工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

自我偈(じがげ) 

2017/01/01
Sun. 04:25

みなさま・・・あけましておめでとうございます!
吉田は、新年の朝課法要を終わらせたところです。
今年の除夜の鐘は、ほとんどじゅん君が撞いてくれて、ワイフもなにやら願い事をしながら少し撞いて、90歳を過ぎてますます元気いっぱい我がままいっぱいの母親も撞いて、それに、何年ぶりかで保賀の谷の一番外れからお参りしていただいたお檀家さんの若主人も撞いてくれた。
私は彼らに梵鐘を託して、朝課法要の準備をしながら年越しを過ごした。

特にこれといった大きな変化もない一日一晩のことで、一年が入れ替わってしまうという人々の心の切り替えの共有が成立してしまうというあたりに、計り知れないほどの精神の高揚を感じつつ、一方でどこかしら普通に覚めている自分がいたりすることの不条理を意識してしまったりして、どうも素直になれないまま毎年新年の数日を過ごしている。

昨日のことでもあるが、昨年のことでもあるほんの数時間前に、1年最後の法要で三拝を繰り返した。
そのとき思うところがあって、寿量品を全部読み切った。
私の好きなお経に「妙法蓮華経如来寿量品偈」がある。族にいう「自我偈」というお経なのだが、それは、寿量品の後半部分にある韻文偈文のこと。
ものすごくザックリと云ってしまえば、お経はお釈迦様が主役の色々な出来事を連作読み切り小説のような面白いお話にまとめたようなものだと思っている。こんなことを云ったら、宗門の偉い大和尚さま方に叱られてしまうだろうが、少年の頃から門前の小僧あがりの成り行き小坊主がまともにキチンとその筋の勉強をすることもなく普通の坊主になったくらいのナンチャッテ坊主でしょうがないとことでもあるから、ゴメンナサイと謝るしか無いことなのだ。とにかく、そういうふうに、そんなもんだと思ってお経を読んでいると、なにやら難しげなこともそれなりに解ったような気になってお経を楽しむことが出来たりしてしまうのだ。
私の場合、1年を通して般若心経とドッコイくらい自我偈を読んでいる。それに、塔婆の一節に書く経文も自我偈からいただくことが多い。

その自我偈の中に、お医者さんの薬のたとえ話が出てくる。
昨年のことになるが、憲正さんを亡くしたおかみさん(ボクの母親)が、息子の云うことも素直に聞かなくなって、とにかく何かにつけて平常でなくなった時期があった。
なんとか説き伏せて大学病院へ受診してみたりもしたが、自分の正常を確信している母親にとっては、周りの連中が寄って集って自分を病気に仕立てようとしているくらいに思い込んでしまったようで、結局ドクター処方の薬をのむことをしないまま月日が流れ、一年が過ぎた。医学的には、どうやら認知症に属する特異な病気であると云ってもいいようなのだが、母親自身が素直に検査を受けようとしないから「たぶんそうだろう??」くらいの診断しか出てこないまま時が過ぎた。息子としては、そんなもんだと今の環境に慣れるしかないのだが、自分で自分の心が病んでしまいそうになる。

自我偈は、挫けそうになるボクの心を踏ん張らせてくれるありがたいお経なのです。

IMG_4960.jpg

[edit]

CM: 0
TB: 0

page top

この記事に対するコメント

page top

コメントの投稿

Secret

page top

トラックバック

トラックバックURL
→http://tetujin29.blog31.fc2.com/tb.php/2533-5bb31c0c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

page top

2017-06