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工房むうあと鉄の手仕事

鉄の彫刻家、吉田正純の手仕事、彫刻や展覧会の紹介、万善寺住職活動など、さまざまな日常を公開します。

連作彫刻 

2018/12/06
Thu. 04:28

しばらく彫刻から遠ざかっていたことは、かなりのストレスになっていたようだ。
11月の富山町のことが一段落してから、ほぼ毎日のように工場へ通っている。
その間に、身体が忘れていた彫刻の感のようなものを少しずつ取り戻して、気持ちの向く方向へ自然と身体が動くようになって、制作作業のムダが整理されてきた。

それでわかってきたことは、自分の肉体の老化。
つま先に鉄板の入った安全長靴の重さが、気づかないくらいのところで負担になっているようで、床のアチコチへ乱雑に散らばった仕事の痕跡によくつまづくようになった。
はじめの頃は、大きな怪我になる寸前の危険な状態になって肝を冷やしたことが1日になんどもあった。そういうことが連続すると云うことはやはり自分が老域に入ったのだろうと自覚することでもある。一度「そうに違いない!」と現在の状況を認めて受け入れると、それから先、無理をしないような動きを工夫するようになって、今はそれが普通になってきて、4✕8の鉄板を制作台へ乗せるのも、いろいろと工夫して前と変わらないくらいに出来るようになった。

1m以下の小振りの箱彫刻を10個連作しているが、それをすべて溶接し終わるのに2日かかった。
夕方になると集中力が切れて溶接の精度も落ちて1日の作業の限界を感じる。今までは、小休止して気持ちを切り替えて作業を再開していたが、そういう無理をすることが翌日に影響すると余計に作業効率が落ちて完成の目処がつかなくなるから、身体の動きが鈍くなったと思ったら、そこで1日の仕事を打ち切ることにした。
いくら彫刻三昧の1日を過ごしていても他に用事がないわけでもないから、夕方からあとは工場から寺へ移動したり、貯まっていた業者さんへの支払いをしたりして用事の停滞を解消している。

今制作中の彫刻は、今回の個展のサブテーマである「彷蔵」の系列に位置しているものだ。
「彷蔵」は、自分の造語で「ほうぞう」と云う。
その言葉に隠されている自分なりの想いはあるが、それはそのうち語る機会もあるだろう。とにかく、今は10個の箱彫刻の次の工程を造形上の工夫に置き換えることを優先する段階だ。
野外彫刻の個展というものは、展示期間も含めて自分の中で空間の境界をある程度決めておかないと、何事もすべてが曖昧に始まって終わってしまうから、あらかじめ事前におおよそ展覧会のシナリオを造るようにしている。このことも、何かの機会で文字に置き換えておくくらいのことはしておく必要を感じてはいるが、まだ制作の最中だし、そういう段階で自分の彫刻を別の表現手段で語るということは避けておきたい。

今年は、例年になく12月に入ってまだ初雪が降らない。冬シーズン限定で開催している野外彫刻の個展としては、自分の思惑通りにいかないところもあって少々苦戦しているがそれも仕方がない。なにせ地球の環境が相手のことだから・・・

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吉田家の夕食 

2018/12/05
Wed. 04:54

中学校を卒業するまで生まれ育った地元で暮らしていた。
萬善寺から約2kmほど歩いて小学校へ通い、中学校の3年間はその道を父親からお下がりの自転車で通っていた。
学校のあった小さな町にはなんでもあった。
映画館を兼ねた劇場は、1ヶ月に2回位上映替えがあってだいたい2本立てだったが、行楽シーズンとかお盆とかの節目には3本立て上映をしたりして賑わっていた。
大人の娯楽はパチンコ屋があったし、旅館は2軒並んでいて2階の大部屋からは週末になると宴会のザワメキが町並みに降り落ちていた。
内科と小児科を兼ねた開業医があって、その前には薬局と歯医者さんがあった。
町並みのほぼ中央にバス停と小荷物の引き渡し所があって、その隣は郵便局だった。
パーマ屋さんが町の川上にあって、町の川下の端に床屋さんがあった。
恵比寿神社の前には本屋とおもちゃ屋を兼ねた文房具店があって、その隣は電気屋さんだった。
学校へ入る四つ角には、酒屋さんとお菓子屋さんと呉服屋さんと自転車屋さんがあった。
その自転車屋さんは、それからしばらくしてスバルの自動車代理店になって、川下の床屋さんの前にある自転車屋さんはスズキの代理店になってそれぞれバイクや自動車を販売修理するようになった。
学校へ登る坂下の広場を囲むように、森林組合の事務所と農協と農協スーパーと銀行と役場があった。
新聞屋さんの隣にあるタバコ屋さんには通りに面して広い土間があって、簡単な軽食も出していた。梅雨が終わって暑くなり始めるとかき氷の旗が軒先にぶら下がった。
そのタバコ屋さんの前が雑貨屋さんで食器からザル・カゴ・ホウキ・スコップと、日常の生活雑器は何でも揃っていた。
毎日通学する先にあるその町は少年の私にとって大都会だった。

萬善寺の日常生活は、その町にある酒屋さんや雑貨屋さんの配達が頼りになっていた。
盆正月のお参りは、今では想像できないほどの大賑わいで、法要後の御斎には田の字の庫裏の襖障子をすべて取り外して大部屋になったところへ80人位のお檀家さんがひしめいていた。それだけの人数を賄うための大小の茶碗汁椀湯呑取り皿徳利猪口などなどの食器類は膨大な量で、それらすべてを寺の備品什器として雑貨屋さんから一括取寄せていて、割れたり欠けたりした物の補充更新が毎年のように繰り返されていた。
家族だけの食事には、その更新されて廃棄されるべき器がしぶとく使いまわされていて、子供ながらに、実に味気なくみすぼらしいものに感じていた。せっかくの母親の手料理も欠けた瀬戸物で飲み食いしていては美味しくもなんともない。

内村萩焼作陶工房で仕入れた器が早速吉田家の夕食に登場した。
器の殆どはとみ山フィールドアートワークで教室個展にあった器で、私が目をつけていたもの。それに、ワイフが欲しがったお皿も添えて一括購入した。
食材は、萩からの帰りに寄った数カ所の道の駅でゲットした地物ばかり。
ワイフの手料理がひときわ美味い!・・・

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萩の穴窯 

2018/12/04
Tue. 04:50

山陰で高速道路の整備が一番遅れている島根県西部も、この数年間で工事が加速して少しずつだが開通区間も伸びて長距離移動が便利になってきた。

萩焼の内村さんとはもうずいぶん長い付き合いになる。
彼の窯は登り窯よりもっと原始的な穴窯で、そういう窯で焼成する作陶家は萩地域だけでなく島根県や山陰でも珍しい。付き合い始めの頃は、窯焚きの手伝いをさせてもらうかわりに、自分の器を焚き口の灰被りのあたりの邪魔にならないところへ置かせてもらったりした。やはり、薪窯の味わいは他のガスや灯油の窯とは比べ物にならないが、穴窯はそれにも増して独特の窯変がみられる。酸化と還元が曖昧に混ざりあった中性窯の様子は、薪のくべ方ひとつで大きく変化するから最後の練らし焼成になるまで緊張の連続だ。

富山町での教室個展へ作陶展をお願いしたのは今年の会期スタートからだいたい1年半ほど前のことだった。
私は特に差し迫った用事がない限り内村さんの工房がある明木で5月の連休に行われる往還まつりのイベントへ出かけることにしている。中国地方の各所から集まってきた陶芸やクラフト工芸などの作家が店を出すので、器や小物を見たり買ったりすることを楽しみにしている。
そのまつりの主催で忙しくしている内村さんを捕まえて富山町での作陶展を打診しておいたのだが、その後少し落ち着いてからOKの連絡をもらった。
展示会で生活している彼は、旅慣れているし作品展のノウハウは心得ているから、会期や搬入出のデータと会場の様子を知らせておけば、あとは自分の都合で動いてくれるので依頼する私の負担も減って助かる。
この度も、そんな感じで展示作業は彼に任せっきりにしておいたのだが、いつも忙しい彼に島根と萩を2往復してもらうのも悪い気がして、イベントが終わってからの後片付けと作品梱包などはすべて私が責任を持って行うことにした。それで、11月の連休中にそれを済ませて、あとは萩まで運搬するだけになっていたところへ「久しぶりに私も行きたいなぁ〜・・萩!」とワイフが言いだして「それじゃぁ〜、何時か良い日があったら教えてよ」ということになって、週明けの月曜日早朝、ワイフの車へ内村さんの陶器一式を積み込んで萩へ向かった。

昔は、石見銀山から萩まで5時間ほどはかかっていた。
10年くらい前から少しずつ自動車道が整備されて片道5時間を切った。
2年くらい前から一気に高速が伸びて、今は3時間半あれば内村さんの工房へ到着する。

「今、改築中で年内には完成させる予定!」だということで、焚き口と煙突下の袋窯だけを残してあとの穴窯の部分はレンガが撤去されていた。
「アレコレ考えながら造ってるとなかなか進まなくて・・」
工学系にも強い内村さんが自分で改修工事をしている。
こだわりの穴窯が完成したら、来年の3月まで空焚きをしたりしてそれから窯詰め本焼きと続く。私もなんとかして、再生初窯焼成メンバーに加えてもらえるといいなぁ〜・・

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富山カフェワークショップ 

2018/12/03
Mon. 04:29

大田市富山町の有志とまちづくりセンターが協力して開催している「富山カフェ」へワークショップで参加するようになってからもう3〜4年が過ぎた。
初期の頃は春の連休中と冬のクリスマス直前の2回出かけていたが、最近は冬だけ誘いがかかる。

富山カフェの方は、薪窯ピザとか地産カレーとか食べ物中心で営業しているが、ワークショップの方は、100円のワンコインで材料代だけ頂いている。
「ワンコインって、500円ですか?」と普通に誰からもそう聞かれる。
100円だと答えるとみんなが口を揃えて「安い!」と反応する。それで「親子連れで一人500円はいただけませんよ!」と答えると「確かに・・」とだいたいみんな納得してワークショップに参加してくれる。
今年は、吉田家で密かなブーム(というほどでもないが・・・)になっている「モビール」を造ってもらおうと決めて、ワイフとノリちゃんへ伝えておいた。
富山での彫刻小品展を準備しながらワークショップのことを話していたら、ノリちゃんが材料のことやぶら下げるモチーフのことなど、細かいパーツを幾つか提案してくれたので「それじゃぁ〜、そこらへんのことはまかせておいてもいいかなぁ?」と軽く振っておいた。
ワイフの方は例のごとくブツブツ愚痴というか小言というか、見た目は気に入らない様子オーラを撒き散らしながら、それでも暇を見つけては針金を用意したりフェルト細工でパーツを造ったり100均ショップでアレコレ仕入れたりして準備していた。

2日の日曜日が富山カフェの当日で、朝の9時には会場の準備をはじめた。
カフェの方は、10時からオープンのはずだったのにもうその前からボツボツとチケット購入の人だかりが始まって大盛況だった。
ワークショップは1日が終わるまで切れ目なくお客さんの出入りが続いて、それなりに盛況だった。内容の性質上、結構造形力が問われるところもあって、滞在時間がやたらと長くなった。それで回転率はいまいちだったが一人で2つも造ったり、「家でつくりたいから・・」と材料をもらって帰る人もあったりして、対応がそれなりに忙しかった。
案の定、親子連れの参加もあったから、やはり100円の設定で間違いなかった。

カフェはお昼すぎにすべて売り切れ完売で店じまい状態だったが、ワークショップは午後になっても客が絶えなくて、店じまいしたのが3時前だった。それから急いで後片付けや掃除を済ませて、ノリちゃんとはそこで別れた。
ワイフと二人で久しぶりに出雲へ出かけた。
富山町からだと出雲はすぐだから、あらかじめ予定のうちに入れて、私はもみ屋さんでマッサージ1時間コースを予約しておいた。ワイフは買い物三昧の1時間になったようだが、それでも少し時間が足らなかったらしい。
マッサージは久しぶりで、身体が少し軽くなった。特に指名の指定はしなかったのだが運良く吉田さんに当たった。私の身体を心得ていて、硬いところをほぐしてくれる。
吉田が吉田さんに揉まれている・・という光景はちょっとシュールだ。

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坊主彫刻家的嗜好 

2018/11/11
Sun. 23:41

徳島の野外彫刻展へ出品していた彫刻が帰ってきた。
少し余裕を持って自分で搬出をして、その足で「愛媛に住んでいる友人を訪ねてもいいなぁ・・」と計画していたのだが、直前になってみると万善寺のことや富山町の野外彫刻のことや、11月末から始まる個展のことなどが重なって徳島行きの都合がどんどん窮屈になってどうしようか悩んでいたところへ・・・
「徳島の彫刻一緒に搬出しておきますよ!」
周藤さんがどうせ自分も搬出に行かなければいけないからと、吉田の代行を引き受けてくれた。
彼の軽トラへ二人分の彫刻が乗るのだろうか?少し心配になったが、駄目なら駄目でそのときは次の方法を考えれば良いだろうと、彼の好意へ甘えることにした。
それで、10日から11日にかけての2日間のスケジュールが少し楽になったものだから、日曜日は朝から工場へこもって彫刻の制作をすることにした。

今度の個展は野外彫刻を中心にして、3月末までの会期中は時々場所移動をしながら配置の変化を工夫してみようと思っている。
いつものように、石見銀山の吉田家周辺が個展会場になるから、借景と絡んだ彫刻の現状を自分の目で確認できて安心だし楽しみでもある。島根のような日本海側の冬のシーズンは、気候条件が目まぐるしく変化することも当たり前だし、そういうある意味予測不能の環境との対峙も期待したい。

六本木や徳島の彫刻は、個展用に制作したものの一部になっている。
いくつかの独立したパーツを造って、それを設置場所の条件を見ながら組み合わせようと考えていて、ベースは、六地蔵とか十王さんのような野仏とか庚申さまや道祖神道標のような感じをイメージしている。
島根県内を始めとして、もう何十年もの間西日本を中心に彫刻と一緒の旅を続けている。
最近は四国が多いが、他にも九州や兵庫県北部、近畿地方、少し遠くなって新潟や栃木あたりまで出かけてきた。行く先々でよく見かける石像はだいたいが宗教がらみの物が多いが、中には営農振興の記念碑とか、集落の境界碑もあちこちで見かける。
彫刻を造っているが坊主でもあるから、土地土地の石仏を見ると、なんとなくその辺り一帯の信仰の具合が見えるような気もして、ある意味一つの目標に向かったブレのない精神性が造形の存在感を強く示しているように感じる。一つ一つの造形物は小さいものだと一人で持ち上げられるくらいのものから大きいものでも1m前後だから、決してモニュメンタルで大仰なものでないところに親近感を感じる。だいたいが民衆主体の信仰から始まった造形が多いようで、時時の時代の状況を背景にした信仰の対象を具現化したものでもあるから、具象的であるよりはむしろ限りなくデフォルメされて記号化された抽象形に近づいているふうに感じる。
私が暮らす島根県の特に東部の方は、むき出しで野ざらしの信仰的造形物が少ない。そういうものの殆どは簡単な掘っ建てから本格的な寺社造りまで様々な形状の祠としてお祀りされているから、よけいに旅先で見かけるランダムな造形の連鎖に自分の気持がひかれているのかもしれない。

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土曜日の朝 

2018/11/10
Sat. 23:27

午前中は江津の高校で2時間ほど高校生諸君と授業をすることになっている。
数年前にその高校の校長さんから「1ヶ月に1~2回のことだけなんだけど全校活動美術の面倒見てもらえませんか?」と打診があって引き受けることにした。
経緯はいろいろあったが割愛するとして、その校長先生とは30年ほど前からの知り合いで、よっぽどのことでもないと上手に断わる理由が見つからなかった。
失礼な言い方になってしまうが「子守くらいのことしかできないけどなァ~」と、内心はそう思っていて「ワークショップの延長のことくらいだったらなんとかなるだろう?」程度に考えて今に至っている。

はじめの頃は、高校生の実態に慣れないし、ボク自身結構な人見知りでシャイな性格だから何かと間が持てなくてツマヅイてばかりだったが、そのうち自分なりに少しずつ打ち解けてきて生徒たちとの距離が縮んだ。
前期と後期で選択替えがあってメンバーが多少入れ替わるが、2~3年の間は2~3人を相手に2時間ほど付き合うくらいのことだったので、自分の手持ちの道具や工具や材料や消耗品などを提供しながら、なんとか授業らしきことをしてきた。
ところが今年度に入って一気に選択人数が倍増以上に増えた。
そうなると、さすがに手持ちの材料でなんとかできる域を超えてしまって、あらかじめ人数分の教材のようなものを用意するところからコトを進めなければいけないことになって、少し忙しくなった。それでとにかく、今まであちこちで開店営業していたワークショップの教材を見直しつつ、現役で美術の時間講師をしているワイフやノリちゃんのネタを借用したりしてこの半年間はなんとか乗り切った。
10月からの後期は、ちょうど自分の彫刻制作や小品彫刻の展覧会や美術イベントの企画などがドッと重なってくるから、よっぽど工夫して教材の準備をしておかないとカワイイ高校生諸君に迷惑がかかる。
いくつか候補教材を決めてみたが、最後はワイフの力を頼って彼女から教材のノウハウを頂いた。身近にそういう人材がいるとたいへん助かる!
それで前回からモビールをつくっているのだが、今日ですべて完成することになっている。制作が遅れた場合は自己責任でなんとかするということにしてあるので、完成作品から順次記録写真を撮ってあとは制作者本人へ作品を返す。

朝、少し早い時間に学校へ到着して美術小屋へ入ると、その最後の一人のモビールがいい感じで出来上がってぶら下がっていた。自分のやりたいことがしっかりと伝わってきた。彼女の制作中の様子を見ていたが、とにかく一つ一つのパーツを丁寧につくっていたから、そういう様子だと完成がかなり遅れるだろうということはわかっていた。
なにかしらものつくりにかかわっている人間としていつも思うことは「造形の内容と制作〆切りのバランスをどのように調整して実材に取り掛かるか?」ということ。最近は迷いも減って失敗も減ったが、昔は時間配分や工法技術や造形の見通しにどこかしら不具合が生じて適当なところで妥協することばかりだった。
時間優先か造形優先か、結局は2つに1つの選択になってしまうことだが、やっぱり、ボクとしてはできるだけ造形に妥協はしたくないな・・・

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今時上法事事情 

2018/11/09
Fri. 23:30

寺の夜は結構寒かった。
今年は今までにないほど暖かい日が続いていて秋になってからは雨もそれほど降らない。
そのせいかどうかわからないが、自分の身体が暖かさに慣れて鈍り切ってしまっていたようだ。
石見銀山と飯南高原の標高差は200mくらいのものだろうから、それほど気温の差も無いだろうと思っていたが、少々考えが甘かったようだ。さすがに高原の夜は冷え込んだ。温かいとはいえ、やはり季節は確実に冬に向かっている。

上げ法事のお参りが9時になっている。
前夜にあらかた法事の準備はしておいたから、あとは本堂の朝の用事を済ませて施主さんの到着を待つばかり。
俗に「上げ法事」というのは、お寺の本堂で法事をすることを云う。ことの始まりは、昔々戦争とか災害で一つ集落が全滅するほど大量の死者が出た時、それぞれ個人でお葬式を出すことが出来なくてどうしようか困っているところへ「それじゃぁ、お寺さんの本堂を借りてみんなで合同葬にしましょう!」と思いついたのが始まりだと聞いた。
それが、最近では個人の葬儀や法事でもお寺を借りることが増えてきて、市街地ではむしろその方が当たり前の常識になっているようである。
細かいことを言えば、昔ながらの仕来りにはそれなりに納得できる意味があることなのだが、時代が変われば変わったなりにその時時の自分の都合が優先で物事が進むようになってしまった結果が今に至っているということなのだろう。
萬善寺のような田舎の山寺も、結局は施主家の都合が先に立って市街地の方から流入してきた「上げ法事システム」が増えてきた。
田舎から街場に転出した家族親族から「うちの方では、お寺さんへ行って法事してますよ」などと、ソレが普通のようにもっともらしい情報を聞かされてしまうと「そういう方法もあったか!」とか「そりゃぁ、自宅の世話が無くて楽になるわぁ〜」とか「お寺さんへ現地集合ということでよろしく!」とか、そういう簡易的法事形式が浸透し始めた。

ワイフの実家は菩提寺が新宿の方の比較的有名な浄土真宗大谷派のお寺だが、そこでは先代の御院家さんが亡くなって今の代になってから一度も自宅の仏壇前でお経をあげてもらったことが無いそうだ。それで、上げ法事が普通になって法事のお参りをすると、お布施の他に本堂使用量、茶菓子代、花代などの必要経費を別途請求された上、御院家さんの斎膳の膳料や会館の使用量まで請求されるのだそうだ。そういうことになると、何のための法事なのかわけのわからないことになってしまう。それで、最近では法事もやめてしまって御院家さんに見つからないように親族が境内の墓地へ集まって墓参りだけをして近くの料理屋で親族だけで斎膳をいただくことにしたそうだ。お経のない法事というのもどうかと思うし、萬善寺の場合ではあり得ないことだ。
そんな、今時の法事事情をサラリと受け流して、茶菓子と番茶を用意して位牌堂へ法事の準備を済ませて待っていたら、施主家のご夫婦が到着された。
せっかく本堂で法事だから、妙法蓮華経如来寿量品をゆっくりキッチリおつとめさせていただきました。

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経費削減 

2018/11/08
Thu. 23:11

集会とか会議とか研修会とか総会とか、とにかく決められた日の決められた時間に決められた場所へ関係者が集まってみんなでナニカ一つ事をするとかいうことが昔から嫌で嫌でしょうがなかった。
「あの人は協調性に欠けてるよね・・」なんてレベルではなく、本当に自分は「協調性の無い人間だ!」とつくづくそう思う。
それでも、昔の学校に通っていた小さい頃とか若い頃はグッと我慢してその場の流れに身を委ねて粛々と乗り切ってしのいでいたが、もう社会の現役を殆ど引退したような自由気ままな暮らしに慣れてしまうと、どうしてもワガママの方が勝ってしまって協調性のことなどどうでもよくなってしまう。

現在の定職というと、萬善寺の住職と彫刻家である。
どちらの仕事も、実に不安定で明日の暮らしが全く予測できないままの毎日を1日1日積み重ねて生活している。
経済的には決して満たされているわけでは無いが、だから不幸だとは全く思わない。
どちらかといえば、マイペースにわがまま放題の毎日を過ごさせてもらって幸せなことだと思っている。
11月に入ってから法事の依頼が二つ三つ入ってきた。
先月までは六本木だとか徳島だとか、彫刻のことで散財が続いて蓄えが底をついていたところだったから、この法事のおかげで生活の家計が少しほど楽になる。
さすがに、ありがたく頂いたお布施をそのまま彫刻の材料代へ横流しするようなマネはしないが、生きるための食い扶持に当てることは坊主の権利として妥当な支出に該当するから、まずは仏様へお供えをして、それからそれをお下がりとして生活の糧に代えさせていただいている。

個展の彫刻制作が本格化して工場通いの毎日だったが、保賀の集落を含む広域の集会へ出席することとお檀家さんが年回法事で萬善寺の本堂へお参りされることが連続したので、工場の仕事を少し早めに切り上げて作業着のまま萬善寺へ直行した。
集会は夜の7時から始まったが、議題内容は直接保賀の集落とは関係のないことだったので、最初の担当からの説明が終わったところで退席した。
夕食がまだだったので冷凍庫で眠っている正月の餅をレンジで解凍してオーブンで焼いて食べた。
法事のお参りはご夫婦2人だけだと聞いていたので、2人分のお菓子とかお茶を準備して、それから塔婆を書いた。
寝る前にお風呂で頭にバリカンを当て、ジレットで髭をそってシャワーを浴びた。ついでに作業着のつなぎも洗濯した。寺の風呂と洗濯機を使うのは久しぶりのことだ。
今年の正月は極寒で風呂のカランが破裂して一晩中水とガスが垂れ流し状態だったから、その時の光熱水費が寺の家計をかなり圧迫した。それもあって、今年は出来るだけ石見銀山の自宅で過ごす時間を増やすようにしてきた。
萬善寺が無住であれば光熱水費の支出が抑えられる。
富山町の廃校になった小学校の維持管理と似たようなことだ。

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とみ山フィールドアートワーク野外彫刻 

2018/11/07
Wed. 23:30

文化の日をメインにスタートした総合美術展「とみ山フィールドアートワーク」の前期が終わった。
約2週間後には富山町文化祭があって、その時に後期がスタートして野外彫刻はそれから1年間は動かないまま展示が続く。

今年は、春先から吉田の体調不良が続いて野外彫刻周辺の事前の草刈りメンテナンスがうまく出来なかった。それで、文化祭までには草刈りを済ませておこうと前期の会場受付が終わってから日を改めて富山町へ向かった。
吉田の彫刻は2箇所に2点ほど設置してあるが、その一つは2mを超えるセイタカアワダチソウが群生する耕作放棄地にある。彫刻の方も2mちょっとの高さがあるので、その気になって注意してみれば作品の頭のほうがセイタカアワダチソウの黄色い花の向こうへチラリと見える。前期の開催中、その彫刻のある一帯を横目で見ながら通過していたが、自分としては鉄の錆色が忘れ去られた廃墟のごとく物悲しい感じに見えて、それはそれでそういう風景があってもいいかなと思ったものだから、草刈りもわざと一番最後へ残しておいた。
隣の一角は周藤さんがもう少し先に彫刻を入れ替えることになっていて、今は彼の彫刻が撤去されて無くなっているから、今のうちに展示設置がしやすいようにキレイに刈り込んでおいた。
他の野外彫刻展示場所はいまのところ彫刻を動かす予定がないから富山町内の道路からキレイに見渡せるように丁寧に刈った。秋のこの時期にきちんと刈り込んでおくと春になって新芽の萌黄色と彫刻との色彩のコントラストがきれいに見えて気持ちがいい。

いずれにしても、自分が責任を持って彫刻の維持管理できることが大事だから、自分の行動の限界もあるし、野外彫刻を展示できる環境を見つけ出すにもそれなりに苦労する。富山町は棚田の広がる高原の町で風景も良いし、耕作放棄地や休耕田もアチコチにあるから、地権者の方には丁寧に彫刻のことをお話して納得をいただいて設置させてもらっている。
そろそろ、今の場所が手狭になってきたので、今後のことを考える時期になってきたと思っていたら、まちづくりセンターの方から、行政の来年度事業計画の説明を受けて現在の美術展メイン会場である旧富山小学校へ工事が入って、各教室は行政関係の資材倉庫になる予定だと知らされた。行政管理の方も教育委員会社会教育課の手を離れて別のところへ移ることになったそうだ。
旧富山小学校は耐震構造に脆弱なところがあって、民間への払い下げなど永久使用の適応が難しいらしい。結局耐震工事の負担支出が今の財政では難しいという事情があるようだ。それで、物置倉庫くらいにしか使えないということなのだろうが、その物置にするにしても元々小学校として設計されているから1階と2階を人力で荷物の上げ下ろしするしかないことになるわけで、効率がすこぶる悪い。教室個展や小品彫刻の搬入出で苦労している実態を行政が見聞していたらそういう案も出てこなかったかも知れない。結局は、2階の教室に溜め込んだモノもほぼ永久にその場から動くこともなく古びていくことになるのだろう。断捨離とはかけ離れた机上の発想に思えた。

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とみ山フィールドアートワーク教室個展 

2018/11/06
Tue. 23:56

教室個展には絵画の竹田茂氏と彫刻の周藤豊治氏も参加してくれた。
彼らは島根県出身の作家で、昔から親しく付き合ってくれている。
竹田さんは今年で3年目の個展となる。
周藤さんはとみ山フィールドアートワークへ野外彫刻を出品してくれているが、教室個展は今回がはじめてになる。

ふたりとも作家暦でいうと美術界では中堅のベテランといっていいだろう。公募団体展やグループ展の出品歴も長いし、各地の大賞展へも積極的に出品を繰り返している。
そういう、実力者の個展はイベントの質をレベルの高いところでキープできるので主催者としては安心できるし助かる。反面、美術にあまり親しむ機会がなかったり審美眼を鍛える機会の少ない一般の鑑賞者にとってはハードルの高い展覧会になってしまうところがある。
しかし、私としてはそういう一般鑑賞者に対して日常の暮らしに刺激を与える素材としての美術的ストレスを提示することも大事なことだと思っている。
美術のような俗に云う文化活動は、その成果が具体的なわかりやすいカタチとして実在させることが難しいし、だれにでも簡単に手掛ける素材でもなく、それなりに専門の知識や技術の裏付けがないとどうにもならないところがある。「よくわからない」とか「むずかしい」とか「センスがない」とか、そういうネガティブな感想や反応が結局「興味がない」という自分中心の価値判断で片付けられて「趣味の世界」として一括りにされてしまう。美術活動そのものに生産性を期待することは難しいから、どうしても需要と供給の活性を目指す一般の経済社会構造からは縁遠くなってしまいがちだ。彼ら個展作家も私もそういうことは承知の上で制作を今に継続していることになる。
では、作家性の現実はいったい日常の暮らしの中でどのあたりに位置づけられているのだろう・・・それは大袈裟に言うと、生活の手段とは一線を画する「生きる証」ようなものだと思う。
漫然とした日常の積み重ねに幸せを感じることも大事な生き方であると思うが、一方で常に自分のオリジナルを追求することに飽きない生き方もその人にとって唯一無二の生き様の証として、それを貫くことの喜びを感じることも日常の幸せを紡ぐことになっているはずだ。

周藤さんの彫刻は、数年前から一気にオリジナルの造形感が芽生えてき始めたと感じる。今後の展開が楽しみであることと同時に、今までの彫刻を冷静に振り返る機会を造ることも大事なことだと考えて個展の依頼をした。
竹田さんの絵画は、何年も前から少々迷走を始めたふうに感じていた。彼の表現の悩みがそのまま素直に絵画に表出していた。このまま悶々と悩み続けることは自己表現の開放に支障をきたす・・・そういうふうに感じて個展を誘った。その時時の自分の悩みを吐き続けることが次の表現の解放につながると思ったからだ。
二人の作家は、今の私にとってとても大切なかけがえのない表現者の同士だと思っている。彼らの次の展開が私の表現を刺激してくれる。
教室個展は、シンプルだがとても内容の充実した良い展示になった。

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萩焼内村幹雄作陶展 

2018/11/05
Mon. 23:48

とみ山フィールドアートワークのメイン会場は廃校になった旧富山小学校の教室棟。

一階には保健室と1・2年教室とランチルームがあって、休憩を兼ねた多目的用の8畳和室がある。
今は、この1階を1年一回の富山町文化祭で使っている他、1年3回ほど行われる町内有志とまちづくりセンター共催の富山カフェのメイン会場になっている。
他にも、不定期でいくつかの会合で使用されているようだが、ほとんど1年中未使用のまま過ぎている状態だ。

二階は3つの教室と図書館があって、学年集会が出来るほどの視聴覚やパソコンルームを兼ねた多目的ホールがあって、それに、郷土資料を集めた展示ルームがある。
島根県彫刻振興委員会が主催の美術イベントと展覧会はこの2階を使って行われる。
3つの教室は作家の個展会場になり、多目的ホールは小品彫刻展の会場になる。
使用条件としては、やはり一階のほうが何かと便利に使えるのだが、そういうことは誰も同じように考えるから、かえって使い勝手が悪くなるので、はじめからそのあたりを割り切って二階に絞った展示にしている。

今年は、その教室個展の一部屋を萩焼の内村幹雄さんが使ってくれた。
彼は、三越や高島屋、阪急など有名デパートで展示会をするほどの実力者で、萩市の地元でも幾つかの重職を担う名士でもある。
数年前から、維新の往還街道を活性させようと街道沿いの各地域に声をかけて、行政の枠を超えた連携組織を立ち上げつつガイドマップの作成に着手している。
とにかく、日々エネルギッシュに活動を続けているので、島根のだれも知らないような田舎町の美術イベントへ参加してくれる事自体、異例のことだといっていいだろう。

展示のときは、私が小品彫刻の会場を整えている隣の部屋で一人セッセと作業を続けてくれた。
廃校の教室にはもったいないレベルの器がずらりと並ぶ様子はどこかしら圧倒されるものがある。
穴窯で焼成した器も幾つかあって、それはすぐにわかる。
萬善寺の床の間に欲しい花瓶があった。
吉田家のテーブルサイズにピッタリの鉢は穴窯の味わいがしっとりと醸し出されてたまらない。
大ぶりのオシャレなカップは新作だと思う。
他にも、気に入った器ばかりが揃って目移りしてしまう。
とにかく、大事な商品だから取扱は十分に気を配って管理しなければいけない。会期が終わったら、直接交渉で目をつけたというか唾を付けたというか、それらの器をゲットしようと決めた。
「値札はつけないので、よろしく!」
展示が終わった時、内村さんから念押しされた。教室個展は販売いたしません・・・

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藤井保トークショー 

2018/11/04
Sun. 23:36

とみ山フィールドアートワークのスピンオフ企画で写真カメラマンの藤井保さんトークショーを企画した。
経緯はちょっとややこしいから割愛するとして、ちょうど石見銀山で彼の写真展が開催中で、その最終日に併せて彼も石見銀山にいるというから「それじゃぁせっかくだから何か話してくれませんか?」とお願いしたら快諾を得た。

藤井さんは大田市の出身だから石見銀山とも縁がある。
すでに彼の生家は無くなっていて、帰省しても帰る場所がないからとりあえず石見銀山の知合いを頼って定宿を確保している。彼は年に何回か取材も兼ねて帰省するときはだいたいそういうふうな感じで数日間を島根県で過ごす。
その滞在中の数日間がちょうど富山町での美術イベントと重なったので、最初は富山の方へ来てもらって廃校になった小学校の教室をひとつ使って写真のスライドを上映しながらお話をしてもらうと良いと思っていたのだが、せっかく石見銀山で個展の期間中だから、どうせなら展示会場で作品の写真を見ながらお話してもらったほうがリアルで良いかも知れないと、計画を変更した。
それで、少しずつ具体的なスケジュールが決まって、藤井さんの会場変更承諾もとりつけて、あとは集客を目指して各方面へ告知の準備を進めた。
その過程で、たまたま高校生たちの美術活動で出かけている学校の先生へ藤井さんの話をしたら、ちょうどその日は学校全校生徒が石見銀山へ研修遠足をするから「ぜひトークショーに参加したい」と話が一気に盛り上がった。
学校の方では、当日のスケジュールを決め始めたところでまだ中身は流動的だった。
それから何回か担当の先生と打ち合わせをして内容が具体的になっていくと、総勢約60人くらい集まることになって、急きょそれだけの人数を収容できる会場を手配することになった。
私の方は、富山の展覧会会場で受付の用事もあって石見銀山の会場準備までは付き合えないから、藤井さんの写真展を企画した主催の方へそれをお願いしておいた。

トークショーは30分程度の短いものだったが、とても内容が深くて創造性の豊かな味わい深いお話だった。高校生たちからもたくさん質問が出たりして大いに盛り上がった!・・・と私は感じた。予定の時間をかなりオーバーして、最後はみんなで記念撮影をして解散となった。とみやまの会場はワイフや教室個展の作家へ受付代行をお願いしておいた。トークショーが終わってから、心配で電話をしてみると、特に大きな問題もないとのことだった。何人か知り合いもとみやまへ来てくれたと報告があった。

とみ山フィールドアートワークは、昨年までワークショップを3年間続けていた。
講師の手配がなかなか大仕事になって、自分としては少々オーバーワークで息切れをしていたところだったので、今年はアッサリとワークショップをやめることにした。そのかわりのトークショーだったのだが、結局こちらのスピンオフ企画もなかなかハードなスケジュールになった。まぁ、終わりよければ・・・ってやつで、それは「それで良かった!」ということにしよう・・

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現代彫刻小品展とみ山会場 

2018/11/03
Sat. 23:11

作業のバックミュージックを何にしようか決めかねて、迷い始めた。
過去の記憶を手繰ってトム・スコットとかウイントン・マルサリスとかをしばらく聴いていたがそれも少々飽きてきた。

彫刻の展示や後片付けから梱包はだいたい一人でコツコツとゆっくり時間を掛けることが多い。
たまには運良く助っ人がたくさん集まることもあるが、なにせ壊れ物を扱うデリケートな作業だから一人のほうがマイペースに落ち着ける。そういう時に欠かせないのがバックミュージックだ。
おおよその作業時間を割り出して、その間エンドレスに垂れ流しに出来るだけのマイアルバムのようなものを即席に作っておけば、そのアルバムが一巡すると「だいたい1時間だ!」とか、「あぁ〜〜、もう3時間過ぎたかぁ〜〜・・」とか、おおよそのことがわかって都合が良い。予測した時間より早く終われば嬉しいし、遅れると休憩を挟んだりして気持ちを切り替える。
それで、富山でのイベントは、小品彫刻の展示にだいたい4時間ほどを予定してそのくらいで一巡するアルバムを用意しようと決めた。寝る前にMacMusicからめぼしいものを拾い出していたら、アッという間に時間が過ぎて朝には少々寝不足気味になっていたりする。
今回は、ひとまず、ジャズ系からキース・ジャレットを選んだ。
彼は、昔から好きなミュージシャンでじっくり集中して聞くのもいいが耳のお供程度に聞き流すことも出来て都合が良い。特に気に入っているのは、楽曲の振り幅が広いところだ。クラシックもながら視聴しているとそれなりに良いところもあるが、たとえばモーツァルトとかを指定してマイアルバムをつくり始めたら、演奏を誰にしようかとかどのアルバムにしようかとかそういう初期段階で迷い始めてキリが無くなるし途中で面倒になって適当に時間だけを調整したような中途半端な状態で出来上がったものを延々と数時間垂れ流して聴き続けていると、そのうち飽きてきて作業の集中力が無くなってしまう。その点キース・ジャレットは、とても都合よく精査されたアルバムになっているからその時の気分で仕分けがしやすくて助かる。それで今回は、クラシックを所々にちりばめたスタンダード中心のマイアルバムをつくっておいた。それをiPhoneからブルトゥースでスピーカーへ飛ばして聞き流しながら小品彫刻の展示をした。
隣の部屋では内村さんが陶芸作品の展示をしていたが、彼はだいたい2時間ほどで終わってしまった。
「こっちは、もう少し時間がかかるので三瓶の温泉にでも行って時間を潰しておいてもらえませんか?夕方に石見銀山で合流ということで・・・」
それじゃぁ〜・・となって、お昼前に別れた後、小品彫刻の展示を続けてキース・ジャレットが一巡する間際にキャプションの配置が終わった。

展示の様子はいつもとあまり変わらないように感じるが、具象彫刻が年々増えている気もした。六本木の展覧会でも似たように感じていたところだった。日本の美術界の流行は全体として具象化傾向にあるのかも知れない。

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とみ山フィールドアートワーク 

2018/11/02
Fri. 23:32

旧富山小学校の彫刻小品展会場へ搬入しておいた彫刻と展示台は、その後、ノリちゃんが梱包を開けて展示台もおおよそ配置を整えてくれていたから、今回はいつもより早く展示作業が終了しそうだ。

もう、今回で4回目を迎える「とみ山彫刻フィールドアートワーク」は、そろそろ総合美術展の方へシフトし始めてきた。それでも「彫刻」に特化していることに変わりがないものの、改めて思うと「わざわざ(彫刻)という単語を使わなくてもいいかな?」とも思うようになって、自分の気持が少し変化した。
それで今回から、さり気なくイベントタイトルから「彫刻」を削除した。
たぶん、ほとんどそれに気づく人はいないと思う・・・

今年は教室個展で彫刻家の周藤豊治氏。絵画作家の竹田茂氏。萩焼作陶家の内村幹雄氏。それに、スピンオフ企画として写真家の藤井保氏の個展会場でギャラリートーク。そして、富山町で巡回展示のいつもの小品彫刻展。野外彫刻。
なかなかボリュームのあるイベントとエキシビジョンになった。
例年のように文化の日を目指して前後の4〜5日が主な会期になる。その後、富山町の文化祭が行われるので、その日も会場をオープンして、その後撤収して全日程をすべて終了する。

彫刻個展の周藤さんが一抱えの個展用彫刻を軽トラへ積んで持ってきたので、二人で抱えて階段を持ち上げた。
サイズでいうと中品程度だが、教室へ3点ほど搬入したら少し窮屈に感じるほどになった。
彼はこの数年間で彫刻がグイグイとレベルアップして今後の展開が面白くなってきた。こういう時期は、今回の個展のように一度過去作品を系統立てて見つめ直すと自分の現状を客観的に把握することが出来て次の展開が見えてくることもあるので、ちょうどいい頃合いだと教室個展に誘ったのは半年ほど前のことだっただろうか?本人も、私の気持ちを汲み取って個展を快諾してくれて今回の展示になった。
今はまだ、自分の制作や作品のことで頭がいっぱいで彫刻界全体の現状とか自分の立ち位置とかを客観的に把握して広く俯瞰して行動できる状態ではないと思うが、そろそろ彫刻家としての方向性を多角的に判断して、自分と制作との距離に若干の間をとるような工夫をしても良さそうな気がする。

内村幹雄さんは、お昼前に作品を持ってきてくれて自分でセッティングをしてくれた。彼は東京大阪などの有名デパートで展示会をするような萩焼作家だからそのあたりのことは手慣れたものだ。夜は石見銀山で久しぶりに1杯やることになっている。
写真家の藤井保さんも、石見銀山で写真個展が開催中で、彼のギャラリートークのこともあるし夕食がてら少し打ち合わせもすることになっている。
久しぶりに楽しい一晩になりそうだ。
いよいよ、新生「とみ山フィールドアートワーク」がスタートする。

2018とみやまチラシA4会場用

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フィールドアートワーク 

2018/11/01
Thu. 23:50

六本木の彫刻が島根へ帰ってきた。
事前に2tのユニックをレンタルしておいたので、朝から運搬しようと計画していたのだが、午前中に別の用事が入ってしまった。
あせってそちらを片付けても、結局彫刻移動の方は限りなくお昼近くなってしまった。

島根の彫刻搬入出は、出品者が共同搬入出するようになってから日の丸西濃さんへ一括依頼してチャーター便を手配してもらっている。
貧乏彫刻家の集団だから、西濃さんもそのあたりを承知してくれていて、毎回適当な下請けの運送業者さんを手配してくれる。最近は、浜田を拠点にした業者さんが少しずつ定着してきたが、その時時の都合で大田市の運送業者さんに変わることもあったりする。いずれにしても、この数十年は毎年同じ時期に同じ内容の依頼をしているから、トラックのドライバーさんも少しずつ顔見知りになって、色々と面倒なハプニングがあってもそれなりに難なく乗り切ってくれて助かっている。
それでも出品の彫刻家が年々減少していて、作家の個人負担が倍増している。吉田の場合は夫婦で彫刻を造っているから運送料の出費も当然2倍になってなかなか厳しい。そういう必要経費が無くなることは無いから最近ではセッセと500円貯金を続けてなんとか出費の負担を軽減させている。吉田家や萬善寺のいたるところにガラス瓶やアルミの空き缶などを貯金箱代わりに置いておくとその500円貯金もなかなかあなどれないところがあって、1年もすると結構貯まっていて二人分の彫刻出品諸経費がまかなえたりする。

搬出する彫刻は、そのまま富山町のフィールドアートワーク会場へ移動して野外彫刻の展示にする。その美術イベントも今年で4年目になって、富山町内の各所に設置した彫刻は10点を超えるまでになった。設置場所に借りている耕作放棄地などの草刈りが大変だったりするが、借用料を労働の汗で払っていると思えばそれほど苦にならないし、草刈りの様子が住民の目に触れるだけでも親近感を持ってもらえたりするし、そういう勤労奉仕も継続していればそのうち良いこともあるだろうと長い目で気楽に考えている。今年もひとまずはおおよそ自分で草刈りが出来た。

プラットフォームで遅れた彫刻積み込みをしていたら、「これからそちらへ向かうところです」とストウさんから電話が入った。自分一人で彫刻移動をするものだと思っていたからとても助かって感動した。
2tユニックの2往復目でストウさんが合流してそのまま富山町へ向かった。
昨年から徳島のタケダさんが制作している鉄の彫刻を預かって展示している。彼女の彫刻は純粋に抽象で、厚い鉄板をベースに、切る・折る・曲げる・溶接する工程を繰り返した構成彫刻になっている。どのように制作構想をねっているのか知らないが、とにかく、ああいうタイプの彫刻はマケットの段階でしっかりとバランスや強度を確認して、リアルサイズでの仕事に不安を残さないようにしておかないといけない。
彼女の彫刻を毎年見て思うことだが、造形の必然とは関係ない補強のパーツが数箇所に見えてしまっていて、それが造形力を弱めてしまっている。当面の課題であると思うし、それが解消されると一気に彫刻がレベルアップするはずだ。

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搬出の日 

2018/10/31
Wed. 23:46

搬出の日、少し時間の余裕を持って六本木の美術館へ行った。絵画も含めて、彫刻の会場をあらためてもう一巡しておこうと思ったからだ。
彫刻の搬入出は島根県から共同搬送していて、最近はストウさんが一人で搬入作業を引き受けてくれている。陳列展示は自分の彫刻のことで余裕がなくてじっくりと作品鑑賞が出来ないままだし、会期初日は知り合いの彫刻家もたくさんいるし、展覧会を見に来てくれる知人もいて1日がアッという間に過ぎて帰りの高速バスに飛び乗る。
結局搬出作業をする前の数時間しか落ち着いて会場を巡ることが出来ない。

前々からなんとなく気づいて思っていたことだが、この近年具象作品が増えて抽象が減った。
美術造形の世界では、そういう流行があるのかも知れない。
私が展覧会へ出品をはじめた頃は抽象彫刻がたくさんあったし、絵画も抽象の現代美術が集まった展示室が独立してあって楽しめた。
具象が嫌だとは思ってもいないが、やはり自分としては抽象が好きだ。
想像というかイメージというか構成とかバランスとか素材とか、とにかく作家それぞれの表現に気持ちが揺れる要素がたくさんあって見ていて飽きない。
自分はそういう嗜好が強いから彫刻を造っていても、具象的傾向へ偏っていくとどこかしら説明的要素がチラついて落ち着かないし、ひどい時は制作の途中で仕事に飽きてしまって気持ちが全く入らなくなっていたりする。
こうして何十年も似たような彫刻を造っているわけだから、自分で気づかない間に自分のスタイルが出来上がっているのかも知れないが、一方で、まだ自分にとっての未開の造形領域が山のように存在しているふうにも思えて、ナニカの端っこがチラリと見えたりすると、もう鳥肌モノで震え上がるような感動に包まれることがある。そういうことが繰り返されて、その感動のいくつかがジワジワと時間をかけて何かしらのカタチにかわっていくようになるプロセスが楽しい。

六本木の野外彫刻展示会場は、比較的抽象系の彫刻が多く集まる。それでも、最近は作家の定着が進んで風通しが悪くなってしまった。そう感じるのは自分だけのことかも知れないが、どこかしら展示の無風状態が感動の停滞につながって新鮮な活性が感じられなくなった。自分の彫刻を棚に上げて偉そうなことだと思ってしまうが、こればかりはどうも仕方がない。
今年は久しぶりの個展が控えていて、その準備がすでに始まっている。ちょうどうそういう時期だから余計に自分の造形感が敏感になっているのかも知れない。
このところ、半年ぶりくらいに工場通いが続いていて、自分の一日のスケジュールが彫刻の制作を中心に動くようになってきた。久しぶりのことだ。
さすがに年齢のこともあって昔のように無理が効かなくなってはいるが、一方で、過去の彫刻テーマを再考しながらそれをもっと掘り下げて見つめ直す良い機会でもあるし、目が覚めている時は、メシの時もトイレや風呂の時も、四六時中彫刻のことが頭から離れないで考えられている。
子供の自立や両親の他界を経て、どこかしら身軽になったからかもしれない。

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再会 

2018/10/30
Tue. 23:08

マリちゃん(・・・って、今はもうオバサンだけど・・)と久しぶりに逢った。
彫刻の搬出で前日に東京入していたからマリちゃんが何処かで逢おうと云ってきた。前回は5・6年前だったと思うが、確か田園調布に住んでいたこれも学生時代の同級生のマンションに数人が集まって小規模の同窓会のような感じで飲んだ。

自分で云うのも何だけど、ボクはどちらかといえば人嫌いな方で一人でいることのほうが気楽で良かったりするほうだから、学生の時もそういう感じで自分の方から積極的に友達をつくろうと思うようなことはなかった。それでも、ナンダカンダと気軽にくっつく連中がいないわけでもなくて、マリちゃんもそのうちの一人だった。
今にして思えば、何かの縁のようなものもあったのかも知れない。
きっかけは、確か新入生歓迎会の時だったと思う。新入生はあいうえお順に並ばされてどんぶりいっぱいの日本酒を回し飲みしながら自己紹介をさせられるという、今にして思えば実に過酷極まりない歓迎会だったのだが、その順番で吉田の前にいたのがマリちゃんだった。だいたい、一般常識として成人間もない女子がどんぶりに波波と注がれた酒を飲み干すことなど普通に無理なことで、彼女も酒の入ったどんぶりを手にしてアタフタしながら悶絶していたところを、その次に控えていたボクが引き受けて(つまり、吉田はどんぶり2杯の酒を飲んだということです・・)事なきを得たという、まぁ、それなりの男気を示した!・・・というあたりから、付き合いが始まったような気がする。
四六時中ベッタリくっついていたわけでも何でも無いが、何故かそれぞれの行動が重なることも多くて、気がつけば付かず離れず一緒にいたりして、不思議な関係が卒業するまで続いた。
当時、彼女は藤沢でおねえさんと一緒に住んでいて、私はその隣の駅で降りてバスに乗ってしばらく行ったところに親戚のオバサンの家があって、それでそちら方面へ行くときはよく電車が一緒になることもあったし、鶴見の北口のロータリーに面した焼き鳥屋でバイトしていた時も学校から帰りの方向が一緒だった。彼女が渋谷の近くへ引っ越した時もたまたま自分も渋谷でバイトをしていたりして、まぁ、一般的に一緒にいる時間も多いとしゃべることも増えてそれなりに親近感もわくし、特に男と女の深刻な関係に踏み込むこともないまま気楽な縁であったと、自分では思っているが、彼女がどう思っていたのかは知らない。

キーポンと六本木の美術館へ行ってお父さんとお母さんの彫刻などを見て、そちらから銀座へ移動した。マリちゃんは和光の前の花屋さんの角で待っていて、そこからすぐ近い銀座ライオンの本店で飲んだ。
前回に逢った以来の空白を埋めるるようにアレコレと話していると、キーポンが山野楽器で楽譜を見てから合流し、それからしばらくして仕事帰りのノッチが合流した。
マリちゃんは「大丈夫だろうか??」と心配になるほどよく飲んで「二次会へ行こう!」と言いはじめて、それから吉田父娘たちと一緒に彼女の自宅が近い中目黒へ移動してまた飲んだ。
しばらく逢わないうちにずいぶん飲めるようになったもんだ。彼女なりに色々と場数を重ねてきたのだろう。今は一人息子も結婚して手が離れて制作を再開している。

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新宿の朝 

2018/10/29
Mon. 23:33

搬出作業があって上京した。
さすがに、高速バスは少々疲れる。
島根県の石見銀山から新宿までは約900kmで、高速バスでの移動だとだいたい13時間ほどかかる。新幹線を使った列車移動でも点から点までで10時間くらいになるから、映画を1本見るか見ないか程度の時間差にしかならない。飛行機だと1時間前には搭乗口前に着いていることになるし、着陸してもそこから目的地までの移動時間がが結構かかる。出雲空港からは羽田までの点から点は約1時間半ほどで着くが、それに最低3時間は移動時間がプラスしてしまうから、食事をしたりしているとだいたい5〜6時間かかって目的地へ到着となる。昔は、俗に云うブルートレイン特急夜行寝台列車の出雲号というのがあって、これが一番楽で時間のムダもなくてとても都合が良かったのだが、もう何十年も前に廃止になった。特別対策として自分で車を運転する手段もあるが、これだけは出来るだけ避けたい。燃料代や高速料金も馬鹿にならないし、それに何より自分の体力が極度に奪われる。
アレコレ色々工夫しても、島根と東京の時間地図はそれほど大きく変わることがないから、結局今の自分にとっては高速バスが分相応の選択肢に落ち着く。

新宿バスタへは、ほぼ予定通りに到着した。
前回は途中の道路事情で1時間以上遅延して、その後の予定が大きく崩れて苦労したが、今回はそれもなくて助かった。
事前にキーポンと新宿で待ち合わせの約束をしていたから、念の為電話をした。「おはよお〜〜・・」の声が、完全に寝ている。
「ハナレイ・ベイ始まるの9時過ぎだからね!遅刻しないでよ!」
「はぁ〜〜〜い・・・」
声の様子がどうも心配ではある・・・ちゃんと起きてくれるだろうか?
それから、南口の甲州街道沿いにあるマクドナルドでコーヒーを飲みながら時間を調整して新宿ピカデリーへ移動した。新しくなった新宿ピカデリーはこれで2回目になる。
グレーティストショーマンを見た最初の時は、とにかく迷った。
あのときもキーポンと現地集合で待ち合わせしていたのだが、目的の新宿ピカデリーをどうしても見つけることが出来なくてウロウロしている間に上映時間は迫るしキーポンもギリギリまでこない。確か、紀伊国屋の裏から靖国通りの間の何処かに劇場があったはずなのだがそのあたりを何度行き来しても映画館らしき入り口が無い。もう誰かに聞くしか無いと思って、とにかく近くのエスカレーターに乗ったら、着いた先がそのままピカデリーのロビーホールになっていて自動のチケット販売機がズラリと並んでいた。
変われば変わるモノだ。学生時代のあのピカデリーの面影は皆無だった。
一度とことん迷うと、あとはキッチリ覚えてしまうから、今回は難なく時間に余裕を持ってロビーホールに着いた。キーポンの方は、案の定時間ギリギリに到着して、急いでチケットを買った。すでに予告が始まっていた。
それで、「ハナレイ・ベイ」だが、ボクとしてはなかなかコンパクトにまとまった良い映画だと思った。
「出てる人少な!」・・・それがキーポンの感想だった。

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造る喜び 

2018/10/28
Sun. 23:14

この数年の間に自分の周辺で2人の彫刻家が制作から遠ざかって疎遠になった。
一人は体調不良が改善できないということらしいがその後どうなったか定かではない。
もう一人は公務多忙で制作の余裕がないということのようだが、これも実際どれだけ制作ができないほど多忙なのかはよくわからない。

一般的に美術家人口はそれほど多くないと思う。たとえば島根県に限ってみても専業の美術家として精力的に作家活動を続けている人を探すとなるとなかなか見つからない。私も坊主家業の片手間で彫刻を造っていると言っていいほどの中途半端な兼業彫刻家だし、ワイフも時間講師でいる時間の方が彫刻家の制作時間より数倍多い。
みんなそれぞれに自分の生活があるから美術の創作三昧で毎日が過ぎる作家など今の日本では芸術院会員くらいかもしれないが、それもみんながみんな専業の美術家であるかどうか、判断に苦しむところだ。

30歳前に生活の拠点を島根に戻してから今までワイフと一緒に制作を続けているが、その間に仕事が忙しくて制作発表を断念したことは一度もない。一身上の都合で出品が決まっていた展覧会をドタキャンしたことが1度だけある。ソレ以外は基本的に全ての彫刻制作と発表は自分の意志で参加不参加出品不出品を決めることにしていて、それが毎年のことになるとライフワークの一つになっているといっていいだろう。

彫刻家としての立場による自分の生活信条というと「構想と制作の継続」であるといえる。寝ている時以外は常に彫刻のことを思考の基盤に占めておくということ。それをしているから、少々の世間的摩擦や認識解釈の相違で起きる諸問題もあまり深く悩まないで切り抜けてしまうことが出来ている。「彫刻家であること」を自覚することで、日常の様々な場面で生じる価値観の相違による深刻なストレスを回避できている利点がある。

現在、彫刻から遠ざかっている二人も、たとえば目先の生活レベルをキープすることを最低限の譲れない条件としてそれを優先的に用意しているとすると、やはり彫刻のこと全てが二の次になってしまうことは避けられないことだ。
日常の暮らしの中で常に彫刻のことが最優先に位置付いていたら「あれがあるから彫刻ができない」的発想は出てこないはずだ。結局造形意欲とか創造力の枯渇が制作意欲の減退につながって、結果「造る喜び」が消えて苦痛に変わってしまうことも十分に考えられることだ。
自分の造形上のテーマを曖昧なままその場しのぎでやり過ごしてしまうと、やはりいずれそのうち制作の目標を見失って自分の立ち位置も揺らいで制作意欲も消沈して立ち直ることができなくなってしまう。彫刻が遠のいた二人はもう時すでに遅いところまで来ているかも知れないが、ほんの少しでも造る喜びの記憶が残っているなら、まずはなりふり構わずどんなモノでもいいから手足身体を動かして制作の汗を流してほしい。
彫刻の制作が、現実からの逃避の手段であってもいいと思う。
とりあえずはそのあたりのところで気持ちを切り替えることが出来て、少しでも気楽になれるなら、それだけで十分に彫刻制作を続ける意味があるというものだ。

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他人の目 

2018/10/27
Sat. 23:05

10月は彫刻の展覧会が続くから何時にもまして毎日が一瞬で過ぎていく。
もともとノンビリとヒマに暮らしている方だから、時の過ぎるのが早すぎて気持ちが上手くついていけない。

「吉田さんは、けっこう几帳面で真面目だから・・・」
何かの拍子に、話題の流れでそのひとから見るところの吉田像を感想として語られたことがある。
「もちろん!名前からして正しく純スイですからネ!」
などと、物心ついて「純粋」の漢字が読めるようになってから乱発している定番ジョークをまた使ってしまった。だいたいが、その後に「みんなは(不正不純)って云ってますけどね♡!」と続くが、その時はそのフレーズを割愛した。
そもそもの吉田像は、吉田本人が一番良く解っているはずなのだが、あの時のように、自分を見る人によって色々な感じ取り方もあるのだなぁと、自分のことを他人事のようにクールに自覚している(何やら解ったような解らないような面倒臭い)自分がいた。

これも昔のことで前後の状況を全く思い出すことが出来ないままでいるのだが、あるひとが「(上手下手と向き不向き)は自分で思ってることと他人が思っていることは違うからね!」と云われたことをよく覚えていて、「まさにソレだな!」と云う場面でフッと思い出して「確かにそうだな!」と納得することがよくある。これは、人それぞれに価値基準とか常識のズレがあるから、当然当たり前のことを云っているわけだが、当事者としては何かの大事な場面で判断基準を大きく左右することになる重要な解釈を問われていたりして、少々ビビる・・・ようするに、「上手だから向いている」わけでも「下手だから向かない」わけでもないということで、自分のライフワークにつながるような重大な選択を求められたりするような時に本当に真剣に悩んだこともあった。

結局は、自分のことは自分が一番良く解っているというつもりでいても、他人が見るとまんざらそうでもなかったりするというわけで、その「他人の目」というのは、結構客観的総合的な判断が出来ていることだとも考えられるわけで、貴重な意見として拝聴しておくことも大事だと考える。それで、吉田は「几帳面で真面目」であると云うふうに見ている人もいないわけではないと思っておくことにすると、「そういえば、確かにそうかもしれない・・・」と思える場面もソコソコ思い出されたりする・・・という、またややこしい考えに遭遇したりしてまたまた面倒臭いことになってしまう。

どうして、こんな面倒臭い思考を捏ね繰り回しているかと云うと、眠れないからである・・・といって、ひと頃の不眠症が再発した訳ではない。隣りに座っている青年のニンニク臭い口臭が気になって目覚めたまま、目が冴えてしまったからなのだ!普通、深夜の高速バスへ乗る前にニンニク入の夕食をとることじたい不謹慎極まりない。少しは周囲の迷惑も考えてもらいたいものだ。
早いもので、つい先日始まったと思っていた展覧会がもう終わろうとしている。
彫刻の搬出でそれなりの重労働が待ってる。陳列に続いて只今10月2回目の移動中です・・

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いい汗かいた 

2018/10/26
Fri. 23:02

大田市富山町で開催していた「とみ山彫刻フィールドアートワーク」が、3年過ぎて助成金の対象外になった。
3年間連続して助成してやったんだから「あとは自力でなんとかしろ!」ということだ。
適当な金蔓もなくて年中金欠症候群が持病のような吉田としては、この際キッパリと島根県での彫刻振興から手を引こうという選択肢が無いわけでもないが、今の処、1年を均せばメシが食えなくてひもじい思いをしたこともないし、麦とホップも常飲できているから、もうしばらくは自力運営を続けてみるのもいいだろうという気になっている。
それで、気持ちの方は前向きにやる気満々でいるのだが、今年は春先から体調が思わしくなくて身体が思うように動かない毎日が続いていて、それでも、すでに決まっている会期は待ってくれないから、奥出雲の小品彫刻を搬出するタイミングで富山町の会場へ搬入するという二度一を兼ねて2tアルミをレンタルした。

奥出雲の会場は、階段も少なくて台車がそれなりに使えるから比較的楽な展覧会作業になるが、富山町はそういうわけにいかない。
元々の小学校が廃校になって倉庫代わりに使われていたところを借りてはじめた展覧会だから、展示会場はすべて2階の昔教室だったところを使うことになる。
今回はその教室まで約40点の彫刻と展示台を人力で持ち上げることになって、その作業がとにかく体調不良のボクには辛い。
それでも、1日をタップリゆっくり使ってコツコツと同じことを繰り返していれば、そのうち全ての彫刻も全ての展示台も2階へ持ち上げることが出来ることは解っているから、無理のないように「ノンビリと彫刻移動すればいいや・・」と腹をくくっていたところへ「ワタシ、あの日だったら何とかなるので手伝いますよ!」と、ノリちゃんが云ってくれた。彼女も自分の用事が忙しくて決して暇なわけでもないのだが、吉田の現状を風の便りに聞き取ったのかどうか??見るに見かねて手伝ってくれることになった。

そんな訳で、朝早くに国道沿いのコンビニ駐車場で待ち合わせて奥出雲へ向かった。
彫刻や展示台の積み込みはアッという間に終わって、午前中には富山町の旧富山小学校へ到着した。お昼ご飯をどうするか少し迷ったが、ノリちゃんもそれほど腹が減ってないというし「それじゃぁ、一気に搬入作業を済ませてしまおう!」と、ノリちゃんが階段を往復したのがだいたい100回くらい。膝を痛めている私はだいたいその半分くらいで勘弁してもらって、おおよそ3時間のうちに全ての搬入作業が終了した。
これから日を改めて様子を見ながら彫刻の梱包を解いたり展示台を配置したりすることになる。それも、吉田の様子を見かねたノリちゃんが結構手伝ってくれた。
自分としては、色々と面倒なことや窮屈な付き合いがいっぱいあっても、こうして彫刻のことで汗を流していると、その間はソコソコすべて忘れて気楽でいられるからありがたくもある。

島根県の中央部から東へ向けて、1日ぐるりと一周していい汗をかいた。
ノッチの方は1週間のNY暮らしを堪能していた。毎度のことながら、彼女のスケールは想像できないくらいデカイ。土産話を楽しみにしておこう・・・

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坊主事情 

2018/10/25
Thu. 23:55

前日の雨が少し残って、石見銀山の早朝の町並みはしっとりと濡れていた。
ずっといい天気が続いていたから、これから少し本格的な雨になるかと思っていたらお昼前にはすっかり良い天気になった。

10月末は六本木の彫刻搬出があって、11月に入ったら富山町の美術イベントが始まる。
それまでにいくつかの萬善寺がらみの用事を済ますことになる。
少し前にお地蔵さんの供養依頼が入った。毎年おおよそこの時期におつとめしているが、日時は流動的ではっきりしない。
そのお地蔵さんは昔、地域の町別れの境界峠のてっぺんへ安座されていたそうだ。その尾根の峠が、日本の近代化が進む中の国道拡幅工事で切通しになって消えた。その後、道筋の変わったあとの国道脇に場所を移動して安座されてあったのだが、今度はその場所に近所の蕎麦屋さんが製粉工場を建設することになってまた移動することになった。その頃は前住職が遷座安座の法要をつとめて、私が先代からお地蔵さんの供養を引き継いだのはそれからしばらくしてからだった。
道端のお地蔵さんだから、法要が雨の日もあれば大風のこともあって、1年に1度だけのことではあるが心配が多い。
昨年、蕎麦屋さんの工場を拡張することになって、そのお地蔵さんがまた遷座されることになった。これで、私が聞いているだけでもお地蔵さんの遷座場所替えが3~4回は繰り返されていることになる。人間の暮らしの都合でアチコチ移動が多くてなかなか落ち着かないお地蔵さんだが「隣の山が土を採り尽くしたら広くなって見晴らしも良くなるし、そうしたらあの場所が良いんじゃないかと・・」などと、蕎麦屋のご主人がまた遷座先のことを考えていらっしゃる。
そのお地蔵さんのような石の野仏様は、だいたいどの地域でも似たようなことが繰り返されてアチコチ移動されることが普通だ。
最近では、地域でお守りすることも叶わないと、農地や道端に点在する野仏さんを一箇所に集めてお祀りされたり、熱心に信心される地域では、みんなで出資してお堂を建立されるところもある。萬善寺の六地蔵さんは、過去に数回のお堂改築を繰り返しながら参道脇の同じ場所に安座されるが、私の記憶にあるだけでも何度と無く「近所の野仏さんが粗末になるもんで・・」と、十王さんや木葉地蔵さんが持ち込まれてお堂が手狭になっている。
明日は、そのお地蔵さんのおつとめと七日つとめがあるから久しぶりに朝から通勤坊主をすることになる。

NYに旅行中のノッチは、ブロードウエイを堪能しているようだ。SNSの写真を見ていると、飯南高原のお地蔵さんとのギャップがありすぎてどうもピンとこない。
家族の歴史というか、自分の宿命というか、私のように寺で縛られた生涯を決められていたりすると、その枠の中でギリギリの選択肢を模索しながら毎日を窮屈に過ごさなければいけなくなって、なかなかしんどい。これから先、NYどころか、徳島の阿波踊りや京都の祇園祭や仙台の七夕まつりなどなど、自分には一生縁のないモノもたくさんある。
彫刻を造っていられるだけでもありがたいと思わないとね・・・

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上出来な未完成 

2018/10/24
Wed. 23:06

もうそろそろ10月も終わろうとしているのに、まだ半袖でもいいくらいに温かい。
ケイティの宿舎前で待ち合わせをして、一緒に工場へ向かった。
助手席の彼女と日本語と英語で作業の話をしていたら、彼女は防塵用のグッズを持っていないことがわかった。
いつもはボク一人で制作をするだけだから、必要なモノを余分にためているわけでもないので、急きょ近くの町のホームセンターで調達することにした。
一応、まがりなりに金属彫刻のプロだと思っているボクとしては、それに関する色々な工具や消耗品や材料を資材業者さんを通して取寄せているし、よっぽどの急用でも無い限りホームセンターを利用することがない。広い店内でお目当ての必要なものを探すだけでも一苦労で、無駄に時間を潰してしまった。
二人でレジに並んで支払いを済ませると、すぐに工場へ移動した。

昔は簡単なメモを描いたり、小さなマケットを造ってだいたいの様子を決めてから制作に入っていたが、最近は鉄板へそのまま蝋石でドローイングしてその線を頼りにプラズマ切断機を使ってしまう。
彼女が工場のテーブル代わりに使っている鉄板の上へ図面のような制作メモを広げた時は少々焦った。
とにかく、工具の使い方をひと通り解説して、あとは図面の寸法をおおよそまかなえる鉄板を用意して「コレで何とかしてネ♡!」と日本語に英語の単語と身振り手振りをそえて伝えた。
私の方は、制作途中の彫刻を半自動溶接があるから、狭い工場で彼女のじゃまにならないように気を配りながらセッセと制作の作業を続けた。

ケイティは、結構・・というより、かなり神経質な作家だと思った。溶断した鉄板を紙の図面へ当てはめて寸法の狂いをディスクグラインダで修正をしている・・・「こりゃぁ~1日で完成は無理だな・・」
まだ若かった頃の自分を思い出す。
本格的に彫刻をはじめた頃は、3✕6板ベニヤをカッターナイフで裁断して原寸サイズの型から造っていた。今のケイティの作業の様子があの頃の自分にダブって見える。何かしら懐かしくて、忘れていた過去の自分を思い出した。

お昼はラーメンを食べた。旅慣れているケイティは、出されたものをなんでも「美味しい!!」と食べる。おもに地元で働くオヤジたちや長距離のトラッカーたちを相手にしている食堂だから、それなりに量が多くて美味しい。結局、ケイティはラーメンを完食することができなくて、お店の店員さんに済まなそうな顔をしていた。

夕方少し暗くなるまで仕事を続けて、私は予定通り1日の作業を済ませた。
彼女はやはり、完成しなかった。
それでも、慣れない工場の慣れない工具で仕事をしたわりには、上出来だと思う。
イギリスではなかなかの実力者だろうと感じた。

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吉田正純野外彫刻巡り 

2018/10/23
Tue. 23:26

1日目は石見銀山から、銀山街道を南下しながら私の野外彫刻を紹介して萬善寺へ向かい、2日目は工場で鉄の溶接や溶断をして簡単な造形制作をすることにしようと思う。

夕食ではじめて逢ったケイティは、一見、明るくて気さくなおねえさんに見えた。それに、ずいぶん旅慣れているようにも感じた。
よく飲みよく食べて、少し早めに帰宅した。

朝は、吉田家前の駐車場で待ち合わせをして、それから銀山街道へ出た。
コーディネーターのOさんは、ケイティへの気疲れか?・・チョット元気がないように見えた。
石見銀山から飯南高原で出雲街道で合流するまでは、だいたい30分かかる。
途中に温泉があって、その近くに鴨山窯がある。
「鴨山」と書いて「おうざん」と読む。
鴨山の由来は、万葉の歌人、柿本人麻呂からくる。歌人で精神学博士であった斎藤茂吉が研究の結果、柿本人麻呂終焉の地が、銀山街道沿いにある湯抱温泉の鴨山であったと研究成果を残したことによる。
鴨山窯の森山さんは、その湯抱温泉で生まれ育ち、武蔵野美術大学で油絵を専攻した。卒業後陶芸活動をはじめて、学生の頃からお付き合いのあった奥さんと結婚して帰省。生家のすぐ隣に陶芸の制作工房を構え、「鴨山窯」とされた。以来、その制作工房をベースに、カルチャースクールの陶芸講師をされながら、1年に春と秋の2回ほど陶芸まつりを開催される。
まだ、その案内は届いていないが、時期的にそろそろ秋の陶芸まつりが始まる頃だから覗いてみることにした。運良く在宅で母屋を改装した展示ルームもオープンしていた。
陶芸まつりが近いから新作もけっこうあって、楽しめた。萬善寺用にコーヒーカップを3つ買った。ケイティは、時間をかけて熱心にアレコレ物色して抹茶茶碗を1つ買った。イギリスまで持って帰るのも面倒なことだろうが、寄り道をして良かった。
飯南高原で営業をしている薬膳レストランへ予約をしておいて、昼食にした。
地物の新鮮な季節の野菜タップリのヘルシーなランチを堪能した。ドライバー付きだし、麦酒1杯くらいほしいなと思ったがグッと我慢してコーヒーとケーキで〆た。
そのレストランのアプローチにはボクの野外彫刻を置かせてもらっている。
萬善寺は、その薬膳レストランから車で5分あれば十分だ。
ケイティを本堂へ案内して、般若心境で旅の無事を祈念してあげた。
寺の庫裏はちょっとしたギャラリーにしてあるから、展示の小品彫刻を眺めながら番茶を飲んだ。
帰りは三瓶山を経由した。時間があれば富山町の野外彫刻も案内したかったのだが、ケイティが夕食を招待してくれていて、その仕込み時間がほしいと云うことだったので、三瓶山からそのまま石見銀山を目指すことにした。
半日ほどの、吉田正純野外彫刻巡りの打ち止めは、世界遺産センター横の彫刻。
その彫刻は、まだ石見銀山が世界遺産へ登録される前にあった公園の端の砂防用の池の端へ設置したもので、当時はまだ小さかった吉田家の子供たちを誘ってよく家族で遊びに来ていた。

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ケイティのこと 

2018/10/22
Mon. 23:48

イギリスからケイティが来日して数日前に島根県の奥出雲に着いたと連絡が入った。
ケイティは、鉄鋼関係の製造や素材を研究しながら鉄材を使った造形制作もしている。
イギリスというと近代の産業革命発信地でもあったから、彼女の研究対象も自然とそちらの方へ興味が向いていったのかも知れない。

奥出雲は、たたら製鉄の実践を現代に伝承する日本で唯一の地でもある。
毎年可動して製造される玉鋼は、日本各地の刀剣鍛冶へ少しずつ配布され、鍛冶職人はそれを元に新刀を鍛造制作する。
歴史的建造物として現代に残るたたら製鉄跡は各地に散見するが、現役で可動する奥出雲のたたら製鉄では職人の技術継承も計画的に行われ、製鉄の期間にはその道の関係者を中心に見学会が行われる。
ケイティは、その時期にめぐりあうことはできなかったものの、西日本に点在する鉄関係の施設を訪れて、現地調査をしたり、作業に加わったりしてレポートをまとめるのだそうだ。
私も島根に在住する鉄の造形作家として情報提供をしておくことで日本の窓口になっているOさんから打診を受けていたので、彼女のことは1年前から情報が入っていた。具体的に吉田が彼女とどのように接するのかは、彼女の研修日程が固まる過程で少しずつ見えてくることだろうと気楽に考えていた。
ちょうど奥出雲での彫刻小品展が終わって一段落した頃に、コーディネーターのOさんから具体的なスケジュールが決まったと知らせが入って、それに合わせた吉田の行動内容もほぼ決まった。
島根での滞在拠点は奥出雲に決まって、石見銀山は移動も含めて3泊4日になった。その後岡山の新見へ移動して次は四国の高知へ行くことになるのだそうだ。
2泊3日分の吉田の都合を空けておいてくれということなので、萬善寺のことはそれに併せて前後に振り分けておいた。

「今夜から石見銀山で食事をするんですが、吉田さんもご招待ということで、19時に○○の店まで来てくださいね・・それから、明日と明後日は吉田さんへお任せしてボクは車を出してドライバーになりますんで・・よろしく!・・・あぁ、そうそう・・ケイティが、明日の夕食で料理の腕を披露するそうですから、そちらの出席もよろしく!」
Oさんは、数年前まで行政マンだったからだろう・・・段取りが分単位で細かに決まっている。
音楽好きの気さくな趣味人で、日頃はそういうくだけた付き合いをしているから、彼の知られざる一面を見た気がした。
私の方は、坊主という商売柄あなた任せの緩やかな日程で動くことがほとんどで、それに慣れているから、ガッチリと固まったスケジュールを振られると、どこかしら緊張してうろたえてしまう。
とにかく、夕食に関しては坊主の斎膳の要領で対応させてもらうことにして、2日間の石見銀山をどうするかは、夕食会の雰囲気を見て決めていこうと云うことにした。まだ、ケイティと逢って話したことも無いのだから・・・

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法事の日 

2018/10/21
Sun. 23:59

9月に帰国したノッチは、1ヶ月以上就活をしないまま気ままに暮らしていた。
それでも、毎日遊んで暮らしてばかりいたわけでもなく、住むところを探したり、金融機関の口座を引きついだり、住民票や保険などの事務手続きをしたりして、1年間留守にしていた日本の日常を取り戻しつつ社会人としての基盤を再構築していたようだ。
日本で就職するにも生活の基盤が落ち着かないと、履歴書1枚もまともに書くことができない。世間はグローバル化が加速しているようにもみえるが、組織に属さない個人のレベルではまだまだ社会生活のハードルが高いようにも感じる。
そういう現実の面倒臭い厳しさを、愛嬌と図々しさと人脈とその場のノリでアクテイブに乗り切るノッチのたくましさをみていると、我が娘ながら凄い人間になったものだと感心する。
日本での日常の暮らしができるまでにひと通りのことが一段落して履歴書の様式もソコソコ整備できるまでになって、本格的な就活にとりかかったと聞いていたのはつい先日のことだったのに、あれから1週間も経たない間にアッという間に貿易会社の事務職で再就職が決まったのは、ちょうど私がワイフの彫刻ともども六本木の美術館で陳列展示作業を終わって展覧会がスタートした日だった。それで、11月1日から、彼女は毎日東京のオフィス街のド真ん中へ通勤することになった。

彫刻絡みで慌ただしく過ぎた東京往復のあと、今月にはいって2つ目の法事があった。
ご親族の都合で決められた日程は、遠く群馬県の方からも帰郷されとても賑やかな法事になって、ご自宅前の町道が大小の自家用車で埋まった。
朝が早かったので、萬善寺には前日に入って塔婆を書くなどの準備をした。
吉田家では、台所仕事をすべてワイフへ任せっきりになっているが、寺の一人暮らしではそういうわけにもいかないから、冷蔵庫や冷凍庫を見繕って適当に夕食を作った。
正月にお供えで頂いた日本酒が本堂の位牌堂の棚へそのまま残っていたのでそれを開封してみると、すでに若干黄みがかっていた。ワイフを始めとして、私の周囲では「あいつは呑助だ!」と思われているが、自分ではそれほどでもなくて酒に関してはいたって常識的に普通の人だと思っている。
まだ昭和の時代は、社会が酒にそれほどうるさくなかったから、貧乏な山寺でも1年中お供えに頂いた日本酒や麦酒が切れたことがなかった。それでも先代住職は晩酌が底をついて時々酒屋へ麦酒の大瓶をケースで配達してもらっていて、今の自分よりは相当酒豪だった・・・そんなことを思い出しながら1合ほどレンジでチンして飲んだ。

寝る前に家族のSNSを見たら、ノッチがまた出国していた。昔の知り合いがNYで仕事をしていて、彼女がフロリダに居た時には時々合っていたらしい。就職も決まって、これから先しばらくはノンビリと旅行もできなくなるだろうからそれもいいだろう。
坊主家業のオヤジは、住職の立場でもあるし、萬善寺を起点にしてナニカの時はすぐにストレス無く移動できる手段を用意しながら毎日を過ごしているようなところもある。なかなか窮屈なことだ。
小さい時からそういうふうな暮らしに慣らされているようなところもあったから仕方がないと思いつつ、吉田家の家族はもっと自由にさせてあげたいと思う。
一度しか無い人生だから・・・

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彫刻の先 

2018/10/20
Sat. 23:09

このところ、自分の周辺が今までにないほど目まぐるしく複雑に過ぎて、吉田家へ帰ったらドッと疲れて夕食を終わらせると宵の口からキーポンが使っていたベッドにバタリと倒れ込んですぐに寝てしまう。
「どうしてこういう状態になったのか?」・・・眠りの世界へ移動する前の少しだけ覚醒しているあいだにそのあたりのことを考えようとするのだが、どうもそれらしき要因が決まらないままいつの間にか寝落ちしている。

2月から3月にかけて小さな彫刻を一つ造ってから、工場へ通う機会を逸したまま約半年がアッという間に過ぎた。
彫刻の制作が無いわけではないのに、どうしてもそういうことにまとまった時間を造ることができなくて、暮らしの色々な場面で気持ちばかりがスベって、素材へ触れることのないまま頭の中では大小の彫刻が出来上がっては消えていく連続だった。

坊主家業の商売柄、日常のいろいろな場面で中道を心がけるようにしているが、彫刻のことや制作のことや、またそういう俗に云う文化事業的なことになると、全部が全部、何から何まで中道に片付けてしまうことができなくなって、どうしても自分の信念や我欲の方へ惹きつけられるように偏って、俄然勢いづいて頑固な主観を押し売りしてしまっていたりする。あとになって気がついて反省もするのだが、済んでしまったことは取り返しもできないので、自分の胸に仕舞い込んで、出来るだけ早く忘れるようにするしか無い。

自分の彫刻は、どちらかと云うと抽象の部類に入ると思っている。
約10年間の研究期間を過ぎた後、そろそろ自分の彫刻を制作するための目印としていくつかのテーマを用意した。
今までは、そのいくつかのテーマを少しずつダブらせながら感覚の新鮮なうちに彫刻のかたちへ置き換えることを続けてきた。自分の性格上、ひとつ事にじっくりと取り組んでそれをひたすら脇目も振らず継続するということができないタイプだから、彫刻の造形の工夫に飽きて面倒臭くなってしまったら、しばらくはそういう系統のテーマから遠ざかるようにしている。そうして、他のいくつかのテーマに気持ちを切り替えてそれに没頭すると、今度はそのことがまた楽しくなって当分の間は、また違った感じの彫刻を造ることができるし、またソコに新しい発見があったりして次の展開が楽しみになる・・・だいたいそんな感じでこの30年間は過ぎてきた。

今度、しばらくぶりに彫刻個展の話を頂いて、改めて過去の自分を系統立てて整理してみると、やはり彫刻の世界でも自分の立ち位置が「中道であることの重要性を意識していたのだなぁ・・・」と、再確認した気がする。
自分の彫刻に対する思考の根本はやはり形而上的方向性を観ているということ。思い返せば、最初の個展をスタートさせた時からそれがすでに決められていた気がする。それまでの研究期間は常に形而下での自分の立ち位置を確認し続けて造形の客観性を観続けていた。造形上の緊張関係を自分なりに説明できる手段のひとつが抽象表現であり、それは、あくまでもアニミズムの世界へ自分を引き込むための手段であったと云うことだ。

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朗報 

2018/10/19
Fri. 23:54

周知のように、私は二紀会彫刻部の会員で毎年秋のこの時期には六本木の美術館へ彫刻を出品している。
ワイフの吉田満寿美も彫刻部の会員で、吉田家の夫婦はもう30年以上しばしも休まず彫刻をつくり続けている。
ワイフはその間、4人の子供を産んで育ててくれた。

長男のじゅん君は9月生まれだから、彼の時が一番制作に苦労した。
彼女はまだミクストメディアに入る前の頃で、鉄板を使ったり木を使ったりして彫刻を造っていた。搬入は10月のはじめで、それから審査があって入落が決まって入選すれば10月の半ばに陳列展示をして会期が始まる。
制作期間は長男が生まれて産後すぐでもあるし、とても自力で大きな彫刻を制作する体力も時間もないから二人でどうしようか相談して、1年ほど彫刻を休むという選択肢のことも本気で考えた。それでも、数年間続けているワイフの彫刻テーマがそれで一旦絶えてしまうということが残念でならない気持ちもあるし、大きなお腹を抱えてスケッチもしていたしマケットのいくつかも造っていたから「それじゃぁ、オレがマッチャンの手足代わりになるよ・・」と宣言して、自分の彫刻を造りながら彼女の材料を裁断したり組み立てたりして、彼女の方は、自分でないとできないパーツを搬入ギリギリまでコツコツ造って、最後の最後に一発勝負で組み合わせた。
そうして苦労した彫刻は、かろうじて入選して展示することができた。

公募展の制作出品は、とにかく研究と発表を継続することで実力が身につくし、さまざまな彫刻家との交流が作家性の刺激につながる。島根のような田舎で制作を続けていると刺激とか感動とかに巡り会う機会もほとんどなくて「まぁ、それでもいいや・・」とか「この程度で十分満足だね!」とか、とにかく、徹底的に自分に甘えて自分の現状に満足してしまうところがある。
日本に限っても世間は広いし、公募展に限っても1年中絶え間なく様々な公募会派の展覧会が繰り返されていて、美術文化も狭いようで実はけっこう多岐にわたってイガイに広かったりする。
吉田家の二人の彫刻家から少し遅れて二紀会絵画部へ出品をはじめた古くからの友人のタケちゃんがやっと今年の作品で推挙されて会員になった。実に目出度いことである。
彼の絵画は、少なくとも二紀会絵画部では他に類を見ないオリジナルであり、どの作家とも傾向や方向性が違ったところに位置している。
会員になるまでが実に長かった。これで、やっと本当に自分がやりたいことを誰に遠慮すること無く極めることが出来るようになった。彼のことだから大丈夫だとは思うが、今までの数十年の蓄積をベースにしてこれから造形の展開を広げてグイグイ攻めてほしい。

自分のすぐ近くで面白い仕事をしてくれる仲間がいてくれることは、自分への励みになる。彫刻家のワイフがいて、彫刻家のストウさんがいて、それにタケちゃんが加わってくれた感じだ。ボクも、もうしばらく彫刻を造っていけることができそうだ・・・
祝勝会と激励会を兼ねて久しぶりに「まっちゃん食堂」を開店することが決まった。

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カムバックグッチャン 

2018/10/18
Thu. 23:31

グッチャンが石見銀山に点在する鉄の野外彫刻を観て、フラリと吉田家へ立ち寄ったのは、まだ彼女が20代の頃だったと思う。
初対面のその時に、お茶飲み話で彫刻のことを話したのがきっかけで、それからしばらくして勤めていた仕事をやめて吉田家へ転がり込むように単身石見銀山へやってきた。
その頃の吉田家はまだ子供も小さかったし、犬のシェパ君も居て私も定職があって昼の間はワイフが一人で吉田家を切り盛りしつつそろそろ時間講師でもしてみようかと思い始めていた時期だったから「君の仕事は犬の散歩ネ!」と、それを条件にほとんど未使用だった変形の8畳を彼女の部屋に提供した。
子どもたちも彼女によくなついて、子守代わりもしてくれて、それなりに吉田家としては重宝した。
それでも彼女は何もしないで彫刻の制作三昧で毎日過ごすわけにもいかないから、近所のアパレル会社でアルバイトをすることに決めて、それからあとは1日や1周間や1ヶ月のスケジュールもしっかりと固まってくるし、生活のリズムもつかめてきて、時々私の彫刻の手伝いをしながら塑像の制作にとりかかった。
首像からはじめて石膏取りをして、そういうことを繰り返しながら続けていたアルバイトも本格的になって、会社の重要なポジションに定着して、それがきっかけになって吉田家から独立して会社所有の一軒家に住まわせてもらうことになった。
それから、塑像制作が本格的に回転するようになって、「制作工房があると良いね」ということになって、探し当てたのが棟梁の工場事務所。
ひとの良い、面倒見の良い棟梁の御陰もあって、夜な夜な棟梁の工場の事務所へ通いながら制作を続けて、等身大の彫刻を石膏取りをするまでになった。
住まいも、自分で探して会社の社宅から独立したが、「彫刻を造ることを優先したいから・・」と、アルバイト待遇の方はそのままで仕事を続けた。

グッチャンは、どちらかというと、彫刻のセンスがあって器用にオシャレにサラリと制作できるタイプではない。
一つ事を自分が納得するまでコツコツと積み重ねて、対象に誠実に向き合い、存在をトツトツと追求することに時間を惜しまないタイプの彫刻家になりつつあった。初期の頃は、粘土に伝わる指の跡も一つ一つが点で止まって、そういうことが連続して積み重なっていくふうな作風で、それは一方で流れるようなムーブマンの勢いを阻害してしまうし、造形の重心を低い方へ押し下げてしまうような重たい彫刻になることが多かった。
自分が納得しながら一つずつ制作を積み重ねることによって、ゆっくりではあるが確実に造形力が伸びる方向へ向かっていた時に結婚して石見銀山から東京のマンションへ転居した。しばらくは生活を優先の日常が続いていたが、数年の間に小さなテラコッタの彫刻を造れるまでに立ち直った。それから、毎年島根の現代彫刻小品展を目標に制作を続けてくれて、その後関東のグループ展へ出品する機会も得てだいたい10年が過ぎた今年になって、久しぶりに六本木の展覧会へテラコッタの胸像を出品した。
素材に忠実で仕事の痕が最小限まで抑えられて、表情の内面へ引き込まれるような清楚で慎ましやかで上品な胸像に仕上がっていた。審査委員の心が揺れたのかも知れない・・奨励賞を受賞した。造形力の蓄積が裏付けられた見事なカムバックだった。

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人には添うてみよ 

2018/10/17
Wed. 23:46

高校の時から一人暮らしをはじめて、その延長で上京して東京ぐらしが10年続いた。
30歳に近づいても、まだ定職につかないままフラフラしていたから、そろそろシャンとして「何処かの採用試験でも受けなければ・・・」と思いつつ、それでも今ひとつ就職に本気になれないでいたのだが、ちょうどその頃両親が相次いで大病を患って、父親が手術を受けたり入院が長引いたりして萬善寺の行く末に暗雲が湧き上がった。それからしばらく闘病生活が続いていたが、発達中の医療の御陰で日常の暮らしを取り戻すまでに回復した。
「本気で帰省を考えないと・・・」いけないことになったので、10年目の7月になって島根県と広島県の教員採用試験を受けることに決めた。
ちょうど、後輩に広島県出身の娘がいて、その娘は頭も良くてよく勉強をしていたから、お昼ご飯とかちょっとおしゃれなディナーをネタに試験のノウハウを色々教えてもらった。
お陰様で、両県とも無事に合格して、その年の秋になってから通知が直接寺の住所へ届いた。昔のことで記憶も定かではないが、広島県からの連絡が1日ほど遅くて島根県の採用通知を承諾した後だったことはよく覚えている。これが、逆だったら今頃は広島県と縁が続いて石見銀山に自宅をかまえていなかったかも知れない・・・
とにかく、自分としては両親に引き戻された格好で島根県へUターンしたことになる。
ワイフとは、すでに数年間の付き合いが続いていたから就職を契機に結婚することを決めて、勤務校が決まって辞令交付直前の3月末に慌ただしく仏前で結婚式を上げた。
長男のじゅん君が生まれたのはそれから3年ほどあとだった。
その後、なっちゃんにノッチにキーポンと女の子が続いて三姉妹になった。
4人の子供はそれからスクスク成長してみんな立派な社会人になった・・・はずだが・・

今年の秋になって、隠岐の海士町で音楽の講師をしているじゅん君から中学校音楽で正式に教員採用が決まったと知らせがはいった。
彼が先生に向いているがどうか?・・・オヤジとしては自分のDNAを引き継いでいるだけに少々不安ではあったが、本人は音楽教師一本に絞って脇目も振らず勉強を続けていたから、結果的にはそれでよかったと思っている。
それから、オヤジの分身のようにフラフラと落ち着かない暮らしを続けていたノッチが、ちょうど自分と同じ年齢で本気になって採用試験を受けた。
それが、六本木の展覧会オープニングの日・・・
「面接1時から30分ほどで終わるらしいの・・・だから、2時位には美術館行けるよ!」
ノッチとの約束から逆算してキーポンと美術館へ向かっていたら、「もう終わったから、これから移動します!」と連絡が入った。面接は15分で終わったらしい・・・
それから3人でお昼を食べて、お父さんとお母さんの彫刻が展示してある会場を回った。
何人もの彫刻の友人に合って挨拶をしたり娘たちを紹介したりして、Hさんとも会場であった。
Hさんは、ノッチがまだ小学生くらいのときから知っているし、キーポンも小さい時から何度も合っている。
彫刻展示室のど真ん中で、ノッチの就職試験をネタに大いに盛り上がった。

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2019-01