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工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

ノッチ帰国 

2018/08/31
Fri. 23:09

ニール・サイモンさんの訃報が入った。91歳だったらしい。
そんなに高齢だったとは思っていなかった。
記憶の糸を手繰ってみると、確かにグッバイガールを映画館で観たのは学生の頃だったから、もうあれから半世紀近く過ぎたわけで、そうすると死んだ両親と同じくらいの年齢であったのも頷ける。私も歳をとったものだ・・・
ニール・サイモンさんが脚本を書いたグッバイガールは売れない役者が出てくる。
なにかしらの夢もあるし、自分の理想も持っているのだが、現実は厳しくて何をやってもうまくいかない・・・まぁ、簡単にいうとその役者がそういう状態で悶々と足掻きまくるようなストーリーだった。
その映画の当時は、自分もまさに何をやってもうまくいかない、自分の目指す先は何なのか想像もできないし予測もつかない・・・と、実に曖昧な毎日を送っていた頃だったから、その映画を観た時は、彼のうまくいかなさ加減のドタバタが手放しで笑えなくて辛く感じることの方が多かった。

数年前から断捨離を強く自覚するようになって、まずは自分の身辺から次々とあらゆるものを手放している。
そのひとつが映画関係の収集品。
数え切れないほどのビデオテープとキネマ旬報などの映画雑誌は、資源ごみに出したり紙類の回収業者へ持ち込んだりして、自分の周囲で見える範囲のものはおおよそ片付いた。それでも、まだ押し入れや物置を片付ければアチコチにしまい込まれたモノがたくさん出てくるだろう。
DVDは、まず再生のデッキを各種オーディオ機器から取り外して倉庫へしまった。
そうすることで、新しくDVDソフトを買ったりレンタルしたりすることが防げる。
そうしておいて、あとはひたすらダンボールの空き箱に買い集めた映画ソフトを詰め込んで近所の宿泊関連施設へ全て差し上げた。眼の前から、積み重ねられたハードケースの背表紙が消えたことで自分の気持の整理も踏ん切りがついてスッキリした。
CDも目に見える範囲のほとんどすべてを音楽好きな人にゆずったりしてサッパリした。

目の前から自分の好きなものが消えてなくなると、それから暫くの間はなにかと思い出すこともあって少し寂しかったりもするが、そのうち現実の暮らしに紛れて気にならなくなってくる。心の何処かでは、まだ忘れられてはいないのだろうけど、だから禁断症状が出て暴れまわることも無いし、どこかしら記憶の片隅に思い出のひとつとして張り付いたふうに残っていればそれでいいと思えるまでになった。
親子の関係も、彫刻も寺のことも、具体的に何か「かたち」で残っているモノは、あまりにも鮮明にリアルな現実でありすぎる。歴史の検証とか資料的価値として大事なモノもたくさんあるのだろうが、今のところ、自分を将来に残すべき価値のあるモノなどひとつもないから、もうしばらくは節目ごとの断捨離を続けていこうと思っている。

ノッチが遂に帰国する。彼女の年齢の自分はモットモットいい加減で曖昧にだらしなく見栄を張ってばかり生きていた・・・

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仕合せ 

2018/08/30
Thu. 23:02

ロサンゼルス滞在中のノッチは、太平洋の遥か彼方「ニッポン!」に思いを馳せながらサンタモニカ散策中・・・のようであります・・・と、吉田家SNSストーカーオヤジは、テレビも新聞も見ないでセッセとWebメディアから世界の情報を収集している。

単身赴任坊主から通勤坊主に切り替えて、これから彫刻家の毎日を送ることになる。
このところ、年ごとに体調や気持ちの切り替えに時間を要するようになって、そのための時間の無駄を少しでも埋めようとアレコレ考えた結果、まずは寺暮らしで落ち着かないまま遠ざかっていた読書や映画や音楽の趣味を修復することにした。
彫刻を造っていると「それは、趣味ですか?」とか「いい趣味お持ちですなぁ~」とか「趣味で売れるんですか?」とか、ボクの周辺事情ではだいたい「彫刻」を「趣味の一つ」として認識されてしまうことが多い。
そういうことに、一々具体的な反論をぶち上げても途端に白けて場の空気が淀んで濁ってしまいそうだから、だいたいがニコニコと若干引きつって目は笑わない微笑を返して乗り切ることにしている。
その彫刻のことも、1ヶ月以上工場や制作から遠ざかっていると、気付かない間に彫刻用の思考回路が無駄に複雑に絡まって、シンプルな純粋さが損なわれてしまっている。
それでドタバタと身体ばかり動かしていても、結局材料も感覚も技術も時間も、それに乏しい体力も精神力も持続力も集中力も・・・彫刻制作に欠かせない大事なものをいっぱい無駄にするばかり・・・だから、とにかくひとまずは自分にとって気になる情報やデータをコツコツと収集することと身辺整理を徹底して周辺の垢や埃や汚れをできるだけ排除することに努力する。

吉田家で暮らしていると、ワイフの世界観が生活のアチコチに満ちあふれていて、これは、ボクなりの世界観とはかなりズレているところがある。
堅っ苦しく云うと生活信条の相違と云うやつだ。
そもそも、暮らしも環境も違った人生を20年以上それぞれに過ごした二人がある日出逢って結婚して同居を始めたわけだから、それ以降はお互いにそれぞれ不可触領域をわきまえて踏み込みすぎないように遠慮を工夫しながら共同生活を維持することが重要だ。
そういう現状をわきまえて身辺整理をするとなると、自分にとっては必要のないものでも彼女にとってはとても大事なものであったりすることも多々存在するわけだ。
実際、吉田家のアチコチでそういうものがゴロゴロ転がっていても、個人の判断で簡単に取扱うことは出来ないし、なかなか難しいものだ。

夏休み中だったワイフが仕事に復帰した。出勤前の朝の1時間位は彼女のペースで色々なことが過ぎていく。私はできるだけそれを邪魔しないように「おはよう!」とか「いってらっしゃ~い!」とか、必要最小限の会話を挟んで極力気配を消して過ごす。
子供たちが独立して、出逢った頃の二人暮らしが戻った今だから、お互いの価値観の相違を自覚しつつ、且つ尊重しながら暮らすことが「仕合せ」なことだ。
仕合せは、あくまで「仕え(Service)」合うことであって、「幸福(Happiness)」のことじゃないのだ!・・・と思えば、何も苦にならないな・・ボクは!

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まっちゃんデー 

2018/08/29
Wed. 23:35

昼食は出雲のパスタ屋さんでスープスパゲティ・・・
最近、何かの節目によく出かけるようになった。なかなか美味しいと思うが、お店の正式名称は未だに知らないままだ。そのお店を見つけたのはワイフで「なにか、いつも同じお店ばかりでつまらないね・・」と、あるときワイフが云い始めて、「それじゃぁ〜適当なお店見つけてよ」・・・と車を運転しながら助手席のワイフに話しをフッたら、しばらくiPhoneをつついて探し出したのがそのパスタ屋さんだった。
あらかじめ予約を入れて、結構探し回ってたどり着いたお店は、新建材多用だが見た目はそれなりにおしゃれ風のお店で、スタッフも若いしお客も若くて、吉田夫婦が年齢層を引き上げている感じだった。
幾つかコースが有って迷ったが、おすすめコースでスパゲッティはスープスパゲティにしてみたところ、それがなかなか美味しかった。
それ以来、ワイフと外食を決めた時は「そば?すし?とんかつ?ちゅうか?・・・それともパスタ?」と選択肢が一つ増えた。

ワイフの誕生日には、毎年バラの花束を渡していたのだが、今年はやめた。
そのかわり、幾つかネタを用意して1日ワイフへ付き合うことに決めた。
満腹になってお店を出てからニトリへ向かった。
彼女は前からほしいと決めていたものがあったようで、それを探す目的だった。ボクとしてはデザインも今一つだし、どうもピンとこないところもあったが、今日の主役は彼女だし、強く逆らわないことにした。

それから映画館へ入ってオーシャンズ8を観た。
ドルビーサラウンド7.1の大迫力は映画館でしか味わえない。私は、事前に映画データのチェックをかなりマメにしておくほうなので、どちらかと云えばけっこうクールに細部までこだわって見逃さないようにしている。若い頃からの「折角高い入場料を払っているのだから・・・」なんとかして元を取ろうというあざとい根性が抜けないでいる。そういうこともあって、事前にだいたいのストーリを把握しているから、整合性の不具合も含めて許容の範囲で楽しめている。オーシャンズ8も、かなり強引で粗っぽい感じだったが、それなりに面白く楽しめた。
「ねえねえ・・・あの場面は一体ドォ〜いうことだったの??」とか、「もっとアクションいっぱいあるのかと思ったわよぉ〜・・」とか、帰りの助手席から、質問攻めにあった。
個人的には、インターネット配信を待ってホームシアターでも良いくらいだったが、ワイフの誕生日には妥当なチョイスだったと思っている。

帰宅すると、ネコチャンズがワイフを迎えてくれた。もちろん、ボクの方は完全無視・・
SNSノッチは1年の仕事を終わってオーランドからロサンゼルスへ移動したらしい。
しばらく西海岸のアチコチ巡って、9月1日には帰国する予定のようだ。
時差の関係だろう・・・真夜中になってワイフ宛に「誕生日おめでとぉー!!」LINEが届いていた。

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ボクのスイッチ 

2018/08/28
Tue. 23:06

通勤坊主があたりまえになって、石見銀山と飯南高原を毎日のように往復していると、銀くんと一緒にいる時間が、ある意味瞑想タイムになっているようなところもあって、それはそれでボクのスイッチを切り替える貴重な時間に思えるようになった。

丁度、お盆が一段落して鉄板の搬入も終わったし、坊主から彫刻へ気持ちを切り替える良い頃合いと思っていたら、アチコチから法事の電話が入りはじめて、スケジュールの調整が難しくなりはじめた。
基本的に、私のようなお檀家さんも少ない田舎の小さな山寺の住職は昔ながらの檀家優先システムを継承するアナタ次第の受動的職業であるから、今日の明日で「父親の〇〇回忌よろしくおねがいしますけぇ〜〜」なんて電話が前触れもなくかかってきたりすると、もうその時点で予定の彫刻スケジュールがボロボロに崩れ去ってしまう。
先日の万善寺役員会でも、結局は先代住職時代から継承された万善寺システムがそのまま繰り返されることになって、新規事業や運営改革の話題を挟む隙間もなかった。
「方丈はそう云われますが、それで誰が誰にどうする云われても、ダレも『じゃぁそぉ〜しましょぉ〜!』と引き受けるようなものはおりませんでぇ〜」・・・で、話が〆切られて、あとはさり気なく世間話で流されてしまう。
そんな役員会も、忘れられないうちに時々集まっておいてもらわないといけなかったりして、会議嫌いの自分としては余計に気持ちが滅入ってしまう。

彫刻の方も、銀くんとの通勤道中で脳内ドローイングが繰り返されて、煮詰まりすぎて焦げてしまうほどになってしまった。
幾つかのテーマをそれぞれ別々に気持ちを切り替えながら組み立てていたものが、知らない間にくっついたりはなれたりを繰り返して収集がつかなくなった。元々が、かたちのシンプルを極める方向でつくることを意識していることが多いから、幾つかの「シンプル」が混ざり合ってしまうと、自分の造形のコンセプトがとんでもない方向へソレてしまう。
坊主家業にしても、彫刻の制作にしても、もっと基本を見直して、自分に出来ることをコツコツと積み重ねることが大事なことだと、今更ながらに思う。誰にでも出来ることなら誰かに任せれば良いことだし、今の自分の環境で出来ることもあれば出来ないこともあるから、それを精査することも大事なことだ。
気が付かないあいだに、自分の気持が曖昧に揺らいでしまっていた気がする。

バンデッドQ(原題はTime Bandits)という映画があった。今までに4回ほどは観た記憶がある。全体の映像が暗いから、明るい部屋ではナニが何やら細かいところがよくわからなくて、それこそ「白けてしまう」ような癖っぽい映画なのだが、ボク的にはとても面白いと今でも思っている。バンデットとは盗人という意味らしい。映画はまさにそういう連中のお話だが邦題の「Q」にどういう意味があるのかは未だにわからないままだ。
イギリスグループclean banditが久しぶりに聴きたくなってプレイリストをつくった。
10曲も連続して聴くと「あとは1週間聴かなくてもいいかな?」と思ったりするが、キャッチーでシンプルな奥深さがあって、たまにのめり込んでしまう。
明日はワイフの誕生日!・・・気持ちを切り替えるには丁度良い1日になりそうだ・・・

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気ぜわしい1日 

2018/08/27
Mon. 23:53

東京へ帰省中のワイフからSNSで写真が届いていた。
関東で暮らしている娘たちが、おばあちゃん家(ワイフの実家)へ集合したようだ。
写真は、少し早めのバースデーケーキ!
娘たちが相談して気を利かせてくれたのだと思う。
子供たちが独り立ちしてからあと、1年に1度巡ってくる誕生日でケーキを用意することも絶えていたから、きっとワイフは嬉しかったことだろう・・・

早いもので、そのワイフがもう島根へ帰ってくる。
広島まで新幹線で、あとはバスに乗り換える。最寄りのバス停までは私が迎えに行く。
そういう予定で朝からワイフとSNSのやり取りをしていたところへ「○○商会ですけどぉ〜、鉄板入りましたがぁ〜、ドォ〜しましょぉ〜・・」と、いつものお兄さんから電話が入った。
鉄板はお盆前に注文してあって、夏の間は寺暮らしが続くから、入荷の予定日がわかったところであらかじめ知らせておいてくれと頼んでおいたのだが、お兄さんはそれをすっかり忘れてしまっていたらしく、しきりに電話口で謝っていた。
「それは急ですねぇ〜・・・今日の午前中なら工場へ行けますがどうでしょぉ〜?」
「あっ!それじゃぁ〜チョット積み込み調整してみますんで・・・またハッキリしたら改めて電話しますぅ〜」
そんな慌ただしいやり取りがあって、昼前に二回目の電話が入って、工場で待ち合わせすることになった。2tでやってきたのは、私より年配な感じのオジサン二人だった。
「△△くんは、チョット他の方へ配達がありまして・・・」と、そのオジサン二人が急きょ代行で駆り出されたらしい。なにか、変に急がせてしまったようで悪いことをした。それでも、ヒマはヒマなりに月末の気ぜわしさもあったのでこちらとしては助かった。

鉄板を狭い工場の壁際へ納品してもらって、その足で工場から寺まで直接移動した。
通勤坊主で時間のロスが増えた間に、テンが3畳の天井裏へ住み着いてしまったようだ。
お盆で万善寺へ常駐していた頃に、何度かテンと目があったことがある。
朝方早くに裏山から紅葉の枝木を伝って屋根へ乗り移って、そこから大屋根の軒下へ回り込んで、昔使っていた雨戸の戸袋の5cmにも満たない出っ張りを足掛かりに使って器用に庫裏の天井裏へ潜り込んで夕方まで寝る。大きさは吉田シロちゃんを細長くした感じで、頭から尻尾の先まではシロより少し大きく見える。けっこうデカイ!胴体は細身で、体型はイタチを一回り大きくした感じだ。山からダニやノミを天井裏へ運んでいるだろうから、最近は1日中セッセと寝床の真下あたりで蚊取り線香をくゆらせている。

ポストに留守の間の郵便物や自治会の回覧板があふれていた。
回覧板を配布するのは班長のボクの仕事。その仕分けをして、郵便物の中から寺の護持会事務局宛の書類を確認して、近所をひと廻りして、ワイフを迎えにバス停へ急いだ。
国道を40kmでノロノロ走る高齢ドライバーに捕まって追い越すことも出来ないまま延々と長蛇の列ができて、いつもなら楽勝で間に合うところを結局3分ほど遅刻してバス停到着!ワイフが先に気づいて荷物をたくさん抱えながら向こうから歩いてきた・・・

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只今帰省中 

2018/08/26
Sun. 23:08

詳しくはわからないが、じゅん君が研修か何かで隠岐の海士町から本土へ帰省中だ。
私の方は、ワイフが夏休みで実家へ帰省中の留守をあずかって、ネコチャンズやグッピーズの世話に吉田家へ帰って通勤坊主に切り替えながら暮らしている。

じゅん君とは、彼が高校を卒業してから今までの10年チョットをだいたい殆ど離れて暮らしているが、その途中、2年位ほど石見銀山に帰ってきて、色々なアルバイトをしながら吉田家で家族と一緒に暮らしていた。あの頃は、まだキーポンもいたし、老犬のシェパ爺もまだ生きていたと思う。
シェパ爺が冬に大往生して、それから数カ月後にじゅん君が手のひらに乗るくらい小さな猫を保護して連れて帰った。その猫がふてぶてしくデブ猫に育った今のクロだ。

例のごとく早朝からメシの催促でそのクロがうるさく鳴きはじめた。
もう少しゆっくりと寝ていたかったが、隣の部屋で寝ているじゅん君は起きる気配もなく、かすかにイビキも聞こえているし、結局、騒がしく鳴き続けるクロに根負けした。
空っぽの猫皿へご飯をよそって、水を足して、そのまま洗い物などをしていたら、あっという間に時間が過ぎて通勤坊主の出勤時間になった。

万善寺へ到着すると、朝の空気がヒンヤリしている。縁側の柱へぶら下がっている温度計は25℃。途中の銀山街道は朝の8時過ぎで温度計がすでに31℃だったから、ずいぶん涼しく感じる。今から半世紀ほど前は、夏の25℃でも暑く感じる方だった。今は連日30℃を越えることが当たり前になった。これでまたあと半世紀ほどすると、地球はいったいどうなっているのだろうと、ひとごとながら心配になって可愛そうになる。
吉田家も、あと20年前後で世代交代を迎える。
ネコチャンズやボクとワイフは、すでにこの世からおさらばしていると思う。グッピーズは、次の世代がうまく養ってくれていれば、水槽の中で限りなく世代交代しながら生き延びているかも知れない。
三人の娘たちはもう石見銀山へ帰ることもないだろう。島根大好き人間のじゅん君が石見銀山の吉田家を拠点に、このままナニカの職業に就いていれば、現在のガタピシ吉田家も、もっと老朽してガタピシになりつつ、それでもなんとか倒れないで維持されているかもしれない。
だいたい今の吉田家の状況だと、将来の予測はまぁこんな感じであるだろう。

吉田家近未来を希望的に展望してみると、何かの仕事が大当たりして、貯蓄も増えて吉田家も改築されてオール電化の暮らしを手に入れたじゅん君が、キレイなよく気の利く嫁さんと、可愛くて頭脳明晰な娘と、かっこよくて優しい息子の4人家族が巨大な水槽で暮らす世代交代して生きながらえているグッピーズと、石見銀山の間歩近くで保護したオスの黒猫と代官所前で保護したメスの白猫と、銀山口公園で捕獲された柴犬系雑種の野良犬を引き取って飼いはじめ、たまに石見銀山観光を兼ねて帰省する3人の妹たち家族を優しく迎えて、裏庭のオリーブの樹の下で仲良くバーベキューを楽しんでいる・・だったりして・・・そういう、絵に描いたような幸せで豊かな暮らしだと安心だけどなぁ・・

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ありがたやありがたや 

2018/08/25
Sat. 23:02

夜明け前のまだ暗いときから、土砂降りになった。
裏山の木々の枝が風で大きく揺れてぶつかり合う音が雨音にかぶさって、それに竹の葉の擦れ合う音が重なる。賑やかなことだ。
台風は過ぎたはずなのに、今頃になって台風並みの風雨が戻ってきた。

1日かけて、古墓と観音様とお地蔵様とお大師様の供養で4軒廻る。
1軒は万善寺のお檀家さんだが、あとは浄土真宗の門徒さん。
飯南高原では昔から、宗派を超えてご利益の重いお経を読んでもらおうと状況に応じて近くのふさわしいお寺へ供養をお願いされるお宅が多かった。
世代交代の過渡期をむかえた最近は、少しずつそういう供養の依頼も減ってきたが、それでもまだ数軒は毎年のようにお経の依頼が入ってくる。
古墓をお守りのお宅は、信心もあつくて、いつ行ってもキレイに墓掃除が行届いている。
個人でお祀りの観音様やお地蔵様などの諸仏は、だいたい庭の奥まったところへ小さなお堂を建立されていて、これも三具足がきちんと揃って信心の深さが伝わってくる。
お堂の無いお宅でも、お仏壇の近くへ別に祭壇を用意されていてお供え物も整って丁寧にお守りされている。

信心は、その家その人の気持ちの問題だから、気にしなければほったらかしに投げっぱなしでも特にナニがどうこうなるものでもない。
それでも、ナニカの拍子にナニカがおこったりすると「観音様を粗末にしてたから・・」とか「最近古墓のお参りを怠けていたから・・」とか、そういうコトが気になるのか、唐突な供養依頼があったりすることもある。万善寺へ「お経をひとつお願いできませんか?」などと連絡が入る時は、だいたいナニかネガティブに気になることがあってのことのようだ。まぁ、お経をひとつ読むことで気持ちが楽になるのならそれも坊主の大事な人助けの務めだと思って、できるだけ丁寧にお付き合いさせていただいている。

「この1年で寺の様子も変わって、今は、だいたい単身赴任の一人暮らしで乗り切ってますわぁ〜・・・」
「そりゃぁ〜、不自由なことで・・・ご飯はどうされてるんですかぁ?」
「今は、夏野菜のお供え物ももらって、それも粗末にできませんから・・・そぉ〜ですねぇ〜〜ほとんど自分で何か作ってますねぇ〜」
「はぁ〜〜、そりゃぁ〜、そりゃぁ〜・・・」
お経を終わってお茶飲み話で、また気がつけば愚痴にも間違えられそうなことを口走ってしまっていた。
「別居暮らしも気楽で良いもんですよ!三度の飯もスキな時にスキなものをチャチャッとつくって、特に苦にもなりませんしねぇ〜・・」
失言を少しばかりフォローしたつもりでいたら、帰りがけに「ちょっと待っててくださいや!お供えを言付けさせてもらいますけぇ〜」と、有難く頂いたのが赤飯だった。
流石に農家の自家製素材でつくった赤飯は一味違って美味い。
頂き物の野菜とワイフが持たせてくれた卵とサバ缶でチャチャッと遅めの昼ごはんにした。

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台風一過 

2018/08/24
Fri. 23:21

このところ、変な台風が変なふうにやってきて、何か落ち着かなくて面倒臭い。

前回の台風は、防災放送があったりして大騒ぎしたわりに、見事になにもないまま過ぎていった。
今度の台風は、夜になって徳島へ上陸したらしいから、ひょっとしたら島根の方も風雨がすごいことになるかも知れないと寝る時は少し緊張したが、朝方になってドッと大風が出て境内の色々なものが音を立ててアチコチへ飛んでいったものの、雨が降るまでにはならなかった。
外の洗面所へ置いてある二層式の古い洗濯機が、台風崩れの突風にあおられて庭側へ倒れた。反対の石垣側へ倒れたら3mほど下の菖蒲の茂みへ落ちて壊れてしまっていただろう。重し代わりにしていたブロックが倒れた拍子に2つに割れて転がっていた。電源を入れて動作確認まではしていないが、モーターが動かなくても洗濯槽を水槽代わりに使うことも出来るし、あとは、土蔵の前のアルミ製脚立が吹っ飛んで倒れていたくらいで最小限の被害で済んだ。今度も万善寺のご本尊様が守ってくださったのだろう。

台風というと、少年の頃「台風一過」を「台風一家」と、かなり長い間勘違いして覚えていた。
遠い昔の記憶で定かではないが、今から半世紀くらい前の島根県は今より台風の直撃回数が多かったように思う。
庫裏から本堂から東西南北周囲の雨戸を閉め切って、家族が家の中の一番安全なところへ集まって台風が過ぎるまでじっと絶えていた。杉板を張り合わせた板戸が物凄い勢いでガタピシ揺れて、家中がミシミシと嫌な音をたて始めるほどの強烈な暴風雨になると、板戸の隙間からシャワーのように雨が吹き込んで座敷側の建具の障子が濡れて破れたりした。とにかく、そういう様子が台風の通過に合わせて南から東へ回って北からの吹き返しが西側へ回り込んで落ち着くまで家族が思い思い何かしつつもだいたい一処へ寄り添って無言でやり過ごしていた。とにかく、こういう家族が一箇所に集って台風が過ぎるのをジッと待っている状態がボク的には「台風一家」であると思っていたわけだ。

東京ぐらしを切り上げてワイフと結婚して島根へ帰ってすぐの頃だったと思う・・「台風クラブ」という相米慎二監督の映画があった。
勤務先の住宅でまだ新婚気分が抜けない二人暮らしの夜更けに、レンタルの新作ビデオで観た。あの頃の島根は老舗の映画館が積年の老朽化もあって軒並み閉館している斜陽の時期でもあったから、自分が観たいと思う少し変わった映画はビデオでチェックするしか方法がなかった。台風で学校へ閉じ込められた中学生たちの教室での一晩や増水して水浸しのグラウンドでの狂気の様子が重たい凝りになって記憶に残っている。鬱々として理屈っぽくて湿っぽいボクの高校生活時代を思い出して親近感を覚えた不思議な映画だった。

台風一過とはよく云ったもので、今度も台風が雲を飛ばして風が消えるとすぐに青空が飯南高原いっぱいに広がった。
丁度、ノッチがフロリダの仕事終了をLINEで知らせてくれて、少し気も晴れた。
一年間のディズニーリゾート日本館スタッフお疲れ様でした・・・

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朝の銀山街道 

2018/08/23
Thu. 23:16

ワイフのいない吉田家の朝は、クロのしつこい「メシくれニャァ〜〜」コールで起こされた。
まったく、クロは人間に対して遠慮というものがない・・・
とにかく、フギャフギャうるさいからご飯を出してやったら、何処からかシロがさり気なく合流して一緒に並んでガツガツと朝飯を食べ始めた。

銀山川に面した吉田家の裏庭はおおよそ東向きだから、天気が良いと朝の日差しがリビングの方まで差し込んでくる。
一度目覚めると二度寝する気もなくなった。
それで早朝から特に何かしようという気もないし、いつも吉田家のことはワイフに投げっぱなしだったから、あまりアチコチつつきすぎるとまた叱られてしまうし、テレビを見る気にもならないし・・・いろいろと思案していたら、いつもワイフが寝ている四畳半からじゅん君のイビキが聞こえてきた。あれだけクロがギャァギャァ大騒ぎをしていたのに、彼はそれも気にならないで爆睡している。

「そういえば、コーヒーがなかったなぁ〜・・」
最近は、水出しコーヒーをつくり続けていて、もうそれが冷蔵庫でなくなっていたことを思い出した。
水出しコーヒーは、抽出の目安をだいたいひと晩にしている。時間で云うと常識的な睡眠時間と同じ8時間程度。
寺の一人暮らしは自分以外にダレもコーヒーを作り置きしてくれる人がいないから、夜寝る前の適当な時間にガリガリとミルを回して水出ししておくと、朝起きたときには冷蔵庫の中でシッカリ冷えたアイスコーヒーが出来上がっている。
基本的に、こういうライフスタイルを大きく狂わさないように気をつけておけば、毎日ほしい時にほしいだけ、ストレス無くコーヒーが飲めるというわけだが・・・吉田家ではワイフへ任せっきりになってしまっていたから、いつもと勝手が違ってしまった。
「今つくり始めても、タイミングがあわないしなぁ〜〜」と、一瞬迷ったが、じゅん君もいるし、なんとかなるだろうと、とりあえず作り置きしておくことにした。

それなりにアレコレと朝の用事を済ませていたら8時を過ぎたくらいになって通勤坊主の出発時間になった。
昼はあれだけ猛暑なのに、朝の銀山街道は夜の冷えた空気がまだ残っていて気持ちが良い。銀くんの窓を開けて走っていたら稲穂の香りが入り込んできた。
今年は、猛暑が続いていたからだろう、稲刈りがずいぶん早い。街道沿いの田んぼも、点々と稲刈りが終わっていて秋の風景に変わってきた。
つくりかけのパッチワークのように、ところどころ歯抜けになった稲穂の絨毯スレスレに精霊トンボが群れて泳ぐように飛び交っている。幾つかの群れが銀山街道を横切ってボクの銀くんめがけて飛んでくる。車の乱気流に煽られてトンボの編隊が一瞬うずを巻いて乱れる。
まだ、猛暑が続いて残暑には程遠い状態だが、自然の様子はすでにお盆が過ぎて秋に向かっているようだ。

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ワイフの夏休み 

2018/08/22
Wed. 23:39

万善寺の法要が一段落して、ワイフは久しぶりの夏休みで実家へ帰省した。
高速バスで広島へ出て新幹線で東京までのルートを自分で決めていた。
バス停までは、石見銀山から車で1時間位かかるので、私が彼女を送ることにして、約1ヶ月ぶりに帰宅した。
じゅん君も研修が2日間ほどあるとかで帰省していて、家族3人の夕食になった。
ネコチャンズやグッピーたちに逢ったのも久しぶりだ。
翌朝・・・
県境を越えた先にあるバス停までの道程は、もう1年以上走ることがなかったはずだ。
その間に、大雨も降ったし地震もあったから、途中の道路事情を心配しながら走った。
幸い、特に大きな障害もなく予定の通り1時間足らずで高速バスの停留所へ到着した。
ワイフを見送って吉田家へ帰宅するとお昼だった。

長い間自宅を留守にしていたから、何かしらどうも勝手が違ったふうに感じて落ち着かない。それに、やたらと暑い。
万善寺の暮らしも、連日の猛暑でグッタリ疲れ切っていたが、石見銀山の現状を我が身に感じると、やはり飯南高原は暑いけど一方でサッパリとしていた。夕方が過ぎて夜になっても吉田家中がミストサウナのように蒸し蒸しして我慢できない。あれほど逢いたかったネコチャンズがスネのあたりへすり寄ってきただけでムッとした体温が伝わって不快だ。ワイフは、こんな吉田家の劣悪な環境で良く毎日コマゴマとした家事を続けていたと感心する。

ナニもする気にならないままグダグダと半日過ごした。
それでもなんとなく普通に夕食時になったら空腹を感じて冷蔵庫を漁った。
すぐに食べられそうなおかずの残りを見つけてレンジに入れた。
その頃になって、クロがメシの催促でうるさく鳴きはじめた。この蒸し暑さでも何処かへ潜り込んで延々と寝呆けているのに「腹だけは当たり前にへるのだなぁ〜・・」と思っていたら、シロも何処かからさり気なく湧き出てきて、珍しく私の足元へすり寄ってきた。
人間の自分だって半日何もしないでゴロゴロしていたのに腹だけはちゃんと減っている。
猫は人間と比べ物にならないほど正直だから、まぁ、そうやって空腹を訴えてくるくらい元気であるということなのだろう。そう云えば、「猫はねぇ〜、元々砂漠の暑いところで暮らしてたから、そのDNAが残っていて暑さには強いんだって!」などと、ワイフがもっともらしいことを云っていたっけ・・・それも、まんざら嘘でもなさそうだ。

寺の一人飯は特に何も思わないで過ぎるのに、吉田家の一人飯はどこかしら味気ないまま過ぎた。
気づくと知らない間にLINEの着信があった。ワイフはすでに東京へ着いていて、キーポンと焼き肉を食べていた。今夜はキーポン宅で母娘仲良く一緒に寝るらしい。
「きーちゃんがねぇ〜、焼き肉おごってくれたのぉ〜♡!」
電話をしたらワイフは幸せいっぱいそうだった。オヤジとは待遇が真逆に違う・・・
しばらくしてキーポンがトマトの現状をLINEしてきた。緑の実がチラリと見えた。

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大往生 

2018/08/21
Tue. 23:29

珍しくワイフの方から電話が入った。
朝もまだ早いときで、目は覚めていたがダラダラとしていた。

本堂の荘厳はまだ片付かないでいる。
庫裏のゴザ座布団もひとまず用済みだから日干しをして片付けることになる。
夏の大衣も洗濯できるものはひと夏に染み込んだ汗を流してウコンに包んで片付けはじめた。
そんなことをしながら、三度の食事をつくって食べて使った食器などを洗ってシンクを掃除して・・・などと、施食会が終わってから連日似たような暮らしをしながら、供養法要へ出かけたりしている。
そういうボクの住職スケジュールをだいたい心得ているはずのワイフが珍しく早朝に電話をしてきたということは、あまり良い知らせではないだろうと直感したが、やはりそれが当たっていた。
石見銀山で20年ほど生活衣料雑貨会社の営繕担当に従事していた職人の親父さんが死んだそうだ。

享年78歳の親父さんは、大工左官仕事から、指物修理、庭つくりまで何でも一人でこなす便利職人の鏡のようなひとだった。
私も、彫刻のことや個展の展覧会のことなどでずいぶんお世話になったし、時には一緒に仕事をしたこともある。
センスが良いというより、素材をよく知っていることと、感の良さでダレがドコにナニを求めているかを絶妙のサジ加減でくみとってかたちに置き換える技は、他に真似のできる者がいなかった。
基本的に一匹狼の自分の腕だけを頼りに自己完結型の職人さんだったから、だいたいのことは一人で飲み込んで手際よく段取りを組み立ててコツコツと仕事に仕立てていた。
私も、彼と似たようなところがあって、なんでもだいたい一人でコトを済ます方だから彼の才能をもったいないと思っていて、一緒に仕事をしている時「いつまでも若いわけじゃないから、そろそろ下を育てることも考えて良いんじゃない?」と、でしゃばったことを云ったことがある。
なんとなくわかったふうな顔つきで頷いてはいたが、たぶん、そのつもりはないだろうとわかる気もして、それ以来、そういうふうな話題を封印した。

生粋の職人さんだったと改めて思う。
数多くの彼のコピーをそれらしく再現することは出来るだろうが、彼のようにゼロから工夫して造り出すことはなかなか出来るものでもない。
今年に入って一気に病気が進行して改善が望めないまま最後は病院での治療を切り上げて自宅療養に切り替えたそうだ。今の時代、我が家の畳の上で死ねるなどなかなかありそうで無いことだ。
私個人の気持ちはいろいろ複雑ではあるが、彼は幸せな人生を全うし、それなりに最後まで頑固に元気でかっこよく逝った大往生だったと、坊主的にはそう思う。

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トネさんの樒 

2018/08/20
Mon. 23:20

詳しくはないが、新潟県というか、石川とか福井や富山も一緒に北陸地方は日本でも有数の職人密集地帯であったらしい。
職人集団は、良質の原材料が豊富に集まる場所を探し当ててソコに住み着いて自らの腕を頼りに生活へ密着した機能を創意工夫しながら生産性を高め工業や産業に昇華させる。
美術学生ではあっても、まだ右も左も何もわからないまま、脳みそだけは根拠のないプライドや我欲に支配されていた陳腐極まりない頃、その、北陸地帯を旅したことがある。
1度は学生仲間と一緒の研修旅行で、もう1度は仲の良い連中と一緒の青春無計画行き当たりばったり珍道中。
それから、あっという間に20年が過ぎた頃、僧籍の資格取得でお世話になったのが新潟の永平寺系列僧堂。それからまた10年ほどしてから特注で造った鉄のテーブルを搬入したのが新潟の魚沼。
自分の人生の節目に、何故か新潟とか北陸が絡んでくる。

年に数回の荘厳の頃になると、仏花のお供えで樒を用意する。
樒は、シキビとかシキミと読まれている。
この樒を「しょうじゅんさんは、和尚さんでもあるから、樒があるといいでしょぉ〜。こんど、もう少し株が大きくなったら送ってあげるよ・・・」と約束してくれた木彫の彫刻家がいて、その約束を忘れないで今から20年チョット前に石見銀山の吉田家宛に苗が届いた。
早速、裏庭の適当なところへ地植えしてそれから枯れないように気をつけながら丁寧に育てていたものが、やっと、私の住職交代で万善寺を前住職から引き継いだ頃になって仏様のお供花に使うことが出来るようになった。
樒は日本のほぼ全国で自生しているようだから、地域の事情によっていろいろと仏前木の伝承解釈も違っているだろうが、とにかく、石見銀山の樒は丁度今頃に可愛らしい乳白色の花を咲かせて香りがひときわ際立ってくる。
基本的に仏事に合った香木として機能しているようだから、その苗木をくれた木彫の作家にはとても感謝していて、剪定する度に思い出すし、彼のことは忘れることがない。

お酒の好きな人で、木彫を制作しながら、実は宮大工の棟梁でもあった。出身は新潟県で、確か出雲崎のあたりだと聞いたような気がするが定かではない。
その彼は、もう10年程は前になるだろうか?持病が悪化して体調を崩したまま木彫の制作をあきらめた。元々が職人気質の強い人だったから、病気を言い訳にして適当に流すような彫刻になってしまうことが我慢ならなかったのかも知れない。これで、病気の束縛がなければ、今はトップクラスの木彫作家になっていたと思う。
「アトリエの庭にいっぱい樒が己生えしているのよ・・」と云っていた。
今頃あのアトリエはどうなったのだろう?
ひと頃は、展覧会で上京する度にアトリエを定宿代わりに使わせてもらっていた。
まだ死んではいないで生きているだろうけど、完全に音信が絶えた。

次の朝、本堂へ入ると樒の香りが狭い本堂いっぱいに充満して清々しい。

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過剰摂取 

2018/08/19
Sun. 23:45

施食会が終わって、お供えを下げたり洗い物をしたりと、荘厳だけを残しておおよそ片付いたのは夕方陽が落ちはじめた頃だった。ワイフは吉田家のネコチャンズが腹をすかせて待っているから、少し休憩してから帰っていった。私は翌日に飯南高原のほぼ中央にある七面さんや馬頭さんお不動さんお地蔵さんなどの諸仏をお祀りしてあるお堂の祈祷供養があるので、そのまま寺へ残った。

万善寺の法要が終わると、当分の間お供えの御下がりを有難く頂きながら暮らすことになる。お盆の時期は、特に野菜などの生鮮食品が長持ちしないので三度の飯を工夫してひたすら残さず消費することにつとめる。

本格的な一人暮らしをはじめてから、最近になって万善寺の家事や台所仕事が苦にならなくなってきた。
まだまだ充分でないところも沢山残っているが、この1~2年で少しずつ自分の使い勝手を工夫して、それがしだいに機能し始めてきたからだと思う。
長年、庫裏の隅々まで都合よく仕切っていたおかみさんのスタイルを、とにかくとことん解体整理してボクのライフスタイルへ切り替える作業は、思っていた以上に難航して時間を要した。いまだに、庫裏全体の3分の1にも満たないほどしか整理できていないが、それでも母親から寺を引き継いだ頃からするとずいぶんコンパクトにまとまってきていると思う。

お供えのアレコレも、規模を縮小させてもらった。
須弥壇周りの湯茶やお菓子野菜などのお供えや佛飯やお膳も必要最小量で都合をつけた。
その必要最小量のお供えにしても、法要が終わって御下がりを集めるとかなりの量になる。たとえば、お団子にしても一皿1個ずつにしても必要最小量で40皿くらいになるし、それがお盆の3日間続くと膨大な量の団子を一人で消費しなければいけなくなる。素麺を茹でても、40皿分となると一束ですまなくなるし、赤飯にしても1合程度では足らない。その上にお供えの夏野菜が大量に御下がりへ変わるし、お檀家さんからお供えにと頂いた生菓子一箱の消費期限も迫ってくるし、炭水化物と糖類の消費だけで目眩がする。

施食会用の餓鬼飯1合分は、出汁を加えて土鍋でおじやにした。
施食会用の夏野菜を混ぜ込んだ洗米は水を多めに炊き直しておかゆにした。
5つ組の膳は全て一つに混ぜてめんつゆを垂らして一気に鍋風に煮込んだ。
朝昼晩とこんな感じの食事が続いて、完全に炭水化物の過剰摂取になって、おまけに、お堂の祈祷供養で御下がりを頂いたりして、胃薬が欠かせなくなってしまった。

市井の俗人なら自分の好き嫌いで簡単に残飯で捨てることもするだろうが、曲がりなりにも在家坊主で御本尊をお守りする住職が、お盆の月の頂き物を粗末にあつかうことも出来ない。
いずれにしても、モノの価値や有難さに身をもって気付かされる毎日が続いている。
捨てる勇気も必要だが、捨てられないことの工夫を努力することも大事だと感じる。

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粗品はてぬぐい 

2018/08/18
Sat. 23:39

この数年のうちに相次いで先代住職夫婦が死んで、おまけに昨年は隣町の現職住職も遷化されて、その本葬が8月17日で万善寺盆法要の前日。
とにかく、何から何まで崖っぷち坊主の綱渡りが続いた。
今年は、やっと少し楽なお盆になるだろうと思っていたら、連日の猛暑とお盆直前にお檀家のおばあさんが亡くなって家族葬モドキ。
今まで長い間副住職でだらしなく気の無い坊主職を続けていたことのツケが回っているのかも知れない。

まぁ、そんな感じで慌ただしく落ち着かないまま施食会法要当日をむかえた。
昔ながらの建築方法で基礎から組み上げて屋根をのせただけの本堂は、東西南北上下左右あらゆるところから隙間風が吹き込んで、風通しが良い。
実は、そういうこともあって、チョット強めの風が吹くと、屋根裏に吹き込んだ風が天井裏へ溜まった積年の埃を吹き飛ばして、天井板の隙間から大小の埃がパラパラと落ちてくる。時には、つがいの山鳩が屋根裏の隙間から入り込んで何泊か住処にしていたり、何かの加減で迷い込んだセキレイが延々とバタバタ本堂のガラス戸めがけて飛び付いていたり、見た目よりずいぶんと賑やかで埃っぽい。本堂東側の枯木が朽ち倒れるまでは、何年も天井裏へムササビが住み着いていて、いまだにその頃の溜め糞が山になって残っている場所もある。ムササビは高い木が無いと滑空できないから、境内の木が倒れると本堂から屋移りしていなくなったのだが、気がつくと、それからあと最近になってテンが侵入ルートを見つけたようで、またドタバタとうるさくなった。テンはムササビより一回り大きいから、あいつが天井裏で騒ぐとアチコチで埃がパラパラと落ちてくる。

それで、あまり早くから荘厳を準備してしまうと、掃除が難しくなるので、ギリギリまで何もしないでおいて、最終調整は当日の早朝から一気に仏具や供え物の配置を決める。
そういう作務をしていたらワイフが到着。
随喜のお寺さんの接待をメインに、庫裏での一切をすべてワイフに任せてある。十分なことは出来ないが、彼女の気持ちが何かのかたちで伝わればそれで十分だと思っているから、私の方は本堂の一切を取り仕切って、お参りの皆さんへ集中する。
今年の粗品は手染めの手ぬぐいにした。
おおよそ人数を予測して、事付のお返しも含めて30枚ほど染めた。
仏事で使ったロウソクを廃棄しないで1年分集めたものを湯煎で溶かしながら用意した白地の手ぬぐいへ文字や絵を描く。
一人暮らしになって、小さな中古の全自動洗濯機へ替えた時、それまで使っていた2層式の洗濯機を廃棄するか残しておくか少し迷ったのだが、染色の時の洗濯くらいには使えるかも知れないと外の洗し脇へ移して置いたのが1年ぶりに役立った。あの厳しい極寒と猛暑を乗り越えて動いてくれた時は、少し感動した。夏が過ぎたらもっと丁寧に囲って大事に管理してあげようと思う。

施食会は30分で終了し、少しお話をはさんで塔婆回向も30分で終わって、夕方には法要全てが無事に終わった。粗品の手ぬぐいは3枚染め付け失敗し、8枚余った。

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施食会前夜 

2018/08/17
Fri. 23:10

先代住職の憲正さんは、時々突発的な思いつきで物事を決めてしまったり、その時の勢いでなんの脈絡もなく説明のつけようがない行動に走ったりすることがあった。
家族身内がそれで振り回されるのは仕方ないとしても、お檀家さんや近所の町内会の皆さんにまでそういうことがおよぶと、周囲の関係者は立場上「NO!!」と云いにくいことが多くて、ドタバタと大忙しになってしまったりしてずいぶん迷惑をかけてしまった。
他人の口は利口にその場を取り繕うから、ずいぶんあとになって憲正さんの無茶振りが風の便りで耳に入ったりして、よく冷や汗をかいたものだ。

住職交代で東堂さんになってからも、しばらくは現役の癖が身についたまま新住職(ボクのことです・・・)へ特に相談もなく勝手に日程調整をして約束したりしてしまうから、何度と無く慌てた。
もう、時効になったような昔の出来事までほじくり出されて詰め寄られたりすることもたまにあるし、何かと言うと「憲正さんが云い始めたことだから・・」と、現住職の私の頭上で話が交差して、それがしばらく続くうちにいつのまにか適当なところで話が決着してシャンシャンと住職抜きの手打になったりすることも再々ある。

それで、夜の薬師供養も私が学生で留守にしている間に、いつのまにかお盆の万善寺法要仏事の前日、つまり17日に決まっていた。
私が少年時代の昔、今の薬師供養は確か8月のもっと遅くだったはずで、秋風が吹き鈴虫が鳴く頃だったと記憶している。どういうことで、万善寺の法要前日の夜に薬師供養を移動したのかよくわからないが、ひょっとしたら、昔々の万善寺では17日夜に観音供養をしていたから、憲正さんがふとその頃のことを懐かしく思い出したのかも知れない。
いずれにしても、関係者も承知の上で坊主の方から日程移動を切り出したわけだから、それをまた坊主の都合で変更することも難しいし、かなりの重たい根拠があって提案するとしても、今のボクのようなナンチャッテチキン坊主には、説得できるまでの勇気も根性もない。
結局は、「おかしぃなぁ〜〜??なんでかなぁ〜〜??」と、思いつつ、いずれ関係者の代替わりがくるまでは今の日程で今後も乗り切っていくしか無いことだと思っている。

夜の7時半スタートを目指して薬師堂へ向かった。
お堂はすでにお供えなどの準備が整っていて、あとは近所からのお参りが集まったらお経を始めれば良い。それまでは、袈裟を掛けながら世話人の旦那方と世間話をしたりして過ごした。定時にお経をはじめて、お薬師様の御真言をとなえながら焼香を回して法要を済ませた後、参列施主7軒分の塔婆回向を和讃で読み上げて、だいたい45分位で薬師堂での法要が終わった。それから、世話人旦那のお宅へ移動して、お供えの御下がりをいただきながら、あれこれとりとめのない話がしばらく続いて、切りの良い頃合いを見計らって中座した。

明日の施食会の準備は終わらせてあるが、どうも落ち着かなくてなかなか寝付けなかった。ワイフは当日早朝には万善寺入してくれることになっている。

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崖っぷち万善寺 

2018/08/16
Thu. 23:45

万善寺の施食会がすぐそこまで近づいた。

私の人生をたぐると、昔は9日が施食会だった。
17日は大般若経転読会の前夜祭で本堂では観音供養の法要があって塔婆回向が夜遅くまで続いた。境内は出店屋台が2〜3店舗出ていて、塔婆回向の終わったお参りの皆さんが輪になって盆踊りをされたりして、とにかく賑やかな夜だった。
回向仏事が終わると説教が1時間位あって、それが終わると本堂西側の白壁をスクリーン代わりにして幻燈の上映会があった。子供たちは、それが楽しみで夜遅くまで眠い目をこすりながらとにかくしぶとく起きていたが、だいたいほとんどは上映会の終了をまたないで寝落ち撃沈して、敷布団代わりの座布団が本堂のアチコチに敷き乱れていた。
庫裏の方丈の間では、説教老師を囲んで、こころやすい方丈さまが何人か残って酒盛りが始まる。深夜になってお開き解散になると、老師から順番にお風呂で行水をして、それから就寝。

翌18日は大般若経転読会があるから、万善寺の身内は早くから起きて本堂の荘厳を整え、盆踊りなどで乱れきった境内を掃き清める。そのうち、保賀の近所のお檀家さんや台所のまかないでお願いしているおばさん方が集まって、法要の膳の支度や前夜から宿泊の方丈さまの接待などをしながら、お寺参りの皆さん用に斎膳の準備が始まる。
大般若経転読会は午後から始まって、法要が終わると夕方ほの暗くなるまで方丈さまやお檀家の役員さんが残ってまたまた酒盛りが始まる。酒の肴などおおよその支度が片付いたところでまかないのおばさん方や帳場や境内の整備などの表向きのお手伝いを頂いた男衆が酒席に合流して、またまたまたまた盛大に盛り上がる。
前住職の憲正さんは、そういう昔ながらの晴れ晴れしいお盆行事を取り仕切る事ができた最後の住職となった。

私が万善寺を離れて一人暮らしが続いている間に、夏の恒例仏事が大幅に縮小していた。
いつのまにか9日の施食会が18日の大般若経転読会当日へ移動統合されていて、17日の観音供養塔婆回向は廃止されて無くなっていた。
お寺参りが激減して、まかないのおばさん方も用が無くなって、そのおばさん方と入れ替わるようにワイフが内室でボクの母親の指令を受けて働くようになった。
それから昨年の春に母親が死んで、今はワイフと二人で手分けしながら万善寺の仏事を細々と伝えている。
盆月の仏事行事がコレ以上の縮小となると、万善寺の廃寺か統合兼務寺になるしかない。
現住職はそういう崖っぷちで綱渡りをしながら細々と坊主業を営んでいる次第。

一昔前の古き良き昭和の時代には、16日に万善寺から20分位車で走った先のお寺で施食会があって、20日は車で15分位走った寺で施食会があった。
今はその二ヵ寺とも、無住の寺で施食会が廃止された。
そういうわけで、16日は万善寺の施食会法要厳修に向けて最後の荘厳準備として重要な1日となっている。

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棚経最終日 

2018/08/15
Wed. 23:13

棚経最終日の朝は、猛暑の連日が別の世界の出来事だったかのようにスッキリと爽やかに明けた。
ひとまず、今日1日を乗り切れば棚経の90%は終了する。これからは、古墓の供養とか、各種菩薩様の供養とか、自治会でお祀りのお堂供養などがお盆の月に入っていて、それらを一巡して今年の盂蘭盆会供養すべてが終わる。

午前中で20軒近くを済ませようと予定していたが、世間話やお茶飲み話が長引いて、寺へ帰ったのは午後2時近かった。
寺を空けている間にワイフが手伝いに来てくれていた。
お経の間に、保賀のお檀家さんのオジサンから留守電メッセージが入っていた。
私の帰宅を待っていたように夕立のような雨が降ってきた。

久しぶりに、遅めの昼食を食べた。ワイフもしばらく待っていたようだが、帰宅時間も分からないからと、すでに昼食を済ませていた。
「方丈さぁ〜ん、ザッとお墓の掃除しておきましたけぇ〜ねぇ〜・・・お墓参りしてあげてくださいねぇ〜・・・」と、留守電メッセージだった。そう云えば、前日の棚経でお邪魔した時、お葬式が入って、寺のお墓掃除が出来なかったことを問わず語りに愚痴っていた。シマッタと思ったが時すでに遅し!そのオジサンには4シーズン1年中通して何から何までお世話になりっぱなしだ。信心の気持ちがかたちになって、信念のある行動に迷いがない。口ばかり上手に動いて、身体はピクリとも動かない連中が殆どの中で、オジサンは完全に別格だ。

それでもと思って、掃除用具一式をかかえてお墓へ登ってみると、いつもの自分の墓掃除が恥ずかしく思えるほどキレイになっていた。
ワイフが用意してくれたお団子を供え、墓地にある椿の青葉を剪定しながら供え、ロウソクをつけて線香に火を移し、1本ずつ供えて、お経を読んだ。
今年の春に、念願の永代供養墓を建立して、はじめてのお盆参りになった。
次は、これからつくる彫刻をお墓へ持って上がって、ロウソクと線香をお供えできるようにしようと思っている。冬は雪深いから、溶ける雪に押されて倒れないように、かたちを工夫するつもりで、もうだいたいのスケールは決めてある。あとは、材料が届き次第、工場で制作開始となる。

このブログも、気がつけば更新の期日がどんどん遅れてきた。
1日の出来事を、ヒマを見つけてはラップトップへメモしているのだが、それをA41ページ相当へまとめることが出来ないまま2日3日と貯まる一方になっている。本気になって文字をつつき始めたら30分もあれば1日分くらいまとまるのだが、毎日のドタバタでそれが出来ないまま、気づけば寝落ちしている。
特になにもない1日があれば、その日を休んでもいいと思って溜まったメモを見直すと、どんな些細な出来事でも簡単にスルーできない気になって、忘却の彼方へ捨ててしまうことができなくなってしまう。なにか、変な癖というか習慣が身についてしまったものだ。

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ポテトサラダ 

2018/08/14
Tue. 23:28

オヤジの単身赴任一人暮らしが続いている。
中国山地の海抜450mくらいのところに寺があって、すぐ裏には1000m級の琴引山が鎮座している。
どちらかと云えば高原地帯で、いつもなら夏も暑いなりに比較的爽やかで過ごしやすい。
Web環境や携帯電話の電波事情など、現代市街地のように一般的な便利生活が充足して保証されているわけでもないが、それなりにそんなもんだと割り切って、それに慣れてしまえば、それほど不便を感じること無く過ごすことができるようになった。

それにしても、今年の夏は例年と状況が違って、何もかもが今までに経験がないほどのきびしい猛暑が続いて、棚経が本格的になる前から日頃のたるみきった体力を完全に使い果たしてしまった。
これから万善寺のメインイベント施食会に向けて準備作業が本格化する。
毎年のことで夏の事情がわかっているじゅん君に7月のうちから調整をお願いして、2・3日だけ寺の整備作業をお願いしておいたのだが、結局直前のドタキャンで期待の半分程度しかオヤジに付き合ってくれなかった。
いつもなら、そういうこともあるだろうと、おおよそ予測して当てにしているのだが、今年に関しては彼への期待が少し過ぎてしまって、ドタキャンの精神的ダメージからなかなか立ち直ることができなかった。

そういうわけで、施食会準備がピクリとも動かないまま、棚経をして通夜を仕切って、あっという間に一日が過ぎた。
いろいろと考え事が脳みそをグルグルと駆け回って、身体は疲れているのになかなか寝付けないまま一夜が過ぎて寝不足のままむかえた朝は、久しぶりに涼しくなったというより、寒く感じるほど気温が下がっていた。お陰様で午前中の棚経は楽に過ぎたが、午後からの葬儀に向けて寺の仏具を準備したりしている間にどんどん気温が上昇していつもと変わらない猛暑に戻った。
このたびの葬儀は、葬祭業者の無い家族葬のようものになっているから、会場へ葬儀の祭壇があるだけで、それ以外に必要な仏具の殆どは寺で準備するしか無い。昼食抜きで改良衣のまま大汗をかいて銀くんへ必要なものを積み込んで葬儀会場へ走った。
ボク一人で導師から鐘つき坊主や司会進行までして引導を渡して参列の焼香がすべて終わると、急いで納骨の準備へとりかかって喪主家のお墓へ移動して墓前のお経を読んだ。あとは自宅の祭壇を整えて初七日のお経と簡単なお話を添えて、使った仏具をまた銀くんへ積んで寺へ帰ったのは夕方だった。
これだけの仕事量だと、世間の一般的な葬祭業で「どの位の請求がくるのだろう?・・」と、一瞬俗な打算が脳みそを走ったが、結局は島根の田舎坊主の相場で全てが決着することも分かっているので、すぐに夕食の現実に思考スイッチを入れ替えた。

このところ、お布施で頂いた各種夏野菜をセッセと消費している。
料理というほどのことでもないが、たまには少し手間のかかることでもしてみようと、ポテトサラダと野菜スープをつくった。今度の夕食で冷凍のパンが無くなる。

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ユラギの幅 

2018/08/13
Mon. 23:21

枕経のおばあさんは行年92才で私の母親と同じ年まで生きられた。
数年前から1週間に数日はデイサービスでお世話になり、最近は、自宅で過ごすより施設でいる時間のほうが多いほどになっていたそうだ。
容態が急変した日も、施設の皆さんと歌やゲームをして楽しくされていて、まさかその夜に脳溢血を発症するなどと予測もできないほどお元気であったらしい。
早朝に救急車で運ばれてから延命処置で呼吸はできていたものの、すでに脳死に同じ状態で、ただ息をしているだけのことだったそうだから、ご本人にとっては特に苦しむわけでもなく、長い闘病ぐらしだったわけでもなく、寝ているあいだにこの世からおさらばできたという楽な死に様であったと思う。
そういう時は、枕経が終わってから「元気に往生されてなによりのことです!」と、ご遺族やご親族へ言うことにしている。
残された者にとっては、故人と付き合いの浅い深いでさまざまな思いがあるだろう。それでも、一応の寿命を全うされたことに変わりはないから、清く人の死を「往生」と受け入れることも残された者の勤めであると、私は思っている。

万善寺の住職として坊主ではあるが、同業との付き合いが広いわけでもないし、すぐ隣の寺の事情も知らないことばかりで業務上の情報交換など皆無だから、私が住職としてお檀家さんとお付き合いしていることは、どこかしら業界の現状から逸脱していることのほうが多いのかも知れないと何気なく思っている。
世間では、宗派を超えて隣近所の各寺院事情の噂が飛び交っていると思うが、それはそれで自分にはどうでもいいことで、特に気にすることもなく自分が坊主として出来ることをコツコツと続けているだけのことだ。

それで、この度の通夜からお葬式にかけての仏事のことになるわけだが、結局は珍しく自分でも呆れるほど葬祭仏事全体へ口や手を出すことになってしまった。
一人残された喪主さんは、母親の葬儀へ参列することだけで精一杯の状態だから、宗派の違う親戚のご主人が後見人的役割をされることになった。「禅宗のことは全然わからんもので・・・」と、何度と無く呪文のように念押しされるものだから、お盆間際に一つ一つ解説して司令を出して指揮する手間がどこまで増えるか予測できないことになった。
いずれにしても、世間事情では故人の生前のおつきあいへ見合うだけの告別が大事なことであるから、それを送る身の事情だけで済ますわけにいかないことだけは確かなことだ。
坊主としては仏様の代行業務に徹して、故人を此岸への未練から切り離してキチッと迷わず彼岸の地までお連れすることが大事な役割で「それがすべてのことだ!」と、それだけをブレない柱と念頭に、周囲の事情に沿ってユラギの幅をもたせているつもりだったのだが、そうもいかなくなってしまった。葬祭業者もなく、地域自治会の世話役もなく、もちろん周囲のお手伝いも固辞され、それに喪主代理も務められるという、なんとも前例のない葬儀葬祭となった。

前夜の仮通夜から、午前中は棚経を済ませ、夕方からの本通夜に出かけた。
葬祭で借りた自治会館には、故人を偲んで旧知の皆さんが多数参列された。

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万善寺お盆事情 

2018/08/12
Sun. 23:02

脳溢血で延命処置中のおばあさんが亡くなったと訃報が入った。
棚経へ出かける前だったので、枕経でお伺いするのはお昼を過ぎることを伝えた。
電話口で日程の相談事が始まりそうだったから、こまかな打ち合わせは枕経が済んでからにしようということにさせてもらった。

万善寺の場合、お檀家さん以外で浄土真宗のお門徒さんも棚経をつとめる。
仏教の長い歴史の中で、自然と当たり前のようにそういうふうなことになって、住職の代替わりの時もそのまま先代を引き継いで継承されてきたことだ。
近年は、浄土真宗門徒さんの方も代替わりが進んで、棚経でお伺いすると施錠されてお仏壇の前に座れないお宅が少しずつ増えた。
「もう、次の代に譲りましたので・・・」と、棚経は今年で最後にしてくれと云われるお宅も増えた。
それに、独居暮らしから施設の入所で空き家になり、やがて絶縁のお宅も増えた。
そういうことが毎年のように続いて、10年足らずの間に100軒は棚経の軒数が減って、歳をとるばかりの我が身としては楽になったと云えなくもない。

飯南高原でお盆の入は、14日が大勢を占めるが、一部地域は13日からお盆が始まる。
そういう事情もあって、昔から万善寺では1日早いお盆の入りになる地域を中心に浄土真宗門徒さん宅を集中してぐるりと棚経廻りするのが12日に定まっていた。
まだ副住職時代に、棚経でお経が終わってお茶飲み話の時、そういう地域の古くから残る事情を古老から聞くことが時々あった。
12日の棚経も、実は昔々、何時の頃かまでその地域の中心の山際にあったお寺が火災か災害かで消失して、菩提寺を失った周辺の集落がお盆の供養をどうしようか困っていたところへ、谷を一つ越えた隣の集落にある万善寺のお盆供養の法要で塔婆の供養回向会があるから、当面はとりあえずそれにお参りして乗り切ろうというあたりのところから縁が始まったらしい。それに併せて万善寺の方でも、寺の法要仏事へお参りの皆様に台所のまかない事までお願いするのは不本意だからということで、周辺地域から他宗派のお宅へまかない事のお手伝いを依頼することが仏事信心の習慣になって、その名残が先代住職まで引き継がれてきた。
その後消失した寺周辺の集落でも世代交代が進み、その信心習慣も絶えて久しいし、無理してまかない事のお願いしてもお礼のヤリクリ算段が厳しくなって、今は万善寺仏事の一切を家内身内でまかなうことになった。ワイフも、このことだけは文句も言わないで粛々とナンチャッテ住職のボクに付き合ってくれている。

日頃はヒマにノンビリと続く万善寺暮らしも、盆月の時期はスケジュールが立て込んで融通がききにくくなる。
いろいろ作務の日取りを決めてあることが、訃報一つで泡のごとく消える。
だいたいが住職一人で切り盛りしている万善寺のことだから、いまさらジタバタしてどうなることでもないし、周辺の成り行きに身を委ねるしか無い。
棚経が終わってから、その足で枕経を読みに向かった。また、昼食抜きになった・・・

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作務の朝 

2018/08/11
Sat. 23:28

万善寺が住職の私一人になってから、それまで寺の家族で分担していた幾つかの作務をすべて一人でまかなうことになった。
どうしても一人では無理なことも幾つかあるので、そういう時はワイフへお願いして助けてもらっている。
子供の頃から、寺のお盆行事がおおごとになって家族の負担が増えることのストレスを身をもって感じていたから、吉田家の子供たちやワイフへはできるだけ普通の在家と同じような暮らしをしておいてもらいたいと思っていた。
そういうこともあって、子供たちが独り立ちしてからあとは、お盆の帰省はしないでいいと云ってある。
ワイフにはかわいそうだが、万善寺の仏事が一段落して少し落ち着いてから一人で実家へ帰省してもらっている。

吉田家の夏事情は、私が住職を引き継いでから少しずつ調整して、今はだいたいそのようになって落ち着いている。
それで、数年間かけて棚経の日程を調整して11日の一日を寺の作務に当ててある。
施食会用に本堂の配置換えをしたり、境内やその周辺の整備と墓掃除が主な内容になる。
寝苦しい一夜が明けて保賀の谷の鳥たちよりも早くに蜩がやかましく鳴きはじめた。
「今日も暑くなりそうだなぁ~~」と、思いながら抱きまくらをかかえてゴロゴロしていたら、国道を救急車が過ぎていった。
そろそろお盆が近いのに本人をはじめとして親族関係者は落ち着かないことだろうと気にかかったが、いつもの寺の朝の支度を始めるとそれもすぐに忘れてしまった。
少し落ち着いてから電話を確認すると、着信履歴が残っていた。まだ7時を過ぎたばかりで「いやに早い電話だなぁ~・・」と、少し不安になりながら発信者を見ると、お檀家さんの親戚からだった。返信しようとiPhoneを持って電波の強いところまで移動していたら、その親戚からまた電話が入った。
「○○園で△子さんが寝ている間に脳溢血になりまして・・・」
あの救急車と電話の内容が繋がった。
ひとまずは延命処置をしてあるが、頭には出血がいっぱい溜まっていて、もうどうすることもできない状態だから、いずれ近い内に万善寺へ「お世話になることになる」ので、その相談をしておきたいということだった。

それからしばらくして、ご親戚が3人揃ってお参りされた。
危篤状態のおばあさんには、70歳くらいになるかもしれない息子さんが独り身でいらっしゃる。いろいろと複雑な家庭環境で、親戚のみなさんも前々から気にかけておられた。
万善寺の立場となると、ひとまずは静観するしか無いところだが、ご親戚の相談事は葬儀の段取りにまで話が先走ってくる。夏の万善寺大イベント施食会どころではなくなってしまいそうな雲行きになってきた。とにかく仏事絡みの善後策を話しておいた。
納得されたかどうか?・・・
またそれからしばらくして、iPhoneの着信があってワイフがネコチャンズの写真を送ってくれた。何気に物憂げな彼等の後ろ姿に、今のボクの心情を見た気がした。

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喜心・老心・大心 

2018/08/10
Fri. 23:50

世間は夏休みとかお盆とか、夏の行楽が本格的になっているから、きっと石見銀山も観光客で賑わっていると思う。
万善寺の一人暮らしがメインになってもう3週間ほどは経っただろうか・・・

棚経が始まって、しばらく暖機運転が続いて、10日も経ってアクセルを踏み込む頃になった。
これからお盆が終わるまでに、琴引山を中心に、北から西を経由して南に向けてU字に広がる農村地帯から三日市を中心にした町家にかけて点在するお檀家さんを廻ることになる。
農村地帯はやはり農家が多くて、時々夏野菜をお供えに頂くことがある。
昔は、行く先々で手提げ袋やダンボール箱いっぱいの野菜を頂いて、自転車の荷台へそれらを積んだりハンドルへぶら下げたりして、棚経を終わって寺へ帰って参道の坂道を登る頃はフラフラになっていた。
ひと夏ではとても食べきれないほどのお供えを頂いて、殆どが漬物になったりしていたこともあったが、今ではそれも全部合わせてビニールの買い物袋ひとつ分ほど集まるかどうかくらいに激減した。
それでも、オヤジの一人暮らしには十分な量で、8月の初旬に頂いた野菜はお供えしてもお盆まで保たないから、とにかくアレコレ工夫して有難く胃袋へ収めることにしている。

お供えの頂き物は、自分の都合に合わせてスーパーで好きなものを揃えるわけではないから、基本は煮しめか野菜スープになる。
煮しめは母親の手料理で散々食べさせられたから、今更自分でつくろうとは思わない。
手っ取り早いのはスープにしてタップリと作り置きすること。
野菜のエキスを出しきって、コンソメベースのスープにしたものをタッパーウェアへ移して冷蔵庫で冷やしておくとサッパリしてなかなか美味しい。
ちなみに、刻んだ各種野菜は土鍋で煮込む。今回はサバの水煮をブッ込んでみた。
土鍋は、熱保ちが良いし、野菜のエキスが土鍋に染み込んでくれるし、何より、1年中使い続けることで、鍋に染み込んだ煮汁がカビにならなくてすむ。

現在の日本に残る日本食の作法は、ザックリいうと曹洞宗開祖道元禅師さまの教典が起源になるところが多い。数多くの修行の重要なポイントの一つとして、食事の心得が重要視された。器の上げ下ろしや、食材に対する心構えなどが「典座教訓」に記されてある。
典座(てんぞ)とは、料理長坊主のことで寺院僧堂の要として高位の役職になっている。
「喜心・老心・大心」を心得て料理に望む重要が説かれてある。

喜心は、食材に対しての感謝と料理を作ることの喜び。
老心は、作る料理への愛情とおもてなしができることの喜び。
大心は、料理を通した作る人と食べる人の気持の通じ合う喜び。

私の場合、自分でつくって自分で食べているわけだから、まぁ、自分の1日の坊主業に対しての慰労でもあると思って、セッセとつくっては食べ、そして、一杯また一杯・・・となるわけで、この一杯の喜びは何にも代えがたいもので、健康のバロメーターでもある。

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施食会荘厳の日 

2018/08/09
Thu. 23:16

おばあさんは子守をしながら朝夕は外に出て境内の草取り。
おかあさんは田や畑の世話で1日過ごす。
おとうさんは朝早くに自転車で出かけると夕方まで棚経。
少年は午前中の涼しい間に夏休みの宿題などを済ませ、午後は昼寝。
夕方におとうさんが帰宅するとみんなでお墓参り。

昭和の高度経済成長期直前の万善寺のひと夏は、だいたいこのような毎日が繰り返されていた。
寺は、お盆が1年でいちばん忙しい。
この夏の毎日のスケジュールは半世紀の間、大きな変化もなくだいたい同じように繰り返されている。
私が、寺を留守にしていたのは学生の頃の約10年間。
その間に、9日に決まっていた万善寺の施食会が18日の大般若経転読会へ日程移動した。
それと同時に、趣旨の違う2つの法要を午後からの半日へ詰め込むことになって、とても窮屈で慌ただしい法要が進行するようになった。

おばあさんが亡くなってから庭の草取りの1部が少年のボクの仕事になって、残ったところはおかあさんがセッセと除草剤をまいた。
おとうさんが50ccバイクの免許をとってから、それまで乗っていた自転車がおさがりで少年のボクにまわって、同時にボクの棚経範囲が一気に倍増した。
寺を留守にしている間におとうさんが病気になって、ひと夏ほど棚経をすべて一人で済ませた。
それが契機になって、その次の年の春に自動車免許を取得した。
ワイフと結婚して島根へ帰省してしばらくして、おとうさんはおじいちゃんになって棚経が趣味に変わった。その趣味の棚経専属ドライバーがワイフ。こころやすい家に上がり込んで、お経を終わって茶飲み話が終わるまで、ワイフはジッと車で待機していた。

やがておじいちゃんが寝たきりになって仏事全てがボクの仕事になって住職に昇格。
おかあさんはおばあちゃんに昇格して孫の相手がはじまり、ワイフは棚経専属ドライバーからおばあちゃんの家事助手に配置換えとなった。
子供たちが成長してワイフの子育てが本格化して忙しくなると、万善寺の掃除洗濯から、ジジババの食事や台所と日常家事がボクの仕事になった。

そして現在、万善寺の内外表裏一切合切の80%がボクの仕事になった。
残りの殆どをワイフが手伝ってくれて、ほんの少しだけじゅん君が助けてくれる。
9日は施食会が移動してから本堂荘厳の日になった。
今年は、じゅん君が数時間ほど手伝ってくれて、それからザッと境内の草刈りをして帰っていった。
猛暑が続いているから、じゅん君の手伝いがとても助かった。
綱渡りのような万善寺経営がこれから先何時まで続けられるか、年々不安が増している。

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坊主ダウン顛末記 

2018/08/08
Wed. 23:31

病院嫌いの私も、ついにダウンした。
連日の熱帯夜で、キチンと眠れているのかわからないまま、気がつくと寝返りばかりしていたり、扇風機のノイズが気になってしょうがなくなったり、そうこうしていると冷蔵庫のモーターが回り始めたりと、そういうことが一晩中続いていることを、延々と記憶している。
・・・ということは、結局熟睡できていなくて、それがそのまま体力の浪費に繋がって朝から始まる棚経に影響することになる。

今朝も、あまり良く眠れないままひと晩を過ごして起床することになった。
アチコチの窓を開けたり玄関を開けたりすると、一瞬夜のうちに冷やされた外気が室内へ流れ込んでくるものの、結局すぐに部屋がかき回されて不快に生ぬるい澱んだ空気に変わって充満する。
毎日10回以上同じお経を繰り返し読み続けながら戸別訪問して回っていると、最後の方は息も絶え絶えになって動悸が激しくなる。それでもいつもは我慢して最後の家でお経を読み終わるまで続けるのだが、今日はそれが特にいつも以上に辛かった。
それで、寺へ帰るとすぐに改良衣も脱がないまま近所の病院へ電話して受付へ症状を伝えると、まだ受付できるからすぐにいらっしゃいと言ってくれた。

受付を済ませて窓口へ診察表を提出するとすぐに呼び出しがかかって、体重や血圧の測定がされた。
しばらく待ってドクターの診察を受けた。
心電図と胸のレントゲンと採血の指示が出て、看護師さんに誘導されながらぐるりと一巡したあと、結果が出るまでしばらく待ってからまた診察室に案内された。
ドクターが渋い顔でデータを見ている。
「結果から言いますと、あまり良くないですね・・・検査をもう一つ受けてもらいたいんですが時間は大丈夫ですか?」
そんなふうに云われても「ダメです!」とか「イヤです!」とかこたえられるわけでもないし、「はぁ〜〜、まぁ〜〜〜、いいですけどぉ〜〜〜・・・」ということになってまた検査室へ移動して、はじめて断層写真を撮った。

結局、いろいろ検査をしたものの、現時点で何が原因であるか特定までには至らなかった。分かったことは、心臓の動きが一般的でなくて癖があるということ。今朝は異常に血圧が高かったから、動機が激しかったのはそのせいだろうということ。胸の何処かの血管に異常があるか調べたが今の所そういう箇所を発見することは出来なかったということ。胸から背中にかけての痛みは筋肉痛であるかも知れないということ。だいたい、そんなところで診察の結果が落ち着いた。幾つか薬をもらって軽く1万円札が消えていった・・・
寺へ帰ると、お昼はとっくに過ぎていたが、食欲がまったくない。
室内は相変わらずモヤァ〜っとしていて、汗が身体中からにじみ出てくる。気分転換にシャワーを使ってみたがどうもサッパリしないから、今夜は吉田家へ帰ってみることにした。ワイフやネコチャンズを見れば、少しは気が晴れるかもしれない・・・

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境内放置 

2018/08/07
Tue. 23:17

たまには気持ちを切り替えようとインターネットラジオを探って、朝からハワイアンを聴いた。
あいかわらず猛暑が続いているが、不思議なもので常夏の国ハワイやその周辺の音楽を聴いていると、猛暑の現実を自然に受け入れることができているような気がする。
単なる錯覚だけのことかも知れないが、今の自分にはそれなりに身心冷却の効果があるような気もした。

すでに完成している映画の公開待ちの間に原作を押さえておこうとAmazon経由で注文しておいた「日々是好日」の文庫本が届いた。
本にはたいへん失礼なことと思いつつ、朝に夕にトイレ読書を続けて、もう半分くらいまで読み終わった。
今年は寺の境内を「放置したままひと夏を乗り切ってみても良いかな?」と、なんとなく身勝手に決めてしまったようなところがあって、その結果、庫裏の西側一帯へみるみる雑草が生い茂って、裏山との境界が曖昧になっている。
スズメの集団が1日に何度も巡回して古古米をつついているし、時々は山鳩のツガイも古古米の器へ頭を突っ込んでいたりする。
まだ、庭の面影が残っていた頃は保賀の谷の鳥たちも遠巻きに私の行動を確認する程度だったが、最近はしだいに図々しくなって、西陽を浴びながら台所で洗い物をしたりしているすぐ窓の外をスズメたちが平気でピョンピョン跳ね歩いていたりして、時々視線があうのが確認できるほど距離が近づいた。

スズメというと、隣町の同宗寺院のご住職が亡くなって1年が経つ。
そのご住職はスズメに食パンを千切って餌付けをされていた。餌付けのヌシが亡くなった今でも、パンがもらえるかも知れないと「時々スズメたちが窓際へ集まってくるんですよ」と、1周忌の法要が終わった後の斎膳の席で無住になった寺の管理をされるお檀家の総代さんが懐かしそうに話していらした。
昼過ぎからそのお寺の施食会手間替え随喜に出かけた。
昨年から住職を引き継がれた息子さんが導師をされて、今年も沢山のお参りがあって賑やかな施食会になった。
息子さんの方は、すでに松江のお寺で住職をされているので、今は兼務寺の扱いになった。前住職の代に本堂や庫裏全て一切合切新築再建されたからとてもキレイで新しいまま空き寺になったことになる。
ガタピシ万善寺と比べてもどうしょうもないことだが、今のように雑草がはびこったりしているとよけいに見た目の差が広がって万善寺のがみすぼらしく見える。
そんな経緯を世間話のようにワイフへしゃべっていたら「今更そんなこと言ってもどうなるもんでもないでしょう!あなたはあなたで出来るようにするしか無いことなんじゃないの?」と、叱られた。
自分としては、別に寺を比べてどうこう思っているわけでも無い普通の世間話のつもりだったのだが、ワイフにはそのように聞き取れなかったらしい。
まさに日々是好日に暮らすことの厳しさや難しさを具体的に感じたしだいであります・・

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もう夏バテ 

2018/08/06
Mon. 23:17

20日過ぎまで続く棚経が始まったばかりだというのに、もうバテて体力が続かなくなりそうだ。

半世紀前の飯南高原は、夏のシーズンに30℃を超える日が5日となかった。西日の当たる縁側でもせいぜい25℃くらいだった。
その程度で普通に暑さにやられてグッタリとダレ切って、昼食が終わると親子それぞれ陽が陰る頃まで万善寺の涼しいところを探しては昼寝をしていた。

前住職の憲正さんは、本堂の舎利殿前が昼寝の定位置で、東西南北の引き戸を開放してゴロリと横になって新聞を見てくつろいでいた。
内室のおかみさんでボクの母親は台所か配膳室の板の間にゴザ枕を用意して大の字に寝ていた。
少年の私は、家族の居間で使っていた6畳が定位置だったが、中学校になってからは西日がモロに入り込む玄関上のロフトで大汗を流してゴロゴロとのたうちまわっていた。
あの頃は、扇風機もなくてもっぱらパタパタと団扇を使って生暖かい風をかき回すくらいしか暑さ対策の方法がなかったのに、それだけでなんとか1日をやりくりできていた。

今年のように、毎日当たり前のように30℃を超えて暑さが続いていると、深夜午前0時を過ぎた頃になってやっと26℃くらいまで気温が下がっただけで涼しく感じてしまう。
島根県の飯南高原でこんな感じだから、石見銀山のような谷底や出雲松江のような平地はもっと不快で寝苦しい毎日が続いているのだろう。

現在東京で保育士をしているキーポンが熱中症になった。
子供たちをビニールプールで遊ばしている間に気分が悪くなって、熱を測ったら40℃くらいまで上がっていたらしい。
フラフラになりながら勤務を終わって帰宅して解熱剤を飲んで寝ているうちに少しずつ熱も引いて翌朝には回復して、何事もなく普通に勤務に就いたということだ。
さすがに若いと体調の回復も早くて、心配もしたがビックリもした。
私が彼女と同じような状況になったら、間違いなく病院行きで何日か寝込んでしまっただろう。
フロリダのノッチからSNSで写真が届いた。
あちらは日本より赤道へ近いから暑さもかなりのものだと思うが、写真ではいたって健康そうに見える。日本とは猛暑の質が違っているのかも知れない。

このところ、万善寺の単身赴任が続いているからワイフと電話で話した。
吉田家のネコチャンズが暑くてバテているかも知れないと心配したが、そうでもなくて普通にしているらしい。シロはこの暑さなのに、吉田家ロフトの明り取り窓の真下で一日中寝ているらしいし、クロの方はロフトの真下の1階の畳の部屋に置いてある除湿機の裏の狭いところをワザワザ選んで潜り込んでいるらしい。
猫はけっこう暑さに強いようだ。だから寒さに弱くて冬には炬燵で丸くなっているのか・・・

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曜日の感覚 

2018/08/05
Sun. 23:15

石見銀山の自宅を出発して、太陽光発電のプレートが広がる丘を過ぎて谷を一つ越えた先は牧場で、今は牛の飼料用のとうもろこしが少しずつ穂を出し始めている。
銀山街道はその牧場の真ん中を登りきったところから次の谷へ下る。
谷の中程を流れる小川の両側には田んぼが広がっていてそろそろ稲穂が色付き始めている。このようすだと、今年はお盆前に稲刈りが始まりそうだ。
小川が大きく右へ蛇行するところで銀山街道の旧道は山に入って、今の整備された街道から逸れる。
そこからしばらく川沿いの道を走るとトンネルが幾つか続く。
2つ目のトンネルを出たらタンクローリーが向こうからゆっくりと登ってきた。
今日はじめて車とすれ違う。
いつもなら早朝のこの時間だと何台もの通勤車とすれ違うが、日曜日の朝は静かなものだ。
3つ目のトンネルを過ぎたあたりで街道の真ん中をカラスが1羽ピョンピョン跳ねて歩いていた。なかなか飛び立たないのでブレーキを少し踏んだ。
4つ目のトンネルに入るまでに、すれ違った車は4台だけだった。
夏休みに入って8月最初の日曜日の朝は気味悪いほど静かだ。

万善寺に着くと、朝食抜きですぐに改良衣へ着替えて棚経へ出かけた。銀くんを走らせながら昨夜のイワシとアヒージョを思い出していた。久しぶりのワイフの手料理だった。
午後からは臨済宗寺院で施餓鬼の手間替え随喜がある。棚経から帰ると昼食抜きで汗になった着物を洗濯しつつシャワーを浴びる間に空腹を忘れた。

本来、寺の仏事はカレンダーの祝日のように縁日を基準で動くから、お盆の間など特に曜日の感覚が鈍って今日の日が何曜日なのかわからなくなってしまうことがある。
今朝も銀くんを走らせながら、すれ違う車があまりにも少ないので、今の自分が何処か別の世界に紛れ込んでしまったのだろうかとドキドキして不安になった。
日本へ曜日の定義が定着して、行事予定の原則を曜日を基準に決めるようになったのは、いったい何時頃からなのだろう?日曜日は「sun」で太陽、月曜日は「moon」で月・・・この2つはだいたい想像着く。あとの火曜日から金曜日まではどうせ、西洋の神様とか何かが語源になっているのだろうがまったく想像できない。
坊主の場合は・・・というより仏教の場合は、インド北部で誕生のお釈迦さまから始まって、少しずつ東に移動しながらアジア圏へ広がった過程で、中国の易学にある六曜や七曜が曜日の基準に使われはじめた可能性が高い気もする。

いずれにしても、日曜日の早朝の世間の静かさには今更ながら、曜日で動く社会の常識に気付かされた気がする。そういえば、私の少年時代は三日市も両隣の町も、田舎町は何処も日曜日に営業しているところは無かったし、それが当たり前で特に不便も感じなかった。最近は、仏事法事も土日に入ることが増えて、万善寺でも平日より窮屈に忙しく予定が立て込むようになった。せめて年回法事くらいはもっと祥月命日を大事にしても良いと思うんだけどなぁ〜・・・

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棚経 

2018/08/04
Sat. 23:42

自分の不摂生がすぎているのか、体力が落ちているのか、その両方か・・・
とにかく、身体が上手く動かないし昔の古傷から始まって膝や足首を中心にお尻から腰まで下半身が四六時中痛くて棚経や手間替え随喜がとてもつらい。

万善寺のお檀家さんは、飯南高原から県境を超えて広島県の2軒ほどを含め、とにかく、お経を読むより移動時間のほうが長いことがほとんどで、棚経の効率がとても悪い。
今日は、広島県との県境にある大万木山の島根県側入り口あたりまで30分ほど銀くんを走らせて、午前中いっぱいかけて5軒の棚経をおつとめする。
数年前までは7軒だったが、1軒は介護施設へ入所されて空き家になり、一軒は松江へ家を持たれて転居された。残り5軒のうち、1軒はおばあさんが亡くなってからあと空き家になったが、近所に暮らす娘さんが棚経の日は玄関を開けてお仏壇の準備をされている。その空き家にあるお仏壇には、その家の初代から4代までのお位牌さんがお釈迦様の両隣へ安座されてあるが、次の年回法事が済んだところで万善寺の舎利棚殿へ預かって永代供養へ繰り入れることになっている。
そんなふうに毎年数軒ずつ棚経の軒数が減っていて、これから先、今より軒数が増えることは100%無い。

棚経の本来の意味というか、役割はどういうことであったかというと、年に1度巡ってくる盂蘭盆会にあわせて、それぞれの家へご先祖様をお迎え供養するための棚を縁側に用意して、いつもはお仏壇でお釈迦様と一緒に安座のお位牌を遷座し荘厳を整え、雲水修行中や近所の方丈さまにお経を読んでもらうことで、ご先祖さまの御蔭をもって今の自分が生かさせていただいていることの感謝を伝えるという趣旨が隠されている。
だから、棚経のお宅には、必ずその家のご先祖様がお仏壇に安座されていることが必須の条件となる。そもそものお仏壇は、ご先祖様の安座されるお宿的役割である以前に、御本尊様に安座していただいてその家で暮らす全てのモノをお守りいただくための心の支えの聖域としてある。だから、例えば分家新築でまだお葬式のない家にも仏教徒であれば、まずはお仏壇を用意して御本尊様をお祀りして荘厳を整え、朝夕に御本尊様をお参りするコトが至極当然の常識であるわけだ。

俗説か通説かよくわからないが、棚経は時の政権から命を受けた坊主が隠れキリシタンのあぶり出し作戦としてはじめたというようなことも云われているらしい。そういう密命を坊主が受けて従った時点で、宗教家思想家としての立場を自ら捨てて政権に身売りしたことにもなるわけで、そういう信心の根本を全うできなくなって俗に染まった坊主もかなり沢山いたということなのだろう。
門前どころか門内の小僧から始まった価値も重みも無い私のような家業在家坊主の仏教観で偉そうなことなど言えるわけもない。静かに目立たないように波風を避けて慎ましく職業坊主の毎日を乗り切るだけのことだが、特に毎年夏の盆月はいつも以上に坊主の付き合いも増えて気持ちが沈んで無意識に顔が曇る。たまに石見銀山へ帰ると、ワイフが敏感にそれを感じてすぐに気が高ぶったりするものだから、よけいに落ち込む。彫刻の工場がもう少し近くならそちらへ逃避も出来るのだがなかなかそうもいかない・・・

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地獄の夏 

2018/08/03
Fri. 23:58

盆月に入った。
飯南高原では8月中頃のだいたい13日から16日がお盆になる。
万善寺の場合は、昔、17日の観音様ご縁日にあわせて法要をしていた関係で14日からお盆がはじまる。17日のお盆最終日の夜に観音様の供養法要と塔婆回向があって、地域の皆さんがお寺参りをされて各家のご先祖様とか古墓一切の供養塔婆をお坊さんに読み上げてもらうことで、お盆行事の締めくくりをしたあと、導師さんのお説教を聞いたり境内で盆踊りをしたりして夜遅くまで賑やかに過ごし、次の18日は大般若経転読会の法要にお参りして大般若経典の風を全身に受けて身体安全を祈念するという、お墓やお仏壇の掃除や準備からお供え物や荘厳の後片付けまでほぼ1週間のお盆行事を毎年繰り返していた。

盆月は、棚経の月でもある。
棚経とはどういうことかと云うと、諸説諸々、地域や宗派の違いでまた違ったりと、定説が決まっているわけではないが、万善寺的棚経は、歴代住職からの口伝を引き継いでの解釈として自分の代まで言い継ぎがされている。
嘘か真か、そのあたりの万善寺的定説の真意まではわからないが、私がまだ小学生だった頃に前住職の憲正さんが聞かせてくれたことを薄っすらと思えていて、おおよそ聞いた話の大事なところだけは忘れないように引き継いでいるつもりだ。
簡単に云えば、坊主的立場での解釈と在家的立場での解釈があって、それぞれの都合が程よく絡み合うように気をつけておけば、宗教的摩擦も起きない上、気持ちのすり合わせが出来て平和でいられる・・・というようなものだから、それぞれお邪魔した先では、「こんちもさいなら」で簡単にお経を読んで「サッサと帰ってしまうようなことが無いように!」することが大事だと云われていた。
そんなことを云われても、小学生の子供が大人相手に流暢に世間話など出来るわけもなく、行く先々で出されたお菓子やお茶やジュースなどを食べたり飲んだりするくらいのことしか出来なかった。だから、棚経がはじまって3日もすると腹具合が悪くなって、体調が悪いままお盆が過ぎるまでそれが続くという、地獄の夏休みになっていた。そんなことが、中学校になっても高校生になっても、大学生になっても、ひたすら毎年繰り返されて、この歳になるまで地獄の夏が絶え間なく続いている。
高校生の時はそれなりの反抗期も加わって、棚経の先にかなり不快な思いをさせたと思う。上京してアルバイトをしながら10年一人暮らしを続ける間に、少しずつ世間の厳しさもわかるようになって、気持ちが少し丸くなって、棚経のお茶飲み話も前よりは間が保てるようになった。Uターンからあとは、前住職の持者を兼ねた棚経に変わって、それからしばらくして、副住職の役目になって、それがそのまま住職になってからあとも変わらないまま続いている。今は宗派を超えて一夏で100軒ほど棚経をつとめている。昔、中学生になって通学で自転車へ乗れるようになってからは、憲正さんと手分けしながら200軒以上を回っていた。だいたい半世紀の間に棚経が半減するまで過疎化が進んだことになる。

毎年8月3日は、広島の原爆で家族を亡くした施主家へ伺う。その日が広島で被災されて亡くなったご本人の誕生日なのだそうだ。

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猛暑の朝 

2018/08/02
Thu. 23:22

朝の涼しいうちに棚経案内を配り終わろうと思っていたら、飯南高原の現状はそれほど甘くなかった・・・
寺を出発したのは午前8時過ぎ。農業地帯だとはいえ、朝があまり早いと迷惑になるかも知れないから、それなりに遠慮しているわけなのだ。
それで、あらかじめ夜の涼しい間に夜なべして印刷しておいた棚経案内を地域ごとに仕分けして出発したのだが・・・なんと、国道沿いの温度計はすでに32℃!
もう、この時間で30度超えというのは、ボクの人生で経験がない。

この続いている猛暑は飯南高原や石見銀山や島根だけのことでなくて、キーポンが暮らす東京も朝夕の通勤がすでに我慢出来ないほど暑いらしい。
日本全体が自分の体温並みに暑くなっている時点ですでに異常気象だ!・・・と思っていたら、ヨーロッパでも猛暑で森林火災が発生しているし、大きな氷山が崩壊して津波のような大波が海辺の集落を襲っているところもあるようだ。

「毎日暑いことで・・・」
珍しく家先で朝から外仕事の奥さんに案内を手渡した。
「まぁまぁ〜、暑いですねぇ〜・・・うちのおばあさんがこの春から徘徊をはじめまして、家を開けられなくなってしまいましたぁ〜」
案内を受け取りながら近況の世間話が始まった・・・
話題のヌシのおばあさんは、随分前に若くして旦那さんが亡くなって、それからしばらくして早期退職された息子さん一家が帰省されて、おばあさんと同居された。
家族みんな畑仕事が趣味で、精力的に野菜や花を育てて近くの道の駅に出荷するなどしていらしたが、それからすぐに息子さんが病気で先立たれ、今は嫁と姑の二人暮らし。
まだ元気だったボクの母親も畑仕事が趣味のようなものだったから「せっかくあれほど沢山野菜作ってるんだから○○さんのように、道の駅に出荷でもしてみたら張り合いも出来るんじゃないの?」とそのお宅を例えに勧めてみたりもするほどだった。
母親の方は、息子の提案を完全に無視して、自分が育てた野菜を毎日毎日飽きもせず煮たり茹でたり炒めたり漬けたりして、ひたすらセッセと自分で消費するばかりだったが、それでも全て食べつくすことにもならなくて畑の野菜の大半はそのまま腐って雑草の肥やしになっていた。カラスやイノシシが毎日のようにつまみ食いをするものだから、母親はヨチヨチ歩きながら網をかけたり柵を回したりと必死で彼等を撃退する策を練っていた。
おばあさんの徘徊話を聞きながら、ボンヤリと母親のことを思い出していた。

おばあさんの認知症による徘徊はかなり重症でデイサービスや病院でも手に余って家族の付き添いが必要な状態であるようだ。
「そのうち、奥さんのほうが先にダウンされますよ。気をつけられないと・・」
そのくらいのことしか返事が出来なかった。息子さんが亡くなって、今年3回忌が過ぎた。まだ雪深くてお墓参りが出来なかった。そういえば、息子さんの法事でおばあさんの姿を見なかった。
ボクの母親は元気なまま死んでくれて息子孝行だったと、今更ながらに気付かされる。
いろいろあったけどボクは幸せ者だ。

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2018-08