工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

幸せな人生 

2015/12/18
Fri. 23:45

東京ぐらしを引き上げて島根に帰ったのは、今は亡き憲正さんが大病を患って手術を繰り返すようになったからだ。
最初の手術の時は中退も考えたが、せっかく学費を浪費して勉強してきたものを無駄にすることも忍びないし、それなりに学生生活へ未練もあったから「まだ島根に帰りたくない!」とわがままを通した。
それからすぐに憲正さんが2回目の手術をすることが決まって、さすがにもうワガママも言えないだろうとあきらめて、慌てて島根と広島の採用試験を受けることにした。
結局どちらも受かって、まわりが島根にしろというものだから言うことを聞いてひとまずワイフを連れて寺の近くの公立の学校まで帰った。
それから島根県内の転勤をいくつか繰り返して、引っ越しをするたびに子供が一人ずつ生まれて四人目が出来た時に、そろそろどこかに落ち着いておかないと子供達が可哀想だと思うようになって石見銀山の現在の家に落ち着いた。
ちょうどそれと前後して今度はおかみさんが心筋梗塞の手術をして生還した。
生活を支えるための職業は地方公務員になるから、そのまま定年まで勤め上げればそれなりに自分の老後もある程度保証されるだろうし、子供達も楽に就学できるだろうと思ったが、どうもそのように上手く事が運ばなくて、やはり両親の面倒を見ながら万善寺を引き継がなければいけないことになった。それに、公務員という立場で年々時間の拘束が厳しくなって坊主家業と両立することが難しくなったということもある。
それが今から7〜8年前のことで、その頃も憲正さんが何度目かの手術をした。
フリーになって彫刻をつくることの時間が随分楽になって、それはそれで良かったが給料の定期的な収入が無くなったので一気に生活が厳しくなった。
ワイフが働いてくれるようになって石見銀山の自宅の一部屋を使って絵画教室を初めてギャラリーをオープンした。
なんとなくいい感じで事が動きそうになったところでまた憲正さんが病気になった。
もうさすがにそこまでくると万善寺を引き継ぐしか選択肢がなくなって住職申請をして憲正さんと交代したのが今から5年前。この5年の間に絵画教室はワイフの彫刻工房に変わり、ギャラリーは物置になって今はネコチャンズの遊び場になりつつある。
万善寺の維持も大事なことだが、そればかりだと自分の暮らしが成り立たない。
それで始めたのが彫刻イベントの企画と運営。
1年のほとんどをその仕事で乗り切っていて、やっと何かしらやりがいを感じるまでになり始めているが、収入には繋がらないところが玉に瑕だ。それでも、公務員で平日はサービス残業し土日もなく働いていた頃の自分を振り返ると、精神的にも肉体的にもかなりのストレスが溜まっていて自分に余裕がなかった。今はお金では買えない自分の時間をもらっているから、それはそれで捨てがたくありがたい。
先日、憲正さんの通帳を整理した。万善寺の水道代と電話代と電気代の引き落としを切り替えた。
憲正さんの出生から死亡までの証明書を揃えるのに苦労したが、彼の生涯が少しだけ理解ることが出来た。
憲正さんは幼名を「後藤憲吉」という。生まれて2歳にもならない時に吉田家の養子になった。
まだ存命の時、通院の帰りに「幸せな人生だった・・」と言っていた。

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