工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

朝霞の飯南高原 

2016/12/09
Fri. 16:55

結構激しく雷が鳴っているなぁと思っていたら、雨が吉田家のトタン屋根を激しく叩き始めた。
そういえば、昼のうちから少し冷え込みがきついなぁと思いつつ、ストーブに薪を投げ込んでいた気がする。

身体のアチコチが痛くてどうもデスクワークがはかどらないまま夜になった。夕食も食べるには食べたが一杯呑む気になれない。気がつくと何ヶ月ぶりにアルコールの無い夕食になっていた。それでかどうか、あの雷と激しい雨で目が覚めてからなかなか寝付けないままでいたら、知らない間に朝になっていた。
iPhoneが鳴りはじめてハッキリと目覚めた。
中学校までの同級生からだった。
「今朝方オヤジが亡くなって・・」

つい1ヶ月ほど前にお母さんの3回忌を済ませたばかりで、その時はお父さんも法事の斎膳をモリモリ食べて元気そうだったから、かなりびっくりした。
「あれから急に調子が悪くなって・・・あれだけ生きる気満々だったのに最後の夜は自分で『もうダメだ』って云って・・・それで、今朝になって・・・」
枕経を終わって葬儀日程の打ち合わせもできて、それからあとの立ち話だった。

亡くなったお父さんは、憲正さんの一つ歳下だった。少年時代の私にとって、彼はとてもかっこよくて男らしくて、ある意味憧れていたところもあった。
あの頃は町に一つの映画館もまだ現役でスクリーンの下にはステージもあって、映画に演劇に文化祭にフル稼働していた。1階はステージに向かって緩やかに下りの勾配があって、一人がけの硬いベンチシートが並んでいた。劇場の後ろ半分くらいからは2階席もあって、なかなか本格的な映画館だった。そのかっこいいお父さんはあの頃流行っていたベンチャーズのコピーバンドを結成していた。加山雄三あたりもコピーしていた気もする。映画のスクリーンから若大将が飛び出した感じでとにかくかっこよかった。私の同級生もそのお父さんも、万善寺の小坊主でもある吉田少年と父親の憲正さんとは住む世界が違っていた。
日本が高度経済成長期に入った頃、それまでの自転車から原付バイクを取り扱うようになり、やがて自動車販売をしながら修理工場を拡張して今の基礎をつくられた。当時の島根の田舎町の自転車屋としては思い切った決断だったと思う。
昼間は真っ黒になって働き、夜はグループバンドの練習に励み、町のイベントを盛り上げ、突っ走った人だった。

私が島根にUターンしてからかれこれ30年になるが、彫刻を造り続けられるか迷いつつ、それでもなにもしないでいる訳にもいかなくて、デッサンを図面に置き換えて大工さんを頼ったりして構成の木彫を造りつつワイフの彫刻制作を手伝っていた頃、修理工場のアーク溶接機を使わせてもらったことがある。
あのアーク溶接機が使えなかったら金属彫刻を続けていられなかったかもしれない。

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