工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

万善寺の石垣 

2016/06/08
Wed. 22:33

万善寺の寺歴によると、現在の場所へ本堂を再建したのは十四世量外素圓(りょうがいそえん)大和尚ということになっている。
没年が文久3年(1863)とあるから、だいたい今から150年くらい前のことになる。
寺院建立を発願しても、それから数年かけて経費を工面したり土地を探したりして何年も大汗をかいて、その後また何年かかけて整地施工するわけだから、その素圓和尚さん在職の生涯をかけた大事業であったと思う。
元々万善寺は、保賀の谷を琴引山へ登りきった平地にあった寺町の一坊であったらしく、起源は1400年頃とされている。
それから400年の後に現在の場所へ万善寺が移転したわけだ。
たぶん、本堂の北側の斜面にある石垣も、その頃に積み上げられて今まで裏山を支えてくれているのだろう。

私が少年の頃はその石垣も遊び場の一つだった。
裏山は松林になっていて、尾根を伝って琴引山方面へ登っていくと、至るところに戦国時代に築かれた櫓出城の基礎石が組まれていた。
1500年代は万善寺の辺りが毛利と尼子の最前線でそれぞれ両軍に味方した地域の豪族武将たちの戦がくり返されていただろう様子がよく伝わっていた。
その石組みの場所を過ぎてしばらく登ると雑木林が広がっていて、それを数年かけて順番に約一反歩くらい切り倒しながら移動して炭を焼く。雑木は5〜6年で手ごろな太さまで生長するから、また元に戻ってその辺りの手ごろな木を切り倒して炭にする。
山はそういうふうにして育てられていたものだが、今は見る影もなく荒れて石垣に根付いたサツキもはびこって、年々境内へ山が迫ってくる。

3日ほどかけてその石垣を掃除した。
サツキは、おかみさんが若い頃、山の斜面へ手当たり次第挿し木をして増やしたものだ。
熊笹や低木の雑木やススキなどがはびこるより、一面サツキの花が咲き乱れた方がキレイで良いと思ったのだろう。
私が小学生も高学年の頃には挿し木のサツキがどんどん伸びて隣通しくっついて大きくなるからマメに剪定をしなければいけなくなった。小学生の体力で急な斜面に足を踏ん張って伸びたサツキの枝をかき分けながら剪定ばさみをふるうのはなかなかの重労働だった。
熊笹やススキ程度の草は、片手で鎌を振りまわせば何とか足場を作れるがサツキはそうはいかない。しまいには、はしごまで持ち出して営繕作業もやたらと大掛かりになって、その頃には憲正さんも病気で肉体労働が難しくなり、おかみさんの女手では持て余し、結局森林組合へお金を払って木や草を刈ってもらうようになってしまっていた。
年間の営繕経費もバカにならないし、この数年は憲正さんの入院遷化でかかりっきりになって、荒れるに任せていた石垣だったが、こうして憲正さんの一周忌も近いので、私的には、一周忌追善営繕事業と心に決めて万善寺の境内を整備しはじめたところだ。

石垣の隙間に根を張って太ったサツキはやがて石垣を破壊する。目先の欲があとの災いになる。出きるだけ何もしないで自然に寄り添って暮せたらそれが一番良いと思う。

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