FC2ブログ

工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

平和 

2014/04/23
Wed. 09:41

「平和とはどういう意味ですか?」と質問された。
檀家さんの法事の席でのことだ。
「他の宗教は分かりませんが、曹洞宗では平和という解釈は聞いた事がないですねぇ・・」と答えた。
正しい答えかどうかはわからない。
仏教の学校で勉強している訳でもないし、宗門の教典を読破している訳でもないナンチャッテ坊主はその程度に答えるしかない。

話題を逸らすかも知れないがと前置きして、「仏教上で「福」の解釈は比較的重要なポイントに位置づいているようですねぇ」と続けた。
めちゃくちゃザックリいうと、「苦では不い」で「不苦」と言うことが転じて「福」となったといわれているようだ。
自分の心にある「苦」を強く意識し認識する事で、「苦」を追い払ってしまおうと思惟する行為が転じて「福」となることを望んだわけだ。
つまり、福とは苦に打ち勝った先に現れる理想であり希望である存在ということになる。
そして、苦に打ち勝つことが修行であり信仰であるのだと続く。

さて、平和とは何かを仏教的に解釈しようとする(べつにそこまでする事も無い気がするが・・)と、自らを「苦」から解き放つ考えや行為に近い事なのかと思ったりする。
自分の心に生ずる様々な欲や相対的思考が心の乱れに通じ、それを過激な方向に向かわせる要因として認識した場合、それらの要因を断ち克服することが平和に繋がることになるのではないか。
そのあたりのところで仏教を信仰するという精神性が認識され、それをかたちや様式におきかえる現実的行為が修行であるのではないか。

先人の知恵は、あの世の彼岸を「平和」とみなして飲み込んで解釈する事で、この世の此岸の大小様々な苦しみを乗り切る手段としてきたのではないのだろうか。
私が住み暮す島根の片田舎の過疎化が進む飯南町赤来高原や石見銀山の近所の方では、花田植えのシーズンを迎えている。
地元の小中学校も特別時間割で地域と密着してお祭を支援している。
地域の伝承的行事は様々な神事仏事の由来で今に残り、また復活している。
世界に散らばる年中行事も「不苦」の祈りに起因している気がする。
21世紀になってから、各地にフラッシュモブの輪が広がっている。
一人ひとりの「不苦」の願いがかたちになってみえる。
そこには、政治や経済の戦略とは一線を画した純粋な表現活動がある。

何をもって平和とみなすかは、人それぞれの生きる条件や環境によって様々に違う。
そのような形而上学的ラビリンスにはまりこんでしまうと、それこそ夜も眠れなくなって「不苦」どころの話ではなくなってしまうが、平和はそういう小さな不苦を克服する一人ひとりの現実的行為の積み重ねの先に現れるもののような気がする。

IMG_0580.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

この記事に対するコメント

page top

コメントの投稿

Secret

page top

トラックバック

トラックバックURL
→http://tetujin29.blog31.fc2.com/tb.php/1579-5219f055
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

page top

2019-11