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工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

肩書 

2020/01/24
Fri. 17:03

そろそろ申告の準備をする時期になった。
頚椎の手術で5週間入院していた時に、時間だけはたっぷりとあったから色々と行く先のことをシミュレーションしていたのだが、退院して現実の世界に戻ってしまうとアレコレ考えていたことなど忘れてしまって目先の事物を片付けるだけで手一杯になった。
申告も、公務員を早期退職して寺の住職と掛け持ちしながら自営業を始めたところで青色申告に切り替えた。それからかれこれ15年位は経っただろうか・・・年齢的には引退をしてもおかしくないから自営業も「そろそろ身辺整理して廃業しても良いかもしれない・・」と漠然と思っていたのだが、なにか具体的に行動することもなく今に至った。

たまたまだろうが、昨年はとにかく寺の用事に忙殺された。
年明け早々から絶え間なくお葬式が続いて入院の日程を調整することにも苦労した。すでに決まっていた法事の日は動かすことが出来ないから隣町のご住職へ代行をお願いしたりもした。それでも、万善寺程度の弱小寺は宗教法人の様式に即して申告事務をするだけだからなんとかなるが、自営業の方は収入支出や各種控除から減価償却のことまで例年と変わりなく事務を進めるしかなくて何かと厄介だ。
とにかく何もしないで済ませるわけにいかないから、廃業のことを考えながら自営業関係の身辺整理を始めた。

1年分の関係書類を中心にアチコチへ散らばっていたものを整理していたら随分昔の名刺類がドッサリと出てきた。
そういえば、あの頃はそれなりに営業の努力もしていて名刺交換の機会も多かった。頂いた名刺は、だいたいが公的使用の名刺で有効期限はせいぜい2〜3年程度のものだろうし、顔と名前が一致するものは一握りあるがどうか程度のものがほとんどだったから躊躇なくゴミ箱直行になった。
名前と住所と連絡先がわかればデータとしては十分のはずだが、どれもこれもやたらと肩書が長々と、そして数々と、多い。
京都で交換した○○寺のご住職はすごい名刺だった。
普通の名刺サイズの横が2倍になっていて、裏表4面にビッシリと様々な肩書が列記してあった。その名刺をもらったときも「そういえば、あのボォ〜さんアレコレと自分の忙しさを強調していたなぁ〜・・・」と顔までは思い出せなかったが、その時の映像はボンヤリと浮かんできた。

さて、自分の肩書というと・・・いったい何なのだろう?
「これいったい何ですか?」と鉄の彫刻を指差されると「彫刻家」と言っているし、着物の時は「坊主」とか「住職」とか言っている。
名刺には、自分の名前に添えて「島根県彫刻振興委員会」と「工房むうあ」は石見銀山の住所連絡先、「龍雲山万善寺」は飯南高原の住所と連絡先をそれぞれ載せていて、「彫刻家」とか「住職」とか職名は無い。何をやっていても「ボクが吉田正純です!」とわかってもらえればそれでいいと思っている。
それにしても気がつけばいつの間にか名刺交換の機会など全く無くなったなぁ〜・・・

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リーダーの魅力 

2020/01/23
Thu. 11:23

寺暮らしが続いている間に、石見銀山の吉田家へ会報が届いていた。

昨年1年間で委員3人が逝かれて彫刻部の組織も入れ替わりがあった。
その3人の委員諸氏にはまだ彫刻部へ一般出品していた頃から随分とお世話になったし、彫刻のことで厳しくも優しくたくさんのことを教えてもらった。
今までもなんとなくボンヤリと思っていたことだが、この頃になって改めて「ヒトにモノを教えたり伝えることは難しいことだ!」と強く思う。
答えが決まっていることであれば、その答えに到達するまでの過程を一つ一つ丁寧に解説すればなんとか理解してもらえるかもしれないが、彫刻のように解釈や技工切り口やテーマや嗜好や、とにかくいろいろなものがそれぞれに違ってまとまった一つの答えを用意することが難しいモノは、その壁というか敷居というかバリアというか、それをこちらから軽く越えるということが難くて躊躇して、結局さり気なく曖昧に抽象的な言い回しなどして核心をボカシたりしてしまう。

委員のY氏は塑像の具象彫刻家で、表現の隅々まで気遣いの行き届いた破綻のない力強く且つたっぷりとした量感のある造形が人の心を引きつける包容力のある彫刻になっていた。出会ったのは35年以上前のことで、彫刻を始めたばかりの私にとっては雲の上の存在だった。まだ上野の都立美術館で展覧会があった頃、展示陳列作業が終わった後の懇親会の席がたまたまY氏の近くになって、その時になぜか私が島根の出身だということがわかっていたようで「ボクは尾道の出身です」・・・的、感じのことを話していただいて、その一言で一気に親近感をもった。あの頃は抽象の事ばかり考えてソレの工夫しかしていなかったから彫刻上の接点は殆どなかったが、毎年Y氏の彫刻を拝見する機会を得られるということが自分にとっての彫刻制作と公募展出品や入選の励みになった。

O氏のアクリル彫刻は、当時から異彩を放っていて彫刻のジャンルを無理矢理定義付けることが馬鹿らしいほどに思える唯一無二の彫刻だった。若造の吉田相手に懇親会の2次会まで誘っていただいてとても気さくに接していただいた。自分には彫刻のことよりむしろその「彫刻」という表現領域を世間社会へ広く浸透周知されるための営業力も大事な表現活動であるということを教わった気がする。とにかくグローバルで視野の広い彫刻家であった。私が小品彫刻展をコツコツと続けていることの意義というか根拠というか、そこには少なからずO氏の影響があるのかもしれない。まぁ、ボクのしていることは桁外れのスッポンだけどね。

若造の吉田にとってK氏はとにかく恐ろしくて怖くて近寄り難いオーラを発散される彫刻家であった。そういうこともあってか、結局彫刻のことで踏み込んだ話を聞く機会を逸したままに過ぎたが、彼の木彫は大小ことごとくノミ跡が冴えて力強く魅力的であった。ダメ元で小品彫刻展の出品要項を送付したらあっけなく快諾を頂いて、以来、高齢で制作を休止されるまで連続出品していただいた。今にして思えば、島根の田舎のささやかな彫刻展の活動に付き合っていただいたことは、生涯に渡って彫刻の啓蒙に実践に具体にご尽力された証であった。親子ほども年齢も作家歴も違う吉田の我儘へ付き合っていただいたことに感謝しか無い。

さて・・・吉田という彫刻家はこれから先なにか伝えられるものができるのだろうか?どうなのだろう?・・・

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野生の事情 

2020/01/22
Wed. 12:27

一応、シーズンは冬だからそれなりに寒いことは寒いが、それでもこの時期で境内には雪も無くて過ごしやすい。
晴れることが多くて朝から雲ひとつ無い青空が広がっていると、自分の住み暮らしているところが中国山地の山の中であるということをつい忘れてしまいそうなほど不思議な気候が続いている。

七日参りを二軒分済ませて庫裏玄関前へ銀くんを横付けして仏具などの荷物を取り出していたら、バッタリ黒猫と遭遇して目が合った。猫の方はすでに車のエンジン音で私の帰宅を察していたと思うが、こちらはそれに気付かないでいたから少し驚いた。
黒猫を境内地の其処此処で見かけるようになってからそろそろ半年くらいにはなるが、これだけ近くで出会ったのははじめてのことだ。
目つきも悪いし鳴き声ひとつ聞いたこともないし、私の存在に気付きつつ完全に無視して適度に安全な距離を維持しながら堂々と眼の前を横切るようなふてぶてしさもある筋金入りの野良猫で人間に懐くことなど無いと思っていた。それがこの度は、手を伸ばせば届くくらいの近距離に猫背を丸めて行儀よく座ってこちらを眺めている。
そういえば正月になって連日寺暮らしが続いていると、ほぼ毎日のように黒猫を見かけるようになっていたから、向こうもしだいに人間(・・というより私)へ慣れてきはじめたのかもしれない。

日常の様々な場面で動物(さすがにクマとかイノシシは別だけど・・)と遭遇すると、とりあえず自分の方から挨拶代わりに声掛けをするようにしている。そうすることで、彼らに対して敵意とか悪意を持っていないということが伝わるような気がする。それに、声掛けをするということで彼等の方も「自分はあの人間に見られている・・」ということを自覚して、私という人間のテリトリーを認識して、その領域内で変な悪さをしなくなる・・・と、なんとなくそういう気もするからだ。
カラスに声掛けをするようになってから、お地蔵さんの供え物を散らかして悪さをするようなことがなくなったし、タヌキを見かけたときも声掛けを始めたらそれまで毎晩のようにマーキングウンコをしていた境内のウンコスポットからウンコが消えた。屋根伝いに庫裏の天井裏へ入り込んでいたテンやイタチや一時期本堂の屋根裏で暮らしていたつがいの山鳩も出会うたびに声掛けを続けていたらそのうちいつのまにかいなくなった。

自分の思い込みだけのことかもしれないが、基本的に野生で暮らす連中に対して人間の生活の思惑や都合を当てはめて善し悪しをみてもしょうがないことだと思う。
畑が荒らされたとか田んぼに被害が出たとかテーブルにあったアジの開きを持っていかれたとか、サンダルを片方持っていかれたとか野生にしてみればいつか死ぬ時が来るまでひたすら生き続けなければいけない、何かしら意味のある重要で正直な生存の行動の一つであるだけのことだ。
あの一見ふてぶてしく見える野良猫も、本人(本猫)にしてみれば実に正直に清貧に毎日を生き続けているだけのことで、人間と敵対して生きているわけではない。
そこらへんに蠢く裏表のある人間たちよりはずっと素直で信用できるな、ボクは・・・

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限界坊主 

2020/01/21
Tue. 13:42

久しぶりの風邪からなかなか立ち直れないまま五月雨に続く仏事を粛々と片付けていたら、喉のあたりに咳の残骸がしぶとく絡みついてお経のたびに咳き込んでしまう。
それを我慢しながら法事など片付けて寺へ帰って、お経の間中飲み込んで飲み込んで溜まりに溜まっていた咳を一気に連続で吐き出して、そういうことがしばらく続いた。
そのうち胸の胸骨から肋骨のあたりに張り付いた筋肉へ疲労が出てき始めて、それがしだいに下の方へ下がってきて、今は贅肉でたるみきった腹のあたりへかろうじて残っている腹筋の欠片が咳をするたびにキリキリと痛みはじめている。
いいかげんジジイになった後期オヤジのボクは数年ぶりにこじらせた風邪で疲労困憊、気持ちも肉体もグッタリと萎えてしまって、何をする気にもなれない。

正月から続いていた万善寺の単身赴任をひとまず切り上げて3日位連続で通勤坊主をしていたら、その間にボクの厄介な風邪菌を吉田家でばらまいてしまったようで、それがワイフへ感染ってしまったらしい。
あれこれと家事をしながら鼻水を垂らし咳き込んでいる彼女をみると、なんとも申し訳ない気持ちになって「これはしばらく自分で自分を隔離しておいたほうがいいだろう・・・」と、通勤坊主から再度単身赴任へ切り替えたところだ。
ちょうど月末も近づいて寺務や支払いもいくつか残っているし、寺のアチコチからかき集めた焼香料を握り締めて金融機関を巡回し、風邪で停滞していた年賀状の発送業務などをやっと済ませて、少しヒマができたからこうしてキーボードをつついている。

ファミリーLINEへなっちゃんが中学校廃校の新聞記事を載せていた。吉田家の子供たちが通っていた中学校が生徒減少で廃校になることが決まりそうな様子だ。
日本全体が人口減少傾向にあって、限界集落が絶滅集落になることも当たり前の時代だから、学校の統合や廃校も避けられないことになった。
今から約40年ほど前、私がまだ東京に暮らしていた頃、自分の母校である中学校の廃校が決まって、同窓会の連絡網で校舎の再利用案や跡地再開発案の募集情報が流された。まだ学生で勉強中だったし、Uターンのこともまったく考えていない頃だったから、母校消滅に若干の寂しさとかもったいなさとか、そういう気持ちがあるにはあったが、その時は特にコレといった提案を回答することもなく静観するだけに留まった。
それから今に至るまで飯南高原の行政区では人口の自然減少が続いて、この近年は年間出生は20人以下に留まっているらしい。いまのところ1つの行政区に中学校が2校あるが、出生が現状のままだと、近い将来には中学校の統合が避けられないだろう。

2月には節分立春からお釈迦様の涅槃会があって3月は豊川稲荷初午祭から春彼岸と、年中行事が控えている。万善寺仏事のお知らせを配りながら1年のうちに数回ほど飯南高原に点在するお檀家さんを巡っているが、昨年1年の間に空き家や絶縁で巡回の戸数が10軒近く減った。数年前は配りものを一巡するのに半日はかかっていたのに、今は2時間チョットで一巡してしまう。
学校の統合整理が落ち着く頃には、当然寺院の統合整理も加速しているはずだ。
職業としての在家坊主で生活するには、そろそろ限界を越えて絶滅に近づいているナ・・

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保賀のとんど祭 

2020/01/13
Mon. 23:08

とんど祭の朝は雪になった。
昨晩は久しぶりに冷え込みがキツかった。
生温い冬に慣れていた身体が深夜の冷え込みに耐えられなくなって目が覚めたら、それから眠れなくなった。

すでに前日には万善寺の各所からしめ縄を降ろして一年分溜まった御札や祈祷や回向の塔婆などを集めてある。お焚き上げには歳徳大善神さま以下、八将神さまや地鎮や家内諸々の神仏さまを一つにまとめて墨書きしたものを一緒に添えて天と地にお返しする。その半紙もすでに焼香用の角香炉と一緒に用意してテーブルへ置いてある。
眠れないままもう一度それらを確認して、それから火鉢の炭をつついて豆炭を補充して布団へ潜り込んだ。

とんど祭当日が新年になって初めての雪かもしれない。
襦袢にホッカイロを貼り付けて白衣や大衣を着て保賀の集会所脇に設置したとんど祭の祭事場へ出かけると、すでに自治会のみなさんがほとんど全員集合して万善寺の到着を待っていた。祈祷のお経を終わって回向を済ませてから一人ひとりの皆さんへ大般若の風を当て身体安全怨敵退散を祈ってとんど祭仏事が終わった。
保賀の谷では、仏式のとんど祭が前住職から引き継いで毎年恒例の行事になっている。

「○○さん、チョットお聞きしますが、お宅の方で黒い猫を見かけることはありませんか?」
「あぁ、そう言われると何度か見たことありますなぁ~」
「△△さん、お宅の近所に猫がウロウロしていませんか?」
「あぁ~、黒いのが歩いてるのを見ましたねぇ~」
「そういえば去年の冬になってからうちの座の下で鳴いてましたねぇ~、ありゃァ~サカリのついた声だったなぁ~」
半年ほど前から、寺の境内地で黒猫を見かけるようになったから、とんど祭が終わってから始まった保賀の新年会の席で近所のご主人へ猫の目撃情報を聞いてみた。幾つか集まった情報を総合すると、その黒猫はかなり広範囲を移動していることがわかった。
保賀の地内には、万善寺を始めとして山王神社の祠とか空き家が適度な距離をおいて点在している。どうやら、その黒猫には都合の良い徘徊の基地が出来ているらしい。
「何処かの飼い猫じゃないの?」とワイフは云うが、この数ヶ月のうちに何度も目撃していて、その時時に「ネコチャン!」とか「おはよ!」とか声をかけて目も合っているのに「一度も鳴き声を聞いたことがないから、アレはやっぱり野良猫だよ。飼い猫の経験はないナ!」と、自分は思う。
まだ秋が始まったばかりで残暑が残っていた頃、玄関や縁側を開け放していたら、黒猫が座敷へ上がってきたことがある。そのまま悪い癖がつくと始末が悪いから、それでとにかくその猫を見るとこちらから声をかけるようにしている。
新年会の帰り、庫裏玄関脇を黒猫がサッと横切った。
「アイツは、人間に懐くことは無いな!」と思う。適度な距離をおいて、自分から決して目をそらさない仕草が筋金入りの野良猫だ。私としては悪さをしなければソレでいい。

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冷たい雨 

2020/01/08
Wed. 23:12

年末にじゅん君が風邪をつれて吉田家へ帰省した。
それから大晦日で除夜の鐘を撞きに万善寺へ来て正月3日の早朝まだ暗いうちに吉田家へ帰って週明けの仕事始めまで過ごした。

彼が一人暮らしを始めてからそろそろ15年くらいにはなる。
その間に、元々じゅん君の部屋を妹たちが代わる代わる模様替えしながら使いまわして、その後少しの間ワイフの部屋にもなっていたが、やがて家中のいらないものを詰め込んで物置になった。
長女のなっちゃんが子供を連れて帰省することが決まってから、彼女と子供の寝起きする部屋が必要になったので、しばらくぶりに日常使用ができるように物置を片付けてみるとロフトに1つとワイフの彫刻制作部屋の隣に1つの2つほど昔のようにひとの暮らしが出来るほどの部屋に戻すことができた。
少しずつ寺暮らしのほうが増えてくると、長い間使い続けていた吉田家四畳半のボクの事務所部屋が機能しなくなって、いつの間にかワイフとシロちゃんの寝室に変わった。それで居場所を失ったボクは、夏は涼しいところ冬は少しでも暖かいところを探しながら吉田家の各所を点々と移動しながらジプシー暮らしをしていたのだが、物置を片付けてからやっとオヤジの寝室兼用事務所部屋が吉田家ロフトへ復活した。

その復活したロフト部屋は元々じゅん君の部屋で、彼が高校を卒業するまでの青春期のさまざまな反抗の痕跡がそのまま残っている。年末年始を彼は数年ぶりに大量の風邪の菌をばらまきながらその部屋で過ごした。
それが原因かどうか分からないが、だいたい風邪をひくことがないボクが10年ぶり位に大風邪をひいてしまった。久しぶりの風邪はそれはそれはヒドイもので、ノドは痛いしハナは詰まるし、熱が出なかったのがせめてもの救いだった。
ちょうど、風邪で一番つらかった時に葬儀が重なってしまった。
とにかく、なんとしてでもキャンセルできないことだから、フラフラしながら納骨までつとめて一段落して「コレで少しは休めるぞ・・」と一瞬思ったのだが、まだ昨年末からの七日務めが引き続いていることを思い出した。

寺の用事の合間を縫って風邪薬をもらいに病院へ走った。「それじゃぁ、総合感冒薬を出しておきますから・・コレ、眠くなりますから車の運転は控えてくださいよ」と、念押しされて1週間分の薬をもらったのだが、吉田家からの通勤坊主や寺の用事で銀くんを運転しないわけにいかないから、結局まともに薬をのむこともできないまま1日を過ごし続けて今に至った。
まともに夜も眠れないまま、この数日過ごした。年始のカレンダーも発送作業が頓挫したまま三連休に入って、最終日は保賀のとんど祭で朝からお経を読んで、午後からは年始会が始まる。
今年は雪もなくて春めいた暖かい過ごしやすい日が続いていたのに、とんど祭を前にしてもう冷たい雨が降りはじめた。風邪薬で少しほど持ち直した体力がこのまま年始会が終わるまで保ってくれるかどうか少々心配だ。次の日はまた7日務めが巡ってくる・・・

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背中が熱い 

2020/01/07
Tue. 23:20

「夕べ7℃でしたよぉ〜。あたたかいですがぁ〜・・」
お通夜のはじまる前にお茶を用意してくれたお手伝いの奥さんがそう言っていた。
確かに、この2・3日は雨は降っているがあたたかい・・・というより、雨が降っているからあたたかいといったほうが良いのか??・・・とにかく、なにか、とてもおかしな冬だ。
「わたし、嫁に来てから雪のない正月はじめてですぅ〜・・」
お手伝いの奥さんよりどう見ても年上だろうボクでも覚えがないことだから当然のことだ。
「昭和38年の豪雪の時は、うちの方でも2階から出入りしてましたけぇ〜ねぇ〜」
「そぉ〜そぉ〜、寺も本堂の屋根から参道まで雪がつながってスコップをソリにして遊んでましたもの」
「もう、あれくらい降ること無いでしょうねぇ〜・・、ありますかねぇ〜・・」
「さぁ〜・・どうでしょぉ〜かねぇ〜・・だいたいに最近はずいぶんとあたたかくなりましたからねぇ〜」
「大万木山がまだ白くないですけぇ〜・・」
この時期のお通夜で雪がまったくないことは副住職時代も含めて経験がない。
夜は冷え込むかもしれないと思って白衣の裏へホッカイロを3個も貼り付けておいたのだが、全く効果がなくてむしろお経を読んでいる間背中が熱いくらいだった・・・

節分の前後にやってくる節分寒波があるから、それなりに雪の覚悟はしておかなければいけないことだが、それにしても楽な冬の葬儀になった。お手伝いの自治会の皆さんも助かっていることだろう。
亡くなったおばあさんのご主人は、電工さんだった。
私がまだ小学生だった頃はまだご主人もお元気で、万善寺のお年始会へお参りもされていた。それこそ、昭和38年の豪雪前後のことだから、毎年のようにものすごい量の雪が降っていた時代だ。
子供ながらによく覚えているご主人のお話がある。
たまたまのめぐり合わせなのだろうが、それからずいぶん経って私が学校の先生を早期退職する少し前に、別の電工さんから同じ話を聞いた。
「若いヤツはとにかくヤルことがザツだから危なくて見てられない。一つ間違えば自分の命が無くなるような危ない仕事をしているという自覚が薄いから、よく怪我もするし、すぐにバテてアゴを出す!」・・・というような内容のお話。
電工さんといっても色々な現場の仕事があるだろうが、いずれにしても高所での作業もあるに違いない。万善寺は山寺だから、昔は周辺に山仕事の林業従事者も多くて、植林の間伐材の下敷きになったり枝打ち作業中に転落したりと、仕事中の事故で亡くなる方も多かった。年回の法事を繰り出すときも何人か事故死があって、みなさん若死にだ。ちょっとした気の緩みがあったのかもしれない。
このたびのおばあさんは、30年も前にご主人を亡くされていたが、そのご主人は病死だった。それからまだ小さかったお子さんを女手一つで立派に育てられた。荼毘のお別れのすすり泣きにつられて、不覚にもお経の声が少し震えた。

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不戯論 

2020/01/06
Mon. 23:19

冬の雨は、冷たいと云うより暖かく感じてしまう。
いつもなら雪になってもおかしくない今の時期に、夜中暴風雨が吹き荒れて眠れなかった。
万善寺の南側は昔ながらのガラス戸が雨戸代わりに建てられている。それが強風にあおられてものすごい音で、耳について耐えられない。
結局、一晩ほとんど眠れないまま夜が明けた。
ワイフが留守番している吉田家のことも心配なので電話してみると、石見銀山も一晩中強風が吹き荒れて、雨もかなり降ったらしい。飯南高原で雨だから石見銀山も雨なのはわかったことで、どちらかといえば風の方が心配だった。
「少し前から目は覚めてるんだけど、シロも一緒にまだ布団から出てないの。ゆうべはあめかぜがものすごくて寝れなかったわよ」
どうやら、石見銀山も似たようなものだったらしい。それにしてもワイフが眠れなかったと云っているくらいだから、かなりの暴風雨だったのだろう。

いつもの朝の用事を片付けていたら、電話が鳴った。
「お母さんが今朝亡くなりました・・」
年が変わって最初のお葬式ができた。
先日、年始回りをした時に、正月早々珍しく庭先に車も無くてひと気がなかったから「子供さんのところにでも行ってお正月をすごされているのだろうか?」とチラッと思ったが、認知症が入って目の離せないおばあさんも一緒に出かけることもないだろうと、その考えは一瞬で消えた。年末に寺の配りもので巡回した時、おばあさんの容態が思わしくないということを聞いていたから、病院の付添で留守なのかもしれないと勝手に理由を決めて納得していたのだが、それが今訃報の知らせを受けて本当のことになった。食事が喉を通らなくて、年越しも病院の点滴が命綱になっていたようだ。
死生観の事は法事の度に繰り返しお話しているからそれなりの覚悟はできていたと思う。
今の施主さんはご主人を先に亡くされ、その後は、おばあさんの介護も目が話せなくて嫁の立場でかなりの苦労だったようだ。
おばあさん自身もご主人を早くに亡くされていて、少年の私が夏の棚経で訪問する頃にはすでにご主人はお位牌さんになっていた。親子二代、男子が短命だったことになる。
雨の中、枕経を読みに出かけた。
お葬式から四十九日までこれからしばらくの間、坊主家業が絶え間なく続くことになって、春の彫刻展に向けた制作の日程計画を少し修正しないといけなくなった。

不戯論~ふけろん~
人の命は必ず限りのあるもの
我身はなによりかわいいもの
自分の利益が他人の不利益になったり・・
自分の行為や言葉が他人を傷つけたり・・
自分の我欲で他人に押し売りしたり・・
精一杯正しく思いやり限りある命を全うしたいものです

10~12月印刷原稿2020

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火鉢 

2020/01/05
Sun. 23:27

万善寺住職の単身赴任が昨年末から続いて10日目になる。
気楽なオヤジの一人暮らしで特に不便や不具合は感じないが、市街地のようにちょっと歩けばスーパーやコンビニがあるというような生活の便利さはないから、食料品の買い物はちょっとだけ計画的に頭を使っている。
お正月前後は夏のお盆の時期より周辺が寒いから生鮮食品の保存が効いてそれで少し助かる。もっとも、今年のような暖冬だと参道の雪の心配もなくていまのところいつもと変わりない日常生活ができて、知らないうちにそれに慣れていたりするのが怖い。
これから2月の節分や立春を迎える。
島根県の飯南高原はちょうどその頃に強い寒気が南下して一気に寒くなって大量の雪が降る。それを乗り越えれば、3月の桃の節句あたりに水分をたっぷり含んだ重たいぼたん雪が降って、その後次第に春めいてきてお彼岸前後のなごり雪が降って消えると、それから一気に春が来る。

1年に2回、半年ごとに香炉の掃除をして灰をふるいにかけて入れ替える。
冬は年末にそれをして大晦日の法要からきれいになった香炉へ線香を立てた。
香炉掃除の時、ついでに火鉢の灰をチェックしたらしばらく使っていない間に湿気を吸ってシットリと固まっていた。
この近年は、厳しい寒波が続いていたので火鉢を使うことがなかった。
強い寒波が来ると灯油やガスや電気ストーブにエアコンや電気コタツと万善寺にありったけの暖房器具をフル稼働させて隙間の多いガタピシ庫裏へ篭って暮らす。
今年のような暖かい冬は電気コタツ1つで昼間を乗り切り、朝夕に灯油ストーブを使うくらいで済むが、一日中コタツに潜ってジッとしているわけにもいかないから、部屋全体をほんのり温めるために火鉢を使う。
暖房効果はそれほど期待できないが、それでも火鉢に炭があると何かと都合が良い。
ヤカンをかけておくとコーヒーやお茶などで直ぐにお湯が使えるし、お餅を焼いたりおでんの鍋を温めたり夕食の寄せ鍋とか湯豆腐とか、そういうちょっとした鍋料理もできる。

「アンタ、火鉢使って一酸化炭素中毒にでもなったらおしまいよ・・大丈夫?」
火鉢など江戸っ子のワイフにとって縁の無いモノだっただろうからその心配もわかるけど、確かに、マレーシア産のバーベキュー炭は使っている木のせいか、それとも炭の焼き具合が悪いのか、庫裏の玄関先までなんとも言えない煙臭さが充満してしまうが、かえって部屋中にそのくらいの炭臭い煙が漂っている方が虫退治にもなって都合も良い。
万善寺は今時の2✕4住宅のように建て付けが良いわけでもないから普通に自然換気で乗り切れているし、昔ながらの日常生活が今に続いて残っているだけのことだから自分はそれほど気にもしていない。
典座寮配膳室には床下に囲炉裏がつくってあって、昔は仏事行事のたびにその囲炉裏を使って煮物などをつくっていた。
今は囲炉裏へ火を入れることは無くて豆炭や炭の収納庫にしている。
これから飯南高原で温暖化が進むと、そのうち冬の暖房を兼ねて床下の囲炉裏が再稼働するかもしれない。

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おばあさんの正月 

2020/01/04
Sat. 23:02

飯南高原は正月4日の夕方になって令和2年の初雨が降った。
前日に引き続いて年始参りに欠席されたお檀家さんを巡ってお年始のカレンダーと年回のお知らせを配っていたら、そろそろ日が暮れる頃になって銀くんの窓ガラスにポツリポツリと雨が落ちてきた。
この時期に雪ではなくて初雨になることはとても珍しい・・というより、自分の記憶にはなかったと思う。
国道に撒かれた融雪剤は、雨や雪も降らないまま通り過ぎる車の轍に粉砕されてパウダーになって風に舞っている。国道沿いに暮らす人達は外に洗濯物も干せなくて大変だろう。いつものように雪でも降れば今度はシャーベット状に溶けて跳ね散った雪をかぶることになるし、いずれにしても過酷な冬の暮らしぶりにそれほど大差はないようだ。
すっかり暗くなって寺へ帰った頃には雨が本格的になって風も少し出てきた。

東京暮らしの吉田家三姉妹が、ワイフの実家でいつもは一人暮らしのおばあちゃん家へ集まってくれた。
あとになって家族LINEで送ってくれた写真は曾孫も一人増えてずいぶんとにぎやかで楽しそうな様子だ。私の親族でおばあちゃんだけが曾孫をダッコできた。
夕方のお経を終わって、庫裏や本堂の仏様へお供えをしていたお餅を下げたあと、固くなっていたお餅をゆで直して夕食にお下がりを頂いた。ワイフがつくってくれたお正月料理がまだたくさん冷蔵庫で眠っている。贅沢なことだが、オヤジの一人暮らしではなかなかすぐに消費できなくてそろそろ胃がもたれてきた。
自分は一人暮らしを特に寂しいとも思わないで気楽に過ごしているが、東京のおばあちゃんはどうなのだろう。高齢になって一人でいると家事のなにごとも面倒になって次第に生活が荒んでしまうことが多いらしい。保賀の谷でもこの近年で独居ぐらしが4軒に増えた。年末年始やお盆などのその家にとって特別な日の一人暮らしはどうなのだろう?・・・前住職の憲正さんが死んでから2年ほど万善寺で母親が一人暮らしを続けていた。今にして思えば、現在の自分の暮らしのようにあの頃から通勤坊主をはじめて、もう少し頻繁に寺との距離を縮めておけばよかった。

ブログを始めたのは確か2010年の1月だったはずだ。
早いもので気がつけばあれから10年が過ぎた。
10年前のあの頃は万善寺のネタが登場することなど1年で数えるほどしかなかった。
今はどうだろう・・・この4日間ほとんどすべてが寺絡みのこと。変われば変わるモノだ・・・昨年は、かなりの数の書くことと写真を捨てた。そもそもが毎日の備忘録になればいいと思って続けているようなところもあるから、日常のどうでもいい些細なことも含めて書き留めておいたほうが良いこともたくさんあったはずなのに、それを残すことができなかった。このブログもなにかコレといった目標があるわけでもないが、それでも、たとえば彫刻を造っているときとか銀くんで移動しているときとか寺の作務のときとか、もちろんワイフや家族やネコチャンズやグッピーたちや保賀のカラスやスズメや狸や境内の石垣で暮らすマムシとか、周囲を見渡せば気になることが尽きない。
表現の工夫は書くことも描くことも、そして彫刻を造ることも同じだと思う。

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2020年賀状写真 (1)

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修智慧 

2020/01/03
Fri. 22:03

正月3日で新年の祝献朝課法要がひとまず終了した。
流石にほぼ徹夜状態が3日も続くと身体に応える。毎年変わらないことだからとにかく体調を整えて寿命の続く限り乗り切るしか無い。

2日の檀信徒新年会は例年並みで15名のお参り出席だった。檀家総数も実質50軒を切って、万善寺の運営もいよいよ風前の灯となってきた。この調子で行くと、お参りがひと桁になる日もそう遠くはなさそうだ。
もともと自分の性格は営業向きではないから、今になって万善寺の運営を立て直そうなどと夢や理想を持っているわけもなく、まぁ「人生なるようにしかならない・・・」くらいの気持ちでジタバタすることもない。贅沢をしなければ、万善寺の運営も自分の年金と彫刻の売り上げを切り崩していけばなんとか1年を乗り越えるくらいはできているが、それもいつまで続くかわからない。新年早々、気分の滅入る現実を心配してもどうなるものでもないから、そういう悲観は考えないように決めている。

それにしても、良い天気が続いている。もう3日も連続で雨雪がない。
保賀地内の年始回りも、いつもだったら早朝に寺を出かけて雪をかき分けて戸別訪問して一巡してやっとお昼前くらいに寺の参道を登るくらいになる。今年もそのつもりで9時前に寺を出たら、何の苦労もしないで簡単に呆気無く1時間位で年始回りが終了した。地球全体はどうかわからないが島根の飯南高原では確実に温暖化が進んでいる。
年始回りの世間話でも雪のことが話題になった。冬の今の時期に、春から夏にかけての農繁期で田んぼの水が心配なのだ。自然の天気を相手にして水の心配をしてもどうなるものでもないことはわかっているはずなのに、それでも心配をしない訳にはいかない農業の現実が目の前にぶら下がっている。
坊主のお寺参りの心配と農業の水の心配では要因の接点もなんにもなくて比べようもないことに思えるが、実はまんざらそうでもないことでもある。地球の環境変動を前にして人の知恵や行動など取るに足らない「些細な抵抗くらいのことだ!」ということが、おおよそなんとなくわかっているから諦めもついて踏ん張りも効く。物欲のダメージはそれはそれでそれなりに辛いが精神のダメージより回復が早い。
人は我が身の非力を自覚した時、それまでの自分から少しだけ強くなれる・・・そういうことを、日常の暮らしの現実を通して少しずつ学習しているのだ・・・ということ。
日常で四苦八苦と対峙しているのは坊主の修行だけではない。この世の人全てが四苦八苦と向き合って生きているはずなのだ。

修智慧~しゅうちえ~
知識は教え教わることの積み重ね
知恵は考え工夫し身につけること
知識が増えれば知恵も深まり
知恵が深まれば心が豊かになる
心が豊かになればものの道理がみえる
物事を正しく判断し見極められるようにありたいものです

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7~9月印刷原稿2020

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修禅定 

2020/01/02
Thu. 23:26

新年2日目の祝献朝課法要が終わったのは深夜の3時だった。
大衣を脱いでいつものヨレヨレトレーナーに着替えて、寺のシアタールームになっている6畳リビングの火鉢の炭をつついて豆炭を補充したり、現在の寺務所になっている3畳で年始会にお参りの皆さんへ配る万善寺オリジナルカレンダーへ手製ののし紙を巻いたり・・・色々な目先の用事や細々とした積み残しの事を片付けていたら、あっという間に1時間が過ぎた。
ワイフが寺で泊まるときには、いつもボクが使っているベッドを提供している。
今の時期、寝る少し前に電気敷毛布のスイッチをONしておくと、ベッドへ潜り込んだときに包まれるほのかな暖かさが気持ちよくて一瞬で睡魔がやってくる。底冷えする寺の冷え切った夜に、こういうなんとも例えようのない温々さ加減が寒い時期の醍醐味だ。
そういうオヤジの一人暮らしで数少ない至福のひと時をワイフへ提供しているわけで、どれだけ彼女を大事に思っているかがわかってもらえるはずなのだが・・・普通は・・・その彼女が、早朝に近い夜の私のドタバタで不機嫌そうに目を覚ました。
一区切りついたら仮眠くらいはとろうと思っていたところだったのに、自分の都合で彼女を起こしてしまった手前、入れ違いに寝ることもできにくくなって、そのまま用事の続きをしていたら長い夜が明けた。
庫裏玄関の鍵を開けたついでに境内へ出てみると、朝日が薄く広がった空の雲をほんのりとグレーに近いコーラルレッドに透かしている。
今年の万善寺年始会は近年になく雪一つ無い過ごしやすい1日になりそうだ。

本堂での檀信徒正月法要と新年会に向けて巨大な業務用灯油ヒーターを点火した。こうして、朝のうちから温めておくとお昼に新年会が始まる頃には適度にちょうどいい加減で本堂の冷え込みがやわらぐ。
それから現在ボクの寝室になっているドームテントへ潜り込んで1時間ばかり仮眠した。

住職の新年挨拶は、今年のカレンダーにした八大人覚のことにした。
万善寺のような極小規模の山寺でも、宗教法人を運営経営する組織の決められた寺務を一通りこなさねければいけない。昨年は会社でいうと定款規約のような寺務の運営規程に即して数年に一度巡ってくる書類の更新や報告業務で苦労した。ナンチャッテ住職でも一応建前上代表責任役員であるから、大規模寺院だと役僧がするような寺務も全て一人でこなしてアチコチ関係者に頭を下げて実印をもらって歩いた。
国の定めた法人業務を遵守して遺漏なくコトを進めるのも大変だ。

修禅定~しゅぜんじょう~
種々の情報が氾濫するこの世の中
気がつけば知らないでも良いことまで知ってしまう
ねじれてゆがんでなかなか住みにくい世間
せめてほんのひと時だけでも
浮世の塵や埃や垢にまみれた我身を洗って
静かに心穏やかに過ごしたいものです

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4~6月印刷原稿2020

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年々好日々好 

2020/01/01
Wed. 12:16

謹賀新年!
佛紀2586年、令和2年元日の万善寺は穏やかな朝となりました。

12月31日は朝から雪の1日となって、やっといつもの冬が戻ってきた感じだったが、上空の薄い雲から保賀の谷へ舞い落ちる雪は結局夕方から夜になっても本格的に積もることはなかった。
年が変わる少し前から本堂や庫裏の其処此処へお蕎麦や湯茶のお供えをし、太鼓を叩いて令和元年最後の祝献祈祷のお経を唱えた。
それから割れた銅鑼の音梵鐘を三分の一ほど数えながらついてワイフとじゅん君に引き継いで任せたあと、新年のお水取りをして湯茶に沸かし本尊様へお供えした。
大衣に着替えて、本堂から庫裏のお仏壇等を巡って最後に典座寮を守ってくださる韋駄天さまへお参りをして約二時間続いた元日の朝課祈念法要が一段落したのは、朝の3時過ぎだった。
特に冷え込むこともなく、在家住職業就任以来1・2を争うほど楽な祝献法要になった。
この早朝(・・といっても真夜中だけど・・)の法要は正月3日まで続く。

日頃は万善寺で気楽なオヤジの一人暮らしでいるのだが、お寺のお正月とお盆の数日はワイフが手伝いで泊まってくれる。それに、じゅん君も年越しから正月にかけて寺へ泊まって除夜の鐘とお檀家さん年始会を手伝ってくれる。
まだ先代住職夫婦が元気で吉田家の子供たちも小さかった頃は、寺の寺務作務法要等をしながら在家と変わらない賑やかなお正月だったが、子供たちが成人してからは現在のような何時もと変わらない住職業務中心の粛々とした日々が過ぎる。
別段忙しいわけでもないが、大晦日と元日は年が一つ変わるという改まった節目でもあるから、何時もの日常の連続とは違って見た目も気持ちも目先の現実と向き合ってとても具体的に切り替える必要もあって、それが少々あわただしい。

「忙しい忙しい・・って言いながらコーヒー飲んでる隙があるんだから、まぁその程度のもんサ。本当に仕事のできる奴は(忙しい!)なんて口に出さないもんヨ・・」
上京した18歳の秋、まかない飯目当てに始めたお昼の1時間だけのバイト先のマスターがカウンターの換気扇下でタバコを吸いながら皿洗いのボクに向かって独り言のように耳打ちしたことをよく覚えている。
お昼のランチもある珈琲屋に近い喫茶店は、丸ノ内線新宿三丁目と新宿御苑のほぼ中間にあった。中小の企業が同居する雑居ビルがたくさんあって、甲州街道が靖国通りと合流するあたりには世界堂新宿店があった。要町には末広亭があって、近くの厚生年金会館ではジャンル問わず何かしらのライブコンサートがあった。近くは新宿二丁目で、途中にストリップ劇場もあった。サラリーマン諸氏から夜の仕事が終わった二丁目のお姉さん方や、時々ストリップの妖艶な踊り子さんたちもコーヒーを飲みに来店していた、そういう喫茶店だった。
マスターが入れるコーヒーで、はじめて珈琲の旨さを知った。それと「~忙しい!~は云わないようにしよう!」と決めた。でも気付かないまま口が滑ってしまってるけどネ・・

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2020-01