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工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

気持の拠り所 

2019/02/03
Sun. 23:51

寺で暮らしている時は、時間をみつけて祈祷太鼓をたたいている。
先代は、塔婆の書はもちろん、音感がよくてお経も御詠歌も和讃も太鼓も上手だった。
現住職のボクは、自他ともに認めるナンチャッテ坊主だから、先代とは比べ物にならないほど坊主業全てにおいて下手糞だ。それでも、万善寺の住職はボクしかいなくて住職業の何をするにも避けて通れないこともいっぱいあるから、様々な場面でたくさんの恥をかきながらどうにかこうにか乗り切っている。

3日は節分だから、一人本堂で祈祷のお経を読んだ。祈祷のお経は太鼓を叩くことが多いから、下手糞なりにバチを振った。
正月になって、三ヶ日が終わって、節分までのできるだけ早い時期に、自分なりに今年1年の自戒をいくつか用意する。
偉い和尚さんは、毎年のはじめに遺偈(遺言のようなもの)を残される。
私は偉くもなんともないから、偉そうに遺偈を残すなど恐れ多い。それで、そういうことはしない代わりに、自戒を用意するわけだ。そうしておくと、何かにつけてそのコトが思い出されて、だらしなく緩みきった自分の気持が若干矯正できる。
塔婆を書く時は、裏書きにその言葉を使うこともある。
展覧会や季節のお知らせとか、ときには何かのデザインのキャッチコピーに使うこともある。
そうやって、日常に都合よく利用していると、知らない間にその言葉が少しずつ自分の気持の中へ入り込んで、やがて現実的で具体的な事象と結びつくことがある。だいたい1年が過ぎる頃には最初は曖昧でどうとでも解釈される抽象的な文言がそれなりに煮詰まって記憶の何処かへ張り付いてくれることもある。
名僧高僧さまをはじめ先人諸氏の名言は、はじめのうちは自分の現実と全然関係ないところで浮遊していて、頭ではなんとなくわかってもソレを自分の実感として自分の所作に置き換えるまでには程遠い。せめて1年位は心にあたためて時々思い出しながらそういうコトを繰り返しているうちに少しずつ現実の具体と関連するコトがあってソレに気付いてドキッとする自分がいる・・・ということを何度となく実感している間に、気がつけばそれなりの信念や確信を持ってその文言に自分の気持の拠り所を意識できていたりする。
もっとも、用意した自戒の全てが自分の気持を動かすことも珍しくて、実際、1年も過ぎれば知らない間に年始めの自戒などコロッと忘れて忘却の彼方に消え去ってしまっていることも多い・・・というより、ほとんどソレばかりだったりする。
それでも、そういうことの繰り返しのなかで、とにかく色々な場面で思い出されることもあるし、絶対に忘れることのないまま生き様であったり信念であったりそういうものに変わる自戒もないわけではない。
そういう文言のいくつかは、確実に自分の救いになっているし力になっている。
信心の気持ちというものは、そもそもそういうことの終わりのない積み重ねであるような気がする。

今年は、「動静両忘」「風逐自然清」「静聴鐘声」の3つを書いておいた。
私が好きな洪自誠さんの言葉の一節です。文字を並べるとシンプルで簡単なことだが、その奥深さに感じるものがある。「静聴鐘声」は個展の案内で早速使わせてもらった。

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