工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

板の間 

2017/05/02
Tue. 23:05

寺の周囲と言うか地域全体はだいたい農家で、数年前には酪農業の会社も進出してきたほどだ。
昔は、農業の他に林業従事者が数軒あって、参道下の林道は山の木を切り出す人々が盛んに往来するほどの活気があった。
平成の時代だと想像もできないことだろうが、昭和の30年台には、林道を馬が木馬(きんま)を引いて切り出した木を運んでいた。もちろんアスファルトの舗装もない砂利道を。
その頃は、寺の周囲の3軒の農家では水田で米と麦を作り、自宅に隣接する納屋では和牛を2〜3頭飼育していることが普通だった。
田の畦や雑木林につながる山道脇の傾斜地に生える雑草はすべて牛の餌にしていて、朝暗いうちからの数時間と夕方日が落ちるまでの数時間を草刈りに使っていた。
だいたいどの農家も、その草刈りは主に百姓の現役を引退した老人夫婦の仕事になっていて、和牛の世話も自然とその流れで老夫婦の役割になっていた。
保賀の上組だけでも専業農家が4軒あって、和牛が10頭以上は飼われていた。
年に1回ほど牛を出荷する牛市があって、そこで競り落とされた金額の内容で牛飼いの上手下手がはっきりと決まる。
当時は、高値で売れる牛がだいたい1頭300万から400万あたりで競り落とされていて、その金額を巡って寺の周囲の老夫婦は熾烈なるシノギを削りながら毎日牛飼いに携わっていたことになる。私は子供ながらに、噂で流れてくる牛の売値に感嘆し、老夫婦の仕事を尊敬もしていた。

何故こんな昔の話を持ち出したかというと、境内地の周囲で暗くなるまで草刈機を振り回している時に牛飼いのおじいさんから聞いた「雑草の価値」の話を思い出したからだ。
寺周辺に広がる寺領は、そういう牛飼い農家の草刈り地として提供されていたから、坊主が自ら鎌を持って草刈りなどすることがなかった。むしろ、庭の手入れのついでに参道脇の草刈りなどしてしまうと、「隣のノブさんに叱られてしもぉたが・・」と、憲正さんが愚痴ってたりしたものだ。
今はお百姓さんの耕作放棄も目立つ時代になって、雑草の価値もなくなった。参道脇の隣の畦道まで踏み込んで草刈りをしていても見て見ぬふりで誰も文句を言うこともない。

5月の連休最終日に俊江さんの四十九日法事をするから、今はそれに向けて毎日万善寺内外の片付け営繕に追われていて、給油3回目の草刈りが終わった。
元は台所の配膳室だった板の間にあった古い茶箪笥や古くなった日用品を処分しまくって、古畳を6枚ほど撤去した。
宗門では、その部屋から台所にかけてを「典座寮」という。韋駄天さんが安座されてあって、僧侶の日常でとても重要な役割の場所なのだが、長い間その板の間が俊江さんの部屋になっていて、古畳を敷いたり古障子を建てたりして都合よく改造していた。
半世紀ぶりにほぼ建築当初の用途を持った空間が蘇った。
私が少年時代に遊んで過ごした板の間には、敷板の下に囲炉裏が切ってある。
寺の仏事の時は、その囲炉裏で煮炊きもしていた。

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