工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

挨拶 

2016/05/24
Tue. 05:28

教区会があって出かけた。
毎年ほぼこの時期に行われる坊主総会のようなものだ。

宗門坊主が集まると、だいたいお互いに立ち止まってかかとを揃えて両手を合わせて合掌して頭を下げる。これが僧侶のあいだで交わされる挨拶になる。このような光景がアチコチでみられると何処かしら周辺の空気が凛として澄み渡るような気がする。
在家坊主の自堕落な日常ではこのようなかしこまった挨拶を交わすことはない。せいぜい、「ヤァー」とか、「久しぶりぃ〜」とか、「おはよう」や「こんばんわ」程度の気楽なひとことですませているが、それでもするとしないとでは大きな気持ちの違いがある。

その挨拶について、今年の万善寺カレンダーに少しばかり書かせてもらった。
お檀家さんや少しの知人へ配布したから、ヒマで時間がたっぷりある人で老眼や近眼で無い人には読んでもらったかも知れない。
その一部がこんな感じ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「あいさつ」は漢字で書くと「挨拶」になり、「押し迫る」というような意味で、語源は禅語にあります。それに、それぞれ「一」がついて「一挨一拶(いちあいいちさつ)」となるわけですが、私が思うに、この「一」を付けるかつけないかで「挨拶」の真意に深みが増すかどうかというほどの大きな違いというか、重たい言葉になるような気がします。

人と人が相対してお互いに押し迫る・・・という行為に、強烈な緊張感を覚えるのです。
そこには、親愛を込めて「Hello!」と声をかけあうほどの軽さはないと思うのです。
そこには、修行の厳しさを超えてお互いの真意がわかりあえた時の喜びがあり、また、微妙な解釈のズレに新鮮な発見があり、その時の感情の深浅をつぶさに感じ取るほどの真剣な付き合いが含まれていると思うのです。

禅の道場でこのような師弟関係を維持しながら続く修行のことを思うと、今の我々にある「挨拶」がどれほど見た目だけの俗な言葉としてだけに使われているかがわかります。
・・・・・云々・・・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
自分で自分の目鼻口耳を見ることはできない。四六時中自分の顔を鏡に映して見つづけていても、鏡から客観的な情報が自分に返ってくることはない。ただ、自分で左右入れ替わった自分の顔の機微を認識して満足している程度のことだ。
目の前の人と相対すると、お互いに相手の表情で相手の心情を読み取ったりしながら自分の心身の揺れを察する。
挨拶は、日常の暮しの時々に自分自身が自分の現状を客観的に認識できる数少ない手段のひとつだと思う。
自分からの挨拶に相手からの挨拶が返ってこないことほど虚しいものはない。自分の存在そのものを否定されているように思えて絶望する・・・って、まぁそこまででもないけど、やっぱりなにかしら虚しいなぁ・・・

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