工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

鉄の彫刻 

2016/09/28
Wed. 19:09

関西の美術系大学の学生さんと話すことがあった。
「○○先生に教わってます。知ってますか?」
「さぁ〜、知らないなぁ・・・」
「ほら、あの、(・・・)を使って(&$#&*)造ってる人ですけど・・」
「あぁ〜、そういえば作品は何処かで見たような??」
「じゃぁ、△△先生知ってますか?、最近(+*=&<#%)してる人ですけど・・」
「さぁ〜、知らないなぁ・・・」
なんとなく申し訳ない気もしたが、本当に名前も聞いたことが無い美術家なので、返答のしようもなかった。
若い美術家の世界では、外すことの出来ないほど大事な大先生であり大先輩なのだろう。
でも、私には全く縁がなくて知らない人たちだった。

美術界は地球社会レベルでみるとスギ花粉くらいもあるかどうかのちっぽけな世界だと思うが、その中でも現代美術になるともっと細分化されてしまっていて、私のような日本の辺境の地で細々と且つ鉄と砥石の粉塵にまみれて金属彫刻を造り続けている田舎彫刻家などとは住む世界が違っているようで、どうもそういう尖端の美術家とは接点がない。
今更、自分の彫刻を路線変更する気もないし、また、それを試みようとしても、思考回路が錆固まって脳みそのネジ山がねじ切れてしまって身動き出来なくなってしまいそうだ。

ちょうど、今年の大きな彫刻を造っている途中の頃だったから、ある意味でその学生さんの会話が刺激になった。こういう機会でもないと、世代の離れた同好からの情報など入ることもない。狭い世界で上下の繋がりに固執している諸氏は、世代が違うだけで考えたり思ったり見ている先が大なり小なり一緒だったりすることがほとんどだからたいした刺激にもならない。私もそんな感じでそろそろ半世紀近く古いタイプの美術界で制作を続けているが、その学生さんと話してからあと、工場に閉じこもって制作を続けた1.5日は、鉄板と向き合いながら久々に色々なことを考えた。

素材ー技術ー造形感ー彫刻表現・・・それらの要素が過不足なく溶け合って具体的なカタチになる。素材を知らないとそれに必要な技術が定まらないし、技術が身につかないと自分の造りたいものの質が下がって説得力が弱くなる。そういう彫刻はどこかしら存在感も希薄なって表現の核も萎縮する。まずは「表現ありき」なのか、それとも「技術ありき」なのか、実際、そのあたりの割合を工夫しながら制作している状況をクールに見渡すことが出来た気がする。
手間の労力を惜しまないで、時間の許す限界を意識しながらコツコツと次のひと手間に向けて今の作業を続ける。頭のなかでは「これでいいのか?」という疑問と「これしかない」という断定と「これでいいのだ」という肯定が常に繰り返されながら制作が続き、カタチが少しずつ組み上がっていく。妥協をギリギリまで踏みとどまって、しかし、どこかしら適当な妥協もあったりして、世間にはから元気で踏ん張りつつ自分の弱体を嘆く・・・
まぁ、そういうドタバタ彫刻があるから吉田が迷わず吉田でいられるのかもしれない。
センスや観念で消えてしまうような彫刻は生涯造れないだろうなぁ・・・

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