立派な墓石が建立されていたのに、今は整地されてあとにはもう雑草が延びている。明日は、別のお檀家さんの墓納めが予約されていて、朝から共同墓地へ登って撥遣のお経を読んで洒水したりして墓地墓石のお清めをする。
施主さんの事情だから仕方のないことなのは承知だが、こういうことばかりが坊主の仕事でも無いはずだと、どうも素直に受け入れられない自分がいたりする。

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鴨山窯 

2018/05/20
Sun. 23:54

島根県や隣の山口県あたりでは各所で作陶家や窯元の新作窯祭りが盛んに行われている。
ほぼ毎日通勤坊主で往復している銀山街道沿いにも作陶家の窯元があって、桃太郎旗が立っていた。

鴨山窯という窯元は湯抱温泉の入口にあって、確か、ご夫婦とも武蔵美の出身だったと思う。
私より若干年長だから、東京暮らしの10年間が重なっていたかどうか微妙なところだ。彼等の時代はまだ全国の大学で学生運動が盛んだった頃で、私が上京した頃はそれが少し落ち着いていた頃だった。それでも、どの大学も校内外には立て看板が林立していて、運動家の学生が拡声器を持って持論をぶち上げていたし、その周辺では取り巻きの学生たちがセッセとビラ配りをしていた。
私は、どちらかというとそういう政治活動には興味がない方でシラケた貧乏学生だったから毎日の食い扶持と制作の材料代を稼ぐバイトに明け暮れていた。

詳しく聞くこともないからよくわからないが、学生の頃はご夫婦とも絵画を専門に勉強されていたようだ。その後、結婚されて島根へ帰られてご主人は陶芸家に転向し奥さんは漫画家として独立された。
今は、ご主人の生家の母屋を陶芸の展示ギャラリーに改装されて、納屋の方で奥さんが漫画を描き続けていらっしゃる。

このところ、通勤坊主の時間帯が早朝と夕方になることが増えて、昔のように気軽に寄り道をしてお茶飲み話をすることが難しくなっていた。
母親が死んでからあとの慌ただしさもあって1年以上はご無沙汰していたはずなので、今年の各種御札もまだ渡していないはずで、そのことも気になっていたし、食器の新作も欲しかったから、半日ほど都合をつけてワイフを誘って久しぶりに寄ってみた。
丁度ご主人は窯焚きの真っ最中で、「あと15分ほどでネラシが終わるから・・・」ということだったので、制作工房の方を先に見させてもらった。例の島根の地震の時には、棚の器が落ちてきて若干の被害があったようだ。
工房から母屋の方へ行ったら、納屋の1階がギャラリーに改装してあった。2部屋に分かれていて、外から直接入れるようになっていて、入り口の部屋にはご主人の学生時代の絵画作品がビッシリと展示されてあった。今の陶芸作品のベースがその絵画から感じられる魅力的な展示になっていた。奥の部屋は奥さんの漫画の原画がたくさん展示してあった。これもなかなか素敵な作品で紙の白が上手に活かされた着彩が爽やかに感じた。

それから、美味しいコーヒーをご馳走になって、新作の食器を買った。
「最近は全然痩せなくなってしまって、チョット食べてもすぐに太るから、主人の造った食器に一人分ずつ分けて懐石盛りに変えたのよ。それを続けていたら痩せるようになってきたの♡!チョット面倒だけど、けっこう良いわよ・・・」
奥さんから仕入れたネタを、それからワイフが吉田家で引き継いで、夕食は懐石盛りになった。さて、いつまで続いてどれだけ効果があるか・・・楽しみだ。

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ピリピリチリチリズキズキ 

2018/05/19
Sat. 23:29

自分の体質というか肉体というか、とにかく身体の何処かである日突然何かしらの不具合が生じて、それがもとに戻らないまま何ヶ月も体調不良が続く・・・というようなコトがあって、はじめてそのことに気づいて自覚したのは35歳くらいの頃だった。
まだまだ若くて少々の無理など平気で出来ると思っていたから、その無理がなかなかできなくなって、それまで痛いともなんとも思わないし、そういう自覚もまったくなかった首筋から肩や背中にかけて鈍い痛みが生じて、夜になっても簡単に寝ることができなくなってしまった。まだ子供も小さいし、ワイフに話すと心配が過ぎて大げさになってしまいそうだったので、密かに黙って湿布を貼ってみたりアンメルツを塗ってみたりしていたのだがほとんど効果がないまま、しだいに慢性的な痛みになっていった。
面白いもので、痛みも慢性化すると、寝ても起きても何かしら自分の身体がそれを覚えてしまって、少し無理をした時とか、身体のパーツの何処かを集中的に酷使した後とか、なんとなく「そろそろ痛みがやってきますよ!心の準備は大丈夫ですかぁ〜」といったふうな前兆を知らせてくれるようになった。なにもしないでくつろいでいる時とかに、気がつくとヤバくなりそうな患部の辺りでピリピリチリチリと微細な痛みが走りはじめる。そういうことがあると、だいたい一晩寝た次の朝に目が覚めて起きようとすると、キッチリその場所が痛くなっていたりする。
35歳くらいの時にそういうことを自覚してからあと、周期的に似たような症状が身体のアチコチで起き始めた。始めの頃はそれがだいたい5年毎に巡ってきていたが、気がつくと周期が3年くらいに短くなっている。そして、場所によっては1年後の春になるたびに巡ってくるようになっていたり、季節の変わり目ごとに症状が現れたり、時には、低気圧が接近するとズキズキ疼き始めたりするような患部まで自覚できるようになっていたりする。

最近になって特に強く自分の身体はこうして1年毎に確実に老化しているのだと云うことを実感するようになった。
毎年のように繰り返される一つ一つの決まり事は、その年の環境が多少変わってもそれでスルーできるわけもなく、いくら時間がかかっても、いくら体調が優れなくても、いずれいつかは同じように何かしらの工夫をしながら乗り切っていくしか無いことだ。
遅れに遅れていた草取り機の製作は、自分の身体を気遣ってもっと遅らせてしまうことも出来るには出来たと思うが、そうすることのしわ寄せの方がより重大である事もわかっていたので、この2日間ほどはかなり厳しく無理をして身体を酷使した。
案の定、今朝は自分の思うように身体が動かなくなっていて、どうしたものかと一瞬悩んだが、やっぱり今は無理を通すしか無いと決めて、あらかじめおおよそ計画をしておいた通り、寺の用事と吉田家裏庭の草刈りを実行することにした。体調が万全なら特に体力を消耗するほどの重労働でもないから、1日もあれば十分に時間の余裕を持って片付けられる程度の仕事量のはずだったのだが、さすがに、今の状態では無理だった。夕方日が暮れて手元や足元の様子が確認しづらくなるまで草刈りを続けたが、最後まで終わらせることは無理だった。幸い、明日は特に差し迫った用事もないし、半日もあれば残りのこともなんとかなるだろうと思ってはいるが、それも一晩寝てみないと何とも言えない。
少し前にボクの誕生日も過ぎてまた一つ歳をとった。あと何年身体が保つだろう?・・

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工房むうあオリジナル製品製作完了! 

2018/05/18
Fri. 23:21

済んでしまえば、結局どうこう云っても結果論にすぎないことだが、とにかく、今回の草取り機制作はことごとくつまづいた。
始まりは確か4月の半ばくらいだったと思う。退職校長で今は地域の公民館長へ納まっている同級生からの電話だった。

彼が退職する時、学校への置き土産に自腹で草取り機の製作依頼をしてくれたのだが、あの時は年度末の3月だった。あまり記憶も定かではないが、依頼を受けてから材料計算をしていつもの取引業者さんへ材料発注をかけたら、次の週には全部揃って工場まで配達してくれた。
いつもよく注文する塗装のない黒皮アングルは何処にでもある材料ですぐ手に入るはずだが、厄介なのは炭素鋼の角材で、こちらの方は用途が限られる材料だから何処にでもあってすぐ取り寄せ出来るものでもない。一種の鉄合金のようなもので、炭素の含有量で製品番号も各種あるから、発注する方もその具体的な説明を材料カタログの製品番号と照らし合わせたりしてなかなか面倒な鉄材でもある。
ある意味そういう特殊なものが必要になる仕事は鉄の彫刻ばかり造っている個人営業彫刻家の吉田にとって稀な部類に属する。今回の依頼も、そういうことを知った上で遅くても春の連休前には発注しておかないとヤバイことになると予測していたのだが、それがあまりにも厳しく大当たりしすぎてしまって、結局炭素鋼の現物が届いたのが昨日であった。

工房むうあオリジナル製品でもある草取り機には、使用者の使い勝手を考慮した幾つかの工夫がされている。
1号機を製作する時にリサーチした既存の草取り機は、低機能な割にあまりにも大げさでゴツく、使用者の体力負担を無視した代物ばかりだった。そういうものは、モノがヒトを選ぶような使い勝手の悪さがあって、結局校庭の片隅で放置されたまま風雨にさらされて朽ち果てるばかりの粗大ごみとなってしまうことが予測できるし、実際、リサーチの過程でそういう実態をつぶさに目撃もした。
だから、吉田の制作コンセプトは、まずは、大人が一人で手軽に運搬できるサイズと重量であることを最優先にした。軽トラで運搬できて、一人で積み下ろしして、簡単に組み立てられて、すぐに使えて、後片付けのメンテナンスも不要で、収納も場所を取らないで済むこと。
それらの条件をクリアーするためには、製作する手間暇が必要以上にかかるから、それを製作費に全て組み込むとかなりの高級品になってしまう。だから、優しく温厚な吉田は、学校教育のさらなる発展に寄与すべく、それらの面倒をすべてゴクリと飲みこんで粛々と製作に励んでいるわけなのです。
それにしても、今回は2日間しばしも休まずフル稼働した。塗装を終わって積み込みの直前から土砂降りの雨になった。まさに名実ともに正真正銘の雨男だ。
ずぶ濡れになったつなぎの作業着を着替えに一度吉田家へ帰宅して、シャワーで冷えた身体を温めて、それから予備のつなぎを用意して出雲の先の斐伊川土手方面へ銀くんを走らせた。
小学校では教頭先生が出迎えてくれた。降り続く雨の中、夕方7時前に納品が終了した。

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草取り機ものがたり 

2018/05/17
Thu. 23:42

最初に学校の草取り機を造ったのはキーポンがまだ大森小学校へ通っていた頃だった。

あの頃は、島根県全体で小中学校の児童生徒数が激減している時で、大田市でも行政区の小学校が毎年のように統廃合で減少していた頃でもあった。現代彫刻小品展や野外彫刻などの彫刻イベントを開催している旧富山小学校もその時の統廃合で廃校になった。
大森小学校の方は、地域住民の小学校存続への熱い思いが教育委員会から提出された廃校計画に真っ向から対立することになって、当時のPTAもPとTがそれぞれの立場で距離を置きながらそれぞれ主催の研修会や学校再編計画の説明会やそれらを受けての町民集会まで毎月のように開催して、石見銀山の町全体が熱く揺れ動いていた時期でもあった。

吉田家の子供たちはというと、すでに上3人が義務教育を卒業してそれぞれ次の進路へ進んでいたから、最後に残ったキーポンは一人っ娘のごとき甘えん坊に育っていた。
オヤジの私としては、特にキーポンを特別甘やかして育てているつもりもなかったのだが、上の3人の子供たちには事あるごとに「お父さんはキーちゃんだけ特別に甘やかしすぎている!」と文句というか嫉妬というか意見というか・・・とにかく、そう云っていつも叱られていた。もっとも、自分としてもやはりキーポンが最後の子供だと思うとほったらかしにも出来ないし、その上、児童数も最悪に少なくて、だから親の役回りも当然立て込んで窮屈になるわけで、そういう実情のこともあって、保護者や学校との付き合いも「コレで最後だから・・・」と、なんでも言われたことはゴクリと飲みこんで「引き受けることにしよう!」と自ら決めていたところもある。
それで、めぐり合わせでPTA会長の役職が回ってきて、それに統廃合の問題が付いてきて、何から何までドタバタと仕切りまくるしかない状態になってしまったという理由。
大森小学校の校庭の草取り機のことも、その流れで吉田が製作するということになってしまった。大森小学校の長い歴史の中で、シーズンになると歴代PTA会長が率先してH鋼を引っ張って草取りの勤労奉仕を繰り返していたという既成の事実があって、それを引き継ぐかたちになってしまったというのが今だから話せる裏事情であったわけだ。

H鋼を引っ張っていた頃のPTA会長は運送業の社長さんで、でかいトラックを持っているから、それを校庭へ持ち込んでグイグイ馬力で引きずり回していたのだが、みんながみんなそれが出来るわけでもなくて思い悩んでいたら、当時の校長さんが「前の学校で勤務していた時に近所の鉄工所のご主人が造ってくれたモノがありましてね・・・」と耳打ちしてくれた。そう云えば「似たようなゴツイのが中学校の野球場の隅へなげてあったなぁ〜」と思い出して、早速リサーチに出かけた。そうやって、幾つかの草取り機データを収集して自分なりに工夫してだいたいのスケッチを描いて、それを工場へ持っていって、ありあわせの材料をかき集めて溶接で継ぎ足して造ったのが第1号草取り機だった。
唯一のコダワリはメインの櫛に炭素鋼を使ったこと。これはたまたま、板金の打ち出しに使う小振りの当て金を造ろうと取り寄せておいたものが2本ほどあってそれを流用した。

「ご注文の鋼材が入荷しまして、夕方にはお持ち出来るんですかどうしましょうか?」
4月末に頼んでおいた炭素鋼がやっと届いた!第4号草取り機制作の余裕はもう無い・・・

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ご飯が美味い 

2018/05/16
Wed. 23:35

七日つとめがあるので、1週間ぶりに寺泊で一人飯をつくった。

これから暖かくなってそれから先は暑くなる一方だから、作り置きが過ぎると無駄が増える。冷凍庫で眠っている食材をいくつかみつくろって簡単なツマミにして、あとは中途半端に残っている冬の日本酒や焼酎やワインを1本ずつ空にした。それでも、まだ他に封を切った日本酒が少し残っていて、それはまた1週間後の七日つとめで寺へ泊まった時の寝酒にすることにした。

主食の炭水化物がなかなか食べきれないまま残り続けていて、それもこのままだと無駄になるから少し無理をして食べ続けている。
昨年の晩秋にお檀家さんから法事の引き物代わりにお供えで頂いた30kgのお米は、そのまま御本尊様にお供えし続けるのも失礼だから、年の瀬の押し迫った時に御下がりへ回して、半分ほど吉田家へ持って帰った。残りの半分は、お正月から少しずつ炊いて食べ始めているが、他にお餅も冷凍してあるし、昨年の夏の引き物の各種乾麺も残っているし、せっかくのお供え物を粗末にしないよう気配りしながらありがたくいただくことも坊主の勤めだと、寺の日常でセッセと食べ続けている。
久しぶりに会った友人とか知人から、「少し太ったんじゃない?」とか「アラ!腹出たねぇ〜〜」などと、私の体型の変化を指摘されるが、それには「飲むも食べるも坊主の大事な仕事なのだ!」と説明するようにしている。世界には食糧難の飢餓で苦しんでいる人々もたくさんいるのに、一方で贅沢にも食べることに苦しむ坊主がいるわけで、此岸の世界の不条理をどうすることも出来ないもどかしさに悶々と過ごしている。

チビチビと晩酌しながらとか朝の通勤坊主で早出の時とか1合飯を準備して炊いておく。
冬の間は、ご飯も日持ちがするので、だいたい3合ほど土鍋で炊いて半分を冷凍へ回しておけば1週間近く主食で不自由することがない。
これから先は、1回に3合を炊き続けていくと冷凍庫がご飯で溢れかえってしまうことになるから、先日1合炊きの土鍋を新調した。
その土鍋は都合よくレンジの中にピッタリ収まったので寺の仕事をしながら10分ほどチンして、あとは同程度の時間だけ蒸らしておけば2食分の主食が出来上がる。通勤坊主をしながら2日に1回ほどこうして炊飯して半分を冷凍保存して2日目に回すことを繰り返しながらお昼ごはんを食べている。

雨で草刈りを途中で切りあげてからフキを収穫してワイフへ託しておいたのを、山椒の薬味を添えて甘辛く煮付けしてくれた。
これが炊きたてのご飯へ絶妙にピッタリで、一膳をアッという間に完食してしまう。
「いっぱいつくったからお寺へ持っていきなさいよ。冷凍で保つかもしれないし・・」
吉田家を出る時に保存袋3つ分に小分けしたフキを持たせてくれた。
その日は早速一袋分を食べた。
ワイフは料理上手でとても助かっている。長年一緒に暮らしていると、私の食の好みも心得てくれている。貧乏だけど、いつも美味い飯が食べられるボクは幸せものだと思う。

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そもそもの万善寺 

2018/05/15
Tue. 23:50

新年度に変わってはじめての坊主総会があった。
年度初めの総会はどういう組織でも似たような議題で終始するが、万善寺の属する教区の坊主総会では毎年内容を変えた研修会が抱き合わせで行われる。
たとえば、部落差別のこととか、自然災害時の取り組みのこととか、戒名の問題とか、過去帳に絡む情報公開の有無に関する周知徹底とか色々だが、今年は寺にお参りを中心とした障害者対応に関しての現状と対策や提案が協議された。

自分で言うのもどうかと思うが、だいたいに日頃から性格の捻くれたところがあって、世間を斜めに観ているような坊主の仮面を被った生臭い人間であるから、こういう真面目な直球豪速球の話題になかなかついていけないところがある。
「うちの寺は観音霊場の一つになっているので、時々高齢の信者さんがお参りされるのですが、あれだけ長くて急な階段の上にお堂があったりすると、ご案内して良いものかどうか躊躇するんですよねぇ〜・・・まさか、エスカレーターとか昇降機を設置することもできないし、そもそもそれだけの投資をする余裕もないですし・・・」
まぁ、そんな感じの話題でしばし賑わった。
ひと昔前のことだと、宗教家としての坊主の口から出ることなど無かった話だ。

万善寺は俗にいう(のかどうかわからないけど・・・)男寺というやつで本堂の床が高い。その上、それがまた基礎石で境内のレベルから一段あげられているから、より高くなっている。最近は年齢のせいもあって少し背が縮んだが、本堂の濡れ縁がだいたい身長170cm位のボクの顎のあたりの高さになる。これは、飯南高原の数ある寺院の中でも一・二を争う高床の本堂といっていい。一方で、女寺(いまでは、「差別用語になる!」とこういう時に限ってうるさいことをいうひともいるだろうが、ボクはそれを「区別」だと思っているのだ!)の本堂はせいぜい高くて1m前後のゆったり横に広がった造りになっている。私は、仏教の長い歴史の中でどちらが良いとか悪いとかそういうことで本堂の造りや構造が決められてきたわけではないと思っている。では、ナニが根本かというとそれは「信仰の象徴」であり「信仰の具現化」であると考える。

日本のお城の天守閣へ続く階段は、わざと高さをランダムに組み上げて敵の進撃スピードを狂わせていたという。
殺伐とした戦と清浄な仏教の信仰心とは一見似たような造形物であっても、その創造の根本が全く違っている。仏教で云うところの急な階段とか高床の本堂とかは、そういう障害を克服した後に照らされる仏の光明に出会った時の達成感を噛み締め至福の喜びを目指すべく、自らの苦行修行の実践的体験をさりけなく提供していることなのだ。男寺と女寺の違いは、修行者とか信仰者がどのように考えナニを求めるかで造形や構造の違いが出てくるというわけで、どちらが良いとか悪いとか、信仰心が強いとか弱いとかそういう飛沫の信心で出来上がっているものでは無いと私は思っている。

そもそもの万善寺は、土留めの丸太を寝かした緩やかな勾配の参道に、禅寺特有の結界の象徴である門や回廊を持たない江戸中期再建の男寺であった。当時の住職の考えでそのような建造になったのだと私は思う。

カーブミラー

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ボクは勉強したぞ! 

2018/05/14
Mon. 23:44

9時過ぎから2時間ほど勉強をしてきました!
坊主家業でジッとしてお経を読むのもなかなかつらいものでありますが、この歳になって2時間休みなしで机に向かうというのは、体力的にかなり厳しいものでありました・・・

それで、何の勉強をしたかというと・・・
免許証更新の講習会!
・・・ということは、この3年間の間に2回ほど、あの、今はなき可愛いヨレヨレ相棒の結界くんで交通違反をしてしまったということ・・・

1回は江の川のすぐ脇の街道で、60km制限から50kmに変わったすぐのところだった。
丁度改良衣を着ていて、検問のおまわりさんに「ホホォー、お坊さんですかぁ~〜?!」と坊主スタイルを真顔で突っ込まれた。
直後に、オバサンが捕まってちょっとパニックになってしまって、そのこともあってか、坊主の方はサクッと書類ごとを済まされて開放された。
もう1回は、日が落ちて暗くなってからの信号無視。
黄色で交差点へ入ってすぐに赤へ変わった直後に、パトカーのサイレンが聞こえた。
このときは、つなぎスタイルで彫刻の制作のこともあってそのことを思いながら少々焦っていた時だった。
パトカーは、仕事帰りの帰宅時間をねらって時々その交差点で張り込みをしていて、そのことは前から気づいていたのだが、まさか自分がネコチャンの餌食になるとは思っていなかった。すぐ先の引き込みへ結界くんを寄せて駐車したら、運転席の窓をコツコツ叩いてきたのはうら若き婦人警官だったのだニャァ〜〜・・・
薄汚い作業着のくたびれたオヤジは、チューチュー謝るしか無かった・・・
いずれにしても、その2回で何処かの信号機の修理ぐらいは貢献できたかもしれない。

講習会の勉強の方は、特に嫌だとは思わない。
自分も含めて、男ばかり7人が講習を受けた。前回の3年前は、世代も性別も幅広くほぼ満員状態だったから、ちょっと意外だった。
講師の人が数年間の人身事故統計表を丁寧に説明していた。島根県は、昨年までの3年間は事故率が上昇し続けていたらしい。そのわりに受講者が少ないのはタマタマ春の誕生日の人の事故が少なかっただけのことなのだろう。
それにしても、交通法規がこの3年間でけっこう変わっていてビックリした。こういうことなら、免許の更新とか関係なしに1年1回くらいは講習を受け続けていたほうが良さそうに思った。高速道路の逆走は8の字インターチェンジの導入を増やして対応するらしい。一般道路は回転ロータリーにして信号の無い交差点を増やすらしい。高齢者講習のことも、また少し厳しくなっていた。
日本人の運転は世界でもトップクラスに下手なのだそうだ。ひとが良すぎるというか、温厚というか、控え目というか、臆病というか、度胸がないというか・・・まぁ、総じてそういう性格の国民が多いということなのだろう。
講習を終わってその足で工場へ向かった。午後の半日は草取り機の材料取りをする。

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雨の母の日 

2018/05/13
Sun. 23:20

母の日は朝から雨になった。
連休前に注文をしておいた炭素鋼がまだこない。
材料が届いたらすぐに草取り機の制作を始めようと準備はできている。

島根県の学校の校庭は私が知る限り真砂土が多いように思う。
真砂土は長石とか石英を含む硬い花崗岩が風化してできる。
島根県のような西日本一帯は、日本でも比較的古い土地で他の地帯より風化が進んでいる。つまり、花崗岩が多い西日本では色々な成分の真砂土がアチコチにあるということで、各地の土建屋さんも真砂土の採土場を自前で持っていたりして、比較的手軽にそういうところから学校の校庭へも真砂土が搬入されて都合よく利用されているわけだ。

保賀の谷も古い土地で、ほぼ全体が真砂土の山と云っていい。
そういうところは水はけも良かったりするから里山の腐葉土の層を潜った雨水が真砂土に浸透しやがてミネラルタップリの地下水になって谷のアチコチから湧き出て米も美味い。
万善寺の境内下も東から西にかけて3本の地下水脈があって保賀川へ流れ込んでいる。
昔は、墓の参道を登りきったところへ和牛の牧草地があってそこの山側の斜面に地下水を集めた間歩が掘られていた。万善寺の飲料水や風呂水はその間歩から引いた間歩水でまかなっていて、春になると、まだ下草が伸びる前に間歩まで登って秋の枯れ草が吹き込んで沈殿している水のたまり場を大掃除して、塩ビの水道管の入り口にはゴミの侵入よけに目の細かい金網を巻きつけたりした。そうする間も、間歩の天井からは絶え間なく真砂土を潜って落ちる天然水が時折差し込む木漏れ日のレンブラント光線に照らされて宝石のようにキラキラ輝いていた。
その間歩水は3本の地下水脈のいちばん東側のあたりまで一気に下って、そこに設置された濾過槽に落ちる。雪が多い年の春はその濾過槽から水が溢れて小さな滝になって用水路へ注ぐ仕組みになっていた。そして、濾過槽を潜った水は庫裏の台所にある水槽へ一度溜まって、そこで最後の不純物が取り除かれた綺麗な水が1年中絶え間なく流しへ落ちていて、それが上水道代わりで使われていた。
境内の地下を潜った水は田んぼ脇の斜面へ湧き出して小さな小川をつくっていた。湧き水の東側と西側の二つには天然のわさびが自生していて、何時の頃からか菖蒲の株も増えた。私が少年の頃は小さな小川にメダカが群れて泳いでいて、その先には隣の家の鯉の池もあった。
両側の二つの地下水脈は昭和の農地改良の工事で絶えたが、真ん中の地下水はお地蔵さん脇まで下って今でもそこから湧き出している。万善寺は工事の時に水田を放棄して駐車場にした。その時の工事で地下水脈をつついた時、一晩のうちに工事の穴へ湧き水が溜まって具合がわるいので、いっそのこと丸管を3〜4つ縦に積んで井戸にしようということになった。水質検査をしたらめでたくパスして今はその井戸が飲料水になって、そのかわり300mくらい引いていた間歩水を廃棄した。

天然水で一番の高級品は岩盤を通過した地下水だそうで、真砂土を潜った天然水も上等の部類に入るのだそうだ。万善寺のコーヒーはその水を使っている。

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春の潮風 

2018/05/12
Sat. 23:03

今年度も授業とも言えない特別活動の先生とも言えない時間講師のような仕事を引き受けることになって、2回目のその日がやってきた。
昨年度までは、せいぜい多くて2〜3人の高校生たちが相手だったから手持ちの道具や材料をその都度かき集めて学校へ持っていけばそれ程不自由もなく1年間を乗り切ることができていたのだが、今年度は一気に9人に膨れ上がって、さすがにそのくらいの人数になると自分の周りにある材料をかき集めることも限界で、少し前に100均のダイソーへ走って教材で使えそうなものをザッとみつくろって仕入れておいた。

日頃は、自分の用事でダイソーへ入ることなど殆ど無いから、どの程度の品揃えなのかまったく無知なので、こういう買い物に関してはとにかく詳しいワイフに助けてもらうことにした。
お店へ入ると、ちょっとしたスーパーとか家電量販店とかホームセンター並の痒いところへ手が届くような商品がビッシリと揃っていてその豊富さにビックリした。
新宿の世界堂ほどでは無いものの、スケッチブックから絵の具や額縁に至るまで画材の品揃えも充実していて、買い物に慣れない私は買い物かごを抱えたまま陳列棚の前でボーゼンと立ち尽くしてしまった。ワイフがそばに居てくれなかったらまともな買い物も出来なかったかもしれない。

教材の補充が出来たことで安心しきっていたところへ、今朝になって肝心の道具の電池式リューターが手元にないことに気づいた。
何処に仕舞い込んだか、布団の中で寝返りをうちながら記憶の糸を手繰り寄せていたら、万善寺の寺務でデスクワークをしている書斎とも言えないような物置兼用の廊下部屋へ保管してあることを思い出した。
リューターは、島根県内のあちこちでワークショップをする時に重宝するので大量に仕入れてあった。今までは2〜3人が使うだけの数が足りていればそれでよかったのだが、これからはそういうわけにいかなくなって、当面、ワークショップ用に揃えた幾つかの道具を使いまわしながら1年を乗り切ることになりそうだ。

吉田家から寺までは往復で1時間半はかかるから、その時間を確保するために8時半には自宅を出発した。
特別活動には十分間に合った。
自分の不注意で慌ただしい半日になったが、適度な緊張感もあってどこかしら気持ちが高揚した。
銀くんの窓を少し開けて日本海を左に見ながら国道を走っていたら、潮の香りが風に乗って車内へ入り込んできた。なんとなくゆっくりと海が見たくなって、数年前までキーポンのピアノ教室が終わってから二人でよく行っていた潮川の河口に広がる岩場の海へ回った。コンクリートの防波堤のつなぎ目にハマボウフウがしがみついて花を咲かせていた。岩場は海藻が打ち上げられて茶色に染まっていた。荒めの波に海鵜が1羽小魚を咥えて浮かび上がってきた。
山の中でばかり暮らしているからか・・・久しぶりの潮風が新鮮で心地よかった。

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少し早い母の日 

2018/05/11
Fri. 23:16

案の定、「アンタのお母さんじゃ無いんだけど!」といわれた。
「だから、言われなくてもそれわかってるし・・・子供たち近くに誰もいないから、ただの代行だよ代行!・・・それで、薬膳ランチ食べたくないの?たまには良いじゃない・・・母の日を口実にするだけのことだから・・・」
何かしら意固地になって煮え切らないワイフをとにかく説得して薬膳レストランへ予約の電話を入れておいた。

丁度ワイフの車へ搬出を済ませた彫刻と展示台が積んだままになっているし、いずれはそれを寺へ移動させることになるのだから、それも兼ねてたまにはお昼ごはんを外食するのもいいでしょぉ~・・・ということで、ワイフと一緒だから朝は少しゆっくりして石見銀山を出発した。久しぶりにワイフの普通車を運転したら、やはり軽の貨物車と違って銀山街道の上り坂も難なく楽に登ってしまった。
「軽は所詮軽だから、同じ道でも普通車に比べたらエンジンフル回転で酷使しているところもあるのよ。本当は高級なオイルを使ったほうが良いけど、安いオイルでもマメに交換したら同じようなものだし・・・車、長持ちさせようと思ったら、オイル交換だけはマメにしておいたほうが良いよ」
同級生の車屋さんから銀くんを引き渡された時に、そんな助言をもらった。
確かに、言われてみるともっともなことでわかる気がする。一般公道を、普通車や長距離トラックなどに混ざって一緒に同じスピードで走っているのだから、それだけでも、一生懸命「頑張って走っているんだなぁ~」と愛おしくなって、大切に乗ってやろうという気になった。たまには、こうして自分の相棒の現状を客観的に把握しておくことも大事なことだ。

予約時間ぴったりにレストランへ着いた。
見晴らしの良い特等席へ二人分の準備がしてあって恐縮した。
オーナーのご夫婦とは、もう長い間の付き合いになる。入り口のアプローチへは今から2つほど前のシリーズを中心に集めた野外彫刻を置かせてもらっていて、用意してもらった席からは、その彫刻が程よく見渡せている。
雪深い所だから、冬の間の雪の様子を確かめながら彫刻の変化や雪とのバランスをチェック出来るだろうと考えてオーナーを説得した経緯がある。自分の身近で彫刻の状況を何時でも観察できる環境は、なかなかありそうで無いものだ。

ランチは、地物の野菜や旬のモノがたくさん使われていて、それがオシャレに盛り付けてある。ポタージュベースのスープも美味しかった。食事の間に、次々とお客さんが入ってきて、アッという間に満席になった。贅沢な特等席に座ってワイフと二人して落ち着かなくなってきた。チキンの小市民は何時までたってもこういう状況に慣れることが無いと思う。コーヒーが出て、最後のデザートは手づくりのアイスだった。至れり尽くせりのランチにワイフも少し早めの母の日を堪能してくれたようだ。
寺で用事を済ませて夕方早めに二人で帰宅したら、リビングの入口へフロリダにいるノッチから届いた宅急便の箱が置いてあった。開けてみるとカーネーションの鉢だった。

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ある日の通勤坊主 

2018/05/10
Thu. 23:24

雨で延びていた絶縁離檀の納骨がやっとできた。

お墓脇の山桜は葉を広げ、その後に咲き始めた梨の花も散って、今は朴の木の若葉が少しずつ大きくなりはじめている。
前日には万善寺墓地までの参道も草刈りをしておいたし、土と若葉の混ざりあった春の香りがほのかに漂って清々しい。

もともと山育ちだから、小さい頃はよく寺の裏山に入り込んで一日中飽きもしないで山遊びをしていた。
5月の今頃は木苺があって、それを見つけると棘に注意しながら摘み取った苺を食べながら頭陀袋へ忍ばせておいたアルミの弁当箱を取り出して詰め込みながら山歩きをした。2時間も山に入っていたら弁当箱が2つくらいはすぐいっぱいになって、胃袋の方もご飯がいらないほど満腹になった。

午前中に待ち合わせをしておいた石材屋さんが来てから骨壷を持って一緒にお墓まで登った。
急な坂道の参道をだいたい200m位登ると、息が切れる。
納骨を石材屋さんへお願いして、私はその間にお経を読んで回向をする。
お墓での色々なことを30分くらいで終わった。
調子の悪い膝と足首をかばいながら坂を下る。この下り坂が厳しくて杖がないと身体を支えきれない。それに今は、参道の直ぐ側まで笹がはびこってしまって気軽に山へ入り込むことが難しくなった。もう昔のように木苺採りで山へ入ることなどできそうにない。

昼からは初七日の七日つとめへ出かけた。
喪主のお孫さんは広島の会社勤務で、住居も広島へある。
「広島からどのくらいかかりますか?」
「2時間半くらいですかねぇ〜・・だいたい・・」
焼香が終わってから少しほどお話ができた。初七日が過ぎるくらいまでは慶弔休暇をもらったらしい。これから四十九日法要まで、毎週帰省されるのだろうか?・・・今どきの世知辛い時に勤務のシフトも難しいのではないだろうかと余計な心配をしてしまった。もっとも、坊主の自分だって収入につながる仕事など数えるほどしかない状態で細々と毎日の暮らしを維持しているわけだから、どちらかといえば生活が厳しくて大変なのはこちらの方で、他人の暮らしの心配をしている余裕など最初から無いのだけど・・・

夕方まで、長い間放置して伸び放題になっていた庭木の剪定をして、シャワーで汗を流してから通勤坊主の帰り支度をした。
出雲街道から銀山街道へ合流するところで薬膳レストランの桃太郎旗が目に入った。
「しばらくご無沙汰してるし、母の日も近いから、ワイフでも誘ってみようか・・」
右にウインカーを出しながら、ふと思いついた。
「ワタシ、あなたの母親じゃないから!」・・・そう言うだろうワイフの顔が浮かんだ。

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程々の付き合い 

2018/05/09
Wed. 23:29

石見銀山から飯南高原にかけて朝から雨が降らないのは久しぶりだ。
1年前の今頃は、寺の草刈りが一段落して石見銀山の吉田家周辺の草刈りもほぼ終わったくらいだった。今年の島根は、春先には異常なほど暖かかったのに4月になってから雨の降ることが増えて、寒い日が続いていた。
いずれにしても、相手が地球の天気のことだからチッポケな人間ごときがジタバタしてもどうなるわけでもない。毎日の空模様と上手に付き合いながら一日を乗り切るしかないことだ。

貴重な晴れの日になるかもしれないから、急いで吉田家を出発して万善寺へ向かった。
刈り残しのある本堂東側からはじめて、出来たら参道脇を刈りながらお地蔵さん周辺まで終わらせたい。それで、まだ余力があれば庫裏側の石垣から耕作放棄地にした畑まで刈り進めたい。
3月の展覧会の頃から調子を崩していた足首から膝にかけて、痛みがとれないままもう2ヶ月近くになる。アッチが直ったかと思ったら次にはコッチが痛くなって、一晩寝ている間に膝が曲がらなくなっていたりと、際限がない。

まだ元気だった頃の母親は、一時期花物とツツジやサツキやアジサイなどの低木庭木へ夢中になっていたことがあった。
彼女は何かに凝ると脇目も振らないでそればかりにハマるきらいがあって、それが数年間続く。一番すごかった時は、サツキの季節が終わる頃になると剪定をしながら寺の境内を片端からグルリ囲むように挿し木して回ったことがあった。シーズンになると、住職まで駆り出されるし、まだ小学校の高学年だった息子のボクまで手伝わされることがあった。
1年目は挿し木がだいたい60%くらい根付いて、2年目は枯れてダメだった穴埋めの挿し木をしてそれがまた60%くらい根付いて、3年目にはほぼ一面サツキの壁になっているというスンポウだ。母親はそれを計画的に行っていたのかどうか分からないが、とにかく、低木の壁が出来上がると、こんどはその要領を次の場所へ移して、当分の間それが続いた。気がつくと、中学校を卒業する頃には、両親が田植えなどの農作業で忙しくしている裏番組で、ボクが低木の剪定係になっていた。1学期の中間テスト期間にはテスト勉強もしないで夕方日が暮れるまで剪定ばさみを使っていることもあった。
高校に入学して一人暮らしを始めた時は、5月の連休で帰省すると、結局寺の用事を手伝わされることがわかっているから、「勉強が難しくて遅れているから・・・」と、適当な理由をつけて帰らないでいた。クラスに映画好きがいて、007を今はない松江中央の封切りで観たのも確か連休中だったはずだ。

草刈り機を振り回しながら、昔のことを思い出していた。
結局、母親の挿し木は私が上京してから後もしばらく続いていて、今はその頃の後遺症の荒れ放題で自分が悩まされている。挿し木が広がってから後は、その隙間や周辺へ己生えがはびこって、それが境内の石垣を侵食するまでになった。
植物も動物も、それに人間も・・・生き物を相手は、何事も程々のところでクールに切り上げないとあとになってまわりが迷惑をする。母親の挿し木の後始末が2年目を迎えた。

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永代供養 

2018/05/08
Tue. 23:05

この時期にしては珍しいほどの大雨が夜半から降り続いた。
夜が明けても、雨の勢いはおさまらなくて辺りが薄暗い。肌寒いからなかなか布団から出られないでイジイジしている間にいつの間にか通勤坊主で出かける時間になっていた。
鉄の工場のこともあるから、毎日のように通勤坊主ばかりしているわけにいかないのだが、少しでも寺の用事が出来ると、それをしないわけにもいかなくなる。

もう、かれこれ2年くらい前から少しずつ進展している離檀の墓納めと納骨供養のことが今年に入って3月のお彼岸前あたりから一気に加速した。
施主さんと菩提寺と墓石業者さんと、それに地域の行政窓口が、一つ一つの決まり事を一つ一つ片付けて、やっと菩提寺万善寺の舎利棚殿へ先祖様の遺骨を仮安座した。
それを5月の連休が終わってから永代供養墓へ合葬するように日取りを決めて、その日が週明けの月曜日で、まさにその当日大雨になった。

すでに血縁のご親族は皆さん他界されて、残されたのは叔父叔母の縁で微かにつながっている縁者の数人だけになった。その中から、島根と広島と京都で暮らすみなさんが4人ほど納骨や永代供養に参列されることになった。皆さんがまだ若い頃には、何度か万善寺の本堂で年回法事に参列されていらっしゃって、あの頃の記憶が蘇ったようで、しばし当時の思い出話に花が咲いていた。
外は、大雨が絶えることなく降り続いて、時折吹く突風で本堂の濡れ縁まで雨が上がってくる。
そういう悪天候のことで、当日の納骨が出来るわけもなく、墓地の永代供養墓のことは、寺と業者さんへ一任させてもらうことになった。

この数年間で、墓地の維持管理を放棄される施主さんが増えた。
この度の絶縁檀家さんのように、キチンと自分の責任で墓納めをして後始末されるところは、まだ信心の気持ちが絶えなくて、縁は切れても寺としては永代にご先祖様を供養させていただくことへの誠意を心の支えにすることが出来るからずいぶんマシだ。
私の代になってから、連絡先も消失して、年回告知や護持会費の請求が出来ないままになってしまった施主家が増えてきた。代替わりの引き継ぎが出来ていなかったことも考えられるが、高齢者世帯が増えている現状では、原因はそればかりでもなさそうな気がする。
結局は坊主も宗教法人の組織員の一人だから、自分の都合ばかりで寺の経営を適当に乗り切ってしまうことが難しくなった。今の社会構造の中で宗教の立ち位置をどのように定義付ければよいのか、私のような軟弱脳みそには名案どころか迷案も浮かんでこない。

お昼を少し過ぎて法要が終わって散会となった。その頃になって雨が少し小降りになったが、それで外仕事が出来るという程ではない。本堂から庫裏にかけて、ザッとひと通りの掃除と後片付けを済ませてから、通勤坊主の帰り支度をした。

参道脇の電線の引込線へカラスが1羽とまっている。そういえば、春先から保賀の谷でカラスの声を聞かなくなった。つがいのカラスも保賀の谷の棲家を捨てたのだろうか?

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それぞれの日々 

2018/05/07
Mon. 23:04

「じゅん君まだ寝てるの?」
「もう、帰っていったわよ!」
・・・知らない間に、連休で吉田家へ帰省していたじゅん君がいなくなっていた・・・

結局、彼が吉田家に居る間、会話は無かった。
男というものは、そんなものなのだろう。自分のことを振り返ってみると、親子の会話はじゅん君以上に少なかった気がする。
両親のことを特に強く嫌っているわけでもないし、絶縁であるわけでも無かったが、とにかく、父親とはお互いに強いて会話の糸口を探すこともしなかったし、坊主家業で必要最小限の事務的なやり取りができていればそれで支障もなかった。母親の方は「何か話すことをしてちょぉ~だいや」とか、「少しは外であったことを聞かせてぇ~や」とか、くどいほどに絡んできていたが、彼女はひとの話を聞くことが不得意で、自分のことばかりを繰り返し繰り返し延々と語り続けるばかりの独り言と小言に終始して、だいたいいつも同じネタが話されるばかりだから、それを聞き続けることも苦痛になって早々と自室へこもったりしていたものだ。
まぁ、自分の場合はそういう感じで親子の会話にもならない親子付き合いが続いていた。
私とじゅん君の関係も、それに近い状態といえる。たぶん、彼が少年の頃から私の親子関係をすぐ隣で見聞きしていたから自然と今のようになってきたのだと思う。時々フッとじゅん君のことを思い出すことがあって少しさびしい気持ちになるが、彼の場合は、ワイフとの母子関係が良好で、羨ましくなるほどお母さんとの会話はよく出来ているからそれでいいと思っている。

それからしばらくして、連休の最終日に、キーポンが高速バスで東京へ帰っていった。
ほぼ1年ぶりの帰省だったから学生時代の友人が訪ねてきてくれたりして、それなりに楽しく過ごせたようだ。
私の方は昼の間通勤坊主で石見銀山の自宅を留守にばかりしていたが、彼女はじゅん君とちがって夜に出かけることが無かったし、久しぶりのお母さんの手厚い手料理を堪能して、私もそのオコボレに預かることも出来て、晩酌の一杯もすすむし、親子の会話もそれなりにあった。
連休後半の島根は雨がひどくて寺の仕事も石見銀山の行楽も消化不良気味に終わったが、吉田家の連休は何気なく華やいだふうに過ぎた。

ネコチャンズは・・・というと、これはなかなかストレスの溜まる毎日だった。
いつもは、昼の間面倒臭いオヤジもいないし、大好きなワイフに甘えてばかりの暮らしが続いていたところへ、ある日突然吉田家に人間が二人も増えて、その上、ネコの都合を無視して無理矢理ダッコされたり、自分たちの寝場所を奪われたりして、それがたった数日だけのことなのに、完全に平和のペースを狂わされてしまった。
少し前の地震でも、緊張の日々がしばらく続き、それが少し収まったかと思ったら今度は人間の容赦ない振る舞いに耐えることになり・・・色々あった彼等にとって、いつもの心穏やかな平和の日々が戻るのは、もう少し先のことになりそうだ・・・

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如山林中花 

2018/05/06
Sun. 23:23

いつ雨が落ちても良いほどの曖昧な空模様が続く間に、通夜と葬儀が終わった。
飯南高原は田植えの真っ最中で、仮設テントのパイプ椅子も空席が目立った。

万善寺そのものはお檀家さんも少ないから、余程重要な外せない用事が重なることもほとんど無くて、喪主さんや地域の事情に併せた日程へ粛々と付き合っているのだが、副導師をお願いした方丈さんは、地域の社協に勤務の忙しい人だからスケジュールの変更で苦労されたようだ。私も、先代住職がまだ健在だった頃は公務員をしながら副住職を努めていたから、通夜はなんとかなるにしても、たった1日の葬儀を難なく務めることには結構苦労したことを思い出す。もうずいぶん昔で今のように融通が効かないわけでもなく比較的ゆるやかに拘束されていた頃のことであっても、周囲に迷惑をかけることがないわけでもないし、それなりに肩身の狭い思いをしながら努めていた。

まだ昭和の頃のこと・・・春の大型連休は、家々の親族帰省に併せて年回法事を計画する施主家が多かった。だから万善寺も、連休中は法事が重なって慌ただしく過ごして、「親子家族でチョット行楽を・・・」などという暮らしとは無縁だった。それに、先代住職夫婦もまだ若くて元気だったから今では考えられないほどの自給自足の暮らしを続けていて、極小規模ではあるが田んぼや畑もあって田植え稲刈りも近所との手間替えにすがりながら細々と続けていた。田の畦の草刈りは、和牛や酪農農家の男衆が牛の餌用に季節折々の草が伸びるのを待ち構えて朝夕草刈りに励んでいた。寺の夫婦が「寺の仕事」だからと参道の草刈りを先走ったりすると、「アレはうちの牛にやる草だから勝手に刈らんでくれ!」と隣のおじいさんに叱られたりしていた。
今は・・・寺の田畑も耕作放棄して荒れ地になってしまった上に、牛農家も廃業して草刈りが宙に浮いたまま少し気を抜くと伸び切った草が始末に負えなくて一気に原野になる。
子供も大きくなってワイフと二人暮らしになった連休は、行楽に忙しいのだろうお檀家さんの年回法事も無いし、空模様と相談しながらもっぱら境内の営繕や草刈りで過ごす。

葬儀を終わって、斎膳の頃になって、雨がポツリと落ち始めた。お手伝の自治会の皆さんが焦ってテントを畳んでいる様子を横目で見ながらご親族に挨拶を終わらせて銀くんへ飛び乗った。着物を雨で濡らすと厄介だ。
庫裏へ落ち着いて洗濯機を回してつなぎに着替えて草刈り機へ混合油を注いだ。雨が少しずつ強く降り始めてきたが、少しでも草刈りを進めておきたくて、それから日が暮れるまで草刈機を振り回した。
健在だった憲正おじいちゃんへ、まだ学生だったじゅん君が誕生日祝だと云って買ってあげていた花が今は荒れ地になって草の茂った畑の端で蕾を付けていた。憲正さんがいなくなってからあとは、それがじゅん君の花のように思えて、その花株だけは雑草の中で慎重に刈残すようにしている。半年ほど前にその花の近くへ私の彫刻を置いた。そして、連休が始まる少し前に彫刻の近くへ一本の木を植えた。「自道徳来者」は「如山林中花」という処世の気持ちを忘れないように・・・その木はまだじゅん君の花より小さい。うっかりすると、雑草の中に紛れるじゅん君の花も、それより細い一本の木も、目先の草刈り作業に気持ちが走って刈り倒してしまうかもしれない・・・アブナイアブナイ・・・

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仮通夜の夕方 

2018/05/05
Sat. 23:29

島根県全体がどうか分からないが、飯南高原では5月の連休が田植えの最盛期にあたる。
この近年は兼業農家がほとんどで、若い農業従事者はだいたい町役場を代表とする公務員か社協や福祉事務所などの外郭団体や、農協や郵便局へ勤務して地元に残る人とか、県境を越えて広島県にある企業へ就職して通勤する人が多い。だから、平日は農作業が出来ないからこうして5月の連休のような祝祭日と土日を農業に当てて、一気に農繁期の仕事を終わらせることが常識になっている。

102歳で大往生されたおじいさんの葬儀は、自治会の話し合いで5月の連休中の土日に行われることが決まった。喪主であるお孫さんが広島の企業に就職していて、そのこともあったし、荼毘の日程上そうせざるを得ないという事情もあった。
万善寺では、通夜が先に延びた場合は、その日が来るまで夜伽を兼ねた仮通夜にお邪魔することにしている。農作業の地域の事情もあって、仮通夜は家族だけの近親者で済ますことになった。

葬儀があるといつも思うことだが・・・長生きの大往生は本人や家族にとって本当に幸せなのだろうか・・・?
長い間介護施設へ入所されていたご本人は、所内で親しくされていた職員や友人に見送られての旅立ちだっただろうが、これだけ長生きされると、たとえば生前の仕事仲間だとか、学校時代の同級生だとか、地域で親しかった老人会だとか、その上、気がつけば家族親族も先にいなくなって、ご自分一人があとに残されてしまっていた・・・などという、寂しい旅立ちである場合が多いと思う。

順当にいけば、年長者から順番に死んでいくことが一番幸せなことだと、あの一休宗純禅師もおっしゃっている。
智光正純和尚は、元々友達もそれほど多くないし、身内家族も離れて暮らしていて、ワイフともだいたいがニコニコ別居の暮らだし、一人暮らしの寂しさをあまり感じることもなく毎日を生きているから、自分の周囲に誰もいなくなっていたとしても特にこの世に未練を感じることもなく、また、周囲に惜別の悲しみを抱かせることもなくさりげなく死んでいくことが出来る気もする。
人が死ぬということは、やはりその人だけのことでもなく周囲の動揺を避けることが出来ない人生の大きなイベントの一つであることは確かだ。今のうちから、まわりに迷惑をかけないように自分の身辺を整理してシンプルに暮らすことを心がけたいものだ。

仮通夜は通夜というよりはまだ明るすぎるほどの夕方になった。
自治会の参列者もなく近親者だけのことだから、夜の時間に余裕があったほうが助かるということだった。
「特に強制というわけでもないですが・・・もし、出来るのなら、線香蝋燭は絶やさないでいただけるとよろしいかと・・・まぁ、夜伽とはそういうものだと思っていただくと、故人も喜ばれる気もいたしますが・・・」
そう言い置いて、当家をあとにした・・・

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家族焼肉 

2018/05/04
Fri. 23:19

5月3日は、東京も島根もけっこう風が強くて、キーポンが乗る飛行機が飛ぶかどうか心配していたら、「このくらいだったら普通に飛ぶわよ!」とワイフが平気なことを云うので「そんなものか・・」と思うようにした。
私の人生で飛行機に乗ることは、やっと2桁くらいになったかどうかだが、ワイフは学生の頃にヨーロッパ旅行をしたりして経験が豊富だ。じゅん君もオヤジとドッコイくらいだと思うから、どうも吉田家の男組は飛行機とは縁のない人生のめぐり合わせになっているのだろう。

出雲空港へ到着したキーポンは、いつもと変わりない様子だった。
飛行機が揺れたかと聞いたら、そうでもないようなことを云っていた。

途中で業務用スーパーへよって買い物をしたあと、ワイフが予約しておいた焼肉屋へ直行した。連休で帰省中のじゅん君も誘ったのだが、彼にとっては家族より友達との付き合いが大事なようでそちらを優先して焼肉は不参加。
その焼肉店はもう2年近くご無沙汰だと思う。モツとか上カルビとか、日頃口にできないものを久しぶりに食べた。上カルビはあまりに久しぶりすぎて、どんな味だったか思い出そうにも覚えていない。美味いのかどうなのか比べようがないまま一皿がアッという間になくなった。
ワイフの方はほぼ1年ぶりの再会だと云うのに、いつもと変わりなく日常の会話が淡々と過ぎた。最近は家族の間にSNSが浸透して情報の停滞が殆ど無いからなのかもしれない。

寒い時は熱燗ということで、2本めを頼んで飲み始めたところで電話が鳴った。着信を見るとお檀家さんからだった。商売柄、この時間帯の電話はあまり良い知らせではない。
案の定、訃報だった。
「今日の夕方、おじいさんが亡くなりまして・・・」
電話の主はお孫さんだった。亡くなったおじいさんは、もう10年以上顔を見ていない。とても元気な人だったが、確か、奥さんに先立たれてしばらくして骨折をされて、それが元で介護施設に入所された。それからあとは1年の節目には時々帰宅されていたようだが、思うように身体が動かないものだから、自然と施設暮らしが続くようになって、結局息のあるうちに自宅へ帰ることができなかった。
125ccのバイクに乗ってとにかく元気な方で、万善寺へもよくお参りされて、前住職夫婦とは庫裏の縁側でよくお茶飲み話に花が咲いていた。将棋は地元限定の名人級で、介護施設では負け知らずだったらしい。とにかく、最後までポジティブにアクティブに生き抜かれた方だった。行年は大正6年生まれの102歳だった。

お酒を飲んでいるし、すぐには枕経をおつとめできないから、4日早朝に石見銀山を出発した。
キーポンは、私の横で布団代わりのシュラフに包まって爆睡している。
立派な成人になって、保育士になってゼロ歳児や1歳児をあずかっているのに、いまだにオヤジの布団へ潜り込んでくる。

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空海 

2018/05/03
Thu. 23:18

連休を利用してキーポンが帰省すると云うので、出雲空港まで迎えに行くことになった。
昨年の3月に上京して以来、一度も帰省すること無く1年が過ぎた。
吉田家の場合、一般在家と違って盆も正月も万善寺の行事で慌ただしく過ごすから、キーポンにかぎらず、吉田家の子供たちはわざわざそういう時に帰省して親の手伝いなどして過ごすよりは、自分の自由にのんびりと過ごしていたほうが良いということを小さい時から身にしみて体験しているわけだ。

気が付かない間に、子供たちみんなそれぞれ立派に成人して自立してくれていたことを実感する。チケットの予約も色々な技を心得ていて、それ程不自由もなく上手にこなしている。私の頃などは、JRのみどりの窓口で何時間も並んで新幹線や寝台特急のチケットを買ったりして、それでかなり無駄に時間を潰していた。もっと良い方法があったのかもしれないが、今のように携帯電話もないし公衆電話くらいしか無かったから、ずいぶんと不便ではあったと思うが、あの頃はそれが当たり前で、特に不便だとも思わないしそれでイライラすることもなかった。まだ半世紀も経たない前のことなのに、日常の暮らしがずいぶん変わったものだと、こういう時に改めてそう感じる。

「映画でも見て時間調整しても良いね」
キーポンが帰省する日時が決まってから、それに合わせてスケジュールを調整している時に、ワイフがそういう提案をしてきた。
彼女に映画を観ようという発想があることを意外に感じつつ、映画好きのボクとしては特に反対する理由もなく「あなたの観たい映画を決めてよ。都合の良い上映時間のこともあるだろうし・・」と、さり気なく決定権を振りつつ、自分では「アレか、コレが観たいな・・・」などと勝手に決めて、そのあたりへ彼女の気持ちが収まるように仕向けたりもしておいた。
結果、チェン・カイコー監督の「空海」を観ることにした。
出雲の方は日本語吹き替え版しか上映していなくて残念だが、単純に娯楽と割り切ればソレもアリということだ。映画に慣れないワイフにとってもそのほうが都合良いだろう。
原作は獏さんで、ザックリ陰陽師系列のお話だし、特に空海の仏教的背景を期待しているわけでもない。中国映画の豪華絢爛さが際立って、日本ではとてもアレ程のスケールの映画はつくれないだろうなと感心させられた。とにかく、2時間チョットの時間に、原作のポイントを上手にそつなくまとめて、なかなか見ごたえのある娯楽映画に仕上がっていた。ワイフの反応も上々で、期待以上に楽しんでくれたようで何より何より・・・

映画が終わって、エンディングタイトルを最後まで観終わって、場内が明るくなってから出口へ向かっていると、「あら、お久しぶりです!珍しいところで・・空海でしたか?」と、キーポンが小学校の時の校長先生とバッタリ出会った。「キスミさんお元気ですか?もう、大きくなられたでしょぉ〜」「今日帰ってくるんですよ!これから空港までいくところです」・・・とまぁ、そんな偶然の出会いとタイムリーな会話がしばらく続いて、右と左へ別れた。もう10年は前のことで子供の名前まで覚えていてくれるとは・・さすがプロの先生だ!校長まで勤め上げただけのことはあると感心した。

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フキの収穫 

2018/05/02
Wed. 23:41

出雲に用事があったので、石見銀山から出雲経由で万善寺へ向かった。
島根県大田市が震源地の地震があってからあと、万善寺と出雲市を結ぶ道が崖崩れで通行不能になった。その道は、私が昔からよく使っているルートで、途中には立久恵峡という絶景の観光地がある。他にも幾つか出雲までの抜け道はあるのだが、なんとなく自分はその道が好きだった。
情報通に聞くと、崖崩れはそれ程でもないが、山の斜面に巨大な岩が二つあって、この度と同等クラスの地震があったら、その二つの岩が崩れ落ちる可能性が大きいから、それを何とかして撤去するまで通行止めは解消されないだろうということだった。もう10年位前にもほとんど同じところで崖崩れがあって、延々と何年も片側通行が続いていて、それがやっと直ったばかりだった。久しぶりにストレス無く寺から出雲まで出かけることが出来ていたのに、また当分の間その道が使えなくなってしまって、自分としては結構なダメージで残念なことになってしまった。

出雲から斐伊川土手に沿って南下して、途中から国道54号へ合流して広島方面へ向う。
万善寺はその国道から少し入ったところにある。
ワイフは特に寺で用事があるわけでもないのだが、私の余裕のない様子を見ていて仏心なのか母性本能なのかよくわからないが、とにかく「付き合ってもいいよ♡!」と云ってくれて、遠回りの退屈な道中の気晴らしになってとても助かった。

雨続きで外仕事が出来ないでいた上に、晴れて良い天気の日は法事の仏事が入るなどして潰れるし、空模様との折り合いが上手くつかないまま日にちが過ぎる間に寺の周囲の草がどんどん大きくなっていく。
お昼過ぎに寺へついてから、さっそく草刈りを始めた。ワイフは、座敷の掃除をしてくれるようなことを云っていたが、付き合ってくれるだけでも助かっているから、「無理しなくてもいいよ、テレビでも見て休んで良いからね・・」と云っておいた。
途中から雨の勢いが強くなってきた。
本堂の東側にある菩提樹の若葉が少しずつ開き始めていて、その木の下には大きく育ったフキが立派な葉を広げている。草刈り機でなぎ倒すとすぐにその辺り一帯がきれいになるのだが、そうするとせっかくのフキが無駄になる。ちょうど都合よく寺にワイフもいるし、ひとまず草刈りをすませてフキの収穫をすることにした。
吉田家の家族2人だとそんなにたくさんの量は必要ないが、せっかくのことだし、隣近所へおすそわけしても良いかなと思いついて、わざわざ包丁をとりに庫裏へ戻って少し丁寧に見た目良く刈り入れをした。
「うわぁ〜、たくさん採れたねぇ〜!・・・立派、立派!」
ワイフがいつになく喜んでくれた。
いつの頃からだろうか?・・・気が付かない間に、フキとかタケノコとか、子供の頃は上手くともなんとも無くて、特に好んで食べたくもなかったようなモノが、最近は「欲しい!」とか「食べたい!」とか思うようになって、また、ワイフがつくってくれる煮物などが「美味しい!」し、歳とともに自分の味覚趣向も変わるものだと身をもって感じるようになってきた。

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2018-05