工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

目に見える記憶 

2017/04/25
Tue. 18:47

万善寺のある行政区のゴミ処理場は、午後3時で一般受付がクローズする。
たぶん、そのくらいに締め切らないと分別作業をその日のうちに終わらせることが出来ないからなのだろう。
最初に万善寺の積年のゴミを搬入した時に、受付のご婦人が印刷物を2〜3枚用意して丁寧に分別のことや搬入受付のことなどを解説してくれた。
それで、午後の3時までに搬入することは承知していたのだが、庫裏の玄関先で欲を出して「もう少し、あと少し、あれも積んで、これも積めるな・・」などとモタモタしていたらどんどん時間が過ぎて、法定速度ギリギリで滑り込みセーフかアウトか微妙なタイミングになってしまった。
頓原中学校前の四つ角までスムーズに走っていたのに、そこの信号で捕まってしまった。
2台前には町内の循環バスがマッタリ走っていて、それが町並みへそれるまでやたらと無駄に時間が過ぎた。
ゴミ処理場の受付へ右折しようとしたら、すでにロープが張ってあって進入禁止。
3:02でありました・・・

もう、10回近くゴミの搬入をしているから、そろそろ受付のご婦人や作業の職員の皆さんに顔を覚えられるようになった。
タイムアウトのゴミを朝一番に搬入して、それから午前中に3回往復した。
お昼を過ぎたあたりから雲行きが怪しくなって、風も強くなってきた。
この様子だと、「風がやんだら雨になるだろう」と思っているうちに土砂降りになった。

仏教では「執着」と書いて「しゅうじゃく」という。
お釈迦様は、執着は修行の妨げになるからそういう気持ちを捨てろと力説された。
一方、執着は良い意味に解釈されることも結構あったりするので、自分の気持のゆらぎを都合よく言い訳してどうにかうまい具合に正当化して乗り切ることも出来てしまう。
このあたりの主観的な立ち位置がなかなか曖昧だったりして、万善寺でも先代夫婦と私の間で数え切れないほどのイザコザがあった。
結局、私のほうが一歩も二歩も身を引いて、老夫婦の暮らしぶりを見て見ぬふりして無理な諍いをなくす方向で付き合ってきた。

昭和の初期から戦中戦後の生活苦を体験した彼らは、モノを捨てるという感覚より、モノを大事にするという感覚で日常の暮らしが機能していたのだろう。
さまざまな「モノ」に託された彼らの「思い出」とか「記録」は彼らにとって具体的に「目に見える記憶」としてある種の宝物になるほど昇華し、捨てるという行為が日常の暮らしの選択肢から完全に削除されたまま半世紀が過ぎていったのだろう。

彼らの「捨てられない気持ち」の呪縛に絡まりながら、ひたすら断捨離を続ける自分は、一方で彼らの「目に見える記憶」を捨てていることにもなる。
見える記憶は忘れることもあるだろうが、心に刻まれた記憶はいつでも鮮明に思い出すことが出来る。私はそれで十分だと思っている。

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